黒のロングワンピース、白のエプロンとカチューシャを完璧に着こなしているマリエッタ。
今、彼女は扉の前に立っていた。
何度か深呼吸を行って、「問題ありません」と小さな独り言を囁く。
これはマリエッタにとって、いつも行っている行為だ。
それから扉に向かってノックを行う。
合計4回扉を叩くと、室内から返答が来る。
「は~~~い~~~~」
間が延びた、まさに間抜けな声だった。
その返答に、マリエッタは(誰にも見せない)微笑を浮かべる。
だが、それも一瞬。
一度咳払いをして、すぐに、いつもの冷静な面持ちになった。
「マリエッタです。
よろしいでしょうか、ホワイトスネイク?」
室内にいるキースに向かって、マリエッタは声をかける。
「あ~~~い~~~~」
そして、先程と同様のへなへな声が返ってくる。
キースの返事を確認してから、マリエッタはキース・オルセンの私室に足を踏み入れた。
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058 痴漢
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キースの私室は質素な物だった。
あるのはテーブルとソファ。それに書棚と作業机、ベッドだけだ。
華美な物は何一つ無い。
他の施政者では考えられないことだった。
そんな他の領主とは全く異質な、己の敬愛する主人が伏せっているベッドにマリエッタは向かう。
「またですか?」
ベッドにうつぶせになっているキースを見て、マリエッタは肩をすくめた。
マリエッタの言葉に、キースは体勢を変えずに、顔だけを横にしてマリエッタを見る。
「そうは言いますがね、マリエッタさん。
小心者の自分としては、なんと言いますか、
そう、ストレスがマッハという程のイベントなわけですよ……」
妙な敬語もどきでキースは答える。
キースが発した言葉は、マリエッタにはよくわからない部分もあった。
だが、キースの考えは理解できている。
当然だろう。
月に一度行われる「領民への顔見せ」の度に、必ず同じようなことが繰り返されるのだから。
だが、このイベントは欠かすことはできない。
魔術師ビックバイが倒されたとは言え、あの恐怖は人々の心から消える訳ではない。
だが人々は「英雄」であるキースの姿を見ることで、恐怖に負けない勇気や希望を貰えるのだから。
キースが苦しんでいる姿を、マリエッタは見たくない。
変われるなら、喜んで変わってさしあげたいと思っている。
だが、これはマリエッタにはできない。
キース・オルセンにしかできないのだ。
そして、マリエッタからは「やめましょう」とも言えない。
マリエッタ自身が、キースから勇気をもらっているのだから。
「お茶を入れます。
今日はたっぷりハチミツを入れましょう」
だから、今日もマリエッタは、自身ができることを目一杯やろうと決意する。
「うは、やった!!」
ベッドから飛び跳ねて、キースはテーブルの椅子に座る。
「はやく、はやく!」
「パンパン」とテーブルを叩く子供ようなキースの姿に、マリエッタは笑みを抑えきることが出来なかった。
○
マリエッタの完璧な作法により、テーブルには紅茶が用意された。
「はー、脳みそに染み渡るな~
甘いものは人類の永遠の友だよな~~~」
ずずー。
と、貴族社会などでは決してあり得ないような音を立てながら、
「この人、ホントに強い人なの?」と疑われてしかるべきだらしない格好で、キースはお茶をすする。
先程までサーペンスアルバスの人々に見せていた貴公子の姿は欠片もない。
いるのは、少々残念な感じのイケメンである。
「おかわりはいかがですか?」
「もらう、もらう!
あ、お菓子も頼む~」
とても領民には見せられない格好だったが、この時ばかりはマリエッタは注意をしない。
再び手慣れた手付きでハチミツ入りのお茶を入れて、キースに差し出す。
嬉しそうな顔をして、キースはお茶をすする。
「そういえば、ホワイトスネイク。
一応ですが、耳に入れていただきたいことが」
「ん、な~に~?」
お茶を飲むキースの口が休まる瞬間を見計らって、マリエッタは言う。
そんなマリエッタに、キースは「のほほん」といった体で問い返すと――
「ミズナシノア」
「ブぅっ――――!!!???」
見事なまでにお茶は霧状になって吐き出された。
スポーツ好きの妙子が見ていたら、「毒霧」と言っていたかもしれない。
「えほ、えほ、げほ、うぇ……!!」
キースは盛大に咳き込んでしまう。
「だ、大丈夫ですか、ホワイトスネイク!!
