食事を終えてほど良い満腹感を味わいながら全員が上階に上がると、既に紅茶の用意をしていたカッサシオンが全員を書斎に通した。
重厚作りの本棚が壁一面にずらりと並んだその部屋に入って一番驚いたのはやはりセレナである。
マーチは既に知っていたのだが、セレナにとってカッサシオンとは最後に会った時のイメージのままであったので彼とハードカバーのいかにも高そうで難解そうな本の列と言う組み合わせがどうにも納得出来ず首を捻った。
ちなみにカオルは「おおー」と感心した声を上げながら勝手に本を抜き出そうとしたのをマーチに阻止されていた。
そうして全員が書斎の中央にあるデスクに付くと、開口一番にセレナが意外な言葉を言い放った。
「明日なんて悠長な事は言わないわ、今日中に出かけましょう」
「今から、ですか?」
「ええ、何か問題でもあるのかしら?」
そう言ってセレナはゆったりとした仕草で用意された紅茶に口をつけた。
彼女の言葉に思わず聞き返したカッサシオンは意外そうな顔で「ほう」と唸って顎を擦る。
「そうですね……問題としてあげるならばマーチが注文した物資がまだ届いていませんが」
「あなたが立て替えればいいでしょう? ロキシオーネ商会でも注目の有望株なんでしょう、それくらい簡単に手配出来るんじゃなくて?」
「まあ、出来るか否かと問われれば可能です」
そう言って彼は苦笑を浮かべながら右手の中指でくいっと眼鏡を押し上げた。
きらりと一瞬だけ眼鏡のフレームが光を反射して、眼鏡の位置を治した時には彼の両目は慎重に利益を計算する商人の目になっていた。
「ですが、今から用意するとなるとそれなりに入用ですよ。その分の差額は如何するつもりです?」
「それなら問題ないわ。今回の冒険での取り分は全部貴方に差し上げますから、それで立て替えて下さらないかしら」
「なんと、全部ですか」
「ええ、全部よ」
流石にカッサシオンも驚きを隠せず、少しの間呆然とする。
そしてその言葉に慌ててマーチが首を突っ込んだ。
「ちょちょ、ちょい待ち! そりゃルール違反だぜ、冒険で手に入れた財宝は一旦共有してから分配するのがセオリーだろうが」
「ええ、だからその分配に私は加わらないって言っているのよ……?」
「いや、だからそりゃ駄目だろ」
「どうして? 私は別に財宝が欲しくて参加したわけではないのよ、そんなにおかしいかしら」
「いや、だから、なんつーかよ……」
「どうしたの?」
困惑の顔でセレナが首を傾げる。
もしこれがセレナやマーチたちのパーティの共有財から出すと言えば確かにそれは問題だが、彼女が言っているのはこれからこの即興パーティで手に入れる財宝の事である。
それの分配に加わらないという事は他の三人の取り分が増えると言う事だ、普通は喜びこそすれ反対などあるはずもない。
どうして彼はこんなに慌てているのだろう?
マーチとカオルを除いた二人がそんな事を考えていると、マーチはもどかしそうな口調で話し始める。
「だからよ、俺が言いたいのはだな、これから俺たちは四人で命賭ける訳だ、なあ」
「……ええ、そうね」
「俺も、カッサシオンも、セレナも、この馬鹿だってその点じゃあ条件は変わらない、全員が命張ってるんだ」
「ええ」
「だから、だからよ、ええと、その、なんつーかそんな話じゃ不公平だろ、不自然だ。セレナだって命張ってんだから。手に入れた物貰わなきゃ、そりゃ嘘って話だろ。違うか?」
「……」
「……なんだよ、なんかおかしいかよ」
数瞬目を大きく見開いて息を呑む、そして彼女はゆっくりと息を吐き出しながら穏やかな笑みを浮かべる。
憮然とした顔で身を乗り出すマーチを見ながら、カッサシオンは目を伏せて口元を手で隠した。マーチからは見えないが、その口元は微笑に緩んでいる事がカオルとセレナには見て取れる。
そして、マーチの横でカオルは優しい笑顔を浮かべていた。
「な……なんだよ。なんか間違ってるかよ」
なにやら書斎に漂う微妙な空気に身じろぎした彼に、微笑を浮かべたセレナはゆっくりと頷いた。
「いいえ……全く。これっぽっちも間違っていないわ、マーチ」
「ええ、そうですね。確かにそんな話は嘘ですね……セレナさん、お代金は分配が終わってから改めてでよろしいでしょうか」
「ええ、そうしましょう」
「お、おい」
「あら、どうしたの?」
「あ、いや……」
何か言いたいけども何が言いたかったのか分からない、そんな様子で何度か口をパクパクした後にマーチは椅子に座りなおした。
ふと視線を巡らせると、隣に座ったカオルがニコニコと相変わらずの笑みを浮かべて彼の方を見ていた。
