ふわりと、一人の少女が重力を感じさせずに宙を舞う。
主張の少ないシャツとズボンをまとい、髪を後ろにくくっている。大人びた印象を受けるが、よくよく観察すれば、彼女が意外に若いことに気づくだろう。
「よっ、と」
そのまま気流を操り数メートルの高さからエントランスに、トンと小さな足音を立てて降り立った。
場所は麻帆良の大魔境。そしてその少女は見習いながらも至高の師から技術を受け継ぐ魔術師だ。
その場所は大図書館の地下深く。
信じがたいことに本物の樹木に囲まれて蔦を這わせる手すりの前で、彼女は回りを見渡し、ひょいと木の影に隠れた扉に手を伸ばしてその入口をくぐり抜け、そのまま狭まった通路に迷いもせずに足を踏み入れる。
彼女の手から放たれる魔術の灯火が薄暗い通路を照らしている。
そのまま2,3の分かれ道を、ちらりと手元に視線をやっただけでくぐり抜け、一度も立ち止まることなく、通路を抜けでる。
大きな広間に出たあとは、まわりに位置する仰々しい石版やら目の前に並ぶ扉の上にある意味ありげな文字や、かすかに残る人の足跡とといったヒントを全て無視して、手に持った地図のとおりに星座の飾りが彫り込まれた扉の一つ選択して奥へと進んだ。
言うまでもないことであるが、地図があるということのアドバンテージというのは、探索において卓絶したものである。
特に迷路なんてものの中では、一枚の紙きれがその存在意義や状況を根こそぎ覆しかねない。
古来より戦時の地形図が機密とされ、迷宮の主がその経路を秘匿して、旅路の地図が旅人に高値でやりとりされたのは、それがそれだけの重要性を持つからだ。
ましてここは星図盤が意味を持たず、風の音すら排斥される地下迷宮。
それを証明するかのように、千雨は初めて足を踏み入れる図書館島の迷宮部を、地図を片手に信じがたい早さで攻略している。
道が隠されているくせにさも当たり前のように本棚の横に存在する案内板を見れば、ここ一体が歴史書から料理画集に家庭の医療と、乱雑ながら無駄に分類されている本棚であることがわかっただろう。
そうしたものに目を向けず、探索部が使ったものであろう人の痕跡などを彼女は順々に超えていた。
探索に慣れていない身でこうして目的地までをひた走るなんてのは、本来はどうやっても不可能だっただろう。
そう考えながら、少女は観光地めいた滝と手元の地図を照らしあわせ、その横にある休息スペースを見ながら、ようやく数分の一程度進んだという現状に息を吐き、
「……前の探検が夜通しかかったわけだ。ちょっと広すぎるだろ、これは……………」
数多の罠と神秘に守られた図書館島の深層で、そろそろ入口をくぐり一時間も経とうかという頃に、長谷川千雨がそうつぶやく。
第32話
「今日はありがとうございました、エヴァンジェリンさん」
「おもしろいところでしたねー」
エヴァンジェリン邸の地下室から上がりながらネギとさよが言った。
それを聞くエヴァンジェリンと茶々丸、そして茶々丸に抱かれるチャチャゼロが、そしてその後ろには古菲の姿もある。
なんだかんだと魔術師としての拘りもあったが、今日は情報のみということでさよたちも異界を作る宝珠の中に同行していたらしい。
ちなみに、彼女たちはエヴァンジェリンリゾートから出たばかりであるので、外面時間で一時間しかたっていないが、内部では観光で一回りどころか、一晩を通して食事と睡眠を、さらには古菲にいたっては修業場所の許可を巡ったエヴァンジェリンとの一悶着まで済ませている。
修業時間の捻出に頭を悩ませなくても良いこの施設の使用についての騒動だったが、結果を言えば、残念ながら古菲の使用許可は得られていない。
許可を願えば叶えられそうなさよについても、魔術師としてのこだわりのなさから一度足を踏み入れては見たものの、それを繰り返す可能性は少ないだろう。
「いかがでしたか?」
「修業する場所って聞いていましたので、ちょっと身構えてましたけど、すごく楽しいところでしたね。逆に疲れを取りに行った感じです」
「本来はあそこはマスターのリゾート施設ですので」
「魔法の修業は目立つからな。あそこがちょうどいいってだけだ」
皆を今に先導しながら茶々丸が口を添える。
「魔法の修業には基本的に広い場所が重要なようアルね」
「間合いの問題もあるが、飛び道具が主体だからな。ただあそこは広いから修練にも使えるが、本来の使い方ではない。あまり使っていなかったが、今回の件にはあっているだろう。本当はルビーの研究がらみで使っていたんだ。あそこは色々と環境が揃えられるし、魔法環境的にわたしが本気を出せるってのもちょうどいい。もちろん時間の都合もな」
「雪とかも見れるんでしたっけ? 入ったところは南国風でしたね。でも、エヴァンジェリンさんは吸血鬼なんじゃないんですか。プールとかありましたけど」
「そうですね。エヴァンジェリンさんは陽の光も大丈夫みたいですし」
さよの言葉にネギも頷く。
