一旦書斎を出た一行は、そのままきた道を引き返してさっきの十字路まで戻ってきた。
カオルがマッピングを終わるのを待ってから、地面と壁に白墨で何かを書き込んでいたカッサシオンが立ち上がる。その顔は宝の臭いを感じ取ったのか、まるで飛行石を手に入れた某大佐のごとく輝いていた。
「さて、お次はどちらに?」
「……よし、これだ」
そう言ってマーチがグッと握り拳をカッサシオンの方に突き出すと、カッサシオンは苦笑いと共に肩を竦めて同じように拳を突き出した。
そうして同時に拍子を付くようにして何度も拳を突き出しながら、同じセリフを同時に口にする。
「ペーパー、シザーズ、ロック!」
最後に拍子にカッサシオンはロック(グー)を突き出し、マーチはペーパー(パー)を突き出した。
ニヤニヤと掌をニギニギするマーチに対して、カッサシオンは口元に小さな笑を浮かべながらひょいと肩を竦めてみせる。
悪ガキの悪巫山戯に呆れる保護者のような視線のセレナの横で、異世界の埃っぽいダンジョンでジャンケンを見たカオルは驚いていいやら何やら微妙な顔付きだった。
「おや、負けてしまいました。まあ、ここで負けるということは私の運は信用できませんので。さ、どうぞ」
「左だ。隊列そのまま」
「了解いたしました」
先頭をカッサシオン、その後方にマーチが続き、クロスボウを構えながら触手の一本でランタンを持ったカオル、そして殿に最も装甲の厚いセレナが控えている。
もし後方から奇襲されても、最も打たれ強いセレナが持ちこたえているうちに味方が駆けつける寸法である。今最も警戒すべきなのはあの壊れかけたガードマシンが帰ってくることだが、セレナ曰くその白銀の鎧と楔帷子にはレジストエナジーの魔法がかかっているらしい。
あの熱線にも数秒くらいなら耐えられれると豪語していたが、正直怪しいとカオルは感じていた。
願わくばあのガードマシンの故障が熱線の出力にまで及んでいることを思いつつ、四人はランタンの照らすほの暗い通路をゆっくりと進んでいく。
数百年の間、誰の侵入も許さなかった大魔導師の住処に二人分の足音が虚ろに木霊する。見た目には四人組であるのに、たてる足音は二人分しか無い。もしこの光景を第三者が見れば、そのおかしさに首を傾げたかも知れない。
カッサシオンは足音を立てない歩き方を心得ているし、カオルの足はそもそも床を打つことがない。
ダンジョンの長い長い廊下には、セレナの具足である金属製のブーツと、マーチのはいた頑丈な革製のブーツの音だけが反響していた。
「うん?」
「おや」
突然、先頭を進んでいたカッサシオンとマーチが頓狂な声を上げる。
何事かとカオルがランタンを高く掲げてみせると、そこに広がる光景に思わず彼女は息を飲んだ。
後ろから覗き込んだセレナが「何かしら、これ」と眉をひそめながら呟く声を尻目に、早速カッサシオンが目の前に広がる不可思議な有様を調べ始めている。
今まで彼女たちが進んできた通路は、ほとんど継ぎ目もないほど組まれたと言っても石材で出来ていた。しかし、目の前からいきなり斜めのT字路となっている通路は、それまでカッサシオンたちが見たこともない素材で出来ている。
しかも、それまで定規で測ったように几帳面に作られていた通路に、突然何の前触れもなく斜めに横切るT字路であったので、それも首を傾げる要因の一つである。
魔導師というのは総じて規則性や幾何学性に重要な要素を見出すものだ。常人には計り知れない理由によって作られたその住処は、全体が何らかの魔術的要素を孕んでいることが殆どであった。
「こういう唐突な作りは、アルハザッドのような研究肌の秘術使いには似合いませんねぇ。後から無理やり付け足したみたいだ」そう言ってカッサシオンは首を傾げながら床をさする。
そして極めつけにおかしい事に、石畳とその新しい通路はその境目がまるで互いが溶けて混ざり合ったようになっている点であった。
「……ふむ、この素材は見たことがありません。金属かと思いましたが、熱伝導性はむしろ低そうです」
「それよか、このグチャグチャのマーブル模様は一体何だ。コーヒーにミルクを混ぜたみたいだ」
