その時、ムストは傍目に見ても分かるほど不機嫌だった。 常は三つ編みにして飾り紐で括っている髪は解かれたまま背中を隠し、客人の待つ王城内の一室へ向かう足取りは床を踏みぬかんばかりの意志で踏み出されていた。 廊下の窓から見える満月は既に中天を過ぎようとしている。女性の許を訪ねるにはいささか遅い時間であった。 見た目幼子のムストがいくら眦を吊り上げてもあまり迫力がないのだが、それと裏腹に零れ落ちる気配は長きに渡ってエルト王国を支え続けてきた年月を感じさせるものである。 端的に言うと、物凄く恐い。 後ろに付き従う秘書の女性が思わず「私帰っていいですか」と泣き出したくなるような、そんな様相でムストは自ら――今の彼女の周囲2メートルは誰も近寄れない絶対領域と化しているからだ――その部屋のドアを開け放った。「随分と慌ただしい来訪じゃの、リトリー公爵殿」「こんな時間になったのは申し訳ないけど、緊急事態だったんだ。俺なんて文字通り飛んで来たんだぞ」 ソファの背もたれに背中を預けてムストを出迎えるセージの顔には疲労が色濃い。よくよく見れば、彼の身に纏う衣装も多少ヨレているように見える。「飛んで……?」「領地からぶっ通しで抱えて飛んで貰った。飛ぶ方ももちろん大変だが、抱えられている側も相当にしんどいな」「飛行魔法か……。エルスセーナからここまで?」 ムストの呆れた声に、黙って頷くセージ。 地形や道路事情を全く考慮せずに最短距離を最速で翔破する飛行魔法は確かに便利ではある。が、既に体格が小柄な成人男性並みになっているセージを抱えてエルスセーナから王都まで直行するのは天才でも何でもない普通の魔法使いには些か荷が重かった。 体力魔力気力の全てを使い果たした結果、彼の部下は今起き上がる事すら困難な状態である。別室で泥のように眠っているが、明日一日は使い物にならないであろう事は火を見るより明らかであった。 普段ならどんなに急いでも部下を伴って騎行する程度で済ませるセージが、部下で最も飛行魔法を巧みに操る魔法使いに限界突破させて急行したのには訳がある。「ノイル王国軍が壊滅した。詳細は不明だが、相当手酷くやられたらしい」「なん……じゃと……?」 セージのいっそそっけない口調の言葉に、ムストの眉が跳ね上がる。「その上で、クングールがヴィスト軍に包囲されている。マックラーにもわざわざカーディル王自ら出向いているらしくてな……」 ムストですら――言い換えるならば、エルト王国ですら未だ掴んでいなかったその情報は、ムストの感情を全て押し流すほどの衝撃を伴っていた。 ヴィスト王国の相変わらずの侵攻の手際の良さと、野戦における圧倒的な破壊力。分かったつもりではいたが、実際にノイル王国軍が鎧袖一触に粉砕されたとなると隣国としてノイル王国軍の実力をそれなりに把握しているエルト王国上層部にとっても衝撃だろう。 だが、ムストが衝撃を受けていたのはその事に関してでは無かった。 エルト王国の情報網よりも早く、リトリー家がその情報を掴んでいた事だ。 ある程度高度な情報を運ぶ媒体が(移動手段はどうあれ)伝令に限られる事から来る距離の優位はあるにしても、王国本体より一貴族の方が情報を早く得ているというのは驚くべき事であった。 エルト王国北部の要衝である領地。獣人族他の流入する人口を受け入れた事による急速な人口増。財政の好転と、それに裏打ちされつつある軍備の増強。治安の良化。それら全てと密接に関わり合いながら成長している領内経済。 これに情報収集能力まで加わるとなると、ムスト個人としてはともかく、内務大臣としては無視できない国内勢力となる。 元よりエルト三公として格式は高かった。それに加えて実質的な力まで付け始めたとあらば……。「呆けている場合か、ムスト。