水泳は心肺強化運動における代表的な手法だが、あれはそんな目的ではあるまい。完全にただの娯楽施設である。
吸血鬼よりもキョンシーあたりに馴染みが深そうな古菲も、さすがに怪奇譚の大家中の大家である吸血鬼について、十字架とニンニクに並ぶ弱点についての逸話くらいは知っている。
流水はまだしも日光を苦手とするってのは正直どれだけ強くあっても弱点としてはでかすぎるだろうとつねづね思っていたのだ。
しかも学校に登校するとなっては、本来は夜間学校か通信教育の学校検定くらい選択肢はしかなかろう。
お話の外にも吸血鬼がいると聞いて疑問に思っていたが、やはりそういうところは克服しているらしい。
「わたしは日光を克服している。ハイデイライトウォーカーというのは陽光に耐えられるという意味ではなく、日光に影響されないという肩書きだ。と言うかその定義を守っていたら私は風呂にも入れなくなるだろうが」
もちろん夜間学校などに行くはずもないエヴァンジェリンがあっさりと答えた。そこに自慢げな雰囲気は一切ないままあたり、授業をサボって屋上で昼寝するだけのことはある。
そもそも彼女はナギの呪いがなければ学校になど通っていないのだ。
「はあ、日光に流水にと、あれですね、ルビーさんからならった吸血鬼さんとぜんぜん違う感じですね」
「まあそうだな。だからあのときの千雨とトラブったわけだし。……おい、何だその目は。ありゃ千雨が間抜けだっただけだろうが」
千雨とのトラブル、といった件を耳にして、なにか言いたげな視線を向けたネギにエヴァンジェリンが怒る。
「い、いえ。で、ですが、あれはエヴァンジェリンさんが千雨さんを襲ったのが原因なんですし…………」
「うるさいぞ! 仮にそうだとしても、話をややこしくさせたのはあいつだろうが!」
言い返すネギにエヴァンジェリンが怒鳴る。
先ほどまでさんざん殴られ吹き飛ばされ蹴り転がされてと、特訓と称していいようにいたぶられていたことを考えればいい度胸だ。
「ああ、確か明日菜や超がいっていた話アルね」
「そうだな。それにだな、そもそもそのお陰でお前の一件に千雨が絡むことになったんだろうが。あれがなければ、やつなら自分の力を隠し通していただろうしな。むしろ“そういう”ことについて、わたしに感謝してもよいくらいだ」
「えっ? で、でも、その……ボクは……」
「ほほう、言いよどんだな。自分の未熟っぷりでも自覚したか?」
一瞬反論が遅れたネギに攻勢を嗅ぎとったらしく、ニヤリと意地悪くエヴァンジェリンが笑い、即座に畳み掛けてくる。
うっ、とネギが気圧される。
「うー、それよりわたしは一回千雨さんに連絡しておきたいですね。一日ぶりですし、結局中に入ったからそのことをお伝えしないと」
言い争いを微笑ましく見守っていたさよは我関せずといった佇まいのままひょうひょうとしている。
エヴァンジェリンと千雨の初会合については、あの一件がなければ、ネギと同様に自分と千雨がこうして関わることもなかっただろうという背景もあり、どちらにも味方はしにくい。
さよの言葉にエヴァンジェリンがネギをいじめるのを中断する。
「律儀で結構なことだが、あいつにとってはまた半日だぞ」
「入る前にゴタゴタしたが、中に入ってからは本当に一時間しか経っていないようアルね。正直なところ入るまで半信半疑といったところだったが、やはり魔法には驚かされるアル」
古菲が頷いた。
「でも連絡は一応入れておきたいです」
慣れているエヴァンジェリンと違い、体内時計の狂いを調整できていないさよは、どうにも違和感が拭えない。自分は生き返ってからは一日一回千雨の声を聞かないと体調を維持できないのだ。
「それにしても一日は結構長いですね。これはすごく間隔が狂っちゃいますよ。一週間こもって外と7時間ずれたら時差ボケしそうですし、週の途中に入ったら曜日とかが混乱しちゃいそうです」
頭をふりふりとさよが頷く。
これから先この場所に頻繁に足を運ぶことになるであろうネギとしては心に留めておきたい感想だ。
「千雨さんは入りませんし私はもう遠慮しておこうと思いますけど、先生はこれからどれくらい使うんですか?」
結局中に入ってみたさよだが、現状のところ、元幽霊である彼女は朝方に眠気を振り払って朝方のベッドを出るのにも、時間に追われて放課後を楽しむのにも全く不満は持っていない。
そういう欲求に翻弄されることすら楽しいもののだ。
リゾート施設に足を運ばずとも、学園で友人と言葉をかわすだけで十二分に幸せである。
「えっと、中で話し合ったのですが、一応毎日授業が終わった後に数時間ずつ入ることになりました」
「毎日アルか? 随分と気前がいいな、エヴァンジェリン」
古菲がエヴァンジェリンの方を向いてそう言う。
「対価はもらうさ」
ぶっきらぼうにエヴァンジェリンが答えた。
「対価、ですか?」
エヴァンジェリンも別段吝嗇家ではないが、千雨と同様、対価を伴わない施しは基本的に行わない。
「使用料だよ。お前らは気にしなくてもいいぞ」
