伏竜鳳雛[三国志(蜀志、諸葛亮伝、注)]かくれ伏している竜と鳳凰のひな。隠れて世に知られていない大人物や逸材などにたとえる。――広辞苑第五版■ セージ自身は全く気付いていないが、ヴィスト王国がビルド王国へと電撃的に侵攻を開始した当初はロンゼンにしてもセルバイアンにしてもそう名前が売れていた訳では無かった。 いや、むしろセルバイアンに関しては大規模な作戦に初めて参加する11歳の少年相手にいいように翻弄された指揮官として極めて低い評価すら下されていた程だ。 2人の評価に関しては、クングール方面へ展開した2万の兵をロンゼンとセルバイアンが預かるという決定に関してヴィスト軍内部から半ば公然と不安視する声すら上がったという事からも窺い知る事が出来る。 参謀格としての働き以外は未知数な主将に子供相手に惨敗を喫した無能な副将。 口さがない者の中にはそう言って陰でカーディル王の判断にケチを付ける者すらいたほどだ。 ヴィスト軍内部においてカーディル王の判断は絶対であり、カーディル王の不興を買えば物理的に首を切られる事すらある。それを考えれば、いかにこの陣容が周囲に困惑や不快感を与えていたか分かろうものだ。 それ故に、2人は今回の軍事行動において完璧以上に任をこなして見せる必要があった。 未だ名を知られていないとは言え、両名共に歴史に名を残すほどの将帥だ。そんな彼らが利害を共にして全身全霊を振り絞って戦おうというのだ。 同情すべきは虎の子と猫を見間違えた結果恥をさらすヴィスト軍将兵ではなく、今まさに独り立ちしようとする虎の子の獲物となってしまったオルトレア連合軍クングール方面展開軍団であった。 ――時系列は前話より少し遡る。「ヴィスト軍が現れただと?! 馬鹿な! 国境からここまでいくつ警戒線があると思っている。誤報ではないのか?」「も、申し訳ありません。哨戒隊が発見した際には既にクングールの目前まで進出されていまして……」 綺麗にプレスの行き届いたビルド軍の制服を、これまた服務規程通りに着た壮年の男性が伝令の報告に歯ぎしりをせんばかりに表情を歪める。 中肉中背というには少し身長が足りていないが、老いを見せつつありながらも未だ衰えを得るに至っていない体躯は彼が現役である事を誇示しているようだった。 もっとも、今は椅子の肘掛けを握り潰す事に全力が注がれているように見受けられたが。 それと対照的に落ち着いた様子を見せるのが、傍らに立つ老紳士だ。 もはや老いを隠せない年齢は随所に表れているが、猛禽に例えられる眼力は未だ若い頃より衰えていない。 身に纏っているのは実用的で装飾の少ない鎧と、一際目立つ赤のマント。壮年の男性が前線に出る事の無い司令官の正装であるのに対し、こちらは最前線で指揮を執る前線指揮官の正装と言えた。 ただし、服装がそれぞれの立場を表しているのでは無く、これは単に双方の性格の違いを表しているに過ぎない。 要塞都市クングールを任されているウェストン卿と、ビルド王国西部に多大な影響力を誇るファーレーン侯爵その人であった。「くっ……! ありえん! 奴らは空でも飛んで来たとでも言うつもりか? 国境警備の連中は何をしていた!」「鎧袖一触に蹴散らされた、と見るしかあるまい。 ……それにしても恐ろしいまでの錬度だ。神速の進撃とこちらの伝令を残さず始末する手際の良さ。並みの将兵に出来る事では無いぞ」 クングール方面軍首脳部が第一報を受けた時点で、彼我の距離は行軍1日分を切っていた。哨戒隊の出した伝令の速度を考えたとしても、通常ならあり得ない事態である。 それを可能としたのはロンゼンとセルバイアンに預けられた兵の――近衛を除くヴィスト軍最精鋭部隊の非常識なまでの進軍速度と、ロンゼンの手の者が国境沿いの要所に潜んでいたという2点。 「ヴィスト軍侵攻を開始す」の一報を携えた伝令はその全てがロンゼンの配下の手引きにより潜伏していた少数のヴィスト軍先遣隊により捕殺されていた。 警戒線自体も2万を数える大軍相手では濁流に飲み込まれるひと固まりの土嚢のようなものだ。まともな抵抗すら許されずに壊滅している。 ヘルミナ王国が滅亡して以来南進の機会を窺っていたヴィスト王国軍にとって、2年という準備期間はそれなりの備えをするには十分な期間であったのだ。 不幸中の幸いだったのは、ヴィスト王国での動員が察知された段階で西部諸侯の軍勢がクングール入りするべく動いていた事だろう。 彼らからすれば突然降って湧いたかのようなヴィスト軍の大軍であるが、西部諸侯の殆どがクングールに集結を終えている現状ならば対応は辛うじて可能であった。 兵数にして、2万対2万5千。だが――「こちらはまだ準備不足と言わざるをえん。野戦に持ち込むにしろ、籠城するにしろ、苦しい戦いを強いられるだろう」「何とかするしかあるまい」 この時点で、諸侯の寄せ集めに過ぎない2万5千は纏まった指揮系統を有していなかった。城代として国王直轄領のクングールを預かっているウェストン卿とビルド王国西部随一の大身であるファーレーン侯爵が中心となってはいるが、彼らの指揮が末端まで届いているとは言い難い。 ウェストン卿が掌握している要塞守備隊とファーレーン侯爵が率いる貴族連合軍に、そのいずれにも属さない貴族達の小集団が幾つか存在するというのが実態だ。 また、一応の指揮権はウェストンが握っているとは言え、実質的には頭が2つある現状はある種致命的であった。 