瞼の裏にまぶしい光が差し込んでくる。それで少しずつ意識が覚醒してくると、その光の意味がだんだんと理解できるようになる。「うぅ……朝か?」 ベッドから身体を起こし、呻き声を上げながら背伸び、そこで隣に横たわる柔らかい感触に気付く。「あー、そういえばそうだったな」 そこには、普段の無表情が信じられないほどに無防備な表情で寝息を立てている少女がいた。「タバサか……あー、そうか、そうだったな」 少しずつ昨日の記憶が戻ってくる。引き裂かれたままの制服が痛々しい上に扇情的だが、それにもかかわらず少女は至って安らかに目を閉じている。 彼女のこんな顔は見たことがない。僕の知っているタバサは、初めて出会った時には打ち沈んだ憂い顔、その後はいつでも張り詰めた無表情だ。彼女がこうも安らいだ姿を、僕は見たことがあっただろうか。「……にしても、幸せそうだな」 人差し指を伸ばして柔らかい白い頬をつついてみると、ん、と不満そうに唸り、指を離すとまた幸せそうな顔でむにむにと笑う。頭をそっと撫でてみると嬉しそうな顔をしてわずかに身をよじる。 だったら────と考えたところで、タバサがむくりと起き上がった。 濁流のフェルナン/第十六段「んー……」 寝ぼけ眼で手を伸ばしてベッドの脇をまさぐっている。何をやっているのかと思ってぴんと来たので、ベッド脇のサイドテーブルに置かれていた眼鏡を拾って顔に掛けてやる。「んぅ……ん」 眼鏡を掛けると少しずつ何が起きたのかを思い出してきたのか、ぼんやりしていた目の焦点が定まってくる。そして、大きく欠伸しながら背伸びして、そして────僕と眼が合った。 ぱちくりと目をしばたかせて、しばらく不思議そうにこっちを見た後、少しずつ記憶が戻ってきたのか少しずつ顔が赤くなっていって、ばっと音を立ててシーツを被ると、やがてシーツの中から亀のように顔を出す。「……夢?」「現実だよ」「…………」 言った途端にタバサの顔が引っ込むので、とりあえずタバサの服を無傷のシーツと相似させて修復する。服にもシーツにもあちこちに色々な液体が飛び散っているが、とりあえず無事な部分もあったのでひとまず修復は可能だった。 服が治ったのに気が付いたのか、タバサは警戒するように左右を見回しながら布団から這い出してきた。 そっと手を伸ばすと、びくりと震えて慌てて距離を取ってから、警戒するようにそろそろと近づいてくる。 何かするとまた逃げてしまいそうだったので、しばらく何もしないままでいると、いそいそと距離を詰めて身を寄せてきた。肩が触れ合うような距離になってようやく手を伸ばして抱き寄せると、タバサは力を抜いてこちらに体重を預けてきた。「ん……」 抱き寄せてあらためて思う。細い。小さい。柔らかい。子猫みたいだ。 こんな体で、たった一人で、あのデタラメな力を持ったガリア王と戦おうとしていたのか。魔法といい転生者といい、この世界には異常な力を持った人間などいくらでもいるのだ。それなのに、彼女の力になろうとする人間は、一人もいなかったのだろうか。「……それとも、本当に誰もいなかったのか?」「なに?」「……ああ、いや、何でもない」 首を振ってからよくよく見るとタバサの眼鏡にも白っぽい液体が付いていたので、ハンカチを出して顔を拭う。多分、昨晩の七発目くらいで眼鏡を掛けたままの顔にぶちまけた際に付着したのだろう。ちなみにウェットティッシュのように気の効いたアイテムはハルケギニアにはない。「ううむ……一旦体洗ってきた方がいいかな?」「……無理。この格好で出歩けない」 確かに。事後のベタベタな状態で男子寮から女子寮まで歩かせるのは立派な羞恥プレイだと思う。服は修復したが、体に付着していた様々な体液はそのままなのだ。彼女がこのまま出歩けば、注ぎ込んだ液体が垂れてきて色々と大変なことになるだろう。「なら、空間転移で……無理か。女子寮の風呂は共用だっけ?」「……ええ」 モット伯家の実家では、それ用に、各寝室に小さな浴室が完備されていたものだが、残念ながら男子寮にそんな便利な機能が付いているわけもない。 だったら、と周囲を見回して、洗面器とタオルを取ってタバサに渡し、水魔法で洗面器に水を張り、“王の財宝”から加熱宝具を取り出して、適温の湯を沸かす。「ここの男子寮の風呂も似たり寄ったりだから、とりあえずこれで我慢してくれ」「分かった。……見ないで。むこう向いて」「了解」 しばらくタバサに背を向けて待つことしばし。「こんなにたくさん……ん…………溢れてる」 衣擦れの音やら水音やら何やらのあからさまに妄想を掻き立てられるような音が背中越しに聞こえてくる。「フェルナン……こっち見てない?」「見てない。というか、そっちから分かるんじゃないか?」「……」 おそらく、タバサもこっちに背を向けているのだろう。そうやってしばしの時間が経つ。こうなってくると、さすがに生殺しのような状態に近い。「タバサ」「見ないで」「いや、だから……」「駄目。見ないで」「終わったか?」「駄目。まだ駄目」 呼びかけただけでにべもない否定が返ってくる。否定されれば人間腹が立つものだが、ここまで必死だと、むしろ恥ずかしがっているのが丸分かりで微笑ましささえ感じさせる。「……終わった」 タバサの声に振り替えると、トリステイン魔法学院の制服をきっちりと着込み、さらにマントにくるまって全身を隠しているのが、小動物のようで可愛らしい。