真っ暗な意識の海。
思考の大海。ゼロの空白。
真っ暗な深層世界。
「なあ、ルビー」
そこに千雨は漂いながら、虚空に向かって口を開く。
本体がフェイトと名のる襲撃者に石化され、そのまま体とともに眠っていた意識が戻っている。
だが体はまだ動かない。というよりも感触自体が実感できない。
きっと本体はいまだ浴場で石像の真似事をしている最中だろう。
そんななか、何もやることがない長谷川千雨の、やるべきことは決まっている。
だから彼女は問いかける。寝ている彼女を起こすため。
だって彼女はこういうときのための存在だ。
だから、もちろん
「ん、なあに?」
彼女から、返事が戻らぬはずがない。
「お前さ、あれ本気だったんだろ」
「……あれってなあに?」
「ずーっとまえのお前の言葉」
「……ずーっとまえのわたしの言葉?」
千雨がたゆたう黒い海。その中で意識でつむがれるその伝達。
真っ暗な世界の中で、ルビーの声だけが返ってくる。
千雨の声にこたえるその声は、もちろん千雨の中で眠りについているはずの、カレイドルビーと名乗る英霊のものだった。
ルビーの意思を内包しない、ルビーの無意識下の声が返ってくる。
だけど千雨は頓着しない。
だって、彼女はここがそういう場所だと知っている。
その言葉がルビーの真実だけを語ることを、もう千雨は知っている。
「初めの日に言ってただろう。おまえの目的、おまえの願い。そしておまえがやらなきゃいけないその行為。桜さんを幸せにするのがお前の願いだって話だよ」
「……うん。そうね。まだ覚えてたんだ」
声が戻る。
ルビーから千雨への言葉が戻る。
だんだんとルビーが目覚めている。
休眠状態下に置かれ、石化した千雨とともに眠っていたルビーが目を覚ます。
「その願いのために、お前は世界に詐欺を仕掛けて喧嘩を売った。お前は幸せな人間をさらに幸せにしてそれで終わりか? んなわけねえ。桜さんの亡骸を抱きながら願った望みが、すでに終わっちまってるその人物の幸せだなんて、そんな曖昧なものであるはずない」
「……」
ルビーが黙る。
声は戻ってこなかった。
「初めの日に言ってたな。もう桜さんの系譜が見つかって、お前は幸せなその娘を見届けて、そしてわたしの力を借りてその娘に手助けできればそれでいい、と。でもそりゃ嘘だ。あんたは桜さんの幸せを願ったのか? あんたの願ったのは桜さんの救いのはずだ。不幸の救済と幸福の配達は別物だろう。誤魔化してたみたいだけどな」
「……」
「幸せなやつを幸せには出来ても、幸せなやつを救うことは出来ないって言ってたな。わたしはごまかされちまったけど、今ならわかる」
「……」
「なあ、ルビー。お前は人に最後の締めを譲るほど潔くはないんじゃないか? わたしはさ、お前にとっての“勝利”には、お前自身の納得こそが必要なんだと思うんだよな」
千雨はもちろん気づいている。
カレイドルビー。遠坂凛。
彼女が軽口をたたきながらも実際には千雨に求めていたのは、千雨のためのことばかり。
ルビーの目的のためと言い張った魔術のことも、結局は千雨自身のためだった。
なら、なぜルビーはこんなことをし続けた? なぜ、長谷川千雨に助言と力を貸し続けたというのだろうか。
間桐桜のことに気づけないままに、英霊として空に上がった遠坂凛。彼女の理解は、人からの伝達によっては得られない。
凛自身が納得できる結末が必要で、彼女は自分が納得しない限りあらゆることを諦めない。
そんな彼女が世界を渡り、そして間桐桜の依代から離れるはずがない。
うすうす気づいていたその答え。
それを千雨が口にする。
「なあ、ルビー。因子がどうとか言ってたな。桜さんの平行世界の存在は、桜さんとはまったく違う運命を歩んでいる。いや、それどころ、まったくの別人かもしれなくて、性格がまったく違うかもしれなくて、容姿が別物であるかもしれなくて、男であるかもしれなくて、ってな」
「……」
千雨の独白。
だがそれにルビーが耳を済ませていることに、長谷川千雨はもちろん気づいている。
「別の世界に自分を召喚するための召喚し、そいつが依代の宝石を拾えばだれでもいいだと? んなわけねえ。聖杯戦争という整った舞台ですらあんたは間桐桜の下にしか召喚されることが出来なかった。そのお前がまったく別の平行世界に宝石だけ送り込んで、それでおわり? 拾った相手に魔力があればそれだけで起動する? あほくさい。それじゃあ、その世界にもし桜さんの因子とやらがなかったらそれでもう終わりじゃないか」
「……」
千雨がため息。
ルビーは賢く、そして同様に長谷川千雨もそれがわからないほどに馬鹿じゃない。
「よくいうぜ。桜さんの魂に呼び寄せられる? そんな曖昧なものじゃない。あんたは桜さんとの“絆”によって自分から引き寄せられれている。だからこそ、あんたはその絆を持つ人物が、あの桜さんとはまったくの別人だろうと、力を貸そうとしてるんだ。じゃなきゃ、お前が力を振るうはずがない。魂の有無だけに縛られて、それを呪いのように履行させないために、お前はおまえ自身による選別権を握っている。知ってはいたと思ってたけど、お前はやっぱりとんでもないな」
「……」
かつてルビーが言っていた。
この世界に“桜本人はいないけど”と、そんな言葉を言っていた。
「だからこそ、お前はお前の基準で桜さんの系譜に手を貸してるはずなんだ。たとえその相手がお前以外には“別人に見える相手”だとしてもお前が桜さんの魂と宿していると感じていれば、それはお前にとって真実だから」
「……」
「そう、他人から見れば丸っきりの別人だ。そいつは魔術師じゃないかもしれなくて、魔法使いじゃないかもしれなくて、性格がまったく違うかもしれなくて、生まれも育ちも別物かもしれなくて、誰が見ても桜さんとは別人かもしれなくて――――」
「――――もしかしたらこの世界の間桐桜は、友達のいないパソコンオタクで、その挙句ネットアイドルなんて因果な趣味を持った根暗の女かもしれなくて……」
「……千雨、あなた」
ようやく戻るルビーの言葉。
ようやく目を覚ましたらしいルビーの声に、千雨がかすかに微笑んだ。
「あんたは桜さんの系譜にしか召喚されることができないんだろ? だったらこれは自明だろうさ。なにが偶然頼みだよ、嘘吐きめ。桜さんの因子に呼ばれるなら、桜さんの因子を探す必要なんてないんだ。なあルビー、巻き込まないためなのか、巻き込ませないためなのかは知らないが、これは“そういうこと”なんだろう?」
「……そう。やっぱり気づいてたの」
「当たり前だ。あんだけ分かりやすい誤魔化しで、いまだに気づいてなかったらただのバカだろ」
千雨の言葉にルビーが微笑む。
依代の言葉、カレイドルビーの召喚主のその言葉。
そしてなにより、それは間桐桜の依代の言葉である。
「わたしはあなたに桜を見た」
「ふん、だったらそうなんだろう。わたしにゃわからんが、あんたの行為は間違いなんかじゃないってことをあんた自身は知ってるはずだ」
千雨は笑う。
本体が石になり、だけど自分の体はルビーの力に守られて、自分の魂はルビーの力で保護されて、自分の意識はこうしてルビーのもとに守護される。
そりゃそうだ。守護者、守り手、サーヴァント。
忘れちゃいけない。カレイドルビーはもともとそういうものなのだ。
だけど長谷川千雨の元に降り立った彼女はサーヴァントであってサーヴァントではなかった。
千雨とルビーは対等で、お互いに平等で、二人の関係は契約の下に結ばれた。
ゆえに千雨は決めていた。ゆえに彼女は考えた。こいつに守られ、こいつに作った借りを必ずこいつが帰る前に返してやろうと考えた。
この身を守り、力を授け、見守って、いまこうして自分を石化の呪いから解き放とうとしているルビーに対して、その対価を示してやろう。
だってわたしは、ルビーによって桜さんと同格だと認められているのだ。
そんな自分が無様を晒せば、それは間桐桜を侮辱することとなる。
間桐桜の分身が、お前の力に感謝をささげ、その力を自身の幸せのために使ってやろう。
存分に、力の限りお前の力を振るってやろう。
お前が消えるその前に、お前の力が“わたし”のためにどれほど役立ったかを見せてやる。
