「ああ畜生」
太っちょのカミンスキーが苛立たしげに特殊強化硝子の嵌まった窓を叩いた。
右手に持った紙カップから珈琲がこぼれるが、本人はお構い無しに窓の外の光景に悪態をついた。
そしてやや大げさに振り返ると、雑誌を読みながらくつろぐアダムスキーを見ながら窓の向こうを指差す。
「おお、お、おいみみ見ろよ、こっこれ!」
やせっぽちのアダムスキーはその特徴的などもり言葉を聞いて、興味なさ気に視線をそちらに向けてから「見たぞ」とだけ言った。
「み「見たぞ」? ほほ、ほかに、も、もっとあ、あるだろうが、言うことが」
アダムスキーは休憩室の安っぽいパイプ椅子に座りながらひょいと肩を竦めて雑誌に目を落とした。
彼が会話を面倒がっているのはそれだけで一目瞭然であるが、律儀にも言葉を返した。
「ないね、べつに。一体何がそんなに気に入らない?」
「こ、ここ、これだ!」
そう言って、カミンスキーは硝子の向こうに広がる一面の銀世界を指差した。
窓のすぐ下までギッシリと雪に覆われた世界は、それでもまだ足りないとでも言うように続々と新たな雪を空から降らせている真っ最中である。
ちなみにこの休憩室は二階にあった。
「お、おお、俺はな、こういうクソッタレたけけ、景色を見ずにすす、すむからって、だからこんな地球のうう裏側まできたってんだ。な、なのにここっこ、こりゃ一体なんだクソ! も、もうここ、この白い悪魔共とはええええ、縁を切ったはずだろ!」
「奴さんはお前や俺が大好きみたいだな。なんにせよ好かれるのはいいことだろう」
「ほほ本気で言ってやがるのか」
「ぐちゃぐちゃ言うなよ」
アダムスキーはうんざりした様な視線を窓の外とカミンスキーに向けた。
「抱き合って暖を取る必要が無いだけましだろう。嫌なら見るなよ」
そう言ってテーブルの上のリモコンを操作すると、硝子は一瞬にして曇って外が見えなくなった。
「そら、座ってろよカミンスキー。ドーナツでも食ってろ」
「おおお俺に命令するな、アダムスキー」
どすどすと足音を立ててテーブルに歩み寄ったカミンスキーは乱暴に椅子に座って、そして憤懣やるかたないといった顔で彼女を見た。
「ききき教授、俺たち地下施設のけけけ警備にまわしてくれませんかね? せ、せせせめてこのクソッタレの季節だけ」
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「見てくださいよこれ! 素晴らしい出来じゃないですか?」
そう言ってリッチェンスは椅子ごと横にどいて画面を見せた。
覗き込んだ斉藤と彼女は画面上のそれを見て思わず感嘆に唸った。
「ヒュウ! ナノマシンと同期させるのか? 見ろよこれ、外じゃあ絶対認可下りないぜこんなOS」
「倫理委員会が黙っていないでしょうね」
「β版でこれか。完成したら一体どうなる事やら」
「流石よ、リッチェンス博士。今度の査定では口添えしておくわ」
その言葉にリッチェンスは鼻腔を広げて得意げな顔をしたが「私だけでは到底無理でした、ラードルフ博士に大いに助けていただきましたので」と同僚をさり気無く立たせる事も忘れなかった。
「ラードルフ博士か……あの人がいてくれて本当に良かったな」
「ええ、今度私から直接御礼を言いに行きましょう」
ナノマシン研究界の権威であるラードルフ博士はこの研究施設内での最年長者であるという事もあり、研究者全員から一目置かれる存在である。また、彼の功績をその欠片でも知る者ならば自然と頭が下がるような経歴の持ち主でもあった。
「ところでプロフェッサー、そちらの進捗はどうです?」
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「なんて事……」
彼女は思わずモニターの前でそう呟いた。
その顔面はただでさえ不健康そうであるというのに、今ではより一層その危うさに拍車がかかっていた。
もとより血の気の薄い顔はまるで蝋人形のように青白くなり、今にも倒れそうなほどだ。
彼女の右手の人差し指はまるでそれ自体が意思を持っているかのようにキーボードの上を滑ると、デリートキーの上でピタリと止まった。よく見ればカタカタと小刻みに震えているのが分かる。
彼女は怯えていた、自分の弾き出した答えに。寝る間も惜しんで手に入れた答えは、どうしようもなく残酷な事実を彼女の目に付きつけた。