「そうか、だったら……そうだな。どうする?」「……一度部屋に戻る」 言ってタバサは立ち上がり、右手と右足を同時に出すようなぎこちない足取りでドアに向かい、凍りついた。「…………出られない」「それもそうだな。朝っぱらから男子寮の部屋から出てきたら、何が起きたか丸分かりだ」 顔が真っ赤だ。とりあえず手元に転送障壁を展開してタバサの部屋に直結させてやる。「と、いうわけで、この障壁をくぐるとタバサの部屋に戻れます。使い魔召喚のゲートとかあるだろ、あれと似たようなものだ」「……それが貴方の力?」「その一つでもある、ってところかな。後で説明するよ」 戻ってきたらタバサは障壁の前に立つと、慎重に障壁を観察してから障壁に触れ、ややあって意を決したように障壁に飛び込もうとして、何かに気が付いたようにこちらに振り返った。「フェルナン」「ん、何だ?」「その、……ありがとう」 不意打ち。目を閉じたタバサの顔が視界一杯に広がり、唇に柔らかい感触。「…………愛してる」 それだけ言い残して、タバサは飛び込むように転送障壁を抜けてその場から立ち去った。「あー、何というか、何だかな……」 今の不意打ちは効いた。何だろうな、嬉しかったのか。そうだな、多分、嬉しかったのだろう。 僕は深々と溜息をついてベッドの上に引っ繰り返った。その姿勢のままで外を見ると、空は綺麗に晴れていて、今日はいい陽気になりそうだ。利き腕である右手を掲げて窓に向かって翳してみるが、影になるだけ、真っ赤な血潮が透けて見えたりはしない。当然だ。 僕はもう一度溜息をつくと、全身の力を抜いて再びベッドに体重を委ねた。「まずいな。かなり」 一つ、ギーシュに僕が転生者であることがバレていた。この間の決闘騒ぎでギーシュに気付かれた様子もなかったにもかかわらず、だ。まあ、これに関しては何者の仕業なのかくらいは予想が付くが。 ハルケギニアにいくつか存在している転生者勢力、あるいはその外にきっと何人か存在しているであろうフリーの転生者。その誰か。 本人が自覚しているのかいないのかは別として、ギーシュにとって、アルビオンとの同盟は滅びへの道だ。そして、緩衝地帯であるギーシュ勢力が崩壊すれば、トリステインは空白地帯となる。そうなれば、ガリア、ゲルマニア、ロマリアの三国の転生者勢力が我先に雪崩れ込んでくるだろう。 したがって、現在トリステインが緩衝地帯となっている現状を維持したい誰かが、ギーシュの戦力を増強すべく、僕の存在を彼に教えたのだろう。 もっとも、後になってからギーシュが改めて気付いたという可能性だってあるのだ。タバサが自力で気付いたように。ギーシュは色々な意味で頭の悪い男だが、だからといって完全なる無能というわけではないのだ。……本当にそうだったら、どんなに良かったか。 まあ、これに関しては時間の問題だったから痛くも痒くもない。タバサと手を組んで大っぴらに転生者として動き出そうと考えた矢先なのだ。とはいえ、アンリエッタ王女を通じて、国家権力を使って命令されたらちょっとばかり面倒だ。 確かに現時点の僕の軍事力は既にトリステインを凌駕しているが、だからといって、色々と大切なあれやこれやも完成していない段階でそれをハルケギニアに明らかにするのはまだ早い。 だが、それ以上にまずいのはもう一つの方だ。「それも、酷くクリティカルに。まさしく文字通りに致命的だ」 タバサ。 ガリア北花壇騎士団七号騎士。オルレアン公の息女。トリステイン魔法学院の生徒。ガリアの転生者勢力代表。人間火薬庫ティファニアには及ばないが、それでも彼女は火種の塊。 僕の奴隷。 そもそも、人形と同義の奴隷だ。捨ててしまっても何ら不利益はないし、正直、捨てた方がいいという事も分かっている。理解している。だというのに。「本当に、心の底から、完全無欠に大物の悪党であれば、容赦なく問答無用で切り捨ててしまえるんだろうが……」 そうしようと考えるたびにタバサの姿が脳裏によぎる。 彼女と初めて出会ったのは数年前のファンガスの森。まだ彼女がタバサの名を持たなかった頃の話。鬱蒼と茂った木々の間から飛び出してきた少女は、フライの呪文で宙に舞い、青い長髪がわずかな木漏れ日を反射して踊っていた。 キメラドラゴンを斃してその鱗をジルの墓前に供えた彼女は、その場で長かった青い髪を断ち落とした。切り落とした髪は風にさらわれて僕は思わず手を伸ばしたが、僕の手は何も掴む事ができなかった。 数年越しに再会したタバサ。決闘騒ぎで間断なく襲いかかるルイズの爆発に追われる僕を助けたのは、キュルケと彼女だった。その事件で僕が転生者であることを知ったタバサは力を求め、僕がそれに答えた。 そして、最後。今まで築いてきた関係を御破算にした、その時。 力づくで凌辱して洗脳して強姦して蹂躙した。そして、それを理解していて、その上で、彼女は『愛している』と言ったのだ。 愛していると、言ったのだ。 僕は小物だ。「ったく、小悪党が愛に目覚めるのは地獄への第一歩だってのに……」 記憶の中で風に流された青い髪が、幼さを残した白い裸身に変わり、上気した表情で喘ぐ少女の声が脳裏に響き、その声が僕に愛していると告げる。 伸ばした手の中に残るのは、溺れるほどに白く柔らかい肉の感触だ。その記憶が頭によぎり、ああ、と僕はあっさりと納得していた。 ああ、馬鹿馬鹿しい。よくよく考えてみれば、僕の心に愛なんて上等な代物が、存在するはずもない。