無音の空間。
息詰まるような静寂の中、ただ一人、この光景を作り出した張本人の荒々しい息遣いだけが殊更大きく響いた。
それほど広くもない石壁に四方を遮られた空間に充満する、床一面にぶちまけられた血と内臓と汚物、そしてそれらが炎で焼け焦げる、思わずむせ返るような異様な臭気。
最後に彼女が放った炎の一撃は、未だチリチリと燻りその火種を至る所で踊らせていた。
ぜえぜえと大きく息をする彼女は、まるで絶息寸前の喘息患者のように荒々しい息遣いで何とか動揺する心臓を落ち着けようとするも、呼吸のたびに鼻孔を直撃する臭気――すなわち死の匂いに吐き気を抑えるので精一杯であった。
自分がやった……他ならぬ自分自身で、瞬きする間もないほどの刹那に、両手では数えきれないほどの生き物を容易く殺戮したのだ。
緊張の途切れた影響か、いつもは要らぬほどに鬱陶しい触手はその身体を満足に支えることが出来ず、彼女は両手で縋るように持った杖に身を預けながら、自らの生み出した光景をまるで気が触れたように両目を見開き凝視している。
「はっ、はっ、はっ、わ、わたし……わたしが……私が……はっ、はぁ」
いつの間にか、ここに入る前に後頭部で結わえていた髪も解け、汗で湿った長い髪が彼女の顔に張り付く。
まるで憑かれたように、うわ言を呟くようにして「私が、私が」と荒い息の間にぶつぶつと繰り返す様は、側で見ている者に得も言われぬ恐怖感を与えるに足る。
何度かずり落ちそうになる身体を必死に繋ぎ止めるようにして杖を掴み直しながら、彼女は「こんなにぞろぞろ生えているクセに、肝心の所で役立たずめ」と下半身の触手に舌打ちをするようにそれを睨みつけた。
やがて他の三人がこの驚愕から立ち直り始めると、まず一番に声を上げたのは先程まで地面に伏せて状況を見守っていたカッサシオンだった。
「一体……どういう…事だ! 貴様ッ!」
彼は伏せの状態から飛び跳ねるように立ち上がると、常にない荒々しい口調でカオルに掴みかかった。
覆面とフードを取り払ったその顔は、彼女に対する明らかな怒りに燃えていた。
突然胸倉を掴み上げられたカオルは驚愕も覚めやらぬ様子で、青白い顔色のまま目の前に迫るカッサシオンの怒り顔を凝視する。触れれば火傷しそうなほどの怒りの形相に、もつれる舌で彼女はようよう返事を返した。
「な、なにが?」
「何が、だとっ、白々しい。さっきあなたは私ごと敵を始末しようとしただろうが! とっさに伏せていなければ今頃私もああやって、あそこに転がるゴブリンと同じように脳みそをぶちまけて死んでいたかも知れない! 呪文使い(スペルユーザー)なら味方巻き込みの回避くらい常識でしょうっ、いやそもそも」
そこで彼は怒りの覚めやらぬ様子のままグルリと視線を巡らせて、未だ地面にへたり込んでいるセレナの方を睨みつけた。
「彼女が魔法使いだなど、私が一度も聞いていないのは一体どういう事ですっ! ええ、たしかに私は胡散臭い輩でしょうよ、盗人で、詐欺師で、殺し合いが大好きのイカレ野郎です、認めましょう。そんな奴になるべく手の内を隠しておきたいと思うのは分かります、しかし、しかし、ですよッ、呪文使いが一人戦線に加わるだけでどれだけ容易く戦況が動くものか、貴女も重々承知のはずだ! 仮とはいえ運命共同体に、そんな大事な事を一言も漏らさず、あまつさえ私ごと巻き込もうとするなどと……ッ!」
そこまで捲し立てて、怒りのあまり言葉に詰まったのかあるいは息が続かなくなったか、カッサシオンは言葉を切った。
ゼエゼエと息を荒らげる彼の鬼気迫る様子に、セレナはようやくヨロヨロと立ち上がると彼の方に重々しい足音を立てながら近づく。怪我も疲労もそれほど大きなものではないはずだが、彼女の顔には尚早と疲労感がべたりと張り付いていた。
「誤解よ、カッサシオン。彼女がそうだなどと、この私もたった今知ったんですからね」
「何を馬鹿な」
「落ち着きなさい。私がそんな大事な事をあなたに黙っているような人間だと、本当にそう思っているの? 事によれば命に関わるような情報をわざわざ隠しておくような?」
「……」
彼は口をつぐんだが、其れは相手の言葉に理を認めたわけではなかった。
現にその両目は猜疑に歪み、じろりと彼女たちを睥睨する。