ノイル王国軍・・・・・・が壊滅したんだぞ。クングールのビルド王国軍が無傷だったのも併せて考えれば、破滅的な未来しか見えん」 未だ少年らしさを残す声に、思考を元へと引き戻すムスト。 ――今はまだ、目先の危機に対応しなければならない。 セージの言いたい事は、ムストもある程度理解していた。 否、ムストだからこそ理解できたとも言える。それは、軍事の専門家ではない彼女が真っ先に思い浮かべる事柄が何であるかという事に起因する。 ノイル王国は、元々内向き志向の強い国家である。コドール大陸において魔法に関して最先端を行く国であると言えば聞こえは良いが、実際は国内に引き籠って研究活動に勤しんでいる国だというのが一般的な見方だった。 もちろん、自衛戦力は十分に保有している。通常戦力はほどほどの数と質でしかないが、国内に大量に存在する魔法使いを組織化した魔法使い隊の火力は侮れないものがあるからだ。 経済的にも、温暖で農業に適した土地である事や波の穏やかな海に面している事、販売数は少ないが単価が非常に高い魔法具――例えば、調理用の加熱魔法具など――の輸出等で外貨を得ている事などがあり、それなりに豊かではあった。 そんな国が、国内世論の反発を受けながら送った援軍が壊滅したらどうなるか? それも、ただ壊滅しただけでは無い。ビルド王国軍から何ひとつとして有効な援護を貰えないままに、文字通り全滅する寸前だったという大敗を喫したのだ。「もはやビルド王国での戦線にノイル王国が参戦する可能性は潰えたと見て良いじゃろうな……。 いや待て。お主、ヴィスト王国の目的がそれだと?!」「軍事行動っていうのは、政治的要求を満たすために行われるものだぞ。 そして、今のヴィスト王国の政治的要求はビルド王国の併呑だ。それに邪魔な要素をひとつひとつ剥いでいくヴィスト軍の動きは実に合理的だと思う。 先の南ヘルミナ騒乱の件と合わせて鑑みれば、これでもうビルド王国に積極的に加担しようなんて意見が周辺諸国国内で出てくるとは考えにくくなった。 ……ビルド王国の首も締まってるが、自分達の首にも縄が掛かってる。 頭が痛いよ」「お主の言いたい事は分かる。結果としてノイル王国からの援軍が壊滅した事でビルド北方の戦線が崩壊しかねん程危険な状態に陥っている事も理解できる。 じゃが……。 その為だけにヴィスト軍が動いたとはワシには……」「その為だけって訳じゃないだろうさ。恐らく、クングールも落ちる。 ただ、優先順位としてはそうだったってだけの話だ。クングールを落とすのが第一目標ならもっと他にやりようがあっただろうさ」「むぅ……」「それに、これでオルトレア連合の結束力の弱さが露呈してしまう事も大きい。東西南北から包囲して4対1になる予定が、1対1が4回あるだけっていうんじゃ随分と違う」「カーディル王の対応を見る限り、その程度の事は見透かされておったと思うのじゃがな……」「首脳陣が分かっていても、末端の兵がそれに確信を持てなきゃ士気の上がりようもないだろ。今まではカーディル王を初めとするヴィスト軍上層部の個人技で士気を維持していたようなもんだと思うんだがな、俺は。 それが、今まででも十分な高さは維持できるであろう状態だったヴィスト軍の士気が、今回の件を契機にカーディル王ある限り下がりようが無くなったと見るべきで……。 冗談じゃないぞ、本当に」 ヴィスト軍の兵士は、状況が困難なのが分かっていてもカーディル王に従うだろう。それはセージもムストも承知していた事だった。 カーディル王のカリスマ性はそれほどまでに大きい。 2人がそれを確信している理由はそれぞれに違ったが、その答えさえ出ているのであれば過程などどうでもいい事だった。 また、その程度が今更多少上下したところで、うんざりこそすれ驚愕するような事ではない。 