×月◇日(ユニバーシティ)
『予定された通りに大学生活は始まった』
『次はあんただ、大十字』
『あんたは何せ美人なTS主人公だ、このミスカトニック大学では目立ち過ぎるよ』
『からかいの手を逃れるにはな』
―――――――――――――――――――
自慢になるが、私は勤勉な学生だと思う。
小さい頃からのオカルト趣味があった事を差し引いても、同じ学年の連中よりも物覚えも良かったし、魔術に関する理解も早かった。
二年に上がる前に秘密図書館への入室と『本』の閲覧、所持を許されたのは伊達じゃない。
元が優秀だったという事を差し引いても、努力を怠った事は無い。
才能に努力を重ねた私は、入学後しばらくしてから陰秘学科の主席に居座る事に成功していた。
同じ学年に、私と競い合える者は居なかったと言ってもいい。そう、『同じ学年に』私と張り合える者は居なかったのだ。
「メンチカツじゃねえか」
ちらりと、向かいの席から聞こえてきた声の主に視線を向ける。
向かいの席に座る男は私に見向きもせず、アーミティッジの婆さんから貰った差し入れを頬張りながら、古い装丁の本を読んでいる。
魔導書、だろうか。それほど力は感じられないから古い物では無いと思うけれど。
「……深きものどもの遠縁の……」
クロケットを掴んでいた指先を舐めながら、彼は机の上に開いた本に目を通し、時折内容を確認する様に小さく呟いた。
こいつと個人的に話す様になってから気付いた、ちょっとした癖。
こいつは考え事や新しい知識の収集をしている時、内容を部分的に口にする。
それこそ、こういう物音ひとつしない静かな場所で無ければ聞き逃してしまいそうなボリュームで。
……勿論、それがこいつの隙に繋がる、という訳では無い。
隙が無い人間は嫌われる、というフレーズは良く聞くけど、こいつは隙が無いというより──
そう、図太い。
公私の区別を付け、『公』ではそれなりに分別を付けるのだが、『私』に分類される場所での行動はかなり奇天烈。
そして、このミスカトニック秘密図書館はこいつにとって少しだけ『私』寄りの『公』である為か、人目の数次第ではかなり好き勝手始める。
「む」
今も次のクロケットに狙いを定めながら、何事か思いついた様に机の下の鞄に手を突っ込み始めた。
そして、鞄から取り出され机の上に置かれたのは、いかにも最新式っぽい雰囲気を漂わせた炊飯器。
……少し意表を突かれたが、多分まだましな方だと思う。
私はこいつが鞄からパジャマ姿で布団にくるまれた妹を取り出した所を目撃した事があるのだ。
それに比べれば、炊飯器の一つや二つ、驚くに値しない。
驚くには値しないのだが……、
(うまそうだなー……)
今この瞬間に腹が鳴っても、私はそれを恥と感じる事はできないと思う。
ここアーカムシティにおいて米は珍しい食品では無いが、パンやパスタと比べれば多少値は張るし、調理時間もかかる。
一人暮らしとはいえ、高校まで母の手伝い以外では料理を殆どした事も無く、大学に入ってからも学業に明け暮れて食事は簡素なものばかりを取る様になっていた。
リューカさんの所に食事をたかりに行く事が無いとは言わないけれど、経営の厳しそうな孤児院にそう度々食事をたかる訳にも行かず、雑だったり簡素だったりする食事が普段の食事として定着している。
栄養バランスに気を付けてはいる。
けれど何だかんだ食っても、やっぱり私は島国の農耕民族である事を思い知らされるのだ。
特に、湯気を立てて仄かに甘い香りを漂わせる炊き立ての白米なんてものを見せられたら。
「やっぱ、メンチカツには米だよな……」
しみじみと呟くこいつに、私は心の中で勢いよく裏拳を叩きこんでいた。
(お前は、何食っても米だろうが)
常に祖国の味を忘れないこいつの愛国心に、心の中だけで突っ込みを入れる。
「お前さぁ……」
……つもりだったのだが、思わず突っ込みの頭が口から飛び出してしまった。
米に視線を奪われ、口の中で舌が震えていたせいもあって、私の発言は目の前のこいつに何かを言おうとする前振りの様にも聞こえた。
「は?」
私の言葉に視線も向けずに短音で答えた男。
こいつの名は、鳴無卓也。
私の入学に一年遅れて入学した、ミスカトニック大学陰秘学科の一年で……、
「もぐもぐ」
…………こいつ、返事はしたけどまだ食ってやがる。
むしろ返事をしてから改めて食べ始めやがった。
しかも、満足そうに一口目を口にしたと思ったら、何故か今は悔しそうな表情で咀嚼している。
訳が分からない。今その表情をするべきなのは私だろどう考えても。
「何、いきなり悔しそうな顔してんのか知らないけど、図書館は飲食禁止だろ」
そう遠まわしに食事を中断する様に言ってみるが咀嚼は止まらず、茶碗も箸も手から離す気配すら無い。
だが、視線だけは私の方に向かせる事に成功した。
切れ長の、むしろ率直に言って目つきが悪い吊りあがった目。
ただ見ているだけで睨みつけられた気分になりそうな眼の印象は、しかしその周りの目とは不釣り合いな素朴な作りの穏やかな顔で打ち消される。
そうでなくても、今は口の中に大量に頬張ったご飯で頬が膨らみ、咀嚼する度に頬袋を変形させている為か、酷く間抜けな顔に見える。
「へっはふほひひふははひはひへふほ」
たぶん、『折角の美人が台無しですよ』とでも言っているのだと思う。
正直あまり嬉しくない。
私自信、自分の容姿にはそれなりに自信があるし、人から褒められるのにも実は馴れている。
身体の凹凸だって自画自賛してもいいレベルだと思っているし、実際良く視線を感じる。
だけど、こいつの称賛の言葉には欠片もそういった、好色の感情が含まれていない。
本気で、掛け値無しのただのお世辞だ。
いちいち嫌らしい視線を向けられるよりはましだと考えれば、そう悪いことばかりじゃないと思う。悔しくはあるが。
「……褒められてんのは辛うじて伝わったから、さっさと片付けろよ」
個人的には少し悔しいけど、その御世辞に含まれた意味は分かる。
ここはお世辞を受け取って、多少なりとも態度を軟化させてくれ、と言いたいのだろう。
私だってそう長時間こんな目つきで居たくはない。
ついでに言うと、こんな腹が減ってる状態で延々人の食事とか見て居たくない。
……悪い、嘘言った、ついでの方がメインだ。腹減った。
私の言葉に頷き、卓也はお椀によそわれたご飯とクロケットを急ぎ腹の中に納めてしまおうとしているのか、食事の速度が上がった。
だが、割と行儀がいい。咀嚼の速度も上がっている筈なのだが、決して雑な食べ方にならない。
もごもごという咀嚼の音や、箸がお椀に微かにぶつかる音こそ聞こえるが、それも汚いとは感じさせない何かがある。
むしろ食事の勢いが増した事により、食べている米とクロケットがさっきよりも更に美味しそうに見えてきた。
もしかしたらこいつ、ご飯を美味しそうに食べる才能もあるのかもしれない。
御茶漬けのCMにでも出るつもりかこいつは……!
