「配置転換?」
斎藤は訝しげに手元の資料から目線を上げて彼女の方を見た。
「ええ、そう。前から苦情が来てたでしょ? 陸軍の兵士が鬱陶しいって」
「ああ、そういや、あったなあ」
今しがた彼女たちが話している内容は、研究所の警備担当を変更しようというものである。もともとこの研究所の警備は陸軍から派遣されてきた兵士たちと、民間軍事会社から雇った傭兵たちで警備されているというややこしい物だった。
素人目で見たって、全く系統の違う組織が二つもあって、しかもその任務が被っているなんて馬鹿馬鹿しい配置だ。
まあ、そのへんはどうやら今まで彼女が全く目を向けて来なかった政治的な力関係が色々と関わっているらしいが、そのゴチャゴチャした状況をすっぱり改善してしまおうという話である。
まあつまり、陸軍は上層部と外の警備だけを担当し、研究所内部は全部傭兵で担当してしまうという話である。軍は外からの襲撃を心配していれば良い、ということだ。
資料を読みながら、斎藤が小首を傾げる。
恐らく、彼女がこういった事に口を出したことに内心驚いているのだろう。
「だけど、中を全部傭兵にするんだったら追加予算がいるんじゃない?」
「大丈夫よ、お金の心配は」
「なんで」
「私が払うわ」
「は?」
ぽかんと口を開けて此方を見る斎藤に彼女は「口を閉じなさい、馬鹿みたいよ」と、努めて平静を装って返す。
ここが正念場だ、薫と斎藤の二人が決めたことは滅多なことでは覆らない。ここで斎藤を説得出来れば、後はどうにでもなった。
「払うって……本気で?」
「この面倒な状況が改善できて、更に面倒事もう一つ片付くと考えれば楽でしょう」
含みをもたせた言い方に、斎藤の両目がキラリと輝いた。
研究所内部の警備を担当している陸軍の人間が、どうやら上からの命令で此方の監視と探りを入れているらしいというのは、彼女はメイスンからの情報で知っていたが、どうやらこの調子だと斎藤も知っているか感づいていたらしい。
そして彼は彼女が「知っていて言っているのか」それとも「知らずに言っている」或いは「単にカマをかけているのか」と考えている――と、メイスンの予言めいたアドバイスに従って彼女は考えている。
そんな思考はおくびにも出さず、彼女は「どう? 違う?」とことさらどうでもいいような様子で問いかけると、斎藤はじっと彼女の両目を見た後に「……そうですね、ええ、これで研究に没頭できるとみんな喜びますね」と返した。
やった、思わず心のなかでガッツポーズをしながら、何くわぬ顔で次の資料を出す。
「じゃあ、警備主任はアダムスキーとカミンスキーでいい? 追加の派遣をどこから雇うかも決めてあるから」
「分かった、じゃあこの件は薫さんに任せるよ。で、次のコレは……」
二人はそのまま淡々と次の案件を処理し続けた。
案件の中にはいくつかのスピンオフ技術の消去や、すでに提出した資料の幾つかに重ねて新たな資料を提出して一部の高度な専門家にしか分からないほど巧妙に「実はコレコレこういう事が発見されたので、コレは失敗でした」という嘘の報告書を提出する件や、現在広がっている技術に更に改良を加えることで大幅な低コスト化と効率化が図れるが何故か兵器利用には全くそぐわなくなってしまう新触媒や新製法を最近資金繰りの厳しいギガコングリマリットに売りつけたり、彼女たちが設計した新型ナノマシンが製作者の許可を得ずに表向きは医療目的で開発されているがその実は完全に軍事目的で研究している研究所への表向きでの警告という名の脅迫文だったりしたが、斎藤は特に何も言わずに全て「決済」の電子サインをした。
書類をまとめて部屋を出る寸前、斎藤は「ああ、そうそう」と言いながら振り向いてニヤリと笑った。
「仲間外れは嫌ですよ、信用して下さい。俺と貴女の仲でしょう」
と言い放って颯爽と部屋を出ていった。
薫は黙ってドアの電子錠をかけると、ソファに座って大きく息をついた。
疲れきってぐったりと背もたれに身を預けると、部屋の隅でおとなしく座っていたマーティンがやって来て彼女の足元に寝そべる。その耳元を優しく書きながら、彼女はナノマシンを介した秘匿通信回線を開く。
《プロフェッサーよりJ・B サイトーは味方》
《J・B了解 言った通りだったでしょうお嬢さん?》
《もうお嬢さんって歳じゃないわ 通信終わり》
《照れなさんな エンジニアは明日つく フェイスレスは活動中 通信終わり》
ぼんやりと中空を見つめながら、薫は大きなため息をついた。
「まさか、この歳になってスパイごっことはね……」
苦笑交じりの慨嘆に、傍らの愛犬だけが小さく鳴いた。
■■■■■■
