コドール大陸中部のかつての雄、ビルド王国。 内乱の影響から脱せずに大国の座から転がり落ちようとしつつあるその国の王都を指呼の間に望む平原で、今まさに1人の英雄が誕生しようとしていた。 時代の変遷。 そう言うには、あまりにも血生臭い戦場交響曲をバックミュージックにして。■「ぬぅぅぅぅん――!!」 腹の底から絞り出される裂帛の気合と共に、子供の背丈ほどもある大剣が縦横無尽に振るわれる。 これまでに有名無名の区別無く立ち塞がる者を斬り果たしてきたカーディル自慢の魔剣だ。 魔剣と言っても、何か特殊な魔法が発動したりする訳では無い。 単純にただ“強い”。 ありとあらゆる外部要因に対して剣身を保護するためだけに稀代の魔剣達と同等の施術を施された、魔剣でありながらただの剣と変わらない魔剣。 それはしかし、振るう者の体力と技量が想像を絶する領域に辿り着けば恐ろしい武具へと変貌を遂げる。 武器破壊が一切通じず、鎧ごと雑兵を両断しても刃毀れどころか傷一つ付かない。 鬼に金棒というのを地で行くその姿はまさしく鬼神であったが、であるのならばそれと互角に闘う男も同等の境地に達した化物であると認めるべきだろう。 豪奢な金髪を剣気に靡かせるカーディルの剣を、真正面から受けて立つ栗色の髪とダークブラウンの瞳を持つ戦士。 万人が思い浮かべる英雄王の具現がカーディルであるとするならば、万人が思い浮かべる歴戦の傭兵の具現がそこには在った。 精悍な顔に僅かな笑みさえ浮かべてカーディルの操る大剣を受ける彼が持つのは、一際目立って大柄な彼の身長をも超える長大な斧槍だ。「るぉおおぉぉおおおぉぉぉっ!!」 大気を揺るがす咆哮と共に、馬ごと敵を両断したという伝説を持つ必殺の振り降ろしがカーディルを襲う。 大地を砕く踏み込みが存分に乗った一撃は、人の身で受ければ原形を留めない程の破壊を齎す。黙って受ける手は無い。 横殴りに叩きつけるように大剣を振るい、カーディルはその軌道を逸らした。と同時に、反発を利用してステップを踏んで死神の呼び声を伴って落ちてくる刃を紙一重で回避。 長大な斧槍が地面に激突する――と見えた瞬間、腕の扱き一つで回転半径が変わり、腰の回転を加えて1回転。くるりと回った逆からの逆袈裟へと変化。 対する大剣の動きは、体重と剣の重さと踏み込みを加えた袈裟掛け。 衝撃波すら幻視する轟音。 互いの持つ膂力が真っ向からがっぷり四つに組んで奇妙な均衡を形成する。 と、瞬き程の間を置いて弾けるように互いに退く。構えた動きは、上段の大剣と中段の槍斧。「こんな所で貴様のような使い手に会うとはな……。名は何という?」「――ラルフウッド」「ほぅ、噂に名高い獅子吼のラルフウッドか」「大陸中に名を轟かす英雄王に知られているとは、俺も中々出世したものだな」「一介の傭兵の身でこの俺と一騎打ちに持ち込んだ事、褒めてやろう。褒美としてそのままあの世とやらまで出世させてやる」「その褒美は50年後くらいにありがたく受け取ってやるさ」 軽口を叩きながら、ラルフウッドの全身の筋肉がはち切れんばかりに膨張する。渾身の力を込めた三連撃。それぞれ額・喉・心臓を狙った超高速の三段突きだ。 受け手が並みの使い手であれば――否、それなりの熟練者でもきっちり3回死んでいる。名手、剣豪と言われる使い手でさえ3度捌いて生きながらえるのは至難の業だ。 その神速の三段突きを、カーディルはまるで枯れ枝でも振るうかのように大剣を取りまわし、受け、逸らし、弾く。事もなげに捌いているが、その技量と膂力は壮絶の一言に尽きる。 そこからは、互いに攻守を目まぐるしく変えつつの攻防が続く。