「お金とかですか? リゾートってことですし」
「フム、だが毎日となると大変アル。あの施設なら師弟で割り引いても一泊10万から、いや、時間がかからないことを考えればもっととってもおかしくないと思うが……」
よくわからないままにさよが頷く横で、古菲が生々しい意見を口にしている。
超包子のバイトで金銭感覚は意外に浮世にのっとったものを構築している中国からの留学生、彼女は吝嗇家ではないが、同時に無駄金を振りまくタイプでもない。
「今更金なんて取るか。魔力だよ、魔力。特訓に使う魔力をこいつから譲渡させるってだけだ」
そんな二人にエヴァンジェリンが呆れた声を上げる。
そもそもあの施設を金で貸そうとしたら一泊百万とってもまったく足りないだろう。
「へっ?」
と、そんなエヴァンジェリンの声を遮ってさよの素っ頓狂な声が響き渡る。
古菲や茶々丸たちからの視線にも気づかず、びっくりとした顔でさよがエヴァンジェリンを見つめていた。
「あん? どうかしたのか?」
「えっ!? あ、あの、ま、魔力ですか? そ、その………………ど、どうやってでしょうか?」
友人であり師匠である少女の為を思って、はっきりと問いただすか否かを悩む少女が、か細い声で問いかける。
その瞬間さよの思考にようやく追いついたエヴァンジェリンが顔を赤くして怒鳴りつけた。
「っ! あほかっ、血を吸うに決まっているだろう! 吸血鬼だぞ、わたしは!」
「あっ! そ、そうですか。そうですよね。あはははは」
さよのカラ笑いが悲しく響く。
何を話していたのかをようやく理解したネギの頬がわずかに赤くなった。
逆に首を傾げているのは、今の話が理解できなかった古菲である。
「なにアルか今のは? どういうことアル?」
「えっ……いえ、その……ボ、ボクの魔力をエヴァンジェリンさんにお渡しするときに、血を吸われるというか……」
「……魔力というのは個々に固有のパターンが有りますので、魔力そのものを伝達するのではなく、血などを媒介するものだそうです。魔法式の発散による無効化や反射の術式の実用化が不可能とされるのはそのような理由からですね。血や体液などを経由することで、術式ではなく、構成要素としての供与を可能にしているわけです。いえ、この説明に他意はありませんが」
「魔力ノ伝達方法ッテノハイロイロアンダヨ。御主人モアレデ意外ニソッチノ実戦ニ関シチャア初心ダカラナー」
古菲の疑問に、まわり3名からフォローが入った。
誤魔化しともいう。
ちなみに、ここを使用させる場代と修練に対する対価として、ネギには血液を要請しているエヴァンジェリンであるが、これは呪いの解除ではなく単純に魔力供与のためである。
血液から見た呪いの解除法にはある程度調査済みであるが、ネギから軽く血を吸う程度では解除できないという結論を得ている。
血を吸うのは憂さ晴らし兼、完全に彼女の趣味だ。
「しかし吸血とはあまりゾッとしない話アル」
「でもエヴァンジェリンさんに血を吸われてもホントの吸血鬼にはならないそうですね」
「うーむ、だが注射器だろうと吸われるのだろうと血を抜かれるのは……、ああ、そういえば、ネギ坊主、血はやはり首から吸うアルか?」
「い、いえ、手からです。こう、ガブっと……」
少々深夜ドラマの色がつきはじめそうな古菲の想像を押し止めるように、ひょいとネギの腕が上がる。
そこそこに鍛えあげられているが、うっすらとした怪我のあとが見え隠れするものの、少年の域を出ていない。
これが黒光りする筋肉に覆われるようになったなら、たとえ特訓の成果だとしても雪広あやかあたりは泣いて悲しむだろう。
「ほう、噛みちぎるわけではないようアルが……」
「んな原始人みたいな真似するわけあるか。牙を使うんだよ」
「むっ、そんなものが生えてたアルか?」
「今はない。魔力がないと擬態が働く。わたしが血を吸うのは満月の晩か、魔力を補填できるあの中だけだ」
さすがに日常から牙をのぞかせていたら、いくら3-A相手でも気づかれるだろう。
エヴァンジェリンの口元を覗き込みながら、ほほうと古菲が感心している。
さて、そんな会話を横に聞きながら、千雨に連絡を取るための携帯電話を取り出していたさよが首を傾げた。
「んー、おかしいですね……」
地下室から上がり、携帯電話の作動域に入ったことを確認していたのだが、千雨の携帯に繋がらない。
耳元から流れるのは、相手が圏外か電源を切っているとのアナウンス。
「どうしたアルか?」
「千雨さんとつながりません。圏外みたいです。電源を切ってるのかもしれませんけど……。えーっと、ここに入る前にどうしてたんでしたっけ」
自分はパスがつながっているわけでアクセスに困ることはないが、これで緊急連絡用のルートをつないだ挙句、ただ単に地下街でショッピングをしていた、などという落ちだったら、後でガッツリと怒られることは明白なので、それは控える。
「ちょうど外出されていたと記憶しています」
「世をはかなんで崖から飛び降りていないことを祈ってろ」