「マーチ、ミルクを「混ぜた」らマーブル模様にはなりませんよ。注ぐと言ってはいかがです」
「わざわざ文法上の不備を指摘してくれてありがとよ、次からお前に手紙をかく時は注意させてもらうぜ」
「礼には及びません」
「けどまさか俺からの手紙に、元から美文を期待してやいねえだろ、ええ?」
「おやおや嘆かわしい、努力を忘れた知性は鈍るだけですよ」
「なるほどな、つまりお前は神に祈る努力を忘れちまったからそんなどう仕様も無い悪党になったってわけだ」
「光栄です」
「貴方達、ちょっとは黙れないの?」皮肉の応酬に見かねてセレナが呆れ半分に溜息をつく。
「カッサシオン。貴方もいちいち煽るようなことは言わないで。言葉に皮肉を混ぜないと会話できないの? さすがに聞き苦しいわよ」
「私が?」ちょっとショックを受けたようにカッサシオンが答える。
「へぇ、気づいてなかったというわけ? 驚きね、貴方ともあろう人が」セレナは彼女にしては珍しく、苛立った刺のある声で返した。
「で、どうする。右か? 左か?」それを無視するようにマーチが話題を振った。
セレナまで頭に血が登っては大変だとその顔に書いてある。実際問題、彼女の頭に血が上ったときの惨劇を充分目撃していたカッサシオンは、あっと言う間に矛を収めて作業に没頭した。
カッサシオンが罠を確認している姿をランタンで照らしながら、カオルは血の気の引いた顔で突き当たりの壁を凝視していた。
ヂルコイドコーティングされたデュラスチール製の壁に、無数にあいた弾痕。
通常の手段では傷つけることすら難しいその壁を、其れほどまでに傷めつけるものは一体?
いや、考えるまでもない。彼女はその正体を知っていた。
そう、パルスライフルの超高速連射によって穴だらけにされたその壁には、ボロボロに成った金属製の文字案内板がかかっている。
あの破滅の動乱と、百年以上の長きの時間は、しかし、現代科学の粋を凝らした技術の塊を風化させ朽ち果てさせるにはまだ足りぬ。
瞳孔が散大する。
心臓が壊れたようにポンプを動かし、血の気の引いた脳内に必死に血液を送り込む。
衝撃と共に魂が失った記憶の破片(フラグメント)を拾い上げる。
体の中。
魂の隅。
心の裏側で、あの耳に残る異形(マインドフレイヤー)の笑い声が反響した。
そうだ、プロフェッサー。それこそお前だ、お前が過去に置き忘れてきた、お前そのものだ!
探究者よ探求者よ求道者よ!
見よ! 真実を見よ!
魂の記憶を見よ!
そうだ、この光景。
覚えている、この光景は、覚えている!
フラフラと、まるで夢遊病患者のようにカオルは正面の壁に吸い込まれていく。
不思議そうにその顔を見る三人をよそに、カオルは震える左手でそっと金属板を指でなぞる。
「メ、イン、チェンバー……」
情報の爆発が彼女の脳髄を焼いた。
クロスボウとランタンを取り落とし、頭蓋を砕くような怪力でもって自らの頭部を両手で掴む。
人間に耐えられる限界を軽く超えた情報の爆発に、カオルは絶叫を上げて身を捩った。
激痛という言葉すら生ぬるい、痛みによって狂い死ぬほどの衝撃が彼女の全神経と魂を貫く。
誰かが彼女を呼んでいる。
彼女の体を抱きしめて、必死に彼女の名前を呼んでいる。
しかし今の彼女には耳から入る蚊の鳴き声すら脳髄を磨り潰す雑音にしかならず、己の体を抱きかかえる両腕は痛みに身を捩る彼女に取って己を拘束する鎖でしか無い。
「ぅあっ! あああああぁぁ! ぁッ! ああああああぁぁぁぁああぁ!!」
全身を犯す激痛に絶叫を上げながら、カオルは己を束縛する邪魔臭い鎖を無理やり振りほどいた。
誰かがまた、彼女の名前を呼んだ。
思い出せない。
誰か、思い出せない。
大切な名前だったはずだ。
忘れてはいけない名前のはずだ。
だれか、たいせつなひとのはずだ。
だけど、苛立つ、見て分からないの?
こんなに苦しんでいる相手に、ただ名前を呼んで、それでどうしようって?
それが一体何の解決になる?
ならない、なにもならない。
行動しなければ。
口より先に手を動かせと、教えられなかったのか。
解法だ。解法が必要だ。
複雑に絡み合った事象をどうにかする解法が!