「おいーす」
「!」
突然部屋に入って来た斎藤の姿に心臓が止まるほど驚きながら、彼女は何食わぬ顔でファイルを切り替えた。
切り替わった画面に映っているのは特に真新しい事も無いニュース映像で、キャスターが某無法国家で行われているPKFと現地軍との壮絶な武力衝突を報じていた。
「ノックくらいしたらどうなの?」
「まあまあ、日本人には元々ノックの習慣は無い事だし」
「ここは日本じゃないわ。ローマに来たならローマ人のようにしなさい」
「そりゃどうもすいませんね。それにこの扉じゃノックしてもあまり意味がないような気がするけど」
「じゃあインターフォンを使いなさい」
いつもの様に会話をしながら、彼女は過去にこの部屋へ彼が入室できるようにセキュリティを変更した事を呪った。
画面に表示されている内容こそ変更したものの、そんなものはちょっと触れればすぐにまた変更できる。
今にも彼がひょいとデスクを跨いできて「なんだこれ」とでも言ってこれを見てしまわないかと、彼女は平静な外面の中で張り裂けるほど心臓を高鳴らせていた。
「ああそうそう、実はこの間いい豆が入ったのよ。どう?」
「おお! 薫さんがわざわざ「いい」何て言うからにはよっぽどだな。是非お願いします」
「ええ、ちょっと待っててね」
彼が手近なソファに座ったのを確認してから、不自然に見えないほどのさり気無さで彼女は件のファイルに厳重なプロテクトをかけてその場を離れた。
「ブラックでいいわよね?」
「えーと……」
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「その、非常に言いにくい事なのだがね……」
そう言って、選考委員長は決まり悪げにその薄い頭髪を撫でた。
「プロフェッサー・タチバナ、君の受賞なのだが……その、随分先の事になりそうなのだ。わかるだろ? つまり、順番というものがある。悪い言い方だが、現在受賞を待っている人々の中には、その、なんというか……」
「老い先短い?」
その直裁的な物言いに彼はギョッとした顔をして、部屋の中には二人以外誰もいないにもかかわらずキョトキョトと周囲を見回した。
「あ、ああ、まあ、そういう事だ。幸い、君はまだまだ若い。少々受賞が遅れるくらいかまわんだろう。いや、むしろそれだけ若いうちから受賞してしまってはおかしな注目が集まってしまう。やはりここは、まだ身軽なうちに色々としておくべき事があるのではないかね? やはり、最年少受賞となるとマスコミが五月蝿いからな」
その勝手な言い分に彼女は内心苦笑を漏らした。マスコミが五月蝿いくらい一体なんだと言うのだろう、どうせ彼らは彼女の研究内容の万分の一も理解出来ない。散々騒いだ後はコロッと興味を失うはずだ。
そうすれば後は好きなように研究が出来る。
だと言うのに彼が随分遠まわしに選考の遅れを――或いは自発的な辞退を勧めて――報せてくるのは、恐らく彼自身も後ろめたく思っているか、或いは本当に悪いと思っているのかどちらかであろう。
本当の事情を隠しながら何とか納得して貰おうという涙ぐましい努力であったが、生憎と彼女は自分自身が「若すぎる」という理由と「東洋人」だという二つの理由で選考が遅れていることをある筋から聞いて知っていた。
「……分かりました。本来ならば選考内容をこうやって漏らして下さること自体が異例の事だと理解しています。私は別にそれほど急いでいるわけではありませんので、受賞が数年――或いは十数年遅れても仕方の無い事だと思っておきます」
その言葉に、彼はあからさまにホッとした様子で頷いた。
「よかった、それを聞いて安心した。ああ、ところで」
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「嬢ちゃん、さっきからなに読んどるんや?」
「えっ」
「なに読んどるんやって」
「え、えっと……」
突然話しかけられた彼女は、顔全体で「びっくりした」という表情を作ったまま分厚いハードカバーから目を上げた。
平日の図書館は大量の本独特の香りと静謐な静けさに包まれていた……少なくともついさっきまでは。
