アストラル体をゆっくりと結実させて、《八つ裂き》のクトゥーチクは肉の軛からの開放感を手放して今一度不自由な物質世界へと帰還した。
ほとんど時間停止に等しいほどに遅らせていた肉体時間を元に戻し、鼓動を取り戻した心臓と共に大きく息を吸い込んで彼は「黄泉返」った。
ゆっくりと開かれた瞼の向こうで、翠玉のような両目に光が戻ると、彼の周囲で円陣を組んでいたギスゼライの術師たちが感嘆とも、驚愕とも取れるどよめきを上げた。
ギスゼライ――――遥か昔にマインドフレイヤたちが奴隷にしていたギスという種族が更に分派した存在で、ナイフ状に尖った耳と薄緑色の肌、生まれた時から顔や背中に浮き上がる黒い斑点、そして幾何学的な刺青が特徴的な種族である。
彼らギスはギスゼライとギスヤンキという二つの種族に分裂し、前者は内観の道を選んだ。ギスゼライは僧院や修道院を築いて例外なく哲人・僧侶となり、精神と魂の力を制御する方法をひたすら修行している。
彼らの修道院は殆どが前人未踏の山間部や、或いは魔法的に視認困難な呪法を施した場所に建設され、そしてその多くは混沌の王国全域に散らばっているが、大陸全土にその拠点があると言われている。
そしてギス達に共通することだが、そのほぼ全てがかつて己達を奴隷として酷使したマインドフレイヤに対する憎悪と復讐心を抱いていた。
が、今クトゥーチクの周囲で座禅を組みながら円陣を組むギスゼライには驚嘆と敬意の視線はあっても敵意はない。
やがて、一人のギスゼライが両手で組んでいた印を解いて真正面からクトゥーチクに頭を下げる。
「帰還したようだな、《始まり》のクトゥーチク」
「――ああ、そなたらの助力あってこそ、な。ふふ……《始まり》はよせ、恐れ多いわ」
《始まり》とは、混沌の王国の礎を築いた偉大なる《始まりのマインドフレイヤ》のことである。
ギス達にとっては己たちを奴隷化した憎き王国の端緒となった存在だが、彼自身の高潔な思想と強大な力自体は認めざるをえないというのが大方の見解であった。肯定的に捉えるなら、混沌の王国を作ったのは彼ではなくその高弟たちで、彼自身は偉大な先人という地位を揺るがせない。
そしてクトゥーチクのサイオニック魔法の技は、その偉大なる先人の再来であるという評判を下地にした一種の尊称であった。
「して、今回の旅路にて何か成果は」
「うむ、彼女は己の業と向き合う決心をした。あれの芯は強い、いずれ辿り着くであろう。主の御意に叶うだけの魂を持っているだけはある」
「混沌の女神は全てを見守り給う……」
「世界は全てを受け入れるだろう、全てをな。そうでなくてはならんのだ、そうでなければ……」
何処か焦りを含んだ声色で呟いて、彼はたっぷりと香の焚き染められたテントの中で立ち上がる。
それに合わせるようにして、ギスゼライたちが全員立ち上がる。
「イティハーサ、お主は残ってくれ」
「うむ……」
二人以外がテントの外に出て行ってから、イティハーサと呼ばれたギスゼライ――先ほどクトゥーチクのことを《始まり》と呼んだ彼は、微かに鼻を擽る香辛料の香りが漂うティーポットと陶器の茶碗を二つ取り出した。
そしてテントの中央に車座に並んだ座布団の一つに胡座をかくと、黙って二つの茶碗にポットの中身を注ぐ。
クトゥーチクがその対面に同じように腰を下ろすと、差し出された茶碗を受け取った。
「――ラ=ガレオに栄光あれ」
「元素の混沌に光りあれ」
二人同時に杯の中身を飲み干すと、どちらともなく溜息が漏れた。
そしてイティハーサが思わずといったふうに笑いを漏らすと、そのフードを下ろした。
フードの下から現れたのは、禿げ上がった頭から彫りが深く険しい顔全体に至るまで、見える所全てびっしりと刺青に覆われた顔だった。おそらく、刺青の入っていない場所は眼球などのほんの一部だけだろう。
彼らの刺青はギスゼライ社会での地位の高さと、その魔術の腕前を示している。しかも刺青は単なるイニシエーションの手段ではなく、彼ら独自の文様技術によって術士の魔力を高める効果も持っている。