「あのな、私は、『片付けろ』と言ったんであって、『完食しろ』と言った訳じゃないんだぞ?」
わかってるか? と続けながら、私は内心で頭を抱えた。
やっちまった……。いくら腹が減ってるからって、後輩に当たっちゃダメだろ。
いくら最近はパンの耳が度々売り切れてたり、猫やイタチの轢死体が少なかったからって、言い訳にもならない。
こんな事になるなら、噂のバリーさんの肉屋でも探しておけば……。
だが、私の葛藤など欠片も感じ取っていないのか、卓也は気にした風も無く食事を終え、あまつさえプラスチック製のボトルに詰められた緑茶で口の中を濯いでさえいた。
図太い、本当に図太過ぎる。私の声は届いている筈なのに、欠片も気にした風に見えない。
こういう姿を見せられる度、私はどうしてかこいつに謝ろうという気が失せてしまうのだ。
「アーミティッジ博士がここに差し入れてくれたんですから、今この図書館は飲食オッケーなんですよ」
プラスチックのボトルを揺らし、中の緑茶をちゃぷんと波立たせながら、ふふんと鼻を鳴らし、何故か自慢げに私の問いに答える卓也。
どうやら聞こえていなかったとか理解していなかったとかでは無く、純粋に私の忠告が的外れだと思っていたらしい。
私は自慢げな卓也に対し、内心の脱力を隠しながら返答する。
「いやいやいや、どう考えても『家に帰ってから皆で食べなさい』って事だろ。お前は人の言葉を都合良く受け取り過ぎ」
最も、この答えだって私の願望混じりである事は否めない。
図書館に来たタイミングから婆さんの差し入れがこいつの物になったのは仕方が無いとして、それならそれで私の目の届かない所で食べて欲しい。
三食のうち一食をエアパスタにしないといけなくなりそうな現状じゃ、その差し入れは目の毒なんだよ……!
妬ましさを隠しながら、せめて先輩としての威厳を保つために図書館の常識と照らし合わせた見事な私の返答に、しかし卓也は決定的に互いの立場を決定付ける返答を、行動で示した。
まだ卓也が手を付けていないクロケットが山の様に盛られた皿の入った籠を、笑顔で私の前に静かに押し出してきたのだ。
「そう堅い事を言わないで、アーミティッジ御婆ちゃんの特製クロケットでも食べながら話し合いましょう。ね? 大十字先輩」
そう来たか……!
ヤバい、少し今のはキュンと来た(胃袋に)
その心遣いに(胃袋の)ドキドキが止まらない。
だがここではしゃいだりがっついたりする訳にはいかない。
私はこいつの先輩なのだから、多少なりとも落ち付いた所を見せねば。
そう、買収には応じたくないけど、後輩の頼みだから渋々手を付ける的な感じで。
そしてさりげない感じで一週間分程度は喰い貯めしておくのがベスト。
「ま、まぁ、そこまで言うなら、私も一つ貰うけどよ」
むしろ一皿貰いたいけど、それは今は置いておく。
邪神の子供にも屈しない強靭な精神力で、緩みそうな表情を引き締め、はやる気持ちを抑えクロケットの山に手を伸ばす。
ああ、衣もカラッとしてて、脂っこくてカロリー高そうだぜ……!
箸やフォークも、きっと卓也に頼めば出してくれるだろうけど、そんな悠長な事はしていられない。
「あ、あと勘違いされたら困るから言っとくけどな、私は決して食い物に釣られている訳では無くて」
「どぞ」
台詞を遮る様に卓也が更にクロケットの入った籠を押す。
私は無意識のうちに手を伸ばし、遂にクロケットの山から一つ、クロケットを掴む事に成功した。
冷めているけど、それでも衣がしなっとしていない、まごう事無きアーミティッジの婆さん特製クロケット。
齧り付く。
冷めているからか肉汁があふれ出る事は無かったが、私が口にしたクロケット──コロッケは、ひき肉の大量に詰まった、非常にメンチカツに近いものだった。
(久しぶりの、食用の肉……!)
駄目だ、これは泣く。これは私じゃなくても泣く。
造ってくれたアーミティッジの婆さんの、そして譲ってくれた卓也の情けが胃に染みる。
俯き、涙を堪えながらしっかりと味わう様に、クロケットを咀嚼する。
噛めば噛むほど味が出てくるような、そんな素晴らしいクロケット。
醤油やソースをかけるまでも無くしっかりと下味の付いた、しかし肉本来の味も失っていない挽肉に、それを優しく包み込むカリカリでザクザクな少し目の粗い衣。
「先輩」
卓也の声に顔を上げる。
反射的に顔を上げてしまったけれど、眼に涙が浮かんでいたりはしないだろ、う、か……。
「中身が違うとはいえ、揚げ物だけだとどうしても堂々巡りしてるみたいじゃありません?」
卓也が新たに差し出していたもの。
それは、紙皿に乗せられた、丸身を帯びた三角形の、ほかほかと湯気を立てる、おにぎり。
球状のそれを少しだけ三角形に近づけた様な米の塊に、パリッと力強い焼き海苔。
卓也の問いに答える余裕は消え失せていた。
私はメンチカツを持っていない方の手で皿の上のおにぎりを鷲掴み、下に敷かれた焼き海苔毎、一口齧り付く。
──私は、気が付くと秘密図書館の天井を仰ぎ、その視界を揺らめかせていた。
(美味過ぎる……! 殺人的だ……!)
これが、これが、これが『米』だ。
『米』の文字に『アメリカ』とルビを振るなんて、恐ろしくこの食品を馬鹿にした行為だったのだと確信を抱いた。
これがまた、非常に『温かく』なおかつ『甘い』!
米の甘さと言われるやつだ。
この僅かな、なんとなく食べていたら気にならない程の優しい甘みは、冷めたメンチカツの程良い塩加減と絡み合う事で相乗効果的にその存在感を確かなものとして確立させている。
パリパリの海苔も、その食感だけではなく、僅かに香る磯の匂いが爽やかさを演出している。
片手におにぎり、片手にメンチカツを持ち、交互に貪る様に、しかし決して噛む回数も味わう時間も妥協せず。
一口ごとに最低でも五十回噛んで、飲み込んでから数秒余韻を味わい、次の一口。
そんな平和で幸福な繰り返しを、おにぎりとメンチカツが手の中から消え失せるまで繰り返し──
「どうぞ」
「さんきゅ」
──生温かい視線を向ける後輩から熱いお茶を渡された段階で、私は遂に正気に戻ってしまった。
「ほわっ!」
思わず受け取った湯呑を手の中でお手玉。
不味い、いや、差し入れのクロケットもおにぎりも美味かったけど、味覚とは別の部分が不味い!
落ち付いた所を見せなければとか言った傍から何してんだ私は!