ならば話は簡単だ。「要するに、肉欲に溺れていただけのことだ。確かに、あの体は他の男にくれてやるには惜しい」 僕は溜息をつきながら“王の財宝”を展開する。背後の空間に揺らぎが走り、中から鮮血色の真紅の槍の柄が滑り出てくる。「やれやれ、まったく、下らない勘違いを────そこだ!!」 居合抜きで槍を振り抜く。宝物庫からの射出の勢いを重ねて振り抜いた槍の尖端が、棚に置かれていた手鏡へと突き刺さる。 穂先の直撃を受けた鏡の破片が、弾け飛んでくるくると回転し、そこで。「……っ!」 ランスロットの動体視力だから気付けた。砕け散って弾け飛んだ鏡の破片、その破片に映る部屋の光景に、波紋のような光が浮かぶ。わずかに首を傾けると、鏡から飛び出してきた鞭のような何かが頬を切り裂いて鏡の中へと戻っていく。「鏡の中の世界なんて有り得ない、って言ったのはジョジョだったか。有り得ないなんてことは有り得ない、ってのは本当なんだな……」 気配が消えた。どうやら取り逃がしたらしい。 そもそも鏡の中なんぞに逃げ込まれたら、追跡はまず不可能だ。スタンドなのかそれ以外の何かなのかは知らないが、まったく厄介な能力だ。「それじゃ、諦めるしかないな。本当に、やれやれだ」 深々と溜息をつくと、僕は崩れ落ちるようにしてベッドに身体を沈み込ませた。「開戦から三ヶ月後のニューイの月、フレイアの週に、アンハルトの会戦が発生する。この時の戦闘で当時のラ・ヴァリエール公爵エティエンヌ三世は宿敵エドムント・フォン・ツェルプストーを破り、風系統の最強を証明し…………」 かりかりと黒板を引っ掻くチョークの音は単調で眠気を誘うが、聞いている内容にはいくつか思い当ることがあるので眠らないで済む。ちなみに担当は風のギトー先生だ。 確か、エティエンヌ三世はゲルマニアに拉致されていた妻を救出するが、知らぬ間にエドムントと不倫に陥っていた奥方に、エドムントの仇とばかりに刺されて死んだはずだ。そこだけ聞くと悲劇のはずなのに、当事者の子孫が身近にいるとどうしても喜劇にしか聞こえないのは気のせいだろうか。 ヴァリエールざまぁ。「しかるに、風系統とは最強かつ無敵であり、風はあらゆるものを薙ぎ払い打ち砕くからして、風とはすなわち最高の系統……ああ、ミスタ・ロレーヌ、ここはテストに出すから寝てはならん」 いや、出すのそこかよ。 そんなあれこれの話を余所に、僕は退屈しのぎにノートにつらつらと絵を描いていた。 嘘か本当か、ギトー先生の筆記試験は適当に風系統を褒め称えておけば高得点がもらえるとか言われている事もあり、特に風系統自慢が始まった後には、授業をマジメに聞いているヤツなんぞ一人もいない。 頭を右に向けて横倒しにした大きなU字を描き、そのU字を上から下へと横切る線を描けば、線の左がガリア、右がゲルマニア。そして、その国境線を楔のように割り込んで存在するちっぽけな国がトリステインだ。さらに、ガリアの国土から下に向かって伸びる二本の嘴のような半島を描けばそれがロマリア、U字の上に浮かぶ小さな点がアルビオンだ。 こうして見ると、ハルケギニアという世界における各国の国力がどれだけ違うかがよく分かる。ガリアとゲルマニアが異常にデカく、トリステイン、ロマリア、アルビオンは地図上の見た目からしてカスだ。それでもアルビオンはその国土そのものの特殊性を利用して大国と伍し、またロマリアはかつては宗教的権威、現在では吸血鬼の戦闘能力で以って強固な影響力を保っている。 ちなみにロマリアの宗教的権威なぞ支配階級が軒並み吸血鬼になった辺りで、平民レベルではともかく、国家権力間においてはほぼ無いも同然の状態と化している。 アルビオンなどは今ちょうど同じ教室で授業を受けているアリサ・テューダーの指揮でアルビオン正教を打ち立てて真っ先にロマリアの影響下から抜け出したことだし、ガリアでもジョゼフ王がガリア主義を提言して、生きてるんだか死んでるんだか分からないロマリア教皇から司教任命権を分捕ったりしていた。ゲルマニアも似たような感じ。 それでも平民の間にはまだ昔ながらの感情が多少残っていたりするので、これが民主主義だったら国民感情を気にして吸血外道国家にさえ頭を下げなければならない状態になっていただろうが、専制国家しか存在しないハルケギニアにおいてそのような事態はそうそう存在しない。 愚民を相手にしなければならない、というのは民主主義の弱点の一つだろう。まあ、民主主義には政治体制として結構不都合な部分が他にも無いわけではないのだが。 さて、僕は世界地図を見ながら考えを巡らせる。 自分の最終目的は生き残ること。安楽に遊んで暮らせる程度の生活力を持って、だ。シナリオ『オーバーフロウ』はそのための大綱であり、勝利条件達成のための最終兵器。そして、その実現のためには時間が必要だ。 だが、そこに加えて、タバサとの約束によって、もう一つの目標ができてしまった。タバサの母であるオルレアン公夫人の救出。解毒薬は既に持っているので、オルレアン公夫人を安全に保護できる状況さえ用意できれば達成できる目標ではあるのだが、その『安全に保護』という一点が最高に曲者だ。 まずガリア王が最大の敵であり、かつ転生者勢力の長であるという一点。あんな化け物相手にしていられない。 