「でぇぇえあああああぁぁぁッ!!」
ぶぅんと唸り声を上げながら振り下ろされたバトルメイスは、驚愕に歪んだ顔のゴブリンの脳天に突き刺さった。
ぐしゃりと周囲に血と脳症と骨片を撒き散らしながら、頭を打ち砕かれたゴブリンはふらふらとその場で半瞬だけたたらを踏んだ後に、まるで荷台から放り出されたジャガイモ袋か何かのようにどさりと地面に投げ出された。
絶命。
さっきまで生き物だったものが今では腐りゆくだけのタンパク質の塊となった。
そんな代物が、半径15フィートの結界内にゴロゴロと転がっている。
メイスにこびり付いた肉片を一顧だにしないまま、セレナは陣羽織の裾でぐいと血塗れになった顔面をぬぐう。
しかし、疾っくの昔に流血を吸いすぎてじっとりと重くなったそれは単に顔面の返り血を薄く広げるしか出来なかった。
血が目に入ると視界が著しく制限される。セレナは仕方無しに腰のホルスターに突っ込んであった金属製の水筒を取り出し、中身の水を顔面に浴びて血潮を流した。
束の間の休息を終えると、不退転の意志を込めて彼女はキッと正面を睨みつけた。
「次!!」
カーンと神々しいベルの音が響く。
するとさっきまで結界の外にずらりと並んだゴブリンのうち一匹がするりと結界内部に入ってくる。両手を結界に押し付けて騒いでいた為に最初の二三歩はつんのめってしまったが、自身が中に入れた事を理解するや否や錆だらけのショートソードを振りかぶって彼女に斬りかかってきた。
――――《決闘の結界》心得 チャンピオンは常にチャレンジャーに初撃を譲らねばならない
技術も何もない、ただ振りかぶって力一杯振り下ろすだけの単純な一撃を、セレナは左手に持ったカイトシールドで受け流した。
自分の力を殺し切れずに体勢を崩した敵に彼女は容赦なく戦棍の一撃を見舞った。
狙い通りに後頭部に突き刺さった一撃は、またしてもゴブリンに致命的打撃を見舞って終了した。
「次!!」
そうしてまたしてもやってきた憐れな挑戦者(チャレンジャー)を数秒の攻防で叩き殺す。
決して広いとは言えない結界内はまたしてもゴブリンの死体で足場が狭くなった。
ゴブリンは彼女のレベルからすれば殆ど雑魚もいいところである、だがそれが数十匹にも及ぶ大集団となれば話は別だ。
こうして強制的に一対一の形に持って行ったとしても、徐々に疲労は蓄積する。魔法の力も無限ではない。倒せば倒すだけ足場は死体で狭くなり、返り血で全身はずぶ濡れになり、内臓や脳漿や肉片が武器と言わず鎧と言わずこびり付く。
この戦闘は結界の外で自慢の騎馬戦術を駆使して敵を薙ぎ倒しているはずのサー・アロンソが、どれだけ迅速に敵を倒せるかに掛かっていた。
「次!!」
今度のゴブリンはナイフを棒の先端に括りつけた手製らしい手槍を持って襲いかかってきた。
それを両手に握って突進する様は、まるで帝国槍歩兵の突撃のようである。
が、屈強な軍団兵と比べればその威力も圧力もお話にならない。
軽く盾で弾いてやろうと足を捌いたセレナは、連続した戦闘で溜まった疲労のせいか、さっき殺したばかりのゴブリンに躓いた。
「しまっ!」
「ギェェェェェ!!」
「ぐっ」
――――《決闘の結界》心得 チャンピオンはチャレンジャーから逃げてはならない
体勢を崩したセレナは瞬時に盾の防御を捨てた。
だが、避けるわけには行かない。
チャンピオンは常にチャレンジャーと向き合わねばならないのだ。
セレナはとっさに右手の盾を捨てると、勢い良く突き出された槍の穂先をむんずと掴んで止めた。そしてそれだけに飽き足らず彼女は渾身の力を込めてその穂先をボキりと折りとった。
「ゲッ!?」