―――――――――――――――――――
差し出したコロッケと手渡したおにぎりを結構な時間を掛けて味わい尽くした大十字だったが、熱々の茶を渡した直後から挙動不審だ。
中にまだ茶の入ったままの湯呑でお手玉を始めたと思ったら、眼をぐるぐると回して混乱しながら、身ぶり手ぶりを交えて喚き始めた。
「ち、違うんだこれは。これはパン食文化に対して日本含む米飯食文化の素晴らしさが中々世界に浸透しない事への憤りから来るものであって」
などと意味不明な供述を繰り返しており。
いやさ、むしろ明らかに意味が通り過ぎて言い訳になっていない
「そうですか。では此方のデザートどうします?」
デザートなどと言いつつ、俺が鞄内部の亜空間から取り出したのは、和菓子の盛り合わせだ。
いや、一押し商品としてエキソンパイやままどおる、更にメジャーどころでちんすこうに白い恋人なども混ざってはいるが、過半数が和菓子なので和菓子の盛り合わせで合っている。
ちなみに、萩の月は俺の中で高級菓子に当たるので盛り込まれていない。
飯食えて無い胃に豪勢なもん入れたら腹壊しそうだしな。東京ばななも同上。
「うぅっ!」
呻き声と共に言い訳を止め、ぐるぐると焦点が定まっていなかった視線が菓子の盛り合わせに向け固定された。
湯呑を持っていない方の手(コロッケの衣の欠片と油が指先に付着している)をふらふらと盛り合わせに伸ばしかける大十字。
目からは当然の様にハイライトが消えている──などと、エロゲ染みた状態では無い。
むしろ葛藤に揺らめく感情がありありと見てとれる。
俺と大十字は机を挟んで向かい合わせで座っており、俺は盛り合わせを微かに差し出している。
秘密図書館はそもそも一度に大量の利用者を入れるようにはできておらず、閲覧者用の机もさして大きなものは存在しない。
それは今俺と大十字が座っている椅子と、間にある机も変わらない。
躊躇わずに手をぐいと伸ばせば、一秒と必要とせずに大十字の手は盛り合わせに突きこまれ、多くの和菓子その他菓子を手に入れる事が出来る筈だ。
だが、それはあくまでも大十字が躊躇うことなくその手を伸ばす事が出来れば、という大前提が成立してこそ。
だが現実においては、大十字の手は時間にして一分を置いても和菓子の盛り合わせに指先すら届かせていない。
ここで大十字の手を押し留めているのは、大十字の中に僅かに残された『先輩としての矜持』とか、あるいはTSする事で発生した『女性として守るべきライン』だ。
そして、留める力と拮抗し、手を完全に引っ込めさせない力は『食欲』もしくは『最も深き飢え(ラスボス格、当然逃げられない)』となる。
留める力は生命がある程度の知能を得て、そして人間が男女の性差などから学び手に入れる知性から生まれる拘り。
対して進める力は、命が命として生まれ死ぬまでの間、常に命そのものに寄り添う力の塊。
これはつまり、一つの問いである。
人間と言う種が産まれてから十数年で学ぶ拘りは、はたして全生命が数十億年連れ添った本能を打ち果たす事が出来るのか。
大十字は湯呑をゆっくりと机の上に置き、空いた手で盛り合わせに伸ばされた腕をがしと掴み、ゆっくりと、手元に引き戻した。
均衡を崩された腕は、未だ前に進まんと抵抗を続けているのか、掴まれながらもぷるぷると震えて名残惜しそうにしている。
「え、遠慮しとくわ」
震える大十字の声と共に、一つの戦いに幕が下りる。
千を超え進化を続けた人類の究極、白の王。
その理性は、生命の生み出す本能を凌駕したのである。
無事、本能の猛りを理性で抑えつける事に成功した大十字。
大十字はその顔に引き攣った笑み、今にも泣き出しそうな顔を無理矢理圧し固めた泣き笑いの笑顔で、告げる。
「だって、わ、私、これでも先輩なのだぜ?」
強がりのウインク、閉じた片目の眼尻に涙が浮かんでいる。
いやぁ、今までも大学生続けているわりに様々な理由から欠食気味の大十字を見てきた訳だが、これはまた格別だ。
よくぞ耐えきった。全米ナンバーワンの感動を俺に。
なんていうか、良い根性だ、感動的だな。
[From]美鳥
[Sub]美人で我慢強いのね
[Main]嫌いじゃないわ!
携帯ではなく、脳直で受信したメールに心の中で頷く。
そう、この大十字先輩の努力は無意味になんてならない。
理性が本能を乗りこなすこの状態は、正に魔術師としての基本スタイル。
何時の日か必ず、この積み重ねが無限の螺旋を打ち砕くのだ!
ところで美鳥はどこからこの状況を覗き見ているのだろうか。
「それにほら、私、だ、だいえ、」
くぅ、と大十字の腹から可愛らしい音が鳴る。
が、大十字先輩はその音を華麗にスルー。
精神的に追い詰められ過ぎてリアルに聞こえていない説もあるが。
今にも崩壊しそうな笑みを、ギリギリの所で決して崩さず、台詞の続きを言いきった。
「ダイエット中、なんだよ……!」
血を吐く様な言葉と共に、その誇りを貫き徹す。頬には一筋の涙。
ふふふ、今の大十字先輩ちょっと美しくってよ?