だから行こう。いますぐに。止まってなんていられない。
なぜならば、この身はお前の妹と同じ誇りを宿しているはずなのだから。
その宣誓にルビーが笑う。
自分の存在意義と、それに答えてくれる千雨の言葉にルビーが笑う。
ああ、そうだ。そうこなくちゃいけないわよね、長谷川千雨。
もちろんだ。そうでなくちゃいけないだろう、カレイドルビー。
二人の意識が交じり合う。
さあ、それでは、はじめよう。
うん、それじゃ、はじめましょう
さて、それでは、
――――長谷川千雨の名において“最後の令呪”に命じよう。
関西呪術協会総本山の大浴場。
パリン、と殻が破れるように長谷川千雨の体を束縛していた石が割れ、全身に魔力の渦を纏わせる長谷川千雨が目を覚ます。
第26話
鬼に囲まれ剣を突きつけられ、震えながら泣きながらそれでも木乃香のことを考えて剣を振るう明日菜の姿。
後ろと前と、そして横に立つものと。意識を割きながら状況に歯噛みするネギの姿。
野太刀を振るい、闘気を走らせ、木乃香をさらった誘拐犯の一味を睨みつける刹那の姿。
そんな彼女達の元へ向かう三人の人影がある。
長瀬楓、龍宮真名、古菲の三名。
本山から出て、裏庭をかけぬければ、すぐそこだ。
木々を抜けた先にある大きな広場。
そこではすでに戦渦が広がっていた。
ネギたちの気配を感じ取り、まず遠距離用の技を持つ楓と真名が動いていた。
ネギ・スプリングフィールドと犬上小太郎の間に大手裏剣が突き刺さる。
神楽坂明日菜と向き合う鬼が振り上げる大剣を、龍宮真名の銃弾が打ち抜いた。
不意打ちに近い強襲と、その技術。
残像、多重影分身、陰陽加工鉄鋼弾。
突然の増援に、明日菜たちが目を丸くし、なぜか刹那と対峙していた月詠がくすくすと笑っていた。
彼女はこういうハプニングが大好きなのだ。
瞬く間に、近衛木乃香を依代に召喚された鬼たちが消えていく。
そうして十秒と立たないうちに、戦場で囲まれていたネギたちの周りに空白を作り出し、ハアハアと息を吐くネギや明日菜、刹那たちのそばに龍宮真名、長瀬楓、古菲の三人が降り立った。
「苦戦しているようでござるな、ネギ坊主」
「な、長瀬さん!?」
「ここは拙者に任せ、いくでござる。急がねば、千雨殿に申し開きがたたんであろう?」
「えっ!? あ、あの、千雨さんは?」
「これこれ、混乱するでない。さよ殿たちが向かっておるよ。大丈夫、彼女ならばきっと“すぐに駆けつける”。さよ殿のお墨付きでござる」
その言葉にネギがようやくこの状況下で強張り続けていた表情を和らげた。
突然襲われた総本山。
千雨からの声が届いた数瞬後に、現れた石使い。
不意をつかれた近衛詠春が身を挺して皆をかばい、そしてネギたちが逃げる隙をつくり、その挙句、今はこんな状況だ。
今この瞬間にネギたちが動ける側にいるのは詠春のおかげだが、今まだ解決していないということは詠春も敗退したという意味だ。
木乃香と一緒に一旦は逃げられたというのに、力量不足でたった一人に翻弄されて、目の前で木乃香を奪われた。
その不甲斐なさにくわえ、千雨とパスが繋がらない状況がネギの精神を削りつづけていたのだ。
千雨との言葉は繋がらないままで戦い続けた。
きっとこのままではジリ貧だっただろう。
千雨が立ち向かったということはわかっていた。そして敗れたのだろうことも理解した。
でもネギには千雨から頼まれたことがあり、近衛詠春から頼まれたことがあり、明日菜と刹那とともに絶対に揺るがさない事柄を決めていた。
それは木乃香を優先するということ。それはその他を優先しないということ。
だって、近衛木乃香は自分達の目の前でさらわれたのだ。
だけど負けたわけじゃない。
それに助けを求めるといっても、いったい誰に?
千雨が負けて、この本山が襲われて、そして主である近衛詠春が敗北した。
近衛詠春こそが行っていた。今日の本山に人はなく、石使いが語る言葉によればすでにネギたち以外に敵はない。
ならば、さらわれる間際に、ネギを信じ明日菜を信じ刹那を信じ、そしてその場にいない千雨を信じて、泣き言も弱音も吐かずにただ信頼の視線をよこした木乃香に対して、どう報いるのが正解だ?
そんなもの、自分たちでどうにかする以外にありえない。
いつか誰かが言っていた。
自分の望みに他人の力量をあてにするほどばかばかしいことはない。
だからこそネギたちは皆を信じて、近衛木乃香を追いかけた。
茶々丸を信じ、さよに託し、その他のクラスメイトを信頼し、そしてもちろん長谷川千雨を当てにした。彼女たちに厄介ごとを押し付けて、彼女たちに起こる問題を彼女たち自身に任せると決めて、ネギたちは自分達がやるべきことを成し遂げようとここに来た。
向こうにはさよたちがいる。ならば自分たちには、木乃香を放り出してまでやるべきことなんてなにもない。
だから半ば以上、援軍など期待してはいなかった。
だけどそれでも千雨を放置できるというわけじゃない。割り切れるはずがない。こうして千雨の無事を聞くことが出来たのは、ネギたちにとって僥倖だった。
それならば、自分たちに課せられた責務は“ひとつ”だけ。
近衛木乃香を追いかけて、無事に取り戻すだけである。
◆
もちろん森を抜けた草原広場。そこでも戦いは繰り広げられている。
ネギたちを逃がし、そのまま鬼の相手を買ってでた三人が、鬼を、句族を、二刀使いを相手取る。
「ひゃー、アレが魔法使いあるか。随分ごついアルね」
「アレは魔法使いに召喚された鬼だな。古、お前は人間大の弱そうなやつだけ相手をしてくれればいい」
「あ、バカにしてるアルね!」
そんな会話を交わしながら、トンと踏み込み、古菲のコブシが鬼をうがち、二丁の拳銃を構える真名がその銃に込められた術式加工弾で周りの鬼を消し飛ばす。
明日菜のように召喚解除として振るわれる技と異なり、古菲たちが振るうのは敵を殺すためのそれである。
結果として召喚を強制解除しているだけで、行為自体は純粋な殺害技。
相手が式だからその体は打ち倒されると同時に虚空にとける。
だが、古菲たちの技法の底には敵を打ち倒すために練り上げられた歴史が見て取れた。
当然なのだ。
忍びとして修練を積んだ楓や、もともとそういう道を歩んでいる真名と同様に、古菲も師からその技術を学んだものの一人である。
どうにも勘違いされているが、古菲は技術と精神を両立させて尊ぶ中国武術の最高峰の一端を“納め終わっている”存在だ。
彼女の行う修練は新たな可能性の探索と究めた道の発展であり、現在の彼女の技術自体に、ほころびや欠けは存在しない。
伊達や酔狂で、師から皆伝の証として双剣を預かっているわけではない。
古菲の技と精神は皆伝位のそれである。
だからこそわざわざ魔法を知らなかったものの中から古菲が同行し、だからこそ、他の魔法生徒を真名や楓は同行させなかった。
だって、生半な術者では耐えられまい。
戦える力を持っていることは問題ではない。戦える精神を持っていることが肝要なのだ。
剣が降られ、矢が飛び交う合戦場。
自身の実力に裏打ちされた信念から冷静さを保っている楓たちに、ただその意志力と意地だけでついていける明日菜やネギが異常なのだ。
この場に立つことは、魔法が使えるだけでは許されない。
だがそれでも、古菲たち三人にできるのはこの戦場の打破までだ。
なぜなら彼女たちはそれをネギから任されているのだから。
古菲が鬼を蹴散らし、刹那の代わりを務める真名が月詠と、そして楓はネギと入れ違いに小太郎と向かい合う。
「邪魔すんなや。俺は女を殴るんは趣味と違うんやで?」
戦いを横から邪魔された形になった小太郎が不満そうな顔に楓に向けた。
「ふむ、年長者にはもっと敬意を払うものでござるよ。少年」
いつものように手ごたえのない笑みを浮かべながら楓が答える。
その横で、月詠と真名が戦いを始めたが、楓たちは身動ぎひとつしないままに自分の相手を見据えていた。
「ふ、コタローといったか。ネギ坊主をライバルと認めるとはなかなかいい目をしているが、いまは拙者のほうがネギ坊主よりも上手でござる。お主はここで、拙者の相手をしてもらうでござるよ」
ゆらりと楓の体が揺れる。
そこに付け入る隙はない。
闘気をみなぎらせて大気を震わせていた小太郎が視線をようやく楓に固定する。