「今度から柄も鉄製の槍にしなさい」
今や単にささくれだった木の棒と化したそれを持ったまま呆然とするゴブリンの脳天に戦棍をお見舞いする。
「……今度なんて、ありはしないけれどね」
地面に落ちた盾を拾いながら彼女はそうひとりごちた。
また、彼女と挑戦者だけに聞こえる鐘の音が響く。
そうして今度やって来たのは標準的なゴブリンの1.5倍は身長があるホブゴブリンだった。
小癪なことにややチグハグではあるが鉄と革で作られた鎧を身に付け、いかにも硬そうな木製の盾と使い込まれたウォーハンマーを装備していた。おそらく冒険者から掠奪した物であろうことは、その無理矢理身体に合わせた改造からして推測がつく。
だが、まるでお誂えたようにぴったりと頭部にはまった鉄製の兜を見て、セレナは思わず舌打ちを漏らした。
さっきまでの敵はどいつもこいつも頭部の守りがお粗末過ぎたため、あのように一撃で沈めてこれたのだ。
だが相手が鉄兜をかぶっているとなるとそうも行かない。それにそもそも頭部という狙い難い場所に何度もクリティカルヒットを見舞えていたのは、標準的なゴブリンの身長が彼女とそう変わらないからだった。
しかしこれがホブゴブリンとなると、先程までのように気軽に頭部という一番の急所を狙うことは出来ない。
「グァァァァア!!」
「……来なさいっ」
大きく振りかぶって、力一杯振り下ろす。
身体が大きくなっても脳味噌の容量までは大きくならなかったのか、その攻撃方法はいっそ清々しいほどまでに普通のゴブリンと変わらない。
だが、その膂力と一撃の重さは流石に違った。
「ぐっっうっ!」
ガァンとまるで大人数用の寸胴鍋を思い切り叩いたような大音量と共に、思わず目の前が白くなるかと思うような「本物」の火花が散った。
素早く反撃に移ろうとして、彼女はそれを断念せざるをえなかった。敵はハンマーで殴りかかったすぐ後に左手の盾で殴りかかってきたのである。
がつりと衝突音が響く。
かすかに砕かれた木片が周囲を舞い、馬鹿力を無理やり受け流したせいで盾を持つ右手がジンジンと痛んだ。
休息を訴える身体の悲鳴を無視して戦棍で打ちかかると、今度は素早くかざされた盾に一撃を阻まれた。
更に木くずを周囲に撒き散らしただけで彼女の攻撃は無駄に終わり、一瞬の隙をついて敵が更に戦槌の一撃を見舞ってくる。
「なっ!?」
思わず驚愕の声を上げながら大地に重心を落として敵の攻撃を「正面」から弾く。
彼女は心の底から驚いていた、何故なら盾で殴られる寸前まで確かに敵の武器は体の外側に大きく泳いでいたはず。
そのまま攻撃するならば再度振りかぶっての一撃が飛んでくるとばかり思っていた彼女の予想は完全に外れた。
敵のホブゴブリンは盾殴りでセレナの視界を塞いだ瞬間に、戦槌をその後ろに隠して「まっすぐ突き出した」のだ。
驚くべきはその巧みな戦い方。
恐らくは最初の一撃もこちらを油断させるための物だったと考えて間違いない。
「こいつっ、強い!」
「ギゥッ……」
目の前の相手が単なる獲物ではなく「倒すべき敵」であると認識した瞬間、彼女の心の中に闘志という名の炎が燃え上がった。
それは何年も前に置き忘れてきたものだった。いや、置き忘れたのではない、置き去りにしてきたのだ。彼女がまだ「巡回司祭セレナ」ではなく「異端審問官《鉄槌》のセレスティアナ」であった最後の日に、何もかもを置き去りにして、耳を塞ぎ、目をつむり、ただ自責と自傷の中に――あの炎と煙の中に置き去りにしてきたものだった。
ただのセレナになってから、彼女は前線でこうして戦ったことなど殆どなかった。バラッドとマーチという純粋戦士が二人もいる上、いざとなればスケルツォも十分戦えたからだ。彼女はただ後ろに引いて援護に努めていればそれで良かった。
