カッサシオンを先頭に、その後ろにマーチ、カオル、殿にセレナを置いて一行は扉をくぐった。
ダンジョン内に一歩入るとそこには隙間なく積み上げられた石壁と、所々が赤黒いもので汚れた石畳の連なる地下施設が続いている。
壁には松明を差し込む燭台が一定間隔で備えてあるものの、それらを維持する人間は既にこのうら寂しい空間から去って久しいようだ。かつてそこに備え付けてあったであろう松明によって付けられた煤の跡が、薄闇の中に不気味な陰影を加えていた。
明かりの一切ない空間で背後の扉をセレナが閉じる前にカオルは火口箱からカンテラに灯りを移した。
現代社会の恩恵に使った彼女からしてみれば、ゆらゆらと頼りなく揺れる炎の明かりはなんとも前時代的で使いにくそうに思えるが、この暗く冷え切った地下の迷宮にあってはその仄かな灯りが生命線になりうることは流石の彼女にも理解できる。
カンテラに炎が灯ったことを確認してカッサシオンが頷いて先に進む。
入ってすぐに十段ほどの階段があり、そしてその先には半径10フィートほどの広場がある、そしてそこから前方と左右にそれぞれ道が別れ、そのうち左右の通路の先は既に先発の冒険者達によって探索済みであった。
広場には中央に微かな青白い燐光を放つクリスタルが収まった不思議な照明器具が設置され、その周囲には半ば朽ちかけた木製の腰掛けが円形に配置されている。それらの周りや広場円周に寝袋や焚き火の跡、そして何やら良く分からないガラクタの類といった生活感を匂わせる種々の代物が散乱していた。
事前の打ち合わせ通りに中央の腰掛け周辺で一旦止まり、カッサシオン以外の全員で周囲を警戒。その間に彼は左右の通路につながる入口に仕掛けをする。
細い糸をちょうど床から1フィートほどの高さに張り、それに足が引っかかると糸が切れてその先に結わえ付けられた鈴が地面に落ちるというものだ。
この二つの通路の先は探索しない事になっているが、もしこの先にゴブリンがいて一行が奥に行った後に出てきた場合挟み撃ちになるかもしれない。その用心のためだ。
ちなみにこの結わえ付けられる鈴は盗賊ギルドの特別品で、どれだけ離れようともそれぞれと対になった鈴が同じように鳴るという魔道具になっているらしい。小指の先ほどに小さな物なので、引っかかったものは鈴が鳴ったことすら気付かない可能性もあるとか。
そうしてカッサシオンが戻ってくると、一旦全員が額を突き合わせて地図を覗き込む。
「よし、とりあえず前進だな」
「次の分岐もすべて無視して一直線ですね、分岐の先にあるのはすべてトラップですから対鳴りの鈴を仕掛ける必要もないでしょう」
「空白地帯まで一気に行くのかしら? 途中にあるゴブリンの巣は?」
問いかけるセレナに覆面の下でクスクスとカッサシオンは笑った。
その笑いにむっと不機嫌な顔をするセレナに、マーチが慌ててフォローを入れる。
「おいおい、ついさっきボッコボコにして追い払っただろうが。たぶん今出会っても半分以下の数だし、そもそもあれだけ痛めつけられたら警戒して近寄ってこねぇよ」
「えっ、あのゴブリンここの奴らだったの?」
「みたいだな、なぁ? そうだろ」
「そのよう……ですねぇ」
そう言って、カッサシオンは床に放置されていたゴミクズの中から何かをひょいと抓んで見せた。
それはまだ乾ききっていない血で薄汚れたボロ布で、細長く裁断してある所から見てどうやら包帯のようだったが、こんな不潔な布をあててしまったら傷が悪化するのではないかとカオルは首を傾げた。
そしてそんな彼女の疑問をよそにセレナは納得したように頷くと、神妙な顔で背中に背負っていた盾を左手に握り、鎚矛を腰のリングに戻してその代わりに刃渡り1フィート程の小剣を抜いた。
カンテラの薄ら明かりの中でギラリと輝く刃金の光は、如何にも使い込まれたふうに何度も補修の跡が見られる。