行動だ。私は行動する。
そうしなければ、気が狂う。
狂気は駄目だ、狂気は正気を食いつぶし、やがて理性を放逐する。
科学的思考は理性と論理によって成り立つのだ。
そこに狂気の入る隙間はない。
身体が痛い、頭が痛い、心が痛い、世界に押しつぶされる!!
いつの間にか口元から溢れ出した流血を吐き出して、彼女はまるでそうすれば痛みを追い出せるというかのように己の頭部を拳で叩いた。
こんなご大層な頭をのっけて、それが一体何の役に立った?
その天才の頭脳は、世界に一体何を解き放ったのだ?
破壊だ!
破壊と、混沌と、狂気と、戦争!
そして、荒廃と、憎悪と、大それた野望!
お前の生み出した研究成果は、すべからく戦争と政治と人殺しの道具になったのだ!
夢の為に全てを振りきってやってきた、それがこの末路だ!
ノーベル賞? 大した皮肉。
第二のノーベルとでもいいたのか。
私の生み出した技術で先進国の一万人が助かる一方で、紛争地帯で数十万の人間がその技術で殺されているというのに!
こんな物……こんなもの!!
私が欲しかったのは、こんなモノじゃない!!
私がやりたかったのは、こんな事じゃない!!
畜生! 畜生! 畜生!
この世界に神なんかいない! もしいるならば、こんな残酷な世界、許せるものか!
「ハ、ハカセ!!」
「!?」
ギョッと、その懐かしい声に心臓が止まるほど驚いて彼女は身を捩って振り返った。
そこには装甲服のフェイスプレートを跳ね上げたまま、呆然とこちらを見つめる懐かしい顔があった。
見るはずのない顔、しかし、その違和感は淡雪のようの溶けて消えた。
「そ、その、すまねぇ、プロフェッサー。そ、そんなに痛むとは、お、思ってなくて」
そうしどろもどろに言い訳をしながら彼女を抱えたその左手には、中身の無くなった無針注射器が握られていた。注入された液体は、外傷用の緊急メディカルパック。ナノマシンに同期して、破れた血管の修復と失った血液の代わりを務める擬似ヘモグロビンに変化し、鎮痛作用もある。
襲撃によって全身に打撲と擦過傷を負った彼女に、彼がそれを打ち込んだのだ。
しかし、よくよく見ればそのパックの側面に書かれている対応ナノマシンのバージョンは最新型である。三代前の安定型をしつこく使っていた彼女に取って、かなり危険な処方と言えた。
パックの注意書きにもでかでかと「このメディカルパックは最新型ナノマシン適応者を想定しています。旧バージョン適応者に対する注射は全身の疼痛、吐き気、目眩、血圧の急激な低下などの危険な症状を引き起こし、場合によっては命の危険のおそれがあります。使用の際には医師または薬剤師の云々」と書かれている。
それらの注意書きに全く気づかずに注射したのは完全に不注意だが、かと言って他に使えるものはない。
結局この痛みは必要であった。
「…………最近、ナノマシンのバージョンアップをサボっていたツケよ。あなたのせいじゃないわ、カミンスキー」
「け、けど、そ、そんなら、そう言ってくれりゃあ」
「言ってたら、どうするの? 今ここでバージョンアップする? 機材がないけど……」そこまで言って薫はニヤリと青白い顔のまま笑いかけた。「貴方が粘膜交換方式でバージョンアップさせてくれたのかしら? 今ここで?」
「な…なな…何を」
一瞬にしてスラヴ系白人のカミンスキーの顔が真っ赤になる。
厳つい外観に似合わず、カミンスキーは性的な冗談に弱かった。こういう話題を振られるとあっと言う間にこうして真っ赤になるので、赤面症の元軍人であるこの警備員は度々そうやって女性職員や研究員に揶揄われていた。
もっとも、薫がこういう話題で揶揄うのは初めてだったので、カミンスキーも尚更不意を突かれてしまったようだ。
「ハ、ハカセ、ここ、こんな時に、よせよ」
「ええ、そうね、ごめんなさい。ちょっと激痛のあまり、おかしくなったみたい」
そう言って薫は穴だらけの壁に背中を預けて、そのままズルズルと同じく穴だらけの床に座り込んだ。
青白い顔で息を荒げるその姿に、カミンスキーは心配顔で膝をつくと、メディカルキットの中にあった簡易バイタルチェッカーをカオルの方に向けた。