「縁起でもないことを言わないでください!」
「そもそも放置せよと言っていたのエヴァンジェリンだったはずアル」
「ふんっ、冗談だよ、こんなことで自傷してたらあいつはいくつ生命があっても足りないさ。なあ、坊や」
いやらしくエヴァンジェリンが笑った。
それに、むっとしたらしいネギが何かを言い返そうとして
と、そこで。
今のは一体どういうことかと首を傾げながら、先ほど同様意外な千雨の人気者っぷりに内心驚いている古菲も、携帯電話を片手にパスから位置を探ろうとしていたさよも、真帆ネットにアクセスをしようとしていた茶々丸も、今日の会話を千雨にチクったらどんな反応をするだろうと考えていたチャチャゼロも、そして言い争っていたネギとエヴァンジェリンも、皆の動きがまとめて止まる。
地下室からでたエヴァンジェリン邸の一室で、窓からもれる夕暮れに近づく光を浴びながら、魔力の波動に引寄せされて、自分の持つパスから漏れる情報に従って、そして人が脈々と受け継ぐ第六感に従って、否応なしに全員が“それ”が起こった方角に視線を向ける。
そう、もちろんその方角は――――
◆
ヒョイ、と少女の手が伸びて、大きな器に盛られたチョコクッキーの包みを手にとった。
ステンドグラスから夕日が差し込む大聖堂。
色とりどりの光が大理石の床を荘厳な雰囲気に染め上げている。
少女は片手にお茶うけの皿を運びながら、手に持ったお茶菓子をパクリと口の中に放り込む。
少女の膝に抱えられた、彼女より幼い容姿と褐色の肌を持つ少女からジト目が向けられているが、それに全く頓着しない。
ジト目を向けたままの少女はココネ。そして客人用のお茶菓子を一枚拝借したのは千雨のクラスメイトでもある春日美空だ。
「いいの? ミソラ」
「いいのいいの。これくらい。授業後のお勤めの合間の僅かな休息。これくらい神様も許してくれるよ。息抜きも必要だしね。ちゃんとお客が来たら対応するって!」
モグモグと2枚目のクッキーを頬張りはじめた美空に、ジト目の少女が言葉をかける。
彼女はいつもこんな感じではあるので、美空はココネの警告を笑いながら聞き流した。
大聖堂の一室で来客用のお茶請を取り出しているが、先ほどまできちんと掃除をしていたのだ。
「ココネも食べる? はいどーぞ」
そんな言葉とともに、ココネの前にもビスケットが差し出された。
半分が優しさで半分が共犯者づくりのための工作だろう。
膝の上に抱えられたままココネがそれを食べようかと逡巡し、そして、ピタリとその動きを硬直させた。
「ミ、ミソラ」
「どったのココネ?」
「ウ、ウシロ」
「後ろ?」
と、いつのまにか椅子に座ってすっかりくつろいだ様子の春日美空が問い返す。
後ろ、と首を傾げ、そして振り向くと、三枚目を茶菓子の袋を開けていた美空にココネの動揺の理由が突きつけられた。
「お暇なら、わたくしの対応をして頂いてもよろしいかしら」
と、そんな解答。
小脇に抱えられたままのココネの足がブワリと浮かり、椅子を蹴り倒す勢いで美空が一瞬にして立ち上がった。
そこに立つのは、一人のシスター。
魔法先生として麻帆良に勤務する教会の管理人、美空の指導役でもあるシスターシャークティである。
いつもの修道女服姿のまま、常日頃教会を訪れる迷い子たちに向ける自愛に満ちた笑顔を浮かべている。
笑顔を浮かべ微笑んで、そして当然その瞳は笑っていない。
さらに美空に向けて掲げられた腕には、煌々とした明かりが灯っていた。
「あー、シスターシャークティ。そのー、お早いお帰りですね」
美空が笑顔を返した。頬が引き継いっている上に揉み手をしそうなほど低姿勢であることを除けば歳相応に可愛らしい。
「ええ。あなたにも関係のある話でしたから早めにね。それで、あなたは何をしていたのかしら?」
「いやー、言いつけ通りに掃除をしてたんですよ、もちろん。……ええ、まあそれ以外にもきちんと役割を果たし身に対しての当然の報酬というか、ほんの少し神の前で自分の仕事の成果を見つめなおしていたというか、自主的な休息的なものを取ってたかもしれないっすね。……その時にほんの少し、神の宿へ招かれる客人のために用意された恵みを自分に対するご褒美として頂くようなこともあったかもしれないですね、はい、ほんと。…………ごめんなさい」
えへへ、と笑う。教会に席を置きながらにして仏の境地に達したのか、悟りを開いたかのような笑みだった。
そんな笑みと「あらそうなの」なんて微笑みとともに優しさにあふれるシスターの返答を聞きながら、美空とその小脇に抱えられたココネが覚悟を決める。
もちろん、許してはもらえなかった。
◆
「アイタタタ。ちゃんと掃除は終わらせたじゃないですか、シスターシャークティ」
「そういう問題ではありません。いいですか、あなたも神に仕えるものとして常日頃の心がけをですね……」
掃除したばかりの礼拝堂の床に正座させられていた美空が説教をされていた。