いつもと変わらない笑顔のはずなのに、何故か彼は大昔に母親から「えらいねー」と頭を撫でて褒められた時の事を思い出してしまい、なんとも言えず背中がむず痒い気持ちに襲われたのだった。
彼ら二人を抜きにしてセレナとカッサシオンは今回の冒険の日程や概要を説明している。
既に彼は知っていることであったが復習の意味も込めてそれに耳を傾けようとするが、ニコニコとこちらを見ながら笑みを浮かべるカオルが気になって集中できない。
「……なんだよ」
「ううん、なんでもないよ」
「じゃあこっち見んな、話を聞いてろよ」
「うん、そうする」
意外と簡単に言うことを聞くと、カオルは視線を卓上の地図に移した。
なんとなく気恥ずかしいような感覚がようやく無くなって、マーチはホッと一息を付いて自分も地図の上に視線を落とすのだった。
――――――――――――――――
「では、予定の方はこれで締めましょう。向こうに着いてからの行動をあれこれ考えても意味がありませんからね」
そう言ってカッサシオンが書類を束にしてトントンと端を揃えてから革の書類袋に入れる。
そうしているとまさにデスクワーク主体の人間にしか見えず、その変わり様にまたしてもセレナは溜息をついた。
時々「実は彼はカッサシオンの双子の兄である」という可能性が無いものかと本気で考えてしまうほど、以前の様子とは様変わりが激しい。
いや、これ以上これを考えてもしょうがない。やめやめ。そんな風に心の中で踏ん切りをつけると、彼女はぐっと伸びをした。
既に鎧の類は脱いでいたが、久しぶりに着込んだせいで肩がこっていた。
マーチはそんな彼女を横目で見ながら行儀悪く肘を突きながら紅茶を啜っている。
そしてふと何かに気が付くと、きょろきょろと周囲を見回した。
同時に音を探っているのか、その両耳も小刻みに動いている。
「なあ、カッサシオン。いつもいる奥さんと子供はどうした? あと召使い」
「ああ、彼女達なら帝都の方に旅行に出ていますよ」
「あ? お前は何でここにいるんだよ」
その問いに彼は「何を言っているのかね」とでも言いたげな顔で片手に持った書類袋を顔の前で振って見せた。
「これがあるからに決まっているでしょう」
「……ちなみに何て言って残ったんだ?」
「“非常に重要で緊急性の高い仕事がある”と」
「なるほど、家族サービスより迷宮探索が重要で緊急と」
「何か問題でも?」
「いいや、無いね! これっぽっちも!」
「そうでしょう?」
「奥さんと子供ほったらかしで迷宮もぐりか、この悪党が!」
「はは、そんなに褒めてもらっても何も出しませんよ」
はははは、わはははは、大人になり切れない男が二人、心底楽しそうに笑った。
そんな二人を見ながらセレナは大きく溜息をついて椅子にもたれかかり、カオルは悪戯好きの少年を見るような困った笑顔を浮かべた。
「さて、それでは善は急げです」
「おう、早速行くか!」
「ちょっと待ちなさい。私はもう準備出来てるけど、あなたたち二人は――いえ、マーチは装備をいくつか置いて来ているでしょう。私達はここで待っているからすぐに持ってきなさい」
「分かった」
急いで立ち上がった彼を見て「あっ」と声を上げて後に続こうとしたカオルだったが、座ったままのセレナに手を引かれてそのまま椅子に腰を下ろした。
その間に彼は書斎の扉を開け放して外に走り去って行った。
扉くらい閉めたまえとブツブツ愚痴を零しながらカッサシオンが立ち上がるのを横目に、セレナがカオルに話しかける。
「貴女は座ってなさい、すぐに帰ってくるわ」
「……うん」
若干しょんぼりした様子の彼女を見てセレナは「あらあら、随分と懐かれたものね」と微笑を浮かべた。
「さて、彼の事だ、本当にあっと言う間に戻ってくるでしょうから今のうちに着替えてきます。貴女方もどうぞこの部屋をお使いになってください」
「ありがとう」
「ムスカさんありがとう」
「私の名前は…………いえ、何でもありません。それではまた」
呆れたような溜息をついて、彼はドアを閉めた。
「さて、それじゃあ私はもう一度着替えるけど……貴女は――」
「カオルです」
「え?」
「カオルって言います。名前」
「あ、ああ、名前、思い出したの?」
「はい、今度からはそう呼んでください」
「ええ、そうするわね。これからよろしく、カオル」
「はい、宜しくお願いします」
ふわりと微笑を浮かべて、カオルは右手を差し出した。
セレナも笑みを浮かべ、その顔の下に困惑を隠して握手に応じた。
おかしい、彼女はこんなにはっきりとした話し方だっただろうか……?