「なるほど、ではあっても小競り合い程度ね。じゃあこっちを使うことにするわ。こちらのホうが取り回しがいいもの」
「おやおや、聖職者が刃物ですか?」
「あら、私たち光輝神異端審問官の古い異名をご存じないのかしら?」
「異名?」
訝しげに首を傾げるカッサシオン。
目をやったマーチも彼女のほうを見て肩を竦めて見せる。どうやら彼も知らないらしい。
そんな三人を前に、セレナは如何にもしゃちほこばった様子で剣を構えると、いつもカッサシオンがそうするようにニヤリと笑って口を開いた。
「スティール・インクィジター…………我ら《鋼(刃金)の尋問官》なり、ってね。」
――――――――――――――――
聖職者が鈍器を武器に使うのは「異教徒に速やかな死を与えず苦痛を長引かせるため」であったという、全く知りたくなかった教会の暗黒史を道すがら滔々とセレナに教えられた一行は、背筋に流れる嫌な汗を感じながら半笑いで先を急いだ。
ここが場末の安酒場であったならば都市伝説か笑い話の一つとして流せるはずが、語る本人の前職を全員知っているだけに全く笑えず、光輝教会の暗黒面を図らずも垣間見た面持ちである。
「あら、信じたの? いやね、冗談よ」
そう言ってクスクス笑うセレナを背後にしながら、先頭のカッサシオンの方が小さく震えるのをカオルは見た。
光輝神に仕える異端審問官といえば、その威光とともに悪名もまた隠然として存在するため怯えるのも無理はない。
特に、この中でも一番善良とは程遠い人生を送ってきた彼からすれば、いつセレナがその手に持った剣を「神罰」の名において心臓に突き刺してくるのではないかと気が気ではないのだろう。
流石にそんな事をするような相手ではないと彼自身も思っているのだろうが、彼女の前職を知りそしてつい先程その目で見た壮絶な戦いぶりを見ていしまった故の、それは無意識の反応であった。
そうして途中の分岐を無視して進んだ先、L字に曲がった角にやってきて彼は小さな手鏡を取り出して通路の先を覗き見た。
「しッ……やつら、溜まっています」
そう言ってカッサシオンが簡単なハンドサインで全員を止める。
そうして一旦曲がり角から引き返すと、カオルのランタンの灯りが届く範囲まで来て石床にチョークのようなもので簡単な配置図を書き始めた。
一辺が30フィート程の正方形の室内に五匹のゴブリンが集まっている、三匹はちょうど中心に、一匹は左の壁に、もう一匹はこの曲がり角を進んで部屋に入ってすぐのところ。通路は正面と右側に一つづつ。正面の通路から未踏破地帯、左は古い食料貯蔵庫に繋がっている。
概要を見てすぐにカッサシオンが作戦を説明する。この中で一番冒険者として経験を積んでいるのが彼であるから、こうして何食わぬ顔で彼がこれからの方針を決めても誰も疑問を挟まない。
彼は全員にかろうじて聞こえるだけのヒソヒソ声を出す。
「まず私とマーチが手早く手前の一匹を始末します、セレナさんはそいつに構わず突撃して正面を抑えてください。一匹目を始末してマーチはすぐにセレナさんに合流するように」
「へっ、手早くね……五秒もかからんぜ」
「分かったわ」
「壁際にいる奴を私が殺ります、そのまま横合いから奇襲しますのでそのつもりで。それで……」
そこで彼はカンテラの灯りでぼんやりと照らされる彼女の顔をちらりと見た。
数秒の逡巡の後、彼は考える時の癖なのか右手で顎を撫でながら肩を竦めた。
「カオルさん、あなたはそうですね……ま、邪魔にだけならないようにして下さい」
「はい……」
当たり前といえば当たり前だが、ほとんど戦力外通告を受けたに等しい。
しょんぼりと肩を落として彼女は「はい」と力なく答えた。
気落ちした様子の彼女にセレナとマーチが慌ててフォローを入れる。