完全にとばっちりで先ほど一緒に吹き飛ばされていたココネは、さすがに正座の説教は免除されているらしく、長椅子に座っている。
妹分である彼女も、そこまで律儀に付き合う気はないらしい。
その後、長々とした説教が終わっていから、改めてシスターシャークティが本来早々に話すはずだった内容を口にした。
「はあ……。では、本題に入りますが。招集がかかることになりましたよ。あなたの友人である長谷川千雨さんに。先に学園内部への通達とスケジュールをまとめてからになりますが」
「あー、やっぱり。修学旅行の件ですか? それってどんな感じになるんでしょうか」
しびれた足をモミモミとマッサージしながら美空が聞く。
シャークティが首を傾げた。
「どんな、とは?」
「あっ、いえ。話をすると言っても色々あるじゃないですか。どんな感じになるのかなあ、と。怒られるようだとですね、ほら、一応クラスメートですし」
「あなたが言うとさすがに実感の具合が違いますが、そのようなことはないでしょう。合わせてネギ先生への紹介も済ませるとのことですし……せいぜい面通しといったところでしょうね。彼女はどうやらほとんど独学のまま闇の福音と関わったそうですし、色々と我々に対する誤解もあるようですから。」
「あー、なるほど。エヴァちゃんにネギくんですかあ……」
修学旅行の大騒動。帰ってきた千雨がいきなり居残り組のクラスメイトに魔法をぶっぱなしたことにもある程度驚きはしたものの、さよからある程度彼女の事情をバラされていた背景もあり、美空としては正直なところ、修学旅行全体で言えばエヴァンジェリンの正体のほうが驚いた。
不死の魔法使いにして闇の福音、魔法界では子供の躾に名前を出される極悪人。
シャークティは当たり前のように知っていたらしいが、同じクラスになったあたりで自分に教えてくれる程度の優しさはなかったのだろうか、この監督役は。
シャークティに言わせると、実際に美空が魔法先生たちの仕事を手伝うようになってから通達する予定でいたらしいが、日頃のいたずらなどでクラス全体を騒がせていた身としては、これまでの行いをまとめて再確認せざるを得ない。
そもそもこれまで魔法関係の業務にはほとんど関わっていなかった自分がこうしてこのような通達を受けることになったのは、図らずともクラスメイト全員に魔法組とそうでない組をばらされたあの夜が原因なわけだが、あの一件は正確に言えば、千雨の“魔法”に抵抗できなかったものを分けたに過ぎない。
生徒の魔法業務とは全く無関係に千雨の認識と個々の能力で生徒の立場を二つに仕切られたかたちだ。
茶々丸などの件で確実に関係者枠に入っているはずの葉加瀬がすっかり眠りこけていたあたり、別段区別しようとしたわけではないだろうが、美空程度の魔力で自動的にレジストできるような選別用の魔法を受けた身からすれば、是非自分も他の皆と一緒に眠っておきたかった。
裏の世界の仕事人。冷酷非情・正確無比の傭兵職だったいう龍宮真名や、正直半分くらい気づいていたけど、バリバリ現役の忍者らしい長瀬楓などに、自分のことが明確にバレてしまったのは、不吉な予感しかしない。
「しかし千雨ちゃんはすごいですねえ。あのでっかいのは鬼神様だったそうですし、わたしじゃあ、近づくのもゴメンですよ」
「不甲斐なさを叱責したいところですが、それが無難でしょうね。あなたが加わって役に立ったとは思えません」
笑うしかないばっさりとした返答だった。
「ネギくんもスクナじゃなくて実行犯のところに行ってたそうですね」
「さすがにリョウメンスクナには彼でも手がでないでしょう。闇の福音が最終的な処理を行ったと聞いています。瀬流彦先生が万が一のためにと同行されていたそうですが、あの規模の超越種は人では干渉できません。あれは本来呼ばれた時点で決着がつくものです」
シャークティは千雨の力量についてを聞いていないが、その力を持ってリョウメンスクナに対して何かしらの行いをしたとは夢にも思っていない。
だって、それはありえないことだ。
足止めですら、この麻帆良学園内でも片手で足りる程度の人間しか不可能だろう。
対して美空の方は石化した千雨を解呪するに当たり、散々にさよから千雨のことを聞いている。
エヴァとのいざこざに始まり、幽霊から復活したと自称するクラスメートが「正確には魔法ではないんですけど~」などとあっさり口にしていた“魔術”という未知の力。
さよの腕からこぼれた歯車は忘れようともそうそう忘れられない光景だったし、秘匿の重要性をあまり重視していないらしいさよは、石化の術に対して、千雨の“師匠”とやらはメデューサと戦ったことがあるなどという眉唾の話までを千雨の自慢に交えてペラペラと語ってくれた。
さらにその後、千雨が外に飛び出していったことや、千雨が消えた方向から放たれた地平線を二つに区切るように白の光条、かてて加えてリョウメンスクナと面と向かって殴りあっていた大巨人をみて相坂さよが語った言葉を考慮するなら……といった思考を回す程度には自体を把握しているのだが、確証もないので口にはしない。