なので、
「先輩」
あえて、盛り合わせを差し出す。
一瞬の驚きと、僅かな怒り。
貫いた筈の意思を揺らがせてしまった事への情けなさもあいまってか、盛り合わせから目を背ける大十字の顔はほんのりと紅潮している。
否定の言葉は出てこない。
目の前のそれから視線を逸らすだけで、大十字の精神力は精いっぱいだったようだ。
だから、俺はほんの少しだけ、背中を押してやるだけでいい。
「ダイエットは、栄養が足りている人がするものです」
俺が出せる、最大限のJIHIとKANNYO(カン・ユーではない)の心を籠めた言葉。
「欠食児童の先輩に、そんなもの、必要ありません」
大十字はハッ、と息を呑み、顔を上げる。
そんな大十字の顔の前に、花を差し出す様にして、半分だけ包装を剥いたままどおるを差し出す。
ミルクがたっぷりと使われた、母親の温もりを思い出せる優しい味わい。
スペイン語で『乳を飲む人々』という意味を持つ名は伊達では無い。
「……糖分とって、一緒に健康について考えましょう」
「あぁ……、そうか、そうだな」
苦笑と共に、大十字は差し出されたままどおるを、おずおずと両手で受け取った。
「なぁ、卓也」
「なんです、先輩」
胸元には、両手で受け取ったままどおる。
僅かに充血した瞳と、頬に残る乾いた涙の跡に彩られた大十字の顔は、
「キンッキンに冷えた牛乳、頼めるか?」
「──それ位、お安い御用ですよ」
照れくさそうに、でも、満面の笑みを浮かべていた──。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
後日談になるのだが。
「いいか、あれは奨学金とか生活費が入る前の危険な時期だったからこその気の迷いというか腹減ってる時にあんな真似されたら誰でもああなるというかそもそも絶対に確信犯だよなお前!」
図書館でのお茶会から数日。
生活費が振り込まれた事によりまともな食生活を一時的に取り戻した大十字が、がっつく様にしてお菓子をモリモリと頬張ったりした事や、
遠慮会釈もなく牛乳のおかわりを頼み、更に差し入れのクロケットの残りを物欲しそうな眼で見つめた挙句、会話の中にアナグラムされた『おにぎりほしい』の文字列を挿入し、
最終的に数日分にもなるおにぎりとクロケットをお土産に持ち帰ったりした事を弁明しようとして。
「──先輩なのだぜ☆」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁやめてくれぇぇぇっぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
絶妙なタイミングで美鳥の声真似(半泣き状態の声の震えまで再現)による自分の強がりを見せつけられ悶絶。
ゴロゴロと地面を転がる大十字を見て事情を聞いてきた他の学生に事情を説明する事によって、大十字の周囲からのイメージが、
『人当たりの良いスタイリッシュなエリート美人』
から
『金欠気味でちょっと可哀想な腹ぺこキャラ』
にほぼ完全に切り変わったのは、その後のループには一切関係無い出来事である。
……本人には言わなかったが、金欠だろうが欠食だろうが、あの状況であそこまで楽しいリアクションを取ってくれる大十字は、少なくとも世間一般で言う『普通』の範疇には決して収まらないだろう。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
私の出生は特筆すべき所の無い、ごくごくありふれたものだ。
父は何処にでも居る会社員、母は主婦。
二人は特に特別な出会いをした訳でも無く、なんてことない出会いで、何の変哲も無い恋愛を通して仲を深め、ごく当たり前に結婚した。
そんな何処にでもある家庭に、何事も無く祝福されて生まれてきたのが私だった。
普通の父に普通の母、そしてその子供である普通の私。
あえて人と違う所を挙げるとすれば、小さな頃からオカルトにかぶれていた事だと思う。
無趣味な母の数少ない趣味である、占いやお呪い。
それを教えて貰ったり、母が独身時代に買い集めたオカルト本なんかを読んだり。
父もそんな母と私の事を呆れながらも楽しそうに見ていたり、仕事の帰りにその手の本をお土産として買ってきてくれたりもして。
占いや呪いなんていうと女の子向けのイメージがあるけど、家にあったその手の本は様々な分野をカバーしていた。
他にも神話伝承、精霊信仰、民間伝承を纏めた専門書なんてものも含めたら、大学でちょっとした論文を書けてしまいそうな量の資料が揃っていた気がする。
……そう考えると、人に知られていないだけで、結構おかしな家族だったのかもしれない。
ともかく、私は小さな頃からオカルト──魔術に触れて育っていたと言っても良い。
父のお土産や母の蔵書の中には、極々僅かながらも真に迫った内容の魔導書も紛れていた。
有名どころである『金枝篇』なんかにも目は通した事がある。……日本語訳された簡易版の文庫本だったけれど。
当然、その頃に魔術行使ができた訳でも無いし、自分がそっちの道に進むだなんて高校時代までは考えてもいなかった。
こっそりとオカルト趣味を続けていたけれど、頭の中にあった未来図は同級生と大差ない物だったと思う。
転機が訪れたのは、高校卒業直後。
両親が死んだ。
中学の半ば頃に親父の仕事の都合でこの国に渡り、一年も経たず、親父は神経症を患って死んでしまった。
母さんもまた、残された私が不自由しないよう、せめて高校位は卒業できるようにと学費を稼ぐ為に仕事を多く入れ、疲労が祟ったのか病に倒れ、そのまま呆気なくこの世を去っていった。
丁度十八の頃だ。
頼れる親類も無く、異国の地に一人きり、正真正銘天涯孤独。
手元に残されたのは僅かばかりの遺産と、平凡なハイスクールを卒業したという経歴だけ。
親父と母さんの位牌と、質素な家具が置かれた借家に一人。
これからどうするかと途方に暮れていた私の元に、一通の手紙が届いた。
アーカムシティにあるミスカトニック学園からの、誘いの手紙だった。
―――――――――――――――――――
『君は、魔術師になるんだ、大十字君』
かつて、様々な誓約書に同意してミスカトニックへ入学した私に、ミスカトニック大学の学長が言った言葉だ。
何の事は無い。つまるところ、この大学は最近復古しつつあった錬金術、その根幹に関わる技術である魔術を教える機関でもあったというだけの話。
その時は、だからどうした、としか思えなかった。
何しろ、ここで大学からの誘いを蹴っていたのであれば、自分はどうなってしまうのか分からない。
バイトで食い繋ぐにしても限界があるし、それも不可能になったなら、先に浮かぶビジョンは暗いものでしか無かったからだ。
繰り返し言うが、私は人並み以上に優秀な生徒だったと思う。
一年では碌に実習が無いにせよ、それを差し引いても十分過ぎる程に、私は自らの能力を見せつける事に成功していた。
勿論、狙いは優秀な成績を収めた場合に送られてくるという報酬だった。
質素な暮らしをしていたけれど、それでも私も年頃の女子である以上、お金はあって困る物では無い。
実際に手元に入ってきたお金は微々たるものでしかなかった。
だけど、その報酬が振り込まれる頃には、私は魔術という知られざる世界の一面にどっぷりとはまり込んでいたので、報酬の少なさもさして気になりはしなかった。