自習スペースに座って高次元世界間における素粒子移動現象を紐解きながら、偉大なるリサ・ランドール博士の偉業に心躍らせていた所を突然現実の世界に引き戻された彼女は、いつも両親から言われている「知らない人から話しかけられても返事をしちゃいけません」という言葉をすっかり忘れていた。
「こ、これ。です」
「……」
彼女が差し出した分厚い専門書を、突然話し掛けてきた男はまるで「イギリス人だと思って話しかけたらインド人だった」とでもいうよな顔で眺め見た。
男は痩せ型でひょろりと背が高く、彼女にとってはテレビの中でしか聞いた事の無い、馴染みの薄い方言で話していた。
身に着けているスーツはまるで繁華街のポン引きかホストのように着崩し、焦げ茶色の髪の毛はまるで馬の尻尾のように頭の後ろから肩越しに前まで垂れていた。
それまで両目を覆っていたレイバンのサングラスを外すと、その下からは見開いた本を薮睨みする大きな三白眼が現れた。
見れば見るほど怪しい風体の男である。
少なくとも、平日の図書館で楽しく過ごすような人物には到底見えなかった。
「あかん、さっぱり分からん。嬢ちゃんホンマにこれ分かるんか?」
「は、半分くらいしか」
「半分も!」
男は「ひえー」とやや大げさに驚いて見せた。
「いーつも楽しそうになに読んどるんやろ思とったら、こんな小難しい本やったんかい。四六時中こんなもん読んでて頭疲れんか?」
「えっと……あんまり」
「小説とか読まんのか?」
「あんまり……」
実際は「全く」であったが、彼女は少し控えめに答えた。
男は彼女の答えにまたしても驚くと「そらあかん、あかんで。あきまへん」と一人でブツブツ呟くと、足元に置いていた鞄から一冊の分厚いハードカバーを取り出した。
「これ、貸したるさかい。いっぺん読んでみ」
「え……これは?」
「おう、それはな――」
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「かけたまえ」
そう言われて、彼女は目の前の使い込まれたアンティークの椅子に腰掛けた。
そこはただ白い世界が延々と続く異様な空間で、彼女はぼんやりと四方に伸び続ける果ての無い世界を眺めた。
この広大無辺の世界に存在するのは彼女と椅子と、そして彼女の目の前に同じようにして腰掛ける異形のみ。
異形は裾が鈎裂きになった禍々しく尖ったデザインのローブを身に纏い、その右腰にはどこかで見た覚えのある細剣が鞘に納まっていた。そして左腰には異形の手をデザインした長さ1ftほどの魔法の杖が吊るされていた。
異形は怪しく緑色に光る両目で彼女をじっくりと見ると、常人ならば鼻があるべき所から顎にかけてまでを覆う触手状をした数本の口吻を揺らして「しゅるしゅる」と特徴的な音を立てた。
「随分と酷く断片化現象を起こしたようだな。わしが誰だか分かるか?」
「……誰でしょう。もう少しで思い出しそうで、思い出せません」
「ふむ……では、自分が何者かは分かっているか?」
「私は…………」
彼女は言葉につまり、両手で頭を抱えた。
「わたし……わたしは……」
「……」
「私は……橘……橘薫……」
「よろしい、どうやら漸くよちよち歩きは卒業出来たな。おめでとう」
そう言って異形は椅子から立ち上がり、後ろで手を組みながらこつりこつりと硬い靴音を立てて彼女の周りを歩き始めた。
硬い靴音? ここは地面があるのだろうか。
そんなふうにふと彼女が考えた瞬間、真っ白な空間がまるでパズルのピースを外していくかのようにバラバラと崩れ、その裏側から恐ろしく天井の高い書斎が現れた。
「おや」
そう言って、異形は目を細めながら彼女の正面に回りこむと、そっと使い古された執務机を撫でた。
その手つきには既に存在しない物を懐かしむ一種独特の寂寥感に包まれていた。
「わしの部屋だ。随分前に焼けてしまった」
「…………ここは、どこですか」
「クシュ=レルグ。我等混沌神殿に仕えるカオス・プリーストの聖地であり、また混沌の王国の王都でもある。……最も、今そこがどうなっているか、わしにも見当が付かぬが」
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。いや、飲み込んだ気になった。
これは現実ではない。だが、ただの夢でもない。
彼女は震える足を叱咤しながら立ち上がろうとして、そして気が付いた。
足がある。二本の足が!
