さて、一体全体、何がどうしてそういう話になったのかはわからないが、
「唐突な話で悪いが、貴公らには死んで貰う運びになった」
「はい?」
「あ?」
大導師の言いつけで、
俺達は自分が死ぬ予定日をカレンダーに書き込む事になった。
―――――――――――――――――――
◎月●日(鈴の音が聞こえる……)
『何故大導師が俺を大十字の側に付けたのか』
『何故二年と少しの間、ほぼ毎日と言っていいほど顔を合わせる形にしたのか』
『大導師は十分に力をつける事ができたのか』
『その答えがようやくわかった』
『単純だけど、割と面白い。趣味的なところにも好感が持てる』
『さすが、一回のループ毎に数十年過ごす大導師のループ千回は重い』
『入社一周目の俺たちを使いこなせずに飼い殺しにした照男と同一人物とは思えない』
『カレンダーにはもう印をつけた』
『今のところその日付までは何もしてこないし、仕事もしなくていいらしいので、身辺整理をしておくことにしよう』
『それが終わったら、最後に夢幻心母の中を一通り見て回ってみるか』
―――――――――――――――――――
とはいえ、実のところを言えば夢幻心母内部で整理すべき物は無いに等しい。
与えられた研究室兼私室に設置した機材の類は一部を除いて全て俺の持ち込みであり、俺が作り出した複製。
すなわちスパロボ世界でばら蒔いた砲弾と同じく、遠隔で塵にすることも可能であり、今すぐ処分する必要のないものばかり。
俺が大導師に処罰を受けるという事実は大導師と俺と美鳥、そしてそれを企んだアヌス(後で殺す)しか知らない。
そして、その処罰で俺と美鳥が殺されてしまうという事実を知っているのは俺と美鳥と大導師のみ。
下手に執行日までに俺の私室に誰かが入って、荷物が整理された部屋を見たら不審に思うかもしれないので、後々遠隔で消せるものは全て残し、ブラックロッジの連中からの貰い物だけを片付けた。
下っ端の人らから貰った、雑務で使える街のチンピラ達が使っているのと同じ密造拳銃。
下っ端の人らから貰った、夢幻心母内部では良く使われている既製品の机と椅子とルーズリーフとバインダー。
サイボーグ下っ端から貰った、イマイチ上手く形成出来なかったテガタイト。
ドクターから貰った、トイ・リアニメーターを作る自動機械を作る自動機械を作る自動機械を作る自動機械を家電製品のジャンクとかから作る為の簡単な設計図と見本。
エルザから貰ったメンテナンス用のツールとメンテナンスハッチの鍵のセット。あと何故かショタ系の薄い本。
かぜぽから貰った、なんだか良くわからない力の篭った、部族の宝だったとかどうとかの勾玉型ペンダント。
机と椅子が無いのは不自然なのでこれには強めの爆弾を仕掛けて、俺が処刑された後に部屋を吹き飛ばす為に残しておく。
残りを全て亜空間に叩き込み回収。資料の類もダミーに入れ替え。
あっという間に身辺整理を終えて、私室から出てドクターの研究室に向かう。
エルザにドクターの心を慰安旅行中にがっしり掴んでおくように命じておいたお蔭で、ここの処のドクターは精神的に安定している。
なので、『これからどんな事があろうと、決して『大導師のブラックロッジ』を裏切らないようにしてください。たとえ大導師が死んでもです』と言い含めた。
ドクターは少し怪訝な顔で首をかしげていたが、直ぐに素直に頷いてくれた。
基本的に、ドクターは覇道財閥側についてデモンベインを修理した後でも、大導師に対する叛意だけは持っていなかった。
根底にあるのは勿論恐怖から来る支配ではあったが、ドクターはドクターで無限螺旋前の因果や、自分の才能を認めてくれた事、自由に研究をさせてくれた事に関して少なからぬ恩義を感じているのだ。
エルザにも引き続き『ドクターが俺の正体をバラしそうになったらぶん殴るか口で口を塞ぐかして黙らせて話を逸らさせろ』という命令をしておく。
正直、ここまでメカポを連続して使ったのはデモベ世界ではこれが初めてかもしれない。
次いで、下っ端どもの溜まり場の前で一度立ち止まり、通り過ぎる。
ここの人等には特に言い含めておく必要もないだろう。
元々仕事には真面目に仕事に取り組む人達ばかりだし、ここから俺の情報が漏れる事はない。
サイボーグ下っ端も、下手すればサイボーグ化した猫に負ける可能性もあるけど、きっと上手くクトゥルフの触手から逃れる事ができる。筈だ。多分。恐らくは。
いや、強いんだよ? たぶんリゼンブラとかエクスターとかが居る世界とかなら無双できる可能性を秘めている程度には。秘めたまま終わる可能性が高いけど。
とはいえ、これで身辺整理とその他の雑事はほぼ終わりだ。
あちこちの手伝いをしていたといっても、俺の痕跡が残っているところなんてこの三つくらいしか無い。
逆十字連中の手伝いって、あっちが気を使ってくれてたのか、基本的に後腐れのない仕事ばっかりだったし。
「さて、これで『片付けておくべき事』は終わり、と」
「あとは『確認しておきたい事』だけだね」
美鳥の言葉に頷きながら、夢幻心母の中、普段は、それこそ他の周でも通らなかった様な場所を歩く。
これはあくまでも『確認しておきたい事』であり『確認すべき事』ではない。
無いのだが、それでもやはりこのTS周……だと思っていた周は興味深い。
次に同じ状況がないとは限らないが、同じ状況が今後一切無い可能性も捨てきれない以上、知的好奇心は満たせる内に満たしてしまうのが吉だろう。
ブラックロッジの本拠地である移動要塞夢幻心母は、その組織の規模と同じく、決して小さい施設ではない。
多くの信徒や量産型破壊ロボを収容する為に空間を歪ませて容量以上の体積を確保している、というのもあるが、それでも決して元のサイズが小さい訳ではない。
いや、むしろ、夢幻心母という要塞は、その信徒の数に比べて過剰な程に広いと言っても過言ではないのだ。
では何故、実際に多くの信徒が使う区域が空間を捻じ曲げて作られたスペースなのか。
要因は様々あり、普段は大導師とエセルドレーダしか居ないのにその気になれば信徒全員が入ってもまだ余裕のある玉座の間の広さや、逆十字連中の使用するスペースが大きく取られている事などが挙げられる。
確かに、それらの理由でも夢幻心母のスペースは圧迫されている。
しかし、本当に夢幻心母のスペースを狭めているのが何か、と聞かれれば、俺は今歩いているこの道と、目的地こそが一番の理由だと答えるだろう。
通路の壁や床、天井に至るまで一般信徒に解放されているスペースとは比べものにならない程に重厚な造りで、素材もヒヒイロカネ程ではないがかなり頑強な素材を使用している。
使用されている建材の強度を損なわない様に慎重に、しかし執拗なまでに刻み込まれた魔術の式。
更にかなり短い間隔で設置されている隔壁なども含めて考えれば、ここはクトゥルフが融合していない状態でもクトゥグアの全開放魔術に耐え切れるかもしれない。
下手な核シェルターが藁の家に思えるこの区域。
しかし当然、この守りは外からの攻撃を防ぐ為のものでは無く、この奥に潜む存在を決して外に出さない為のものだ。
警備を任されている信徒数名に出会い頭に俺の身体を構成するナノマシンを打ち込み、神経を伝いながら脳細胞の一部を取り込み、即座に取り込んだ脳細胞に擬態させる。
当然の如く隔壁のロックを解除し、俺達を地下に通す信徒達。
数回それを繰り返し、ついに目的地へと辿り着いた。
「あんまり物々しくないね」
「だな」
目の前には、逆十字最強の一頭である魔術師、ムーンチャイルドの完成形、『Cの巫女』である暴君ネロを封じる牢獄。
そこは確かに牢獄だった。
魔術的な拘束だけでなく、部屋を構成する建材全てが、ここに来るまでに見た健在を遥かに上回る強度を持つ。
仮にここに閉じ込められでもしたら、そこいらの魔術師では脱出不可能。
……そう、『そこいらの魔術師には脱出不可能』な程度でしかない。
これではせいぜい閉じ込めておけるのは小達人級まで、大達人級の暴君ならばさして苦にせず抜け出してしまうだろう。
「どうする? 開ける?」
「いや、素通りする」
ここまでの道のりでは警備体勢を確認するために道順に来たが、それはもう十分に確認できた。
態々入口から入る必要性を感じられないので、別次元を経由して牢獄の中に侵入する。
今のは次元連結システムと魔術のちょっとした応用だが、難易度的には難しい手法ではない。
俺が取り込んだエンネア程度の位階であれば、ごく当たり前に行使し得る魔術で代用可能。
やはり、緩い。大達人級を収容するものとは思えない。
そして目の前、魔術処理のされた拘束具に縛られ幽閉される暴君ネロ。
脳波スキャンにより徐波睡眠状態である事を確認、頭部の拘束具を外す。
外された拘束具、その下から癖の強い『灰色の』髪が零れ、
「お兄さん、これは」
「ああ、間違いない」
幾らか憔悴した『TSしていないアリスン』の素顔が露になり、俺は確信した。
「この周は、全員TS周なんかじゃなかったんだ」
―――――――――――――――――――
◎月▽日(ところで話は変わるのだが)
『TS大十字がアルアジフと出会う前に、映画を観に行く約束をしていたのを思い出した』
『丁度最終日が割引デーなので、大十字にはその日に予定を開けておくように電話で伝えておく』
『これで期待の新作とかなら大十字ではなく姉さんや美鳥を誘うのだが、今回のこれは映画の尺だと微妙なんだよなぁ』
『ほら、某エロゲの劇場版とかも本編のダイジェスト呼ばわりされてたし』
『でもついつい確認してしまうのがファンの罪』
『悔しいので、大十字にはヤケ食い前提で多めに弁当を作ってもらう事にしよう』
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
《そんな訳で、約束通りお弁当は先輩が担当という事で》
「ああ、目からビーム出るくらいのとびきりを持ってくから精々期待しとけ」
《ははは、ええ、もちろん楽しみにしてます。じゃ、おやすみなさい。温かくしてゆっくり休んでくださいね》
「そっちこそ、あんまり夜更しすんなよな。おやすみ」
就寝の挨拶を交わし、耳から受話器を離す。
何度目かの給料で買い換えた最新式のダイヤル式電話の受話器はやけに重く感じられ、私はゆっくりと両手で受話器を戻した。
どうしてか、手が電話機の上に置かれた受話器から中々離れてくれない。
「どうした、卓也からの電話か?」
先に風呂を使っていたアルがタオルで髪の水気を取りながら、話の最後の辺りからの推測で電話の相手を言い当てる。
私はゆっくりと、指を一本一本受話器から剥がしながら答える。
「うん、かなり前に映画観に行く約束しててさ。ここ最近は忙しかったし、息抜きも兼ねて遊びに行かないかって」
ここ最近は本当に慌ただしかった。
クトゥグアの制御訓練に被さるようにして現れたイタクァのページモンスターに、ド・マリニーの時計の記述を使用した破壊ロボとの戦い。
どれもギリギリの、何か一つ間違えていたら死んでいた様な戦いばかりだったのだから、私が自覚できていないレベルで疲労が溜まっていてもおかしくはないと思う。
そういう意味で言えば、うん、丁度いい骨休めになるんじゃないかな。
「ふむ、インスマウスから帰ってきてからは休む間も無かったからな。丁度いいタイミングやもしれ……どうした?」
「ああああいや、手が、手が滑ったんだ、わりぃ!」
インスマウス、という言葉を聞いたと同時、私は無意識の内に手を離しかけていた受話器を、電話機毎全力で押し出し地面に落としてしまった。
おまけに呂律も微妙に回っていない。
まったく、私としたことが、一体何をそんなに慌てるというのか。
アルは訝しげな顔をしたが、直ぐに表情を元に戻し、パジャマ姿のままでダンセイニの変じた椅子に腰を下ろし、最近購入したばかりのテレビの電源を点けながら話を再開する。
「お主の男っ気の無さも大概だからな。手近な男のあ奴が相手とはいえ、デートの予定が入るのは大きな進歩ではないか?」
「な――――ッ!」
アルのからかい混じりの言葉に、一瞬で頭に血が昇る。
私は電話機の載っていた台に両手を勢い良く叩きつけながら叫ぶ。
「だっ、誰が! 誰とデートって!」
「お主と卓也が、であろう」
しれっとした顔で断言するアル。
「────! ────────!」
あまりの事に、私は言葉を作ることすら出来ず、肺に空気を貯めたまま、息の出来ない魚を真似るように口を開け閉めする事しかできない。
────そう、可能な限り誤魔化して、自分にもそうではないと言い聞かせてはみたものの、これは明らかにデートである。
前々から確かに約束はしていた。
でも、その当時は本当に、埋め合わせをする程度の感覚でしか無かった。
というか、何故か映画代は卓也持ちで私は当時は卓也から提供されていた食材を使って弁当を作っていくだけでいいから、『え、マジでそんなんでいいの? 映画タダ観できる! やった!』とすら思っていた。
はっきり言ってしまえば、意識するとかしない以前の問題だったんだ。
いや、今の私が卓也に好きとか嫌いとか思ってる訳でもなくて。
なんていうか、こう、あれだ。
「丁度いい機会なのではないか? 海から帰ってきてからずっと意識していたようだし」
「あう、あうあうあう……」
アルにあえて意識していなかった部分を指摘され、私はその場で頭を抱えて倒れ込む。
そうだ、何がいけないって、インスマウスでの『あれ』しかない。
遺跡の中で催淫性のガスを吸って、それを発散するのは仕方がなかったにしても、よりにもよって卓也の事を『オカズ』にしてしまった。
何度したか、までは覚えていないけど、純粋に回数の多さまで全てガスのせいだったかと言われると、決してそうではない気がする。
ガスの効果が切れるまで、実に二時間近く。
普通、ぱっと頭に思い浮かんだだけの知り合いで、そこまで長い事妄想できるものだろうか。
いや、実のところを言えば、二時間では済まない。
一度してしまえば耐性が付くというかなんというか。
私は床に身を投げたまま、椅子の上のアルに問いを投げる。
「……やっぱ私、あいつの事、意識してるか……?」
アルは私の問いに、意地悪そうな笑を浮かべた。
「そうさな、夜中に名を呼ぶ声が漏れ聞こえる程度には意識しておるのではないか? 聞こえているのは妾くらいのものだろうが」
「うああああああ…………ていうか聞こえてたのかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
アルの容赦の無い返答に叫ぶ。
私は火が出るほど熱い顔を両手で覆い隠し、その場でゴロゴロと転がるしかない。
別に、今まで一人でしてる時だって『オカズ』は用意していた。
それこそハイスクール時代に有名だった美形の先輩だとか、新聞やテレビで見た格好いい役者だとか。
でもそれが、毎日毎日顔を合わせる相手となれば、話は生々しい方向に変わってくる。
「なぁに安心するがいい。妾とて幾多の魔術師と契約を交わしてきた実績がある。同じ部屋で、というか目の前で恋人や娼婦と始めていたかつての主達に比べれば、九郎、お主はまだ恥じらいがある方だ」
「やめて! それ以上辱めるのはマジで止めて! ていうか比較対象が悪すぎてどう安心すればいいかわかんねぇし!」
……そう、長々と遠まわしに考えていたが、つまるところ最近の私は、もっぱら頭の中の卓也を『オカズ』にしてしまっているのだ。
これで、『ああ、あいつの事を思うと胸がドキドキして夜も眠れない』とかなら、わかる。
吊り橋効果的なものが発生する条件は十分満たしてるし、そんな錯覚が起きるのも仕方がない。ついついオカズにもしてしまうだろう。
でも、私はどっちかって言うと『あー、すっきりした、これで今夜も良く眠れる』って感じになってしまう。
盛り上がって体力使って心臓ドキドキ、というのはあるが、それは間違いなく恋とかそういうのとは別のドキドキだろう。
問題はそこだ。
これが恋なら、素直にデートの日を楽しみにできただろう。
でも、私のこれは恋か?