周りに比べて自分が優れているという点で、自尊心も擽られていたのかもしれない。
私は寝る間も食事の時間も惜しみ、魔術の勉強に没頭していた。
……そう、『勉強』だ。『修行』ではない。
今思い返してみれば、我ながら随分と可愛らしい勘違いをしていたものだと思う。
あらゆる魔術の研鑽は、知識の収集よりもなによりも、実践の中でこそ磨かれ光り、その深遠に近付く事が出来るものだと、当時の私は理解していなかった。
だが、知識の収集だけで小器用に魔術の腕を上げ続けていた私は、挫折を知らなかった。
だからこそ、本格的な命の危機に陥るまで、その間違いに気付く事ができなかった。
初めて秘密図書館への入室を許されたその日、私は折れた。
知識ではそういうものであると知り得ていた、片手で数える程だが、シュリュズベリィ先生に連れられて実習で見た事のある怪異。
それに遭遇して、私は何もできなかった。
出来ないとか、出来るとか、そういう話にすら出来なかった。
決して人類では理解する事の出来ない宇宙的怪異。
魔術師としては雛にすらなっていなかった私は、只管恐怖に震える事しかできなかった。
……まぁ、未だ魔導書の一つも所有していない、習いたての魔術師見習いなら、あんなものと出くわして生き残っただけでも十分幸運だったのだけれど。
ともかく、天狗になっていた私の鼻は、本物の怪異の脅威を感じる事で、根元からぽっきりとへし折れた。
へし折れたと言っても、それで大学をやめて魔術との関わりを断った訳じゃない。
私は、自分が神の如く優れた存在であるという思い込みを捨て、地道に魔術の研鑽を積むようになっていった。
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だけど人間の心ってのは複雑に出来ているもので。
神にでもなった様な全能感が無くなっても、『自分は人よりも優れた才能がある』という考えは、どこか抜けきってはくれなかった。
上を見上げるだけの矜持を折られると、人間ってのは自然と下を見始めるらしい。
今まで只管自分の修業や勉強だけに力を注いでいた私は、その頃から同期の連中の勉強を見てやったり、魔術理論で分からないところがあったらアドバイスをしたりする様になっていた。
親切心が無かった訳じゃないが、結局のところ私は、下を見る事で自分が上である事を再確認して、心に余裕を持っておきたかったんだろう。
アーミティッジの婆さんやシュリュズベリィ先生に言わせれば、まともに戦う術も知らずにあんな化け物に会っておいて、まだ懲りずに魔術に関わり続けているだけでも大したものらしいが、それでも私のそんな後ろと下に向いた自尊心は褒められたものでは無い。
そして、学年が上がって初めて行われた課外授業。
私は、改めて自分の立ち位置を見つめ直す切っ掛けを手に入れた。
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∇月λ日(バトル・フィールド・ワーク)
『入学直後のミスカトニック大学陰秘学科の課外授業で起こった、想定外の出来事による学生たちの危機』
『教授や学生たちの準備不足と思われたこのアクシデントだが、この出来事が大十字に残した何かは結構根が深い』
『排ガス混じりの雨が眺められる学食の窓際で、あの時の経緯をしみじみ思い出すなんざ……クロウ、あんたも結構暗いぜ』
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
少し離れた場所で尻もちを付いた女学生の背目掛けて、手に馴染んだ備中鍬を軽く振り下ろす。
備中鍬特有の三本の刃から放たれた氣の斬撃が、女学生の身体をすり抜け、その向こう側で今にも女学生に襲いかからんとしていた人型へと炸裂する。
直撃はしていない。放たれた氣の斬撃は人型の持つ剃刀と鋏によってぎりぎりの所で防がれている。
まぁ、牽制程度に放ったものだから当然だろう。
なにしろ、俺は今日が初めての顔見せだ。
まともに大学で魔術を学んで実戦も課外授業で積んできた先輩方が苦戦している怪異を瞬殺なんてしたら、またぞろ目を付けられてしまうに決まっているのだ。
「あ、あんたは……?」
「ちょっと下がっててくださいね」
先ほどまで怪異に襲われて尻もちを付いていた女学生が、立ちあがりながら誰何の声を掛けてきた。
俺はその問いには答えず、女学生の負傷具合を少しだけ確かめ、回復用の符を投げつけ、傷口に張りつける。
流石は関西呪術協会の総本山に務めていた巫女の知識を元にしているだけあって、中々の回復力だ。剃刀で切り付けられたと思しき傷がみるみる内に消えていく。
正直、ネギま世界で取り入れた技術の中では、関西呪術協会の技術が一番応用性高い気がするなぁ。
そんな事を考えながら、先の斬撃を受けて後ろに下がった怪異と女学生の間に割り込み、鍬を構える。
思えばミスカトニックでこの課外授業に出席するのも久しぶりだ。
アーカムの結界の歪みから生まれる霊的吹き溜まり、そこに人の思念が混じり合って発生する程度の低い怪異は、ミスカトニックの見習魔術師に実戦経験を積ませるには最適の力を持っている。
だが、目の前のこれは少し曲者。
普段の講義で学生達が相手にするのがドラクエ的に例えてスライムから一角兎程度の強さと仮定した場合、こいつは成熟期のデジモン程のパワーを秘めている。
「スウィーニー・トッドか、懐かしい顔だ」
目の前で不安定に揺らぐ輪郭が、俺の言葉と共に安定し、顔色の悪い理容師の男の姿をはっきりと形取る。
毎度の如く起こっているアーカムシティ連続行方不明事件。
それと時を同じくして復刊された、十九世紀初頭に活躍したという設定の殺人鬼が出てくる小説。
目の前の怪異は、事件の犯人を小説に登場する殺人鬼と重ね合わせた人々の無意識で形を固定された雑多な悪霊と瘴気の集合体。
なまじ復刊した小説がヒットしてしまったが故に人々の無意識が雑霊や瘴気を束ねる力も強く、平時の怪異と比べても存在強度が段違いだ。
「さて、どう戦うかな」
だが、ここで問題になるのは敵の強さではなく、敵の脆さだ。
俺は今人間の魔術師形態を取っており、あくまでも常識が許す範囲の魔術師としての力しか持っていないが、それでも最大攻撃力が段違いだ。
この力の差で瞬殺せずに、いかにもそれっぽく戦っている風を装うのは並みの事では無い。
マニュアル操作のMSで赤ん坊の頭を潰さない様に撫でる様な、そんな繊細さが必要になってくる。
「おい、いくら何でも一人じゃ」
女学生の台詞が全部終わるのを待たず、様子見として最小レベルで飛ぶ斬撃を放つ。
鍬を振るった軌道に沿って、刃の数だけ飛んで行く氣の斬撃。
振り下ろし気味に放たれた飛ぶ斬撃は僅かに怪異の一部を削り取り、そのまま路地裏のアスファルトを削り、覇道の地下施設を少しだけ破壊して、数キロ先で自然消滅。
「つ、通じてる?」
そりゃ、頭に『なんちゃって』とか付けたくなる感じのものでも、一応退魔の術なのだから通じない訳が無い。
なんちゃって退魔戦術──京都神鳴流の数少ない利点は、その技の理屈の単純さと、物理作用にある。
ぶっちゃけ、単純に悪霊やら怨霊やらを退治したいのであれば、それこそ巫女やら覡(かんなぎ)に神楽鈴でも振って貰えば済んでしまう話な訳で。