そうして戦わなければ――この手で敵の生命を奪う感触さえなければ、全てを忘れて――忘れた気になっていられた。
だが、今この場にはそのうちの誰もいない。盾となって敵の攻撃を一身に受け止めるバラッドも、その鋭い反射神経を駆使して敵を翻弄するマーチも、鋭いナイフを敵の心臓に突き立てるスケルツォも、だれもいない。
いるのは、自分と敵。
ただその二人だけ。
昔はなんということはなかった。異端審問官は孤独な職だ、そもそもその数が少ない。単身辺境の村に赴いては本当にいるかどうかも分からない闇の化け物を探し、見つからなければまた次へ……。
時には一体多数の戦いを強いられるようなときもあった。
時には強大な悪魔と一騎打ちに及んだことすらあった。
時には恐ろしく狡猾に人心を操る人に化けた悪魔を殺した事すらあった。
ずきりと、彼女の古傷が痛んだ。
悪魔につけられた傷は、とっくに癒えたにも関わらず彼女に幻痛を引き起こした。それが悪魔によって傷つけられた者の宿命なのか、それとも彼女の心に今なお残る傷跡から血が流れているのか、彼女には分からなかった。
セレナは魔力を全身に巡らせて気力を漲らせた。
ディバインナイト(神殿騎士)としての初歩の初歩、魔力を使って全身の肉体・感覚能力を強化する《フィジカル・エンチャント》の魔法を惜しみなく使う。
左足は後ろに引いて、右足は前に出す。右手の盾は体の前面に保持して半身となった身体を守る。
明らかに目つきの変わった彼女を眼前に、名も知らぬホブゴブリンの戦士は獰猛に牙を剥き出して笑った。
やっと本気を出したか、そう言われたような気がして、彼女もうっすらと笑った。
「主よ……御見守り下さい」
ほんの一瞬だけ神に祈りを捧げる。
祈りに答えを期待してはならない。
特に彼女は人一倍期待していない。
なぜならば彼女は罪深き者だから。
神は背信者を許さない。
そして、たとい神が――この世の全てのモノが彼女を許したとしても、彼女は自分自身を許さない。
「うぁぁぁあああああ!」
「ガァァァァアアアァ!」
裂帛の気合と共に戦棍を振り下ろすと、敵も全く同じように戦槌を振り下ろした。
衝撃音と飛び散る火花を物ともせずに彼女はその勢いを寸毫も緩ませないまま突進した。今や鉄の弾丸となった彼女は全身を使って、鋼と革に覆われたホブゴブリンの胴体に突っ込んだ。
チャージ(突進)戦法とは、基本的に体格の大きな相手が同格もしくは格下の体格の相手に使う戦法である。
間違っても小さな体格の者が自分以上の相手に使っていいものではない。下手をすれば一気に劣勢になる危険すらある。
だが、セレナがその小柄な身体に詰め込まれた恐ろしいまでの突撃衝力を解き放つと定説は覆された。
「ガァッ!?」
「ハァアア!」
果たして、地響きを立てながら後退したのは圧倒的に体格が優っているはずのホブゴブリンの方であった。
驚愕に息を飲んだホブゴブリンはとっさに盾を構えるものの、明らかに崩れた体勢からの無理のある動作である。そしてセレナはそんな隙を見逃すほど甘くはなかった。
息もつかせぬほどの連打を敵に見舞う。
極限まで高められた身体能力と感覚機能は、彼女の戦闘能力を跳ね上げていた。
いつの間にか、彼女の口には獰猛な笑みが浮かび始めていた。
かつての彼女の世界は全てが単純だった。世界には彼女と、神と、それ以外しかいない。
そしてそれ以外の中にいる「悪」を彼女は見つけ出し、容赦なく叩き潰すのが使命だった。
「悪」とはなにか? そして「正義」とは?