「気にしないで、後詰めがいるだけで安心感があるもの。いざとなったら仲間を引きずってでも進める人間――人間? あ、いや、その、誰かがいるだけで十分役に立つわ」
「補助と支援も重要な役柄だぞ、自分の仕事を弁えた奴が本物のプロフェッショナルなんだからな」
二人の言葉に気遣いの色を感じ取りながらも、カオルはその気持が嬉しくて大人しく頷いた。
そんな三人の様子を横目で見ながら、カッサシオンは覆面の布をぐいと目元の下まで引き上げ直してすっくと立ち上がる。
「さて、仲間のメンタルケアが終わった所でそろそろ行きますか」
無言で全員が頷き、マーチとカッサシオンが曲がり角の側で身構え、その後ろにセレナが控える。
「ゴー!!」
掛け声とともに放たれた矢のように三人が飛び出す。
ほとんど地面に倒れ伏すような前傾姿勢でカッサシオンが先陣を切ると、そのままの勢いで取り出した鋭い刺突剣を敵の肝臓目がけて突き出した。突然の奇襲に全く反応出来ないゴブリンは粗末な革鎧を簡単に刺し貫かれて悲鳴を上げ、その叫び声にようやく敵襲に気づいた他のゴブリンがこちらを向く頃には、既にカッサシオンはローブをはためかせながら壁際の敵に向かって疾走している。
鋭い一撃を受けて激痛に身悶えるゴブリンだったが、すぐ近くに走り寄ってくるマーチの姿を認めるとヨロヨロとした動きで鉄錆の浮いたショートソードとスケイルシールドを構えた。そしてそいつに向かって十分に助走のついた前蹴りの一撃をマーチが叩き込むと、盾を構えたまま敵は蹈鞴を踏んで後ずさる。
その瞬間に前蹴りで生じた隙を瞬時に取り戻すと、マーチは盾を構えた敵に向かって凄まじいラッシュで畳み掛けた。防戦一方の敵は何とか反撃をしようとするも、その瞬間を狙って鋭い回し蹴りが飛来するためにどうしようもない。
そんな二人を横目にガチャガチャと金属同士が激しく触れ合う音を立てながら、完全武装の神殿騎士が吶喊するのを見るやいなや、後ろで慌ただしく武器や防具を準備していた三匹が半ば恐慌をきたし、その内の一匹が弓は拾ったものの矢を持たないままその弓でセレナに殴りかかる。
「聖なる裁きを受けよッ!」
弓の一撃を盾で難なく弾くと、鋭い剣閃が容赦なく煌めいたかと思うやいなや、ゴブリンは首筋から血を吹き出して血泡を吐いてどうと倒れた。
あまりにも呆気ないその死に様に、一番後ろにいた一匹が恐怖に駆られながら首筋にかけていた笛を思い切り吹きならす。
ピィーッと甲高い音が石壁に反射して迷宮中に響き渡る。
「クソッ、仲間を呼びやがった。カッサシオン! 片付けるぞ!!」
敵の胸元を革鎧ごと陥没させて打ち殺しながら、マーチは舌打ちながらにそう言い放ってセレナの援護に走り寄った。
壁際で彼曰く「華麗な技術の粋」を駆使して敵を惨殺したカッサシオンは返事の代わりに踵を返し、二対二となった戦場に横合いから奇襲した。
そしてその瞬間、右側の通路からぞろぞろと十数匹のゴブリンが現れる。
「畜生増えたぞッ、セレナ、頼む!」
「全く……僧侶の仕事じゃないわね、これは!」
悪態をつきながらも、凛とした表情で彼女はぞろぞろと今なお通路から溢れ出るゴブリンに向かって果敢に挑む。
広場にいた敵を始末して他の二人もその戦列に加わるが、その戦力比はざっと見ただけでも1:5以上になるだろう。
無謀、誰が見ても自殺行為だ。
このままでは……死――
「では如何する」
「ッ!?」
突然、世界が灰色となり全てが静止する。
セレナは敵の長剣を盾で弾き返したまま、マーチはローリングソバットで敵の頭を砕いたまま、カッサシオンは闇に紛れて敵の急所を突き殺したまま、まるでモノクロ映画を一時停止したかのような異様な光景のまま全てが停止した。
灰色の世界の中、ただ一人彼女だけが驚愕に震えて立ち尽くす。