高速の突きと流れるように連続する斬撃を主体として間合いを支配するラルフウッドに、大剣を縦横に振るいながら長柄の懐に飛び込もうと機を窺うカーディル。 お互いに取り回しに凄まじく難のある武器を使用しているにも関わらず、打ち鳴らされる金属音は短剣でも使って剣戟を交わしているのかと思うほどだ。 形勢は全くの互角。 時折斧槍に手数で勝る優を活かしてカーディルが果敢に踏み込むものの、総鋼製であるという冗談じみた斧槍はその全ての部位が凶器と成り得る。斧頭や鉤爪部のみならず石突や柄の部分すら交えた攻防一体の切り返しの前に、大陸一と謳われる豪剣使いのカーディルですら決定的な一歩を踏み込めない。 その一歩を踏み込みさえすれば斬れる。が、その前に自身が斬られる。 長柄故の間合いの支配を前に、敵の技量が並み外れた物であるとカーディルも認めざるを得なかった。 事情はラルフウッドも似たり寄ったりだ。 微かな隙を突いてくるカーディルの技量に内心舌打ちしながら交える誘いの隙は全て看破されて踏み込んでくれない。踏み込んできた瞬間数通りの死に方を用意してやれるのだが、と内心ボヤいても現実は何も変わらない。 ならばと打って出ても、手数で劣る以上はどうしても最後の一手を詰め切れない。受けるカーディルの方も余裕など全く無いのだが、ラルフウッドの方とてカーディル相手に隙を作らないよう攻めるのは中々に骨の折れる事だった。 異常に高いレベルで拮抗する闘いの前に、余人は近寄る事すら出来なかった。 そんな2人が激しく一騎打ちを繰り広げている周囲では、カーディル率いる親衛隊とラルフウッド率いる傭兵団の激戦が繰り広げられていた。 そもそもこんな一騎打ちが実現したのも、カーディルもラルフウッドも軍の先頭に――文字通り一番槍に等しい最前列に位置して戦うタイプの指揮官であったからで。「こんな時ばかりは王の性格が恨めしく思えてくるわね……」 前線で消耗した隊と予備隊を交替させながらボヤくミリア。「まったく、ラルフウッドの奴め。好き勝手やるのは構わんが尻を拭う方の身にもなれ」 いきなり傭兵団の指揮を丸投げされて伝令を奔走させながら事態の好転を目論むアルバーエル。 と、突如として左翼で始まった激戦に両軍ともに人的資源が吸い寄せられていた。 そもそも中央では無く左翼――ヴィスト軍側から見れば右翼にカーディル王が位置していた理由は、両軍の配置によるところが大きい。 ビルド軍が布陣した際、その戦力は大きく3つに分けられていた。 左翼に、エルト軍と傭兵団合わせて3万。これは、ラルフウッドとアルバーエルが旧知の仲であるという事から連携が取りやすいだろうと判断されて配置されている。 マックラーに存在するオルトレア連合軍のおよそ半数が左翼に振り分けられているとなると、残りの布陣は選択肢が限られてくる。 結果として、中央にはビルド王国貴族を中心とした2万が配置され、右翼にビルド王国近衛兵団1万が布陣。戦力の均等配置を最初から諦め、それぞれの集団の戦闘指揮が最もやりやすいようにという意図は明白だった。 カーディル王は、この布陣を見て敵軍の主力は左翼に布陣していると判断し、迷う事無く自身と親衛隊を右翼に布陣した。 中央と左翼に敵と同数の兵を抑えとして配し、残りの2万5千を右翼へ展開。兵力自体のバランスもそうだが、ミリア自身とその直率隊を――何より親衛隊を右翼へ配備した点から言って、質的には右翼に展開する兵が最も優れているのは間違いなかった。 結果的に出現したのは、双方共に斜線陣をもって敵と相対するという形だ。 消極的か積極的かの差異はあるが、もっとも分厚く布陣した箇所での戦況の優劣をもって会戦全体の勝敗を定めようという意志が双方にあった。 