そういった意味で言えば、払う魔が物理的肉体を持ってる場合が大半のネギま世界の退魔術は、やはり物理的作用が無いと消滅させ難いデモベ世界怪異と相性がいいのかもしれない。
……もっとも、相手の格が上がれば上がるほど、今度は神鳴流の術にしてはシンプル過ぎる構造が仇になるから、あくまでも雑魚散らし用の技にしかなり得ない訳だが。
だが、今回わざわざ普段使わない神鳴流を持ってきたのはデモベ世界の怪異に対して、これが一番有効だからという訳では無い。
この京都神鳴流、全体的に秘剣も奥義もエフェクトが激し過ぎるので、どこからが辺り判定でどこからが視覚効果だけなのか判別しにくいという欠点がある。
この派手なエフェクトは要するに気の収束効率が悪い時に起こる現象で、例えば雷光剣や雷鳴剣などで広範囲を薙ぎ払い敵を一掃したつもりが、見た目の射程ギリギリに居た敵が殆ど無傷で混乱する、という事が、実戦経験の少ない戦士に良く起こるとか起こらないとか。
今回はそれを逆手に取って、利点として利用する。
当り判定が五十センチ幅の斬撃の収束率を甘くし、見た目の斬撃の幅を百五十センチ程に見せかける。
この状態で、五十センチ幅の端っこが攻撃対象に引っかかる様に切りつけるとしよう。
すると、実際の攻撃判定が分からない人間が見た場合、百五十センチの斬撃が直撃したにも関わらず、敵は殆ど斬れていない様に見える。
見た目のエフェクトの割に、威力はどうって事の無い攻撃だと思いこませる事が可能になるのだ。
更に言えば、中心に仕込む斬撃はかすらせるだけなので、うっかり力加減を間違えても余程軟な敵でなければ一撃で消滅する事も無くなり、手加減もしやすい。
最初から幻術か何かで誤魔化せば良いと思われるかも知れないが、それでは万が一ばれた時に言い訳を考えるのが面倒臭い。
だが、ここで京都神鳴流を先程の要領で使えば、修行が足りなくて技が見掛け倒しになっていた、と言い訳が至極簡単になる。
大学でまぁまぁのポジションを手に入れつつトラブルも無くのんべんだらりと過ごすという目的を果たすのに、京都神鳴流は正に打って付けの技術なのだ。
「美鳥、行くぞ。適度にな」
俺の声に、周囲の怪異を誘導してきた美鳥が気軽に答える。
ここの怪異は一般的な邪神崇拝種族と比べて数も然程ではないし、力も大したものでは無い。
だが碌な対抗手段を持たない二年生では苦戦するだけの力と数はある。
新人である俺と美鳥の力をある程度印象付けるには持ってこいという訳だ。
「オッケーお兄さん。緩くやろうか」
丸鋸型の偃月刀を複数鍛造し従わせている美鳥を従え、曇天のアーカム路地裏で、俺は改めて戦闘を開始した。
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私が捨てきれなかった自尊心は、より正確に言えば『少なくとも同年代で私に匹敵する才能の持ち主は居ない』というもの。
勉強を見たりアドバイスをしたりというのは、同年代の彼等、彼女らが知らない知識を自分は持っていて、理解できない物を理解できるという事の確認。
まぁ、その頃の私は『同年代であれば、魔術を学んでいる年数もさして変わらないだろう』という良く分からない思い込みをしていたから仕方が無いのかもしれない。
よくよく考えれば分かる事だ。
私が入学から幸先の良いスタートダッシュを切れたのは、幼い頃から趣味レベルとはいえ事前に魔術に関する知識を多少仕入れていたという理由がある。
なら、幼い頃から実戦を前提とした魔術の訓練を受けている連中が居ても何も可笑しくはない。
少なくとも、この世の全ての魔術師が大学で魔術を学んでいる訳では無い以上、それは常識以前の当たり前の事だ。
そんな当たり前の事を考えていなかった私の目には、実習中に現れた闖入者の戦いぶりは、まるでファンタジー小説の中に放り込まれた様な光景に映った。
トライデントの様な何かを振り回し、明らかに間合いの外に居る怪異を切りつける男に、無数の丸い刺々しい刃物を自在に操り、怪異の移動を妨害しながらダメージを与える少女。
二人はともに、眼にも映らない速さで怪異の間を駆け抜け、数度の実戦を乗り越えた私達でも苦戦した怪異をみるみる内に殲滅してしまった。
『紹介しよう。今度新しくミスカトニック大学陰秘学科に入学する事が決まった、君達の後輩だ』
大学への帰還後にシュリュズベリィ先生から伝えられた彼等の正体は衝撃的だった。
多少なりとも戦えるようになったと思っていた私を危機から救ったのは、まだ入学して間もない、一つ下の後輩だったのだ。
『あたしの名前は鳴無美鳥だ。趣味は悪趣味とサブカル全般とお兄さん、好物は身体に悪い化学物質とお兄さんの手料理とお兄さん、特技は茶々入れと嫌味とお兄さんのサポート全般。そこんとこヨロ』
『初めまして先輩方。俺の名前は鳴無卓也。趣味は園芸と手芸とサブカル全般と魔改造と姉さん、好物は姉さんの手料理とジャンクフードと姉さん、特技は超理論に屁理屈のこじつけと違法コピーと海賊版の作成と姉さんの手伝い。若輩者ではありますが、どうかご指導の程よろしくお願いします』
目付きの悪さと名前から一発で兄妹と分かる二人の新入生。
シュリュズベリィ先生の肝入りで入学したこの二人は、自分達とは違い、長い間実践と
実戦を通じて魔術の研鑽を積み続けていたらしい。
……その話を聞いた時点で、素直にこいつらの事を魔術においては一日の長があると、素直に認める事ができれば。
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「…………大十字先輩」
私は声をかけられ回想を中断、声の主に視線を向ける。
視線を向けた声の主は、今まさに頭に思い浮かべていた二人の内の片割れ。
ここ一月程で散々魔術関連で散々突っかかった相手。
「はぁ……」
自然と疲労からくる溜息が零れた。
「別に人の顔見て溜息吐くな、なんて言いやしませんけどね」
顔を見られるなり溜息を吐かれたにも関わらず、こいつの態度は変わらない。
別にこいつが私からの評価を鼻にもかけていないからという訳じゃない。
魔術の知識や実践で突っかかり続けた私は、気が付けばミスカトニックで一番こいつらと親しい間柄になっていたのだ。
今や私は、講義が重なった時はこいつらの面倒を見る役目を押し付けられている。
大学に居る時間の半分以上をこいつらと一緒に過ごしているのだから、気易くなるのも仕方が無いだろう。
「別にお前の顔を見て憂鬱になった訳じゃねえよ。……気ぃ悪くしたか?」
「いえ別に。正直、俺が話しかける前から、食堂でも人気スポットとして名高い窓際の特等席を占有して頬杖突いて『私アンニュイです』と顔面にペインティングしてやりたくなるレベルの表情で窓の外眺めてる時点で理解してましたから」
「お前、『親しき仲にも礼儀あり』って知ってるか?」
「俺と先輩って親しかったんですか?」
「……………………」
「ジョークですよ。そんな顔しないでください」
私はどんな顔をしていたというのか。悪びれもせず肩を竦める卓也の顔を見て、改めて疲労の溜め息を吐く。
こいつのこういう所は疲れるけど、別に本気で嫌う程のものでも無い。
中学頃からアメリカで暮らしているとはいえ、こういうどうでもいい軽口を母国語で話せるのは気楽でいい。
散々突っかかって分かった事だけど、こいつらの魔術に関する知識は本物。