事態は目に見える所と見えぬ所、その両方で速やかに進んだ。
まず研究所の中から軍人の姿が一掃され、その代わりにピンカートンの息がかかった民間軍事会社から傭兵たちが派遣され研究所内の警備を一手に引き受けた。それによって警備の軍人の中に含まれていた諜報部の人間が一掃され、さらには研究員やその他の職員が何人も「一身上の都合」や「職務中の事故」で研究所から姿を消す。
言うまでもなく、これらの人間も「フェイスレス」や「J・B」が見つけ出した諜報員であった。
更には薫が今まで日産レベルで提出してきた特許がパタリと途絶え、コレまで世に出してきた技術に対しても様々な情報媒体が虚実織り交ぜた「危険性」や「代替技術」が騒がれるようになった。
そして薫の技術が大量の死を産み、それを「平和利用」だと公言して憚らない政府の方針を痛烈に批判する。これは表からアングラまでマスコミに顔が利くフェイスレスの手腕だったが、実際そのやりかたは見事で、政府が火消しをしようとするたびにそれを逆手に取って炎上させるやり方は悪魔めいていた。
高度情報化社会はある一定以上の所得層にネットワーク環境を提供し、指先一本で隣人のトイレの回数まで分かるような世界がやってきたと同時に、それは政府による情報統制の激化も招いていた。
だが、何時の世にもそういった管理から逃れたアングラサイトは絶えることを知らず、そしてフェイスレスはそういった情報網の有効活用が天才的に巧みであった。
基本的に特許が申請されない技術は秘匿される。そして秘匿される場所が世界で最もセキュリティレベルの高い場所であり、その保管場所も電子媒体ではなく橘薫の脳内である。
政府は焦り、原因を探した。
一体何者が世界最高峰の「死の科学者」に要らぬことを吹き込んだのだろう?
だが、彼らがいくら調べようとも分からなかった。彼女の周りに集う人々は基本的にそういった情報を彼女にあえて知らせないような人柄ばかりであり、そういった性格の人間以外は政府がブロックしてきた。
まさか、彼らも異世界の僧侶が彼女の蒙を啓いたなどという真実に気づきようもなかった。
薫は変わった、いや、ようやく事実をありのままに受け止められるようになったといえばいいのか。
彼女はそれまでとはベクトルを変えて精力的に動いた。まるで今まで自分が放置してきた全ての罪を見つめ直し、清算するように。
見る目のある者はこの彼女の「転変」を何事かと興味深く注視していた。ある者は彼女が突然良心に目覚めたのだと言い、またある者は新たなアメリカの陰謀だと騒ぎ、またある者はただじっと事態の推移を観察し、またあるものはこの騒ぎに乗じて己の利益を得ようと慌ただしく動いた。
そんな外野の雑音を全て無視するかのように彼女は動き、政府は焦った。
斉藤曰く「飼い犬に手を噛まれるとはこのことだ。あの慌てふためいた様子は傑作だな」
有用な特許技術の安全性にケチを付けられ、数え切れないほどの市民団体からの抗議に腹を立てた軍産複合体が政府の尻を叩くに至ってとうとう彼らは動いた。研究所の人員引き抜きと解雇を通告したのだ。
だが、研究員たちは唯々諾々とその命令に従ったように見えてそうではない。中枢コンピュータHALを改造して専用の抜け穴と個人認証IDを登録すると、出先の研究所から、或いは自宅から、専用の秘匿回線を使ってプロジェクトの進行を助けた。
誰一人として、この世紀の大プロジェクトを途中で放り投げることなど出来なかったのだ。
そんな事だから当然、職員をクビにするぞと脅しても動じず、実際に人員削減を行なっても平気の平左。更にはメインプロジェクトは進行しているのに本当に政府がほしいスピンオフ技術は「マンパワーの不足」を理由に殆ど上がってこなくなる。
政府は苛立ち、このプロジェクトの責任者であるパッドフット上院議員を強制査察団の最高責任者として任免するという過ちを犯したのだった。
■■■■■■
「はぁ!? 査察!? 何の権限で!」
憤懣やるかたないと言った様子で斎藤が彼女のデスクに両手をついて噛み付く。
手元のデータパッドを彼の方に滑らせながら、薫は肩をすくめる。
「国防総省とCIAが、怪しんでいるらしいわ」
データパッドをためつすがめつしながら、斎藤が眉をひそめた。
その両目は凄まじい速度で文章を追っている。
「怪しむって、何を。俺達が予算を使い込んでるとか?」
それとも、すでにここを去ったはずの「元職員」たちが今でもプロジェクトを推し進めていることに気がついたのか。彼の両目はキラリと輝いて無言のうちに彼女に問いかける。
それに大して薫は隈の消えない両目を胡乱げにひそめて首を横に振る。