「そんな、そんな戯言が通るとでも? あんな強力な力術の使える魔法使いを、力も知らずに仲間に入れるなど、そんな馬鹿な話が通るものかっ。それに貴女は確か異端審問官でしたか、欺瞞や偽装はお手の物では有りませんか? 現役時代は貴女もそうやって人々の目を欺いて異端を狩っていたんでしょうに」
「なっ……!」
「待ってくれ、カッサシオン」
カッサシオンの暴言にセレナの顔色が蒼白から怒りの赤に変わる。
肝を冷やした様子のマーチが激昂寸前の様子であるカッサシオンに話しかけ、今にも爆発しそうな彼らの間に割って入った。
「確かに、何にも知らなかったて言ったら嘘になる。正確には俺たちはこれが魔法を使う所を見たことがある、けど、こいつがそれを使えるとは思いもよらなかったってだけだ」
「何が言いたいんです、言葉遊びは結構だ」
「つまり、ええと……ああ……」
マーチは言葉に詰まり、焦り顔で視線を泳がす。
一から説明するのはまずい、かと言って殺されかけた相手に適当な逃げ口上が通じるとも思えなかった。特にカッサシオンに対して付け焼刃の話術を使って何とかなるなど、そんなことは仮定でも考えつかない。
前門には猜疑と怒りに燃えるカッサシオン、そして後門には今にも凍りつきそうな氷点下の怒りをふつふつと湛えるセレナが待ち構える。
このまま黙っていれば最悪の仲間割れが始まるのは分かりきっている、マーチは痺れる舌を何とか動かして言葉を紡ごうとしたが、機先を制すように彼を遮ってこの場の誰でもない声がカオルの喉から溢れでていた。
「よい、わしが話そう。元はと言えば全てはわしがその責を負うべきなのだからな」
「――」
彼女の口から飛び出た嗄れた異形の声色に、その襟ぐりを握り締めていたカッサシオンは驚愕に息を吸い込んで彼女の顔を凝視した。
そんな彼に向かって彼/彼女は何の感情も表さぬ顔のまま、その細枝の如き右手で自らの襟を掴むカッサシオンの右腕を振りほどいた。その見た目に反した強烈な握力に、彼はサッと顔つきを変えてその身を素早く彼女から離して臨戦態勢をとった。
「――誰ですか、あなたは」
「わしの名はクトゥーチク。かつて幾千万の混沌渦巻く都クシュ=レルグに於いて、《八つ裂き》のクトゥーチクと呼ばれしカオス・プリーストである」
「なにっ」
その名を聞いた瞬間、カッサシオンは背中に折りたたんで仕舞ってあったフライング・チェインソウを無拍子で抜き放っていた。
彼ほどの反応は見せずとも、マーチもセレナも驚きに息を飲んで身構えている。彼らとて「そうかもしれない」程度の認識であった事が、今初めてその本人によって肯定されたからだ。
「馬鹿な……《八つ裂き》は死んだはず」
「復活の奇跡などそれほどの椿事とも言えぬはずだ、死者が当たり前のように顕界を歩きまわる、この乱れきった世界であればな……。ふぅむ、話がずれたな。さて、お主が聞きたい事を教えてやろう……その前に、少し信じやすくしてやるか」
そう言って無表情を初めて微笑の形に崩すと、その杖を持たない方の手でそっと自らのこめかみに触れた。
ぶぅん、と一瞬、まるで耳の中に虫が入り込んだような羽音じみた異音が三人の頭蓋を揺らしたかと思った次の瞬間、さっきまで確かに目の前にいたカオルの姿が掻き消えていた。
「何処を見ている?」
「はっ」
「え!」
「なにっ」
いつの間にか、カオルは彼らの背後、ゴブリン達がやって来た通路の手前に立っていた。
そして彼女の姿を認めた瞬間に全員がその光景に違和感を覚える、その正体に最も素早く気がついたのはまさに今の今までその場で地に這いつくばっていたセレナである。
「待って……死体は……? ゴブリンの死体は何処に行ったの? それに、それに、私、たしか全身血塗れで、え? 髪留めが……」
呆然とセレナは先程まで自分の髪の毛を纏めてい筈の髪留めが、揶揄うように薄く笑う怪人の右手で弄ばれている光景を見つめた。
よくよく見れば、ゴブリンの死体は通路の向こう側でバリケードのように積み重なっている事が分かる。だが、ゆうに20は下らない数の死体――たとえそれが子供ほどの体重しかないゴブリンの物だとしても、それを作り上げる苦労がいかほどのものだろうか?
