あるひとりの少年が、彼を生かしてきた信念も過去もすべてを捨て、ただひとりの少女のために命を懸けた。
長く繰り返されてきた冬木の聖杯戦争は、それで終わった。
失われたものは多かったが、それでも世界は続いていく。多くの人に多くのものを失わせた少女の日常も、彼女が生き続ける限り、途切れることなく未来へと―――。
◆
青く高い空と白く大きな入道雲を見上げて、間桐桜は夏の朝の眩しさに目を細めた。
この様子だと暑くなりそうだ。元気よく鳴くセミの声に負けないよう、今日も頑張ろう。
ひとり気合いを入れると、彼女は離れの部屋を出て、屋敷に向かった。
彼女が住んでいるのは、生まれた家でも育った家でもない。この衛宮の屋敷は、これから先も、長くお世話になるであろう家だった。
しかしながら、正直に告白してしまえば、そうならなくても良いとも考えている桜である。
もちろん、桜とてこの屋敷に愛着はあるし、離れがたいとも思ってはいる。けれども、それはこの家の本質によるところが大きい。すなわち、好きな人たちが集い、また大好きな人が住む場所であるからこそ、彼女は衛宮家を好むのである。
であるから、仮にいつかここを去らねばならないときが来たとしても、その人たちが一緒なら、それはそれで受け入れることができそうな気がするのだった。
桜が朝早くから目を覚まし屋敷に向かうのも、その大事な人のためである。
桜の思い人は、聖杯戦争中に死の寸前まで傷つき、その後、本物の魔法でなんとか生きながらえることができた。しかし、まともな肉体を失ってもいたため、新しい体が必要だった。そこで利用されたのが、稀代の人形師が残した素体である。魔法で物質化された彼の魂をその人形に宿すことで、衛宮士郎という名の少年は、ようやく人間として復活したのだった。
それが、ほんの一年ほど前の出来事。
それから今日まで、おっかなびっくりと様子を見ながらなんとかやってきた。なにせ前例のない事態であるから、慎重になってなりすぎることはない。
とはいっても、士郎が新しい体に慣れたいまとなっては、彼の魔術回路が以前よりも少ないということぐらいしか問題は見あたらない。
だから、早起きした桜が朝食を作ろうとするのは、士郎のためといいながら、実のところ自身のためでもあるのだった。
板張りの廊下を静かに歩き、まずは居間に。薄暗いそこの電気をつけて、次は台所に。
炊飯器は昨晩しっかりセットしてある。
冷蔵庫の中身を確かめて、朝の食卓を思い描く。
イメージが出来上がると、彼女はさっそく調理をはじめた。
◆
「おはよう、ライダー」
「おはようございます、サクラ」ライダーは部屋を見回す。「おや、士郎は」
ライダーはいつも決まった時間に現れる。そして、その時刻は大抵の場合、食卓に皿が並ぶ直前である。彼女が姿を見せた時点で、居間に他の誰もいないというのは珍しい。
桜はライダーに挨拶したあと、思わず時計を見たが、今日は特別早くやって来たわけではないようだった。
「藤村先生は、今朝はいらっしゃらないと聞いたけど……」
「寝坊でしょうか」ライダーが壁を透視しているかのように土蔵の方を見る。士郎はいまでもときどき、土蔵で夜を明かすことがある。その場合、寝坊もセットになることが少なくない。
「ちょっと待ってて」
ライダーと手分けして皿を並べ終わると、桜はエプロンを外して居間を出る。それから靴を履き、土蔵に向かった。
「先輩?」開けっ放しの扉から中を覗くが、誰もいない。
先に士郎の自室を覗けばよかったと思いながら庭を横切り、屋敷に戻る。
彼の部屋は屋敷の奥の、一番良い位置にある。
「先輩、朝ですよ」できるだけ柔らかくなるよう気をつけて、ふすま越しに声をかけた。
「桜か?」返事は早かった。少し焦っているようだ。起きたばかりで寝坊に気づいたのだろう。
桜はくすりと笑う。
「おはようございます。そろそろ起きないと、朝ご飯を食べる時間がなくなっちゃいますよ」
「ああ、おはよう。えっとだな、今日は、その……」そこで彼は口ごもり、少ししてから続けた。「悪い。今日は学園、休むことにするから、桜は気にせず行ってくれ」
「え?」桜は首を傾げた。
夏休み明けで、新学期はまだ始まったばかりである。士郎は一年間休学していたので、桜と同じく三年生だ。
学園でも家でも、ふたりの距離は非常に近いのが常となって久しいため、士郎が欠席するのは残念でもあるし―――
「先輩、大丈夫ですか?」
―――なにより、彼の身体の調子が急に悪くなった可能性を思い浮かべると、その恐ろしさに手が震えそうだった。
桜は慌ててふすまに指をかけた。
しかし、部屋の中を見ることはできなかった。