「……げげ、け、血圧が……ハ、ハハ、ハカセ、わりぃ、応急処置だけど、パ、パッチ当てちまっていいか?」
「パッチ?」
「ひ、一つ前のバージョンに、あ、当てる奴だけど、ハカセにも、た、多分効くと思う」
そう言って取り出したのは、ナノマシンのパッチパックである。
血圧の低下で目の前に黒い斑点が見え始めていたカオルは、朦朧としながらも頷いた。
このまま放置しても短期に治る見込みはない、なら、この緊急事態だ、荒療治も仕方ない。
「やって頂戴」
「わ、分かった。行くぞ」
プシュッと小さく空気の抜けるような音の後、彼女の首筋からパック内のパッチナノマシンが血管中に流れこんでくる。
必死になって全身に血液を送り込んでいる心臓のお陰で、パッチナノマシンは急速に全身の隅々にまで行き渡っていく。座り込んだのも良かったのだろう、楽な姿勢で注射したお陰で覚悟していた痛みも殆ど無く、急激な血圧低下も収まりだした。
額から溢れ出してた脂汗を拭い、薫は思わず安堵の溜息をつく。
「フゥー…………全く、こんな事ならリッチェンスの言う事に素直に従ってればよかったわ」
「ハ、ハカセは、あ、新しいものが嫌いだったか?」
「なに? 懐古趣味って言いたいのかしら。別に、信頼度を疑ってたわけじゃないわよ。ただ、交換に最低三日、長いと一週間も安静にしてなきゃならないってのが面倒だっただけ。その時間、どれだけ研究が進むか分かったものじゃない」
「そ、それでいま痛い思いしてりゃあ、せ、世話ねえや」
「全く……貴方まで斉藤君みたいなことを……」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。
かなりの数の研究所からヘッドハンティングのスカウトが来ていたのに、カオルと一緒にこんな異国の北国にやって来てくれたその青年は、彼女に取って感謝の言葉が見つからないほどの恩人でありパートナーである。
日本で史上最年少の教授になったはいいものの、旧弊から抜け出せない旧態然とした大学派閥に疲れきっていた彼女を支えてくれた若き院生が、今や世界中にその名を轟かせる天才科学者の一員である。米国に渡るように彼女を説得したのも、彼だった。
皮肉屋で、お調子者で、世界中のサブカルチャーにどっぷり浸かったマニアック。
この研究所から櫛の歯が欠けたように次々と研究員が抜けていく中、最後の最後まで断固として異動や辞令を拒否し続けた変わり者だ。
ほんの少し自惚れさせてもらえるなら、彼が残ったのは自分の為だと、薫は控え目に主張する。無論、声には出さないし、確かめもしない。斉藤も、絶対口が裂けても言わないだろう。
朦朧とした意識の中で、薫は昨晩に彼と交わした会話内容をつぶさに思い返していた。
『はぁ!? 査察!? 何の権限で!』
『国防総省とCIAが、怪しんでいるらしいわ』
『怪しむって、何を。俺達が予算を使い込んでるとか?』
『その……彼らの言い分は、私たちが不必要な武力を溜め込んでいるんじゃないかとか、その、日本で言う凶器準備集合罪みたいな』
『はぁ? イミフ、地球語でおk』
『……はぁ、アレよ、貴方とアレックスとシードが手慰みに作ったATが問題になってるのよ。あと、違法改造したパルスライフルとかが流出したの』
『あ、ああ、あーーー』
『そうよ、「あーーー」よ、全く……』
『い、いやいや、だって、ボトムズですよ? ねぇ? あんな紙装甲、バトルタンクのいい的ですよ? 兵器じゃありません、アレは自家用車です』
『明日彼ら(査察団)にもそう説明したらどう? でも私なら、無駄な事をせずに素直に謝るわね。誰がどう見たって、自家用車にも作業機械にも見えないもの。なんで自家用車にマニュピレーターとマシンガンとパイルバンカーが必要なのか、たっぷり質問されるでしょうね。もちろん個室で』
『どう見ても兵器です本当にありがとうございました。ちくしょー! お前らにはもう攻殻に出てきたみたいなパワードスーツがあるじゃねーか! 今更ボトムズにまで興味示すんじゃねーよ!』
『それだって基幹技術は日本の技研が作ったから、今度のアレも行けると踏んだんじゃないの?』
『馬鹿な! ATは搭乗者の命使い捨て前提だぞ! アメ公の軍事ドクトリンにそぐわないにもほどがある』