ただし、出てきた答えに対してエルト王国――あるいはリトリー家が――どう対応すればよいのかという事に関しては頭を抱える他無かったが。 カーディル王と直接戦って勝利を得る、というのが最も早い問題解決の方法ではある。 難易度が非常に高い事を除けば優秀な解答だ。 あるいは、ヴィスト王国に対してプレッシャーを掛け続けて兵士や国民の疲労を誘うというのも手としてはあった。 現状、オルトレア連合がその任に耐えられる状態では無いのが最大の難点ではあるが。 そうなると、後は地の利を生かして防戦を続けて状況の変化を待つくらいしか手が無くなってくる。 ジリ貧になる可能性も高いが、破れかぶれで討って出るよりは遥かにマシな選択だろう。「ビルド王国はもう保たんかの……」 ようやく落ち着いた様子でムストがセージの対面に座り、息を吐く。 色々と思考が渦を巻いているが、ビルド王国の存亡はそれらを棚上げせざるを得ない喫緊の要事だった。「ビルド地方は広いし、ビルド王国そのものだってある程度戦力は有している。すぐに全面的に占領されるって事は無いだろうが……。北部の要衝の失陥は免れないかな」「マックラーが落ちてしまえば貴族の抑えが利かんじゃろ。王家が存続しても、纏まった戦力を動かすのは不可能になると思うぞ」「逆に、ビルド貴族がそれぞれにてんでバラバラに動いてくれた方がこちらにとっては好都合かもしれないけどな。旗色がコロコロと変わる小勢力が入り乱れてくれた方が緩衝地帯としては価値が高い」 大兵力で踏みつぶしてしまえば同じ事のように思えるかもしれないが、その後の占領地経営に関する労力が全く違うのだ。 中間支配層を効率的に支配できない占領地経営というのは不安定かつ高コストで割に合わない。 しかも、そのそれぞれが互いに集合離散を繰り返して足を引っ張り合い、あまつさえ小規模な抗争すら日常茶飯事に行われるとあれば、いかな大国と言えども直接支配には二の足を踏むだろう。 某紳士の国のように現地民同士の抗争関係をうまく利用して間接支配出来るのなら問題はないだろうが、急拡大してきたヴィスト王国には占領地統治に関してはあまり大きな実績はない。ノウハウが蓄積されているとは考え難く、ヴィスト王国国内ですらその点は不安視されているほどだ。 どう転ぶかは蓋を開けてみなければ分からない状況であった。 セージとしては、ヴィスト王国がビルド地方の平定に必要以上に労力を割かざるを得なくなって国力を浪費してくれれば御の字といったところだ。 無論、巻き込まれるビルド国民の方は堪ったものではない。 それはセージも分かっているが、自分の身と家臣団、それに領民の事を思うのであればビルド地方を混乱させてヴィスト軍の足を引っ張る事に躊躇は出来なかった。「お主……、まさかこのままビルド王国を見殺しにしろとでも言うつもりか?」「いや、何もそこまでは言わない――というより、ヴィスト王国との緩衝地帯として一日でも長く存在していて貰わなきゃ困る。 できれば、今回の侵攻でくれてやるのがクングールだけに留まればモアベターだ」「クングールは渡さざるを得んのか?」「ヴィスト王国本土から旧ヘルミナ王国を経てクングールの前線に至るまで、補給連絡線は万全だと思っていた方がいい。南ヘルミナ騒乱からこっち、彼らが今まで遊んでいた訳じゃないだろう。 だとするなら、攻囲されているクングールが持ち堪えられる道理がない」 中世ヨーロッパにおける攻城戦をそのまま引用するのであれば、包囲している側が食糧不足に陥って撤退するなどという日本人的には考えられない事態が割と頻繁にあったりする。 が、ここは中世風ファンタジー世界である。 生産力はそれなりに高い水準にあり、補給線がしっかりしているのであれば攻囲中に糧食が不足するなんていう事態はそうそう起こらないと見るべきだった。 