起こったこと自体はきっと瀬流彦先生から話が流れているはずだろうし、というのは言い訳だ。
もしかしたらすべてがエヴァンジェリンのしわざだと認識されているかもしれないが、訂正や助言などはせず自分は問われたことに答えるだけである。
親友とまではいかなくとも、クラスメイトで、それはつまり友人だ。
などと言ったことを内心で考えながら顔を上げると、何故かシスター・シャークティが自分の顔を覗きこんでいた。
えへへ、と誤魔化すような笑いを返しながら、突っ込まれる前に機先を制して適当に話題を振ってみる。
「ネギくんたちは修学旅行の最初の方からなんかやりあってたみたいですからね」
「そうですね。…………そういえば、美空、あなたほんっとうに気づいていなかったのですね?」
じろりとした目を向けながら、いまさらなことを言われた。
「それはまじでしらなかったっす! 修学旅行中にバラされるまで、全然気づいていませんでした。何回聞くんですかそれ!」
日頃の行いのせいだろうと横で聞いていたココネが内心で突っ込む。
こちらについてはウソでも誤魔化しでもないので即答した美空だが、反面シスターシャークティは「嘘ついてないでしょうね、この子」と内心を語るように胡散臭げな表情を崩していない。
シワが残りますよ、なんて軽口を叩いてみたい気もするが、そのまま殺されかねないので、美空はだまったまま次の言葉を待っている。
「…………瀬流彦先生への対応や一般生徒へのフォローの話などを聞くに、長谷川さんはどうやらあなたと違って優秀だそうですからね。少々直情的なところもあったようですが……。相坂さよという闇の福音の従者が石化を解いたあとに、皆の記憶を消すまでの間姿を消していたと聞いています。そちらについてもあなたは知らないのですね?」
「ん、あー、そうですね、それとそもそもさよちゃんはエヴァちゃんのミニステル・マギじゃないみたいですよ?」
「? どういうことです。彼女の身柄を闇の福音に預けるという決定の通達は学園長名義ですよ。それに闇の福音と住居を共にしているはずです」
「あー、いえ。なるほど……」
このレベルですら話が通っていないのか、と美空が内心で思考を回す。
嘘を付いてまでフォローする気はないが、余計な先入観は与えないように誘導するくらいにはあの晩には世話になった。
全部ぶちまけてしまいたくもあるが、エヴァンジェリンの保護下にあるのは間違いないであろう千雨と敵対もしたくないし、ばらしてしまうと最悪の場合スパイじみた真似をさせられる可能性もある。そんなことになったらこの程度の泣き言ではすまなくなるだろう。
どの道わたしごときが話していい内容ならば、今度行われるという顔見せの場で語られるはずだ。
藪蛇だったなあと内心で反省しながら、内心で美空がため息を吐いた。
意外に口の軽かったさよの情報は、実はかなり重要だったらしく、修学旅行の件を報告しようとするとこういうことが起こる。
さよが以前から名簿に名前の載っていた生徒であることや、そもそも幽霊騒ぎで中等部内ではそれなりに名を売っていることを、意外にもシスターシャークティを始めとする魔法先生方は知らないらしい。
さよが復学したときの証言を普通に受け取れば、さよの回復に関与したのは千雨のはずだ。
麻帆良学園女子中等部の3-Aにおいて、学園長を含む最上位の者たちとのコネをもつものは多いのだが、反面一般の魔法先生とつながっているものは意外と少ない。
「吐きなさい」
「いえ、そんなわたしがわざと黙ってたみたいじゃないですか。そうじゃなくてですね、うちのクラス内ではさよちゃんはエヴァちゃんじゃなくて、千雨ちゃんの方にべったりなんですよ。それに復学に関しても千雨ちゃんが何かしたって復学の時の自己紹介で言ってましたし」
どこまで話したものか、と考えつつごまかしに走る。
というより、まさかとは思うが、長谷川千雨が当のネギ・スプリングフィールドと付き合い始めたことすら、目の前で不審げに自分を見やるシスターは知らないのではなかろうか。
「彼女の復学は学園長名義ですよ? それはありえないでしょう」
「でも千雨ちゃんはエヴァちゃんとも仲がいいわけですし…………」
さよが千雨の弟子であり、あの信奉具合を考えれば話半分といったところかもしれないが、もしさよの言葉が本当ならば彼女はかの闇の福音にすら劣らない“魔術”とやらを使うはずだ。
うう、知らないままでいたかった。胃がチクチクし始めた。
「そもそも長谷川さんとはどの程度の使い手なのです?」
「知らないんですか? シスター・シャークティ」
「記憶操作等については伺いましたが、技術派閥すら報告されていません。あなたは知っているのですか?」
わかりやすく墓穴をほった美空だった。
「あっと、いえ、私も詳しく知ってるわけじゃないですけど、なんか修学旅行でネギくんが襲われた時に手伝っていたらしいですね」