だ、誰か――」
あまりのキースの狼狽ぶりに、マリエッタも慌ててしまう。
咳き込むキースの背中をさすりながら、慌てて誰かを呼ぼうとする。
「あ、い、いや、大丈夫……
ちょ、気管に入ったダケダカラ、エホっ、エホ……」
何度か咳をしてから、呼吸を落ち着かせる。
そしてキースは真剣な眼差しで、マリエッタの両肩に手を置いた。
「(えッ――!?)」
近くで見るキースの顔に、マリエッタは慌てそうになる。
が、必死にその気持ちを抑える。
「マ、マリエッタ!
今、と、ところで、なんて言った!?
耳に入れて欲しいことって――!?」
少々荒い語気で、キースはマリエッタに問いかける。
真面目なキースの面持ちに、マリエッタの浮つきかけた心に対してしかりつける。
そして、やはりいつものように冷静な表情で返した。
「ミズナシノアでしょうか?」
「そ、そう、それ!
な、なんでマリエッタが――!?」
マリエッタは冷静さを保つのに必死だった。
これほどまでに高ぶった感情を見せるキースは初めてだったからだ。
「さ、先程ですが、ホワイトスネイクに告げて欲しい、と、
そう少女が申しておりました。
そう言えばわかるから、とも」
「そ、それ言ったのって、黒髪で、長くて、おとなしそうで、
でも、もんのすごーく可愛くて、
えーと、えーと、色白で、黒目の女の子だったか!?」
「法衣に身を包んで降りましたので、色白とかは正確なことはお伝えできません。
ですが、黒髪と黒い瞳の少女ではありましたが……?」
「お、おぅ……!!!」
マリエッタの言葉に、キースは握り拳を作って呻き声を上げる。
「あ、ほ、ホワイトスネイク……!?」
心配そうにキースを見守るマリエッタだったが――
「きたぁあああ――!!!!!」
キースは喝采を上げる。
それはまるで、勝利の勝ち鬨だった。
「やっと、やっとだ……!!!
[キース・オルセン]の名前を広めた甲斐があった……!!」
キースは再びマリエッタの肩に手を乗せる。
「[ミズナシノア]と言った女の子は、今どこにいる!?」
キースの勢いに押されるように、マリエッタは言葉を口にする。
「も、門の前でした。
が、伝言をする代わりに、今日は帰るように告げました。
そうしたら、宿にいるからとも――」
「おっけえぇぇい!」
「あ、ホ、ホワイトスネイク……!」
マリエッタの言葉を最期まで聞かずに、キースは私室から飛び出していく。
キースの異名である[神速の剣の使い手]の名にふさわしい動きだった。
呆然としてしまったマリエッタだったが、慌てて、自身の心を再起動させる。
そして、あっと言う間に姿が見えなくなったキースを追いかける――
○
サーペンスアルバスに居を構える宿屋の[四季亭]。
1階は酒場で2階が宿泊施設という、よくありふれた宿である。
そんな[四季亭]の酒場は、サーペンスアルバスの漁師達に人気である。
まだ日は高いが、すでに仕事を終えた多くの漁師達が食事を楽しんでいた。
そんな時だ。
バンッ!!!