カーディル王は自身の力に絶対の自信を持つが故に。 アルバーエルやラルフウッドはビルド王国軍の実力に悲観的な見方をしているが故に。「目論見通りとは言え、やはりヴィスト軍は強いな。こちらの方が数は多いはずなんだが、形勢は互角か」「敵はカーディル王直率の親衛隊と『槍のミリア』ですよ。ヴィスト軍の中でも最精鋭。 むしろ、それと正面からカチ合って互角の傭兵達を絶賛したいくらいですよ」「俺は、あのカーディルとまともに一騎打ちをしているラルフウッドこそ絶賛すべきだと思うが……。 まぁ、今はいい」 アルバーエルの見る所、カーディルという前線突破の切り札を抑えられた敵前衛はこちらを攻めあぐねているように見えた。 もちろん、こちらの前衛の奮闘も大きいが――やはり、勝手が違うのだろう。 文字通り一番槍で先頭を駆けるカーディルの人間離れした武の冴えをこうも見せつけられた後ならそう納得できる。 あれは、いくら兵が陣を組んで並んでも止められるものではない。集団戦における個人の武などたかが知れていると思っていたが、世の中探せば個人で戦況を変えかねない化物というのはいるものなのだな、と。 実際、ラルフウッドがカチ合うまでの一瞬とも言える時間だけで名のある傭兵が数名秒殺されている。 それだけでカーディル王と言う極上の獲物を狩る気満々だった傭兵達の顔色と意識が一瞬で切り替わった。あの光景をアルバーエルは忘れないだろう。 我先にと群がるように駆けていた人波が真っ二つに割れ、それぞれに無難な相手に狙いを定める。 その中央で悠然と構えるラルフウッドの不敵な面構えとまさしく無人の野と化した道を疾るカーディルの野獣の笑みが交錯し――「アルバーエル将軍、どちらへ突き掛かりましょう?」「左だな。外線から突き掛かり、中央へと敵を押し込む」「ラルフウッド殿はよろしいので?」「放っておけ。どちらも兵を当てて即座にどうこうなるような生半可な腕はしていない。それに、あの周辺で突き掛かっても今以上の乱戦にもつれるだけだ。 傭兵達はそれでも構わないかもしれないが、我々が困る。 だいたい、そんな事をしてラルフウッドに睨まれるのもな……」 敢えて火中の栗を拾う必要は無い、というのがアルバーエルの考えであったが、その他にももう一つ切実な理由があった。「何より、我々が抑えねばならない相手は他にもう1人いる。 カーディル王の副将として付いているダヴー将軍だ。彼女に自由に動かれると何処で戦線が崩壊するか分かったものではないからな。 彼女にはせいぜい我々の対応に追われてもらおう」「はっ」■ その瞬間、彼女は失敗を悟った。 カーディル王自らの突撃という常識破りの常勝戦法を、同じく傭兵団長自らが止めるという非常識で破られ、その対応に追われている内に先手を取られてしまったのだ。 ミリア=ダヴーは『槍』の異名をとってはいるが、その実はオールラウンドな戦況に対応できる万能型の将軍である。 別段守勢を苦手としている訳では無く――実際に、これまでの戦いでも守る時は実に粘り強い指揮を見せている。 とは言え、その異名に相応しい攻勢型の将軍である事もまた事実で。「私が出るわ。全予備兵力を右翼側に展開しなさい!」「将軍自らですか?! 前衛との連携は如何――」「親衛隊なら私がしゃしゃり出なくとも何とかするわ。親衛隊長はあなたに心配されるほど無能な男では無いわよ。カーディル王と共にある限りにおいて、親衛隊に敗北の二文字は無いわ。 でも、右翼は拙い。敵の予備兵力が動いている。このままじゃ押し込まれるわよ。 分かったらさっさと動くっ!」「りょ、了解っ!」 彼女自身が率いる隊は、本来ならばカーディル王が作った綻びを素早く広げて突き破るための打撃戦力であった。 