そんな疑問など一瞬たりとも抱いたことがなかった。
全ては単純だった。
単純だったのだ、あの日までは。
彼女が黒いベレー帽を脱ぎ捨てた、あの日までは。
「主よ!」
胸の中から真っ黒いものが這い上がってくる。
ヘドロのような、羽虫の大群のような、あるいは――まるで永遠に消えないと言われる地獄の黒い炎のような。
「主よ! 願わくば!」
唸り声を上げながらホブゴブリンが戦槌を横殴りにしてくる。
もはや盾で防ぐことすらしない。
彼女は戦槌のハンマーヘッドが身体を捉える前に前進した。
前へ、もっと前へ!!
「願わくば! その光り輝く御手を憐れにも罪咎にまみれた魂に差し伸べて下さい!! 主よ!」
真っ黒の炎の中から、彼女を呼ぶ声がする。
セレナ、セレナ、ビショップ・セレナ、熱い、熱いのです、助けてください、どうかお願いします。
違う、そんなはずはない、悪魔め、正体を表しなさい。
熱い、アツイ、あつい……セレナ、セレナ、助けてください、嗚呼、どうか、子どもたちだけでも許してください。
下手な芝居はよしなさい、私にはわかっている、お前は子どもたちのことなどなんとも思っていない、悪魔め、人の皮を被った地獄の悪鬼めが!
戦槌の金属で作られた柄が彼女の脇腹を痛打する。だが、彼女は前進した。
「ッ! 主よ! 暗黒の淵に沈んだ傷つきし者を癒して下さい! 凍えし者には温もりを、乾きし者には慈雨を!」
黒い炎は更に燃え上がった。声は更に近く、鮮明になる。
嗚呼、主よ、主よ、これが報いなのでしょうか? 分かっていました、アレは配下の裏切りなど許さない、しかし、しかし私は主の威光にふれて、蒙を啓いたのです、しかし、所詮悪魔には無理な願いだったのでしょうか? 思い上がった行動だったのでしょうか? 所詮悪魔に愛を理解する事など不可能だったのでしょうか? 誰かを愛する事など出来ないのでしょうか? 主よ、お答え下さい、主よ。
な、なにを……!?
ああ、セレナ、ビショップ・セレナ、どうか、あの子たちには何も言わないで下さい、あの子たちは何も知らないのです。わたしがこのような暗黒の世界に生きる眷属など、何も知りはしないのです、どうか、どうか!
は、放しなさいッ! 汚らわしい悪魔めッ! 私を堕落させるつもりかッ! 放せ! この――悪魔がッ!!
ホブゴブリンは盾を捨てた。両手に構えた戦槌は凄まじい威力でもって彼女を打ち据える。
「主よ! 正しき者に祝福を! 違えしものには道を! 悪しき者には――」
全身の力を目一杯引き出す。
まるで、そうして心の中の黒い膿をぬぐい取ろとするかのように。
だが、皮肉なことに彼女が力を振り絞れば振り絞るほど、黒い炎は黒々と吹き出した。
おとーさん?
ッ!?
く、るな……に、げ……
お、とーさん……? え、な、んで、セレナさん
………………主よ…………
なん、で、お父さんが血まみれに、なってるの? ねぇ、セレナさん、な、治してよ、いつもみたいに、魔法で! ……なんで? なんで、黙ってんの? ねぇ!?