膨れ上がる疑問に頭が一杯になったせいで、セレナは話しかけられた言葉を聞き逃した。
慌てて聞き返すと、やはりあるかなしかの微笑を浮かべながらカオルは繰り返した。
「鎧」
「えっ」
「鎧、取りに行かなくていいんですか?」
「あ、そう、ね。そう言えば居間に置いたままだったわ」
「私は持って来ましたから、すぐ着替えます」
「……ええ、じゃあ私は着替えを取ってくるわね」
「はい、行ってらっしゃい」
相変わらず、カオルは害のなさそうな笑顔を浮かべて手を振った。
なにやら得体の知れない恐怖感がセレナの背筋を舐めるようにして通り過ぎた。
さっき握手を交わした右手がじっとりと汗に濡れてびりびりと痺れる。
考えすぎだ……疲れているんだ……そんなふうに心の中で言い聞かせながら、セレナは半ば逃げ去るようにして書斎を後にした。
扉を閉める直前に見えたカオルは、やはり笑顔を浮かべて、手を振っていた……。
――――――――――――――――
ばたりと扉が閉まると、彼女の顔から一瞬にして笑みが消えた。
笑顔が消えた後に残ったのは、陰気で諦観染みた無表情だけ。
「ふん……」
一人残ったカオルは、書斎まで持ってきていた革製の鞄の中から例の改造尼僧服を取り出すと、両手に広げてためつすがめつした。
やがてその隅々まで調べ終わってから、彼女は呆れと感嘆の等分に混じった溜息をついてから苦笑を浮かべる。
「……いいセンスだわ。けど、どう考えたってこれから冒険にでるっていう時に着る服じゃないわね。何て言ったかしら……ええと、「コスプレイヤー」とか「ゴスロリ」とか言うんだっけ? ……ふふ、こんないい歳して着る服じゃない事は確かね」
クスクスと笑うと、殆ど何のてらいもなく服を脱ぎ捨てて尼僧服を身に着ける。
若干大きめの採寸であるが、彼女が身に纏った瞬間に魔法の生地がキュッと彼女の身体に合わせて引き締まった。
そうして床に脱ぎ捨てた服を拾い集め、チュニックを鞄に放り込み、続けてフロックコートを放り込もうとしてピタリと動きを止める。
「……」
若干の逡巡の後にそのままやはり放り込もうとして、そしてまた思い止まる。
まるで一生解けない哲学的問題を抱えた学者のように眉根を寄せると、彼女はフロックコートを尼僧服の上から羽織った。防寒目的としてもあまり意味は無い。尼僧服には外気を遮断する魔法もかかっている。
だが、彼女はまるでそれが神から与えられた至上の任務のような真剣さでコートを身に着けてボタンを留めた。
そして一度鞄に放り込んだチュニックを取り出すと、丁寧に畳み直してから鞄の底にそっと入れ直した。
そうして彼女は我に返ったように困惑の表情で髪をかき上げると、その髪の長さに漸く気が付いたような顔をして、鞄の中からバレッタを取り出してぞんざいに髪の毛を纏め上げた。
「やれやれ……どうなるやら。いえ、すでにどうにもならないのかしらね……」
彼女はスカートをめくって自分の変わり果てた「足」を見て虚ろな笑みを浮かべる。
その桜色をした唇から漏れる声は、いつもの能天気な明るさとはかけ離れた陰気な物だった。
彼女はゆっくりと本棚に近付くと、さっき抜き出そうとしてマーチに阻止された本をそっと抜き出した。
本のタイトルは『次元世界 召喚師の心得』
彼女はそれをパラパラと捲ってから、パタンと閉じて「ふむ」と頷いた。
「読めないわ」
とりあえず字を習おう。
そう密かに決意して彼女はその本をそっと鞄の中に潜ませたのだった。