転生者勢力から安全を確保するには同じ転生者勢力を背後につけておくのがベストなはずだが、さらにそこでタバサの母親が持つ“原作キャラ”というキーワードが邪魔をする。『原作キャラ』というブランドが付いた『美人』という、飢えた童貞転生者どもにとっては最上級の餌。さすがに必ず手を出されるとは限らないが、しかしどうも手にした力と精神性が釣り合わない傾向が高い転生者どもは信用ならない。タバサに手を出したばかりの僕という、この上なく分かりやすい前例もいる。つまり、肝心の保護を求める相手すら信用できない。 要するに、転生者勢力とは別に、新しい勢力が必要であるということ。タバサの母に手を出さない、信頼のおける勢力が、だ。言い換えるなら、『オーバーフロウ』の完成がどうしても必要であるということ。 地球に逃がすとか論外。原作設定のロマリアは地球の様子を覗くアイテム持っているらしいし、転生者軍団が世界扉で奪いに来られたら対応できる自信がない。 対して、自分の抱えている不安要素。 まず、タバサ。これについてはどうしようもないので、考えから除外する。 問題は、己の立ち位置があまりに不安定であるということ。僕の表面上の肩書は、トリステイン貴族であるモット伯家の次期当主であり、かつ転生者である。そして、タバサに協力し、ガリアの陰謀に手を貸しているのだが、タバサがガリア王ジョゼフに叛意を抱いていること自体は転生者からすれば周知の事実だ。 その上でどうすればいいのか、ということ。 まず、勝利条件の達成手段の一つとして、ガリアにいい顔をしつつ本格的にトリステインに肩入れし、潜在的な敵性要素である他国の転生者勢力には潰れてもらう、という考え方が一つ。 だが、これには本格的な欠点が一つ。ギーシュがあまりにも考え無し過ぎるのだ。行き当たりばったりに色々するだけで、戦略という思考が存在しない。 最高のハッピーエンドを目指すにせよ、どう動けばそのエンディングに辿りつけるか、という道筋が存在しない。 つまり、馬鹿。加えて、その馬鹿が許されるほどにトリステインは強くない。というか弱い。 国力は内政チートのおかげもあって同規模の国家としてはまあ中々のものだが、左右をガリアとゲルマニアという超大国にサンドイッチされたトリステインにおいて同規模の国家を対比したところで、馬鹿を見るだけの話。 ってか、トリステインより弱い国がない。 いくつか駒を使い倒せば外交手段で何とかなる可能性は無くもないが、必要な駒はどちらもギーシュのハーレム要員、つまり政略結婚は難しい。 もう一つの道筋として、ガリアと手を切って、転生者としての能力を手土産にゲルマニアと手を組むこと。 だが、この手段は明確にガリアを裏切る必要があるため、この手段を取った時点でオルレアン公夫人の身柄を手に入れるのは極めて困難だ。ゲルマニアはともかく、ガリアの戦力が未知数である今は特に。 僕一人なら何とかなる自信はあるが、タバサが身内となってしまった今では取りづらい手段だ。 無論、ロマリアルートは、吸血鬼が跳梁跋扈する人外魔境に無防備なオルレアン公夫人を保護できるとも思えないため論外。ガリアの使い捨ての組織であるレコン・キスタルートも論外。 難しい。考えている戦略の半分以上がマトモに使えない代物だ。 どうにもいまいち考えが纏らない。結局、その時間はとりとめもないことを思案しただけで終わるのであって、だ。「そして、そこで私は風系統のスクエアスペル『エターナルフォース……と、時間か。では、これにて講義を終了する。起立、礼」 授業が終わると、途端に教室に喧騒が戻ってくる。そんな中、三々五々立ち上がる生徒たちの間を縫ってこちらに歩いてくる人影一つ。「あら、手なんて繋いじゃって、貴方にも情熱の季節が来たのかしら?」「……それはフェルナン」 耳元を赤くして俯いたタバサを見て相好を緩めた赤毛の長身の少女。キュルケである。「驚いたわ。まさかフェルナンの方から愛を告げるなんて」「そんな上等なものじゃない。強いて言うなら────」「ゲスはゲスだとかそういうことを言うつもりならやめておきなさい。それは貴方の気持ちに応えようとしたタバサに対する侮辱だわ」 いつもどおりの口癖を続けようとした僕の言葉を、キュルケは鋭く遮った。 確かに事実。たとえ僕がゲスであろうと、タバサは違う。「……それもそうだな。その通りだ。ごめんタバサ」「いい」 そんな光景を見てくすりと笑ったキュルケは、安堵に似た笑みを漏らしてタバサを見る。「ね、タバサ。フェルナンをどう思う?」「外道で鬼畜で変態で馬鹿」 即答。「そっか。馬鹿なんだ」「そう。馬鹿。……逃げればよかったのに」 ぽつりと漏らしたタバサを、キュルケは不思議そうに見やった。僕にとっては少しばかり居心地が悪い雰囲気が満ちる。「おおいフェルナン、今度この間のアレ売ってくれないか?」「ああ、この前のヤツか。あれは香料が品薄になっていてな。代わりにこのバージョンが────」 空気を読まずに馬鹿が話しかけてきたのをこれ幸いと商談を始めようとした僕の耳朶を、消え入りそうな声が打った。「……フェルナン」「ん、どうした?」「来て」 見れば、わずかに眉をひそめたタバサが立っている。一見いつもの無表情とさしたる違いもないが、分かる人間には分かるだろう。キュルケとか。 どうやら、何かが来たようだ。僕たちが穏やかな日常に浸っていられないような、何かが。「悪いなギムリ、我がお姫様がお呼びだ。