「志摩子!」
声と同時に教室に飛び込んできたのは白薔薇さまだった。休み時間もそろそろ終わるというタイミングで現れた闖入者に、クラス中の視線が集中する。
白薔薇さまはさっと教室に目を走らせただけで目的の人物を見つけたらしく、そちらへ駆け寄っていった。祐麒の視線の先で、志摩子さんは驚いた表情で固まっている。
志摩子さんの手を掴んだ白薔薇さまは、とても良いいたずらを思いついた子どものような笑顔で口を開いた。
「おいで」
「ろ、白薔薇さま。あの……」
「行くよ、ほら」
何か言いかけた志摩子さんを遮って、白薔薇さまは入って来たときと同じくらいの勢いで教室から駆け出していった。もちろん、志摩子さんの手を引っ張ったまま。
白薔薇さまの登場から退場まで、三十秒とかかっていなかっただろう。嵐のように、というのはああいうことを言うのだと、祐麒は深く納得した。
目の前で起こった鮮やかな誘拐劇に止められていた教室の時間が、ようやく動き始めた。最初はすぐ隣の人との声をひそめた会話だったのだろうが、それはさざ波のように教室全体へ広がっていく。
その会話に混ざることなく、一人で頭の中を整理していた祐麒は、唐突に肩を叩かれた。
「ちょっと、私たちがいない間に何があったわけ?」
振り向いた先にいたのは、たった今ミルクホールから戻ってきたのだろう、桂さんと蔦子さんだった。ちなみに祐麒は、お菓子の誘惑から体を守るために同行を辞退していたのである。
「ええっと……」
祐麒はなんと言ったものかと思案する。志摩子さんが誘拐された。誘拐犯は白薔薇さま。起こった事実はそれだけだ。けれど、白薔薇さまのあの笑顔と、志摩子さんの縋るような瞳は、言葉で伝えられるようなものではない。そして、それを伝えられないなら、何が起こったかを正確に理解することはできないように、祐麒には思えた。
「蔦子さん風に言うなら、今年一番のシャッターチャンスを見逃したって感じかな」
そう言うと、蔦子さんは「それは残念」とでも言いたそうな表情で、肩をすくめた。
一方、桂さんはそんな情報では納得してくれない。
「何かとんでもないことがあったのは、雰囲気で分かるの。その中身が知りたいんじゃない」
「そうだなあ。たぶん、志摩子さんが次の授業をサボるか遅刻する、ってことかな」
「はあ?」
さらに混乱した表情をする桂さんに、祐麒は苦笑する。詳しいことはその内、校内新聞であるリリアンかわら版にでも載るのではないだろうか。
きっと今頃、あの二人はロザリオの授受を行っているはずだから。
【マリア様がよそみしてる ~その六・契りを結んだ人~】
「うーん」
夕ご飯を食べ終えた後、祐麒は自室で一人、ベッドの上で頭を悩ませている。
夏休みごろから少しずつ考えてはいたが、たぶんその前に戻れるだろうと現実から逃げていた。けれど、今日の志摩子さんと白薔薇さまの件を見て、そろそろ真剣に考えなくてはいけないと、そう思ったのだ。
たぶん、この世界は祐麒と祐巳の役割が逆になっている。
確信に近い思いを抱いたのは、五月のことだ。マリア祭の前だったか後だったか、祐巳が肩口を五針も縫う怪我をした。幸い、腱が切れるようなこともなかったし、こちらの祐巳は男なので痕が残ってもそこまで大事になるものではない。まあ、あの時は両親と一緒になって本気で怒ったけれど。
問題は、元の世界で祐麒もまた、同じ怪我をしているということだ。人がいないタイミングを見計らって押入れのがらくたBOXを探ってみたら、案の定ものすごく見覚えのある風呂敷包みが出てきた。それを持ち出せば祐巳も怪我の原因を隠すのを諦めて、両親の機嫌がもう少し早く直ったかもしれないけれど、さすがにできなかった。武士の情けという奴だ。祐麒自身、元の世界では家族に隠しておきたい過去だったのである。
とにかく、本来なら祐麒がやっていたはずの生徒総会での出し物を、祐巳がやった。怪我もしたということは、物置に閉じ込められたところまで一緒だったのだろう。夏休みには合宿だと言って、数日間学校へ泊まり込んでもいた。
おそらく、祐巳は柏木先輩の烏帽子子になっている。
だとしたら祐希はその内、祥子さんの妹になるはずだったんじゃないだろうか。
