領主が代替わりして以降ありとあらゆる様相が目まぐるしく変化しているリトリー公爵領ではあったが、もちろん変わっていない事も多々あった。 その中の一つに、領民や家臣団の間に暗然と知られている一つの小噺がある。 曰く、「領主様が熱を出して寝込んでもリトリー領はくしゃみ一つだけで何事もないが、カーロン様がくしゃみをするだけでリトリー領は即病床送りになる」 セージの発案する事は発想が奇抜な事も多いが、確かに効果が上がっている。 先代に比べれば貴族として浮いてしまうほどに節制を心がけている事もあり、概ね彼に対する評価は高かった。 だがしかし、公爵家の平常業務を切り盛りしているのは相変わらずこの老臣なのだった。 内政・外交・軍務その他諸々の諸官の総纏めを行いつつセージに対して高度な助言を行える人間は、彼をおいてほかに居ない。 ひと頃の警察隊や警察予備隊・学園の立ち上げ等などに関する業務の忙しさからは解放されているものの、それでカーロンの元に持ち込まれる案件が減る訳ではなかった。 割とカオスな事になっている学園の事に関してはある程度現場に丸投げしてしてしまっているが、それでも問題がありそうな入学希望者の選別にはカーロンが直接関わらざるを得ない場合もある。 北方の情勢が悪化し続けている現状では情報の収集と分析を怠る訳にもいかない。 今のところは一葉姫付きの女武官である黒尼が携わっているとは言え、カーロンの手を完全に離れる事はあり得ない。 軍や警察隊に関してもオイゲンやビリー、クライドを始めとした後進が何とか平常運転をこなしているものの、何事かが起こればカーロンまで問題が上がってくる。 ついこの間も、猟兵小隊を新たに編成するという事で少なからぬ労力を費やしたばかりだ。 だが、カーロンの胃にダメージを与えるのはそれら領内の問題だけでは無い。 リトリー領内や近隣領地には、それぞれの思惑を持った勢力がそれなりに存在しているのだ。 まず、獣人族等の受け入れに際して森の住民達と危うく武力衝突するところだった事がある。 突如として移民――実のところ、これは獣人族に限らなかった――が大量に流入してきた結果として、森の住民と新規住民とのいざこざの発生頻度が加速度的に増加。 一時は領民の要請を受けた警察隊と応援に呼ばれた警察予備隊の一部中隊が森の住民の民兵集団と睨み合うという、まさしく一触即発の事態にまで発展していた。 そんな状況下で森を捨てた森の住民などという双方にとって厄介な存在をあっさり雇用してきたセージに対してはカーロン怒りの半日説教&現状説明会が開かれたりもしたが、結果的にはカーロン自身やタイオンを始めとする文官及びビリーによる交渉が上手く纏まった。 今まで通りの相互不干渉に近い状態を維持する事に決まった事で、辛うじてカーロンの胃に穴が開く事は無かったのだった。 もちろん、それらの影でオイゲンがカーロンに平謝りしていたりケーニスが色々と不機嫌になったりネイやクライドが獣人族側を取り纏めるために奔走したりと、それぞれのドラマがあったりもする。 あるいは、セージが完全にエルト貴族の社交関係を無視している事に頭を抱えたりというのもある。 なまじセージが目指すところが見えるだけに、カーロンとしてもそちらに必要以上に時間を割けとも言えないのがさらに問題をややこしくしていた。 貴族社会は無視できないが、だからと言って軌道に乗りかけている領内体制の構築を疎かにも出来ない。 今の公爵家の尋常ではない政治的決定の速さを支えているのはカーロンの実務能力とセージの決断の速さによるところが大きいので、セージが他の事に拘束されてしまうと途端に領政の効率が目に見えて落ちるのだ。 確かに実務はカーロンを始めとする諸官が担っているが、セージの裁可や判断が必要無いという訳ではないのだから当然である。 これで時間に余裕があれば何とでもなるのだろうが、生憎とヴィスト王国は時間に厳しい。 結局、現在のところはウルザー家とロイア家に対する義理だけは大切にするように、という対応に留まっていた。 エルト王国内の政治と軍事に関して強力な影響力を持つ両家との仲さえこじれなければ他の有象無象の貴族はどうとでもなる、というのがカーロンの見立てであったからだ。 