一呼吸もない間に作り上げられたその光景を見て、マーチはゴクリと唾を飲み込んだ。
「まさか、あんな一瞬で?」
「一瞬? いや、とうに四半刻はたったぞ。しかしお前たちはその間にあった事を覚えてはいない、ちょうど、こんな」
羽音。
「ふうにな」
誰ともなしに生唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。
またしても一瞬、まさに瞬きする間にカオルは彼らの背後、さっきまで立っていた場所に戻っている。そしてセレナの髪の毛は綺麗に後頭部で先ほどと同じように――いや、先程と違って小奇麗に櫛まで解かした後にシニヨンを作って纏めてあった。
「……記憶操作」
「御名答、理解が早いな軽業師」
「やはり、そうでしたか。最初は時間跳躍(タイム・ホップ)の可能性も考えましたが、あなたが「信じやすくする」と言っていたのでその線は消えました」
カッサシオンのその言葉に、クトゥーチクは初めて大きく顔に感情を表した。
それは即ち「興味」と「好奇心」という名の感情である。
「何故その答えに行き着いた?」
「脳を弄るのはおまえらの常套手段だからだよ、化け物がっ」
何の兆候もなく、金切り声を上げて死の回転ノコギリが飛来する。
投擲する素振りなど欠片も見せずに投げ放たれたというのに、その軌道は測ったかのような正確さで敵の急所に吸い込まれていく。
そして寸分違わぬ正確な一撃は、不敵に笑うマインドフレイヤの細頸を断ち切る寸前で、まるで世界の法則が切り替わったかのような不自然な軌道を持って明後日の方角へ飛び去った。
その光景に舌打ちを隠すこともせず、かと言ってもう一度得意の武器をお見舞いするわけでもなく、カッサシオンは引き戻した愛用の武器を手に提げ持ち、姿勢を低く落としたまま用心深く探るような視線を投げかける。
そんな彼に向かって、異形の声が今や喜色を含んだ声色で怪物は話しかけた。
「どうした、その自慢の草刈鎌でもう一度挑みかかって来ぬのか?」
「いえ、実力差は今ので十分解りました。それにあなたがその気になれば我々がそうと気付かぬ内に皆殺し出来るという事も、さっきの悪趣味な見世物で十分理解出来ましたよ」
「それは重畳。では幾つか説明しておこうか、余り時間もない」
そう言い放つと、混沌神に仕える異形の司祭は彼らに簡単な説明をし始める。
自分がすでに魂だけの存在となっており、かかって来ない限り彼らに対して敵意はないこと。この肉体は「橘薫」という元は人間であった学者が主導権を握っており、体の作りも再構成されて、かつて「クトゥーチク」と呼ばれた時の面影は殆ど残っていないこと。
そして今現在、力を使いすぎて魂の力が衰弱してしまった彼女の代わりに自分が表に出ており、そしてこの状態はそう長く続かないという事。
「カオルはこの体の使い方を皆目知らぬゆえ、現状ではわしが手をとってやらねば満足に魔法を使う事も出来ん。時々暴発することはあろうが、基本的には自らの意志で使うには時間がかかろう。……ふむ、そろそろ時間だな。老兵は死なず、ただ去るのみ……か。人間もたまには上手いことを言う」
しかし、そう簡単にできれば苦労はしない。そう笑って、司祭は去った。
それと同時に今までその痩身に纏っていた異様な圧力がフッと掻き消え、面を上げた彼女の両目には極度の疲労が伺える、今はこの体の持ち主である「橘薫」であった。
彼女はその場で固唾を飲んでいる全員をぼんやりと眺めると、その薄い桜色をした唇をそっと開いた。
「まーくん、お腹すいた……」
――――――――――――――――
未踏破地区を目前にして、カオル達は休憩を取ることにした。
まだ潜ってからそれほど時間が経っていないように思えたが、ゴブリンとの激戦による疲労と自分自身でもよく分からない、いつの間にか溜まった疲労を抜くために一時休憩を取ることにした。