祐麒には、姉である祐巳以外の人物が祥子さんの妹になっているところなど、想像もできない。けれど、こちらの世界に祐巳はいない。代わりに収まるのが祐希であるという仮定は、とてももっともらしい気がした。兄である祐巳は祐麒の代わりを立派にこなしているようなのも根拠の一つと言える。
だからと言って、姉の祐巳の代わりが祐麒に務まるかと考えると、どうしても否と言いたくなる。
祐巳は祥子さんの妹として山百合会に関わるようになって、大きく成長した。姉がどんどん先に行ってしまうような気がして、焦ったこともある。けれどそれ以上に、祐巳がいたからこそ山百合会が変わった部分もあるはずなのだ。
人と人の出会いには、そういう力がある。
『おいで』
志摩子さんにそう言って笑った白薔薇さまの顔を、祐麒は思い出す。
マリア祭などの学校行事で、遠目に見ることのあった白薔薇さまは、いつも心ここにあらずという顔をしていた。少なくとも、元の世界の小笠原邸で出会ったときとは、雰囲気が全然違った。その理由が、今日分かった。
白薔薇さまは、志摩子さんという妹を得て初めて、あの白薔薇さまになったのだ。
それはきっと祥子さんもそうだろうし、祐巳の妹になった瞳子ちゃんもそうだろう。
とんでもなく鈍いくせに、自然体のままで一番大事なところだけは外さない、そんな姉だからこそ出来たことが、いくらでもあるはずだった。
祐麒にそれが出来るのだろうか。少なくとも、結果や過程の幾つかを知ってしまっている祐麒は、自然体ではいられない。
「祐希ー、次お風呂に入っちゃいな」
どんどん、とノックの音と一緒に、祐巳の声が飛び込んできた。いかな兄といえど、年頃の妹の部屋にいきなり踏み込んだりはしない。姉の方の祐巳は、祐麒の着替え中にいきなり入ってきては悲鳴を上げていたことが何度かあったけれど。
祐麒は「はーい」と返事をして、ついでに兄に質問をぶつけることにした。
ベッドから飛び降りると、出口に駆け寄ってドアを開ける。廊下を歩いていた祐巳の後姿に声をかけた。
「お兄ちゃん、聞いても良い?」
「なんだよ」
「たしか花寺にも姉妹制度みたいなのがあるんだよね」
祐麒の言葉に祐巳はうなずいた。花寺にあるのは烏帽子制度だ。どちらも、上級生が下級生を指導するという点ではほとんど変わらない。
「例えば、祐巳のお姉さま……じゃなくて烏帽子親に、もっと相応しい烏帽子子がいたとするじゃない」
「うん」
さらにうなずいた祐巳だったが、口の中でぼそぼそと「あの人と本当の意味で釣り合いの取れる人なんているかなあ」と呟いているのが聞こえた。その点には深く同意しておく。
「でも、その烏帽子子の人は転校か何かでいなくなっちゃったの。その代わりをお兄ちゃんが務めることになったら、どうする?」
「頑張る」
あまりにもあっさりと、祐巳は言った。
「気に食わないところもあるけど、なんだかんだ言ってあの人のこと尊敬してるし。その烏帽子子の人はもういないんだろ。少なくとも烏帽子親は、俺を次の烏帽子子にって選んでくれたんだから、相応しいって胸を張れるまで頑張るよ」
途中から、耳をふさいで逃げ出したくなった祐麒だった。祐麒にそっくりのその顔で、柏木先輩のことをあまり褒めて欲しくない。恥ずかしいとか、そういう感情は持ち合わせていないのだろうか、この兄は。
けれど、ちょっと背中を押された気がした。
「うん、ありがとう。参考になった。お兄ちゃんの烏帽子親の人にもよろしく言っておいて」
「な、なんで俺に烏帽子親がいるって知ってるんだよ」
さっき思いっきり「あの人」って特定の人物を思い浮かべていた祐巳がうろたえた。結局、姉と変わらずどこか抜けている兄だった。
「そんなことより、祐希も誰かに妹になれって言われたのか? 難しそうな人に」
心配そうな顔で聞いてくる祐巳に、祐麒は笑顔で答える。
「まだ決まったわけじゃないけどね。ちょっと真面目に考えてみる」
「……そうか。頑張れよ」
祐巳はわざわざ祐麒の隣に寄ってきて、ぽんぽんと頭を撫でてから部屋に入っていった。
そう、経緯は良く知らないけれど、祐巳が祥子さんの妹になったのは、文化祭だったはずだ。祐麒にはあともう少しだけ、考える時間が残されていた。
<契りを結んだ人・了>