やや慇懃無頼さが鳴りを潜めたカッサシオンといまだ怒り心頭といった様子のセレナが光輝教会を発ったちょうどその頃、マーチとカオルの二人は公都のマーケットストリートにやって来ていた。
ちょうど昼時も近い時刻という事もあってか、立ち並ぶ店の中でとくに食事所や食料品を扱っている店からは大きな声で客の呼び込みが引っ切り無しにがなり立てた。
食事にはあまり関係ない店であっても、この時間帯に現れる人込みの中からなんとしても上客を確保しようと、その呼び声は負けたものではない。
北の貧民窟の半ばから東にある職人街の終わりまでを貫くマーケットストリートは、文字通りその通りの両側に大小幾つもの店が立ち並んだ商店通である。
スラム側から歩き始めれば、その店の殆どはきちんと店舗を構えたものではなく吹けば飛ぶような露天やボロを無理矢理繋ぎ合わせたようなバラックの店舗が圧倒的に多く、そしてその道を職人街に進めば進むほど汚らしい露天の姿はなりを潜め、役所にきちんと許可を取った――スラムの住民曰く「お行儀のいい」店がズラリと立ち並ぶ。
スラム街に軒を連ねる店の数々ではその猥雑さが売りである。
いつ来ても喧しい呼び込みの声に、怪しげな商品を堂々と店先に並べる店主達。
恫喝ギリギリの値切り交渉や喧嘩沙汰など日常茶飯事であるが、その代わりに掘り出し物を見つけるか安い物を探し出すならスラム街の店舗が最も優れていた。
それとは逆に、役所に認可を取っている真っ当な店舗には極端に安い品も高い品も置いていない。安定した品質と安定した値段で商品が揃っている。
安さと掘り出し物を求めるならスラム街、品質と安全を求めるなら職人街。と言った風に、状況によって買い物先を選択するのが賢い公都民の常識であった。
さて、それなりにこの街に来て長いマーチも当然ながらこの流儀を実行していた。
取り敢えずは古着屋に向かって当面の服を用意するかとドアを一歩出た所で、はたと気がつく。
果たして、後ろの馬鹿を連れて近道(裏路地)を進んでいいものだろうか?
目的の古着屋には近道を通って10分程度、ゆっくり歩いても15分はあれば到着する。
しかし、相変わらず彼の横でニコニコと見るからに頭の緩そうな笑顔を浮かべた彼女を連れて、比較的治安の安定した場所であるとは言ってもスラムの裏路地を通ればどうなるだろう?
その場合起きるであろう数々の厄介ごとを頭の中で想像して、彼は即座に結論を下した。
うん、無理だな、と。
彼は予定を変更して方向を変え、マーケットストリートに直接合流する道を進んだ。
この時間帯は人出が多い、それを鑑みても恐らく最低20分はかかってしまうだろう。
しかし、裏路地を進んで厄介事を起こすよりもずっと早くて安全に進めるに違いない。
そんな風に、考えていたのだが……。
「さあさあそこのお嬢さん、こいつを見てってくださいな! つい先日仕入れたばかりの万能薬だよ! 風邪、腹痛、頭痛、歯痛から便秘に枯草熱まで、ありとあらゆる症状にピタリと効く万能薬だ。今日はなんとたったの500ディナールでのご奉仕ですよ!」
「へー、なんにでもきくの?」
「そうそうその通りです。こいつにかかれば治らない病気も治まらない痛みもない、まさに最高の霊薬ですよ! さあさあ手に取って見て下さいな」
「ふうん」
興味深そうな顔で何やらどろりと蛍光緑色の液体が詰まった小壜をカオルが手に取ると、それを見た商人は外面だけはまっとうな商人の顔をしてその裏側ではニヤニヤと薄ら笑いを浮かべていた。
当然ながら壜の中身は万能薬などではなくスライムの死体と沼地のヘドロを混ぜ合わせて作った真っ赤な偽物である。
いかにも頭の緩そうな客に、商人は心の中で舌なめずりをして更に畳みかけようと身を乗り出す。
と、それを遮るようにして彼女の方から話し掛けた。
「ところで」
「はい?」
「こそうねつ(フェイ・フィーバー)って実はかれくさがげんいんじゃないんだよね」
「へ?」
突然の言葉にポカンとする店主を他所に、カオルはしたり顔で言葉を続けた。
「そもそもねつって言うわりには熱なんか出ないし、鼻水とくしゃみと涙が出るだけでしょう? どうしてこのびょうきを名付けた人は「枯草熱」なんて頓珍漢な名前をつけたんでしょうね? 本当の病名を教えてあげましょうか、「アレルギー性鼻炎」って言うのよ。何のアレルギーで症状が出ているかにもよるけれど、まあ一番多いのはスギ・ヒノキの花粉ね。通年性ならカビ・ダニ・ホコリとかのハウスダストも考えられるけどね」
「あ、その」
「まあ、何が言いたいかと言うと」