『そういう詳しいことは分からないけど、パッドフッドが強烈に働きかけたみたいね。あいつ、軍人上がりだからそういのに目ざといのよ』
『……………………』
『斉藤君?』
『ぜってーシラ切ってやる。あのクソッタレに負けるくらいなら首切られてもいいや』
『ちょっと』
『安心しろって、薫さん。こんなんなるまで此処に残った面子だぜ、口裏合わせは完璧だ』
『……こういうことをしてるから、怪しまれたのかしらねぇ……』
査察は表向き順調に進んでいた。
斉藤の言ったとおり、研究員から警備の人間まで、全員の口裏を完全に合わせた状態で査察団がやって来た。そして陸軍の兵士達に護衛されながら物々しい様子でやってきた査察団は、明らかに何かおかしいと感じながらも何一つその確証を得られぬままイライラと査察を進め、そして、あの悪夢の瞬間がやってきたのだ。
遅々として進まない査察に業を煮やしたパッドフッドが、兵士の一団と査察員を連れてメインチェンバーに無理やり押し入ったのだ。
その報告を受けて泡を食って飛び出して直ぐ、研究所の秩序は崩壊した。
「ど、どうだ」片膝を着いたカミンスキーが彼女を覗き込んだ。「た、立てそうか」
「ええ、だいぶマシになったわ。行きましょう。ここを第二のチェルノブイリにする訳には行かないわ」
「な、なあ」
壁に手を突きながら立ち上がった彼女に、真剣な表情でカミンスキーが問いかけた。
「い、今更、俺達が行って、そ、それに何の意味が、ああ、あるってんだ? なあ、な、なんで俺達が、あの野郎どもの、し、尻拭いをしなくちゃならないんだ」ベッと床に唾を吐き出すと、カミンスキーは気密ヘルメットのバイザーを下ろした。「に、逃げようぜ。地下に緊急脱出用のトラムが、あ、あるだろう」
「そう、ならあなた一人で行きなさい。私はあの悪夢を止める義務があるの。貴方が来てくれるなら頼もしかったけど、ダメなら私一人でも行くわ」
「ば、馬鹿言うな! ハカセ一人で、い、行けるわけねぇ! むむ、無茶だぜ。あんな化け物どもが、そ、そこら中にわんさといるんだぜ!」
「無茶でも、やるわ」
「ッーーーー!! ああ! ファック! イェポンナマッド!」カミンスキーは顔を真赤にして地団駄を踏んだ。
「悪かったわね、頭のおかしい奴で」そう言って薫はニヤリと笑って肩を竦めた。「でも、よく言うでしょ。天才と狂人は紙一重だって」
立ち上がって足首を伸ばし、薫はしっかりとした足並みで通路を進んだ。
暫くそれをじっと見ていたカミンスキーは、母国語で小さく何度も罵り言葉を吐き出しつつも、ドスドスと思い足音を響かせながら彼女の横に並んだ。
「くく、くそが、馬鹿だ、馬鹿だよ。おお、大馬鹿だ。じ、自殺だ。自殺と、変わらない」
「安心しなさい、事が終わったら逃げてもいいわよ」
「へ、そりゃ、どうも。うう、う、嬉しくって、涙が出るぜ」
ぶつくさと文句を垂れるカミンスキーを宥めすかしながら、二人は六番通路を通過して七番通路に、そしてメインチェンバーに向かう途中に通らなければならない中央通路に入った。
通路に入った瞬間、カミンスキーが「しっ」と小さく呟いてパルスライフルを構えてセレクターを高速連射モードに入れる。
本来ならばその銃身からはレーザーサイトが伸びる仕様だったが、カミンスキーは隠密性を重視してレーザーをカットしている。
ところどころ照明が壊れ、送電線が破壊されたのか、無事な物でも点滅を繰り返す。
血痕が所々にぶちまけられた不気味な通路で、薫はぐっと息をひそめて拳銃を構える。
そうして彼女にも、カミンスキーが察知したそれを知る。50フィートほど行ったところにあるT字路の向こう、そちらの方からドスドスと荒々しい足音がこちらに向かって疾駆してくる。
どう考えても、人間の立てる足音ではない。
ともすれば震えだしそうな膝を叱咤して、大きく深呼吸したその瞬間にそれはやって来た。
最初、彼女はその異形を人間なのではないかと一瞬だけ誤認した。だが、それが血に飢えた白眼をこちらに向けた瞬間に、そんな考えは露と消える。
その化物は黒みがかった濃緑色の分厚い筋肉質の体躯をして、耳まで裂けたその顔はまるで顎の発達しすぎた人間の頭蓋骨のような不吉で不気味な様相だった。