実際、リトリー家は王家に次ぐ大身と言ってもいい立場にあったので、余程の事が無い限り敵に回そうなどと考えるエルト貴族はいなかった。一時期に比べれば衰えたとはいえ、エルト3公の名は大きい。 とは言え、やはり中央での影響力の減少は避けられそうにもなかった。 ムストや宰相との繋がりはあるとは言え、貴族達の発言力も馬鹿には出来ないのだ。そんな中では、いくら名門とは言え社交界に出てこない12歳の当主の発言力などタカが知れている。 ヴィスト軍相手に奮闘した実績はあるかもしれないが、それだけで通じるほど政争の場というのは甘くは無い。 セージに好意的な立場をとるムストは爵位を持たないが故にエルト国内の貴族には軽んじられがちであったし、国内に睨みが効くロイア伯爵は特定の個人に肩入れする事はまずあり得ない。 アルバーエル将軍やノア将軍といった軍の重鎮に気に入られている事は、軍事に関わるならともかく政治の場ではそう効いてくる訳ではない。 これは余談だが、エルト3公のうち2人までが国内の政治動向に対してほぼ全く手出しをしない状況にあるというのはロイア伯をして頭を抱えせしめていたりする。 最悪、反ロイアで動いてくれた方がまだしも雑多な貴族達の動向を把握しやすくてよろしいのだが、等と冗談ともつかぬ事を考える程度には。 残るキューベル公爵は貴族相手の重石としてロイア伯のサポートに奮闘してはいるが、代替わりしたばかりで万全とは言い難い。 結果、雑多な貴族がそれぞれに統制のとれない集合離散を繰り返しつつ国政に口と手を挟もうと蠢動するという、何とも始末に負えない状況が出現している。 一応、軍の実権を握っているアルバーエルがロイア伯を全面的に信任しているので宰相に対する表立った反発は出ていないが――「エリック殿も苦労しているようじゃな……」「エルトの誇る白狐殿と言えど、本来貴族達を纏め上げる3公のいずれも中央の政治に関して力にならないというのではやりにくいでしょうな」 ロイア伯爵からの私信を丁寧に折り畳んで、そう苦笑するカーロン。手元には蒸留酒の入ったグラスが涼しげな汗をかいている。 差し向かいでグラスを手に取っていたオイゲンが、一口琥珀色の酒で喉を焼いて相鎚をうった。 場所はカーロンの私室だ。飾り気のない部屋の中で、唯一の彩りと言ってよいのが2人の手元にあるグラスであった。派手ではないが、重厚な質感と丁寧に作りこまれた彫がその価値を物語る。 グラスに浮く氷はオイゲンの部下の魔法使いに頼んで調達したもので、これらだけが彼らのちょっとした贅沢だった。「まぁ、宰相殿もその辺りは織り込み済みじゃろうて。ウルザー公は政治向きの動きを避けておられる節があるからな。軍権をあらかた握っておる面からの遠慮と性格から来るものとは半々じゃろうが……。 他方のキューベル公は代替わりしたばかり。ロンギュスト殿はそれなりに上手くやっておられるとは思うのじゃが、先代と比べてしまうとの」「それに加えてセージ様も代替わりしたばかり。しかもまだ12歳ですからね」「これで中央の老獪な政治状況を上手く捌けるような方なら、このヴィンセント=カーロン、己の不明を恥じて憤死しておるところじゃわい」「カーロン殿がそうなら、私などどうなるものやら想像もできませんな」 口を笑みの形に歪め、オイゲンは手元のグラスを静かに机に置いた。氷が踊り、涼やかな音が鳴る。「初陣の時は驚いたものです。それに、奈宮へと参った時も。こう言っては何ですが、当主になる事でこうも変わるものかと内心の動揺を隠すのが大変でしたよ」「みな、多少やんちゃな普通の少年だとばかり思っておったからな。立場は人を作るとはよく言ったものじゃが……。 このヴィンセント=カーロン、自らこう言うのは愚かしく無様ではあるが。 セージ様には今少し、少年のままで過ごしていて頂きたかった。 いやせめて、こうなると知っておればあの船は――」「カーロン殿、もはや悔いても時は戻りますまい」「クロード! ……いや、そうじゃな。お主の言う通りじゃ。悔いても時は戻らん」 グラスを手放した手を強く握りしめるオイゲンの姿を見て、そうしてから杯を呷るカーロン。 2人が共に時間を取れる事などそうない事から差し向かいで飲む機会はそう多くは無かったが、たまの機会には酒量が増えた。 互いに、思う所は多い。