其れにマーチ、セレナ、カッサシオンの三人の脳内から消し飛んでしまった「空白の三十分」の間に一体何があったのか、カッサシオンとマーチは見に覚えの無い血の汚れが体について、気だるい疲労が両腕や肩腰に溜まっていた。これは推測でしかないが、おそらくその覚えていない時間に彼ら二人があのゴブリンの死体をえっちらおっちらと通路に積みあげたのだろう。
また、この休憩を利用してこれまでの経過を見直して簡単なデブリーフィングを行う必要もあった。
「まったくよぉ……トラブルてんこ盛りでもう腹いっぱいだぜ」
「え――じゃあ、それちょーだい」
「やらねぇ! クソッ! しかもなんでこいつ馬鹿に戻ってんだよ! こういう大事なことを説明しろよ、あのイカ野郎!」
「いたいいたいいたい!」
横から伸びてきたカオルの手を叩き落として鶏肉のソテーを守ったマーチは、その手でそのまま彼女の額を掴んでギリギリと力を込めて握りこんだ。篭手をはめたままの手で、である。彼女が耐久力も人外だと理解して容赦がなくなってきた。
彼女が間抜けな悲鳴を上げる横で、そろそろ心配事のせいで胃が危険なセレナは溜息をつきながらライ麦パンをちぎってぶどう酒に浸した。
「とにかく、このことは後回しにしましょう。まずは私が謝るわ。さっきは私が前に出すぎたせいであんなピンチになった訳だから」
「珍しいですね、あんな戦い方をするとは――とは言え私は冒険者になってからの貴女の戦い方しか知らないわけですが。その格好をしてから昔の自分に戻った気でもするのですか?」
「――――ええ、そうかも知れないわね」
カッサシオンの遠回しな皮肉をサラリと交わし、セレナは胸元の聖印を空いたほうの手で弄んだ。硬鉛製の其れは随分と使い古されて摩耗し、いかにもそれが年経てきた歳月を想起させる。
訝しげな視線を投げかけるカッサシオンの前で、彼女は何かを決心したような顔つきで聖印の鎖を引きちぎり、乱暴な手つきでポーチの中に突っ込んだ。
突然のその行動に目を白黒させる全員の前で、彼女は吹っ切れたように笑った。
「ええ、全く。その通りよ。過去には戻れない、考えたって仕方ない。そんな簡単なことも分からなかったなんて、私は本当の馬鹿ね。冒険者になっておきながら、巡回司祭として教会に籍は残す……そんな中途半端な事をしているから、ずっと同じところで足踏するハメになるのよ。私、決めたわ、マーチ」
「な、何をだよ」
突然顔を向けられたマーチは驚き聞き返すと、憑き物が落ちたような晴れやかな笑みが返って来た。
「私、教会を辞める」
「辞めるって、そんな簡単に辞められるものなのかよ」
「簡単よ、私はね。もともとずっと上のほうから睨まれていたのを枢機卿猊下に庇って頂いて、そのお陰でこうして教会に残っていられたのだもの。少し書類を書いて上の方に直接送るだけで、一週間も経たずにお偉い方から直接破門状が届くでしょうね」
「は、破門って! それじゃあ信仰魔法が使えなくなるだろうが!」
驚愕に飛び上がるマーチを前に、なおもセレナの笑みは崩れない。
彼女は悟ったような笑みを浮かべながら、その手をそっと胸の前に当てた。
「私は悟ったのよ、教会も、法も、組織も、全ては小賢しい人間が勝手に作ったものよ。神はそんなちっぽけな人間が勝手に敷いた法になど従わない。あいつらが私を破門にするならすればいいのよ、私の教会はここにある、私の祈りは――信仰はここにあるのよ。あいつらが勝手に破門破門と騒いだって、神は見ていて下さるわ。豪奢な着物に包まれて丸々太った豚なんか通さなくたって、祈りの声は届くのよ」
「……おい、なんか異端くさいぞ」
「信仰上の異端だって、人間が勝手に決めたものよ!」
元異端審問官の言葉とは思えぬ放言に、マーチとカッサシオンはギョッと目を剥いて顔を見合わせた。
ポカンと口を開けて唖然とした様子のカオルにちらりと視線を向け、セレナは男二人に気付かれないようにサッとウィンクして見せる。そのサインの意味するところに瞬時に気がついたカオルは、自分が馬車内で彼女にやらかした事を悟られたのだと気がついて、羞恥心で真っ赤になって項垂れた。
嗚呼しかし、まさかこんな影響を与えるなんて!