この女の横を抜くのは不可能だろう。いまさらネギを追えないことを小太郎が理解した。
そして同時にこの女の相手を自分がするのだということも。
「ちっ、勝負にチャチャいれおって」
「なに、いまネギ坊主は忙しい。戦いたいならまた次の機会をまつでござる」
そんなものあるはずないと、小太郎が舌打ち一つ。
だが反論はせずに、納得したのか観念したのか小太郎が構えを取った。
「……なあ、やる前にちょい聞いときたいんやけど、あのわけわからんお姉ちゃんは来てへんのか?」
そのまま、ちらりと同じ戦場で鬼と戦う真名と古菲に視線を送り、一言楓に向かって問いかける。
戦う前の最後の会話だ。ひとつうなずき楓が笑って答える。
「千雨殿のことか。フム、拙者の友人が言うには、足止めを食っているそうだが、気になるのでござるか?」
きりきりと二人の間で弓弦が引き絞られる。
一触即発のその空気をむしろ楽しむように小太郎までもがにやりと笑った。
「ネギがなんや気にしとったからな。なんやあのお姉ちゃんをやったんはこっちの新入りらしいし、それに俺もちょいと借りがある」
「さすが千雨殿。人気者でござるな。なにやら不覚を取ったそうでござるが、彼女の元へはさよ殿たちが向かっているゆえ……ふむ、というよりそろそろかもしれんでござるよ」
「あん?」
「いやなに、期待して待つといい。彼女のことだ、いきなり空から降ってきてもおかしくない御仁でござる」
「はっ、それは楽しみや!」
天を指差した楓がにやりと笑って印を組み、それを見た笑いながら小太郎が地に術手をたたきつけ、
「――――!」
次の瞬間、どこか遠くの空で光が上がり、楓の分体術が稼動して、小太郎の狗神が放たれた。
◆
風を切りながら長谷川千雨が空を翔る。
千雨が京の空を駆けていた。
服は浴衣で髪は素のまま、メガネも無し。
だがその体にみなぎる魔力はいささかの損ないもないほどだ。
空を飛べないはずの長谷川千雨が、ルビーの力を操って空を跳ぶ。
遠見で鬼の戦場を確認し、さよから聞いた状況と、ネギとのパスから響く言葉を咀嚼する。
長谷川千雨は理解している。
ネギとの念話に、森に漂う戦の気配。そして遠く、湖の前に広がる大術式。
真名と古菲は近衛を媒体に生み出された鬼の相手。
刹那は月詠と、楓は小太郎か。銀髪は必然ネギと明日菜。
この状況を読み違えるわけにはいかないだろう。
近衛はいまだに呪符使いの手の中だ。話を聞くに殺されることはないのが、ぎりぎりの生命線。
近衛木乃香の魔力を用いて、鬼を生み出したというその技術。
それが本領を発揮するその前に、
「…………――――!」
ぴたりと空を走る千雨が足を止め、森の中の木の上にひょいと降り立つ。
重力を無視したようなその動作。
そのまま、ネギたちどころか、楓たちにも届かないほどの遠方で、一つの針葉樹の上に降り立った。
千雨の視線の先、光り輝く巨人が生まれたからだ。
魔力光を撒き散らす神の化身。リョウメンスクナの名を持つ大鬼神。
ギリ、と千雨が歯噛みする。
だって、それは間に合わなかったということだ。
ネギに言葉を飛ばせば、向こうもかなりまずそうだ。
あちらもあちらで忙しそうだが、近衛木乃香が生きているという情報をまず確認。
混乱とあせりが見える言葉から、まずは状況を把握する。
あれはいまの千雨の技ですら打ち倒せない。
近衛木乃香を基盤とした召喚術。
それによって生まれた大鬼神。その覇気が肌を焼く。
その存在がただあるだけで、周囲一帯に張られている認識阻害をはじめとする結界が揺れていた。
今の千雨はルビーの力を宿している。いままでと異なり、今の長谷川千雨はカレイドルビーそのものだ。
魂が交じり合い、その挙句、今の千雨はその力を完全な形で借りている。
今の千雨は無敵のはずだ。英霊の魂を一時的に借り受けて、英雄の力をその令呪を鍵にその身にまとう。
だが、それでもその力は本当のルビーには及ばない。あの鬼神には届かない。
それを理解して彼女はギリと歯を鳴らしながら、その戦気に自らの体を震わせる。
いまの自分があれに届くか?
本当にあの鬼神に倒せるか?
今この場で自分は何をすべきか、と――――
――――と、そのリョウメンスクナに向かって光が走った。
動きを止めていた千雨のものではありえないその雷撃。
スクナのたつ湖のほとりの一角から放たれるそれが誰のものかを長谷川千雨は知っている。
広大な森の少し大きな木の上で、長谷川千雨はただ一人でそれを見る。
ネギの雷撃を伴う風の槍。
覚えのあるその気配。ネギの必殺、渾身の大魔法。
ネギの雷撃が巨人を撃ち、しかし当然のように、それは巨神にはじかれた。
目を丸くして千雨がそれをみる。
驚いたように、予想外なものを見たかのように、まるで寝ぼけていた頭がようやく覚めでもしたのかのように。
改めて、自分の恋人の無謀さと、その強さを認識でもしたかのように、その光景を凝視する。
そうして千雨はにやりと笑った。
そんな千雨にパスの先からネギの声。
効かなかったと、自分の最大の一撃が効果を上げずに受けられた、と。
そして“何か次の手はあるか?”とのネギの問い。
当然だと千雨は頷く。
当たり前だと千雨は答える。
そりゃそうだ。届かないからなんだというのか、敵が強いからどうしたというのだろうか。
嘆く必要なんて何もない。あきらめる必要なんてありえない。
立ち止まって動けなくなることが一番の問題だ。
ネギに念話を送り、自分もその魔力を体の中から滲ませる。
危ない危ない。
ビビった末に戸惑って、機を逃していたんじゃ笑い話にもならないだろう。
さすがに死の概念を内包する大鬼神。その迫力に押されてしまった。
戸惑う必要なんてありえないことを見せ付けられた。
ネギが雷撃を放ったように、やつは倒すべき敵であり、そして何より明白なことがある。
わかりきったその真理。
あれが近衛木乃香を使う生み出され、それがこうしてわたしたちを打ち倒そうとしているこの現状。
そこから導き出されることはただひとつ。つまり、あれが誘拐犯の“目的”だったということだ。
ならこれは劣勢とは呼ばないだろう。いま近衛木乃香は依代として生きていて、そして近衛を依代に生み出された鬼が眼前に。
ならあいつを打ち倒せば、それがすべての終幕だ。
そう考えれば、あの化け物だってかわいらしく思えてくるじゃあないか。
近衛木乃香の代償だ。あれくらいでなきゃむしろ期待はずれって物だろう。
「はっ、上等」
ようやく目を覚ました千雨の耳に届く小さな小さな笑い声。
どこから漏れているのかと思えば、それは千雨の口から漏れている。
近衛を生け贄にするならば、一足飛びに世界征服を願ったところで釣りが来る。
だってのに、いまわたしたちがすべきなのはアイツを倒すことだけだ。
ならたとえあの鬼神が強大だろうと、それを嘆くにゃあたらない。
そうだ。ようやく目が覚めた。
ネギ・スプリングフィールドの無鉄砲もたまには役に立つじゃあないか。
さよが断言したように、かつてルビーが告げたように、この力を持って果たせない願いは存在しない。
宝石の魔女の底力。宝玉の魔法使いの真骨頂。
長谷川千雨が振るうにはまだ早いはずのそれが、いまこの瞬間だけは令呪の印の元に許される。
さあ、そろそろやつらに目に物を見せてやる。
それじゃあ、
――――わたしたちを見くびったあいつらを、見返してやることにしようじゃないか。
◆◆◆
戦い場。鬼とクラスメイトが入り乱れて戦う、森を抜けた先にある小さな広間。
遠く離れた場所で鬼神が生まれたのが、そこから見える。
太古の神の封印が解かれ、リョウメンスクナがその巨体を見せ付けて、それでもこの場の戦いに乱れなんて存在しない。
雑魚は根こそぎ蹴散らされ、統括官クラスの鬼が十数名残っているそこに、麻帆良四天王、古菲、龍宮真名、そして長瀬楓がたっている。
彼女たちに油断はなく、遠くに光る巨体を見ながらも、自分たちの役目を認識してその力を振るっていた。
それは他者を、仲間を信じているということだ。
この状況下でまったく心を揺らさないほどに信じている。
だから、もちろん、その瞬間に起こったことにも、彼女たちは驚かなかった。
――――!