先代の統治――と、そう呼べる物であったかどうかは当人達が最もよく知っているが――の事を良く知る古参の臣の中でも中心的な立場にあった2人だ。 互いに互いを良く知っているし、ある種一蓮托生の間柄でもあった。今はどうかは、セージ次第といったところか。「それにしても、相変わらずトラブルに忙殺されているのは何ともなりませんね」「昔よりはマシじゃろう。トラブル自体は厄介な物が多いが、前向きじゃ。処理していて暗澹たる気持ちになるなんて事は少ない。 ……ややバカ騒ぎの類が増えた気もするが、若い連中が少しずつ集まってきとるせいかもしれんの」「やはり、獣人族が?」「いや。彼らに関しては、既存の住民とのトラブルは、まぁ森の住民とのアレを除けば無いに等しい。彼らは彼らで独自に集落を築いておるからの。そのせいで森の住民と全面対決一歩手前までいったのだから、一概に良かったとは到底言えぬが」「では、他領からの流入ですか……」「エルスセーナに出稼ぎに出てきた若者の定着が思ったより多い。恐らくじゃが、治安の良化と税の引き下げが効いておるの。ジーの村付近の船着き場も順次拡大しておるし、徐々に領内がコドール大陸南方の交通の結節点となりつつある。 出稼ぎの若者にとっては、王都とエルスセーナのどちらに行くか迷う程度にはなっておるようじゃな」「南北交通に加え、東西交通も打通しそうですからね」 元々南北交通の要所であるハイマイル峠を領内に抱えるうえに、ヌワタ地方からの街道の接続とノイル王国方面への河川交通が整備され始めていた。 治安の良化と税率の引き下げもこれに加わり、利に敏い商人達がまずリトリー領内へと進出していた。無論、元からこの地に根を張るマイル商会を始めとした商人も彼ら以上に商活動を活発化していた。 もちろん王都と比べればエルスセーナの経済活動の方が小さいが、底まで落ち込んでからの回復途上なだけに求人の数はそれなりに多い。上昇途上という勢いもあり、各地の人々の話題に上る事が少しずつ増えてはいた。 物と人が流れれば、当然金も流れる。また、統治者が領内開発に投資した資金は消費として領内経済を活性化して景気を浮揚する。 農産物の収穫や鉱工業の生産高を増やすのは一朝一夕では進まないが、物流拠点として発展するのであれば――人口増や農工業生産増に比べれば――比較的短時間で事は進められる。リトリー領の立地条件の良さこそが今のリトリー家の最大の武器であった。 そうして、セージが矢継ぎ早に行った政治的決定の内のいくつかが芽を出しつつある。もちろん埋まったまま朽ちそうな種もあるが、幾ばくかでも芽が出ているのは大きい。それが大きく育てば言う事は無いだろう。 一見して順調そうに見えるが、しかし大きな落とし穴もあった。「ただ、周辺の領主に関してはの……」「どちらの対応を取られそうですか?」「エルス湖南部周辺の領主に関しては、もはや時間の問題じゃな。既に湖上交通の拡大の流れは止められんし、農産物や魚の売買を通じてリトリー領の経済圏に巻き込まれてしまっておる。今更どうこう言えるものではないだろう。実際に、学園にも何人か領主の子女が通っておる事だし」「本当ですか? 俄かには信じ難いのですが……」「流石に面接は直接行ってはおるが……。ものの見事に、セージ様と歳の頃が近しい女子ばかりじゃったわ。彼らが何を考えているか、実に分かりやすいの」「分かっていて許可したのですか。カーロン殿もお人が悪い」「セージ様は、私的な事ではどうも姫様には頭が上がらぬようじゃからな。度の過ぎた女好きという訳でも無さそうじゃし、彼女らには悪いがの」 つまり、体のいい人質である。無論、それが公的な物でなくともセージと男女の仲になれば周辺領主にとっては強力なコネになるが。 もっとも、双方共にこの辺りは織り込み済みだ。送り出した当事者にとってさえ、男女の仲になるかどうかは当たれば儲け物程度のオマケに過ぎない。 自分達がリトリー家に接近したいという意志さえきちんと伝わっていれば概ね問題無いのだから。「しかし、西街道沿いの領主はあまり面白くはなさそうじゃな」「ライーゼの街もカレントの街も、景気は良くないそうですからね」「治安も若干ながら悪化しておるという話もある。さりとて、税の取り立てや罪人の処罰は領主の権利じゃからな。