それは、伝令の次の報告に対する反応で表面化する。「敵軍が進路を変えました。ココル平原方面へと進路を取っています」「なに……?」「ココル平原方面という事は、ここを素通りしてマックラーの側面を突くつもりか?」「馬鹿な、それこそありえん。国境沿いの警備隊を鎧袖一触に出来るほどの大軍が補給の確保も無しに要塞を後背に抱えたまま動くだと。 ただの集団自殺ではないか」 ウェストンがかぶりを振ってファーレーンの言葉を否定する。 たとえある程度を略奪によって賄うとしても、2万人もの軍勢を食わせるのは並大抵の事ではない。 常識的に考えれば、補給の確保も無しに動いては早晩士気が崩壊して組織だった行動が出来なくなるはずであった。 であるのであれば、東へと進路を変えたヴィスト軍の行動にはそれ以外の何かしらの理由があると見るべきだった。 ヴィスト軍の正確な兵力は2人にとって不明であったが、その程度の事に頭が回らない訳は無い。「…………。いや、マックラーまで長駆せずとも良い。この周辺で略奪を行うだけで面白いように諸侯は動揺するだろう」「つまり、諸侯が領内を略奪されるのを看過出来なくなったその時に、奴らは労せずして我々を野戦に引きずり込める訳か」「いくら堅固な城砦に拠っていようと、自分の庭や家を荒らされて冷静でいろというのが無理な注文だろう。たとえ我々貴族が我慢しても、末端の兵士の動揺まで抑えきれるものではない」 クングールの守備隊はともかく、召集を受けて集結した諸侯の軍勢は元をただせばそれぞれの領地に住む住民である。敵軍が周辺を荒らしまわっているとなると、誰しも家族や故郷がどうなっているのか心配になるだろう。 指揮官に強力なカリスマが備わっていれば話は別なのかもしれないが、少なくとも今ここに居るビルド王国軍にはそのようなカリスマの持ち主はいない。 ウェストンもそれを知りながら、しかし立場上言わなければいけなかった。「そこを何とか抑えてくれ。我らが陛下より命じられたのはここクングールの死守だ。そう軽々しく打って出るわけにもいかぬ」「だからと言って籠り切りという訳にもいくまい。敵に我々の庭を我が物顔でのし歩かれて何もしないというのでは士気に関わる。 少なくとも1度は打って出るべきだ。それも、配下に動揺が広がるよりも先に、だ」「その留守を突かれたらどうする? 敵の総数も未だ分からないのだぞ」「なに、ある程度は予測できる。 国境を突破した際の速度から考えて、5万6万という大軍ではあるまい。いくらヴィスト王国の動員が早かったとは言え、そんな大軍をこれほど迅速に動かせるほどの前準備が整っていれば気付く。 かと言って少なすぎれば侵入を悟らせずに破竹の進撃を行うというわけにもいかんだろう。 故に、多く見積もっても2万前後で、最低でも1万といったところだな」 ファーレーン侯爵の予想は現実にロンゼン・セルアイアンの指揮する兵数とピタリと揃っていた。 現在までに集まっているヴィスト国内の情報も鑑みた現実的な予想ではあるが、ビルド王国西部を代表する貴族というのは伊達では無い事を示している。 もっとも、マックラー方面でのヴィスト軍の大量動員に関して完全に裏をかかれている辺りがビルド王国の限界をも示しているのだが。 いずれにしても、彼らを含めたオルトレア連合はヴィスト王国軍の進攻の意図を掴み切れてはいなかった。「その予想が正しいとしても、最悪の場合は我が軍とほぼ同数ではないか」「互いに正面から野戦でぶつかるのであれば、勝負は分からん」「そのような半ば博打のような判断でクングールの命運を決めようと言うのか? 私は反対だ」「……この場の指揮権は司令官殿にあるが、しかし実働部隊のほとんどを占めるのは我々貴族の配下だ。せめて彼らを司令官殿が説得してくれねば私とて抑えきれん。 裏切り者という視線を浴びながら指揮を執るなどという難事に挑むのは、この老骨にはいささか以上に骨が折れる」「ファーレーン侯爵……っ!」 クングールの防衛を第一に考えるウェストンと、クングールを含んだビルド王国西部全体の保持を考えるファーレーン。 拠って立つ処が違う2人の結論は、それぞれ違う所にあった。 即ち、籠城か、野戦か。 意志の統一が出来ていない現状では迂闊に軍を動かせないが、しかしその意志の統一こそが至難の技だった。 現状このままであれば籠城しているのと変わらないかもしれないが、強固な意志の下で籠城するのとただ状況に流されて城に籠るのとでは天と地ほどの違いがある。 精強で知られたヴィスト軍相手に、惰性や流れで対応を決めていて勝てるはずもない。「…………。ともかく、いずれにしても物見を増やして敵の詳細を探らねば迂闊に動けないだろう。方針を決めるのはそれからだ」「……まぁ、卿の言う事にも一理はあるか」 結論は、先延ばしにも近い物だった。 今ここでどちらかの意見を強硬に押し通したところで、遺恨が残って軍集団としての動きが阻害されるのは火を見るよりも明らかだったからだ。 それが分かっているからこそ、迅速に動くべきだと考えるファーレーンも折れた。 だがしかし、この反応こそがロンゼンが最も引き出したかった反応。 無難に場を纏めようとするのであれば、どんな優秀な指揮官であろうとも取りうる選択肢は限られる。 その間隙を突いて、ヴィスト軍は蠢動する。 奥深く、ビルド王国内を南下して――