「スクナが顕現する前の話ですね。西の術師が親書を奪いに現れたと聞いています。ネギ先生はまだ技術はあっても実戦経験に乏しいそうですから、手を貸したのでしょう」
「はあ。…………ネギくんに手を貸した、ですか」
「どうかしましたか?」
「あ、いえ。なんでもないっす」
美空が誤魔化す。
ごまかしたことに気づいたらしいシャークティが美空の悪巧みかと睨んでくるが、今回は悪巧みではなかった。
彼女はシャークティの話を聞きながら、一つの確信を得ていたのだ。
(で、やっぱりネギくんと千雨ちゃんの関係については聞かれないんだもんねえ……)
マジで知らないっぽいなあと内心で嘆息した。
あのざまで隠し通せているということだろうか。
と、そんなことを思考している姿は、本人の評判も相まって、非常に胡散臭く見えるらしい。
「美空?」
しびれを切らしたシャークティが対話を諦め、自白させる方向にシフトしたらしい。
探偵物の主役にはなれそうにないが、美空には効果抜群だ。
誤魔化すように口調を濁す。
「えっ、いやー、そのネギくんのことですけど、魔法先生たちへの紹介を千雨ちゃんと合わせて行うんですね。なんでなんだろうなあと思っちゃって」
「それはわたしも少し不思議でしたが、長谷川さんはネギ先生のクラスメイトだそうですからね。良い機会だという意味だと思いますが」
「はあ、なるほど。いや、それにしても、千雨ちゃんのことですけど、ほんとどうなるんですかねえ」
「またですか。随分と気にするものですね。そんなに仲が良かったのですか?」
「そんなことはなかったはずなんですけどね。意外にあれで抜けているというか騒動を起こすタイプというか。ネギくんと、あー、いえ、ネギくんが来るまではそんなことなかったんですけども、やっぱり騒動となると――――」
と、そんな美空のつぶやきに答えるかのように“それ”が来た。
爆発的な“魔法”の波動。
世界樹のゆりかごに包まれる麻帆良学園の中にいるからこそわかるその異常。
内部の者へ祝福を与えるはずのその空間に、どう受け取っても戦闘用に編まれた敵意の魔法が柱を建てるかのように突き刺さっていた。
いや、正確に言うならば、それは地から天へと伸びている。
美空、シャークティ、そしてココネが三者三様に驚愕の声を漏らし、反射的に学園の地図からその場所を測量した。
遠くその場所から伸びる光の柱。
その方角と距離を推測してすぐに思い当たった。
その麓は麻帆良の大施設の一つ“図書館島”。
シャークティはすでに千雨どころではないと思考を切り替え、
ココネは目を丸くしたままに、その力の規模に美空の服をギュッと握り、
そして美空は、この何色にも染まらないただ大きさだけを持つ魔力の使い方を、以前にも見たことを思い出し、もしかして、などと想像をふくらませながら冷や汗を掻いていて、
もちろんその原因は――――
◆
――――と、そんなことが起こる少し前。千雨は依然として地図を片手に図書館島の中を潜っていた。
探索を進め、階層を下るごとに図書館利用者や探索部とやらの痕跡が減っていくが、いまだ時々ビバークの跡や、使われた形跡のある休息施設などが散見されるあたり、麻帆良の人間というのは改めてイカれている。
ここは本当に図書館なのだろうか、と本棚の横を通りながら千雨は思った。
さて、ちなみにこの時の千雨は、この結果は地図の力であり、やはり情報の力というのは反則だなあなどとのんきに考えていたので、あまり実感を持っていないが、本来熟練の探索部が日時をかけて突破する迷宮をこの速さで攻略していることには地図だけではなく、魔術師としての千雨の力も多分に影響している。
フィート棒を使うこともなく気流を読んでわなを見破り、扉の鍵を呪文を唱えて開けていく。
湖上にたって、壁を歩いて、地面から若干の距離を浮き上がるよう、重力の枷を緩めて空を駆ける。
あるという話は聞いていたが、思っていた以上に罠や仕掛けが多いのだ。
のどかの所属する探索部とやらは思っていたよりも本格的らしい。
以前に忍び込んだルビーやネギたちの話を思い返せば、そういうこともあるだろうが、一昔前の千雨だったら、絶対に来ようとは思わなかった場所たろう。
湖底に本棚が見えている目を疑うような光景を足元に湖を超えると、その側にある階段を登っていく。
そして、登り切った踊り場につくと、ピタリと千雨の足が止められた。
目の前にはあるのは単純な分かれ道。
不自然なわけでもなく同じように舗装された道が二本伸びている。
片手に地図を持っているのだ。本来はそのままその内の一つの道を渡ればよいのだが、他の分かれ道と異なり、そちらへ進もうとする足に心理的な圧力がかかっている。
一旦目を閉じて、外部から強制される心の動きを修正する。
改めて心理防壁をかけなおして再度目を開ければ、目に映るのは先ほどと同じであって同じでない空間だ。
人払いの結界。
魔法使いが仕掛けであろうそれが、この辺り一帯を守護している。
