後に南ヘルミナ騒乱と呼ばれる事になる一連の戦闘の最終段階において、ヴィスト軍もリトリー勢も蓄積した疲労は既に限界に近かった。 相手の半分以下の数で戦い続けているリトリー勢の疲労蓄積が深刻なのは無論の事だが、ラルン近郊での決戦において損耗した部隊との交換要員としてヴィスト本国から進出して以降、再編とヘルミナ南部への進出を立て続けにこなしてきたヴィスト軍の疲労蓄積もまた深刻なレベルに達しつつあったのだ。 最終段階の戦闘では双方共に僅か1日で尋常ではない被害を受ける事となったが、その裏にはこうした事情も絡んでいた。 そもそもの話をするのであれば、このように連続して戦闘行動を行える事自体が非常識であると言わざるを得ない。 短時間で複数回の戦闘を行うには、ダメージを受けた軍集団組織の迅速かつ的確な再編と悪条件下で戦い続ける事の出来る高い練度が必要とされるからだ。 少なくとも軍の作戦能力が将軍個人の能力に依存する割合が高い時代においては、それが可能な軍は決して多いとは言えない。 その点に関して、多少なりとは言え近代軍制のシステムを導入していたリトリー勢は比較的幸運だった。 下士官の比率が高い事と常備軍故の練度の高さが幸いして、再編の際の混乱は最小限で済んだからだ。 それに対し、セルバイアンという将を得たヴィスト軍もまた幸運であっただろう。セルバイアンは幾つかの作戦における失敗から後世の歴史家に辛い評価をされる事もあるが、その能力の高さには疑う余地が無い。 事実この騒乱においても、大きな損害を受けつつもなお兵の統率を保ち、戦闘能力を高いレベルで維持する事に成功している。 リトリー勢と違い、それがセルバイアン個人の能力に依ったものである事を考えると特筆すべき事だろう。 もっとも、双方の軍の作戦能力の高さこそが双方の軍の兵士達により過酷な戦場を経験させる事になるのは皮肉としか言いようが無かったが。■ 戦闘が開始されたのは、村落正面の入口だった。 環壕集落の常として出入口は狭く、数に劣るリトリー勢にとって1番勝負になる地形である。ヴィスト軍としては避けたいが、他の入口が橋を落としてバリケードを築くという物理的手段によって封鎖されている以上、ここを突破する以外に村落内部に迅速に踏み込む手段は無かった。 狭い地形でヴィスト軍を押し止めて時間を稼ぐしか勝機の無いリトリー勢の抵抗は当然激しく、戦闘開始から僅かな時間で周囲の堀に血と屍体が溢れる事となる。 あるいは時間に猶予があれば展開は違ったのだろうが、ヴィスト軍にはその時間が決定的に不足していたのだ。 だからこそ、下の下と分かっていながらもセルバイアンは麾下の兵をリトリー勢の待ち構える場所へ叩き付けざるを得なかった。 兵の命を代償に敵の体力を削り、継戦能力を奪い去る。セージ隊が700名と少し、セルバイアン隊が1800名弱という兵力差が可能とした強手である。 ……それは、あまりにも血生臭い手段であった。 さしものヴィスト軍も、死兵となって熾烈な反撃を繰り出すリトリー勢の前に及び腰になる。 いくら精強な兵と言えど、剣の届かない間合いから振り下ろされる槍穂と当たれば骨が砕ける飛礫の双方を前にしては盾を掲げて守りを固めたくなる。 彼らはカーディルの側を固める近衛でもなければ、ヘクトール率いる紅槍騎兵でもないのだから。 まして、味方の援護射撃が無いのだ。果敢に突撃するどころか、普通なら部隊が崩壊してもおかしくない状況である。 だが、ヴィスト軍は崩れなかった。 その事実だけでセルバイアンの指揮官としての能力の高さは称賛されるべきだろう。むろん、ヴィスト軍の兵の忠誠度と練度もだ。 惜しむらくは、セルバイアンに麾下の兵を“効率良く死なせる”自由が存在していなかった事か。 それでも亀の如き歩みで戦線を押し上げるセルバイアンの背後で、彼が短時間での突破にこだわらざるを得ない理由の1つが顕在化しつつあった。 ノア以下800名余による強襲である。 事前にこの強襲を読んでいたミリアが展開していた兵力は、セルバイアンとほぼ同じ1800ほど。しかも、前日までの時間を利用して一部の兵を再編し、増援として率いていた剣兵をセルバイアン隊の槍兵と交換してまで槍兵の比率を高めていた。 リトリー勢の用いる長間槍と比べると短く頼りない手槍ではあるが、それでも穂先を並べて方陣を敷いた際の防御力は高い。 