そりゃ、最近は修行中に治療で身体に触られる時、少し緊張してるけど。
それだって、必ずしも恋心がなければならない状態じゃない、と思う。
「うぅぅぅぅぅぅ……」
好きか嫌いかで言えば、嫌いじゃない方だとは思うけど、その、付き合ってみたり、とか、そういうのは想像できない。
……妄想の中では身体を委ね、キスよりもよっぽど凄い事を散々させているのに、だ。
「唸っていても仕方あるまい」
「そうは言うけどよぉ……」
ゴネる私に、アルはテレビの電源をダンセイニに消させながら、深々と溜息を吐いた。
「……忘れておるようだが、契約を交わし、魔術結社と敵対状態にある以上、妾も着いて行くのだからな?」
「あ」
それもそうか。
私と卓也で遊びに行く、という話ではあったけど、別段二人だけで遊びに行く訳ではないのか。
契約を済ませている以上間違いなくアルは付いてくるし、美鳥だって基本卓也にべったりだから付いてくるに違いない。
そうなれば、大学の時や修行の時と殆どメンバーは変わらない。
向こうは妹を連れて、こっちは契約した魔導書を連れて。
とてもではないがデートには見えないだろう。
そう、どっからどう見ても友達同士で集まって遊んでるか、魔術師の会合にしか見えない筈だ!
や、魔術師の会合に見えたらそれはそれでダメなんだけどさ。
「そっか、そうだよなぁ。遊びに行くだけか」
そうだよそうだよ、それなら何も問題無いじゃないか。
なーんだもう驚かせやがって。
それならあれだぜ、弁当だって四人分喜んで作っちゃうぜ
「まぁ、久しぶりの純粋な休みだ。浮かれるのも仕方あるまい。妾は寝る。電気を消すのを忘れるでないぞ」
「ああ、おやすみ!」
寝転がりながらも精神的には立ち直った私を跨ぎ自室へと戻るアルを見送りながら、私は次の休日に持っていく弁当の内容に思考を巡らせていて、
……部屋を出る寸前の、アルの不敵な笑みを見逃していたのだった
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
そして、デート当日。
約束の時刻である、午前九時半────の、30分程前。
大十字九郎と鳴無拓也はまるで示し合わせたかの様に、同じタイミングで待ち合わせ場所である公園に到着した。
「おはようございます先輩。待ちました?」
互いに待ち合わせの場所に向かうのを正面から目撃していたにも関わらず、卓也は笑顔で声をかけた。
九郎は卓也の的外れな問いに、多少ぎこちない苦笑を浮かべる。
「いや、ぜんぜん。そっちも待ってないだろ?」
「待ち合わせですし、これは一応言っておくのが礼儀かな、と」
「そんなもんか?」
「さぁ? 俺も人と待ち合わせたりはあんまりしない質なので」
「そ、そっか」
卓也は会話を交わしつつ、九郎がちらちらと周囲に視線を巡らせている事に気がついた。
道行く通行人を気にしているといったものではない。
朝早く、という時間ではないが、学校や会社に向かうには遅く、どこかに遊びに行くにも少し早い時間帯なだけあって、この公園にも人気はあまり無い。
どちらかといえば、そこに居るべき人が居ない事に気を取られている様な視線だ。
「ええと、美鳥は?」
しばし辺りを見回し、目的の人物が居ない事を確認すると、恐る恐るといった風で訊ねる。
「? いや、前も言ったと思いますけど、今日の映画は面白いかどうか微妙なんで来ません」
「おうふ」
首を傾げながらもしっかりと答える卓也に、間抜けな声を上げる九郎。
すると今度は、卓也が周囲を見回し誰かを探し始める。
「そういえば、アルさんは居ないんですか? 魔導書と魔術師は常にワンセットが基本だと思うんですけど」
「ああ、それは」
《案ずるな、妾とて主の傍を離れるつもりはない》
九郎の声を遮り、九郎の懐からアルアジフの声が響く。
見れば、ノースリーブのジャケットの内側、鞄に使われる様な下げ紐を付けられたブックホルダーの中に、確かに魔導書形態のアルアジフが収まっている。
精霊の姿を見慣れた二人にとっては珍しい光景だが、当のアルは気にした風もなく続けた。
《離れるつもりもないが……なに、邪魔をする程野暮でもない。居ないものとして扱ってくれて構わんよ》
「ちょ、アルてめぇ!」
からかいの混じったアルの言葉に九郎はジャケットの上からブックホルダーを平手で叩くが、しばし笑い声を響かせた後、宣言通りに黙り込んでしまった。
「うぅー……」
唸りながらもブックホルダーから手を離す九郎。
そんな九郎を眺めながら、卓也はくつくつと堪えきれない含み笑いを漏らす。
「相変わらず、お二人は仲が良くて羨ましい」
「笑いながら言う台詞じゃ無いだろ、それ」
からかわれ、唇を尖らせて不貞腐れる九郎。
「それじゃ、いつまでも立ち話ってのもなんですし。ちょっと早いけど移動しましょうか」
「今から行って空いてるか?」
「九時には開館してるらしいですよ」
―――――――――――――――――――
待ち合わせ場所である公園から映画館までの距離は短く、歩いて十五分もかからない。
そんな微妙な場所にある公園を待ち合わせ場所にしたのは、もしかしたら映画館に行く途中で買い食いの一つでもしていくつもりだったのか。
開店前のファーストフードショップ、まだ仕込みを終えていない出店の横を通るたび、早く来たのは少し失敗だったかと後悔が頭を過ぎる。
「でも、先輩が三十分も前に到着してるとは思いませんでしたよ」
シャッターを開き始めている店を横目に、同じペースで隣を歩いていた卓也が口を開いた。
「卓也だって同じ時間に来たじゃないか。五分前行動だよ、五分前行動」
本当は四人分の弁当を作る為に早起きし過ぎたお陰な訳だが。
あまり待ち合わせの場所に来るのが早すぎると、まるで今日を楽しみにしていたようで嫌だったんだけど、遅刻するよりは余程いい。
「大体、そっちこそ早く来すぎじゃないか」
美鳥も一緒だったら時間なんていくらでも潰せたのだろうけど、今日のこいつは珍しく単独行動。
私が時間通りに来たら、三十分もあそこで待ち惚けするつもりだったのだろうか。
「経緯はどうあれ、誘ったのは俺ですから。先輩をお待たせするのも気が引けますしね」
「ふん、お前はそうやって調子のいい事ばっかり言うんだよな、本当に」
憎まれ口を叩いてしまったが、こいつのこういう律儀なところは嫌いじゃない。
慇懃無礼が人の皮を被って、更に悪ふざけを骨格として歩いてる様な男だけど、通すべき筋は通してくる。
こないだのインスマウスの出来事がなければ、普通に気の置けない友人と出かける感覚で楽しめたんだろうと思うと、少しもったいなく感じる。
「そういえばさ」
「はい」
「今日観に行く映画って、どんな話なんだっけ」
もちろん、最初に約束した時にその説明を受けた覚えはある。
が、ここ最近ずっとアルのページ集めにブラックロッジとの闘争ばかりで、約束した当時の記憶が少し曖昧だ。
あそこまで色々あって、それでもそれ以前に交わした約束を覚えていたという部分だけは評価して欲しい。
「広告の煽り文によると、ラブロマンスに分類されるそうです」
卓也は私の問いに、家から持参したらしい映画情報誌を開きながら、視聴前のネタバレを避けるためなのかページそのものは見せずに内容だけ答える。
「ラ、ラブロマンスですか……」
告げられた予想外の内容に、私の口からは何故か敬語が出た。
私の精神状態とか、あとタイミング的に最悪なんだけど。
大体、こいつがラブロマンスとか似合わないにも程がある。
この卓也の珍しい映画のチョイスは何処の誰が仕組んだ陰謀だろうか。
「俺は原作の方で少しネタバレしてるから解るんで言っちゃいますけど、ラブロマンスはどちらかと言えばストーリーの主軸じゃないんですよ。絵的なメインは剣戟物だし、話のメインは時代物だったかと」
フォローをしてくれている訳ではないのだろうけど、続く説明で少し気が楽になった。
……気付いてて、わざとやってる訳じゃないよな?
そんな疑念を抱きつつも、少し映画の内容に興味を引かれる。
「てことは、どっちかって言うと侍とかの出る時代劇的な感じなのか? なんでラブロマンスで広めようとしてんだろな」
「色恋ネタは普通に生きてれば誰しも身近に感じるものですからね。それだけ客を引き寄せ安いんですよ」
「ああ……納得。スリル! ショック! サスペンス! だっけか」
三つの単語に対応するポーズを手を交差させたり広げたりしつつ、うろ覚えのまま決める。
このポーズだけは有名なんだよな。
確か、日本のハイスクール探偵が悪の組織パッショーネに捕まり、組織のボスの魔術によって『ストーリーの進行度を定期的に0にされる』『永遠に最終回に辿り着けない』という非道な呪いをかけられるところから話は始まる。
呪いの副作用で肉体年齢を小学生にまで戻された彼は、週に一度は殺人事件が起こる狂った時間迷宮を永遠にさ迷うとか、そんな内容のサイコホラーサスペンスだった筈だ。
この内容でどこがスリルでショックでサスペンスなのかわかんないけど、一応年に一度くらいの割合でヒロインが爆破されそうになったり殺人犯のターゲットにされたりでハラハラするらしい。
「今の単語群にはラブもロマンスも含まれていない訳ですが如何か」
「いいじゃん、サスペンスとラブロマンスはセットメニューだろ」
火曜とか水曜とか木曜とか土曜とかのサスペンスの場合、殺害動機は痴情の縺れが殆どだし。
そんな事を話しながら歩いていると、いつの間にか目的地の映画館の看板が見えてきた。
メインストリートから少し離れた場所に建つ、こじんまりとした映画館。
情報誌に載っていたり、上映初日に俳優が舞台挨拶に来る映画館もアーカムには存在しているのだが、こっちはそういったイベントは殆ど無い。
最新の映画も少し遅れて配給されるような場所だが、そのお蔭で話題作でも長蛇の列に並ばなくていいし、場末であるにも関わらず清掃も行き届いているらしい。
映画館の入口に貼られたポスターは三種類で、あとは上映時間による入れ替えでいくつか古い映画やマイナーな映画を上映するのだろう。
「って、あれ? 時代劇っぽいの、二つあるな」
しかもポスター中央の主演俳優が同じで、タイトルまで同じ。
いや、副題は違うのか。
三昧のポスターの真ん中、魔王編&悪鬼編は……上映時間、五時間半!?