精神的疲労をマイナスとして考えても、こいつらとの付き合いはプラスの方が大きい。
それに、
「どうかしましたか?」
卓也の顔に、眼に視線を向け見詰めると、卓也は僅かに首を傾げて頭に疑問符を浮かべた。
「んにゃ、なんでもねぇ」
──そう、こいつは私の事を、欠片も異性として意識していない。
これを言うと自慢になるのだが、私が目を見詰めると男は結構な確率で頬を赤らめて目を逸らすか、何かを勘違いして距離を詰めようとしてくる。
だが、こいつは微塵もそんな素振りを見せない。
少し前はその事実に女性としてのプライドが多少傷つきはしたが、今現在の私はその事に安堵を覚えている。
別に男性恐怖症という訳ではないが、身体がなまじ人より顔の造形や肉体の女性的な凹凸に優れているだけに、男からの無遠慮ないやらしい視線を集める事は多い。
一度も身体に目を向けられた事が無い訳でも無い。
自己紹介の時に頭の天辺から爪先まで、五秒ほどかけてじっくり眺められた事はある。
だがそれはどちらかと言えばボディラインではなく、服飾の方に意識が向いていた気がするのだ。
『やっぱそういうセンスなんだよなぁ。しまむらーにでもなればいいのに』
などと口の中でぽつりと言われたのは記憶に新しい。
……しまむらーという言葉の意味は分からなかったが、ほんのり侮辱されている気がする。
しかし無遠慮に性的な視線を向けてくるよりは良いと思ったので気にしないでおいた。忘れもしないと思うが。
「今この近辺でボディラインの豊かさを自慢した女が居た気がして」
「気のせいじゃないか?」
唐突に私の背後に現れ、息のかかりそうな距離でそんな事を呟いた美鳥にも、今では冷静に対処できる。
それほどまでに、私はこの一月でこいつらと親交を深めているのだ。
「あと、お兄さん」
美鳥が頬を膨らませて卓也に近づいて行く。
何時もなら微笑ましいを少し通り越して微妙に気持悪いレベルで兄にベタベタな美鳥にしては珍しい態度だ。
「あ、悪い忘れてた」
だが卓也は美鳥がそんな態度を取る理由に思い当たる所があったのか、頭を掻きながら美鳥に軽く謝罪をした。
これは、一心同体という言葉が似合うこの二人にしては珍しいかもしれない光景。
そんな少しレアな光景を見れて得した気分の私に、卓也は表情を改め口を開いた。
「先輩」
ここ一月では、というか、初めて会った時の怪異との戦闘でも見せなかったシリアスな表情に、私は知らず背筋を伸ばし身構える。
「言い忘れてたんですけど、さっき食堂のおばちゃんが『あの娘、御冷だけで何時間粘るつもりなのかしら……』ってぼやいてましたよ」
「う」
シリアスではなくシリアス()だったらしいが、痛い所を突かれた。
今日の講義は午前中で終わり、学食に入ったのは昼の十二時。
現在時刻は、午後の講義も大半が終わって夕方の十九時程。
その間実に七時間、私は何を注文するでもなく、無料で提供される水やお茶を飲み、貴重な栄養素である塩分や糖分を舐めて過ごしていた。
本当は十五時頃になったら切り上げて帰ろうと思っていたのだけど、急に雨が降り始め、帰るに帰れなくなってしまったのだ。
特に十六時から十八時にかけての二時間は地獄だった。
他の連中が次々とメニューを注文し、食事を終え学食から消えていく中、私は只管に品書きを引っ繰り返して何を注文するか迷うふりをしてその場を凌ぐしか無かったのだ。
そりゃ、最後の一時間にはストレスも溜まって、鬱々と後輩に突っかかっていた頃の事を考えてアンニュイな気分にもなるというもの。
「もーほんと勘弁しろよー。お前が出禁喰らうとなんかあたしらまで巻き添えなんだぞー?」
美鳥は先程まで卓也に向けていた不満そうな表情を私に向けて文句を言う。
だが、一応私にも言い訳がある。
「今日は、傘忘れてたんだよ。雨が止んだらすぐ帰ろうとしてたさ」
「大人しく濡れて帰れよ」
「ちょ、おま、ひっど!」
真顔の美鳥が放つ余りにもスパルタな意見に驚愕していると、卓也が鞄から傘を取り出し差し出してきた。
……男物の大きめな傘なのだが、あのさして大きくない鞄にどうやって納めていたのだろうか。
「先輩知ってましたか? 置き忘れられた傘は基本的に学園側に回収されるんですけど、一定期間を過ぎると廃棄処分って事で欲しい学生にタダでくれるんです」
「仮にも一年この大学で過ごしてるんだから、それ位の事は知っててもおかしくないと思うんだけどなー」
これには返す言葉も無い。
一年の頃は終盤まで超エリート才女気取りだった私は、決して大学で交友範囲が広いとは言えなかったし、自分が完璧であると見せる為、常に折り畳み傘くらいが持ち歩いていた。
そんな理由から、普通なら二年に上がるまでに手に入りそうなミスカトニック大学の陰秘学科が関わらない部分の情報について、私はあまり詳しく知らない。
「なんだよなんだよ二人して。そーだよそーだよ、どーせ私は勉強にしか目が行かない女だよ」
言われなくても分かってるっての。
腹いせに御冷もう一杯おかわりして、そのまま閉店まで粘ってやろうか。
すっかり氷の融けた水差しからコップに水を注ぎ、中の水を半分程飲み干してから、再び頬杖をついて窓の外に視線を逸らす。
既に太陽は完全に沈んでいるが、脚元も見えない程の暗闇、という訳でも無い。
街灯だってあちこちにあるし、分厚く空を覆う雲がアーカムの街の放つ光を反射して薄っすらと地上を照らしている。
人目の多い所を選び、街灯の途切れない道を選んで歩けば特に問題なく家に帰れるだろう。
問題があるとすれば、未だ雨は止まず空を覆う雲は八割方が暗雲である事。
そして私の借りている安アパートはアーカムの特に寂れて奥まった部分にある為、帰り道ではどうしても街灯が無い道を通らなければならない事。
その程度だ。その程度。
……なんとか大学に泊まれないかな。
「お送りしますよ」
「あ?」
どういう風の吹き回しだろう。
こいつとの付き合いは決して長いとは言えないが、それでも自分から率先して異性のエスコートをするような男ではない筈だ。
いや、私の事を異性として意識していないのだから、こいつの中では『異性を家に送る』という感覚ではないと思うのだが、それにしても進んで人の世話を焼くタイプでも無いような……。
「先輩には何時も迷惑かけていますからね、行方不明事件も解決した訳じゃありませんし」
「これからも迷惑かけると思うから、先行投資と思って素直に送られろよ」
ほんのり感動する間もなくオチを付けられた。
だが、よくよく考えてみなくとも分かる事だけど、これはもしかして、私に負い目を感じさせない為の言い回しなのか。
「まったく」
こいつらは同郷なだけあって、雑談が気楽だ。
変な視線を向けて来ないから、余計な気を回さず付き合える。
その癖、変な所でこちらを妙に気遣ったりして。
「行こうぜ、有り難く送られてやるからさ」
やっぱり私は、こいつらの事がまだ苦手だ。
だから、秀才として、苦手なものは理解して克服していかなきゃな。
―――――――――――――――――――
……………………
…………
……
「お疲れ様でーす。ヘルプ入りに来ましたー」
「オツカレチャーーンッ! 差し入れのプリン持って来たぜー!」
大十字と別れ、夕食を食べ、姉さんと風呂に入り、くつろぎ。