まして、攻囲しているのはヴィスト軍である。侵攻作戦の経験が豊富なヴィスト軍がその辺りの対策を取っていないはずもない。 ロシア遠征で完敗した大陸軍よろしく、悪路と厳しい気候が行く手を阻む訳でもない。 遠征による厭戦感情は発生するだろうが、あのハンニバルもかくやというカーディル王が直々に出征しているとあっては、厭戦感情で軍が崩壊する事を期待するのは望み薄だった。「マックラーから援軍を出せば……。 いや、カーディル王に野戦に持ち込まれてしまうだけか」「下手をすれば、マックラー方面に展開するヴィスト軍を一部クングールに差し向けられる可能性すら――いや、待て。 それだ……。 マックラーの眼前からヴィスト軍がクングール方面へ動きを取れば、嫌でもマックラーに籠るビルド軍は出撃せざるを得ない……!」 後詰の計である。 クングールを見捨てる事が出来ない以上、マックラーを素通りされてもそれを黙って見ている訳にはいかない。 予め放棄する事が予定として組まれているのならともかく、そうでないのならば援軍の一つも出さなければ国内貴族の離反を招いて王国そのものが瓦解しかねない。 カーディル王率いる5万5千の兵に対し、マックラーから全力で出撃したとしても兵数は6万。 これで互角というにはヴィスト軍の実績は凄まじ過ぎた。「拙いの……。ビルド王国が敗れるのも相当に拙いが、その過程でアルバーエル将軍を喪うのは致命的に拙い。 じゃが、アルバーエル将軍に安全な後方でビルド軍が撃破されるのを黙って見ていろと言う訳にもいかぬじゃろ」「そもそも、そう指示したくとも間に合うかどうか。ノイル王国軍が撃破されている以上、カーディル王が直ぐにでもクングール方面へ進路を取ってもおかしくは無い。 こっちの動きは丸裸だからな……」「増援を出すのは……、今からでは間に合わんか」「一応、王国の要望には即応できるよう準備だけは指示してある。 とは言え、騎兵だけで先行したとしても間に合うかどうかは微妙なラインだ。しかも、我がリトリー家に存在する騎兵は教練途中の連中まで掻き集めたって1千5百がいいとこだ。 実際に動かすとなると、1千そこそこだな」 セージの言葉に少し眉をひそめ、小さく息を吐き出すムスト。 まぁいつもの事かと内心ボヤキながら、セージの欲する情報を頭の片隅から引き出し舌に乗せる。「周辺の貴族から騎兵を拠出させると……。そうじゃな、最大で3千といったところかの。 アルバーエル将軍に言わせると騎兵の真似事をしているだけ、という兵も交えての数になるじゃろうがの」「ウチの連中の行軍速度に付いて来れる連中となると、どうだ?」「ワシは軍事に関しては門外漢じゃぞ。 ……じゃがまぁ、北部で名前を挙げるとするならエステマット伯爵の兵が精強じゃろう。それと、マーチカ家が騎兵には一家言ある家系じゃな。 お主の兵と合わせて約2千。それでどうじゃ?」「どうもこうも、向こうに着いた時の状況次第としか言いようがないが……」 どう頑張っても1万に届かないのでは、ヴィスト軍とオルトレア連合軍合わせて12万近い兵力が殴り合う戦場に出ていくにはやや心もとない兵力である。 となると、5千いようが2千足らずだろうが、数の上では大差がない。 この場合、錬度と速度が重要であろう。「しかし、ウチの連中はともかくその2家の動員は間に合うのか?」「今頃大慌てで動員をしておるじゃろ。お主が軍を動かす予兆を見せておるのじゃからな」「…………。あ゛……」 完全に虚を突かれたというセージの反応を見て、今度こそムストの口から大きなため息が漏れた。 少数だが錬度の高い兵を揃えると評されるリトリー家が、突如として軍を動かす準備を整えつつある。 