たとえ進行方向を決めて、目的地を見据えて歩んでいてさえ、行動を躊躇させる心理効果を誘発するそんな術式。
先程から探索を進めるにあたり、自分も人目避けについては気を使っていたが、これはそんなレベルではない。
急にそちらに進みたくなくなる、などの印象操作。人の予感、第六感を逆向きに誘導する、人の無意識を逆手に取った払いの結界法。
これまでの罠とは一線を画したものだ。
おそらくここが、一般生徒とそれ以外の分水嶺ということなのだろう。
この術式は肉体から相手の思考にアクセスしているようなので、おそらく幽体ならば効き目は薄く、同じような手口を操る魔術師にだって普通に解くことも魔力で洗い流すように力任せにキャンセルすることだってできるだろう。
だが、まあ普通の生徒に解けないだろうことには変わりない。そんな益体もないことを考えながら、頭をひとつ振って、思考の防護壁を確認し、結界を逆探して構成を把握してから、一旦止めた歩みを再開する。
あけっぴろげに見えて、要所要所はかなりきちんと管理されているようだ。
中等部はもちろん大学からして探索をしても全貌が開かせないというのも納得できる。
しかもこの手の妨害陣があるということは、一旦この場を抜けたものがそれを地図として残しても、継承したものが、その成果を簡単には受け取れないということだ。
ネギが渡した地図に同級生の探索部が驚いていたが、ここはそういう自体すら想定しているのだろう。
迷わせるのではなく区別する。そういう意味では、この術式は迷路というより篩である。
しかしまあ、と千雨は踏むと落とし穴に直結するタイルをまたぎながらため息を吐いた。
警報機関連がないくせに、アトラクションじみた罠をくぐり抜け、鍵がかかってないくせに、クローズタイプのパスコードで封印されている扉を開けて進んでいけば、古めかしい稀覯本の山である。
探検部ができるのもわかる。
ちなみに手元の地図は迷路を抜けるための地図であり、別に配架図というわけではないので、図書館島を本来の用途で探索する場合には、たいして役に立つことはない。
千雨も特に本には目を向けておらず、たまたま目にとまる程度だ。精神医学のレシピ本が並んだ棚を乗り越えて、妖刀鬼剣忌刃物の書記集が並ぶ一連の本棚の横を抜け、実物入り宝石図鑑と銘打たれた案内板に若干の未練を残しながらひたすら進む。
そしてようやく目的地の周辺にまでたどり着いた千雨の歩みが、その耳に異音を捉えてわずかに緩まる。
ひたすらに、地図のとおりに進んでいた彼女は気づいていなかった。
地図を持ち、一般生徒が道具だよりで超える罠を、浮遊や透視で看破してここは魔都である麻帆良の中で、さらに七不思議に分類される図書館島の最奥へと近づいている扉の前だということを、真剣に受け止めてはいなかった。
だからそれに気づけなかった。
魔法の結界を抜けた以上、ここはいままでの麻帆良探索部が通うような整備された迷宮とはまた別の迷宮だ。
周りはいつのまにやらうっそうとした樹木に囲まれ、見通しの悪くなっていることを、千雨は弓矢が飛んでくる本棚で仕切られた迷路と同じように考えているが、もちろんそれは間違いなのだ。
以前、ルビーがその警戒網に触れていて、その上で捕らわれかけた場所であるのだが、千雨はそこまで深刻に考えていない。
なぜなら、彼女は当時と異なり、麻帆良や魔法使いのことの事情をだんだんと理解しているから。
なぜなら、当時のルビーは、麻帆良に偏見を持っていた彼女の弟子をむやみに怖がらせないように、自分がであった謎の司書のことを詳しく説明しなかったから。
なぜなら、彼女の記憶にルビーから聞いた図書館島の品評に並んで、以前にネギがテスト対策のために学生とともに潜ったなどというしょぼい理由が残っていたから。
魔術の罠をかいくぐりながらも、彼女の慎重さは恐怖から生まれたものは存在しない。
軽くこの記号の意味だけ確認して、その情報を恋人を喜ばせるために使ってやろうなんて、寝ぼけた考えをしていたから、
だから当然、彼女はそんな麻帆良の甘さに浸りきった魔術師として、その思考のつけを払うことになる。
手に持った地図に書かれたデンジャーという警告を半端に受け取り、その内容をその下に描かれた下手な似顔絵なんかに誤魔化され、これまでの同級生との雑談に認識を間違えて、その挙句、今そんな背景を持つ迷宮を進むのは、お師匠様の秘匿を明かされる前に強制的に独り立ちした魔術師見習い。
そんな諸々の理由から、彼女はその地図に描かれる下手くそな絵について、いったいなにを表したものであることを意識せず、鬼が出るか蛇が出るか、と軽く考えたままこの場に出向き、その結果、こうして迷路を抜けたその先で、こちらを睨みつけるドラゴンと鉢合わせ、
――――あげく、感情のままにその体に宿る宝剣を暴走させることになったわけである。
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