すでにその可能性については彼女は協力者たちとともに検討したが、どうもそうではないらしい。
「その……彼らの言い分は、私たちが不必要な武力を溜め込んでいるんじゃないかとか、その、日本で言う凶器準備集合罪みたいな」
「はぁ? イミフ、地球語でおk」
本気で分からない、とでも言いたげな斎藤。
「……はぁ、アレよ、貴方とアレックスとシードが手慰みに作ったATが問題になってるのよ。あと、違法改造したパルスライフルとかが流出したの」
そんなことを言いながら、彼女は一定のリズムでコツコツとデスクを叩いた。
その符丁を、彼女と彼の頭の中にしかない暗号解読アルゴリズムが素早くデコードする。
【ろくばんめのふぁいる じゅうにばん ごじゅうろく はち ろく さん よん わたしとあなたのたんじょうびを まーてぃんのねんれいでるいじょう】
斎藤の指先が素早く動き、隠しファイルのパスワードを入力する。
現れたテキストファイルには、ケツを叩かれたパッドフッドが軍の特殊部隊を率いて研究所の制圧を企図しているとの情報。
「あ、ああ、あーーー」
「そうよ、「あーーー」よ、全く……」
その時彼らの目によぎったの一体どういった感情だったのだろう?
驚愕? 怒り? 嫌悪? 反骨? 恐怖? 諦念?
それら全てであり、それらのうちのどれでもない。
あらゆるものが混ざり合ったような混沌としたその目、それらから読み取れる唯一絶対のもの、それはすなわち……。
「覚悟」である。
「い、いやいや、だって、ボトムズですよ? ねぇ? あんな紙装甲、バトルタンクのいい的ですよ? 兵器じゃありません、アレは自家用車です」
「明日彼ら(査察団)にもそう説明したらどう? でも私なら、無駄な事をせずに素直に謝るわね。誰がどう見たって、自家用車にも作業機械にも見えないもの。なんで自家用車にマニュピレーターとマシンガンとパイルバンカーが必要なのか、たっぷり質問されるでしょうね。もちろん個室で」
彼らの「覚悟」は、まるで幻のように消え去り、そこには道化のようにおどける世界二位の頭脳を持つ秀才と、それを呆れたように諫める世界一位の天才がいた。
「どう見ても兵器です本当にありがとうございました。ちくしょー! お前らにはもう攻殻に出てきたみたいなパワードスーツがあるじゃねーか! 今更ボトムズにまで興味示すんじゃねーよ!」
「それだって基幹技術は日本の技研が作ったから、今度のアレも行けると踏んだんじゃないの?」
違う、作ったのは、彼女だ。
死の科学者、戦災の天才、虐殺器官の彼女が作った。
「馬鹿な! ATは搭乗者の命使い捨て前提だぞ! アメ公の軍事ドクトリンにそぐわないにもほどがある」
「そういう詳しいことは分からないけど、パッドフッドが強烈に働きかけたみたいね。あいつ、軍人上がりだからそういのに目ざといのよ」
パッドフッド、パッドフッド、何も知らなかった彼女が信頼していた一人。
あいつにどんな使命感があり、義務感があり、そして己の中の一体何を拠り所にして紛争を煽り続けているのか、そんなことは彼女は分からない。
ただ、彼女は決めたのだ、己の心に従い、全てを精算してのけると。
夢幻の中で知り合った、異形の僧侶の言葉に従って。
「……………………」
「斉藤君?」
はっと視線を前に向けると、今まで見たこともないほど真摯な視線が彼女を見据えていた。
彼女を真正面から見つめ、斉藤凛二はニヤリと笑ってみせた。
「ぜってーシラ切ってやる。あのクソッタレに負けるくらいなら首切られてもいいや」
「ちょっと」
「安心しろって、薫さん。こんなんなるまで此処に残った面子だぜ、口裏合わせは完璧だ」
「……こういうことをしてるから、怪しまれたのかしらねぇ……」
呆れたように呟きながら、彼女は嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑をこぼしたのだった。
■■■■■■
査察当日、パッドフッドと彼が引き連れた護衛たち……という名目の軍直属の特殊部隊は不気味な静けさの中で研究所内に現れた。
職員たちは日常業務を続けるように通達され、不審な動きは証拠隠滅ととるとも警告されていた。
彼らは所長室の薫と斎藤の所までやってくると、威圧的な仕草で仰々しく紙媒体の書類を彼女に差し出した。
「プロフェッサー、なぜ私がここにやってきたのか、君はとっくに承知のうえだろうが、これも形式上の手続きでな。この書類を受理し、サインし給え」
そう言って差し出された書類に反論の一つもなくサラサラと彼女が涼しい顔でサインをすると、パッドフッドはピクリとそのまゆを小さく動かした。
思っていた反応と違うのだろうか?