……主よ、今貴方の御下に憐れな魂が向かうでしょう、願わくばその光滴る御手でその罪咎を清め、永遠の安息を――
こ、答えてよ……私の質問に、答えてよぉ!!
逃げろ!!
ッ!? まだ、こんな力が……! このっ!
お父さん!!
来るなぁああ!
ぎちりと、噛み締めた奥歯から血が滴る。
彼女も盾を捨てた。
この後も戦いは続くはずだった、全力を振り絞るなど愚の骨頂だった。
だが、彼女はその一撃に全てを注ぎ込んだ。
「次」など、今の彼女にはどうでも良かった。
「悪しき者にはっ! どうか! 愛と赦しを御与え下さいッ!!」
振り下ろされた鉄塊が彼女の背後で地面を砕く音を聞きながら、セレナの渾身の一撃は驚愕に目を見張ったホブゴブリンの胸に叩き込まれた。
ビショップ・セレスティアナ。君の異端審問官としての官位を剥奪する。
…………はい
それと共に降格処分が下った、君の身分は巡回司祭となる。……少々派手にやりすぎたな。
…………はい
……何故、自分はまだ生きているのかと問いたげだな?
なぜ、ですか
ならば教えてやろう、君の見立て通りあの男は悪魔だった。まさか我々も光輝教会の敬虔な神父が悪魔などと思いもしなかった。よくぞ見破ったな、プリーステス・セレスティアナ。我々があと一歩遅れていたら君は死んでいたかもな。
こどもは……
ああ、あれか。君が寝ている間に焼いたよ
な、んですって……?
火刑だ。冒涜された教会ごと灰にしたよ。やたら数がいて梃子摺ったが、なぁにまだ悪魔の種子が芽生える前だ、そう難しいことでもなかったよ。
あ、《悪魔感知》はッ! ほんとうに、あの子どもたちは――
残念ながら、あの神父に化けていた悪魔が悪魔感知の魔法に反応しなかった以上、その種子を植え付けられた「子供」もまた反応しないであろうという結論に達した。……ざっと16体か、流石の戦果だな、ビショップ……いや、プリーステス。
う……あ……
そう気を落とすな、確かに少々やりすぎたためこのような残念な結果になったが、なあに教会内部ではむしろ君を賞賛する声のほうが多い。そうだな、人の噂も七十五日というからな、その2倍もあればいいだろう、少々長めの休みと思いたまえ。帰って来た時にはすぐに昇格しよう。あの村の小煩い連中もそれだけたてば町外れの神父のことなど忘れてしまうだろうさ。さ、今回の働きに対する報酬だ、受け取りなさい。
こんな……もの……
うん?
こんなもの……ッ!!
……なんだ、新しい任務が欲しいのか? まったく……噂に違わぬ信心深さだ。そんなに次の敵を殺したいのかね? それとも16匹も悪魔を始末出来たというのにまだ物足りないのかね? やれやれ、こっちは歯ごたえの無い餓鬼をふんじばって焼き殺しただけでへとへとだというのに、まったくそのアグレッシブさには脱帽――――
貴様ァッ!