話は放課後にな」 軽く手を振って級友と別れる。周囲の転生者連中から興味深そうな視線が集中していたが、表立って敵意を向けてくる連中はいないようだ。 さて、タバサと連れ立って、あまり人がいない中庭へとやってくる。いつぞやの決闘騒ぎの前にはヴィリエの公開処刑の舞台になったりしたのと同じ場所である。「……指令が来た」 僕は北花壇騎士団においては現在、書類上において『十三号』という厨二病めいた数字が付けられている。タバサが取り出した書面には、タバサの七号と並んで、その数字が刻まれていた。 ちなみに、ナンバーが十三なのに大した意味は存在しない。その時点で北花壇騎士団所属のメンバーが十二人だったからというだけの話だ。何となく番外とか幻のゼロ番とか存在していそうで怖いが。「ガリアか……今度は何だ? 吸血鬼か? 火竜か?」「……分からない」 差し出された書を受け取ると、そこに書いてあるのはただ一言『出頭せよ』。どこぞの髭司令並のセンスである。そういえばジョゼフ王にも見事な髭が生えていたはず、と本当にどうでもいい原作知識を思い返す。 とりあえず、訳も分からぬまま連行されて汎用人型決戦兵器のコクピットに詰め込まれないだけマシだと思うことに────そういえば、ガリアにあったな汎用人型決戦兵器『ヨルムンガント』。「ま、まあいい……。とりあえず、ガリアに向かおう」 そんなわけで、学院には休校届を出して、一路ガリアに。 その国ガリアを形容するにあたって、トリステインの南西に位置する、と表現するのはいささか誤解を招きやすい。 トリステインを中心に置いて見るのであれば、ガリアの国土は南西であると同時に真南にあり、また南東にも存在する。彼我の領土面積が違い過ぎるのだ。ガリアからすれば、トリステインなど北の辺境から生え出したちっぽけな出っ張りに過ぎない。 より正確さを期するならガリア中心に表現し、トリステインの方が北にある、と言うべきだろう。 だが、その距離はさほど離れているとはいえない。風竜の一頭でもいればさほど掛からずに辿り着ける距離だ。 タバサと二人連れ立って陸路を往く。移動手段は馬、したがって数日の時間が掛かる。ヴィマーナやホムンクルスに騎乗すれば風竜よりも速いだろうし、空間転移を使えば一瞬、しかしその程度のことで手札をさらすのは少しばかり馬鹿馬鹿しい。 そういうわけで、僕たち二人は馬蹄を並べて数日、ハルケギニアの街道を進む。 風が吹いた。 重い風だ。水分を多量に孕んだ湿った風は、どこか血液に似た匂いがした。 思わず空を見上げれば、重苦しく雲の立ち込めた灰色の曇り空が視界にのしかかってくる。微妙に濃淡の掛かった灰色の表面はまるで海面のようで、これで遠雷の一つでも響いてくれば、それが潮騒のようにも聞こえてくるのだ。「……嫌な天気だな。リュティスの空ってのは、いつもこんななのか?」「……お父様が暗殺される少し前から、いつもこう」「そうか」 呼吸するだけでも肺腑を満たす大気が重圧に変わる。それを少しでも緩和しようと言葉を探すが、結局どうしようもないらしい。 少し進めば、すぐにヴェルサルテイル宮殿が見えてくる。死の気配のように重苦しいガリアの大気の中では、青い大理石で造られたヴェルサルテイル宮殿も、まるで海底神殿の遺跡のように沈み込んで見える。 海底のように重々しい風景の中では、鮮やかな桃色の大理石で建てられたプチ・トロワ小宮殿も、海底に潜む臓腑色の軟体生物のようにしか見えない。桃色といえばルイズだが、そのようなお気楽な印象を抱けないほどに忌まわしい重圧が大気そのものを満たしている。 そんな印象はプチ・トロワの廊下を歩いていればさらに顕著なものとなる。桃色の大理石と調和のとれた落ち着いたデザインの内装は、客観的に見れば悪趣味とは程遠いはずなのにどこか不安を掻き立ててやまない。「……タバサ」「何?」「この宮殿、ジョゼフ王の在位中に改築されたことはあるか?」「分からない。……でも、少なくとも一度、彼の即位式の直後に改装されているはず」 どこか圧迫感を感じる白い壁の壁紙を撫でてみれば、不自然な起伏が指先に感じられ、それはまるで何かのレリーフを刻んだ石壁を壁紙で覆い隠しているかのようにも見える。壁をなぞる指先から汚水が這い上がってくるような異常な冷たさが伝わってきて、僕は慌てて手を離した。 どこまでも不可解な内装で飾られたプチ・トロワの廊下はまるで一個の巨大な生物の臓腑の中を歩いているようで、すぐさま壁や床が消化器官に変じて僕達に襲い掛かってきても、それは決して驚くには値しないだろう。 しばらく廊下を歩くと、廊下の向こうに金属で作られた大扉が見えてくる。僕に先立って歩いていたタバサがその扉を押すと、扉は重々しい軋みを上げてゆっくりと開いていった。 扉の向こうに待っていた相手は、僕が考えていた印象とは違っていた。軽い、というよりは薄い。周囲に立ち込めた不可解にして不愉快な重圧に反して、その男の持つ気配は奇妙に薄かった。 その姿に、僕は奇妙な違和感を抱く。どうも、目の前にした彼はどこか脳内で抱いていたイメージと違うのだ。「おお、どうしたそんな場所に突っ立って? 早く入ってきたらどうだ」 こちらを差し招く青髪の中年男性。肉体がそこにあり、気配も息遣いも感じられるにもかかわらず、そこにいるという実感が持てない。威圧感が薄い、というよりも、そもそも始めから存在しない、といった方が正確。