ギロリと鬼が上を向く、
腕を固められていた小太郎と、小太郎を抑えていた楓が空を向く。
刀と銃を向け合っていた月詠と真名が空を向く。
鬼を討っていた古菲が空を向く。
遠く離れた大鬼神、先ほど足元から放たれた雷撃をはじいていたそれに“もう一撃”が飛んできた。
どこから? そんなもの見ればわかる。
誰が? そんなことこの場にいる麻帆良の人間は当然のごとく気づいてる。
そんなもの、あの相坂さよがあれほど信じた、彼女の師に決まってる。
「くっくっく。空から降ってくるどころではなかったか。さよ殿が信頼するのもわかるでござるな」
「さすが……というのもバカらしいな」
「すごいアルねえ」
驚いたように、小太郎と月詠とそして鬼たちが目を向ける。
鬼神を揺らめかせる大斬撃。
「はわ~。すごいですなあ、お姉さん方はあれ誰の仕業かご存知なんですかぁ~?」
その言葉に麻帆良四天王の三人がにやりと笑う。
その答えは明白すぎるほどに明白だ。
さあ、そろそろ役者もそろったようだし、
このはた迷惑な騒動の終幕に入ってもいい頃合だろう。
◆
光斬撃がスクナを揺るがし、それが二度三度と繰り返される。
遠く、暗い森の中。そこから放たれる光の連撃。
技も何もないただ物量のみに支えられた魔力の光がスクナを揺るがす。
倒せないからなんだというのか、それは効かないとは同義でない。
その一撃は動きを止めて、その一撃が巨体を揺らし、ならばそこには意味がある。
石化封じの宝玉を手に巻いたままフェイトと向き合うネギが、そのあまりにも力技な一撃に微笑んだ。
石化を封じる己の力を振るいながら、ネギとともにフェイトに向き合っていた明日菜がその光に微笑んだ。
遠く離れたその場所で、千雨が自分たちと一緒に戦っていることを理解して彼ら二人の体に力がともる。
ネギと明日菜を目の前に、驚いたようにそれを見る石使いもそれを見る。
フェイト・アーウェルンクスも、これが自分の石化術により止まっていたはずの“彼女”によるものであると理解して、感心したように息を吐く。
知るべきだと考えた未知の術式、必要ないと切り捨てた敵側の秘譚神秘。
だが、そんな彼の思惑を吹き飛ばすかごとく、こうして自分に見せ付けられる法則破りの無限鉱。
調べて話して、あげく石化させればそれですむなんて、そんな簡単な相手ではなかったらしい。
そうして当然ながら、ネギたちから離れたスクナの周り、そこにいた刹那と千草もそれを見る。
効くはずのない斬撃が繰り返されて、それが回を増すごとに強くなる。
効くはずのなかった斬撃が、回を増すごとに強くなる。
スクナの肩に乗っていた呪符使いはその魔術をスクナの力で受け止める。
最初の一撃は笑っていられた。
次の二撃目が力を増したことに眉根を寄せた。
続く三撃でその嘲笑が凍りつき、四度繰り返されればただひたすらに理力を上げ続けるその技に、もはや理解が及ばない。
底なしなんてレベルじゃない。
複雑な式なら納得できる。強固な術なら理解できる。だが、あれはいったい何なのか。
無限の魔力が渦巻く森の奥。そこから繰り返される大斬撃。そんなものに理解も分析も何もない。
光に打たれるリョウメンスクナ、その肩に乗ったまま近衛木乃香を胸に抱く、西の符術士が初めてうろたえるその姿。
ありえない一撃。終わりの見えない底なしの魔力光。理解の及ばないその術理。
それに思考をのっとられ、はるか彼方の森の先に視線を送る千草の姿。
攻め手がないと止まっていた刹那が空を跳ぶ。
天ヶ崎千草の隙をうかがい続けていた刹那の瞳に光が宿る。
リョウメンスクナと向き合いながら、ただひたすらに己の守るべき人を抱える千草を伺っていた半鳥族。
ありえざるものを見た千草の狼狽。
つまるところそれは、リョウメンスクナを制御する生命線である“近衛木乃香”を胸に抱く、天ヶ崎千草の見せる明白な隙であるからだ。
◆
スクナからも鬼たちからも離れた森の中。
一本の木の上で長谷川千雨が手を振るい、その手から光が生まれ飛んでいく。
己の中に宿る宝石剣。千雨に埋め込まれたそれが起動する。
いつかあったその光景。
いつかどこかの世界の中で、泥でできた巨躯を一刀の元切り裂いた遠坂凛の“光”があった。
泥の巨人に囲まれた遠坂凛が放ったその一撃。
遠い平行した世界の果てで、ルビーの前身が放った技がある。
泥の巨人を打ち倒したその技は、宝石剣を利用した純魔力の放出だった。
大気から魔力を取り出し、それを撃つその技術。それを次元をシフトさせて繰り返す。
エヴァンジェリンとの初対面で負った傷を癒した隠し玉。第三魔法の鍵であるそれはルビーの半身で、そして千雨と融合した彼女の魂そのものだ。
かつての凛の技を、研鑽されたルビーの技術で加工して、それをルビーが宿った千雨が振るう。
外の世界から魔力を装填。十の世界から引っ張った魔力を放つ。
それが大きな光となって京の夜景を二つに切り裂く。
光り輝く神の化身がその一撃を受けて小さく揺れる。
千雨はまったく表情を変えずにダメージ計算。
与えたダメージとフィードバックを再推算。
まだ弱い。再装填。今度は十五。
腕の筋繊維が裂け始める。
だが、それがなんなのだ。
それで千雨やルビーが動きを止めるはずがない。
旅館でわたしの元へ来た相坂さよは、腕が千切れていたではないか。
後ろにクラスメイトを従えて、わたしの石化を治したあいつは、泣き言など言わなかった。
あいつは、あいつらはわたしに近衛木乃香を助けてくれと頼み、わたしはそれに頷いた。
ならば、わたしがあきらめるなんて選択はありえない。
無駄なんてことはありえない。
ゆえに千雨は自分にできることをするだけだ。
鬼に向かって光剣を放ち続ける千雨の姿。
三発十発二十発と繰り返されるその奥義。
――――と、そんな千雨に対してネギから念話。
ほら、やっぱり無駄じゃない。次の選択が現れた。
ネギの情報と助言を受けて、千雨はひたすら繰り返されるかと思われたそれをいったん止める。
近衛木乃香と刹那の事情。
荒げる息を整えて千雨が遠見を行えば、ネギの言葉通りに空を飛ぶ刹那の姿が見えた。
なるほどと頷き、思考切り替え。
大神の肩に術者がのっていて、ネギの言葉通りにその手元には近衛がいる。
斬撃で揺らすのはここまでで、しかし、それで千雨に手がなくなるはずがない。
まったくひるまず、先ほどまで繰り返していた大奥義の術式工程を全キャンセルして、術式を編みなおす。
そう、この身は長谷川千雨であり、遠坂凛であり、そして間桐桜である。
七色宝玉、無端光。三稜鏡の魔法使いの依代だ。
無限の技を内包するルビーに手詰まりだけはありえない。
攻撃が木乃香を傷つけるというのなら、足を止め、相手をつかんで止めるような術理を用いればそれでよいだけのこと。
そう、確か。
まさに先ほどの剣戟の記憶の中にそれがある。
そうだ、いつか遠坂凛が光を放ったその光景。
遠坂凛が光を打ったその背景。
そう、その記憶、その記録、その中に、
――――いつか、遠坂凛の光の一撃を受けていた“巨人”がいたはずだ。
それはいったい誰の技だったのか。
遠坂凛の光の宝剣を受け止めた魔人を生み出したのは誰なのか。
それは間桐桜にほかならない。
ゆえに、その記録にはそれがある。
無尽蔵の魔力庫を後ろに背負った間桐桜の技術があった。
そして、今の千雨はルビーであって凛であって“桜”である。ならば、それが使えないはずがない。
間桐桜の技を長谷川千雨が再現できないはずがない。
千雨の体から無限の魔力があふれ出す。
大気の魔力を吸い尽くし、体に装填。