戦線の何処に圧力をかければ良いか。あるいは、どう突けばカーディル王の仕事がやり易くなるか。 それを察知して行動に移すセンスと実行力を彼女は持っていたし、今回はカーディル王がその点を重視したからこそ副将を任じられていた。 それほどに、一度動き出した彼女を止めるのは容易な事では無かった。それこそ、止める側にスーシェ将軍並みの守戦巧者がいなければ無理だと思われるほどに。 もちろん、そういった守戦に強い将がいればそもそも彼女をしてつけ込む隙が見当たらないという事も十二分にあり得るのだが。 ……いずれにせよ、先手を取られた時点でこの戦場においては全てが無意味な情報と化した。 ミリアが打って出る機会は訪れる事無く、故にオルトレア連合軍が彼女の攻勢に悩まされるという未来も存在しない。 少なくとも、この戦場においては。「敵将は……、アルバーエル=ウルザーか。確か、エルト王国の将軍だったわね?」「王から軍の全権を任されている将軍だとの事です」「流石に一国の軍を任されるだけの事はあるわね。攻勢が的確で苛烈だわ」 アルバーエルもまた、猛将として知られる攻勢に強い指揮官だった。 故に、ミリアとアルバーエルのどちらが主導権を握るかという事は会戦全体を占う上で密かに重要な位置を占めていたのだ。 どちらもより攻勢を得意とする将ならば、その能力水準が同程度と仮定すれば主導権を握った側が優位に立つ。 ミリアにとっては苛立たしい事に、アルバーエルは優秀な将軍だった。ヴィスト王国に仕えても方面軍一つを任せて問題無い程に。 そのアルバーエルの取った戦法は実に正統派なものだった。 即ち、弓兵による火力戦で戦線を乱し、剣兵や槍兵による近接戦闘で綻びを作り、綻びにつけ込んで騎兵によって蹂躙する。特に小細工が介在する余地の無い正攻法だが、それだけに対応は難しかった。 正攻法とは、同程度の戦力ならば通用するからこそ正攻法と呼ばれるのだ。 対するミリアも空いた穴を塞いだり即席の縦深陣で敵を誘いこんだりと及第点以上の防戦を行ってはいるが、主導権を奪い返すだけの反撃に関してはその糸口すら掴めていないのが現実だった。 兵の質で上回っている事が守勢に回っても互角に戦えている理由の大半を占めている事はミリア自身にも分かっていた。歯痒い事だが、それだけ敵が巧いという事だ。 認めざるを得なかった。この場で勝ちきるのは難しいと。 敵の攻勢の対応に追われる中、そう結論付けたミリアは誰にも悟られぬ程度に小さく嘆息した。 開戦から半日も経たない内にこうも目まぐるしく戦況が変わると対応する側としては疲れるのだ。戦闘指揮を行っているだけのミリアですらこうなのだから、前線で未だに超ハイレベルな一騎打ちを継続中の2人など、人間かどうか真剣に疑いたくなるような体力と気力の持ち主だと思う。 あの調子だと、本当に日が暮れるまで一騎打ちを継続しかねなかった。ミリアも個人の武にそれなりに自信を持ってはいたが、まったくもってケタが違った。 あれでいて軍の指揮に専念すればラルン会戦のような快勝を導けるというのだから、カーディル王に対する戦争の天才という評価は過小評価なんじゃないかとすら思ってしまう程だ。 あれは天才なんて人の括りの中にある人では無い。戦神の化身ともいうべき、人を超えた何者かだと言われた方がよほど納得がいく。 それと互角に一騎打ちをしている敵将の実力にも寒気がするのだが。「全く……。 この敵将といい、あの傭兵といい、以前の幼将といい……。彼らが大国で力を得ているというのではない事に感謝した方がいいかもしれないわね」「ミリア将軍らしからぬお言葉ですな」「なら想像してみるといいわ。