それこそ異常だ、と思う。 正直目の前の現実を認めたくないのだが、その姿はどう見ても、「………………ジョゼフ王陛下であらせられますか」 言葉を交わす口とは別の部分がその違和感の原因を思考する。そう、何よりもおかしいと思ったのは、彼の纏う威圧感そのものだ。気配が薄いのだ。僕が想像していたのは、側に存在しているだけで全てが押し潰されるような圧倒的な重圧。だというのに、それが無い。全くと言っていいほどに感じられない。 だが、違う。かろうじて手元にあるわずかな情報から逆算して想定した最低限のジョゼフ王は、この程度のものではないのだ。 ならば影武者なのか、とも思うが、確証も掴めない。確かに僕程度に顔を合わせる事に大した意味など無いのかもしれないが、ジョゼフ王の横に立っている銀髪オッドアイの幼女は、僕の想像が当たっているのであれば、どう考えてもジョゼフ王以外、少なくとも薄っぺらい転生者ごときに御せるような甘っちょろい“代物”ではないはずだ。「まさかそれ以外に見えるのか? ん?」「少なくとも、我儘で意地の悪いお姫様には見えませんね」 僕が想像していた彼の姿は、全てを呑み込むブラックホールのような圧倒的な重圧。ただそこにあるというだけで世界を歪める超重力の塊だった。だが、違う。これは、決定的に違う。別のものだ。強さとか力とか、そういったものとは別次元に位置するまったく違う別の何かだ。 だが、原作を読んだ限りにおいてあのイザベラに現状の北花壇騎士団を統括するなど、どう考えても無理だ。常識的に考えて。「はっはっはっは、そうかそうか。騎士団に入ってくる転生者どもには、顔合わせの度に毎度度毎度驚かれるよ。北花壇騎士団の長はイザベラのはずだ、とな!」 ……この男、間違いなく楽しんでいる。「まあ、予期していても認めたくない現実は誰にだってありますよ、きっと」 そう、認めたくない現実は色々とある。彼の隣に立っているあからさまにヤバ気な雰囲気を撒き散らす美少女というか幼女は何者なのか、とか。 僕の答えを聞いたジョゼフがわずかに目を細めた。奈落のような瞳だ。視線にも声にも大した力も込めていないが、吸い込まれると言うよりも、そこに向かって落下していくような恐怖を感じる。「ほお、ならお前は予期していたのか?」「バカとハサミは使い様。使い様によっては身を滅ぼす。両方の要素を兼ね備えていれば尚更に。所詮は身の丈に合わない力を持っているだけの一般人とはいえ、だからこそ逆に世間知らずのお姫様が御せるほどに転生者ってのは楽なナマモノじゃないでしょう?」 力だけは最強のチンピラの群れ。モブ一歩手前の性能しか持たない弱小原作キャラが偉そうに胸を張って見せたところで、犯され殺されるのが関の山。「いやいや、あいつも俺の娘だ。意外と何とかなってしまうかも知れんぞ」「その台詞が親としての贔屓目なのか、それとも興味なのかただの枕詞なのか、あるいは本気か、正確なところをお聞きしたいですね」 その言葉に目の前の怪物王はその笑みを深くするが、結局答えを返すことはなかった。「まあ、何でもかまわんだろう。時間が惜しい。とにかく、任務の話をするぞ。遠慮なくこき使ってやるから、感謝して聞くがいい」 そう言ってジョゼフ王が話し始めたその計画は、確かにわざわざこの場に呼びつけるのも詮のない話であると、納得せざるを得なかったのだった。 そうして、王都リュティスを出た時に始めて気がついた。ジョゼフ王の気配は薄く感じ取れなかったのではない。僕が始めから感じ取っていたにもかかわらず、それと気づかなかっただけ。 リュティスを覆う深海底のような重圧。それこそが彼の放つ気配そのものなのだ。希薄であるがゆえに感知できないのではなく、巨大過ぎるがために知覚できない。 それは例えて言うのなら、エアーズロックの写真を見て一枚岩の巨大さに感動しても、同じ写真からその下にある大地の方が巨大であるという事実を意識できないのと同様に。 要するに、僕たちは始めから彼の消化器官の内側にいたのであって、捕食された哀れな小蟲のように溶かし殺されなかったのは、ただ彼が僕たちに敵意を向けていなかっただけに過ぎないのだ。 僕はタバサを伴って、まるで逃げるようにして王都リュティスを後にした。 ……冗談じゃない。あんな化け物を相手になんてしていられるか。 波の音が響く。 足元は砂。絶え間なく聞こえてくる波音に背を向けて背後を見れば、地平線の彼方まで続く赤い荒野。そして、そこから振り向けば、青々とした海原が水平線の向こうまで広がっている。 背後を振り返れば、今まで歩いた後が足跡になって延々と続いていた。 そんな世界を、僕は波打ち際に沿って歩き続けていた。歩いても歩いても続く海の空気には、奇妙なことに潮の香りが一切存在しなかった。「水精霊としての“新”本体……思ったよりも結構時間が掛かるな」 地球の海水を水精霊化するための研究も同時進行で進んでいるが、実行の容易いこちらがまずは最優先だ。 でもって、それを利用して達成するのが最終的なシナリオ『オーバーフロウ』。それまで、他の転生者に悟られないようにしなければならない。 『オーバーフロウ』の到達点とは、転生者という括りとは全く別の次元に存在する。=====番外編:ギーシュ===== 走る。走る。走る。 彼の眼前を赤い鉢巻をした少年が疾走する。その後を、自分も追って走る。 