最初、わずかに隙間ができたものの、すぐに内側からの抵抗がきた。その反応を予想しなかった桜は、ふすまの引き手から指を滑らせてしまう。
ピシャリと閉まるふすま。
この段階で、桜の心配は急激に膨らんだ。
彼女は知っている。衛宮士郎が他人に、その中でも特に間桐桜には心配をかけたがらないことを。そして、隠し事が上手くない彼が不自然な態度を取るときは、決まって心配されるべきなにかを隠していることも。
「先輩! お願いします、開けてください! 先輩!」
◆
ライダーが居間でふたりを待っていると、桜の声が聞こえてきた。ほとんど悲鳴に近いそれを耳が捉えた瞬間、ライダーは立ち上がって居間を飛び出す。
彼女のマスターがそのような声を出すことなど、滅多にない。
明らかに緊急事態である。
加減を忘れて床を蹴れば、ほんの数秒で声の発信源、士郎の部屋の前にたどり着いた。
そこで彼女は見た。
「俺に構わず行くんだ桜!」
「先輩を置いてなんて行けません!」
「大丈夫、あとで必ず追いつくから!」
「嫌です! ひとりでなんて絶対嫌です!」
◆
桜が頼むと、ライダーはそれに従ってふすまを開けた。士郎が非力なのではなく、そもそも人間の腕力ではライダーには勝てない。なにか障害があるとは思えない挙動で、ふすまがスライドする。
桜は部屋に駆け込んだ。
士郎は逃げるように畳の上を転がって、敷きっぱなしの布団にもぐり込んだ。
「先輩?」桜は布団に近づき、床に膝をつく。
「大丈夫だから」士郎が返事をする。
「全然そんな風には見えません」桜は胴を捻って振り返る。「ライダー、お願い」
桜が頼むと、ライダーはそれに従って布団を引っぺがした。
そして、ふたりは見た。
士郎「下品な話なんですがね……フフ……勃起がおさまらなくなりましてね」
とりあえず、桜も急遽欠席することにした。
もとい、欠席することになった。
朝から、それも制服のままというのは燃えたが、しかし、士郎のそれはおさまるところを知らない。どうにかなる兆しすら見えないこの状況に、彼は深い悲しみに包まれたようだった。
そうこうする内に時間はあっさりと過ぎ去り、時刻はお昼前。
三人は遅い朝食をとっている。
「どうすればいいんでしょう」困った桜はつぶやいた。
「すまん……」士郎は寝間着のままだ。
「…………」ライダーは我関せずを貫いている。
「先輩もそのままだと困りますよね? でも切り落とすわけにもいきませんし」
ぶっ、と吐き出す士郎。
ライダーは我関せずを貫いている。
桜がソーセージをかじると、士郎はなぜかガタガタ震えだした。
「困りました……」
食卓は静かである。
かちゃかちゃと食器の音だけが鳴る。
セミの鳴き声が外から聞こえてくる。
桜は必死に考えた。
しかし、なにも思いつかない。
物事を考えるには、まず基本的な知識が必要であり、けれども自分は人体に関するそれをそう多くは持っていない。だから、なんの役にも立つことができない。元に戻すどころか、意図的かつ安全に機能不全を起こす方法の一つすら知らない。自分が持っている知識は、せいぜい料理や家事くらいのもので、それではいまの先輩の助けにはなることはできないのだ。
そこまで考えたとき、桜の脳裏に電流が走った。
不意に思い出したのは、ある一つの料理法。
彼女は嬉しくなって声を上げた。
「氷水で締めてみるのはどうでしょうか?」
「ひぃぃぃ」士郎はすくみ上がったようだった。
「でしたら」突然、ライダーがいった。「サーヴァントが、つまり私ですが、殺意を込めて睨めば、恐怖にすくみ上がるのではないかと」
「あ、だったらライダーの魔眼で石化してから砕くとか。それなら痛くないかもしれません」
「らめえええええええええ!!!!」士郎は泡を吹いている。
結局、この場にいる三人では有効そうな意見すら出てこなかった。
再び食卓は静かになる。
かちゃかちゃと食器の音。
元気なセミの鳴き声。
桜は眉根を寄せて、むむむと唸った。
かくなる上は、魔術師式のやり方で、ここにないものを外から持ってくるしかないのだろうか。
彼女は姉を信頼しているが、士郎に対する独占欲も当然のように持っている。好きな人の体について、自分以外の女性が隅々まで知っているというのは、女としては面白くないのが当たり前だった。
「それでも、やっぱり姉さんに相談するしか……」桜はつぶやく。
「嫌でござる、絶対に嫌でござる」
「でも先輩。先輩の体には代えられません」
「いや待て落ち着け桜。だいたいだな、どうやって伝えればいいんだ」
「え? 普通にお伝えすればいいんじゃ……」
「普通に伝えたら、こうなるに決まってる」
Ring! Ring!