と、ものすごい音を立てて、[四季亭]の扉が開かれた。
あまりの勢いに、多くの客達が怪訝な面持ちで、扉の方に視線を向ける。
「え――!?!?」
賑やかな酒場の喧騒が、瞬く間に沈黙に変わる。
「ホ、ホワイト、スネイク……!?」
当然である。
荒い呼吸をしながら、突如、あのキース・オルセンが駆け込んできたのだから――
そんな中。
キースは奇妙な雰囲気をもろともしないで、鋭い目でキョロキョロと店内を確認する。
「あ、あ、あの、ホ、ホワイトスネイク……
な、なにかございました、で、しょうか……?」
かなり腰がひけ気味の、[四季亭]の主人が「おずおず」とキースに声をかけてくる。
[四季亭]の主人は真面目な男である。
租税もごまかしたことはない。
やましいことは何一つ無いのだが、さすがに怯えてしまう。
「ここのご主人?」
「は、はい!!」
神妙な面持ちのキースの言葉に、[四季亭]の主人は直立不動の姿勢を取って返事を返す。
周りの漁師達も、息を飲んで見守るだけである。
「聞きたい。
最近、この宿に泊まった女の子はいるかな?」
「お、女の子ですか?」
主人は予想外の質問に呆然としてしまう。
そして、一気に全身の力が抜けていくのもわかった。
こちらに非があることではないとわかったからだ。
「あ、い、いえ。
ウチはもっぱら常連の漁師連中が寝泊まりしているので、女の子はいな――」
「ありがとう、邪魔した」
主人が全てを言い終わる前に、キースは風のように出て行ってしまった。
また同時に、緊迫した空気も無くなった。
「ぽかーん」としていた漁師達も、一斉に騒ぎ始める。
「な、なんだったんだ、おい?」
「すげえ迫力だったな」
「でも、女の子って?」
「そういや、ホワイトスネイクにゃ、女の話一つも聞かねえよな?」
「もしかして?」
「あんだけ慌ててんだ、そりゃ、そーだろ」
「ひゃっほう、俺達のホワイトスネイクに春が来たようだぜ!」
「おー、サーペンスアルバスも安泰だ!」
「というわけで、かんぱーい!」
[四季亭]に風のようにやってきて、風のように去っていたキース。
そのおかげで、その後の[四季亭]の酒場は大いに盛り上がった。
売り上げも良好となり、主人もホクホク顔だった。
○
サーペンスアルバスの街中には多くの人々がいる。
そんな中を、キースは走り抜けていた。
その動きには全く無駄が無く、人々にぶつかるどころか触れることもない。
「次は[月の銛亭]が近いか――」
足を止めることなく、キースは頭の中で次に向かう宿屋を考える。
そして、[月の銛亭]に向かうために、メインストリートに出たときだった。
「あ……」
島と島をつなぐ橋の上。
キースの視界に入る人。
それは、ただ一人の後ろ姿だった。
真っ白なワンピース形式のローブ。
そしてポニーテールにまとめられた黒い髪。
それは何年も見た姿であり、大切な家族の――
「の、乃愛……!」
身体が止まらない。
キースは無意識のまま、走り寄って少女を後ろから抱きかかえた。
もう離れないように、と――
その刹那――
「きゃ、ち、痴漢!?」
「へ??」
少女の動きは俊敏だった。
それは一般人では理解できない程の速度。
キースの風景が上下反対になる。
竜巻を思い起こさせるような、ものすごい勢いの背負い投げだった。
ものすごい勢いで空に放り出される――
「だ、大雪山おろし???」
空中にて、キースは、再放送で見たアニメキャラが使っていた必殺技名を呟く。
こんな場所、こんな体制でも、キースにはなんら問題や障害になるものではない。
空中で姿勢を整え、下にいる少女を見やる。
「な、なに、なんなんですか……!?」
少女は不安気な顔で、胸元のローブを「きゅっ」握っていた。
声。
顔。
仕草。
キースは確信した。
笑みが止まらない。
「やっと、か……!」
歓喜の声を呟いて、橋の下の海に落ちた。
「(乃愛……!)」
大きな水しぶきがあがる。
その中心、水の中にいるキースは笑顔を抑えられなかった。
★
キースが「神速の剣の達人」という描写は、22話にてドーヴェンさんが語っております。
あまりにも久しぶりなので補足説明。
○
最初はドラマティックな出会いを書いていました。
が、何故か、いつの間にか、痴漢と間違えられるお話になりましたw
○
おにいちゃんには、意図してメタ発言っぽい会話使っています。
なかなか難しいものです。