慌てながら卓也に説明を求めて振り向くと、私のリアクションを予想していたのか、笑いながらパタパタと手を横に振る否定のジェスチャー。
「今日見るのはそっちじゃないです。今日見るのは英雄編の方。ほら」
指さされたもう一つのポスターに目をやると、なるほど、確かに上映時間二時間二十分とある。
いや、それでも長いとは思うんだけど、さっきの馬鹿みたいな長さの映画に比べればまだマシだろう。
「つうか、これは続きものなのか? 片方だけ見て内容理解できるかな……」
「あっちは二つのシナリオでワンセットですけど、英雄編は独立したエピソードですから、映画化の際に余程改悪されてなきゃ大丈夫だと思いますよ。仮に理解できなくてもアクションシーンは楽しめるでしょう?」
「そう言われると、意地でも話の筋を理解したくなってくるな」
物語の内容を理解できない事を前提に話されてるみたいで少しムカつくし。
そんな具合で話しながら、映画館の入口に到着した。
今の時間が少し早い為か、それとも上映開始から少し時間が経っているからか、外から見た客の入はまばら。
それでも普段はもう少し人が入るのだろう、入口近くの売店では、幾らか売り切れているグッズも存在していた。
「じゃ、チケット買ってきますんで、先輩はそこで少し待っていてください」
「んー」
チケット売り場に小走りで向かう卓也を見送り、私は入場料金の一覧表を見てみる。
金の関係でこういう場所には馴染みがないから、一般的な価格は知らないが、意外と良心的な値段だ。
もう少しこう、安い定食屋ならステーキセットとか食えるレベルの金額かと思っていただけに、この価格には少し驚いた。
とはいえ、それでも定期収入がなければ間違っても来ようとは思えない金額な訳だが。
見た感じ、半額とかになる割引デーとかあるけど、そういう日を狙えば来れるかな?
メンズデーにレディースデー、高校生友情デー、映画の日に……。
「お待たせしました」
割引の種類を確認していると、いつの間にかチケットを購入し終えていた卓也が戻ってきていた。
手には映画のグッズが入った袋が下げられている。
「なんだかんだで、最初の上映まで少し時間がかかりますからね。ポップコーンはもう少し後で買おうと思うんですけど、それでいいですか?」
「いいけど、そっちの袋は何が入ってるんだ?」
「上映まで時間があるんで、今日見ない他の映画のパンフでも見て時間が潰せればな、と。はい、先輩の分です」
言いながら、袋の中から取り出された一冊のパンフレットを差し出す卓也。
パンフレットの表紙には、黒々とした荒れ狂う海から、大口を開けた巨大な怪獣が飛び出してくるという、中々に迫力のあるものだ。
「へぇ、これも面白そうだな」
ええと、ヨットで遊んでいたら座礁して怪我をしてしまうんだけど、助けを求めて上陸したスペインにある港町インボッカで、奇形揃いの現地人に追い回されて邪神DAGONの生贄にされそうに……。
…………ええと、この映画のタイトルは……、D、A、G、O、N。なるほど、DAGONか、ダゴンね。
ふーむ、なるほどなー。
腕に下げていたバスケットを近くのベンチに置いて、
「そぉい!」
途中まで読んだパンフレットを地面に叩きつける。
静かな有線放送が流れる館内に、強い破裂音にも似た紙を叩きつける音が響く。
売店の売り子さん、その場で小さくジャンプするくらい驚かせてごめんなさい。
心の中で謝りつつ、何くわぬ顔でもう一冊のパンフレットを読み続けている卓也に振り向き、叩きつけたパンフを指差しつつ、叫ぶ。
「覇道財閥の提供か!」
まるっきりこの間の事件そのまんまじゃねぇか!
だが、私の叫びに対し、卓也は仕方がないなぁと言わんばかりの表情で首を振る。
「そりゃ、モデルはインスマウスでしょうけどね。その映画の主人公たちと同じ境遇で同じ結末に至った人は腐るほど居ると思いませんか?」
「ぐむ」
言われてみれば、確かにそうだ。
そもそも、この映画のシチュエーションが存在したのは覇道財閥がインスマウスでリゾート開発を行う前。
今現在、というか、ここ数年のインスマウスはリゾート開発によってこの映画ほどおおっぴらには活動できていなかった。
そもそもインスマウスの事件が解決したのはつい先日だし、卓也の言うとおり、この映画のモデルは開発前のインスマウスの都市伝説なんだろう。
が、俺は別に自分が関わっていた事件をモチーフにしてると思ったからこんなリアクションをしている訳じゃない。
「ともかく、これで時間つぶしは嫌だ。そっちと交換してくれ」
「いや、俺は別にそれでもいいんですけど……」
語尾を濁しながら、卓也は今さっきまで膝の上で開いていたパンフレットを閉じて、その映画のタイトルと表紙を見せてきた。
ニューヨークかアーカムか、ともかくビルが折れたり爆発していたりの大都会っぽい風景。
前面には、原色のけばけばしい絵柄で逃げ惑う群衆。
そしてそれらのど真ん中に、巨大な肌色の桃が鎮座している。
タイトルは、『尻怪獣アスラ』
「……」
「……」
「…………」
「…………」
無言で表紙と卓也の顔を交互に見つめる。
「ええと……」
「…………」
見つめ続けると、卓也の頬にたらりと汗が一筋流れる。
卓也はゆっくりと手を上げながら、売店を指差す。
「ちょっと早いけど、ポップコーンとか、買ってきます?」
「ポッキーがいい。午後ティーも忘れんなよ」
結局、映画鑑賞中にトイレに行きたくならない程度のおやつを食べながら、最近の街のとりとめもないニュースをネタに雑談をし、映画が始まるまでの時間を潰す事になった。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
いざ見始めて見れば、それは卓也の言ったものとは少し違う内容で、時代劇というには少し趣の異なる内容だった。
時代設定は現代、架空の兵器と架空の歴史を刻んだ、日本に良く似た国で出会う、一組の武者と一人の少女の話。
成程、確かに卓也の言うとおり、所々詰め込んでいるのだろう部分が見て取れる。
映像とモノローグで軽く説明してくれてはいるが、これは本来小説か何か、もう少し具体的な情報量を多く取れる媒体で見るべき作品だろう。
あらすじとかダイジェスト風味で武者と少女の出会いからの一連の事件も省略されてしまったけど、そこを通してから見たら、もっと感情移入できそうだ。
が、確かに空を飛ぶ鎧を纏っての剣戟シーンは見ごたえがあり、ストーリーの面でも情報不足を補って有り余る程に俳優の演技には力が入っていて、見ていて決して物足りないと感じさせない。
『なんで……あたしはこんなに弱いんだ……』
ストーリーは少女が自らの正義感に従い悪党をぶっ殺したものの、しかし自分が殺人を犯してしまったという事実に押しつぶされるシーンに入った。
ここは割と長めに取られているのか、少し退屈に感じ、私は卓也に小声で耳打ちする。
「お前、確かこれの原作持ってるんだよな。今度貸してくれるか?」
順番が逆になってしまうが、この映画を見た後に原作を読めば、映像と音声だけでは理解出来なかった部分も分かり、二重にこの映画を楽しむ事ができるだろう。
「ええ、確か美鳥が暇つぶしに紙媒体で英語に翻訳してたと思うんで、それでよければ」
「さんきゅ」
スクリーンから視線を逸らさずに返ってきた小声の了承に、私も短く小さな感謝の言葉を返す。
しかし、翻訳したという事は、元を正すと日本の作品なのか。
別に私は日本語も読めるんだけど、英訳されているならそれでもいい。
独特の台詞回しが多いから誤訳が怖いけど、美鳥が訳したなら多分問題ない。
そもそも、私はそんなに娯楽小説とか読まないし、最初は好き嫌いなく読んだ方が楽しめるだろう。
それにしても。
耳元から口を離し、スクリーンに視線を戻すまでに卓也の表情を盗み見る。
今現在、物語は殺人を犯してしまった少女の葛藤と、その少女の心情を吐露されて受け止める武者という場面に差し掛かっている。
映画化故の情報不足という点を考慮しても、この国ではあまり感情移入されにくい部分だろう。
が、卓也は瞬き一つせず、真剣な表情でスクリーンに見入っている。
(……本当に、よくわからない奴)
普段の会話から考えるに、殺人に対してもそれほど忌避感を感じてはいないだろうに。
だというのに、こいつは妙な所で人間性にこだわる。
いざという時はプライドを捨てても生き残る事を最優先させる癖に、そうでない時は人道を説いたりもする。
魔導にどっぷりと浸かりながら、決して人間らしい生活や人の営みを否定せず、時に普通の人間よりも重要視している素振りすら見せる。
食事、娯楽、規則、人間が人間らしく社会で生活する為に必要なそれを決して疎かにしようとはしない。むしろ魔術の研鑽よりも重要視してさえいる。
いや逆に、魔導に浸かりきってしまっているが故に、だろうか。
魔導の混沌に身を浸し、人から大きく外れながら、それでも人間として有り続けようとしている。
実力の上で遠く離れた位置に居る先生達や、似たり寄ったりの実力しかない同級生たちとは違う、別の方向性を持った魔術師である卓也の存在は、私の見識をより深いものにし続けていた。
……しかし、なんで映画館まで来てこいつの横顔を見つめてるんだ、私は。
でも、うん、見ていて不快になるような顔でも無いし、気付いてる風でもないから、もう少し……
『手荒なやり方しか知らない。それでもいいか』
『はい……。それでいいです。……その方が、いいです』
あれ、なんか、切なげなBGMが消えた。
武者の人と少女の台詞から嫌な予感を感じながらも、スクリーンに視線を戻す。
「……っ!?」
視線の先、スクリーンの中では、濃厚なキスシーン。
あれよあれよという間に少女は布団の上に寝かせられ、当然の様に始まるベッドシーン。
嫌に濃厚な描写で繰り広げられるベッドシーンは、ストーリーの流れに矛盾しない、甘さとは少し離れた印象を受ける。
先の武者の言葉の通り、少女が受ける愛撫は荒々しく、少女の身体をより強ばらせる。
だが、武者の愛撫を受け入れようとする少女は声を殺して耐え忍び、その御蔭だろうか、次第にその身体を、その声を緩めていく。
少女に向けられる愛撫が、少女の怯えまじりの嬌声が、妄想の中の私と卓也の姿にだぶる。
「…………」
暗闇に閉ざされた空間、視界いっぱいに映る男女の交合。
BGMすらない静寂の中に響く、少女の切なげな喘ぎ声。
私は、自分の視線がいつの間にかスクリーンに釘付けになっている事に気がつき、慌てて視線を逸した。
「っ」
逸した先で、運悪く目が合った。
反射的に視線をスクリーンに戻す。
もしかして、画面に見入っていたのを見られてた?
顔が、喉元から耳の先まで余さず熱い。鏡を見なくても顔が真っ赤になっていると自覚できてしまう。
この映画館の薄暗がりは、私の頬に射した朱を、上手く隠してくれるだろうか。
そして、暗がりの向こうで私の事を見ていた卓也は、いったいどんな表情をしていたんだろう。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
映画館から場所を移し、公園。
当然待ち合わせに使った公園なのだが、ここはビジネス街のど真ん中ではなく歓楽街の近くにある公園で、少し大きめの池もある自然公園の様なところだ。
もちろん何の意味もなく作られた公園ではなく、アーカムを包む結界の歪を中和する為の緩衝材という重要な役目を持つ公園の一つでもある。
もちろんこの公園と同じ機能を持たされた施設は複数箇所存在するため、ここが重点的に狙われることもないのだが、今は関係ないので置いておく。
重要なのは、ここには家族連れも多く、レジャーシートを広げて弁当をつつくには丁度いい場所になっているという事。
お蔭で、俺と大十字も目立つことなく昼食を取ることができる。
大十字は弁当に気を取られてレジャーシートを忘れていたようだが、そこらへんは俺が適当に代用品をでっち上げることでどうにかした。
「案外面白かったな、あの映画」
小さめに握られたおにぎりを齧りながらの大十字。
映画の途中、具体的には一条と湊斗さんのマクロスなシーンで顔を真っ赤に染めていたから少し心配だったのだが、全体的には割と好評だったようだ。
というか、サックスなシーンでも、一瞬こちらを見ていただけで視線はスクリーンに釘付けだったし、そういった部分も含めて好評だったのだろう。
異性として云々ではなく、こう、普段は真面目な美人が口を真一文字に結んだ真剣な表情で、エロい映像を凝視する、というのは文化財的な扱いになると思う。
俺が思うに、元の世界でも十年以内に少なくとも国の無形文化財扱いにはなるんじゃないだろうか。
「そうですね、二時間枠というのが不満でしたが、原作の長さを考えればベストと言っても良い出来だったかと」
しかもアニメ化ではなく実写であるという意欲作であそこまで出来たのはすばらしい。
というか、村正世界で見た本人たちがそのまま演じていたのだが、この世界では全員役者をしているという事でいいのだろうか。
「お前、そういう素直に評価しないのと変に批評しようとするところ、直した方がいいぞ」
「反省してます反省してます」
大十字の言葉を軽く聞き流しつつ、弁当から卵焼きを一つ摘んで口に運ぶ。
「あ、この卵焼きの味付け美味しいですね。砂糖強めですけど」
確か、甘み強めなのは肉体的な疲労を貯めやすい肉体労働者向けなんだっけ?