警察隊を派遣してどうこうというのは不可能だし、商人達の自由は束縛出来ん。 かと言って、彼らの要求通り補償金を支払う等というのも馬鹿馬鹿しい話じゃ」「そんな要求が出ているのですか?!」 思わずといった風に声を上げるオイゲンであったが、無理もない。 ライーゼの街やカレントの街の貧困層の生活の悪化に対する義援金という名目ではあったが、大きくてもせいぜいが伯爵程度の宮廷序列でしかない領主が公爵相手に要求するような内容ではなかった。 セージが――主に年齢と経験の点から――舐められているという見方もできるし、彼らがそれほどに切羽詰まっているという見方もできる。いずれにしても、尋常な事ではなかったが。「内々に、というレベルじゃがな。むしろ、このままでは立ち行かなくなるという悲鳴にも近いのかもしれぬが……。これ幸いと、彼らに接近しておる貴族もおる」「……セージ様には?」「もちろん申し伝えてはおる。じゃが、『限りある資金を領地と警察隊・警察予備隊の整備拡大に注ぎ込むのとエルト国内の貴族へばら撒くのと、対ヴィスト戦を睨んだ上でどうすれば一番有効か考えるべきだな』と言われてしまってはな」「我らの金庫には無限に金が詰まっている訳ではない、か」 今のところ、マイル商会の協力分の貯金と減税したにもかかわらず若干の伸びを見せている税収及び公爵家が出資している河川交易の収入で何とか収支バランスが保てている、というのが実態だ。 将来的に独自の戦力として存在感を示せる数字――具体的には槍・騎馬・魔法・他の混合編成で1万~1万5千程度の正面兵力をそろえるのが目標として、現状の充足率は3割に届くかどうかといったところだ。つまり、そう遠くない未来には最低でも現状の収入の3倍から4倍は必要となってくるという事である。 カーロンがどんなに楽観的な財務見通しを持っていたとしても、1B(ブレット)たりとも無駄には出来ないだろう。常識的な財務担当なら無茶な軍備を計画する君主を腹を切ってでも諌めるところだ。 だが、ヴィスト王国軍の奔流をハイマイル峠という堤で抑えるにはその程度の数は最低限必要である。ハイマイル峠からエルスセーナに至る土地は平野部が狭いせいで大軍を展開するのに不向きだとは言え、数千程度の軍勢では波状攻撃を食らった際にあっさりと土俵を割りかねない。 そしてかつ、元々軍事色の薄いエルスセーナの防御力は当てにならない。「傭兵や臨時に徴兵した農民兵を一切軍から排除するというセージ様のお考えには正直やり過ぎだと思っておったのじゃがな……。南ヘルミナでの戦いで率いていたのが農民兵などであったらと思うとな」「それほどですか」「あぁ。……強い。そう肌で感じた。ノア将軍の横撃への対処など、思わず笑ってしまうほどじゃったわ。将兵双方のレベルが高くまとまっておる。 なるほど確かに、あれに対抗しようと思うのであれば生半可な調練では届かぬわ」「……手を拱いていればヴィストに蹂躙され、蹂躙されまいとすれば財政破綻へまっしぐら、ですか。あまり愉快な未来図ではないですな」「まぁ、財政破綻に関しては何とかなるだろう。セージ様の発想は突飛過ぎて理解し辛いものも多いが、それなりに効果も出ておる。それに、戦局が差し迫ってくれば領内の獣人族や王家からの支援も期待できる。 セージ様もそう読んでおられたが……。甘いのか抜け目ないのか、抜けているのか冴えているのか……」 苦笑し、グラスを傾けるカーロン。 自身の仕える相手の事が良く分からないとは思う。 どういう思考経路でその発想に至ったのか理解が出来ない発想がいくつもある事。 領主として立つ前と後で別人のように豹変した事。 戦場では肝の据わっているところを見せるくせに、時折何でもない事で腰砕けになる事。 政務での姿と、たまの休みの時の姿と。 一葉やネイ、ケーニスに対する視線。ロイア伯親子やアルバーエル将軍に対する視線。カーロンやオイゲン、黒尼等に対する視線。それぞれの微妙な温度差や色の違いは、さてどこからくるものなのか?「……まぁ、いずれにせよ我々は我々の成すべき事を成すだけか」「もちろん、私達がここに居る理由はそれしかありますまい」「違いない」 ――2人にとってこれが、コドール大陸南部に戦火が迫るその前の最後の酒席であった。