アメリカン・コミックスのヒーローである超人ハルクを、ありったけの悪意で戯画化したような醜悪な外見と冗談のような筋肉である。人間には絶対身につけられない、異常なほど発達した逆三角形の肉体は、その筋肉から繰り出される恐ろしい膂力を想像させるに足る。
そして丸太のような両腕の先には、人間など一薙ぎでバラバラに引き裂けるような恐ろしく鋭く長い爪が飛び出ていた。どこかで誰かを殺してきたのか、その両爪には人血がべっとりと付いている。
敵だ。
カミンスキーと薫が同時に引き金を引こうとした次の瞬間であった。
空気を引き裂く飛翔音と同時に、肉を裂き金属が食い込む鈍い音が通路に響いた。
ハッと身構える二人の目の前で、通路の壁に打ち付けられた自分の右腕を驚愕の面持ちで睨んだ化物は、今しがた自分がやってきた通路の方を見て唸り声を上げる。
その威嚇の声が絶叫に変わるのに、ほんの数秒。
通路の先から次々飛来する全長数十センチの細い鉄杭が、まるで昆虫標本のように怪物を通路の壁に打ち付けていく。
最初に足、次に腕、そしてがら空きになった胴体に、容赦なく打ち込まれる無慈悲な金属の暴力。
最初こそ無理やり脱出しようとしていたが、さすがに頭部と頸部に二発づつも打ち込まれると、その抵抗も途切れ、廊下の上にドクドクと鮮血を溢れ返らせながら絶命した。
「……」
「……ワァオー」
カミンスキーが小さく呟いてジリジリと前進すると、鋼鉄の凶器が先ほどまで飛来していた通路の先から、懐かしい声によるざわざわとした会話が近づいてくる。
「ヒーホー! どうだよ、ええおい! 100ヤードで百発百中だぞ! 恐れいったか」
「サブチーフ、前から思ってたんですがね、貴方、職を間違えたんじゃありませんか。現職でもこの距離でそんな武器を全弾命中なんて至難の業ですよ……というか、それ武器じゃなくて工具ですよね?」
「いや、俺から言わせればリベットガンは武器だ。特にこれはな。な、アレックス!」
「ホント、無茶苦茶な改造だよ。パルスライフルがあるのに、なんでわざわざそんなモノを改造して戦う必要があるのか、全く理解不能だ。反動がでかいし、取り回しも悪いし、弾の数だってそんなに無い」
「何いってんだ! 役に立っただろ! ほら! アレ!」
「まあ、威力がすごいのは認めます。あと、サブチーフの射撃の腕が変態的なのも」
「へへ、だろ? アッ! おい、こら、どこいくんだ! 戻ってこい、マーティン!」
その名前を聞いた瞬間、彼女は走りだしていた。
「マー君!」
通路から飛び出てきたのは、銀色の毛を靡かせたサーロス・ウルフハウンドの老犬。
彼女の愛犬であるマルティン・ロペスことマー君である。薫は拳銃をホルスターに収めると、飛び込んできた愛犬を抱きしめた。
激しく尻尾を振りながら、めったに聞けない甘えた嬉しそうな声を上げる誇り高い狼犬を抱きしめながら、薫は腰砕けにへたり込んでその体毛を撫ぜる。
「マー君、ごめんね。心配かけたね」
愛犬が彼女の肌についた血を舐める。怪我をしたことに気がついたのだろう。
だが、よくよく見れば彼女の心配をする彼の全身も、自分のものか誰のものかも分からない鮮血で薄汚れていた。
「アッ! 薫さん!」走りこんできた斉藤が大声を上げる。
「チーフ!!」サブマシンガンを構えたリッチェンスが喜色を浮かべる。
「プロフェッサー! 無事でしたか!」作業用のスーツに全身を包み込んだアレックスが、バイザーを跳ね上げる。
「カミンスキー、こいつめ、相変わらずしぶとい奴だ」長身のアダムスキーが、血に汚れた顔でニヤリと笑って拳を突き出す。
「へっ、おお、お前より先に死ぬ予定はねぇんだ」こちらもバイザーを跳ね上げたカミンスキーが突き出した拳をごツンと突き合わせる。
その後ろから屋内移動用のエレカに乗った研究員や警備員たちがぞろぞろと現れると、一同はこのクソッタレな地獄の中で、ほんの僅かな時間、笑顔と安堵を取り戻していた。
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仕事がヤバイ
今年はもう更新出来んかも