頭脳労働者向けも糖分が必要になるから甘めになるとか聞いたけど、薄味派は健康嗜好なのだろうか。
割と半熟気味の焼き加減で、冷めてもほんのりとろっとした部分が残っているのもポイントが高い。
「そうだろそうだろ。それにほら、この卵焼きはおろし醤油を付けて食べるとさっぱりするぞ」
言いながら、大十字はおろし醤油の入った小さなタッパーを取り出し、蓋を開けて弁当箱の脇に置く。
なるほど、確かにこれなら甘すぎると感じた時も大丈夫だし、調味料で味を変える事で飽きさせない工夫にもなるか……。
というか、
「こういう時たまに思うんですけど、先輩って意外と世話焼きですよね。母親っぽいっていうか」
この大十字はたまにオカンっぽい。
いや、俺もオカンというか母さんの記憶は殆ど無いけど、一般的な母親のイメージとしてね?
俺の率直な感想に、大十字は皮肉げな笑みを浮かべた。
「最近は手の掛かる餓鬼みたいな後輩が居るからな、ついつい母性が身に付いちまったのかもしれん」
「奇遇ですね。俺も二年程前から飢えた痩せ犬みたいな先輩が居るお蔭で餌付けが上手くなり始めてる気がするんですよ」
「はははコヤツめ」
「ははは」
ひとしきり笑い合い、互いに素早く弁当箱からお握りを取り出し、もう片方の手に調味料を構える。
俺の獲物はチューブタイプの本わさび。もちろん信頼性の高いSB食品の物を使用している。
対して、大十字の構える獲物は……辛子マヨネーズ。
「先輩、武士の情です、ここは引いてください」
「なに言ってんだ、こっちは片開きキャップ、抜き打ち向きだ。引いてやる理由が無いだろ」
俺達のやろうとしている事は単純だ。
このお握りにありったけの辛味をねじ込んで、相手の口に放り込む。
だが、
「辛子マヨネーズの方が、わさびよりも早いと思っているのでしょう」
「……」
大十字は答えない。
ただ、辛子マヨネーズのチューブを持ち、こちらを見つめている。
「ですが、マヨネーズはデリケートな調味料です。激しい温度変化や衝撃で成分が分離するかもしれないし、直射日光で変色してしまうかもしれない。成分も変質していないとも限らない」
そして、大十字は一つ致命的なミスを犯している。
「おまけに、その辛子マヨネーズは未開封。蓋を開ける、銀紙剥がす、チューブを押すまでに三動作(スリーアクション)、その点こちらのわさびは開封済みで蓋も空いているから一動作(ワンアクション)で終わる」
「くっ……」
片目を閉じて苦しげに呻く大十字。
もうひと押しだ。
「この距離なら絶対に俺が勝ちます。どうします? それでもそのおにぎりを辛子マヨネーズ漬けにしますか?」
「…………」
俯き、肩を震わせる大十字。
俺の手も、肩も、大十字のそれに釣られる様に震え始める。
辛子マヨネーズを握ったままの大十字の体の震えは次第に振れ幅を大きくしていき……
「ぶっははっ」
吹き出した。
「ふへっへ」
釣られて、俺も半笑いの顔で吹き出す。
「馬鹿みたいだな、私ら」
「そうですね、でも、いいんじゃないですか?」
この周で出会った当初に比べれば、大十字もずいぶんと丸くなった。
もちろん食生活の改善で全体的に丸くもなっているがそういう意味ではない。
真面目な部分は残っているが、それでもだいぶ冗談が通じるようになったし、ノリも良くなってきたと思う。
「で、飯食ったらどこ行くんだ?」
「はい?」
わさびのチューブをポケットの中に入れ直し、持っていたお握りにかぶりつこうとした所で、思わぬ大十字の発言に手を止める。
「ほら、さっきの映画を見るだけなら、別に弁当持ってくる必要も無かったろ? じゃあ、昼を挟んで午後にもどこかに行くのかなって」
「ああ……」
弁当で借りを返す云々はこの時点ですっかり頭から抜け落ちているらしい。
仕方ないか、ここ最近は事件ばっかりだったし、映画の約束を覚えていただけでも上出来だろう。
正直な話をすれば、この後の予定は無いに等しい。
今日は大十字と映画に行く、という予定を立てていたのは確かだが、それ以外は特に何も考えていなかったのだ。
だが、今日が最終日である事や大導師の一連の命令の意図を考えれば、終日大十字と共に行動する、というのは悪い選択肢ではない。
「そうですね、せっかくなんであっちこっちフラフラしてみようと思うんですけど、大丈夫ですか?」
「当たり前だって。今日はそのつもりで来たんだからな」
言いながら、大十字は唐揚げの一つに辛子マヨネーズをかけ、爪楊枝を突き刺した。
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……………………
…………
……
「んー」
試着室の中、見繕った服を身に纏い、鏡の前で身を捻る。
今身につけているのは何処にでも売っている様なジーンズにボディシャツ。
特に突っ張るところもないし、サイズはピッタリ。
これで古着屋なんかだと微妙にサイズが無かったりするけど、流石は中古じゃない服専門店。
さっき試したジャケットもいい感じだし、偶には古着屋じゃなくて、こういう店に来るのもありかな。
更に、足元に置いてあったベストに袖を通し、鏡に向かってポーズを決める。
うん、格好いい。特にこのベストはクールだ。
もしもの時を考えて余分に金を財布に入れてきたし、これだけでも買っていってしまおうか。
これで中折れハットとか被ったらもう、いつでも私立探偵を開業出来そうなレベルで決まってる。
「私ってさ、こう言っちゃなんだけど格好いいよな、マジで」
試着室の外で待っている卓也に声を掛ける。
「そういう事を自分で言っちゃう辺りは可愛いと思いますけどね」
「…………ばっ、馬鹿言うな。私は元々可愛いんだよ」
不意打ちに、一瞬だけ言葉が詰まる。
他意がないのは解るんだけど、今そういう事を言われると、その、なんだ。
困る。
改めて、鏡を覗き全身を確認する。
女性としてはすらっと高い身長、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ女性らしいボディライン。
か、可愛いかどうかは一先ず置いておくとして、女性らしくはあるよな。
「……」
ちら、と、壁に吊るしてあるもう一着に目が向く。
卓也の目を盗んで持ってきた、最初に目が行ったベストと合う様な気がしたというのもあるけど、八割方冗談のつもりで選んだ物。
魔術師なんて荒事していたら正直一生着る機会の無さそうな一着。
「……………………」
まぁ、どうせ、何着も買う金がある訳じゃないし。
少し着て、卓也に見せてみるくらいなら、いいかな?
私は自分にそう言い訳をしながら、ハンガーに吊るされた物に手を伸ばした。
―――――――――――――――――――
なんて、考えていたのが運の尽き。
「先輩先輩、次はあっちの雑貨屋とかどうです?」
「か、勘弁してくれ……」
少し先導している卓也を、脚を大きく動かさない歩幅で追いかける。
普段なら、さして背にも歩幅にも差はないから、ここまで引き離される事はないのに、だ。
何故かって?
それは、私がさっきの服屋で柄にもないお色直しをしてしまったのが原因である。
「なぁ、もうちょいさ、人通りの少ないとこ通らないか? なんつうか、露出が、だな」
普段なら露出する事のない太腿に、外気とは別のもの──人の視線を感じて動きにくい。
が、卓也はそんな私にとびきり明るい楽しげな笑顔で告げた。
「そう恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。お似合いですよ、そのスカート」
「ああ、私もお前のプレゼント、無駄に可愛くて、ほんとに嬉しいよ! 馬鹿! 死ね!」
顔が熱い。叫ぶ私の顔は真っ赤になっているだろう。羞恥だけでなく、多分怒りとか入ってるけど。
──そう、私は今、何時ものパンツスタイルではなく、スカート姿なのだ。
さっきの買い物の時、私は一つ間違いを犯した。
確かにあの時点で私の財布の中には、新品の少し高級なベストを買ったら、あとは多少の間食ができる程度の金しか入っていなかった。
だから、驚かせるか冗談のつもりでスカートを履き、試着室のカーテンを開けた。
上はボディシャツに黒のベスト、下は赤黒チェック柄のプリーツスカート。
冗談で着てみたコーディネートではあるけど、スキニージーンズをスカートに変えるだけで、全体の印象も大きく変わっていたと思う。
常の私らしくない、女の子女の子したシルエットだ。
その時に見た卓也の生暖かい視線、そして、
『ええ、わかってますよ。先輩もお年頃ですものね。そういうオシャレだってしてみたくなりますよねええわかりますようんうん』
みたいな、嫌に優しげな表情、私は一生忘れる事はないと思う。憎しみは最も消えにくい感情だって言うし。
先のセリフと同じく褒められ、それも買うんですか? と聞かれて慌てて『金が無いから』と首を振る私を見た卓也は、その場で店員を呼び出し、未だに着たままだったワイシャツにベスト、スカートまでを自腹で購入してしまったのだ。
この購入時の、
『映画に付き合って貰いましたしね、これはお礼のプレゼントという事で、受け取ってくださいな』
という卓也の台詞も忘れられない。あれは完全に面白がってる表情だったと思う。
人は邪気だけで口を開くと、逆に完全に邪気がない様に見えるのだと初めて知った。
そこからはもうあいつのペース。
露出が大きすぎるからと言ったら即座に店員に『サイハイソックスありますね』と断定で聞き、店員は店員で『勿論にございます』と即座に応じ、股の半ばまで隠れる少し長めのオーバーニーをセットで購入。
更に着てきたズボン他私服一式を入れる為の袋までサービスで付けて貰い、そこまでされたからには着ないのは不義理かなーと、このままの格好で散策を再開してしまったのだ。
「ひらひらだし、ふわふわだし、スースーするし、周りの視線が凄いし、うぅぅぅぅぅ……」
口をへの字にし、スカートの裾を握り、僅かに露出した太腿を隠しながら唸る。
試着室と外の環境は、当然といえば当然だが、全くの別物だ。
久しぶりに履いたスカートは、私の遠い記憶の中にあるそれよりも余程難敵だった。
ちょっと早く動こうとするだけで中身が見えてしまいそうになる。根本的に、素早い動きをする事を前提に作られてない。
卓也とつるむ様になってからあまり感じなかった、性的な意味合いを含む視線が痛い。
これで視線を向けてくるのが怪威なら問答無用で叩き潰せるのに、見ず知らずの一般人相手じゃそうはいかない。
「ちょっと失礼します」
ひょこひょこと歩きながら唸っていると、いつの間にか少し戻ってきた卓也が、私に向かって何かを振り掛ける様な動作をした。
僅かに字祷子が動く気配と共に、周囲からの視線と、隙間風のスースーした感じが消えた。
何らかの魔術を行使したらしい。
周囲の視線を感じなくなったので、スカートから手を離す。
「視線避けと、軽い防風の魔法です。……すみません、先輩のその格好が珍しいからってはしゃいでしまって」
卓也はスカートの裾から手を離した私を見て、申し訳なさそうな顔をしていた。
表面上だけの謝罪かと思ったら、今回ばかりはちゃんと反省しているっぽい。
しかし、『はしゃいでしまって』か。
はしゃいじゃったんなら、仕方ない。うん。
何しろスカートだもんな。
「反省してるなら、いい。私だって人の視線が無きゃ、こういう格好も嫌いじゃないしな」
途切れ途切れに謝罪を受け入れる。
それに、本当に心底嫌なら、引き返してでも元の服に着替え直してる。
それをしないって事は、私はこの格好で卓也と歩くのを、嫌だとは思っていないって事だ。
他の奴らならともかく、こいつの視線なら気にならない。
どっちかって言うと、少し、胸のところがぽかぽかしている。
「ありがとうございます。それじゃ、人通りの少なめの通りを行きますか」
気を遣ってか、完全に裏通りという程でもない、しかし今歩いている通りよりは人通りの少ない細道への入口を指差す卓也。
……他意があるわけじゃ、無いんだけど。
「……ん」
手を差し出し、単音で握るように促す。
「魔術のお蔭で見られてないんだろうけど、壁になるくらいはしてくれ。エスコート、してくれるんだろ?」
本当に、他意は一切無いからさ。
呆気の取られた顔に小さく笑顔を返しながら、私は胸の中だけで、そう小さく呟いた。
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さて、女心と秋の空、などという言葉があるように、女性の心と言うには酷く移ろい易いものであるらしい。
俺から言わせてもらえるなら、そも心などという物は老若男女問わず常に移ろい易く無ければ機能しないものだ。
固定化されてしまった心はもはや心ではなく、生き物として行動する上での方向性を定める習性に貶められてしまうだろう。
この俺ですら、時には愛しい姉に対して怒りの感情を抱くことがある。
だが、しかし、である。
それにもまして、このTS周の大十字の心は不安定である様に思えるのは俺だけだろうか。
手を繋いでエスコートしろ、などという言葉は、少なくとも昨日までの大十字の口から聞くことは不可能な言葉だった筈だ。
「ええと、先輩?」
……朝の時点ではアルアジフが魔導書形態であることや美鳥が居ない事でややキョドり気味で、かと思えば服屋でスカートを履いてみたりと、今日の大十字はいつもと違い、妙に情緒不安定な部分があった。
恐る恐る、すぐ隣りに立ち、棚に飾られた用途不明の小瓶や出力不足の加湿器などを手に取り、矯めつ眇めつしている大十字に声を掛ける。
「うん、何だ?」
デフォルメされた子豚型の鉛筆削りを手にした、普段と変わらない様子の大十字。
スカートの件で悪ノリした事を謝罪し、手を繋ぐよう要求されてそれを受けてから、大十字の様子は普段通りの物になった。
そう、その時点でおかしい。
謝った時点ではなく、手を握って行動し始めた時点で普段の大十字に戻ったのだ。
雑貨屋に入った時点で手を離してこそいるが、何時もよりも大十字との距離が近く、さりげなく距離を取ろうとすると距離を詰められる。
恐るべきは、大導師。
脳内作用を弄るナノマシンも使わずに、しかも自らは殆ど直接手を下さず、直接的な指示すら出すことなくこれとは。
数万年分の研鑽は伊達ではなかった、という事だろう。
「いえ、なんでもありません」
首を横に振り、用がない事を伝える。
「ふふ、変な奴」
用もないのに呼んだにも関わらず、大十字の機嫌は悪くない。
薄く笑みすら浮かんでいる。
だ、大十字が微笑みを……!