相手がコーナーに差し掛かる。その瞬間には相手の速度もわずかに落ちるはず。だからその時に抜いてみせる。走る。 あと少し。距離が一メートルを切った。もう少し。走る。五十センチを切ったところで、相手が再加速、詰まっていた距離が再び離される。 相手はまだ行けるのか、と驚愕し、それなら、と自分も加速しようとするが、既に自分の加速は最高潮、疾走する体勢を崩してすら追いつく事はできず、そして──── 濁流のフェルナン/段外段 ────そして彼は目を覚ました。「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」 夢の中で全力疾走していた事がまるで事実であるかのように、彼の全身は汗に濡れている。荒い息をついて布団に身体を預けると、途端に静けさが戻ってくる。 また前世の夢だ。この世界に転生してから、相変わらず、あいつには勝てないままだ。「ああ、クソ、結局、この世界にいるまま、なのか」 この世界でギーシュ・ド・グラモンと呼ばれる少年は、呟いて吐き捨てた。「と、いうわけでリアル転生ものをやってみようかと思うんだがどうだろう?」 かつて、彼の前に立った何者かの第一声は、かつて別の誰かが聞いたものと全く同じものであった。「いや、最近、二次創作の感想でよくあるだろ? とりたててチート能力はなくても、努力と根性で戦っていくオリ主の話が読みたいってさ。だからまあ、それができそうなお前を選んだわけよ」 その問い掛けに、自分は何と答えたのだろうか。確か、そんなことはどうでもいいから、元の世界に戻してくれ、と言ったはずだ。「ああ、悪いがそいつは無理だ。お前に拒否権はない。というかさ、ここに呼び出されている時点で、それくらい気付けよ。当たり前だろ」 駄目だ。自分にはどうしてもやりたいことがあったはずだ。勝ちたい相手がいたはずだ。そう思う。「無理だって言ってんだろ? まあ、ちょっとは悪いと思ってるんだぜ。だからさ、とりあえず、お前には何か能力をくれてやろうと思う。とりあえず、前に転生させたヤツが五つだったから、お前も五つな。好きなのを選ばせてやるよ」 だから、それはいいから帰してくれと。帰りたいのだ、と。何度も声を上げる。「悪いがそいつは無理だ。死人は生き返らない。それが世界の大原則だ。まあ俺が決めた事なんだけどな。で、能力はいらない? そんなんだったらすぐに潰されちまうぜ。前のヤツはともかく、前の前のヤツなんかは中々の有望株だ。能力なしで立派なオリ主になるのはちょっと難易度が高いぞ」 それでも、あいつに勝てないなんていうのは絶対にいやだ。首を振り続ける彼に向って、その何者かは呆れたように溜息をついた。「仕方ないな。だったら、お前の頭をサーチして適当に能力つけるぞ。五つな。はい、それじゃ、転生確定。少しは楽しませてくれよ」 そうして、そこで彼の記憶は途切れている。 彼が転生して最初に思ったのは、この世界ではあいつに勝てない、ということだった。 彼にとっては、走ることだけが全てだった。どんな嫌な事があっても、走っていれば忘れられた。ただ走るという事だけに関しては、誰も彼には勝てなかった。彼にとってもそれは自慢だった。 だが、それはさして長い間のことではなかったのだ。 自分以上に優れた才能の持ち主。自分がたとえ百の努力を積み重ねようと、才能だけで千の結果を出して上回られる。それがそいつだった。 しかし、彼は千の努力を重ねようとした。続けた。それでも勝てなかった。 そして、彼は諦めた。荒れた。学級では陰湿ないじめを行い、そいつを孤立させた。そして、やがて彼はそれに暗い愉悦を覚え始めるようになり、やがてその対象はそいつではなく、同じ学級に存在した、もっと立場の弱い人間へと移っていく。 だが、彼は諦められなかった。かつての仲間と手を切り、再び走ることを始めた。そこに、またそいつはいた。あいつに勝ちたい。それだけの願いで彼は走って走って走り続け、そしてある日、どうしようもない事故で、どうしようもなくあっけなく、彼は死んだ。死んだのだ。 そして、彼が転生して最初に思ったのは、この世界ではあいつに勝てない、ということだった。つまり、自分はいったい何物なのか、ということだ。この世界では、どれだけあがいても自分はあいつには勝てない。なぜなら、ここにはあいつがいないのだから。ゆえに、この世界では自分は走るものでは在り得ない。 だったら、自分はいったいどうすればいいのか。 その答えは、意外とすぐ近くにあった。転生する際に授けられたチート能力。そして、転生後に気がついた魔法の才能。 そして何より。「初めまして。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールと申します」 かつて名前だけを知っていた少女との出会い。それが、彼の方向性を決定づけた。 己こそが主人公だ。己こそが物語を為すものだ。この世界は己の物語なのだ。ならば、そう在るべく振る舞うべきだ。 それこそが、彼の唯一無二の指針となった。 だが、それすらも打ち砕かれる日が来るのだ。 違う、と思った。これでは、違う。こんなのが自分の物語であるはずがない。これは自分の物語であるはずなのだ。 どんな相手でも、自分が熱意を込めて語れば改心するはずだ。現に、父も、他の貴族たちも、そうだった。そうだったはずなのだ。 