これほど濃密で緻密な刺青を施しているイティハーサは、ギスゼライの中でも上から数えたほうが早い地位の人物だと、一目で分かった。
「全く……こうしてお前と茶を飲んでいると、時々これは夢の中の出来事なのではないのかと疑ってしまうよ。まさか、この私がマインドフレイヤと手を組む日が来るとはな」
「夢ならばよかった……そう思ったこともあるのではないかな」
「ああ、あるとも! 少なくともここ数十年のいざこざや、他の僧院長たちからの厳しい叱責もなかったろう。だが……」
そこで彼は視線を伏せながら、己の手の中で陶器の椀を転がした。
「だがな、もしお前と出会わなければ、私の人生はひどく単調でつまらないものになっていただろう。或いは、お前と刺し違えるような、そんな結末もありえたかもな」
「さて、そうなったかな?」
「ふ……侮るなよ、私とてギスゼライの上級精神魔道士だ、お前と一対一で戦えば勝敗は分からんさ」
「お主を侮ったわけではない、ただ、あの時我らが出会わずとも、いずれこのような関係に落ち着いてのではないかな」
「ほう? 混沌の女神はそう啓示を下さったのか?」
「いや、これはわしの直感だ」
「直感……か、なるほどな。凡百の奴らならば何をしたり顔で言うかと怒鳴りつけるところだが、お前が言うと嫌にしっくりくる。気に入らんなぁ」
「ふ、ふ……こういった物言いに説得力があるのが我らの特権よ」
「違いない。マインドフレイヤというやつらはどいつもこいつも謀ばかり練って、その物言い一つとっても裏が何処まであるのやら……」
「耳が痛いな」
暫し無言のままに、両人は香の焚き染めた天幕の中で茶をすする。
やがて口火を食ったのはイティハーサであった。
「クトゥーチク、こんな賭けは狂気の沙汰だ、分かっているのか?」
「何を今更。主に仕えると決めた日から、常に混沌と狂気はわしの傍らにあった」
「そんな話をしているのではない! お前が狂ってなどいないのは重々承知だ、何故だ? 何故こんな死と隣り合わせの暴挙に急く?」
「これでも遅いほどだ。我々(幽界派)は己の中に篭り切る余り、その深みに嵌った。この肉の体を持ってこの世にいる限り、この世の理を無視することは出来ぬのだ。いくら我らが全てを拒否してそれらを無いものかのように扱ったとて、扱われた方まで我らを無いものとしてくれるなど、そんな夢想に取り憑かれた愚か者たちがあまりにも多すぎた」
「では、ギスヤンキのようにアストラル界に移住すればよいではないか」
「それは嫌だと、あ奴らは言いよるのよ。そうとも、神殿に宝珠があるかぎり、我らがこの世界を去ることなど出来よう筈もない。奴らは「顕界派の不信心者に宝珠を扱えるものなどおらぬ」と鼻で笑いながらも内心は怖くて仕方が無いのだ。もし、宝珠をその手に握れるだけの素質を持ったものが顕界派に現れたら? その時自分たちがアストラル界に引き篭っていたら、一体どういうことになるのか?」
「それでは、まるで駄々をこねる稚児と同じではないかっ」
イティハーサはいきり立った。
「クトゥーチク! 幽界派は一体いつになったら我らと和解をするつもりだ!? 長老はいつ来る! 代表は! 交渉人は! この数千年の憎悪と遺恨を解消する唯一絶対の機会を、このまま歴史書の片隅に「あったかもしれない」という一文で終わらせてしまうつもりかっ! この関係を、この僥倖を、私達二人の個人的友誼で終わらせるつもりなど私には毛頭ないぞ!」
「説得は続けている。だが奴らはいざとなればそのような助力なしで顕界派を黙らせられると信じているようだ」
「貴様らお得意の妄想か! 夢想に耽って明日を夢見る間に、迫り来る今日に殺されるぞッ。おめでたい事だな、結局最後にものをいうのは組織力だ、今ここでこうしている一瞬の間にも奴らは手駒を増やし、その勢力を拡大しているのだぞ! 私達ギスゼライだけでは駄目だ、ギスヤンキだけでも駄目だ、貴様ら幽界派だけでも駄目なのだ……ッ!」