嫌だ、俺はアヘ顔晒して死にたくなんてない。
こんな雑貨屋に居られるか! 俺は離れで眠らせて貰う!
と、散々この状況に疑問を抱いている俺だが、別にこの大十字と手を繋ぐのが嫌という訳ではない。
元の世界では殆ど姉さんと美鳥以外との女性との肉体的接触はなかったが、トリップ先でならば、性的な要素の絡む肉体的接触も、性的な要素の絡まない肉体的接触も無いではない。
もちろん、それに伴い、相手の感触を悪くない物だと思う程度の機微はある。
当然、今のTS大十字と繋いだ手に返ってくる、荒事で多少固くなりつつも、やはりどこか女性的な柔らかさのある手指の感触は悪くない(姉さんのそれとは比較すら出来ない程度のものではあるが)。
何が嫌って、このTS大十字の態度が普段の周の大十字に万が一億が一程度の確率で伝播する可能性があるということ。
なにせ、この世界のメカ&キャラデザと原画を担当した人物は、毎日ヤオイ系サイトをチェックしている様な猛者なのだ。
二次創作世界になったからといって油断はできない。
実はこのTS周におけるラブコメなどは前振りで、この周で起きるラブコメ的イベントは全て次周以降に引き継がれて怒涛のベーコンレタス&ブラックリスト&ブルーレモン&ブリテンロンドン&ブリティッシュ・ライブ地獄に突入させられてしまうかもしれないのだ。
俺は、輝くトラペゾヘドロン(実物)ならばともかく、大十字や大導師の黒光りするトラペゾ♂ヘドロンなど飲み込みたくはない。
そうなった場合、俺の居場所は地球上には存在しないだろう。
力量の問題ではない。そういうイベントは発生すらさせたくないのだ。
火星も軍神の件があるから危険域だと考えたほうがいい。念を入れるなら太陽系は最初から除外すべきか。
身の安全を考えるなら、ほとぼりが冷めるまではセラエノ大図書館にでも引き篭っておくのが吉だろう。
大十字はともかく大導師が敵に回るとなると、この宇宙で安全圏は恐ろしく少ない。
「卓也卓也」
転ばぬ先の杖とばかりに逃亡先の事を思案していると、大十字がこちらに手招きしている。
先の想像の中で興奮気味にバルザイの偃月刀♂を振りかざしていた大十字とは異なり、このTS大十字は激レアのスカート姿も相まって、何処にでも居る可愛らしい少女にしか見えない。
後の事はわからない。
が、少なくとも現時点のTS大十字に害が無いのは明らかだ。
「はいはい? 何か面白いものでもありましたか?」
俺はもたげかかった警戒心を押さえ込み、誘われるがままに大十字の方に歩み寄る。
と、互いの手が届く距離にまで近づいた所で、大十字が俺の頭に何かを被せた。
視界の上半分が埋められている。
やや庇(ひさし)が大きめの帽子。
「うー、ん」
俺の頭に帽子を被せた大十字は、俺から少し距離を取ると、顎に手を当ててじっくりと此方の顔を観察し始めた。
「前々から思ってたけど、目元以外は割と笑い顔だよな」
「その顔面構造を指摘されたのは久しぶりですねぇ……」
「いや、悪いって訳じゃなくてさ。うん、でも、サイズはこれでよし。ちょっと待ってて」
そう言いながら俺の頭から帽子を取ると、そのままレジで会計を済ませてしまった。
紙袋に入れられたそれを俺に押し付ける大十字。
「ほら、プレゼント」
「なんと……!」
衝撃的な自体だ。最後のガラスをぶち破った様な感覚。
余りに世の理に反した出来事に世界が逆に回転する。
日常を飛び越えかねない、あの大十字が、自分の金でプレゼントを……!
……もうこのネタ飽きたな。
この大十字は定期収入貰ってるし、確か以前シスタールートを通った時もデートの時にプレゼントを渡す程度の事はしていたはずだ。
まぁ、プレゼントを渡す対象が俺、というのが一番の衝撃だった訳だが。
「いいんですか?」
貧乏生活から逃れたとはいえ、必ずしも余剰資金を誰かの為に使う必要はない。
むしろ今までの生活を考えれば、ここぞとばかりに自分で趣味なりなんなりを見つけてそこにつぎ込むべきではないかと思うのだが。
ただでさえ大十字九郎としての余生は残り少ないんだし。
俺の疑問に、大十字は僅かに苦笑する。
「値段的に、この上下一式とは釣り合わないけどな」
「それは俺が好きで金を出したものだからいいんですよ。先輩が俺にって、理由が無いじゃないですか」
TS大十字がスカートを履くのと、俺が帽子を被るのでは訳が違う。
TS大十字のスカート姿はレアだし、一般論として眼福だが、野郎の俺が帽子を被って誰が得をするというのか。
「それだって私がす……勝手に買って、勝手にプレゼントしたんだから文句言うなっての。……それに理由だって、無い訳じゃ……」
大十字がそっぽを向いて口にした台詞の内、尻すぼみになって消えかけた部分に首を傾げる。
「理由?」
「んにゃ、何でもない」
オウム返し気味の俺の言葉に、大十字は曖昧な表情ではぐらかした。
「ほら、ここは粗方見終わったし、早く次の場所に行こうぜ!」
そして、再びこちらの手を引っ捕える様に掴み、引っ張るように店の外に向けて早足で歩き出す。
スカートを始めとした女性らしい格好ではあるが、手を引く力は常の荒事を生業とする魔術師らしい力強さを少しも損なっていない。
「ちょ、待っ、歩く、歩きますから引っ張らないでくださいって!」
力強く歩き出した大十字に引っ張られるようにして、俺は雑貨屋を後にした。
……まぁ、大十字のこの態度も、俺が大導師の企みに加担したせいってのあるし、今日はとことん付き合うか。
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……………………
…………
……
結局のところ、どっちがどっちを引っ張り回していたのか。
いつの間にか一方的に感じていた気まずさは無くなり、私は久しぶりの純粋な休日を満喫していた。
家族連れや学校帰りの学生達、カップルで賑わうショッピング街に、なんてことのないビジネス街を通り抜け、人気の少ない寂れた通りの怪しい店。
アーカムで遊べるところは片っ端から遊び倒して、気が付けば空は茜色に染まり始めていた。
楽しい時間は早く過ぎていくというけど、今日は本当にあっというまに時間が過ぎ去っていった様に感じる。
時間が経つのも忘れて歩き回り流石に少し疲れた私達は、公園で一休みすることに。
「うー……っん」
着替えの入った袋とランチボックスの入ったかごを持ったまま、両手を天に突き出して背筋を伸ばす。
関節がポキポキと音を立て、全身のコリがほぐれた。
つまり、それだけ疲れたんだろう。
息抜きで疲れるというのもおかしな話だけど、この疲れは楽しさも伴う疲れだと思う。
「っはぁ! 遊んだ遊んだ! 修行と事件以外でこんなに疲れたのって、久しぶりかも」
腕を下ろして振り返る。
沈み始めた夕日で赤く染まった公園。
そこに立つ帽子を被った卓也の顔も、同じく鮮やかな紅に染まっている。
「もう少しゆったりできるコースも考えてはいたんですけど、急ぎすぎましたか?」
「まっさか。十分楽しめたぜ、今日のデート」
「そりゃ光栄です」
「うむ、よきにはからえ」
くだらないやりとりをして、互いに笑い合う。
何気ない受け答えの中で、私の口はごく自然に、照れる事もなくデートという言葉を口にしていた。
当然だ。何も恥ずかしいことなんて無いんだから。
年頃の男と女が一緒に出かけたのなら、恋愛感情を抜きにしてもデートになる。
そういうものなんだから、おかしなところは何もない。
「そういう卓也はさ、楽しかったか?」
「ええ、面白かったですよ、先輩とのデート。プレゼントも貰いましたし、ちょっとしたサプライズでしたね」
「そっか」
帽子の庇を指で押し上げる卓也の嬉しそうな表情に、私の顔は自然と笑みを浮かべていた。
「でもプレゼント貰ったからって、また明日から再開する修行では手は抜きませんよ。これからの戦いに向けてますます厳しめに行くんで」
帽子から指を離し、指を振りながら戒めるように言う卓也。
普段の修行からして、生きるか死ぬか程度のキツイものだ。
それが更に厳しくなるっていうんだから、これから起こる戦いの熾烈さも想像できる。
「望むところだ。どしどし鍛えてくれよ」
だけど、私はそれに怯む事なく、胸を張って大きく頷く。
修行はこれから更にきつくなり、それでもおっつかない程敵も力を入れてくるだろう。
だけど、私の中には少しの不安も無い。
「頼もしいですね。先輩がそう言うなら、俺も頑張ってサポートしますよ!」
グッ、とガッツポーズを取る卓也。
私の威勢のいい答えに反応してか、その声には何時もよりも力が入っている気がする。
私が頑張るなら、卓也もそれに合わせて頑張ってくれる。
ピンチの時、力が足りない時、こいつは力を貸してくれる。
一緒に戦ってくれる。
私はきっと、こいつが居るから、こんなにも戦えているんだ。
────私は、もっとずっと、こいつと一緒に居たい。
それが、今日一日で出した、私の気持ちの答え。
好きとか、嫌いとか、デリケートに好きしてとか、そういうのと一緒なのかはわからない。
こいつの傍は、退屈しなくて、息をつく暇も無くて、でも、安心する。
だから私はこいつの傍に居たいし、一緒に居て欲しい。
私と一緒に居るこいつには、私と同じように感じていて欲しい。
理屈じゃなくて、そう感じてる私が、私の中に確かに居る。
二年も一緒に居たから、きっと当たり前過ぎて考えもしなかった、私の望み。
だから、今日のデートは思いっきり楽しんだ。
卓也を振り回して、卓也に振り回されて、手を繋いで一緒に歩いて。
その全てを楽しんだ。私が楽しんだ分だけ、卓也にも楽しんで欲しくて。
……卓也は、私が感じたのと同じくらい、今日一日を楽しめただろうか。
きっと、素直には答えてくれないだろう。
こいつはそういう奴だ。
だからいつか、そう、例えばの話。
「なあ、アルのページも全部回収して、ブラックロッジを倒したら、また、今日みたいに────」
遊べるか。
その言葉を、私は口にする事なく飲み込んだ。
「あ────、──」
それは唐突で、突然の事だ。
人で溢れかえる街の生み出す喧騒、公園で群れる鳩の鳴き声、噴水の水音、車のエンジン音。
それら周囲の喧騒が、一瞬で消え失せた。
訳も分からず背筋に悪寒が走る。
いや、そんな生易しい感覚ではない。
頭の先からつま先まで、全ての血液を凍らせられ、骨や随を残らず氷の塊に挿げ替えられた様な、
脳みそをシャーベットにされたような、比喩でもなんでもなく既にこの私は死んでしまっているのではないかと思いそれならどれほど救われたかと恐れ本気で恐ろしい異形じみた経験のない名状しがたい絶望的な圧倒的な感覚。
あるいは、その時の私は真実死んでいたとも言えるかもしれない。
「先輩!」
「九郎!」
浴びせられた叫びに、凍結していた全てが熱を取り戻す。
今までの修行はなんだったのかと思うほどみっともない自失。
意識を飛ばしていたのはどれほどの時間だったのか、既に懐のブックホルダーに魔導書アルアジフは無く、卓也と共に私を背にかばう様に精霊としてのアルの姿を晒している。
────そいつは、立っていた。
やけにゆっくりと飛び立つ白い鳩の群れの向こう。
公園を染め上げる夕陽が、黄金の髪を照らしていた。
炎えるような紅の只中に、その少女は立っていた。
人外じみた美しさを持つ少女。
この場の誰もが魅入られたように、もしくは呪縛されたように、少女から目を逸らせなかった。
いや、逸らさなかった、か。
少女は穏やかな微笑を浮かべ、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
その微笑みに、私は吐き気と躰の震えを堪えながら、
「アル!」
叫ぶ。
返事を返す間も惜しみ、アルの身体が頁の形に解け、私の身体に張り付いてマギウススタイルを形成。
……ヤバイ。
こいつはヤバイ。
何がなんだか良く分からないけど、それでもこいつがヤバイって事だけはよくわかる。
だってこいつ、こんなに可愛くて、綺麗な金色の髪で、瞳も、なのに……なのに!