カオルは自分の破れかぶれの行動が、敬虔な信徒の人生を大きく動かしてしまった事実に身悶するのだった。
そんな様子に気づいているのかいないのか、セレナは少し危険な感じにキラキラと輝く両目のまますっくと立ち上がる。
「さぁ、行きましょう!」
「いや、ちょっと待て、カオルのポジションはどうするんだよ」
「さっきクトゥーチク司教が仰っていたでしょう、自分はそう長く力を使えないって。あの方なしで彼女が戦えないのなら、考えるだけ無駄でしょう。あの難局を助けて貰っただけで十分ではないかしら? いつ復活するかも分からない戦力を宛にするなんて、そんな博打はゴメンだわ。ねぇ、そうでしょうカッサシオン?」
「……さて、まあ、言われてみればそうですね」
水を向けられたカッサシオンは幾つか反論したい事もあるようだが、概ねは賛成なのか表立って反対するわけでもなく頷いた。
意味ありげに傍らのカオルをちらりと見ると、やれやれと言うように肩を竦めてマントのフードを下ろして覆面を上げた。
「ま、ごちゃごちゃしたイザコザはこのさい棚の中に閉まっておきましょう。今はただ、この冒険が無事に終わることに力を注ぐのが先決」
「ま、そういうことだ……おいっもっと綺麗に描けよ、方眼紙の升目を使え升目を」
「ご、ごめん。こう?」
各々が身支度を終えて立ち上がり、マーチはカオルが地図の空白部分を補って書き足した部分に難癖を付け、それに謝りながらカオルが方眼紙上の線と点を書き直す。
そんな微笑ましい光景を横目に、彼らはとうとう今まで誰も足を踏み入れなかったダンジョンの奥に向かっての第一歩を歩んだ。
――――――――――――――――
「なるほどねぇ……おかしいとは思ってたんだ」
「あの戦力と士気の高さの理由はこれでしたか」
今にも舌打ちしそうな不機嫌顔で、マーチとカッサシオンはテラス状になった通路に伏せながら悪態をついた。その通路はちょうど胸ほどの高さまで石材の手すりが壁状に続いており、その足元に数インチのスリットがついている、そのスリットから目下の現状を見ていた二人は、後ろで同じように伏せているセレナとカオルの方に目線をやった。
それに促されて同じようにその光景を除いた二人は、先程の二人と同じように顔を歪めて片や溜息、片や固唾を飲んだ。
カオルは階下の広場に屯している怪物を横目に、目と鼻の先にあるセレナの顔に向かって問いかける。
「な、なに、あれ?」
「オーガーよ……不味いわね、たぶんあのゴブリンはあいつらと争ってたんだわ」
「道理で、あれだけ外で叩かれても余力があると思ったぜ」
「外に出ていた奴らはキャラバンや冒険者を襲って物資を調達していたんでしょう」
「な、なんか叫んでるんですけど?」
「おい、カッサシオン、訳せるか?」
「無茶を言わないで下さい、あんな下品な言語。耳が腐れ落ちそうだ」
伏せたまま器用に肩を竦めるカッサシオンに、マーチは小さな声で「ちっ、使えねぇ」と悪態をついて小突かれていた。
そんな彼らをこちらも小声で諌めながら、セレナは息を潜めて眼下の鬼たちを注意深く観察している。
「言葉は分からなくても何となくこれから何が起きるか分かるわ」
「……わたしも、なんとなく分かる」
「俺も何となく分かるがよ、何だと思う? カッサシオン」
「そうですね、ではここは平等に一二の三で全員一斉に言ってみましょうか。いち、にの、さん」
『戦争』
ここまで見てきた中で最も広大な広場は、奥行きは暗くなって見えないほど有り、天井の高さは公都で一番高い建物がすっぽりと入りそうなほど高かった。横幅はざっと見ただけでも100フィートはあり、所々で明明と篝台が灯されている。そして灯りの周辺には身の丈10フィートは軽くありそうな筋骨隆々の巨人たちが、粗末な鎧と物々しい武装を準備していた。