いや、一人ではない。
いつの間に彼女の目の前にかつて夢の中でであった異形が一人、まるで世界から切り離されたかのようなあやふやな影の姿で彼女を見つめている。
「あ……あなたは」
「如何するのだ? タチバナ・カオル、あれらの腕であればこの閉所で戦えば殲滅も出来るかもしれん。だが敵の全てがあれだけだとは限らぬな、もしこのまま敵の数が増え続ければ? さあ、どうする、そのままここで突っ立っているのか? あの時のように?」
「わ、私、でも、わたしは」
「戦えぬ、そう申すのか? 笑止! わしはお主を知っている、たとえ死が免れぬという地獄の淵に居ながらも、我が身を顧みず勤めを果たしたお主の強さを! 思い出すのだ!」
「強さ……? でも、私は弱い、弱いのです! 貴方が私の中にいるもう一人の魂だと言うならば、さっきの醜態もご覧になったでしょうッ。仲間たちが血塗れになって戦っていたというのに、あの時私はただ地面に這いつくばってガタガタと震えていただけ。それに、見てください、今も震えが、震えが止まらない。こんな時にあって尚、私はこう思っているんです「怖い、逃げたい、何もかもから目をつぶりたい」と!」
「然り、お主は恐怖している、だが其れこそが真なる「闘う者」の条件である。恐怖を知らぬ者、恐怖を軽んずる者、恐怖に呑まれる者、それらは決して最後まで闘い抜くことはできぬ。恐怖を抱き、それと共に闘う者だけが真に強者と呼ばれる資格があるのだ」
その言葉に、彼女は自嘲の呻きを漏らした。
「この私は恐怖に呑まれる臆病者ではないのですか?」
「何故そう思う」
「だってそうでしょう、さっきから震えが止まらない、逃げたくてたまらないんです!」
「では何故逃げぬ」
「え――」
思わず息を飲んで、彼女は正面に立つ怪人の目を見た。
灰色の世界で怪しく発光するその両目はブルーグリーンに輝いて、懊悩する彼女の心を覗き込んでいる。
「な……ぜ?」
「そうだ、何故逃げない? そんなに逃げたければ逃げてしまえばいいではないか」
「そ、そんなこと、出来ない」
「どうして?」
「お、恩が有るから、私は……」
「恩? そんなもの、命の対価となり得るのか? 冒険者に囲われるなど遠くない命の危機が約束されたようなもの、そんなもの打ち遣って何故逃げない。奴らが完全な善意でお前の世話をしてやっているなどと、そんな夢物語をまさか信じているわけではあるまいな? 人は打算の生き物だ、お主がその秤の中に含まれている事が分からぬわけがなかろう。その気になればお主に友など、仲間など、協力者など必要ない、山谷で暮らす事も、哀れで愚かな冒険者共を皆殺しにして身ぐるみ剥いでも生きられよう。その体はわしの遺伝情報から再構築されている、少々姿形が変わったところでわしの――マインドフレイヤとしての圧倒的な性能はその全てがそこに残っているのだ。逃げよ、そして何の呵責もなく力を振るえ。そうすればお主の望むままに生きられるのだぞ。何の束縛もない、自由だ!」
「いや……嫌よ、そんなの、嫌!」
「何故だ? お主はさっき自分で言ったではないか、逃げたいと、ならばそうせよ、お主にはそれだけの理由と力があるのだぞ!」
いつの間にか目と鼻の先に近寄ってそう言い放つ異形に、彼女は怒りに燃える瞳を向けた。
「そんなものッ! ここで逃げて、逃げ込んだ先が楽園だというはずがないわ! 私は……私は――ッ」
彼女の脳裏に遥か彼方に置き去りにした記憶の光が刹那閃く。
虫食いだらけの朧気な記憶の中、彼女は泣いていた、自身も死に至るだけの傷を追いながらも、彼女を庇って息を引き取る「誰か」を胸に抱いたまま、彼女は泣いていた。身を引き裂くような悲しみの中、彼女はただただ怒りと嘆きに震えていた。みすみす己の無力のせいで起こった悲劇に怒り、そしてその結果半身を失う事に、震えていたのだ。