彼らが私達と同数の兵を揃えて戦うとしたら、どうなる? 私と陛下だけじゃ抑えきれないわ。スーシェ将軍かアライゼル将軍か。他にももう1人いないと勝てるなんて言えないわね。 今ですら本国の抑えにアライゼル将軍、奈宮への抑えとしてスーシェ将軍を割いているのよ。軍の対応できる限界を超えかねないわ」 早い内に。 彼らが力を付けるかもしれないその前に。 叩く。 今後のヴィスト王国の未来は、南方戦線での戦果に掛かっていると言っても過言ではないだろう。「最右翼に予備隊を投入。包囲に動かれる前に敵を押し返して。 それと、他の戦域での状況は?」「中央は混戦気味となっております。カーディル王が足止めされている動揺があると報告が入ってはいますが……」「敵は雑多な貴族軍。まぁ、押し込めなくとも押される事は無いでしょう。左翼はどうなっているの?」「互角です。こちらはカーディル王の状況は伝わっていないらしく、兵の動揺は全くと言ってよいほど無いそうですが……。敵の抵抗は激しく、一部では押し返されているとの事です」「ビルド王国近衛兵団……。先の戦いじゃ出番は無かったけど、飾りでは無かったようね」「先代国王当時の内乱を生き残った兵がそれなりにまだ現役で残っていると聞きます。であるのなら、末端での戦闘では手強い相手になるでしょう」 内乱当時一兵士だったような存在なら、現代で言うところの下士官にはなっていてもおかしく無い。副官の言葉はコドール大陸において常識的な見解と言えた。 ところが実際には、下士官どころか一部は将校――中隊長クラスまで存在しているような状態だった。末端での戦闘では手強いどころの騒ぎでは無く、組織的な戦闘能力においても相当に厄介な相手だったのだ。 将校クラスとなるとほぼ貴族階級で占められている当時の軍としては異常ともいえる平民比率であったが、これも内乱の置き土産だった。 つまり、王を護る最後の盾に一度盾ついた貴族を充てるというのはすぐに出来るような事では無かったのだ。 無論、上層部は王党派と呼ばれる貴族子弟で占められてはいる。だが、数が足りないという厳然たる事実は否めなかったのだ。そもそも、その王党派の子弟貴族にしても貴族とは名ばかりの小貴族出身の者も多い。 結果として身分の低い士官を多く抱えた近衛兵団はその権威を低下させてしまう事となってしまったのであるが、実戦能力という観点のみで言えばビルド王国国内で最も充実した軍集団の一つとして機能していた。 そのお陰で同数のヴィスト軍と正面からやりあえているのだから、世の中何が幸いするか分からないものである。「カーディル王は?」「手出しが出来るような状況にありません」 簡潔に状況を纏めた報告だった。 親衛隊は傭兵との乱戦に持ち込まれており、最低限の統率を維持するので手一杯の状態だ。一騎打ちに乱入しようとする者を食い止めているだけでも十分よくやっているとも言えた。 一方の傭兵団も上手く乱戦に持ち込んでヴィスト軍の長所は封じたものの、乱戦に持ち込んだからこそ決定的な戦術行動を取れないでいた。それならそれでやりようがあるというのが傭兵の恐ろしいところだが、この戦場において親衛隊を拘束する以上の価値を持ちえない事を覆すほどの特性では無い。 肝心要の一騎打ちは未だに決着がつかない。 激しい乱打戦はなりを潜め、今は互いに隙を窺う神経戦へと移行しているが――これも互角。 全体的に見れば、消耗戦に持ち込まれつつあると見るべきだった。 そして、消耗戦はヴィスト軍にとって最も避けなければならない展開の一つだった。 なぜなら、敵は最悪この場に展開している軍を全て磨り潰しても良いのだ。