今や、先程までの頭が緩そうな舌っ足らずな声など欠片も見せず、見た者が思わず背筋を震わすような笑みを浮かべながら彼女はずいとその顔を商人に近づけた。
「私(わし)をペテンにかけようとは見上げた根性ね(だ)、褒美をあげるわ(くれてやろう)」
甘ったるくかすれた女の声と、しわがれた老人の声。
一人の口から、二人分の声が漏れていた。
まずい、こいつは鴨なんかじゃない、鷹だ。
自分の失策に遅まきながら気付き、蒼白になった商人の耳にカチリと小さな音が聞こえる。
固まったまま視線をそこに向けると、彼女の右腰に佩かれたレイピアがほんの半インチほど鯉口を切られていた。
ギラリと日光を反射する刃金の煌きは、彼をして一級品の代物だと容易に想像がついた。
殺られる。
心臓が凍りつきそうな恐怖を感じながら、商人は死を覚悟した。
この闇市(ブラックマーケット)――特にこの辺の奥まった所で人死には特に珍しい事でもない。
殺してすぐに人込みに紛れてしまえば特定は容易ではなかった。
「受け取れ」
「ひッ――」
恐怖に竦んでギュッと目を瞑る。
だが、いつまで経っても覚悟した痛みはやってこない。
恐る恐る目を開けると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「この馬鹿ッ、ふらふら歩き回るなっていっただろうが」
「いたーい! もうちょっとてかげんしてー」
「手加減だって? これ以上ないくらいしてやってるだろうが。俺が本気で殴ったらそんな細い首なんて根元からポッキリいって吹き飛ぶぞ」
拳骨で頭頂部を殴られて涙目になったカオルと、呆れと怒りの表情をしたマーチ。
いまだ先程の衝撃から抜け出せない商人は、蒼白なって強張った顔のまま自分の首筋をそろそろと撫でた。
なんってこった、まだ頭は首の上に乗っているぞ。
ふと視線を巡らせたマーチは商人を見て、その強張った顔を見て勘違いをした。
ははあ、またカオルの奴が滅茶苦茶を言って怒らせたな、怒りで顔が引き攣っていやがる。これは早々に退散するか。
「ようあんた、悪かったな。こいつが何を言ったか知らんが本気にするなよ、ちょっと頭がおかしいからな。もしかして何か商談があったか? もしそうならこいつは金を持ってないから払えねぇけど……」
話している最中も固い表情で一言も返さない商人に、マーチは「これは不味いな、随分ご立腹だ」と内心溜息をついた。
無駄な出費は避けたい所だが、二人とも今は余計な騒動はごめんであった。
多少の出費で丸く収まるなら、今だけでも大人しく払っておこう。
そう結論したマーチは固い表情の商人に話しかける。
「あー悪い、もしかしてもう商談成立か? なんなら俺が立て替えようか」
その言葉を聞いた瞬間、商人の脳内ではマーチの言葉が自動的に翻訳された。
俺が立て替えようか→俺が貴様の首をへし折ってやろうか!
ようやく一命を取り留めたばかりだというのに、これ以上厄介事の種はごめんだった商人は、大慌てで首をふって「いえいえ、何もお代は結構です! どうかお引取りを!」と大声で叫んで屋台の窓口にあったカーテンを急いで閉めた。
その剣幕にやや面食らったマーチは不思議そうに首を傾げる。
「なんだ……? おい、なんか変な事言ったんじゃないだろうな。お前は目立っちゃいけない身分なんだからな、大人しく俺の後ろについてこいよ」
「はーい」
「まったく……ほんとに分かってんのかねこいつは」
ぶつぶつと文句を言いながら人を掻き分けて先に進むマーチの後に続きながら、カオルは相変わらず頭の緩そうな笑みを浮かべていた。
ちらりと後ろを振り返ったマーチは彼女の手で弄ばれている小壜を見て取ると、あからさまに眉を顰めた。
「おい、一体全体そりゃなんだ? 俺の記憶が確かならそんなもんさっきまで持ってなかった筈だろ」
「ばんのうやく。さっきの人にもらった」
「はぁ? 貰っただ? この闇市の商人がそんな事するわけねえだろ」
「でもさいごに「おだいはけっこうです」って」
そう言われて、彼もさっきの商人が別れ際に叫んだ言葉を思い出した。
「……ああ、そういやそんな事確かに言ったな、うん」
「まーくん、あげるー」
「……こりゃどうも」
「えへへ」
明らかに毒っぽい色をした不気味な粘性の液体が入った小壜を受け取り、明らかに薄気味悪そうな顔で彼はそれを振ったり逆さにしたり日に透かしてみて手の中でくるくると回す。
暫くそれを見ていた彼はフンと鼻で笑うとそれを一応はバッグの中に突っ込んだ。
貰い物だからその場で捨てるわけにも行かないと考えての行動だったが、そんな考えを見透かしたカオルの好感度が更に上がっている事に彼は気付きもしなかった。
