祐麒は決して頭が悪いわけではない。
抜群に成績が優秀、とはお世辞にも言えないが、花寺でもテストの成績は常に中の上をキープしていた。今となっては、既に一度習ったことのある範囲を、しかもいつか戻ってくる祐希のためにと、非常に細かいノートを取るようにしているため、上の下まで食い込むことも珍しくない。悪く言えば、そこまでやってトップクラスの成績を取れない程度、という見方もできる。
とにかく、頭は悪くないのだ。だから、祐麒がそのことに思い至らなかったのは、単純に女の子としての経験が足りないからであって、別に自分が迂闊だったというわけではない。と、そう主張したいところである。
「祐希さん。山百合会の劇をお手伝いすることになったというのは、本当ですか?」
「シンデレラをなさるのでしょう? 祐希さんも舞台にお立ちになるの?」
「ダンスのお相手は黄薔薇のつぼみだとお聞きしましたわ」
祐麒が目を白黒させている間に、周りが勝手に盛り上がって、きゃーなどと華々しい声が上がる。
女の子は噂好きなのだった。それもとんでもなく。
まだ朝のホームルーム前だと言うのに、昨日の放課後、ダンス練習で令さまと踊ったことが、もう噂になっている。
それこそ、昨日のように「紅薔薇さまからの姉妹の申し込みを断った」なんていうネガティブな話題ならば、クラスメイトだからこそそっとしておいてくれたりもするが、こういう明るい話題であるなら、遠慮する必要など無い、というわけだ。
社交ダンスなど、何年も前に入門書を読んで少しかじった程度の祐麒である。皆が騒いでいる令さまの足を何度もふんづけた、ということは、秘密にしておいた方がいいだろう。
対応に困った祐麒は、クラスの中でほぼ唯一、事情を把握している二人――つまりは桂さんと蔦子さんだ――に助けを求めて視線を送った。
が、しかし。
蔦子さんは無理よ、という風に肩をすくめ、桂さんはそういう話なら自分も聞きたいとでも言わんばかりににやにやしている。二人とも淑女失格だ、などと祐麒は心の中で失礼なことを考えた。
とにかく、二人は新聞部の時と違って実害が無いと判断したらしい。薄情な友人たちの助け舟を期待できない以上は、自力でどうにかしなければならない。
しかし、こういう状況では、祐麒が何か一言口を開くたびに、きゃー、別のことを言おうとすれば、うわあ、と聴衆のノリが良すぎるために話が横道に逸れてしまうだろう。そしてたぶん、祐麒が言っていないことまで尾ひれがついて広まっていくに違いない。
噂の伝達速度を甘く見ていたが故に、今となっては必要以上に噂と、それを広める女の子達を警戒している祐麒だった。
机の周りにわらわらと寄ってきていたクラスメイトから距離をとるように、すっと席から立ち上がる。祐希の体は姉の祐巳と同じで背が高いとは言えない。そのため、少しでも堂々と見えるように、祐麒は背筋をまっすぐに伸ばした。
「申し訳ありませんけれど……」
祐麒が丁寧な言葉遣いを心がけて口を開くと、一言も聞き逃すまいと、クラスメイトが静かになる。
「劇についての詳細は、当日まで秘密だそうです。どうしても知りたい方は、三薔薇さまのどなたかに直接交渉なされば、もしかしたら教えてもらえるかも知れないですよ?」
そう言って、祐麒はにっこりと笑ってやった。
別に口止めなんてされていないけれど、そう言っておけばこれ以上の追究は回避できるだろう。それに、三薔薇さまに直接話しかけるなんて恐れ多いからこそ、自分に聞こうという感じだと思うから、薔薇さまがたに迷惑がかかることもないはずだ、というのが祐麒の計算である。
秘密と三薔薇さま、二つ(いや四つか)の言葉の力で、それ以上を聞けなくなっているクラスメイトたちから、祐麒は出来る限りしとやかに歩いて距離をとり、教室から逃げ出した。ホームルームが始まるまで、トイレにでも隠れているつもりだった。
それにしても、と祐麒は思う。三年生で生徒会長とはいえ、なぜ同じ高校生に対して恐れ多い、なんて感情を持てるのか、不思議な祐麒だった。似たようなことを以前に感じたことがあると思い当たり、自分の烏帽子親であった柏木先輩の顔を思い出した。
なるほど、リリアンにおいて、山百合会の面々は「光の君」と同じようなネームバリューを持つわけだ。花寺に入学したばかりの自分が祐希としてリリアンに通うことになっていたら、もしかすると薔薇さまという制度に対して、もっと批判的になっていたかもしれない。
今の祐麒は、姉である祐巳の口から聞いて、山百合会の面々がリリアンのためにどれだけ尽力したかを知っている。わずかな接点ではあるが、前の世界での経験から、薔薇さまと呼ばれる面々が「本物」であることも知っている。しかし、それを知らないままに、薔薇さま、薔薇さまとただ慕われているところだけを見れば、柏木先輩のときと同じように「あんた達はそんなに偉いのか」と思ってしまっていたに違いない。
