「タエ、タエ、すっごいよ!!
ねえねえ、あれ、あれが[海]ってやつ?
広い! 広い! すっごい!」
「そうよ、バド。
私も久しぶりに見たけど、あれがぜーんぶ[海]なのよ。
ものすごく、ものすごく広いんだから」
「へえ……!」
「バド、あとで一緒に[海]で泳ごっか?」
「わ、やったあ!
タエ、絶対、絶対だよ!」
風に乗ってやってくる潮の香り。
寄せては引いてを繰り返す波。
燦々を照りつける太陽。
海を引き立てるのに、今日ほど相応しい日は無いほどだった。
海沿いの街道を走る馬車。
興奮しきりのバドの声は、馬車を操るミッチェルとバーバラの元にも聞こえて来る。
「もうバドったら。あんなにはしゃいじゃって」
「無理ないよ。
僕も、初めて海を見た時はバドと同じだった」
「あらあら。血は争えないってことかしら」
「はは、違いない」
荷台にいるバドは、ひっきりなしにタエに海について訪ねているようだ。
そんな元気な息子の声に、バーバラは安堵の気持ちが止まらない。
「それにしても、あの子ったらすっかり元気ね」
「ああ、本当に良い意味でびっくりさ」
ミッチェルとバーバラの一人息子であるバド。
バドは生まれつき病弱だった。
すぐに熱を出し、咳き込み、嘔吐する。
気が気でない毎日。
そんなバドをなんとかするべく、ミッチェルとバーバラは危険な行商を生業に選んだのだ。
危険が常に付きまとう行商はお金の実入りが良い。
ミッチェルとバーバラは、売上げのほぼ全てをバドの為に使った。
だが、今までは、さしたる効果を見られることはなかったのだ。
「本当にそうね。
でも、マディラ当たりで買った薬草でも効いたのかしら?」
「うーん、ちょっと待って。
台帳に薬代とか記載してあるから、それを見ればっと――」
ミッチェルは肌身離さず所持している台帳を胸から取り出す。
年季が入った羊皮紙の台帳。
これは商売人のミッチェルの全てとも言えるものだ。
「えっと……
うわ、マディラでは結構お金を使ったんだなあ。
でも、カーボベルテぐらいから、ほとんどお金を使わなくなったね」
「カーボベルテ?
それってタエと会ったところ?」
「うん、そうだね。
カーボベルテでタエを雇っている。
その当たりから、薬代とかは劇的に減っているよ」
「あらあら。
それじゃあ、タエが幸運を運んできてくれたのかもしれないわね。
タエはハイローニアスの人だもの」
「その意見に関しては、賛成でもあり反対でもあるなあ」
ミッチェルは、わざとらしいしかめっ面をバーバラに向けた。
バーバラは苦笑してしまう。
この顔をする夫は、いつも大抵くだらない事を言うのだから――
「なあに、そのよくわからない答え?」
「神様とか、そんなものじゃなくて。
つまり。
男は、好きな女の人が出来れば元気になる。
そういうことだと思うんだ」
「……え?」
ミッチェルは、これ以上はないというくらいにニヤニヤした表情を妻に向ける。
夫の意見に、バーバラは「そんな馬鹿な」と思える。
だが、タエの事を考えると、なんだかあり得そうな気がしなくもない。
「ふふ。だとしたらすごいわね」
「バーバラ、男という生き物をあなどってはいけないな。
男の僕が言うんだから、間違いないさ」
「あらあら。
確かにバドったら、タエにベッタリだものね」
ミッチェルは台帳を胸ポケットにしまってから、大きく身体を伸ばした。
少し強めの潮風が火照った身体を通り抜けて、これ以上にないぐらい心地よさを感じる。
「ん~っと!
10年後ぐらいに、バドがタエを口説き落としてくれないかなあ」
「もう、あなたったら飛躍しすぎですよ。
でも、タエならいいわ。
ううん、お願いしたいぐらいかしら」
「だろだろ?」
バーバラは荷台の方に意識を向ける。
興奮しきりのバドは、先程からずっとタエに質問攻めをしているようだった。
「海はね、すっごくすっごくしょっぱいのよ」
「え、タエなにそれ? しょっぱいって?」
「塩がいっぱい入っている水なのよ、海は」
「えー! うっそだよー。
水がしょっぱいわけないよ」
「ホントなんだってば」
「嘘だよ~」
荷台組はとても賑やかだ。
息子とタエの元気な声が、バーバラの耳に飛び込んでくる。
それはバーバラにとり、とてもとても大切なものだ。
「本当にそうなったら素敵ね――」
バーバラはそっと言葉にした。
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033 海沿いの街・セーフトン
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特別な問題は何も起こらず、馬車は順調に街道を進んだ。
馬車の手綱をとるミッチェルとバーバラの視界に、色とりどりに塗られた独特な景観の建物が見えてくる。
「お、ようやくセーフトンだね」
「ええ、本当に……
……
お疲れ様、あなた」
「はは、いつもなら「安心するのはまだ早い」って言うところだけど、
さすがに、ここまで来れば特に問題も起きないか」
セーフトンは全ての建物が、赤やピンクや黄色といった独特の色をしている。
勿論、これには意味がある。
セーフトンは海沿いの街であるために、多くの人々が漁業に携わっている。
霧で視界が悪い時に、海へ出た者達が迷わず[セーフトン]に帰ってこられるように建物を目立つ色に塗ったのが始まりだ。
家で待つ家族達が願いを込めた結果だった。
「ここでタエともお別れなのね。
セーフトンについて嬉しいはずなのに、なんだか――」
「バーバラ。
それは違うよ」
妻の言葉を、ミッチェルは優しく否定した。
「え? でも……」
「「またね」だよ。
だってそうだろう?