「こいつが万能薬(エリキシル)だって? あのボンクラ商人め適当なこと言いやがって。こんな沼ヘドロみてぇな万能薬があってたまるか」
「花粉症なおるんだって」
「あ? 何だって?」
「花粉症」
「なんだ? そりゃ」
不思議そうに首を傾げる彼に彼女が「枯草熱と花粉症について」という題名が付きそうな長々しい講義をぶち上げた。
相変わらず舌っ足らずな口調ではあったが、その内容は十分な知識に裏打ちされた論理的な内容である。
道すがらそれを聞いている彼は「あながち、スケルツォの予想も外れたものじゃないかも」と思い直し始めていた。
厳しい修行を積んだ僧侶というのは大抵が神学者と医師を兼ねているものだ、それを考えればカオルが枯草熱についてとうとうと語るのもそうそう不思議な事ではない。
ややたどたどしい感じがあり、時々何かを思い出すようにしながら話を続ける彼女はふと何かに気を取られて余所見をする。
1ヤード先も人込みのせいで見えないような所で余所見をすればどうなるか、分かりきった事だが彼女は前から歩いてきた筋骨隆々の戦士の胸板にガツンと正面からぶつかる。
「あだっ」
「おっと」
「あっ」
上からカオル、戦士、マーチ。
殆ど速度を緩めずにぶつかったせいで顔面を強かにぶつけた彼女はその反動でのけぞった。
「気をつけろ!」と怒鳴ろうとした戦士も、慌てて後ろに倒れようとする彼女の襟首を引っ掴む。
彼がそうしていなければそのまま後ろの人間にまでぶつかって収拾が付かなくなっていた恐れもあったので、咄嗟の行動とはいえ及第点の動きだろう。
一歩ほど先を歩いていたマーチもその状態を見て慌てて引き返してくる。
「おっとと、おいおい、ちゃんと前見て歩けよ。こんな人込みの中でよそ見してちゃあいかんぞ」
「ふぁい……しゅみません」
「あ、こいつ、まったく……悪いな助かった、今後気をつけるよ」
「いたーい」
「自業自得だ、馬鹿」
涙目になって鼻を押さえる彼女に辛辣な言葉を浴びせるマーチを見て、戦士は苦笑を浮かべながら肩を竦めた。
「坊主、女性といる時はちゃんとエスコートせにゃいかんぞ。特に、こんな物騒な所じゃな」
「エスコートぉ? こいつに?」
「なんだ、仲が悪いのか? お似合いだと思ったんだがな」
「はぁ?」
思わず顔を顰めて「何を言ってやがる」と言わんばかりの顔をすると、戦士は微笑を浮かべるとそのまま先を進んだ。
通りすがりざまに「じゃあな、気をつけなよ」とカオルの頭を二三度叩いて去っていったが、プレートメイルに包まれた手でそれをされても痛いだけで、彼女は鼻と頭とを両方さすった。
案外、お仕置きのつもりでそうしたのかもしれなかったが、本人はとっくに先へ進んで人波の中に紛れ込んでしまい確認など取りようもない。
エスコート? こいつに? スケルツォをあっと言う間にぶっ殺しそうになるほど強いこいつに? 《八つ裂き》のクトゥーチクかも知れない奴をエスコートしろだって、いったい何の冗談だ? 首を捻りながらそんな事を考えていた彼だったが、ふと視線を巡らせると期待に満ちた視線で彼女が左手を差し出している。
「…………」
「…………」
はぁ、と溜息をつくと、彼は仕方なしに差し出された左手を右手で握った。
よくよく考えてみても、確かにこうしていた方がふらふらとどこかに行かれる事もなくなる。
不可抗力、不可抗力だ、決して思った以上に細くて柔らかい手にドキドキなどしていない!
不機嫌丸出しの顔で先を急ぐ彼と、その横でニコニコ顔のまま歩く彼女は随分と両極端ではあったが、確かにこうしていればはぐれたりする事もなさそうではあった。
「ねえまーくん」
「あ?」
「たのしいね!」
「俺はちっとも楽しかねぇな」
「またまたごじょうだんを」
「……うぜぇ」
こんな調子で目的地まで行くってのか? まるで拷問だ!
心の中で盛大に嘆きの溜息をつきながら、それでも彼は彼女の左手を離さない様にしっかりと握っている。
嗚呼、お人よしの哀れな灰色狼よ、汝の墓穴掘りに混沌神の幸あれかし!
「まーくん、まだつかないの? 意外とじかんかかるねー」
「お前のせいだっつの!!」
結局、彼らが古着屋に着くのにかかった時間は当初の予想を大幅に裏切って、30分近くかかったのだった。
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PCの移行作業とか実家に帰ったりとか色々あって更新遅れました。
あと、Oblivionのせいです。あのゲームが面白すぎるのが悪いんです。
それと、更新速度は少し落とします。毎日更新はきついかもしれないので。