粘土をこねてそれを放出。次元をシフトしてそれを延々と繰り返す。
相坂さよが言っていた。
それを看病していたクラスメイトに言っていた。長谷川千雨に言っていた。当たり前のように言っていた。
千雨は絶対に強いのだ、と。
ああ、そうだ。相坂さよ。お前の言葉に嘘はない。
わたしはお前の言葉を裏切らない。
やつらに、長谷川千雨のすごさを見せてやる。お前が信じるお前の師で親友で、そしてずっと一緒にいると誓ったものの力を見せてやる。
そう呟く千雨が針葉樹の上で術の起動。
千雨の腕の先から生まれたそれが空を駆け、長谷川千雨の目の前で、長谷川千雨のその横で、長谷川千雨の視線の先で具現する。
先ほどから光剣を放ち続けていたものの停滞と、その数瞬後に生まれるその力。
あきれ果てる四天王の視線の先に、
自慢げに胸をそらす明日菜の視線の先に、
笑顔を見せるネギ・スプリングフィールドの視線の先に、
そして“リョウメンスクナ”の目の前で、その巨人の光体が具現する。
第三魔法の欠片を使った間桐桜の泥の巨人と第二魔法の真髄に踏み込んだ遠坂凛の光の剣戟。
無限の魔力を平行世界から取り出すルビーの術式と、無尽の魔力を元に生み出される大人形。
二種の“魔法”の片鱗が組み合わさった大魔術。
リョウメンスクナを倒すには足りなくとも、その足止めなら十分で、そして何よりこちらの数は無制限。
光泥の巨人がスクナをつかみ、はじかれて、吹き飛ばされて、打ち倒されるそばからその巨体が増えていき、その隙に桜咲刹那が木乃香を奪う。
翼を羽ばたかせながら木乃香を抱く刹那の姿。
強化した視力でそれを見ながら千雨が笑う。
魔術回路を斬撃技に再シフト。
筋繊維の断裂から始まり、内腑の裂傷。
すでに口から血を滴らせていた千雨がネギから念話を受け取って頷いた。
あと少しだけ持ちこたえてくれと、その言葉。
いいだろう。あと少しだなんていわないで、あいつが倒れるまでだろうとやってやる。
ネギと明日菜もあの銀髪相手に頑張っていたようだ。
ここで自分が不甲斐ない真似をさらすわけには行かないだろう。
残る巨人を操って、光の斬撃で動きを止めて、その対価に血反吐を吐いて、それをひたすら繰り返す。
だんだん意識が薄くなる。
燃料は回っている。筋繊維の切断なんて無視できる。
だが、ルビーの置き土産が消えていく。
令呪のサポートが薄れていく。
歯を食いしばる。間に合うか?
と、そこで、長谷川千雨の耳に言葉が届く。
あきらめなければ絶対に、と歯を食いしばる千雨の横から声がする。
「――――頑張るじゃないか、半人前」
長谷川千雨の横から声がして、ポンと肩をたたかれる。
ようやく来たかと、頬を緩ませる千雨の横で、そんな当たり前のように告げられるその言葉。
「なるほどな、ネギのいってたのはてめーのことか」
「そういうことだ。ついでに、もうあと十秒ほど踏ん張れたなら、あとで一杯おごってやろう」
そんな台詞とともに千雨のそばから気配が消える。
目を向ければ、その姿はすでになく、視線を飛ばせば、すでに金髪を夜空になびかせるその背中がスクナの前で浮いている。
それはもちろんエヴァンジェリン・マクダウェル以外にありえなく、そして彼女こそが最終幕の降ろし手だ。
◆◆◆
そしてエヴァンジェリンの言葉通りに、ほんの十秒であれだけ千雨の一撃に耐えていたリョウメンスクナが打ち破られた。
さすがに世界最強と呼ばれる女だ。
最強を間借りしているだけの自分とはわけが違うらしい、と千雨が笑う。
エヴァンジェリンが来て、それだけですべてが終わった。
氷漬けになり砕け散る鬼の姿。
木の上から降りて、地面に倒れたまま木々の隙間からそれを見る。
戦いの気配が消える。
鬼は四天王が大半を倒したようだし、あの鬼神はエヴァがやった。
いいところを持っていかれてしまったようだ。
ネギのほうもどうにかなったらしいと、千雨がネギからの声を聞く。
銀髪もエヴァンジェリンにやられて退散したとネギから伝えられた。
明日菜に渡した誕生日プレゼントが意外に役に立ったらしいが、詳しく聞くのは今度になるだろう。
はあ、と千雨が息を吐く。
ようやく一段落をつき、同時に千雨は自分の中から、魂の欠片が消えていくのを感じていた。
魂とは意思である。無くなれば死ぬが、減じることは死ではない。
意思とは他者からもらうこともできるし、自分で増やすこともできる魂の通貨である。
しかし、千雨は顔をゆがめるのを止められなかったし、涙を止めることもできなかった。
しっとりとして夜の森で、静かに涙を流さずに入られなかった。
なんとまあ、気づかなかった。
いつの間にか、あの女はここまで自分の中で大きな位置を占めていたらしい。
だが千雨はそれに慟哭を返したりはしなかったし、その悲しみを苦しいとは類さなかった。
なぜならば、これは“彼女”の望み通りであるはずだから。
そうして、そのままほんの数分。
ボウと森の中で仰向けに寝転がっていた千雨がピクリと動く。
気配を感じて後ろを向いた。
そこに立つ一人の男。銀髪の石使い。
女が泣いている姿を勝手に見るとは紳士の風上にも置けないやつだ。
千雨は無言のまま涙をぬぐって、ついで倒れたままその男に言葉を送る。
「やられたかえりか、誘拐犯?」
こくりとフェイトが頷いた。
「ああ、ダークエヴァンジェル相手は分が悪い」
千雨は特に戦闘を行う気配を見せない。
それはフェイトも同様だった。
「ふーん、やっぱすげえな、あのちびっ子。で、お前はわたしに意趣返しでもする気かよ?」
フェイトが首を振った。
やっぱりか、と千雨が頷く。
こいつらの行為に賛同なんてできるはずがないが、それでもその中に宿る信念が本物であることは明白だ。
そいつが意趣返しなどするはずない。
逆に千雨をこのまま誘拐、というのもさすがにない。
影渡りの使い手であるエヴァンジェリンの圏内でそんなものが成功するはずがないだろう。さっきを見せれば、その瞬間にあの保護者役が現れるはずだ。
「さっきのはやっぱりあなたが?」
数瞬黙ってからフェイトが口を開く。
だがそれに千雨は首を振る。
「違うね、あれはルビーの技だ」
断言したその言葉に嘘はない。人の言葉裏を読むのが上手いとはいえないフェイトでも、それはわかった。
「前に言っていたあなたの師だね。この街にいたのかな?」
「ふん。お前にゃ見えないだろうが、いまお前の目の前にいるんだぜ、あいつはな」
そう呟いて、千雨がようやく立ち上がった。
痛む体を騙し騙し体を上げると、きょとんとした顔のフェイトに向き直る。
「もう満足しただろ。どっかいけよ。近衛の件も、もうてめーらの負けだろうが」
肩をすくめる千雨に、フェイトが頷いた。
「そうか。しょうがないね。ああ、あともうこの件でぼくらが手を出すことはないと思うよ」
へえ、と千雨が片頬を上げた。あの符術士は捕まったのか。
それはいい知らせである。
この銀髪は逃げ道を確保しているようなのが癪といえば癪だが、千雨では捕まえるのは無理だろう。
「お前もネギとエヴァンジェリンにやられたみたいだしな」
なので、意趣返しに嫌味を言ってみた。
フェイトがむっとした顔をする。
それを感じ取って千雨が笑った。
改めて思うがこいつはやっぱりガキっぽかった。正反対なようで、やはりネギに似ているやつだ。
挑発されたのに気づいたのだろう。フェイトが無表情を取り戻して転移陣を発動させる。
「それじゃ、今回はこれで終わりだね。ボクはもう引かせてもらおう」
今回は、ってのはなんなんだ。