「あ、ああっ」
「焦るな、プロフェッサー。わしならまずは落ち着く事にするな。そして然る後に目の前の相手に質問をするだろう。それが最良で、しなければいけない事でもある」
ごくりともう一度唾を飲み込み、何度か深呼吸をする。
質問の内容をじっくりと吟味しながら、彼女は異形に向かって口を開いた。
「あなたは、クトゥーチク司教と呼ばれる方ですか?」
「然り。しかし思い出したわけではないな」
「はい。あなたは私を知っている?」
「然り。人間風に言うなら「ずっと前から」知っている」
「どういう意味です?」
「この空間では時間はあってないようなもの。有ると言えば有る、無いと言えば無い。だがそなたがあくまで肉体の存在する顕界の時の流れで語りたいのであれば、わしはこの状態となってから体感で100と1年経っている」
彼女は今得た情報をしっかりと頭の中に刻み込んだ。
今はまだ分からない事だらけでも、いずれこの情報が役に立つ時が来る。そう彼女は確信していた。
そしてゆっくりと頭の中を整理して、彼女は漸く本題に入った。
「私は、帰れるのでしょうか? 或いは、元に戻れる?」
「後ろの質問は否だ。そして前者の質問はわしにも分からない」
「私はいったい何をすればいいのでしょう」
「その質問には答えられない」
彼女は眉根を寄せた。
そして慎重に問いかける。
「それは「分からない」という意味ですか?」
「否。答える事が出来ないのだ」
「では、分からないわけではない?」
「その質問にも答える訳にはいかない」
彼女はイライラしてきたが、漸くこの「ゲーム」の要旨が見えてきた。
つまり目の前の異形はある特定の質問に対しては答える事をしたくない……或いは何者かに禁止されている。
彼女はぺろりと唇を湿らせて、更に慎重に質問を繰り返した。
「あの世界は現実ですか?」
「現実という意味が「見て触れる物質的世界」という意味ならばそうだ」
「私は何故あんな世界にいるのですか?」
「その質問には答えられない」
「今いるこの空間は一体なんです?」
「ここは幽世界(Astral Plane)にほど近い狭間の空間だ」
「私は自らの意思によってあの世界にいる?」
「そうとも言えるし、第三者による恣意的結果とも言える」
「その第三者とは?」
「答える事は出来ない」
「断片化現象とは?」
「世界を移動する際に、おぬしの方法では魂とその情報が断片化(フラグメンテーション)を起こすと言うのが問題点であった」
彼女は思わず喉から出かかった言葉を飲み込んだ。
異形は先程までとは違いそのまま言葉を続けたからだ。
「いかな屈強な生物であろうとも、その魂が四分五裂してしまっては生きる事など適わない。そこでおぬしはその現象を上手く収める為の方法を編み出した……既に、思い出したのだろう?」
「……」
彼女は酸欠になった魚のように喘ぐと、奥歯を噛み締めながら言葉を紡いだ。
自ら考え出しておきながら、そのあまりの非人道的方法に血の気が引いたその方法を。
「その生物を基底現実に縛り付ける為には、どうしてもその世界の生物が持っている遺伝情報が必要だった。……遺伝子に「魂」の情報が刻み込まれていると認めるのは癪だったけど、一度認めてしまえば話は簡単だった。私は……私は……」
ぐっと血の気が引くほど拳を握り締める。
「世界間移動と同時にその世界の生物と素粒子レベルから同期することにより、基底現実に繋ぎ留める為の錨にした。融合元の生物が持つ「魂」が、「世界を騙す」の」