だが、そんなことをわざわざ斟酌してやる必要などない。
「どうぞ、ご確認を」
「……たしかに、確認した。国防総省内務規定第521-225-8により、本査察中我々は憲兵権限を持つ。万が一、この研究所内で国家の安寧を揺るがすような不当な物品が見つかった場合、我々はそれらを没収及び諸君らを逮捕する権限を有する」
「不当な物品ね」
斎藤が鼻で笑ってそう繰り返してやると、彼の顔にさっと朱が入る。
彼の後で待機する二人の兵士の顔は、装甲ヘルメットで覆われて伺えないが、どうせ感情抑制処理が施されているのだ、眉一つ動かしていないだろう。
「何か言いたいことでも?」
「いえいえ、さすが、つい最近その「不当な物品」で世間を騒がせておられる議員閣下は仰ることが違いますなあ。私など、元来が控えめな性格のジャッパニィィズなもので、あなた方の広い広い国土とそれに付随した広い心の大きな棚にはほんと、感心し切りでございます。もしも私があなたなら、そんな面の皮が厚い放言などとてもとても」
「貴様!!」
「おっと!」
激昂して掴みかかろうとした彼を、背後の兵士が制止する。
もしここで殴りかかったら、その記録を盾に有利に立つことが出来るからだ。つまり、彼らからすると不利になる。
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる斎藤とは対照的に、パッドフッドは今にも斎藤の首を絞めて殺してやりたいと言わんばかりの形相である。
それもそのはずで、査察のほんの一日前に彼は己が必死に根回しして議会を通過させたとある新型ナノマシンピルが、実は服用後に特定の周波数の電磁波を照射するだけで脳の機能局在を選択的に刺激し、狙った感情・情動・認知機能・運動機能などを亢進・減退させることが可能であると大手新聞社にすっぱ抜かれたのだ。
当然、すっぱ抜いた新聞社は協力者たちが根回ししており、さらにそのナノマシンピルの危険性をわざと隠して通過させたのも彼らだ。つまり、このスキャンダルはパッドフッドにとっても寝耳に水。
この事件はナノマシンが開発された最初期に制定された「中枢及び末端神経における神経系のナノマシン使用による恣意的操作の制限に関する法律」に真っ向から違反しており、世界中のトップニュースを飾る大スキャンダルである。
なにせ、この薬剤を使って特定の機器を使用すれば、感情抑制処理など目ではないほどの劇的な効果で、それこそ生きた人間をロボットのようにしてしまえるのだ。
こんな物がろくな調査もされずに議会を通過した、そしてそれを半ば無理やり通過させた議員がいる。
そう、つまりパッドフッドは現在、政治生命の瀬戸際に立っているのだ。
両脇を兵士に抱えられながら、彼は鬼の形相で斎藤と薫を睨みつけた。
「涼しい顔をしてられるのも、今だけだぞ! 裏切り者め、貴様らを破滅させてやる」
「おお、こわいこわい。ぼくちんちびっちゃいそう! プギャーーーー!!」
わざとらしく怖がる演技をして見せてから、斎藤はゲラゲラと人の神経を逆なでするような馬鹿笑いをする。
アメリカ英語の汚らしいスラングをまき散らしながら、パッドフッドと護衛の兵士が退出すると、最後の最後まで指をさして笑っていた斎藤は次の瞬間に真顔に戻った。
「けっ……残念だったな、調べたって何も出やしねえよ。薫さん、どうする、一応ついて回る?」
薫はしばし考える。
査察に際して、相手側はとにかくなにか些細な事を口実にしてこちらに比を創りだそうとするはずだ。もし自分が彼らの後をついていって、彼らの挑発的な態度に異議を唱えたり職員を助けようとすれば、それを口実にされるかもしれない。
事前にこの事については何度か議論がされたが、最後には薫の判断に委ねることとなっていた。
「…………やめときましょう、変な難癖をつけられたらたまったものじゃないわ。いつも通りに過ごしましょう」
「はいよ、そうしましょうかね」
そう言って、二人揃って執務室を出る。
そして、彼女はこの時の選択を一生後悔することになった。