彼は口惜しげに歯軋りをしながら握り拳で地面を叩く。
「このままでは……! 世界が、顕界派のいいように弄ばれてしまうぞ!」
そう気炎を吐いたイティハーサがどしんと音を立てて地面を叩く。
相対するマインドフレイヤは、ただ黙ってじっと己の手の中で陶器の椀を転がすと、その両目をふと彼の方にやった。
「それはない。断言しよう、我が友よ。それだけは何があってもありえぬ」
「何故言い切れる? なんの根拠があるのだッ!」
「主が――」
「なに?」
「主ラ=ガレオがそう仰せになったのだ」
「なん――」
イティハーサは思わず絶句し、息を飲む。
そしてすぐに興奮した様子でクトゥーチクに掴みかかった。
「聞こえたのか!? かの気紛れなる混沌の女神から《啓示》が! まさかそんな」
「ああ、すまぬな、黙っていて。恐れ多くも、わし自身あの声が聞こえるようになった時には《始まり》の御方に一歩迫れたかと思うた」
「一歩だと? 馬鹿を言うな! 始まりのマインドフレイヤから今まで、あの偉大なる女神の啓示を真の意味で得られた者がどれだけいたというのだ?」
イティハーサは舌打ちをして立ち上がると、両手を大きく広げた。
「皆無だ! 一人もいなかった! いや、自称する畏れ多い馬鹿どもは掃いて捨てるほどいた。だがそのどれもがペテン師だったとすでに分かっている」
「わしもペテン師かもしれぬぞ」
「有り得ぬ。そんなペテンで水増しせねばならぬほどお前の力は貧相ではないし、名声に陰りがあるわけでもない」
「もしや、狂ってしまったのやもしれぬ」
「お前が狂気に落ちているというのなら、世界のすべてが狂うているのだろうよ」
「だが……」
なおも言い募ろうとしたその言葉を、イティハーサは押しとどめた。
「もうよせ、我が友よ。その己の力すら疑ってかかる慎重さと、至上の信仰心を主は評価なされたに違いないのだ。顕界派の欲得狂い共や、幽界派の頭でっかち共とは一線を画すお前のそのあり方が、無上の方法で評価されたと何故素直に喜べない? 私は評価するし、素直に祝福するとしよう。おめでとう、クトゥーチク。我が友よ。もっとも、お前が評価されて欲しいと思うお方からはとっくに至上の言葉を頂いていたようだがな」
そう言って朗らかに笑う彼を見やりながら、暫し何やら考えながら黙り込んでいたクトゥーチクは、そのうちに同じように相好を崩して笑った。
「そう、か……。まさかな、このような高みにまで上り詰められるとは思いもよらなんだな……こうなると、コレを報告してしまえばまた法衣の色が変わってしまうわ」
そう言ってクトゥーチクは己がいま身に纏っている、紅白色をした正式な教団法衣を見やった。
法衣の色は最下位が黒で、それから赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、白と位階が上がるにつれて色が変わる。一旦白に達すると、今度は白黒の法衣となり、それから紅白、白橙……という風にまた色が変わって、最後に真っ白となって至上の位に達する。
だが、そもそも最初の白法衣に達するまでが今まで数えるほどしか至った者のいない、常人には果てしまい道のりであり、この「二段階法衣」もクトゥーチクがその位に達するのが確実と思われた時に顕界派と幽界派の長老がでっち上げたものでしか無かった。
慌てて新しい位階を作らせるほどに、クトゥーチクの腕前が際立っていたという証左である。
「ふん! 本来ならばとっくに枢機卿となっていても可笑しくなかったのだ。お前ほどの腕を持つ者がたかだか司教位など馬鹿げている! 《白》の法衣を纏うことを許されておきながら、司教などというのは混沌の王国を探し回ってもお前ぐらいのものだ」
「そうかな? 時々思うのだが、現世での位階を上げるに連れて、至尊の位からは遠ざかっていくような気がしていたのだ。わしにとっては渡りに船よ」