となると、矛先が何処に向くかという事を考える前に、まずはどう事態が推移しても対応できるよう兵を集めるのは周辺貴族としては当然の事であった。 実際に対応する現場の人間も、事態の原因に対してバリエーション豊かな罵倒を浴びせつつも動きには一切の緩みが無い。 今やエルト王国北部ではちょっとした畏敬の的なのだ。リトリー家の警察隊と警察予備隊は。 最悪の場合それを相手にしなければならないとあっては、口汚い言葉の1ダースや2ダースは思わず零れてしまうというものだろう。 そういう現場の混乱が半ば透けて見えるムストの視線が険しくなると共に、ようやく事の次第に思い至ったセージの背が小さくなる。「まったく、お主はそういう所が抜けておるの。 明日の朝一番に陛下からの命令書を手渡せるよう計らうから、急いで使者を立ててエステマット伯爵とマーチカ男爵に合流するよう伝えよ。 他の近隣貴族にも、王国の正式な動員令に基づくものであると説明してまわるのを忘れずにの」■ 今回ばかりはムストに頭が上がらないな。 ……いや、今回も、か。 赤毛の偉丈夫、フリッツ=エステマット伯爵も。 くすんだ金髪の小柄な武人、アガレス=マーチカ男爵も。 2人とも敵意こそ持っていないようだが、俺に対する心象はあまりよろしいとは思えない。 今回の派兵に関して俺が名目上の指揮官に収まっている事に関しても納得しているって訳じゃなさそうだしな……。 まぁ、宮廷序列と率いる兵数の関係上俺が指揮官に収まらなきゃ拙いというのは分かってるんだろうが。 ま、面白くはないだろうな。色々な意味で。「……リトリー公爵、一つお尋ねしたい」 夜営地で今後の行軍予定を詰める会議の終わりがけに、マーチカ男爵が瞑目したまま声を発した。 会議の最中ずっと組んでいた腕を解かぬままに、やや難しい顔をしているのはマーチカ男爵も色々と思うところがあるからだろうか。「この援軍の目的を伺いたい」 その言葉に、隣に席を置いていたエステマット伯爵が頷いて同調する。 ゴリラの肉体に人間の顔を乗っけた物体なんじゃないかと思うほどに威圧感のある体躯は、座っていてなお若干の圧迫感を感じるほどだった。 夜道で出会ったら脇目も振らずに逃げるな、俺なら。「我々も少し意に介しかねる点があるのだ。何がそうなのかは、賢明な指揮官殿には理解していただけるかと思うが……」 2人とも30代半ばの、エルト王国ではそれなりに有力な貴族軍人だ。ノア将軍と合わせてエルト三将と呼ばれているとかいないとか。 明らかにヴィスト王国を意識しているとは思うが……。「我々も指揮官殿と目的を明確に共有出来るよう、ひとつ胸襟を開いていただきたい」 澄んで良く通るマーチカ男爵の声と、エステマット伯爵の肉体に見合ったバリトンの重音が部屋の大気を震わせる。 向けられている先は、俺――もしくは俺の斜め後ろに立っているオイゲンだ。 2人の問いかけにどちらが答えるか。どのように答えるか。……あるいは答えられないか。 それを見てこちらを判断しようというつもりなのだろう。 もちろん、質問内容だって重要には違いないが。 どちらにしても指揮官に従う他無い2人だ。方針云々より、指揮官を見定めておく方が後々効いてくると思ってるだろう。 ……うへぇ。初めからある程度覚悟してなきゃ醜態晒したかもな。 つーか怖っ! マジで怖ぇよ。 熊と豹に睨まれてるようなもんだぞコレ。「目的は明確だ。陛下に命じられた通り、我々の兵力をもってマックラーへ急行し、ここに展開する味方に合流してヴィスト王国軍と戦う。以上だ。 ――もっとも、それに際して伯爵と男爵が幾つか疑念を抱いているのは私も理解できます。 一つに、双方6万前後に上る兵力を有する状況に僅か2000の兵で参陣して戦術的に意味のある兵力になりえるのか、という点。 