タエは僕達の義理の娘になる予定なんだから、ね」
ミッチェルはバーバラに下手くそなウィンクをしてみせる。
一回目は失敗して、両目を閉じてしまう。
うまくいったのは3回目だった。
「ふふ、あなたったら……」
「また会うからね。
お別れじゃない、だから「またね」なんだよ」
「ええ、そうね……」
○
馬車は何事も無くセーフトンの門前に到着した。
馭者であるミッチェルは、手綱を巧みに操り馬車の速度を落とす。
「止まれぇ――!」
門にいる長槍を持った二人の兵士が近寄りつつ大きな声を投げかけてくる。
兵士は互いの槍を交差させて、前に進めないように道を塞いだ。
[海沿いの街・セーフトン]に入るための検問だ。
いつもここで入市税を払うことにより、街に入ることが許可される。
だが、ミッチェルは少し気になった。
以前に来た時は、このような上から目線の兵士による検問では無かった気がした為だ。
「お勤め、ご苦労様です」
ミッチェルは笑顔で2人の兵士に挨拶をする。
内心では苛立ちを感じるが、商人として兵士とトラブルを起こすのは百害あって利は全く無い。
商人であるミッチェルにとって、表情や感情を操作することは常に意識している。
「ふん……」
下手に出てきたミッチェルに対して、兵士達はさらに見下すように言葉を吐き捨てた。
「公僕である我々は、フラフラしているだけのお前らと違って忙しい身だ。
早急に税を納めろ。
それが嫌なら、とっとと消えされ」
「……畏まりました。
大変申し訳ありません、何分、田舎者故ご容赦ください」
ミッチェルは懐から金貨を1枚取り出す。
あまりの言いぐさに、ととっと通り抜けることをミッチェルは考えた。
「我々を馬鹿にしているのか?」
兵士がミッチェルに槍を向ける――
「え――!?」
「あ、あなた……!?」
「な、何か失礼な事がございましたでしょうか……!?
不作法がございましたら、謝罪させていただきますから――」
ミッチェルは両手を上げて敵意が無いことを兵士に向けてアピールする。
バーバラはミッチェルにしがみついて、震えだしてしまった。
「セーフトンを何だと思っているのだ、この田舎者が」
兵士がミッチェルの二の腕辺りを槍で軽く突く。
赤い点が浮かび上がる。
それは紛れもなくミッチェルの血だった。
「行商人がセーフトンに入るには、この10倍の金額が必要だ」
「そ、そんな馬鹿な――!?」
あまりの法外な金額に、思わずミッチェルは大声を上げてしまう。
「馬鹿とは、何様のつもりだ!!」
「――痛っ!」
ミッチェルに対して、兵士達は槍をさらに向けてくる。
「あ、あなた――!!」
バーバラはミッチェルを守る為に、身体をミッチェルの前に差し出そうとした時だった。
「どうしたのかしら?
何か揉めているような感じがするけど、ね――」
凜とした、タエの声だった。
馬車の荷台からタエは降りてきて、兵士二人に向かって行く。
「なんだ、お前は!
お前も、我々に逆らおうとでも言うのか、ん?」
突如現れたタエに対して、兵士達はミッチェルに向けていた槍をタエに差し向ける。
だがタエは全く動じることが無かった。
「逆らう? 何を言っているの?
私はただ何があったのか聞いているだけよ」
タエは槍の穂先を手で払いのける。
「な、何だお前は!?」
全く槍を怖れないタエに対して、二人の兵士は腰が引ける。
が、改めて槍を向けようとした時だ。
「タエ、下がるんだ!」
ミッチェルの声だった。
「申し訳ありません!
何分、セーフトンには久しく来ておりませんでした。
入市税は滞りなくお支払いさせていただきたいと思います!」
ミッチェルは兵士とタエの間に入り込み、両者の距離を離そうと仲裁に入った。
[海沿いの街・セーフトン]
門前は奇妙な雰囲気に包まれていた。
★
今回は短いお話になってしまいました。
申し訳ありません!
セーフトンのモチーフはイタリア・ヴェネツィアのブラーノ島をモチーフにさせていただきました。
1度だけヴェネツィアには行きましたが、本当に良いところでした。
また行きたいな。
あと数話でお姉ちゃん編を一区切りできたらいいなー、と構想しております。
早くメンバーを合流させたいと思う今日この頃です。