「ふむ……そういう考えもあるか……」
イティハーサは首をかしげながらも納得したように頷いた。
その後に身を乗り出すと、ことさら声を潜める。
「で、だ。主はなんと仰せられたのだ? 今度のこの仕事に絡んでくるわけか」
「然り。……さて、イティハーサよ、時に尋ねるがお主は時というものがいかなるものか、考えたことはあるか?」
「何? それはつまり「時間」ということか?」
「その考えで概ね問題ない」
「さて……そうさな」
彼は暫し考える。
「時間とは、まるで悠久を体現する大河のようなものだ。その流れは一方向に固定され、我ら卑小なる存在がどのような事をしようともその流れを変えることは出来ない。せいぜい小石を投げ込んで波紋を立て、小枝を突き立てて小さな変化を促すのみ。そしてその行為も遠大な時の流れの中ではすぐに消え去る瞬きの出来事にすぎない……と、このような感じだが」
「ふむ……わしも概ねそれと変わらぬ認識を持っておった」
含みのある言い方に、イティハーサの片眉が跳ね上がる。
「向こうの世界にはな、此方のような異能の力が全くといっていいほどに根付かなんだ。その代わりに錬金術と数秘術、自然哲学を高めた彼らは、ある日この時間という存在に目をつけた……イティハーサよ、例えば過去に戻る魔法があったとして、お主が過去でお主自身の両親を謝って殺してしまったら、さてどうなると思う?」
「……? 親がいぬのなら私は生まれぬから……む? いや、コレはどうなるのだ?」
混乱して首を捻った彼に、マインドフレイヤはしゅるしゅると笑った。
「それを向こうの人間はタイムパラドックス――時の矛盾と呼んだ。我らのように限定的に時を操る異能など何もない人間が、もしも時を遡れたら……などと妄想して、しかもそれが大真面目に論じられるような世界なのだ。いやはや……げに人類の想像力の逞しさよ。して、過去には単なる思考実験の様相を呈していたこの議題は、彼らの技術力が発達するに連れて単なる夢物語ではなくなった。彼らの出した結論はこうだ、「時とは即ち始点から終点に向かって無限に枝分かれをした大樹の枝である」と。例えば先ほどの話、過去に戻って親を殺すとしよう、だが宇宙はその程度の矛盾など「どうにでもしてしまう」のだとか。実は、お前はその両親の実の子ではなかった、全く別の両親がお前を育てた記憶が突然生まれる、実は死んでいなかった……宇宙は「異常に辻褄合わせの上手いペテン師である」のだという。無数に枝分かれした「可能性の宇宙」は、全ての矛盾を内包しながら最も無理のない可能性を何処からともなくたぐり寄せる。その結果、過去で何かが変わった、変わってしまったとしても、我らにはそれを知覚するすべなど無い、何故ならばこの宇宙そのものが「それもまたよし」として受け入れ、我らもまたそれを知らずのうちに受け入れてしまう故」
「……つまり?」
ますます混乱したという様子のイティハーサ。
それに、長広舌のマインドフレイヤは続けた。
「つまり、我が友よ。世界は変わる、間違いなく。だがな、その瞬間をわしやお主が知覚出来るかどうかは別の話だということよ。すまぬな、コレ以上は主の意向に反することになるゆえ言えぬ」
「……なるほど、まあよい。この閉塞した空気がどうにかなるのならば、それに否やがあろうはずもない」
そう言って最後に残った茶を一杯飲み干しながら、イティハーサは考えていた。
全てを内包して「それもまた良し」とする宇宙だと? それはつまり、我らが神ラ=ガレオのことではないのか……と。
■■■
「遅いぞ、アイザック」
社長室に飛び込んできたアイザックに、アラン・ピンカートンの叱責が飛ぶ。
その激しい口調に首を竦ませながら「申し訳ございません」と返すと、アランの他に室内にいた二人が口をそろえて社長を宥めた。
一人はすでに老境に差し掛かった英国人のジェームズ・パトリック・メイソン。もう一人は小柄な日本人のイヌヅカ、特徴のない顔が特徴という稀有な才能を持っている。