使い込まれた木製の棍棒には鋭い鉄釘が何本も突き出て、如何にも野蛮な鬼が使いそうな物騒な雰囲気を醸し出し、成人男性の頭程もある大きさの岩を幾つも籠に入れて背負っている鬼は、的に向かってスリングの訓練を行っていた。
他にも様々な武器を持っているオーガーがいたが、基本的には棍棒とスリングの二種類で構成されているようで、時々歩いている一際大きな体格のオーガーは他の個体と違って巨人専用の板金鎧を着込み、鋼鉄製のウォーハンマーを肩に担いでいる。恐らくそれらがリーダーなのだろう。
広場全体に充満する物々しい空気と緊迫した雰囲気は、どう考えてもこれからちょっと散歩に行こうなどと言うものではない。
「おい誰か、アイツらに教えてやれよ。お前らの戦う相手はとっくに半壊状態です、とっととお帰り下さいって」
「どうかしら、カッサシオン。英雄になってみる気は?」
「彼らがお礼を言ってくれるとは思えませんね。それに、儲けにならない事は出来るだけしない主義でして」
「じゃあ、カオル、お前いけ。これで貸し借りチャラにしてやるぞ」
「のーせんきゅー!」
軽口を叩きながら、全員の視線が交差する。
目は口程にものを語るとよく言うが、実際にアイコンタクトを理解することは至難の業だ。しかしながら今この場に限って言えば、全員がその至難の業を容易く成功させていた。
即ち「どうするよこれ」である。
「~~~~ッ! ええい、畜生め、あんなもん抜けられるかボケっ」
「私一人であれば何とか行けますが……それでは意味が無いですね。いやはや参った」
「…………ブッコむ?」
「ちょっと、カオルッ、滅多なこと言わないで! 貴女が言ったら冗談に聞こえないわよッ」
血相を変えたセレナに半ば本気で止められて、冗談のつもりだったカオルはしょんぼりして凹む。しかしながら彼女の持っている反則級の力を考えれば、この反応も致し方無しと言ったところか。
闇夜に潜んで獲物を狩る梟のように、鋭い目付きで屯するオーガーの群れを見ていたカッサシオンは、舌打ちを漏らして無念そうに肩を竦めた。
「……駄目だ、気付かれずに抜けられそうにありません。ガス爆弾でも持ってくれば良かったんですが、流石にこんな事態は想定外です」
「ちっ……ここまで来て撤退かよ。骨折り損だぜ」
「こんな日もあるわよ、さあ、行きましょ――」
「シッ! なにか様子がおかしい!」
「え?」
広場の空気が変わる。
広場に充満していたざわつきが俄に色を変え、何体かのオーガーが声高に叫びながら広間に繋がる一つの通路を指さしている。その通路は半ば崩壊して石材が斜めに倒れかかっており、彼らの巨体では奥に進めないようになっていた。
その通路から他のオーガーよりも半分程度しかない個体が大慌てで叫びながら飛び出してくると、その場に集っていた鬼たちは慌てて武器を構えて身構え始める。
「何だ何だ? 何が起きて……」
思わず呟いたマーチの独り言の返答は――この世界では聞くはずのない、カオルにとっては馴染み深い、ザラザラとノイズ混じりになった甲高い電子音声であった。
《ZZiZiZyyzz..zzZ..bibibiii え、エネミー、コンタックzziiyyyzzizz..insight,insssssiiiaaaaaa》
瓦礫の隙間から、全高4フィートほどのメタリックブルーが姿を現す。
所々の装甲が剥がれ、明らかに作動不良を起こしていることは一目瞭然であったが、その見覚えのありすぎる姿にカオルは固まった。上に行くに連れて徐々に細くなる円筒形のボディに、胴体下には先端に高速移動用のボールタイヤが仕込まれた六本の脚、そして360度回転可能で三種類のカメラタイプに変更可能なターレットレンズ。この世界では見られるはずもない、彼女の世界の兵器。
完全に場違いな存在の登場に、その他の面々はギョッと目を向いて息を飲んでいる。
「おい、な、なんでこんなところに連邦のマシンゴーレムがいやがる!?」
「私に聞かれたって……あ、馬鹿がっ」
