彼女は夢を見ていた。
つい先日のようで、もう何百年も前に過ぎ去ったような気のする、不思議な夢を…………。
――――――――――――――――――――――――――――――――
彼女を一目見て万人がイメージするのはまず「不潔」というものだろう。
もう何ヶ月も櫛を通していない黒髪は痛んでほつれ、グシャグシャに絡み合っているのを無理矢理ゴムひもで一つに束ねていた。
そして染みだらけになった白衣は皺だらけでくしゃくしゃになり、一体全体どれだけの月日洗濯していないのか想像すら出来なかった。
脂ぎった頭髪にはふけが浮き、いかにも不健康そうな青白い顔には一生取れないのではないかと思うほどの色濃い疲労の色と大きな隈があった。
身に着けているもので唯一清潔なのはその顔にかかっている細い銀縁眼鏡で、それだけは念入りに磨かれて銀本来の輝きを保っていた。
彼女はデスクトップコンピュータの前に陣取ると、薄暗い照明の中で液晶の生み出す青白い光に照らされながら一心不乱にキーボードを叩いている。
やがて、だだっ広い研究室の中に新たな人影が入ってくる。
彼女とは対照的に毎日洗濯しているだろう糊の効いた白衣を羽織った青年は、片手に資料の束を持ちながら研究室の照明を点灯させる。
そうして彼は彼女の姿に気がつくと、慌てて腕時計に目をやってから驚きに目を丸くした。
「薫さん、もう来てたのか? 早いな……」
そう言って、彼は彼女のデスクの傍にあるソファと寝乱れた毛布に気がついた。
ついでデスクの上にずらりと並んだ栄養ドリンクの空瓶と、更に足元のゴミ箱から溢れ出したバランスフードの空箱を見るにいたり、大きな溜息をついて彼はさっきの言葉を訂正した。
「いや、まだ帰っていなかったのか」
「……宿舎に帰る時間も惜しいわ」
「へぇ、さいで」
そう言って肩を竦めた青年は彼女の隣のデスクに腰掛けると、ひょいと手を伸ばして彼女のデスクから未開封の栄養ドリンクを手に取った。
「うへぇ、良くこんな代物をダース単位で飲めるもんだ。表示を読んだか? この国の食い物は添加物たっぷりだぞ」
「中国製品よりましでしょう」
「たしかに、毒を混ぜられるよりはましか。ま、それにしたって青色のケーキは頭がおかしいとしか思えんが。この国の奴等は料理に視覚的情報を求めないらしいね。同じ人類として嘆かわしい」
そう言って彼はドリンクの蓋を開けるとその中身を一気に呷った。
飲み切ったあと、そのあまりに酷い味に盛大に顔を顰め、抗議するようにげぇっと舌を出した。
「こりゃひどい! 貴女が以前作った毒スープの方がましだと思える日が来るなんて! それだけでこのドリンクは貴重な存在だ」
「よく効くのよ、それ」
「これだけ不味くて効果がなかったら作った会社にロケット弾でもぶち込んでやる。……なあ、ほんとにこれ毒じゃないのか? 飲み終わったあと歯茎が痛むんだけど?」
「よく効くのよ」
「嘘こけ(Bullshit)! 塩酸クロロプロカインみたいな味だ!」
「疲れが麻痺するのよ」
「笑えねぇ……」
ぶつくさとぼやいて、彼は自分のデスクのコンピュータを起動させる。
世界一有名なOSのロゴが表示され、起動を待つ間に彼はふと視線を隣に向けた。
「で、徹夜して何か進展は?」
「分かり切っている事をいちいち確認しなければ気がすまないのは貴方の悪い癖ね、斉藤君」
「ま……一晩かそこらで事態が劇的によくなるなんて俺だって期待しちゃいませんがね」
「急ぎなさい、パッドフッドの脳筋がまたおかしな事を言う前に何かしら成果を挙げる必要があるわ」
「上院議員かぁ……あの人もなぁ、もう少し気長に待ってくれたらいいものを。テメェが人員削減したんだから回転率が落ちるの当たり前だろうってんだ。……まったく! 相変わらず国民は自分勝手だし、議員様はどいつもこいつも本業ほったらかしでロビー活動に忙しい。ほんとこの国は国民が自己中だなぁ、「自立心旺盛」ってそりゃ協調性がない事の裏返しでしょうに。そりゃ銃規制なんて出来やしないだろう、けっ「汝の隣人を愛せよ」が聞いて呆れら」
そうブツブツと愚痴を零し、彼は起動したPCを適当に操作して準備をしつつ、いつの間にか空席の多くなったデスクの群を寒々しい目つきで眺め見た。
往時には朝から晩まで部屋一杯の人間で賑わっていた研究室は、既にこの時に半分の人員にまで削減されていた。
「ああー! 俺が寝てる間に全部仕事をしてくれる心優しい妖精(レプラコーン)でもいてくれないもんかね!」
「……研究が完成したら、そういう存在も実証されるかもしれないわね」
「はぁ……あのね、薫さん」