案外、リリアンにいるのが祐麒でなく祐希だったら、薔薇さま達の面白がるような態度で意固地になってしまい、賭け自体が不成立だったかもしれない。
そう考えると、少しばかりおかしな気分になる祐麒だった。
【マリア様がよそみしてる ~その十一・知らぬは本人ばかりなり~】
午前の授業が終わるなり、祐麒はお弁当箱を抱えて教室を逃げ出した。抜け出す前に桂さんへ目配せをすると、「分かってる」とでも言いたげなうなずきが返って来た。
クラスメイトのおもちゃになるのは放置でも、新聞部に売ることはしない、ということらしい。それは蔦子さんも同様らしく、彼女達のフォローの線引きがどこにあるのか、祐麒にはいまいち分からなかった。
さて、新聞部から隠れてご飯を食べる、と言っても、そうそう都合よく人目を避けて腰を落ち着けられる場所があるわけではない。昨日は運良く紅薔薇さまが――おそらくは祐麒に会うという目的があって――薔薇の館にやって来たが、普通はそうそうお昼の内に片付けなければならない仕事もないだろう。何しろ、花寺の生徒会室と違って薔薇の館は遠い。お昼ごはんを食べるためだけにわざわざ出向くとしたら、事前の約束は必須であるように思われた。
こんなことなら、何か部活動に入っておけば良かっただろうかと、祐麒は思う。そうすれば、こういう状況に陥ったとき、部室で食べるという手段があったはずだった。もちろん、四月の時点ではこんな状況を予測できるはずも無かったし、すぐ戻れると楽観的に考えていたから、迂闊に部活動へ所属して、祐希の学校生活に対する選択肢を狭めるようなことをするつもりも無かったわけだが。
「祐希さん」
そんなことを考えながら廊下を歩いていたものだから、突然背後からかけられた声に、祐麒は必要以上に驚いた。びくりと肩をふるわせて、振り返る。
被っている猫の大きさで言うなら、リリアンのトップは祐麒だろう。何しろ元は男である。だが、女性、という限定条件をつけるなら、祐麒は声の主をトップに上げる。
「由乃さん?」
語尾を上げての祐麒の問いかけに、由乃さんはたおやかな微笑みを浮かべた。青信号ノンストップでゴーゴーな、勢いのある由乃さんを知っている祐麒でさえ、なんだかどきどきとしてしまう。
「お昼、ご一緒に食べません? 新聞部のかたが来ない場所、心当たりがあるのですけど」
そう言って、由乃さんはちゃらりと薔薇の館の鍵を示したのだった。
ぎしぎしと音を鳴らして階段を登る。つい数日前まで、薔薇の館とは何の縁も無かったはずなのに、こんなに通いつめることになるとは、少しばかり不思議な感じである。
祐麒はちらりと横目で由乃さんを見やる。わざわざ祐麒のクラスに近い廊下まで出向いて、お昼を誘いに来たのだ。何か用事があるのだろうと思っていたのだが、ここに来るまで話したことと言えば、本当に他愛の無い世間話(例えば、授業の進度がクラスごとにどれくらい違うかとか)くらいである。
大きなビスケットにも見える木製のドアをくぐり、少し慣れてきた感のある会議室に入る。テーブルにお互いのお弁当箱を置いたところで、由乃さんがくるりと振り向いた。
「紅茶で良いかしら? コーヒーもあるけど、インスタントになるわよ」
先ほどまでと違って、少しくだけた言い回しなのは、薔薇の館という自分のテリトリーに入ったからだろうか。
「あ、うん。紅茶が良いかな。あと、出来ればカップとかお茶葉の場所を教えてもらいたいんだけど」
手伝いに来ることになれば、祐麒がお茶を入れる場面もあるだろう。そのときになって慌てる羽目になるよりも、今のうちに覚えておきたい。三薔薇さまや祥子さま、令さまに尋ねるよりも、同じ一年生である由乃さんに聞く方が気楽である。
何より、祐麒は紅茶などという洒落た飲み物を元の世界では滅多に飲まなかったので、手順が良く分からないのである。花寺の生徒会で「お茶」と言えば、もっぱら緑茶のことを指すのだった。
祐麒のお願いに、由乃さんはにこりと笑って応えてくれた。
「それじゃあ、一緒に用意しましょうか。まず、電気ポットがこちら。茶葉はこの棚に、お砂糖とミルクはその隣。カップとソーサーは……」
細々と説明しながらお茶の準備をはじめる由乃さんの隣で、祐麒は一つ一つ備品の場所を頭に入れていった。
「へー、ティーポットのための一杯、か。でも、人数分よりも一さじ多く、って渋くなるんじゃない?」
お茶の準備も滞りなく終わり、祐麒たちはお弁当箱を開いて昼食を食べ始めた。
そんな中で、祐麒が話題に出したのは、由乃さんがスプーンで三杯の茶葉で紅茶を作っていたことに対する疑問だった。