無言でため息を吐く千雨の前で、誘拐が片手間の些事だったようなことを言って今度こそフェイトが消える。
ここに来たのはやはり先ほどの技の確かめだったようだ。
そうしてようやく消えたフェイトの影に千雨が、ふんと鼻を鳴らす。
これで終わり、とは呆れるぜ、アホたれめ。
まだまだ終わりのはずがない。
億劫だがしょうがない。
千雨はゆっくりと立ち上がり、遠くにある本山に目を向けた。
そうしてやれやれと首を振る。
そう、この騒動の終焉が、スクナなんてデカブツの退治だけで収まるはずがない。
長谷川千雨にとっての“勝ち”の基準、それはこの騒動の後始末を含んでいる。
そう、彼女にとっての終わりとは、すべてが日常へ戻るそのときなのだ。
そう。すべてを元の日常に戻すその瞬間。
つまり、それは
いま本山にいるだろう彼女のクラスメイトが、こんな馬鹿げた力に関わっていなかった、そんな日常を取り戻すときである。
◆◆◆
本山の一室。千雨はその一室から離れて廊下に出た。
一人だった。
スクナが消えてから、すでに数十分がたっている。
エヴァンジェリンやネギが湖周りで後始末をしているであろうそのときに、千雨は一人で先に本山まで戻っていた。
主だった魔法生徒には、席をはずしてくれと頼んでいる。
だから千雨は、本山本邸の一室の、その入り口から出てすぐの縁側にたった一人で腰を下ろしていた。
そして、背後の部屋には当然のごとく3-Aのクラスメイトが眠っている。
月が出ている。
それを見ながら千雨は一人で息を吐く。
後ろの部屋ではクラスメイトが眠っている。
一部の本業や、学校からの許可もちは起きている。
別の部屋にいるはずだ。
だがそれ以外のものは部屋で眠り、そして起きたときには今夜のことを忘れていることだろう。
この部屋で布団に寝かされているのは、たったいま千雨に“記憶”を抜かれたものたちだから。
全てが終わり、一段落がついた後、誰に相談することもなく、千雨は本山に戻り自分を出迎えたクラスメイトの意識を刈った。
交渉はなかった。説明もなかった。躊躇も戸惑いもなく、それは出迎えた全員に対して行われ、自力でレジストした魔法生徒にその行為を問いかけられた。
だが千雨はこの件に関しては彼女たちに文句を言わせなかった。
自分で始末をつけると言い張り、こうして記憶を奪い去った。
全てのものの干渉を断り、意識を奪った生徒を一室に集め、そこで全てを終わらせた。
だがそれを止められるものは誰もいない。
さよは千雨を起こしたショックで倒れていたし、ネギはまだエヴァや真名たちとともに泉の辺にいるはずだ。
もちろんそれをネギとパスのつながっている千雨はわかっていた。
ネギが気づいていないことも、さよが気づいていないことも、長谷川千雨は知っていた。
そしてなによりもエヴァンジェリンが“気づいていながら”向こうでネギたちを止めてくれていることも、長谷川千雨は知っていた。
だからこそ帰ってくる前にやったのだ。
ネギが帰る前に、さよを起こさないように、そしてすべての魔法生徒に文句を言わせずに行った。
春日を巻き込むわけにはいかないだろう。茶々丸に縋ってしまうわけにはいかないだろう。超たちに頼ることはできないだろう。
ネギにさよに明日菜たち? はっ、それこそありえない。
仲良くなっていた宮崎のどかも、自分の様を見ていたにもかかわらず笑顔で自分を出迎えてくれた早乙女ハルナも、強張った顔をしながらもクラスメイトである自分を気遣って笑顔を見せてくれた和泉亜子も、こんな状況下ですら自分に不振を伴う目を欠片も向けなかったクラスメイト達をみんなまとめて眠らせた。
何も話さず、何も告げずに眠らせた。
会話はなかった。交渉はしなかった。
笑いかけられて、その笑顔に魔術を返した。
だってそれが当たり前だ。
千雨は先に本山に帰ってきて、そしてネギたちが帰ってくる前にそれを全て終わらせた。
ネギにもさよにも、超たちのも渡せないその責務。
あいつとは重りを分担しようといったけれど、やはりアイツにこういうことはしてほしくなかった。
魔術師には当たり前でも、魔法使いにはつらいだろう。
ネギからは傷を一人だけで負うなといわれた。
ルビーからは苦労と溜め込むなと忠告された。
さよには頼ってくれと泣かれてしまった。
だが、それでもこの様なマネをさよやネギにさせるわけには行かないだろう。
弟子と年下の恋人だ。
師匠で年長の自分がやるべきことである。
いや、違う。
それに何よりも、問題なのは、きっとあの二人に相談すれば、
――――あいつらは、きっと全員に事情を説明する道を選ぼうとするだろう。
それどころではない。もし千雨の予想が当たるなら、学園長や西の長ですらそれを“許す”可能性すらある。
だからこそ、千雨は誰にも相談せずに、誰かに干渉される前に全ての処理をやり遂げた。
明日菜から記憶を奪おうとしたときは覚悟が違う。
のどかの記憶を誤魔化したときとはその背景が違いすぎる。
ネギがネギを許しても、学園がネギを許しても、世界の皆がネギをゆるしてしまおうとも、自分はきっと覚悟を持たないままにばらすという行為は許せない。
それは絶対に自分には相容れない。
自分とネギの、小さな、それでいて絶対的な違いである。
ネギはそれを知っている。わたしもそれを知っている。
歩み寄ろうとしている。理解しようとしている。
ネギが正しい面も確かにある。
それは人の意思を裏切らないということ。
魔法使いの傲慢さから離れられるということ。
以前千雨がネギに説教をしたように、ネギが明日菜に記憶を奪う道を一度選び、その後話し合おうとしたように。
ネギはきっと全員分の責任を抱え込もうとするだろう。
だけどそれは純粋にネギの負担だ。ネギならできるかもしれない。
だから千雨がやったのだ。
魔法に関わらない全ての生徒を眠らせて、その記憶を奪い去った。
ネギの考えは正しい。
だが、千雨が正しい面も絶対にあるのだ。
ネギが知れば、ネギは生徒と全員分の重みを背負っただろう。
なぜならネギは自分自身の苦労よりも生徒のほうが大事だと思っているから。
だが千雨は違う。
千雨はそれではネギがつぶれてしまうと知っている。
まだ生徒が知るだけならいいだろう。しかしそれがネギの責任となり、あの男にいまよりもさらに重たい肩書きが絡みつき、その挙句それを利用しようとするものが現れれば、ネギはきっとつぶれてしまう。
選べない問いに、いつか答えなければいけないときが来る。
あいつはきっとそれにたえられる。だが、それはいまではない。
早すぎる決意は、いつかくるそのときに、この出来事は重みになってしまうだろう。
だからこそ、長谷川千雨はクラスメイトよりもネギを選ぶ、と決めたのだ。
そんな回答。
だからこれは自分が飲み込む。
だってこれは罪ではない。
ただ、やらなくてはいけなかっただけのこと。
いつかアイツが消化できることもあるだろう。
いつか話せる日があるかもしれない。
だがいまは駄目だ。それはあいつに押し付けすぎだろう。
わたしはそういう外交的な方面ではネギを助けることはできないのだから。
千雨はネギを選択肢の前にすら立たせるべきてはないのだ、と考えた。
だからその責任は千雨が取る。納得したことだ、理解していたことだ。だから問題なんて何もない。
わたしはアイツがいつか耐えられる人間になることを知っている。でもあいつが今すでにどれほどのものを抱えさせられているかを知っている。
気にするな。これは正しいことなんだ。
気にするな、これは間違ってはいないんだ。
気にするな、これは間違いではないはずだ。