「はじめまして、大十字九郎。楽しい休日の邪魔をしてすまない」
鈍い輝きと共に放たれる、超然的な雰囲気。
感情の篭っていない謝罪の言葉と共にこちらに翳された掌から、紫電を帯びた光の弾が生まれる。
俺はまだ放たれてもいないその光弾を防ごうとして────初めて躰が動かない事に気がついた。
何故か、躰は私の意識による制御を離れ、石にでもなったかのように微動だにしない。
「余はマスターテリオン。魔術の真理を体現するもの、そして心理の追求を続けるものであり────」
いや、理由は直ぐに分かった。
目の前の少女から放たれるプレッシャー。
それが膨大な魔力と共に全身に浸透し、身体の動きを阻害する。
少女が顔に浮かべた、可憐ですらある笑みに、心底恐怖する。
少女の掌の中、光弾は迸らせる紫電の量を増し、輝きを強くしている。
夕暮れ、紅く染まった公園を、更に強烈に照らしつけるほどの閃光。
光弾が解き放たれ、少女の桜色の唇が途切れていた言葉の続きを紡ぐ。
「────この地球の真の覇者、『地球皇帝』である」
轟、と、兇暴な唸りを上げて魔術の光弾が動けない私目掛けて迫る!
躰は依然として動かない。
一か八か、このままディスペルを────!
「踏み込みが足りん!」
顔面に当たる直前の一撃を、絶妙のタイミングで横から割り込んだ卓也の偃月刀がはじき飛ばす。
光弾は明後日の方向に飛んで行き、そのままドーナツ屋台に直撃、劈くような爆音と共に閃光が屋台を飲み込んだ。
返す刀で額を小突かれ、躰が自由を取り戻す私。
「先輩、腹括って」
何時に無く真剣な声色の卓也。
光弾を弾いた時に受けたダメージで熔解を始めた偃月刀を振り、鍛造し直している。
その視線は目の前の少女に油断なく向けられ、逸らされる事がない。
「ああ」
当たり前だ。
何時もの怪威ではない。
覇道の邸やインスマウスで戦ったアンチクロスですらない。
そう、そうだ。
目の前の少女は、
余りにも可愛らしい、美しいこの少女は、
人智で測れぬ存在である、この金色の化生は、
大いなる獣!
聖書の獣!
可能性の獣!
地球皇帝!
七頭十角の獣!
「ブラックロッジの大導師、マスターテリオン……!」
「そうだ! そして彼奴こそ妾の『敵』だ!」
「悪党以外にとっちゃ、大概敵になるお人だと思いますが……」
怒りを込めて叫ぶアルに、額に汗を滲ませて呟く卓也。
そんな私たちに、少女────マスターテリオンは大仰な素振りでお辞儀をする。
明らかにこっちを虚仮にしている態度だ。
「以後、お見知りおきを、マスター・オブ・ネクロノミコン。今日はアル・アジフが選んだ新たな術者と直に会ってみたくてね。こうして伺わせてもらったのだが…………成程、これまでの主と比べても、中々に優秀なようだ。……それに」
楽しげに細められた瞼の奥、マスターテリオンの黄金の眼差しが、魔導書と偃月刀を構えた卓也に向けられる。
マスターテリオンの興味は、マスター・オブ・ネクロノミコンの私ではなく、卓也の方に向いてしまったらしい。
「加えて、貴公の様な魔術師が助力していたとは、いやいや、見習い風情と甘くみるべきではなかったか」
「いえいえ、俺も未だ学生の身、大十字先輩と同じく見習いですよ」
「そう自分を卑下する事もあるまい。貴公もまた、独力で余の『頭』を退けてみせたのだ」
卓也の謙遜をマスターテリオンはばっさりと切って捨てた。
ここに来るまでに、卓也もアンチクロスの迎撃など、少なからぬ動きを見せてしまっている。
これまで通り、敵は見習いと油断させる事は難しいだろう。
その事を思ってか、卓也の顔に苦い表情が浮かぶ。
「できれば、死ぬまで甘く見ていて欲しかったですけど……ね!」
(先輩、アルさん、俺が次に動いたら全力で後ろに飛んで、それからデモンベインを招喚して下さい)
言葉に被せるように伝えられた卓也の念話。
そして私が何らかのリアクションを返すよりも早く、卓也は動いた。
手に構えていた偃月刀をマスターテリオン目掛けて投擲する。
偃月刀は投げられた瞬間、まるで最初からそうであったかの様に無数に分裂しマスターテリオンを取り囲み、斬撃波を放ちながら方位を狭める。
「余を相手にこのような児戯が────」
必中必滅の魔術が込められた、回避不能の超攻勢捕縛結界。
それを手の一振りで容易く打ち払い、全ての偃月刀を術式毎粉砕する。
反撃の魔術を放とうとするマスターテリオン。
「通じないんでしょう!?」
それに続けざまに攻撃を加える事無く、私と同じくその場から全力で飛び退く卓也。
僅かに訝しげな表情を浮かべるマスターテリオン。
その姿を照らす紅い夕陽が、唐突に遮られた。
《だったら、これはどうだよっ!》
エーテルを通じて増幅された聞き覚えの有る少女の叫び。
同時に、虚空から音もなく染み出す様に現れた黒鉄の巨人。
「どぇぇっ!」
「あれは、アイオーン!?」
あの声は間違いなく美鳥だ。
機神招喚ができたのかどうかよりも、どうしてこのタイミングで現れることが出来たのかの方が疑問、というか理由を想像すると怖いけど、それどころじゃない!
あの場所からマスターテリオンを攻撃するとなると、私たちまで巻き添えだ。後ろに飛べってのはこういうことかよ!
恐ろしい程の破壊力を秘めた大質量に威圧されつつ、急いでその場から飛び退く。
どこかデモンベインを彷彿とさせるその巨人が、炎を帯びた鉄拳をマスターテリオン目掛けて全力で振り下ろした。
《いあ!》
神を称える声と共に、拳に込められた術式の構成が複雑に練り上げられ、纏う炎の神氣が膨れ上がる。
《くとぅぐあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!》
極限まで作用範囲を狭める事で威力が増したその炎拳が、マスターテリオンに向けて叩きつけられる。
拳に隠れてマスターテリオンの姿は見えないが、着弾点の周囲は一瞬で蒸発し、その周囲も余熱で火に近づけた氷の様に熔解し始めた。
マズイ! まだ近い!
マギウスウィングを翔かせ一気に上昇しその場を離脱。
急激に熱され景色がゆがみ始め、マギウススタイル越しでも火傷するほどの外気。
「憎悪の空より来たりて正しき怒り胸に我等は魔を断つ剣を執る!」
灼熱の大気に喉と舌と肺を焼かれかけながら早口の招喚、私を中心に顕現するデモンベイン。
が、この時点で既にデモンベインは神氣の宿る炎の熱の余波に巻かれ、ヒヒイロカネの装甲は赤熱し僅かに熔解すら始めている。
「第四の結印は『旧き印<エルダーサイン>』! 脅威と敵意を祓うもの也!」
「ティマイオス! クリィティアス」
サブシートに実体を形成したアルが即座に防御結界を展開、私は断鎖術式を起動し宙を蹴り、更にその場から大きく飛び退く。
結界は過たず発動し、マスターテリオンを葬らんと放たれた一撃の余波を防ぐ。
ビルの上に着地し、遠見の術式を走らせたマギウススタイルとリンクしたデモンベインのカメラアイで爆心地、巨人──鬼械神アイオーンの拳が突き立てられたマスターテリオンの居た辺りを拡大する。
公園はまるごとクレーターと化し、生物の気配はまるで感じられない。
熔解した公園の地面やなにやらは、クトゥグアの炎ではなくアイオーンの拳打の衝撃で吹き飛ばされたのだろう。
「やったか? いや……」
口にしてから、それは有り得ないと直感する。
卓也と美鳥のやろうとしている事は解る。
あのアンチクロスを纏め上げるブラックロッジのボスである、大魔導師マスターテリオン。
私はそんなものと正面切って戦って勝てる実力はないし、それは卓也だって美鳥だって変わらない。
相手が油断して居る今のうちに、機神招喚を発動し鬼械神に搭乗するよりも早く、最大火力の不意打ちで仕留める。
そうでもしなければ、この勝負に勝ち目はない。
だからこそ、これまでブラックロッジ側の本気を出させない為に使用を控えていただろう機神招喚を使って、卓也が注意を引きつけ、美鳥が一撃を入れた。
だけど、多分、間違いなく『届いていない』
《先輩、武器を、いや、レムリア・インパクトの準備だけしといてください》
「わかってる」
ビルの上に立つデモンベインの隣りに、先の美鳥の物と全く同じ姿の鬼械神────アイオーンが飛行ユニットを稼働させて滞空している。
通信越しに聞こえる声は卓也の物だ。
「またアイオーンか……」
《使いやすい良い機体ですよね。流石ネクロノミコンの鬼械神》
「アル、追求は後にしてくれ」
美鳥が機神招喚を使えるなら、こいつが使えないのはおかしな話だ。驚くところでもない。
続いてもう一体、先ほどの美鳥のアイオーンがデモンベインを挟んで卓也のアイオーンの反対側に降り立った。
《ごめん、しくった》
見ればマスターテリオンに一撃を放った腕を肘先から排除し、美鳥のアイオーンは隻腕になっている。
自己修復機能(メリクリウス・システマ)によって再生しているが……完全回復するのを待つ事はできないだろう。
何故なら────
「────見事だ、余に魔導書を使わせるとは」
陽炎揺らめく爆心地。
本体から切り離されたアイオーンの腕が、ああ、ああ!
突き立てる筈だったその拳を『掴まれて』いる!
虚空から突き出す、紅い、夕陽より、血の流れよりもなお紅い、『鋼鉄の腕』に!
アイオーンの腕を握り砕く腕の傍ら、防御陣に守られ、煤一つ付けず、美しい金の髪を靡かせ、壮絶な喜悦の笑みを浮かべるマスターテリオン。
その傍らには、黒い少女────いや、私の直感が告げている、あれはアルと同じタイプの存在だろう。
「紹介しよう……先ずは、我が魔導書『ナコト写本』!」
墨を流したような黒い髪。
黒曜石のような瞳。
そして、黒いドレス。
ただ肌だけが、闇に浮かび上がるように、白い。
黒と白のコントラスト。
華奢な身体に、夢幻じみた雰囲気の、幻想的な少女姿の精霊。
だが男だ。少女の姿でありながら男であるという矛盾を、そのまま精霊のゆらぎと重ね合わせた存在。
突き出した左手は肘から先の関節が存在せず、まるで空間に飲み込まれるようだ。
その肘から先は、つまり、『魔導書が招喚する鬼械神』とリンクしている事になる。
虚空に生えた、あの左腕と。
「そして……これこそが余のデウス・マキナ、リベル・レギスだ!」
ゆっくりと、地面から迫り出す様に、空間を引き裂いて、それは姿を現した。
余りにも紅く、首の無い、人に似た四肢と、龍を思わせる翼を持つ、鋼の巨神。
機械の神、鬼械神、力そのもの。
これが、大導師、マスターテリオンの鬼械神……!