そこから先は、彼女の記憶も曖昧模糊としてよく分からない。
ただ、気がついた時には足元に血達磨になった教皇庁の監察官がボロ雑巾のように転がり、同僚たちが彼女の両脇を抱えて拘束しており、目の前には憤怒と悲しみに彩られたジュスタン枢機卿が仁王立ちしていた。
枢機卿は一報を聞いて動けるだけの異端審問官を引き連れてやってきていた。
異端審問官は一見して常人に見える者の中にいる異端を見付け出すことに長けている。ジュスタン枢機卿をも含めた彼等の力を持ってすれば、或いは子どもたちの潔白を証明出来たかもしれなかった。
だが、全ては遅かった。
何もかも、遅きに失した。
彼女はその日、黒いベレー帽を脱いだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「主よ…………」
全身が指先も動かせぬほどの倦怠感に包まれていた。
強制的に感覚器官を強化した反動で、目も耳も鼻もろくに利かない。
ようよう開けた薄目の中で、なにもかもがぼんやりと滲んだ世界が広がっている。まるで水彩画にバケツ一杯の水をぶちまけたような世界の中で、何かが彼女を覗き込んでいた。
彼女はとっさにここが死後の世界だと思い込んだ。あの状況で奇跡的に助かるなどということが起こり得るほど、彼女は神の恩寵に与っている自覚はなかった。
「主よ……私は……間違っていたのでしょうか……」
「――――――」
「あの神父が、悪魔だと知った時、何も知らない振りをすれば……? それとも、堕落の危険を顧みずに、対話をすれば……? それとも、枢機卿たちの到着を待てば……?」
「――――」
「教えてください……主よ、わたしは……」
覗き込んでいた影は明らかに狼狽した様子で何かを言っていたが、彼女には聞こえなかった。
彼女は更に呼びかけた、主よ、主よ、教えてください……。
次の瞬間、まるで薄布がかかったかのような感覚が瞬時に剥ぎ取られ、まるで裸足で氷原に立っているような霊験とした空気が彼女を覆った。
影は今や何の狼狽も見せず、ただ正面からじっと彼女を見つめていた。
「テファレスに仕えし大地の民よ、その問は汝の奉じる神へするが良い。我は汝の神ではない」
光輝神ではない! 別の神だ!
人違いならぬ神違いに、彼女は畏怖の思いとともに謝罪した。
「申し訳、ありません。ただ、主は……光輝神は、何も答えてくださらない」
「違うな。ただ汝が聞こうとしておらぬだけだ。また、その問に意味が無いからでもある。間違っているのか汝は問うたな? その問は意味がない。何故なら汝は自分自身で「間違っていた」と結論しているからだ。とっくに答えが出ている質問をしても滑稽である。汝がすべき問は「間違っていたのか」ではない」
「では……では、なんでしょうか。私は主になんと問いかければ……」
思わず漏れたその言葉に、影は笑った。
「何故我が汝の問い掛けを知っていると思うのだ? ましてやそれを示唆出来るなど?」
「それ、は……」
確かに、その通りであった。
なんと質問すればいいのか教えてください、などと、余りに馬鹿げた質問ではないか。
主との対話は誰でもない自分自身と神という完全な二者間でのみなされるのだ、そこに他の人間や神の入り込む余地など無い。
だが、だが私は……。
悲壮な顔つきで黙り込んだセレナをじっと見つめていた影は、やや躊躇いがちに口を開いた。
「…………汝は恐れている、テファレスに問いかけ、赦されてしまう事を恐れている。奴は慈悲深い、きっとお前を赦すだろう。赦されるのが怖いのか? そうだな、大地の民よ」
「……はい、私は、恐ろしい」
「だが、そこで立ち止まってはいけない。停滞は、やがて変化を拒むようになる。問いかけよ、汝が神に」
「しかし……」
「道に」
「……?」
「道に迷った時、誰かに問いかけることがそれ程までに恐怖をかきたてるか? それが汝のよく知った父にも等しい存在だとしても?」
「……道に、迷った時……」
「問いかけよ、さらば教えられん。門を叩け、さらば開かれん」
「……求めよ、さらば与えられん…………」
「恐れるな、委ねよ、問いかけよ、そして、最後には汝自身で決めるのだ」
「……」
セレナは大きく溜息を付いた。
それと同時全身に張っていた緊張感が抜け落ちて行くのが分かった。
「しばしの休息をとるがいい。起きた頃には世界はまた回り始めるだろう」
「名も知らぬ神よ…………何故…………」
そこから先は言葉にならず、彼女は疲労に伴なう微睡みに落ちていった。
全てが暗闇に包まれる寸前、彼女は赤い尼僧服に身を包んだ人影を見たような気がした……。