それに対する回答が、先ほどの「ティーポットのための一杯」というわけだ。
「そうね。だから人数分しか入れない、という人も多いみたいよ。でも、山百合会にはそういうのを気にする人がいたから、わざわざ一回り小さめのスプーンを用意したの」
くすくすと、由乃さんは楽しそうに笑う。それはまた、乙女チックな人もいたものである。これも女子校ならではかと、祐麒もつられて笑った。なんともアリスが好きそうな話だ。
「そういえば……」
祐麒はふと、先ほど薔薇の館へ来たときの疑問を思い出した。
「どうして、私と昼食を食べようと?」
「幾つか理由があるけれど、一つは恩返し、かな」
かわいらしく首をかしげて、由乃さんは言う。
「恩返し?」
元の世界まで合わせても、由乃さんからそんなことをされる心当たりはない。祐麒は顔中にハテナマークを浮かべてしまう。
「たぶん、新聞部に追いかけられて、苦労しているだろうと思ったから。ノートを見せてもらったお礼にね」
ノートを見せてもらう、という言葉に、祐麒はぴくりと反応してしまう。最近、たまに忘れていることがあって愕然とするが、この体はもともと祐希のものである。高等部進学以前に、祐希と由乃さんに交友があったとしても、祐麒はそれを知らない。
「諭吉ノートの福沢さんって、祐希さんのことでしょ?」
「ゆ、諭吉ノート?」
先ほどから鸚鵡返しばかりの祐麒である。その諭吉ノートというのは一体なんなのか。
「あれ、違った? このノートなんだけど」
そう言うと、由乃さんは手元の小物入れから、何枚かのコピー紙を取り出して見せてくれた。
「あ……、私のだ」
それは確かに、祐麒のノートだった。リリアンの授業を受けていない祐希のために、板書されなかった応用問題を解くための小技や、テスト時のポイントなどまでとってあるものだ。
しかし、祐麒のノートのコピーを、なぜ由乃さんが持っているのだろうか。中身は紛れも無く高校に入ってからの授業内容である。
「一学期の中間テストあたりから、テニス部を中心に出回っていたわよ? とても分かりやすいノートがある、って」
「中間テスト……。あ、桂さんか」
ノートをコピーさせて欲しい、とテスト前に頼み込んできた人物のことを、祐麒は思い出した。部活の人たちと集まって勉強をするのだということを、桂さんは少し言いづらそうにしていたことも一緒に思い出す。
たぶん、そのときに広まったのだろう。今でも、テスト前には桂さんを含めて何人かのクラスメイトにノートを貸している祐麒である。たぶん桂さん達も、他のクラスにまで出回っている、というのは把握していないに違いない。
「福沢、という人のノートらしい。そういう噂があって、誰が言い始めたのか知らないけど、今では『諭吉ノート』って呼ばれてるわ」
由乃さんはコピー用紙をまた小物入れに戻して、申し訳無さそうに笑う。
「もしかしたら、と思ってはいたんだけど、本人の許可を取って無かったのね。ごめんなさい」
「あはは。驚きはしたけど、別に良いよ。おかげで、今日は助けて貰えたし。ありがとう、由乃さん」
「……祐希さんは、良い人ね」
「え、そうかな。私から見ると、リリアンの生徒はみんな良い人ばっかりだと思うけど」
いつぞやも思ったことだが、男子校などというある意味では無法地帯とも言える場所にいた身としては、あまりに良い人ばかりで不安になるくらいなのだ。自分もその良い人の一員である、と言われるのは、どうにか溶け込めているとほっとする反面、溶け込めているのもそれはそれでどうか、という複雑な気分でもある。
そんなこんなで、祐希としてはほとんど話したことのない由乃さんとのやり取りも和やかに進み、お弁当も残すところ三分の一くらい、といった時のことだった。
階下から、ぎっぎっと階段を軋ませて登ってくる足音が聞こえてきた。
祐麒と由乃さんは、不思議そうに顔を見合わせる。
お弁当と同じで、お昼休みの残りもあと三分の一くらいだ。もちろん、早く食べようと思えばいくらでも豪快に食べることの出来る祐麒だが、祐希の体でそれをすることは憚られたため、最近では一緒に食べる人のスピードに合わせて、「女の子のお食事」を修行中の身である。
休み時間が残り少なくなった今の時点で、わざわざ薔薇の館に来てまでする仕事があったのかと、祐麒は由乃さんを見たのだ。だが、反応を見る限りではそういうこともないらしい。
果たして、足音の主はビスケット扉の向こうで止まり、かちゃり、と軽い音を立てて会議室の中へ入ってきた。
「ようやく見つけたわよ、祐希」
その意外な人物の登場に、祐麒と由乃さんは、揃って口を開いた。
「祥子さま」
<知らぬは本人ばかりなり・了>