代償としてヴィスト軍の戦力を削り切ってしまえるのならば、代価は十分に得られる。 逆に言えば、ヴィスト軍はその戦力を最大限維持する必要があった。 両者ともに、意識しているのは東の勢力。 南東の大国奈宮皇国は権力闘争に揺れているものの未だ無傷だし、ロードレア公国やインスマー公国といった勢力も動員さえ終わればヴィスト軍に対抗できるくらいの兵力は動かせる。「仕方ないわね。一度兵を引くわよ」「……致し方ありませんが、陛下のご意向は?」「会戦全体に関しては陛下が戻るまで私の思うように指揮を執れとのお言葉を預かっているわ。当然、それには撤退の決断も含まれる」 常識的に考えればあり得ない事である。深く考えなくとも指揮権の混乱をもたらしかねないが――カーディル王自ら先頭に立って突撃するという常識破りを決行しているので今更な事でもあった。 いくらカーディルが人間離れした武を誇るとは言え、流石に最前線で剣を振るいながら全軍の指揮を執れるほど人間を止めてはいなかった。 だからと言って平然と指揮権を預ける辺り、相当にぶっ飛んだ思考をしているとみるべきだろうが……。ヴィスト軍という組織はそれでも不思議とうまく回っているのだから恐ろしい物である。 余談だが、敵の前線が崩壊して一段落したら流石のカーディルも後方に下がって全軍の指揮を引き継ぐのが常であった。序盤の突破戦だけでも問題なのに、中終盤の戦闘に関してまで全軍の様子を見ないというのはカーディルも拙いと考えているらしかった。 本人曰く、部下にも武勲を立てる機会は譲らねばなるまい、などと言ってはいるが。 それにしても、この場で撤退を決断できるというのも十分非凡な将才だった。これは、その決断が出来るような将にしか副将を任せないカーディルの人選も褒めるべきではあったが。「まぁ、陛下も状況はある程度把握しているでしょう。突撃を受け止められてしまった以上、無理押しを重ねるのは無意味に損害を増やすだけよ。 この場は一度引いて体勢を立て直すべき。その考えに至らない陛下では無いわ」「ですが、上手くいきますか? 左翼と中央はともかく、こちらはあまり素直に退かせてくれるような相手とも思えませんが」「そこは私が上手くやるしかないわ。 まったく……。それにしても、ここ最近貧乏籤ばかり引くわね。 全軍に伝達よろしく。殿は私が引き受けるから、整然と秩序を保って下がるように、と」「はっ」■「……ふむ。どうやら上手くやられてしまったようだな。 ミリアに対して優位に立てるような将となると、エルト王国のアルバーエルか」「おっさんも中々名前が売れてるようだな。俺としても嬉しいもんだねぇ。 ま、俺とおっさんの名をさらに上げるにはあんたと『槍のミリア』は丁度いい相手だ。恨みは無いが、悪く思うなよ」「くくく……。ふははははっ! 良いな。実に良い。この俺を前にしてそこまで言えるか! どうだ? 俺の下で働いてみんか?」「それはそれで楽しそうだが、お断りだ。 俺は死ぬまで誰かの下に付く気は無い。それが例えあんただろうとな」「そうか、ならば死ぬがいい」 ゆらり、と上段に構えたカーディルの気配が揺れる。 激しく警鐘を打ち鳴らす本能に従いラルフウッドが全力で後ずさり、それでもなお足りぬと身を仰け反って顎を引いた次の瞬間! 風斬り音すら置き去りにする雷光の一閃が彼の頭髪を数条虚空に飛ばした。 遅れて飛ぶ風圧が頬を打ち、それでようやくラルフウッドは悟った。 無拍子。それも、ラルフウッドという稀代の槍斧使いをして間合いを完全に侵された恐るべき一撃だ。 死神の鎌を辛うじて紙一重で避けて完全に体勢を崩されている今、追撃を受ければ確実にラルフウッドの息の根は止まる。 