「然り。おぬしは見事に世界を騙した。だが、結局死なぬ代わりにその魂に刻み込まれていた情報は断片化し、この擬似幽世界に散らばった」
「何故? あの理論ならば融合と同時に魂は完全な形を保ったはず」
「プロフェッサー、あの理論にはひとつ大きな落とし穴があった」
「それは?」
異形はあのやけに耳に残る「しゅるしゅる」という音を立てた。
どうやら、それは笑っているらしい。
「融合先の生物によって魂の強度は千差万別だ。わしはおぬしがやって来るのを知っていた。進んでわしの身体を明け渡した。だが、おぬしはそれでもなお融合時の衝撃に耐え切れず、魂の情報は四散した。わしの魂の強大さに耐え切れずにな。わしが飛び散ったそれを集めねば、今頃おぬしは混沌の海に溶けて消えていただろう」
そこまで言って、異形は首を傾げながら口吻をしごいた。
「ふむ……混沌の海に溶ける……か。或いはそれも主の元へ近付く道のひとつかも知れぬが……生憎と今のわしにはそれを試す前にすべき事がある。残念だ」
「……出来ればその話は今度にしてください」
「そうしよう。さて、もう聞きたい事は無いか?」
「有りすぎて……どれを聞けばいいのか……」
「ふむ……」
異形は壁際の巨大な本棚に歩み寄ると、その中から一冊の本を抜き出した。
そして彼女の目の前に歩み寄ると、本の表紙を撫でながら語りかけた。
「おぬしは成すべき事がある。そしてその使命をこの場でわしが教える事はまかりならん。自ら考え、自ら思い出すのだ。世界は残酷で汚泥に満ちている、だがおぬしはそこでするべき事をやり遂げるまで休む事は出来ぬ。すべては定められた収束に向かって進んでいる、それは或いは破滅かも知れぬし更なる混沌かも知れぬ。それは分からぬ、それこそまさに主だけが知っている」
「……私は、もう人間には戻れないのですね。ミルクと紅茶を混ぜる事は出来る、でも、ミルクティーをミルクと紅茶に戻す方法はない」
「流石、聡明であるな」
「皮肉ですか?」
「まさか。わしは本気で言っている」
そう言って、彼はひょいと彼女に向かって本を投げ渡した。
慌てて受け取ろうとしたその本は、彼女の両手をすり抜けて胸の中心に溶けて消えた。
「わしが保管していた断片のひとつだ。狂気の波が多少は収まるだろう」
「……出来れば」
「うん?」
「出来れば、ずっとあのまま狂気の世界に浸ったまま何も知らずにいられたら……」
異形は笑った。
しゅるしゅると。
「それは元より無理な話。おぬしは「学ぶもの」だ、いずれ知識の泉への欲求が頭をもたげただろう。さあ、もう時間だ。行きたまえ」
その言葉を契機に、またしても周囲の光景がばらばらと抜け落ちた。
今度はその向こうに何者をも吸い込む暗黒の空間がぽっかりと顔を覗かせる。
崩れ行く世界の中で、異形は彼女に背を向けながら「ああそうそう」と最後に付け加えた。
「あの銀狼とはあのまま親しくしておいた方がいい。あれはイレギュラーだが、プラスになる」
一体どういう事かと問いかけようとして、彼女は声がでない事に気が付いた。
それもそのはずだった、彼女の肺も、声帯も、とっくの昔になくなっていた。
確かめようとした右手が、目の前で虚空に溶けて消える。
「主の加護よ、汝にあれ(May God bless you)」
つぎはぎだらけの視界の中で、異形の右手がそっと机を撫でていた。
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クリスマス? ああ、キリストの誕生日がどうした?
仕事だよ畜生。