だからわたしは、気にしていない。
「そうだ。……わたしはそんなの全然気にしてない」
呟きが思わずもれた。
だってこれはしょうがない。
ネギにもさよにも相談できず、“アイツ”にはもう相談できない。
それにそもそも、慰めだろうと説法だろうと受け入れられないことが決まっている。
だから勝手に全てを決めて、
だから勝手に全てを終わらせて、
だから何一つ、わたしは、長谷川千雨は、友人たちの記憶を奪ったことなんて全然気にする必要なくて、
自分でそう決めたのだ。
自分の責任は自分でとる。
だけど、
だけども、そんな千雨の独り言に言葉が返る。
「――――でも、それはきっと嘘ですわ」
当たり前のようにつむがれたその言葉。
驚愕に身を強張らせ、反射的に振り向く長谷川千雨の視線の先。
振り向く千雨の目の前に、眠っているはずの雪広あやかが立っていた。
◆
よいしょ、とババくさい声を上げながらあやかが千雨の横に座る。
千雨はそれを呆然と見るだけだ。
だって、それはありえない。
千雨の魔術は全員に等しくかかり、魔法生徒たち以外のものを等しく眠らせ、その記憶を奪ったはずだ。
皆が眠っていた。皆が記憶を失った。
その中には雪広あやかの姿があったことを千雨は確認していたはずだ。
唖然とあやかを見る千雨にくすりと笑い、あやかが懐に手を入れた。
「これ、お返しいたしますわ」
そんな千雨にひょいとあやかが宝石を放り投げる。
あやかがさよから受け取った守りの宝珠。
薄く光る宝石が千雨の手に治まった。
「こ、これ……」
「さよさんからお預かりしていましたの。結局使うことはありませんでしたけど」
違う。この宝玉はまさにこの瞬間に力を発していたに違いない。
なるほどと千雨は頷いた。これが答えか。
眠るクラスメイトの中で、ただ一人起きていた一般人のその理由。
自分の魔術の手ごたえも明確に感じ取れていなかった上に、それを防いだのは弟子がもつ自分の宝珠。
これではエヴァンジェリンに半人前呼ばわりされてもしかたない。
この宝玉はすでに千雨の手を離れ、さよのものとして登録が済んでいた。千雨にはその発動がつかめない。
さよにきちんと話を聞いておかなかったつけがいきなり出ていたらしい。
これでもしも、あやかが黙って眠った振りをしていたならば、千雨はきっと気づけなかっただろう。
そんななか、こうして対話をしに来た以上、千雨は対話の義務を負う。
黙ったまま言葉を待つと、千雨の考えを理解したあやかが口を開いた。
「やはり魔法とやらのことは話してはいけないのですか?」
無言でたたずみ、最初に口を開いたのは雪広あやか。
彼女はいま起こっていることを正確に理解していた。
さよとともに千雨の石化を治し、その後、簡単な説明を受けて千雨を送った。
そして、帰ってきた千雨が手をかざし、そこで一旦自分の記憶が途切れている。
これはつまりそういうことなのだろう。
石になった風香を見た。それを癒した技を見た。
石になっていた千雨を見た。それを癒す技を見た。
当たり前だが、そのようなものがこれほど秘匿されるには種がなければおかしいのだ。
たとえばそれを疑問に思わせないようにするような。
たとえばそれを夢だと思わせてしまうような。
いやいやもっと単純に、それを“忘れて”しまうような魔法が必要だ。
「委員長もわかるんじゃないか? 秘匿されるべき技術についてはさ」
「わからないでもありません。ですが、先生がたの技術は秘匿すべき、で済ませるには大きすぎます。その魔法とやらの一部を秘密にするならまだしも、魔法自体を秘密にしているなど……」
ある程度納得も出来た、何とか理解することは可能だった。
事情を推測することは不可能ではなかった。
あれほど目立つ騒動がこの京の街で騒ぎになっていないのは“結界”とやらが張られていたらしいのだが、この場所はその結界の範疇外らしい。
「一部を秘密というのは、つまり秘密にすることがばれるということだ。延長の技術ならまだしも存在すら秘匿されている魔法にそれでもまだきつすぎる」
あやかがその言葉に眉根を寄せる。
「ですが、それでは魔法を知らずに科学だけを使う方がいい面の皮ですわ。日夜勉学に励み、医術を学び、その横で杖を振って魔法を唱えて不治の病を治されるようでは、それはもはや冒涜です」
「そうなっちまうからこそ秘密なんだ。ここまで乖離が進んだ以上、なじませるのは難い。100を救うために10を捨てる話はそれほど珍しいものじゃないぜ」
あやかが苦虫を噛み潰したような顔をする。かつての千雨と同種の苦悩。
理解できないからではない。理解できてしまうからだ。
いや、理解どころではない。そもそもいまの千雨の言葉は、穏やかな面しか説明していない。
「……分からないでもありませんが、未熟だといっていたさよさんの技術ですら、万単位の悲しむ人間を救えるほどに跳びぬけています」
「こっちの魔法使いさんはお人よしらしいから、救うための活動はしているらしいぞ」
「……秘密裏に?」
「そう。秘密裏に」
それが免罪符になるはずない。だけどそれを否定することもまたできない。
救うという面から考えているその言葉。
100を守るために10を守らない。
それは裏を返せば、100の犠牲を10に抑えるという意味であることを、生まれより君主論から物事を学んでいるあやかにはわかりすぎるほどわかってしまう。
一人の犠牲も納得せずに、どれほどの犠牲を積み重ねても心をおらず、その信念に殉じられる英雄たち。
ナギ・スプリングフィールドや、衛宮士郎。彼らたちとは明確に異なる遠坂凛や長谷川千雨の考え方。
それはあやかが納得したように、上に立つものの考え方であって間違いではない。
万人に一人の英雄を存在させるための土壌を作る王の思考。
英雄とは決して相容れることはなく、それでいて英雄たちと最も親密なその摂理。
それをこの場にいる二人は知っている。
これほどの技術を公開すれば、それは世界規模の混乱となる。
なじませるならまだしも、無理やり沈静化すればそれは魔法と“魔法以下”の絶対的な上下関係と、それによる支配すら生み出すだろう。
あまりにも難しいそのバランスと、その調整・調律。そんなものの指揮をいったい誰が取れるというのか。
絶対的な調律官を必須とし、そのものが野心をわずかにでも見せればそれはそのまま世界の上下関係が掌握される。
とてもじゃないが、そんな本当の意味での神様頼みのようなマネは千雨はゴメンだ。
「分岐した技術が秘匿されるならまだしも、いきなり違う世界から技術が流れりゃ必然こうなる。そしてそれを力を使わずに何とかできる道はわたしにはとても考え付かん。外交問題とかもでもあるだろう。これが一番安定してる。メン・イン・ブラックって知らないか? たとえ世界平和に繋がろうとも、秘密を知るのは一握り。ベスト・オブ・ザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト・オブ・ザ・ベストだけってな。ありゃなかなかな的を射てるよ」
「千雨さんはなんとも思いませんの? 魔法使いなのでしょう?」
とがめるような視線を飛ばされたが、いきなり文句を言われることはない。
「それは逆だな。わたしはもっとたちが悪い。さよが言ってなかったか? 魔術と魔法は別物で、わたしはこの世界でも珍しい魔術師なんだ。だから魔法使い以上に秘匿に厳しい。たとえ世界を牛耳ってもその秘密を明かそうとはしないくらいに」
千雨が断じる。
「わたくしを納得させてはいただけませんか?」