自身最高の業を躱されたカーディルがそれでもなお動揺一つ見せずに動く。思考するより早く、反射の域に達した切り返しからの追撃で命を刈り取ろうとして――肉体を精神で凌駕する回避行動をとった。 袈裟に放った斬撃の勢いをさらに加速し、大地を転がる。その頭上数ミリの高さを斧頭の刃が斬り取り抜ける。ラルフウッドの、鍛え抜かれた傭兵としての身体が放った最高の一閃だった。 身体バランスの全てが崩れた状態でなお、両腕の力のみで全てをねじ伏せ振るわれた死の淵よりの断頭刃。 殺気も無く、意志も無く、これもまた無拍子の――意識外からの一撃故に、いかな達人と言えど本来なら避けようと思考する事すら困難な刃、であるはずだった。 涼しげな顔でそれを躱すカーディルの異常さは、もはや万の言葉を尽くしても表現し得ぬものだ。 転がって避けた勢いを立ち上がる力に変え、カーディルは何でもないように立ち上がった。重い鎧を身に着けていると思わせない動きの軽さが、ラルフウッドの追撃を許さない。 そこまでの刹那の後、思い出したかのようにラルフウッドの背から冷や汗がどっと噴き出す。 大の大人が構えるのもやっとなどと言われる巨大な両手剣をもってして、全く斬撃の――それどころか、踏み込みの予兆すら感じさせない程の神域に達した無拍子の業。 自ら望んで戦場を渡り歩いてきた経験で培われた勘が冴えてなければ、今頃地面の上から自分の身体を見上げるハメになっていたに違いなかった。 その後の望外の一撃をすら避けられた事に関しては、もはや笑う他無い。「……流石は獅子吼。あれを避け、あまつさえ反撃まで行うか」「ちっ……! 冗談じゃない――テメェ、手を抜いていやがったか!」「さて、それはどうかな?」 本当に冗談では無かった。 恐らく手を抜いていたという事では無く、カーディルと言えどもあの境地の無拍子を斬り結んでいる最中に繰り出せる程化物の域には達していないという事なのだろう。 でなければ、今までに軽く2桁は首と胴が泣き別れしている。 ただし、だから安心だという訳にもいかない。 カーディルに時間を与えるという事は、即ち先の無拍子を繰り出す境地へと心身を高める時間を与えるという事だ。 ラルフウッドは、自分が強者とのギリギリの死合にこれ以上ない興奮を覚える――いわゆる向こう側の人間であると自覚していた。 そのラルフウッドでさえ、興奮の域を通り過ぎて血の気が引く音を聞く程の業の冴えだったのだ。 呼吸を外され、目付を外され、高速で巡る思考の埒外から視覚聴覚すら惑わし忍び寄る見えない一閃。前髪を斬り飛ばし頬の薄皮を斬り裂いて抜けた刃は、真正面から不意を打たれるという事を抜きにしてすら死を予感させる速さと重さ。 槍斧を構えて防ごうとすれば、そのまま両断されるに違いない。少なくとも、ラルフウッドはそれを試す蛮勇を持ち合わせてなどいなかった。 受けられないなら避ける他無い。目の前で刃を振り降ろされてもそうと認識出来ない、見えない刃を、だ。 1度目は避けた。半ば幸運の産物だったという自覚はあるが、命は繋いだのだ。誇っていい。 だが、2度目以降も避けられるなどとは口が裂けても断言できない。「ふふ……。あんたほどの男が王様なんて退屈な椅子に座っているなんて、世界の損失ってものだな」「なに、これはこれで中々座り心地に味もある。……座ってばかりというのも性に会わんのは事実だがな」 笑っていた。 次こそは自分の首が落ちるという未来を半ば確信しながらも、ラルフウッドは笑っていた。 あれほどの業を。古今東西未来の果てまで見渡してなお厳然と屹立する人類の到達点の一つを。 この俺が超えるのだ・・・・・・・・・と。 今までも幾多の達人や弩級モンスターとやり合ってきたのだ。 