だが、目の前の相手は違っていた。今まで彼が対峙した何者とも。そいつには、おそらく何もなかった。その言葉には一切の重みが存在せず、その瞳には一切の共感が感じ取れず、その精神には一切の人間的に大切な何かが欠け落ちていた。 目の前の相手には、まるで魂そのものが存在していないようだった。『勘違いするなよ。僕は何も変わっていないし変わらない。あの時も、今も、ずっと昔から、そしてこれからも、だ。成長なんて糞喰らえだ』 主人公として努力を重ねてきた。その甲斐あってか、自分はますます強くなれた。その努力の蓄積は、間違いなく自分自身に対して誇れる大切なものであり、己が己である証明である。 それを否定された。『僕は、努力なんていう言葉が大嫌いだ。他の何より、一番嫌いだ。努力なんて言葉を吐く人間は死んでしまえばいいと思うね』 貴族はこうあるべきだと思っていたことを行った。内政改革に外交に、腐敗した貴族階級を正すべく民のために努力を続けた。 その成果は、間違いなく自分が生きてきた証である。共にそれを成し遂げた仲間たちの笑顔は、何物にも代え難い彼の存在証明である。 それを否定された。『馬鹿馬鹿しい』 その全てを否定された。 あるいは、彼はそいつと出会ってはいけなかったのかもしれない。その存在は、ギーシュが重いのと同じように軽く、ギーシュの存在が軽いのと同じように重い。だが、何よりギーシュとそいつでは、存在する次元が違い過ぎた。戦力差とか格の違いとかそういう問題ではなく、存在の量と質の問題。 一人の人間が氾濫するペスト菌とコミュニケーションを行うことができないように、ギーシュとそいつは一切の共感を持ち得ない。 努力の否定、それは、かつてギーシュ・ド・グラモンになる以前の彼自身が同じように行ったことだ。しかし、違う。違うと感じた。その男には決定的に、かつての彼の内側にあったはずの何かが存在していない。 だからギーシュは否定する。そんなはずはない。民を守るのが貴族の務めで、民もそんな彼を認めてくれていたはずだった。『民は僕たち貴族に忠誠を持たない。連中にとって僕らはその程度のものでしかないんだ。なら、僕たちも民に忠誠を誓う必要なんてどこにもないってことさ』 彼の言葉はおぞましいまでに空虚だ。およそ人の言語に宿るはずの肝心な何かが欠落していて、説得力というか、魂に訴えかけるものが欠片も存在しない。だが、論理としてだけは成立していて、その論理がその空洞に無限に反響して、彼の精神の奥深い部分を責め立ててくる。 違う、と思った。いや、そう結論づけずにはいられなかった。だから、正すべきだと思った。だからこそ決闘を挑んだ。主人公が敗北する戦闘など存在しないのだ。 そして。『ギーシュお兄様、大丈夫ですか!? お怪我は!?』 爆発。己の意図しない結末。助けられた。その結果として追い詰められた。だからこそ。『あっははははっはははははっハハハははは!! となると、小細工無しの戦いと最初に行ったのも全てがこれに至る布石だったということか! なるほど、大した策士ぶりだよギーシュ!!』『違う! 俺は……!!』『そうだ、ああそうだな悪かった、確かに僕が悪かったなギーシュ・ド・グラモン、グラモン家の次期当主殿、弱冠十二歳にして才能に恵まれた土のスクエア、伯爵である父上殿にも領地経営を任されて領地改革に成功し、アンリエッタ姫の覚えもめでたく、トリステインの大貴族の筆頭たるヴァリエール家の庇護まで受けたグラモン家の神童様が、まさかそんな卑怯な真似をしでかすわけがない、つまり僕が悪かったと、そうだなそういうことになるわけだなハハハハゲホグハハァッ』 違う。違う。自分は違う。自分だけは違うはずだった。なぜならこの世界は自分のための物語なのだから。 そして。 彼は自分の身に起きたことを否定した。 違う。違う。この世界は自分のために存在するのだ。故に。 彼は全てを理解した。これは物語の一部。己を主人公たらしめる、予定調和の苦難である。 だからこそ。『ティファニア、久しぶり。君を迎えに来たんだ』 彼は何の妨害も受けずにその少女を連れ出す事に成功する。しかし。目的であったはずの少女は、唐突な火竜の群れの襲撃を受けて姿を消した。 彼にとってはそれすらも、予定調和に過ぎなかった。そして。『テファ、無事だったのか!? マチルダは!?』『え? 貴方、姉さんを知って……え? あ……い、ゃ、いやぁああああああああああああああああ!!』 再会は望まない形で終わった。だが、だからこそ彼は確信する。これはそういう物語なのだと。彼女と自分は、運命に結ばれているのだと。 果たしてその運命が本当に定められたことなのか、それを確かめる手段は存在しない。だが、彼は確信している。 自分が運命の申し子であることを。 何故ならば────己の生きる道をそれしか考えられないために。=====後書き的なもの===== ようやく復活。 待っていてくれた人はお待たせしました。初めての人は初めまして。読んでくださってありがとうございます。 今回の反省点。 冒頭のタバサ。少しやりすぎた気が……。 強烈な悪役がいてこそ強烈なストーリーが完成する……気がする。そんなわけでジョゼフ王がもっと上手く書けるようになりたい。 ギーシュの行動原理は『とにかく何でもいいのでオリ主っぽい行動を取る』。さすがにこれはフェルナンの想像を完全に越えていた模様。