その欠片を手に入れた瞬間に、彼女の胸の中に燻っていた小さな熾火は確固たる色と光を持って燃え上がる。
「もう、もう二度と、あんな思いはごめんよ。私は逃げない、私のせいで誰かが死ぬなんて、絶対に嫌!!」
魂を吐き出すような怒号と共に、彼女はキッと目の前の異形を睨みつけた。
そんな彼女に向かって、朧気な影はしゅるしゅると笑い声を上げる。
「よくぞ言ったプロフェッサー! ならば立ち上がれ、そして戦うのだ! 我が名を呼べ、杖を手にとるのだ、そして我らが主の名を声高らかに讃えよ! カオスの使徒よ、虹色の力を主より下賜されし混沌の下僕よ!」
「私は混沌神を崇めたことなどないわ」
「其れも良い、あの御方は信仰など求めない。唯世界の有様にだけ結果を求める。世界を相手にその頭脳で戦いを挑んだ異界の賢者よ、汝に神の誉あれ、主は汝を見守り給う!!」
――――――――――――――――
「クソッきりがねぇ!」
「潮時ですよ、マーチっ」
「そう行きたいがよッ」
舌打ちとともに腰を落とした正拳突きが敵の内臓を破壊する。
通路から増援が退去してやって来た瞬間からすでに退却は決定事項となっていた、しかしそうも行かない理由がある。セレナが敵の真っ只中で大立ち回りをやらかしていたからだ。
いつもパーティの後列で魔法ばかりを使っていた彼女しか見た事のない彼からすれば、まさに瞠目するような光景で、それゆえに彼は彼女を完全に見誤っていた。
てっきり彼はセレナが敵を撃破しながらもジリジリとその場に踏みとどまる重戦士か、或いは前衛を他に任せて中衛をこなすだろうとばかり思っていたのだが、その意に反して彼女はとんでもない突進力と前進圧力を駆使して敵陣にぐいぐいと斬り込んでいく戦法を取っていた。
それに気がつくのがほんの一瞬だけ遅れた。
そしてその一瞬が命のやりとりにおいて致命的なまでな遅さとなった。
気がつくと彼女は敵陣に食い込んだまま他二人の援護が得られないまま退路を失い、通路の先から続々現れる増援に対処するので精一杯となるのにそう時間はかからない。
その場は完全にジリ貧と言って差し支えない状態へと移行しかけていた。
「仕方ありませんね、〈オライオンの炎〉を使いますよ」
「こんな狭いところでかッ、セレナも死んじまうぞ!」
「彼女が耐えてくれるのに賭けるしかありません、どの道このままでは二進も三進も行かんでしょうが」
そう言ってカッサシオンは手のひらサイズの小壜を取り出した。
中に詰まっているのは無色透明の粘性の液体で、空気に触れた瞬間爆発的な速度で気化し、周囲の空気と撹拌されて飽和状態になった瞬間に直径30フィートの範囲が高温の熱と爆風で吹き飛ぶという代物だ。
当然ながら閉所で使えば自分まで被害が及ぶ。だがマーチにしてみた所でそれ以外でどうやってこの難局を乗り切るのかと問われれば、唇を噛み締めながら頷かざるをえない。
「くそっしょうがねぇ。セレナぁ! これからオライオンの炎を使う! 合図があったら《元素抵抗(Resist Elements)》を使って伏せろ!」
「む、無茶言わないでよッ、何処にそんな暇があるように見えて!?」
「無茶でもやるんだ!」
「行きますよっ!」
カッサシオンが投擲ポイントに向かって流れるように移動する。
「カウントスリー!!」
「3!」
「2!」
カッサシオンが小壜を持って大きく振りかぶる。
セレナが早口で呪文を唱える。
マーチは素早くバックステップで退きながら身を隠す場所にあたりをつける。
「1――」
勢い良く投擲しようとした瞬間、カッサシオンは唐突に動きを取りやめてその場に伏せた。
その不可解な行動に声を上げようとした次の瞬間、ゴブリン共が持つ松明の明かりにギラリと光る無数の何かが飛来した。