姉さんが眠りに付いたのを見計らって、俺と美鳥はブラックロッジ下っ端専用十字覆面の改造品を被り、市街地で仕事中のブラックロッジの皆さんと合流した。
「お疲れー。わざわざ悪いね、非番なのに」
俺より立場は下ながら先輩だと思われるブラックロッジ下っ端の人が美鳥からプリンの入った箱を受け取りながら挨拶を返す中、周囲の他の下っ端は雑談しながらも和気藹々と作業を続けている。
この人達は、ブラックロッジにおける魔術儀式や修行や研究に必要な素材を収集する為に勝手に編成されていたチーム。
俺達は少し前に通信機で呼び出され、急遽このチームの補助を任される事になったのだ。
「いや、俺達って基本週休七日の非常勤ですから、偶の呼び出し程度なら付き合いますよ」
基本的に俺達、 ブラックロッジに時間で拘束されてる訳じゃないし、姉さんが起きてる時間ならともかく、姉さんが眠った後の時間なら多少融通は利く。
元々今日は夜更かしをする予定だったし、どうせこの作業にしても二三時間もせずに終わる様なものだしな。
それに彼等──員数的に女性のが多いから彼女等か──はとある逆十字の肝入りで結成されたチームである為魔術師としての位階も低くはなく、銃火器や刀剣類、罠の作成や捕縛術にも優れているほんの少しだけスペシャルなチーム。
そんな彼女達が自分達だけで終わらせず、大導師直々の紹介で入社したとはいえ新人の俺達に作業を手伝わせようとしているのだ。
何か、とても人手が足りない感じになっているのだろう。
「んで、あたしらは何すりゃいいの? まさかトラックの運転なんて言わねえよな」
美鳥の問いに、下っ端先輩はぱたぱたと手と首を振る。
覆面を被っているから解り難いが、下っ端先輩は苦笑しているようだ。
「違う違う、そんな程度の事なら別の連中に頼むって。君等はあっち」
指さされた後には、無数の銃弾によって崩れ去ったレンガの壁と、四方八方に飛び散った血液、同じく飛び散り壁や床にこべりついた肉片骨片などの人体パーツ。
そういえば回収班の人等がトラックに積んでいたのは人間だったか。
でも、確か清掃専門の人がチームに組み込まれていた筈と思ったが。記憶違いはありえないし。
「や、清掃班の連中だけいきなり他の仕事に充てられちゃってさ」
「理由は?」
「クラウディウス様とカリグラ様がまた夢幻心母の中で喧嘩したんだって。巻き添えで馴れて無い子たちが通路汚しちゃって、その後片付け」
やれやれ、とでも言いたげに肩を竦める下っ端先輩。
逆十字への忠誠なんて、本人の居ない所ではこんなものである。
かぜぽはその辺頑張ってた気がするが、どっちかっていると忠誠とかじゃなくて親しまれてるって感じだし、仕方がないのかもしれない。
馴れて無い子達が通路を汚したというのは、前後の文章から推察するにその馴れて無い子達自信が通路の汚れそのものになってしまった、という事だろう。
馴れてくればあの二人の射程圏内に入ろうとは思わなかったのだろうが、そこら辺はご愁傷さまと言うしかない。
「事情は分かりました。壁も直しといた方がいいですよね」
「お願いできる?」
少しだけ申し訳なさそうな下っ端先輩に、美鳥が自らの胸をぽんと(『ぽよん』でも『どん』でもない、平均的な響きだ)と叩き、自身満々に応えた。
「あれくらいなら、チョチョイのジョイだよ」
だが、この時代このアーカムにジョイは売っていない。
「ほんとに? 差し入れとかまでして貰っちゃって、なんか悪いね」
その為、下っ端先輩は美鳥のボケをちょっとした言い間違いだと切り捨て、捕縛した市民の積み込みの方へと戻って行った。
美鳥は悲しみや悔しさこそ含まれていないものの、やるせなさの滲む表情で下っ端先輩の背中を少しだけ目で追い、諦める様に崩れた壁に視線を戻す。
「気にするな美鳥、あのネタは多分元の世界でもスルーされる確率が高い」
「それフォロー?」
「いや、さっさと仕事済ませて帰っちまおうって話」
なにしろ今日は記憶を一旦封印して夜通し終わクロを読むと決めていたのだ。
別にそれほど大事な用事でも無いが、仕事場の掃除に無駄に時間をかけるよりは余程楽しい時間の使い方だ。
「しゃーなしだねー……」
俺の言葉に、美鳥は肩を落としながら水流操作で飛び散った血液を壁と地面から引きはがし始める。
俺も砕けたレンガを一旦分解してから再構成し、無事な部分の壁に合わせて少しだけ劣化させ、はめ込み。
散らばった肉片を、ネズミをベースにしたブラスレイターな使い魔に処分させ──
「お」
使い魔が集団で、比較的大きな身体のパーツを運んできた。
成人女性の、腿から爪先辺りまでの部分だけが綺麗に残っている。
肌にしみや皺は無く、骨格と肉の付き方はほのかにTS大十字に似ていた。
手に取り、千切れた断面を少しだけ舐める。
大十字とDNAが一致しない。別人らしい。
つまり知らんやつの死体という訳だ。
「これはティベリウスさんのご機嫌取りに使おう」
ふう。
吐息と共にふきかけた金神の力やサイトロンエナジーその他の力を宿したナノマシンが、千切れた脚の時間を止める。
周囲の空間毎うっすらと黒く染まった脚を鞄の中に突っ込みつつ、思う。
今のところ付き合いの浅い大十字は、俺がこんな仕事しているなんて夢にも思わないだろうな、と。
それを知らせた時、どんな顔をするのか想像しながら、俺は清掃と修復作業を終わらせていった。
続く
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三分の一近くが前回ラストの場面の九郎視点っていう、そんな第五十七話だったんです。
五十七話内訳
①九郎は規律を気にしていた訳では無く、腹ぺこキャラなのでお腹がすいていた。※これでもまだ理性的な対応だった。
②基本的に誘惑には弱い。※九郎的には動物の礫殺死体にはチャームが掛かっている。
③九郎人生振り返っちゃってる!※回想は負けフラグ。
④主人公による雑魚相手のTUEEEは基本。※ブラスレイターの基本テクニック。
⑤生活費入金直後の九郎は、場合によっては学食のドリンクバーを頼める程の財力があるのだ!※今回はありませんでした。
⑥品書きひっくり返して七時間粘るさ。※最大で十五時間粘れる。
⑦新人ぽく社の先輩の下働きもする。※気分次第で断る。
二週間かけてこの量とかマジ切ないぜ。
でも生活優先なんで勘弁していただきたく。
TS編は落ちから決まってるのでしっかり終わらせられると思うし。
ちょいちょいブラックロッジ側での主人公の仕事ぶりとか書きながら、基本TS九郎の内心とか書いてく感じになるので、派手な場面は少ないと思いますが。
・自問自答の巻。
Q,なんで主人公は『またぞろ目を付けられる』とか言ってるのに派手に暴れてるの?馬鹿なの?
A,完全に力を隠すのは面倒極まりないので、腕利きの魔術師であるシュリュズベリィ先生未満学生以上という位置を確保しておきたかった。長期の外での講義とかでも無ければそれほど位階を高く見せる必要も無いですし。
ネタ少なくてごめんよ。
主人公視点が少ないと挟む部分が殆ど無いのよ。
ていうかラブコメ難しいよ。
現状じゃラブコメに到達してすらいないよ。
でも書くよ。
意地でも書くよ。
頑張るよっ。
今回もここまで。
誤字脱字の指摘、分かり難い文章の改善案、設定の矛盾、一行の文字数などのアドバイス全般、そしてなにより、このSSを読んでみての感想、心よりお待ちしております。