『Hello. This is Tosaka』
「あ、遠坂か。こんな時間にすまない。衛宮だけど」
『衛宮くん? この時間だと……そっちは朝だけど、学校は?』
「欠席した。それにも関係することで相談があるんだ」
『急ぎの用事よね。わざわざ私にかけてきたくらいだから……、もしかして体の調子が悪くなった?』
「ああ、下品な話なんだが……、ふふ……、勃起がおさまらなくなってな」
ガチャン、ツー、ツー、ツー。
「当たり前です。もうちょっとオブラートに包んで伝えればいいんです」桜は自信ありげに胸を張っていう。「そうすれば、姉さんもわかってくれるはずです」
「そうなのか?」
「はい。そうなんです」
Ring! Ring!
『Hello. This is Tosaka』
「私です、姉さん。こんな時間に申し訳ありません」
『桜? この時間だと……学校は?』
「はい、欠席しました。いまは先輩の家にいます」
『一人で?』
「いえ、先輩とライダーも一緒です。それで、そのことにも関係することで、姉さんに相談があって……」
『どうしたの?』急に真剣みを帯びる声。『もしかして、士郎の体のこと?』
「そうなんです。その、下品な話なんですが……、ふふ……、先輩の大事なところが小さくなってくれなくて」
ガチャン、ツー、ツー、ツー。
「あれ?」桜は首を傾げる。完璧なはずだったが、シミュレーションは上手くいかなかった。
「ほら、やっぱり遠坂に頼るのはやめよう。放っておけばそのうち元に戻るって」
「でも、心配なんです。もし先輩に万が一のことがあったら―――」
「二人とも。いくらリンとて、唐突にそのような用件を伝えられたら困惑します」ライダーが口を開いていう。「まずは世間話をして、しばらくしてから本題に入るべきかと」
「なるほど」桜は頷く。
「いいですか? たとえば、こうです」
Ring! Ring!
『Hello. This is Tosaka』
「リンですか? 私です」
『え、ライダー? どうしたのよ、珍しい』
「すみません。そちらはもう遅い時間と知りながら」
『いいわよ。さっそく夜型に戻ったことだし、まだ起きてるつもりだったから気分転換にもちょうど良いわ。えっと……、そっちはお昼前か。ライダーも一人で暇してたんでしょう?』
「いえ、そうでもありませんよ。今日も朝から蝉の声が聞こえますし、その、下品な話ですが……、ふふ……、士郎の×××がそびえ立つ光景も見ることができるのです」
ガチャン、ツー、ツー、ツー。
「おや……?」ライダーは不思議そうに首を傾げる。「やはり、リンの助力はアテにできないようですね」
「どうしよう……」打つ手なしとわかると、桜はすっかり落ち込んでしまった。
「いや、そんなに落ちこまれても」士郎は複雑そうだ。
そのとき、タイミング良く電話のベルが鳴った。
皆が驚いた表情を見せる中、桜も驚きながら立ち上がる。
「あ、悪いな桜」すでに立っているのでこれ以上立つことができない士郎が礼をいう。
「いえ」桜は首を振って居間を出た。
鳴り続ける音の元へと到着し、受話器を手に取る。
「はい、衛宮です」
『あれ? 桜? こんな時間にどうして貴女が……』
「え? もしかして姉さんですか?」桜はびっくりして尋ねる。まさかこの屋敷に魔術的な盗聴器の類を設置しているのではないかと内心で疑ったほどだった。
『……ああ、そういうこと』凛はこちらの質問には答えず、少し笑った。なぜか、そんな気配が受話器の向こうから伝わってきた。『そっちにいる間に士郎に伝え忘れたことがあったから、桜から伝えておいて。士郎の体を調整した副作用的なものとして、その、下品な話だけど……、ふふ……、しばらくおさまらなくなるだろうけど、二人でいちゃいちゃしてればそのうち元に戻るから心配要らないわ』
桜は無言で受話器を置いた。
×××××××××××
どうしてこうなった……