たかだか人類の到達点如きで心折られていて、ここまで生き残れてきた道理などあろうか。「ははははははっ! 良く聞け、英雄王。貴様が俺に比べて弱くも強いのは、貴様が王であるからだ。 王であるが故に背負ったものは、重い。ナリ・・こそ違うが、魔物共の王がそうだった」「道理だな。だが、王であるが故の弱みとは何だ」「案外頭の巡りは良く無いのか? 英雄王。 今、俺が答えを言っただろう。 ――王であるが故に背負ったものは、重いとな」 ラルフウッドの言葉に伴うようにして、戦場の空気がざわつく。 黒煙。 ヴィスト王国後方の街道筋に、数条の黒煙が立ち上っていた。「ぬぅ……!」 別働隊による後方遮断と物資集積所の襲撃。 どこから別働隊を捻り出したのか、別働隊を率いれるだけの将器を持つ人間がまだ残っていたのか。疑問は幾つもあるが、そこに存在する現象までは否定できない。 その結論に素早く至ったカーディルであるが、しかし、兵の動揺を鎮める将がいない。 ミリアはアルバーエルの攻勢を防ぐので手一杯だ。戦場のどこからでも見える異変である分、攻勢を受け止めるのに失敗すれば全軍が崩壊しかねない。 むしろ、この状況で撤退の余裕を作り出そうとアルバーエルを押し返しかけている彼女は能力以上に働いているかもしれない存在だった。 他の将は力不足。自分の隊を掌握できているだけでも御の字だ。 カーディル自身が対応に回れば問題は無いが――「そぉら! 気も漫ろという場合では無い様だぞ!」 一度は開けた間合いを、颶風の踏み込みで詰める斧槍の担い手。 全軍の事に一瞬でも気を回した、その隙とも言えぬ隙を突かれた格好だ。 薙ぎ、払う。薙ぐ、払い、捌いて振るう。払う、払う、薙ぐ、払う――! 一撃一撃は軽くとも、受け止めに行ったその時はその硬直を狙われる連撃。一度で命は斬り払われぬが、手傷を負う事は必定の鋭さ。 それは、並みの剣士なら死を予感させる嵐だ。だが、カーディル自身の技量からすればどうという事は無いそよ風のようなもの――気の済むまで好きなように得物を振るわせればいい。 根競べになった末に、立っているのは自分であるという確信が持てた。この状況を続ければ、立っているのはどちらであるのか明白だ。あるいは、陽が落ちるのが先かもしれない。 しかし、両軍の野戦の行く末もまた明白であった。 このまま続ければ、勝つのはオルトレア連合軍だ。戦士としてのカーディルに負けは無くとも、王としてのカーディルに未来は無い。「なるほど、足りん頭で考えたようだな」「抜かせ。あんたは当代最強の戦士を名乗っても良いだろうが――王という立場に足を取られているようじゃ無様と言う他無い。 この絶好の機会に、あんたの首を獲らせてもらおう!」「甘いわ! 王の一撃がいかに重いか、その身でとくと知れい!!」■「……王の一撃、ねぇ……」 特に恐るべき何かを伴っていたようには見えなかった。 あの見えない一閃の恐ろしさも、これまでに見せていた巧さも、全てが幻だと思うほど何も無かった。 だというのに、手に残ったのは重量感を感じない棒切れだけだ。 残りの斧頭は、遠く離れた地に突き立っている。 夕暮れに長く伸びる影が、まるで巨大な墓標のようにさえ見えた。 カーディルは既に北へ去った。前線の物資集積所に焼き討ちを受けて痛手を被った以上、策源地まで退くだろう。 次の機会はまたしばらく先になりそうだった。「王の一撃、ね……」 己の武器を斬り飛ばされる。武人としては自らの命を獲られたに等しい敗北だ。 だが、再戦の機会はあった。やられた借りは、十倍にして返す。「王の一撃、か」 ラルフウッドの瞳が、南を見据えた。 北では無く、南を。