そう言って、彼は隣でモニタを睨み付けている年嵩の女性にぐいと顔を近づけた。
「俺はね、「今」欲しいの、分かる? 完成してから届いても意味ないの、絵に描いた餅なの」
「夢みたいな事を言う前に、手を動かしたらどう?」
「夢みたいな事!」
そう大げさに叫んで、彼は突然大笑いした。
怪訝そうな目で彼女がそれを眺めると、彼は暫くして笑いの発作をおさめてから「失礼」と返して深呼吸をした。
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を白衣の袖で拭いながら、彼は心底おかしいという風に彼女に語りかけた。
「いやはや、おかしい。たぶん今年で一番笑わせてもらった、そのジョーク今度使わせてくれよ」
「……どこがおかしいのか説明してくれないかしら」
「だってさ」
そう言って、彼はまたぶり返してきた笑いの発作を何とか抑えながら答えた。
「異次元の実証なんて、それ自体夢みたいな事じゃないか、ええ?」
――――――――――――――――――――――――――――――――
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
おはようございます タチバナ カオル!!
現在時刻 は F.A.1845/12/11/09:02:12 です!
あなた の 称号 は 厄介者 です
あなた の 二つ名 は ありません
あなた は いま ホーム の 3階寝室 に います
狂気 が 20down した
覚醒 が 5up した
体力 が 基準値 まで回復した
マーチ への 好感度 が 上がった
現在 の 好感度 は 【友好的】 です
ケヴィン への 好感度 が 上がった
現在 の 好感度 は 【普通】 です
ノクティ への 好感度 が 下がった
現在 の 好感度 は 【警戒】 です
マーチ からの 好感度 変化無し
ケヴィン からの 好感度 変化無し
ノクティ からの 好感度 が 著しく下がった
現在 の好感度 は 【蛇蝎】 です
カオス を 讃えたまえ!
You have a good lunatic day!
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
むくりと、彼女はベッドから起き上がった。
夢というのは起きた瞬間にはある程度鮮明であるが、何故かその夢に関しては起きてから時間が立っても鮮明に彼女の脳裏に焼きついていた。
いまや名無しのマインドフレイヤから「橘薫」という自己を朧気ながら得た彼女は、自分がどうしてこんな有様になっているかまでは理解できずとも、少なくともそれに至るような事を研究していたのだと理解した。
自分はこの世界の人間ではなかった――いや、そもそも今は人間ですらない。
彼女はその事実が思ったよりも自分を打ちのめしている事に気がついた。
自分を自分だと証明するべきものが、彼女には何もなかった。
顔も身体も何もかも変化し、身分証すら持っていない。
唯一あるのは嘘か真かすら良く分からない虫食いだらけの記憶だけ。
ベッドから降りた彼女はふらふらと寝室から出て屋上へ続く階段を昇った。
「……わたし、いったい誰なんだろう」
橘薫という一人の人間なのだろうか、それとも彼等が言う所のクトゥーチク司教という人物がそんな埒もない妄想を抱いているだけなのだろうか。
考えたって、答えは出そうにもなかった。
そして、最も可能性が高そうなのは後者である事も、彼女の心を陰鬱にさせた。
「こういう時は、空をみればいいんだよね。サイトーくん」
屋上に出た彼女は、眩しい光に目を瞬かせた。
そしてようやく光に目が慣れると、そこから見える光景に彼女は思わず溜息をついた。
年の瀬も押し迫った12月、すでに本格的な冬の到来を告げるかのように身を切るような寒さが都市を覆っていた。
道行く人々は皆肩を竦めて足早に先を急ぎ、粗末な物から上等な物まで全員が例外なく外套を羽織っていた。
そうか、ここではまだ雪は降らないんだな。そんな風にぼんやり考えて、彼女は雲ひとつない空から降ってくる太陽の光を浴びながら屋上の床に直接寝転がった。
「このひろい空にくらべたら、わたしのなやみなんてへみたいなものだよね」
ああ、今日もちっぽけな個人を置いてけぼりにしながら、世界は回っている。
彼女は無意識の間に寒さを遮断する力場を展開しながら、ただ青一色に染まる視界の中で飛び回るとんびをただ見つめるのだった……。
――――――――――――――――
誤字とか脱字とか、発見したら容赦なく突っ込んでください。