「ギェェェェ!」
「ぐぎゃっぎゃっ!」
「アアァアァア!!」
四肢を砕かれ、引き裂かれ、頭蓋を割られ、胴体に無数の穴を開けられたゴブリンの阿鼻叫喚が目の前に広がっている。
一体何が起こったのか? 混乱する彼の肩を誰かがつかむ。
驚きに心臓を跳ね上げた彼が振り返った先にいたのは、右手に異様な光を放つ異形の右手をかたどった杖が握られていた。
「下がりなさい」
「な――」
その右手に握られた異形の杖は、先端にかたどられた骨張った手が握り締める紫水晶が発する燐光に鈍く輝いていた。
彼女がその杖を一振りすると、薄暗闇の中にその紫光の軌跡が残る。
「玻璃の刃よ、敵を切り裂けっ! 《水晶弾(Crystal Shard)》!」
凛とした彼女の声に混ざり、嗄れた異形の声が呪文を叫ぶ。
空中に忽然と出現した無数の水晶片がギラリと致死の輝きを乗せて再度飛来する。
目にも留まらぬ速さとはこのことか、一瞬何かが煌めいたかと思った次の瞬間には鋭く尖った水晶の弾丸が敵の体を破壊する。血みどろの地獄の中を困惑と驚愕を顔に貼りつけたままセレナが立ち上がり、通路の先から現れるゴブリンは無残に殺された仲間の姿に興奮の叫び声を上げて突進する。
「何度やっても……無駄よっ」
更に杖が振り上げられた。
「そこで足踏してなさい! 《鈍化の空間(Deceleration)》!」
通路から数歩踏み出した空間がグニャリと揺れる波間を覗き込むように歪むと、そこに足を踏み入れたゴブリンたちは先程までの勢いの半分程度しか走れなくなる。本人は必死に足を動かしているのに、まるで油の敷き詰められた床で踏ん張るかのようにノロノロとした速度しか出ない。
「炎よ、我が意に従え! 《火炎操作(Control Flames)》!」
入り口で大渋滞となったゴブリンたち、その手に持った松明が突然大きく燃え上がる。
炎は互いに絡み合い、成長し、まるで意志を持った怪物のようになってゴブリンに襲いかかった。
轟々と渦巻く炎は空気を取り込んで更に勢いと温度を上げ、入り口で一塊になっていた敵を一飲みにして焼き殺すと、そのままの勢いで後ろの通路に飛び込んで破裂する。
絶叫とともに身を焼かれる苦痛に耐えかねて通路の敵が退却する。僅かに息のある者も、腕がもげ、足が千切れ、或いは重度の火傷を全身に負っていた。
四度。
そう、たった四度の呪文詠唱で、数十匹もいたゴブリンはその殆どを惨殺されて這々の体で逃げ出していた。
「はぁ、はぁ…………」
その光景を生み出した張本人は、額に滝のような汗をかき、杖に寄りかかりゼエゼエと息を荒らげながら、自らの生み出した光景に恐怖するかのように慄いているのであった……。
八つ裂き、そんな単語がマーチの脳内を駆け巡る。
人の力を嘲笑うかのよう圧倒的暴力。
其れはまさに、人々が恐怖とともに語る化け物の力そのものだった……。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ようやく主人公のチート振りが描写できました。
みなさーん、マインドフレイヤって本当はこんなふうに鼻くそホジりながらでも片手間で冒険者を虐殺出来るぐらい強いクリーチャーなんですよー。
次回予告
言うなれば運命共同体
互いに頼り 互いに庇い合い 互いに助け合う
一人が四人のために 四人が一人のために
だからこそ過酷な冒険で生きられる
パーティは兄弟 パーテイは家族
嘘を言うな!
猜疑に歪んだ暗い瞳がせせら笑う
無能! 怯懦! 虚偽! 杜撰!
どれ一つ取っても命取りとなる
それらをまとめて無謀で括る
誰が仕込んだ地獄やら 兄弟家族が笑わせる
お前も! お前も!! お前も!!!
だからこそ、俺のために死ねッ!!
次回、「パーテイ」
「私たちは一体なんのために集まったのか……」