全兵騎兵で構成されているとは言え、いかにも少ないのは確かですからね。 さらに、援軍を差し向けるタイミングとしては中途半端なのではないか、という点。 既に戦端が開かれているのであれば遅きに失していますからね。我が方が勝っているのであれば意味の無い援軍ですし、万が一既に我が方が敗れていたのならこの程度の数では敵に手柄を上げる機会を与えるだけ。 仮に戦端が開かれていないのであってもこの数では大車輪の活躍をするというのも難しいですし、それは戦場が膠着状態であっても大差はないでしょう。 まぁ、乱戦の最中に飛びこめるのであれば2000の騎兵は無視できない兵力だと思いますけどね」 そう。 純軍事的な視点で考えた場合、この援軍に意味など無い。 この段階で慌てて援軍を出すのであれば、既にマックラーに詰めているアルバーエル将軍の部隊に1万なり2万なり上乗せしておけば済んだ話なのだ。 それをしなかった、出来なかったのだから、この際ジタバタ慌ててもどうしようもない。 だからまぁ、2人の疑問は至極当然の事だったりする。 純軍事的に見れば。「指揮官殿は、我々が乱戦中の戦場にタイミング良く突撃出来て、それが偶々敵勢の急所にドンピシャで痛撃を入れられて、運よく勝利の女神の下着を掻っ攫えるとでもお思いか?」「そんな風に思えたらある意味幸せなんでしょうけどね」「では、何故?」 俺の苦笑しながら返した言葉に、マーチカ男爵の短い疑問の声が返る。 この場にいる人間が全員それなり以上の軍序列にあるのを再確認して、俺は爆弾を投げ込んだ。「我々の真の目的は、万が一マックラーのオルトレア連合軍が敗北した際に、全兵を磨り潰してでもアルバーエル将軍をエルト王国へ無事帰還させる事にあります」 要は、保険だ。 ただし、友軍の事など一切考えない、表立って言えるはずもない保険であったが。 案の定、部屋の空気が完全に凍っている。 薄々勘付いていたらしいエステマット伯爵とマーチカ男爵こそ平静を装っているが、他の面々は面白いように動揺している。 まぁ、事前に聞かされている俺とオイゲンは別だが。「副次的な目的として、エルト王国はビルド王国を見捨ててはいないという事をアピールするという政治目的の向きもありますが、あくまで目的はアルバーエル将軍の確保です。 ここでアルバーエル将軍に倒れてもらっては、エルト王国の国防計画が根本から瓦解しますので」「マックラーでの戦いに敗北する事が前提にあるような言い方ですな?」「では、エステマット伯爵はあのカーディル王相手に野戦を――それも同数の寄せ集めで無策に野戦を挑んで勝てるとでもお思いですか?」 こちらが知る限りの状況は既に2人も把握している。 エステマット伯爵は憮然とした、今にも唸り出しそうな表情で黙りこくっている。 マーチカ男爵も目を閉じてしばし考え込み、「……もし、我々が到着した時に戦闘中であれば、どうします?」「そのまま加勢します。ただし、戦況が怪しくなれば我々が盾となってアルバーエル将軍を逃がさなければいけませんが」「では、既にアルバーエル将軍が倒れていた場合は?」「手早く兵を纏めて撤退するしかないでしょうね」 作戦目標が達成不可能になっているにも関わらず戦場をウロチョロと彷徨っていても良い事なんて一つも無い。「どう転んでも我々は地獄を見そうですな」「しくじって間に合わなければ骨折り損のなんとやらだが……。首尾良く間に合ってもアルバーエル将軍を救援してそれで終いという訳にはいかんだろうからな」「実際にはそれどころではなくなっている可能性も高そうですけどね」 小国の一貴族の悲哀と言ってしまえばそれまでだけど。こんなところでアルバーエル将軍を死なせたりなんかしたらもっと酷い事になるのは目に見えている訳で。 ホント、愉快な未来図しか見えないよなぁ、これ……。