板金鎧を身に纏ったオーガーが雄叫び声をあげながら武器を振り上げ、突如として現れた敵に向かって突進する。
そんな敵に向かって、無慈悲な機械はガチャリガチャリとターレットレンズを回転させながら電子音声でがなり立てた。
《BYYYYYYY! ケイコク! ii.i.i,IDパスを.zzzizy...Beeee!! ssss.ss....サーチ..aaa.aa..anddddddddd....デストローイイィィイイ!!》
ジュッとも、ジジッとも聞き取れるような異様な音と共に、空間をやや斜め水平に薙ぎ払われた熱線は、その戦場にいたオーガー立ちをまるで豆腐か何かのようにスッパリと綺麗に両断した。熱線によって血の流れ出ない切断死体は、まるで狂人の描く悪夢のような非現実さをもって彼女たちの眼下に展開される。
次の瞬間、広場中が怒号と雄叫びに支配された。
もし彼らがゴブリンほど臆病なら一目散に逃走しただろう、或いはリザードマンほどに知能が高ければ戦略的撤退を選んだに違いない。
だがしかし、彼らはオーガー。
脳みそまで筋肉が詰まったと侮辱されるほどに、彼らの戦略はとにかく単純だった。
即ち、敵の粉砕。そして前進。
「グォッォォォ!!」
「ガァァァァァ!」
「Dago! Dago!!」
「Hado!」
口々に突撃の雄叫びを上げながら、凶悪な面相をした巨人たちがたった一体の機械兵器に群がっていく。
迫り来る巨人の群れに、鉄の怪物は慌てもせずに胴体上部に装備された高収束熱線砲をぐるりと巡らせた。
薄闇の中に光の筋が走る度、巨人達の悲鳴とマシンのエナジーチャージ音が広場に響く。ザラザラとノイズを混じらせながらの無機質な電子音声は、ただひたすら同じ言葉をリピートしていた。敵、敵、敵発見、殲滅、殲滅、敵殲滅、応答せよ、応答せよ、本部応答せよ、敵、敵、敵発見……。
「Glogshe! Hado!!」
「オオォォォオ!」
片腕を熱線で切り落とされたリーダーらしきオーガーが傍らの仲間に命令すると、スリングを持っていたその鬼はすぐさま革紐に投擲用の岩を装填すると、熟練を感じさせる動作で敵に向かって一直線に投げ放つ。
その岩が、彼らからすればあまりにもちっぽけな敵に当たる寸前、半透明の青白いプラズマシールドが半球状にマシンを覆い、シールドに阻まれた岩塊は青白い火花を散らしながら弾かれた。
《zizizzyyy....bibi..zzzzaazaaz...ee,e,en,ee,エネミー......》
ビュゥゥンとまたしても高エナジー収束兵器特有のチャージ音を立てて、規格外の殺人兵器が猛威を振るう。巨人達は必死に抵抗するも、近づく前に横薙ぎにされる恐ろしい射程の熱線は容易くその生命を刈り取った。ここが起伏の全く無いだだっ広い広間であることも、大きく災いした。遮蔽物が殆どないのだ。
そして、ものの数十分も経たぬ内に、あれほど広場いっぱいに集まっていたオーガー達は全滅した。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
またしても息を詰めて、四人は目を合わせた。
その下では相変わらず雑音混じりの機械音声が、血眼になって敵の生き残りを探している。
「どうすんだよ……これ」
誰に向けてでもなく自然に漏れたであろうマーチのボヤキに、カオルは小さく一言「詰んだ」とだけ呟くのだった。
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次回予告
不安と猜疑 欺瞞と隠蔽
閉塞空間に充満する鉄と血の匂い
利己的に 利他的に
そう 其れは生存を求めてせめぎ合う
打ち捨てられた鉄屑の叫び声
五体を引き裂かんと 石の壁を焼き切る過去からの亡霊
怯える魂がそっと呟く
「あいつもこいつも、私の盾になればいい」
次回「危機」
「これも一つの証明か……」