個体よりも尚濃密な密度でもって形成されたその姿が僅かに遠のく。
圧倒的な存在感に、私は意識せずデモンベインを一歩後退りさせていたのだ。
「貴公らのチームは腹立たしい程に優秀であった。しかし、そのお蔭でもっとも望ましい形に進んできているのはとても愉快だ」
水の中に沈むように、リベル・レギスの中に吸い込まれていくマスターテリオンとナコト写本の精霊。
私はその姿を見ながら、どうしてか攻撃を加える事が出来ず、惚けたように見つめていた。
「余の螺旋断絶素敵計画は、貴公らの強い命を以て、更に一歩前進することとなる」
マスターテリオンとその魔導書が完全にリベル・レギスに取り込まれる。
すると、まるで今までのリベル・レギスが屍であったかのように、その全身に更なる力の脈動が生まれ────装甲が、展開する。
「余の未来の為、いよいよもって死ぬがいい」
如何なる形容が正しいのか。
紅の悪魔。
紅の天使。
竜。
どれにも似て、どれにも似ない、リベル・レギスの顔(かんばせ)が露になった。
その無機質な瞳に鈍い魔力の輝きが宿る。
本当の戦いが、始まろうとしていた。
―――――――――――――――――――
僅かな、数秒にも満たない念話による作戦会議を終えて、戦場は動き出す。
最初に仕掛けたのはやはり卓也と美鳥のアイオーンだった。
片方のアイオーンの腕が一本、マニピュレーターも付いていない単純な物に変化している事を除けば細部の意匠まで完全の同一。
異なる術者が招喚した鬼械神としては有り得ないそれらは、その外見の相似性に違わぬ一糸乱れぬ連携で動き始めた。
一対の黒い機神が音もなく静かに、しかし激しくスラスターを吹かしビル街を飛翔する。
「術式選択────」
「ファイルロード────」
異なる掛け声、しかし魔導書に登録された術式へのショートカットとして設定されたという意味では同種の呪句(コマンド)により、二機の鬼械神の両腕には攻性の魔術が装填された。
「魔錐(ドリルスペル)!」
「ドールドリル!」
はたしてそれは偶然か連携か、異なる呪法により同時に形成される一対二機から生まれる計四器の魔術兵装。
純粋な字祷子により形成された魔力螺旋錐(ドリル)に、星喰らいの独立種族の力を借りて形成された魔術螺旋錐(ドリル)。
甲高い回転音を轟かせ、悠然と佇むリベル・レギス目掛けて大気を、いや空間そのものを穿孔して突き進む。
直撃すれば、如何な鬼械神の装甲も削り穿つ四点の錐撃。
迫る二体のアイオーンに対し、しかしリベル・レギスはゆったりとした挙動で右手を掲げる。
金色の光。
光の粒子が収束し、収縮し、結晶する。
握られたのは飾り気のない、しかし優美なフォルムの十字宝剣。
全高50メートルの鉄巨神の質量とそれを飛翔させる推力を載せ、物質化した魔力が激突する。
一度、二度、三度四度五度六度七度……
繰り返し交差する螺旋錐と宝剣。
亜光速にも達する回転速を得ている螺旋錐は、無駄な衝撃波を生み出す事無く、その全てを貫通力、破壊力へと変換し、リベル・レギスとその宝剣へと向けられ続けている。
一般に刃筋を通さなければならない刀剣の一撃に対し、回転により常に刃筋を逸らし続ける螺旋錐は天敵と言って良い程に相性が良い。
しかし、数の差では四対一のそれは明らかにリベル・レギスが優位を得ていた。
二機のアイオーンを駆る卓也と美鳥の連携が出来ていない訳ではない。
リベル・レギスの速度が特別早い訳でも無ければ、卓越した剣技で持って捌いている訳でもない。
だが現実として、リベル・レギスの剣舞に合わせ踊るように、二体のアイオーンの螺旋錐は容易くいなされている。
卓也と美鳥に取っては悪夢の様な状況だろう。
いや、組み合う事無く剣舞を続けるリベル・レギスとアイオーンを見つめる、第四の鬼械神が居る。
────デモンベイン。
人造の、正確には正調の鬼械神ですらないそれが、虎視眈々とリベル・レギスに一撃を打ち込む隙を狙っているのだ。
そしてそれは、アイオーン二機に乗る鳴無兄妹、そして大十字九郎とアルアジフの作戦でもある。
リベル・レギス、アイオーン、デモンベイン。
一見して、この三種の鬼械神の中では、デモンベインはあらゆる性能面で劣っているように見える。
だが、デモンベインに搭載された魔術兵装────近接昇華呪法『レムリア・インパクト』は、正調の鬼械神を相手にしても、ほぼ間違いなく一撃必殺を狙える威力がある。
しかし、これを作戦と言って良いものか。
確かに、レムリア・インパクトは必滅の一撃を放てるだろう。
だが、デモンベインそのものの機体スペックは驚く程低い。最弱と言っても良い。
純粋な馬力で言えば最低位の鬼械神にも劣るのが現実だ。
しかも、デモンベインを操るのは優秀で才気に溢れるとはいえ、未だ見習いの域を出ない大十字九郎。
対してリベル・レギスは純粋な機械の神の枠をはみ出した存在であり、ある意味では神そのものと言っても過言ではない。
そして、それを操るのは純粋な人間の魔術師では決して到達出来ない域に存在する《被免達人(アデプタス・イグセンプタス)》、大導師マスターテリオン。
そのような相手に、最強の鬼械神と名高いアイオーンが二体、純粋に足止めに専念したとして、デモンベインは一撃を加える事ができるのか。
何故、四人はギャンブル性の高いこの方法を取ったのか。
「こんのぉぉぉぉぉぉっ!」
螺旋錐によるラッシュが速度を増す。
破壊力を伴う魔力残像により、リベル・レギスを無数の光の円錐が取り囲む。
圧倒的な攻撃密度。
掻い潜るための隙間もないそれは、しかしリベル・レギスの振るう十字剣が振るわれる度にあっさりと砕けて輝く魔力へと還元されていく。
そして、鬼械神の限界を超えかねない速度での連撃に、アイオーンの全身が火花を散らし、小爆発と自己修復を繰り返す。
十字剣に切り払われ続ける螺旋錐は幾度となく砕け、しかし次の一撃を放つまでに再構築されている。
「あ、ぐっ……!」
卓也と美鳥、二人分の苦悶の声が鬼械神を通しエーテルを震わせる。
連続ではなく、常時行われる自己修復機能の行使と魔術兵装の構築、擬似連結状態となったアイオーンからのフィードバックは、術者の肉体と魂を過剰に蝕む。
そう長く続けられるものではない。
……何故、博打のような一撃に掛けたのか。
それは、その一撃にしか、自分達の勝利で勝負を決する手段が存在しなかったからだ。
これまでの修行の合間、鳴無兄妹が九郎に語って聞かせた自分たちの魔術師としての位階。
そこから予測されるアイオーンの最大火力は、どうにかこうにか逆十字の鬼械神に対抗できるできないか程度のものでしかない。
そうなると自然、術者の力量に左右されないデモンベイン独自の固定武器、最大威力の呪法兵装が切り札になる。
選択肢は、他に、存在しない。
「くそ、くそ、くそっ……」
それを理解しながら、九郎はそれでもコックピットの中、歯噛みするのを止められなかった。
自分とデモンベインで無ければ、あのマスターテリオンの駆る鬼械神を打倒する事はできない。
同時に、自分とデモンベインでは、あの三機の攻防の中に入り込む事すらできない。
何故、何故自分の力はこんなにも中途半端なのか。
噛み締めた唇を噛み切ったのか、唇の端から紅い雫が滴る。
マスター・オブ・ネクロノミコンとしての彼女を知る者達からは誤解されがちだが、本来の彼女は理性の戦士である。
本能的な直感、生命力の強さは確かに持ち合わせているが、魔術師としての彼女を支えるのは純粋に学習の積み重ねによる知識と、そこから導き出される論理的な答えだ。
力の弱い人間は、手持ちの材料を如何に効率良く使い生き残るかを考えなければならない。
特に、怪威と向き合い闘争を続ける魔術師になろうと思うなら、なによりもその事を忘れてはいけない。
これは九郎に限った話ではなく、ミスカトニック陰秘学科で数年カリキュラムを受け続けた魔術師見習いのほぼ全員に共通する特徴である。
死亡率が高いと言われるミスカトニックの関係者ではあるが、それを糧にして現在の陰秘学科の教育プログラムはサバイバビリティの上昇に重きが置かれている。
だからこそ、目の前で親しい者達が命を削り戦っていても、自らの仕事を忘れる事無く、隙を窺い続けていられる。
いや、窺い続けてしまう。投げ出す事が出来ない
本能に、助けに行きたいという直情的な欲求に従う事ができないのだ。
そんな九郎の苦悩を余所に戦いは進行する。
「どうした、些か息が上がっているのではないか?」
リベル・レギスを操るマスターテリオンの声。
先までと同じく、螺旋錐によるラッシュは繰り返され続けている。
だが、マスターテリオンの言葉の通り、その一撃一撃に込められた威力は比べ物にならない程力を弱め始めている。
既に二機のアイオーンは自己修復すらまともに機能せず、内部機関を剥き出しの状態のまま只管に両腕の螺旋錐を振るい、蹴りを放ち続ける。
満身創痍のアイオーン。
「些か飽いてきた、散り様を見せよ」
これまで螺旋錐を打ち払うのみだった十字剣が、一層力強く、殺意を込めて振るわれる。
一撃を受け止めた螺旋錐が、あっさりと断ち割られ、その先に存在したアイオーン毎砕け散る。
────まるで、ガラスを叩き割るかの様な音と共に。
今や十字剣に斬られたアイオーンだった物は、まるで砕けたガラスそのものにしか見えない破片だけを残して崩れ落ちる。
そして、その破片は余さず字祷子へと変換された。
「これは、まさか……!」
これまで見せなかった、マスターテリオンの焦りの感情が声に乗る。
「そう、その『まさか』だ!」
歓喜、いや、狂喜の感情すら滲む、卓也『一人』の叫び声。
同時、満身創痍のアイオーンの全身から、光り輝く魔力の糸が盛大に溢れ出す。
指向性すら与えられず、ただ量と頑丈さと柔軟性だけを求められて生成された『アトラック=ナチャ』の魔力糸。
津波と化した魔力糸に呑まれるにして拘束されるリベル・レギス。
「く……小癪な真似を……!」
糸の塊に呑まれながらも、十字剣を振るうが、切断された糸は即座に近くの糸と絡み合い、糸の海からの脱出の手立てにはならない。
伸縮性に富み、動きをあまり阻害しないが故に容易に抜ける事のできない柔軟な拘束。
そして、そんな糸の塊に呑まれたリベル・レギスを、デモンベインよりも遠く、雲の上、天の彼方より狙いを付ける鬼械神。
美鳥のアイオーンだ。
その手には、優美な装飾の施された銀色の回転弾倉式拳銃。
バレルとグリップを取り囲む様に展開された無数の、夥しい数の拡張術式による魔法陣。
色とりどりの魔法陣は無数に重なり合う事でその色を黒く濁し、銀色の回転弾倉式拳銃はおぞましい暗色の長銃のシルエットを得ている。
「狙い打つぜえぇぇぇぇぇぇっぇぇぇぇっっ!!!」
吠える。
天高く成層圏の向こう、宇宙空間、アーカムシティに立つ鬼械神全てが芥子粒程にも見えない距離からの超々距離狙撃。
いや、狙撃ではない。
銃口から放たれたのは、イタクァの術式が神性の分霊を宿して実体化した神獣弾。
直撃せずとも、掠めるだけで対象を凍結させる事ができる範囲魔術。
大気を風の神獣が引き裂き、粒子状の字祷子へと変換する。
無数の追加術式により拡散と加速の属性を付与された神獣の姿は既に元の姿を維持しておらず、地上へと降り注ぐ姿はさながら光の雨。
回避する為の空間を奪う為にほぼ全ての誘導性を捨て、無数の点による面攻撃。
そしてこれら全てがイタクァの神獣形態であり、凍てつく極低温の氷竜である。
着弾したが最後、僅かに残された誘導性能が正確にデモンベインとアイオーンを除け、リベル・レギスと回避運動に必要であろう空間を凍結させ、デモンベインが一撃を打ち込むだけの隙を生み出すだろう。
天から降り注ぐ無数の氷竜が大気中の水分を凍結させ、綺羅綺羅と輝く光の粒子を生み出す。
ダイヤモンド・ダスト現象だ。
まるで金剛石の欠片を散らしたかのような細氷、それを万を超え億を超える無数の氷竜が追い抜き、リベル・レギスに迫る。
しかし、蜘蛛の糸の中に居ながらにして、リベル・レギスは微塵も慌てる事無く十字剣を天に掲げる。
いや、それはいつの間にか煌びやかにして禍々しい装飾の施された金色の長弓へと変化しているではないか。
そして、リベル・レギスのもう片方の手には、いつの間にか一本の光の矢と、光の矢と同じ長さの黄金の剣。
「! させるか!」
その矢と剣に込められた術式からリベル・レギスの、マスターテリオンの考えを読んだ卓也のアイオーンが、両腕に二丁の紅い自動拳銃を招喚する。
クトゥグアの力の込められた魔銃の銃口がリベル・レギスへ向けられ、引き金が引き絞られる。
轟音の連打。
「無駄だ」
一撃でも当たれば並の鬼械神であれば半壊は免れられない無数のプラズマ弾を、しかしリベル・レギスは黄金の弓で無造作に打ち払いディスペルする。
続けざまに放たれたリベル・レギスの、大導師の重力結界に絡め取られ、その場で膝を付くアイオーン。