雪広あやかが冷静にいった。
雪広あやかは千雨に似ている。
あやかには取り繕った言葉を言う必要がないとわかっていた。
ゆえに、千雨はこくりと頷いた。
「魔術ってのは与えられない力だからだ。知識は与えられる。神が社にその体を分けてもその力が分かれることはないように、先生から二次関数を学んだからって、先生がそれを忘れたりはしないように。そして“魔法”もそうなんだろう。技術や知識、つまり精神のあり方だ。信仰なんかもそんな感じだな。だけど、わたしの魔術はちょいと違う」
「違う?」
あやかの疑問符に千雨が頷く。
「ああ。ある魔術があり、世界で使える人間が百人いて、それが二百人になったらそいつらが引き出せる力は半分になる。それは共有する力だから。ゆえに根源。単一にして唯一がもとめられるそういう技法」
あやかが言葉を止める。
千雨の言いたいことが大体理解できたからだ。
「そしてその技術もただ教えて伝わるものじゃない。血統に依存して子孫に向かって送られる。一つの進化、一つの改善に一世代かけるんだ。わたしは例外で、あいつ自身も似たようなもんだからさよは勘違いしてるみたいだが、本来は十代続いて一人前になるってレベルだ。子供が二人生まれたらそのうち一人は本気で間引くようなやつばかり。そして不慮の事故でも起こればその技術は消失する。バックアップが取れないからな。イカレタやつらばっかりの、健全でいようなんて方が無理がある学問なんだよ」
「……でも千雨さんは納得されている」
「まさにそこだな。わたしは納得している。それを間違いだなんて考えることは許されない。だからわたしが魔法使いにも、文句なんざ言えっこない。人のためになんてのは嘘っぱちだ。わたしらは自分の受け継いだもののことだけを考える。だから――――」
千雨は先ほどからあやかに視線を向けていない。
当然あやかはそれに気づいていた。
千雨の言葉を先んじてあやかが言う。
「――――だから、わたくしの記憶も消すのですか?」
千雨の口が止まった。
ばつの悪そうな顔をする。
当然だ。魔法も何もないただの会話で千雨が雪広あやかを上回れるわけがない。
即座に意識を奪うべきだったのだ。
問答を仕掛けられたから乗ってしまった。
「ああ、悪いがこの話が終わったら記憶を奪わせて貰う。……なにがあろうがだ」
決意を固めて口にする。
なにを言われようが、どんな問答をしようが、どれほど罵られようが。
当然だ。説得に応じてよい場といけない場がある。
長谷川千雨の根幹で、ネギやさよより優先させたこの決意。
それがそうそう破られるはずがない。
だが、だからこそ。
「――――そうですか。まあしょうがないのでしょうね」
あまりにあっさり頷くあやかの姿と、その回答に驚いた。
うつむいていた千雨が反射的に顔を上げる。
疑問符を渦巻かせる千雨に、あやかが笑った。
微塵もしこりを残さないほどに洗練された人を支えるその微笑。
雪広あやかはなきそうなほどうろたえる千雨に向かって微笑んだ。
「わかりましたから。千雨さんとネギ先生の事が。記憶はなくなってもこうしてわたくしが納得したという事実は変わらない。それで十分ですわ」
「じゅ、十分?」
ぽかんとした千雨にあやかが言葉を続ける。
当たり前のように、いつもどおりに、まるでいつもの委員長と変わらずに答えるその姿。
「ええ。ですから千雨さん。わたくしが忘れてしまう前に、ここで言っておきますわ」
「な、なにを?」
「記憶をなくしたら、わたくしはもう一度文句を言うかもしれませんが、今のわたくしは今夜、すべてを納得したということを。さよさんの言うとおりですわ。千雨さん、あなたはやはりとても素晴らしい方でした」
「い、いいのか?」
「なぜ千雨さんがそれを聞くのですか」
あやかがくすくすと笑った。
何一つ気負いも後悔もなく、自分の記憶を消してもよいと口にする。
未練がないわけじゃない。記憶を消されたいわけじゃない。
彼女のその笑み。それは許容から来るものだ。
「平気ですよ。だって千雨さんは覚えてくださっているのでしょうからね。お忘れですか。あの日、わたくしが言ったこと。わたしは貴方を見極めると」
千雨はびびった。そして、例えようもない罪悪感で動きが止まる。
唇をかみ締める。
「悪い、ホント」
「なぜ謝罪を? あなたが自分を正しいと思うなら、ここは謝ってはいけませんわ」
「ご、ごめん」
反射的に再度謝罪の言葉を口にする千雨にあやかが笑う。
「また謝ってます」
「い、いや……」
うろたえて言葉を捜す千雨にあやかがむしろ困ったような顔をした。
この人は意外に几帳面らしい。
「ふふ、千雨さん。貴方は律儀なかたですね」
フム、と頷く問題児を纏め上げる3-Aの委員長のいつもの姿。
すこし考え込んでから、すこし表情を改めてあやかが口を開いた。
「これはネギ先生にも千雨さんにもさよさんにもできないことです。だからわたしが言いましょう。千雨さん、あなたはわたしたちのクラスメイトをなめすぎですわ」
きっと、何も知らない人間しかいまの千雨には触れられなかった。
だからそれが自分の役だ。
自分の前で強がりを言い続ける千雨の前で、あやかは正確にそれを理解した。
「そう悔やむ必要はありません。あなたはわたしたちのためにやれる手をすべて打ってくださった。さよさんから聞いていますわ。それならこの結末だろうと、わたしはあなたを許します。彼女達もそうでしょう。記憶を奪ってもそこに悪意がないのなら、われわれは文句を言うことがあってもあなたに悪意をむけたりはしませんわ」
唖然として千雨があやかを見る。
同時に千雨の脳内で思い起こされるかつての光景。
いつか千雨自身が断じたその言葉。
百人いて百人、千人いて千人。たとえ百万人に聞いたって――――
かつてルビーに出会い、裏の事情に巻き込まれた千雨がいた。
かつてネギに出会い、裏の事情に巻き込まれたアスナがいた。
かつて、千雨はネギに問いかけた。
――――秘密の世界の事情を聞かされて、厄介ごとがあるからといってそれを忘れることを願ったりはしねえんだ。
いるはずないと、そう断じたものがいた。
そんなことできるはずがないとどこかの誰かがいっていた。
人は無知を選べない。そんなことが出来るのは、と。
そんな言葉をどこかの魔法使い見習いが断言したはずだった。
◆
――――そうして、千雨は意識を失う雪広あやかを布団に寝かせ、その安らかな寝顔に目を向ける。
千雨の顔は泣きそうだった。
あまりの感謝で罪悪感で、そしてあまりの驚きで。
麻帆良女子中等部、3-Aの委員長。
ああ、と千雨は息を吐き、
「――――本当に、お前は賢者だったんだなあ」
意識を失った雪広あやかに語りかけた。
眠る彼女に目を向けて、きっと明日にはすべてを忘れている少女に目を向けて、
尊敬と憧れと感心と、万の色をたたえた瞳を彼女に向けて、千雨はそのまま口を閉じる。
それだけを呟いて、千雨はさよやネギやエヴァンジェリンたちが戻ってくるまでの長い時間を、その場で眠るあやかと一緒にたたずんだ。
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ネギま世界の桜と懐の深い委員長さんの話。
今回の問答ができるのはたぶん委員長だけ。知らないままでいる強さ的な何か。
あとやっぱり戦闘シーンはなし。ちなみに最後の令呪は石化外しではなくルビーの助力に使ってます。
ルビーについては次回。ネギとのからみも次回。あと次回で修学旅行編が終わるので赤松板に移らせていただきたいと思っています。