彼が二人の間に立つと、腕を組んだ社長がその端正な顔つきを深刻そうに歪めながら机の情報パネルをいじる。
部屋のロックと盗聴防止を行ったのだろう、つまり、それだけ重大な話があるということだった。
「さて……アラン、こんな錚々たる面子を、しかも仕事を中断させて集めたんだ、それなりに面白い話を聴かせて貰えると期待しているよ」
「ああ、期待して欲しいメイソン、もしご期待に添えなかったらこの椅子を君に譲ってもいい」
「おや、残念ながら全くそそられんね。そんな事じゃあ女の子も誘えんぞ」
「言ったな老いぼれめ」
不敵に笑いながら、アランはパネルを操作して壁にかけられた大型液晶ディスプレイを待機状態に変更し、その後何やら細々した操作を液晶のタッチパネルで続ける。
その間、アイザックは隣のイヌヅカに身を寄せて話しかけた。
「やあ、イヌヅカくん。君は確か中東の方に飛んでたんじゃなかったかな? 確か、そう、ジェイドメタル社の新兵器がどうのとかいうネタで」
「そうそう、聞いてくださいよ全く社長ったらひどいよ。もうちょっとで全貌が明らかになるって所でいきなり「すぐに帰ってこい、コレは最優先だ」だもんね。半年も砂と太陽と熱風に巻かれた苦労がパア! で、そっちは確かアステロイドベルトに出発する採掘船に潜入してたんじゃ?」
「こっちも同じ。出港直前になって「予定変更だ、すぐに戻って来い」これだよ! 全く、ボクが「ゲイツ・ガーランド」に成りきるのにどれだけ頑張ったか、この若社長はいつもコレだ」
「早漏基質で強引、しかも相手に理解させようという気がない。いやはや、コレでは女っ気が寄り付かないのもむべなるかな」
「聞こえてるぞ! お前ら!」
激怒した社長が鬼の形相で三人を振り向いた途端、壁一面に広がったディスプレイになんとも言えない映像が写った。
ぽかんと三人が見つめるそれは……。
「尻……」
スカートを履いた尻だ。
どう見ても尻。
誰が見ても尻。
《う……ん? この配線がこっちで……? あれ? 赤プラグがコレで……ええと》
画面の向こうで尻が何やらブツブツと呟いている。
唖然とするアイザックとイヌヅカを他所に、メイソンは一人己の白い顎鬚を撫でながら「白……か」と呟いた。
《えっ、ちょ、あ、いた!》
彼の声が向こうに聞こえたのか、慌てて身体の向きを変えようとして画面の向こうの人物は頭をぶつけたようだ。
かなり痛そうな音がした後、ぷるぷると痛そうに震えている……尻が。
この段階になるとすでに社長も振り返って唖然としており、二の句が継げないといった様子であった。
やがて痛みが収まったのか、そろそろと今度はゆっくり振り向いたその人物の顔を見た瞬間、アラン以外の全員が驚愕の呻き声を上げた。
なるほど、あんなに強引にこの面子を呼びつけたわけだ。
画面の向こうには、いやしくも文明人を自称する者ならば知らぬはずのない超有名人が、痛みに涙目になりながらずれた銀縁眼鏡を直している。
《あ、あの。先程はお見苦しい所をお見せしました。何分ここは狭苦しくて……すみません、HALを騙す時間に限りがあるので手早くいきましょう。そちらはアラン・ピンカートンさんでよろしい?》
「ええ、そのとおりです。私、当社の社長を務めておりますアラン・ピンカートン、此方が左から順にジェームズ・パトリック・メイソン、アイザック・クラーク、イヌヅカ・ケンイチです。こうしてお会いできて光栄です、プロフェッサー・タチバナ」
《こちらこそ。では、ご依頼を受けていただけるのですか?》
その言葉に、アラン・ピンカートンは満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! ピンカートン探偵社は困った市民の要望には如何様にもお応えいたしますとも!」
ピンカートン探偵社の歴史には決して残らない大仕事の始まりであった。