消耗からか、苦悶の声を上げることすら出来ない。
「見るがいい、愛しい妹の最後を」
既に氷竜の雨は降り注ぎ始めている。
だが、その極低温の豪雨を意にも介さず、天に、その向こうに居るもう一体のアイオーン目掛けて弓を構え、矢と剣を弦につがえ────
解き放つ。
如何なる技法によるものか、同時に放たれながら先行する七本の黄金の剣は氷竜の雨を素通りし、天空高くから未だ神獣弾を放ち続けていたアイオーンの両手、両足、両脇腹、そして額を貫く。
やはり黄金の剣に実体は存在しないのか、アイオーンに一切ダメージは無い。
だが、
「ああっ!」
いつの間にか背に迫っていた、まるで誂えられていたかのような、歪な十字形の小惑星。
七本の黄金の剣によって、美鳥のアイオーンは聖者の如く磔にされてしまった。
付与術式を阻害する術式すら組み込まれていたのか、アイオーンの手にあった闇色の魔銃は纏っていた全ての魔方陣を破壊され、元の優美な白銀の魔銃としての姿を曝け出し、取り落とされて地球へと落下を開始する。
そして、貼り付けにされたアイオーン目掛けて、一直線に迫る殺意の具現。
神威を持つ無数の氷竜をその余波だけであっけなく蒸発させ、重力の軛を引き裂きながら、雷の如く襲いかかる。
雷の如く、つまり、こと鬼械神同士の戦闘では考えられぬほどの低速で。
十分に目視可能で、避けられない速度ではない。
磔にされてさえいなければ、という前提があるが。
そして、今磔にされているという事実を覆す手段を、卓也も九郎も、そして、迫る矢の切っ先を見つめる美鳥も持ち合わせてはないのだ。
そうして、
至極簡単に、もったいぶる事すらなく、光の矢に動力炉毎コックピットを貫かれ、アイオーンは、
「お姉さん……、あたしの、Dドライブ────」
爆散した。
「ニ、美鳥ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!」
妹を殺された怒りからか、瞬間的に重力結界をディスペルし、リベル・レギスへと駆け出すアイオーン。
「う、お、おお!」
その腕には既に魔銃も螺旋錐も無く、両腕の中に抱えるは光の柱。
無数の魔術文字で編まれた魔術式の螺旋が、回転しながら収束し、瞬く間に金属の光沢を帯びて物質化する。
槍とも銃とも付かない棒状の武器。
『呪文螺旋・神槍形態』
アイオーンの持ちうる武装の中では、最大の威力効率を叩き出す呪法兵装。
神の力すら容易く制御し、本来であれば必殺の武器足り得るそれで、
「な、に?」
ただただ頑丈でシンプルな拘束魔術を零距離から放つ。
光の縛鎖で構成された魔法陣が、リベル・レギスの腕を、腰を、脚を、雁字搦めに拘束する。
術式を維持し続けるアイオーンごとその場に固定され、拘束魔術の副次的な作用により魔術の発動を阻害されるリベル・レギス。
「せんぱいっ! 今だぁぁぁ!」
呪文螺旋に縋り付くように立つアイオーンから、卓也が喉よ裂けよとばかりに叫ぶ。
その声に応答する暇すら惜しみ、デモンベインが空を疾駆し、リベル・レギスへと肉薄する。
「光射す世界! 汝ら暗黒、住まう場所無し!」
震える声で必滅呪法の呪言を唱える九郎。
美鳥が死んだ。あの馬鹿でブラコンで嫉妬深くて、でも何処か憎めない少女が。
あの憎まれ口を聞く事は、もう二度と出来ない。
でも、膝を折り泣き崩れる時間は無い。
「乾かず! 飢えず!」
一番傍に居た卓也が、一番長く共にいた卓也が、悲しくないはずがない。
それでも、卓也はマスターテリオンを倒すために、必死にこの時間を稼いでいる。
泣き出したい筈なんだ。叫びたい筈なんだ。
でも、そのどれもする事なく、卓也は自分の仕事をこなしている。
なのに、全てを任されて、安全な場所でひたすら成り行きを見守っていた私が、責任を放棄する訳にはいかない。
義務感に、怒りに、悲しみに背を押され、
「無に、帰れ! レムリア・インパクト!!」
デモンベインのやや大振りな右掌の一撃が、リベル・レギスへと叩き込まれた────。
―――――――――――――――――――
叩き込まれた、確かに、レムリア・インパクトはリベル・レギスに過たず直撃した。
その筈だった。
確かに、リベル・レギスが構えた『右手刀』に、直撃したのだ。
「────不思議なものだ」
必殺の一撃が込められていた右掌を、腕の半ばまで右手刀で切り裂きながら、傷一つないリベル・レギスの中、マスターテリオンは子首を傾げながら小鳥の囀りの様に愛らしい声で囁いた。
「余のリベル・レギスの奥義、極低温、負の無限熱量の刃、ハイパーボリア・ゼロドライブの対極たる武装が、その鬼械神のなりそこないに搭載されているとは」
白く焔えるリベル・レギスの手刀。
その手刀より伝わる冷気を伴う瘴気が緩慢に、しかし確実に、デモンベインの全機関を余さず灼き尽くす。
その場から倒れる事もなく、立ち尽くしたまま動きを止めるデモンベイン。
リベル・レギスの手刀が右腕から引き抜かれ、しかしコックピットの中の九郎も微動だにしない。
「あ、ぁ……?」
余りの、余りにも余りな現実に、思考が追いつかない。
美鳥が命を散らしてまで稼いだ時間が、卓也が魂を削ってまで稼いだ時間が、その全てが無駄になった。
最初から、無駄だった。
「なんという……圧倒的すぎる……」
アルの闘志は消えていない。
だが、現実として今のデモンベインに打つ手は無い。
この場の支配者は、リベル・レギス。
その操者であるマスターテリオンに他ならない。
「さて、大十字九郎よ」
リベル・レギスの掌が、術者が力を使い果たし、その場で徐々に消滅を始めているアイオーンに向けられる。
「貴公には見所がある。故に、今後の成長に期待し、一つ良い物をお見せしよう」
向けられたリベル・レギスの腕が半ばから折れ、黒い砲口が剥き出しになる。
砲口の先に、小さな闇の塊が生まれた。
鬼械神の装甲であるオリハルコンすら容易く砕く、超高重力弾。
それは徐々に、徐々に徐々に、膨張を始めた。
そして、鬼械神をまるごと飲み込める程の重力球が完成する
「! 止めろ!」
マスターテリオンの意図を察し、凍結していた思考を解凍、静止の声を上げる九郎。
しかし、デモンベインは未だもって動くことはできない。
コックピットハッチを中から叩き、叫ぶ。
奇跡的にコックピットの中にまでは瘴気は及んでいないが、冷気により霜を張る程には冷えている。
九郎の拳がハッチに叩きつけられる度、マギウススタイルの九郎の手の皮が張り付き、剥がれた。
皮の剥がれた手から血飛沫が飛び、それでも、九郎はコックピットハッチを叩き続ける。
「止めろ、止めろ、止めろ! ……やめてくれ、それだけは、やめてくれよぉ……!」
内側からハッチを叩き続けながら、とうとう膝を着き、今にも泣き出しそうな表情で哀願すら始める九郎。
しかし弱々しい九郎の哀願はマスターテリオンに届かない。
戦う為の全ての機能を停止されながら、デモンベインのカメラは淡々と九郎の視界に絶望的な光景を写し続ける。
瞼を閉じてもなお途絶える事なく伝わる外の映像。
「さぁ、見るがいい。これが、敗者の末路というものだ」
マスターテリオンの宣告と共に、膨張を終えた重力弾は抵抗する事も出来ないアイオーン目掛け、解き放たれた。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
天は雲が覆い尽くし、氷土で覆われた廃墟は、街の遠くから雲を反射して届く薄明かりで照らされていた。
デモンベインのコックピットが、ゆっくりと開かれる。
しばしの間を置き、マギウススタイルの九郎が這い出すようにして姿を現した。
倒れるようにデモンベインから飛び降りる。
半ば自失した九郎の意志とは関係なくウィングが羽ばたき、ゆっくりと主を地上へと送り届け、マギウススタイルが解除された。
そのスカート姿は、激しすぎる戦闘の後とは思えない程傷一つ、皺一つ無い。
「九郎……」
その後ろ姿を見ながら、アルは声を掛けようとして、なんと声をかければ良いのか躊躇い、口を紡ぐ。
九郎はそれに気付かず、立ち尽くすアルから離れていく
薄暗がりの中、ふらふら、ふらふらと、もはや公園の面影もない荒野を、亡者にも似た足取りで歩く。
何も無い、何一つ残っていないこの場所で、何か、大事な忘れ物を探す様に。
「……?」
こつり、と、爪先に何かが当たる。
焦点の定まらない瞳で、足元を見下ろす。
銀と紅の、何か。
なんとなくそれを拾う為に膝を曲げしゃがもうとして、そのままぺたりと氷の地面に座り込んでしまった。
座り込んだまま立ち上がるでもなく先ほどよりも近くにある銀と紅に手を伸ばす。
伝わるのは冷えた温度に硬い鉄の感触。
銀と紅のそれは、二丁の魔銃。
美鳥と卓也が最後に使っていたアイオーンの魔銃、その原型ともなる彼ら特有の魔導兵器。
「……」
二つの魔銃を手に取り、次第に九郎の脳髄が働き始める。
何故?
なんでだろう。
今日は、息抜きの為に卓也と映画に行って、ショッピングをして。
疲れるまで遊んで、それで終わりだった筈なのに。
次の日にでも美鳥がハンカチを噛み締めながら詰問したりイヤミを言うのを辟易しながら受け流したり、そんな、何気ない日常の一コマで終わる、ありふれた一日になる筈だったのに。
残っているのは、こんな鉄の塊が二つだけ。
「卓也……美鳥……」
ぽたり、と、水滴が大地を打つ。
数滴が地面を濡らすだけだったそれは、瞬く間にその数を増やす。
九郎は両手に魔銃を手にしたまま、天を仰いだ。
雨。
天から降り注ぐ透明な弾幕が、罪も罰もない、無辜の少女を打ち付ける。
何故だろう。
少し前まで、あいつと手を繋いでいたのに。
また明日と、言っていたのに。
明日もスカートで行って、驚かせてやろうと思ったのに。
手を繋ぎたい相手を、隣りに居て欲しい人を見つけたのに。
お気に入りにできたかもしれないスカートは、雨と泥に塗れて。
あいつと繋いでいた手は、こんな冷たい鉄の塊を握りしめている。
「卓也……卓也……卓也……」
雨に濡れ震える唇が、親を探す迷子の様に、ただ一人の名を紡ぐ。
雨が地面を叩く音だけが虚しく響く中、叫ぶ事も泣く事もせず、虚ろな瞳で曇天を見上げていた。
続く。
―――――――――――――――――――
王大人「死亡確認!」
そんな訳で、ほぼ全編に渡ってデート描写な第六十五話をお送りしました!
まぁ自分、デートとかあんまり詳しくないんで超雑な描写しかできませんでしたが……。
でもせっかくなので自己弁護しますが、所々にデート描写をどうにかしようと努力した後が垣間見れるんじゃないかな、と思います。タブンネー。
え、なに? もう少し努力して見せろ?
デートできる恋人か、せめて異性の友人の一人二人居ればねぇ……、努力できたかもわからんねぇ……。
あと、クリボーが言っていた様に性的に酷い目に合ってるのはあまり興奮できませんが、大事な物を失ってしまって目からハイライトが消える展開は大好きです。
こう、むりやり処女を奪われるとかじゃなくて、目の前で大事な人が死ぬ系のイベントとか、もう。
Q,結局なんで大十字は主人公がオカズになっちゃったの?
A,身近な所で一番接触の多い男性で、なおかつ何度か危ない所を助けられているので吊り橋効果が抜群です。
Q,スカートとか、あざとい……。
A,ええ、そりゃあざといですよ。いけませんか?
Q,ていうか、姉でもない相手にプレゼントするような殊勝な奴だったっけ?
A,レアケースですが、ありえます。例えばスパロボ編でメメメとデートするような話があれば、グラサンのお返しに何かプレゼントくらいはした筈。
まぁ、この時点では少なからず大導師の意向を汲んでいる、というのもありますが。
Q,大十字視点の大導師の描写が大人しくない?
A,金色ですが、この時点で大導師はそれほど絶望してないので多少スレたなりの輝きはあります。
Q,大導師と主人公等のパワーバランス全般。
A,演出です。文句はどちらかと言えば筋道考えた人へ。誰とは言いません。バレバレでも決して言いません。
↑の五つが今回の自問自答です。
これ以外に何かありましたら感想板の方に。
感想板の方にお願いします。
お知らせ。
今少し実生活の方立て込んでおりまして、二月の半ばまで纏まった執筆時間が取れるか微妙なところです。
文の書き方を忘れない為にちょくちょく時間を見つけて書き続けるつもりではありますが、それでも次回更新まではひと月以上かかるかもしれません。
ご了承下さい。というか、次回更新までにこのSSの存在をなるべく忘れないでいてくださいね。
それでは、今回もここまで。
誤字脱字に関する指摘、文章の改善案、設定の矛盾、一文ごとの文字数に関するアドバイス、改行のタイミングと数の割合などを初めとするアドバイス全般、そして、長くても短くてもいいので、作品を読んでみての感想、心よりお待ちしております。