対するノア隊の騎兵は、これまでの戦闘で定数1000のうち2割を損耗していた。健在な者も疲労は厳しく、騎乗する馬が限界の者も多い。 ノア隊の兵にとっては厳しい戦況だったが、ノアは敢然と戦端を開いた。 双方が激突した時、既に太陽は真上へと昇ろうとしていた。 既に独自の戦力だけでは能動的な行動を行えなくなりつつあるリトリー勢にとっては、とにかく太陽が沈むまで耐えきるしかない。 戦術行動としてはあまりにいきあたりばったりだが、組織的抵抗を継続する事そのものが目的となりつつある状況では些細な事だろう。 そして、セージの原石の輝きと政治的価値の重要さを父親とその同僚から耳にタコができるほど聞かされていたノアは彼を死なせる訳にはいかなかったという事情が、外線部の戦闘をも激化させる。 彼が死ねば、ようやく混乱が落ち着きつつあるエルト王国北部地域が再び混乱しかねない。何と言っても、リトリー宗家直系の血筋はセージしか残っていないのだ。 頑として後方への退避を拒むセージの事を、武人としてのノアは高く評価していた。生粋の武将や前線に身を置く兵士は、危地から真っ先に逃げる指揮官というものを評価しないという事もある。 そしてそれ以上に、自らが戴く指揮官が勇敢で優秀だと知る兵は真に手強い強兵となりうる事をノアは知っていた。 一方で、貴族としてのノアは怒りにも似た焦躁を強く感じていた。 セージがここで死ねば国内政治の混乱は免れない。にも関わらず、彼がいるのはもはや袋の中の鼠と言わざるを得ない場所なのだ。他にも頭が痛い事は色々あるが、現状はそれに尽きる。 兵達は確かに奮起するだろう。僅か11歳の少年が逃げ出すそぶりも見せずに本陣で仁王立ちしているのだ。これで奮起しないような奴は男じゃない。 セージ自身、それで楽になるかもしれない。時に、死地に残る方が逃げ出すよりも簡単である場合もあるからだ。痛烈に批難するのであれば、自己満足に過ぎないとも言える。 だが、巻き込まれる方は堪ったものではない。それがこの場におけるほとんど唯一の選択肢だったとしてもだ。 もちろん、ノア自身も賛成した作戦ではある。純軍事的に見た場合、これが最善だという考えに反論できなかったからだ。 とはいえ、だからといって感情的に納得出来るかどうかは別だ。 貴族としての自分はもちろん、1人の男としても、未だ納得などしていない。 ……様々なしがらみや葛藤を抜きにして、最も危険な場所に子供が立っているなど我慢できる事ではない。「死闘、だな……」■「死闘、だな……」 ノアが愚痴とも苦鳴ともつかない無意識の言葉を漏らしたのと同じ頃、奇しくもヴィスト軍の本陣でも同じ言葉が吐かれていた。 ミリアの、嘘偽り無い現状把握だ。 2重に戦線を構築した内線側ではセルバイアンが味方の兵士の血と屍体で舗装した道をじりじりと進んでいるが、カーロンの指揮の下頑強に抵抗するリトリー勢は未だ崩れる気配すらない。 抵抗を排除するにはまださらに多くの血と時間を必要とするだろう。 外線側では逆に、ノア隊がミリアの構築した防御陣と真正面からぶつかり合って互いに出血を強いていた。 槍兵と剣兵の隊列を交互に重ねた陣に真っ正面からぶつかったノア隊は、3層目までを1撃でブチ抜いた。 ヴィスト軍の最前線は一撃で蹂躙されてしまってはいるが、どちらかと言えば、トップスピードに乗った騎兵の突撃などという半ば質量兵器じみたものを3層までで食い止めたヴィスト軍の兵達を褒めるべきだろう。 隊列の中央を突破された槍隊は、潮が引くようにして側方から後方へ下がっていく。それとは逆に、剣兵は隊列を解いて砂糖に群がる蟻のようにノア隊に襲い掛かかる。 槍隊を阻止戦力とした、剣兵による漸減戦術である。それも、ノア隊が横列を一枚突破する毎に漸減戦術の参加兵力が増えるという悪辣な仕掛けまで潜んでいる。 ただし、緩衝材代わりに使われた上に漸減戦術にまで駆り出される剣兵の損耗は度外視されているが。「5列目、突破されました……!」「見れば分かるわ。6列目の剣兵は上手くやってるようね」「漸減より敵の突破の方が早過ぎます……」「そうね。8列目及び9列目に伝令。7列目に合流し、敵の突破を許すな。中央に密集して敵を押し返すのよ」「はっ!」「再編が終了した隊は本陣で待機」 太陽は既に天頂を越え、影が東に落ちるようになりつつある。 外線部での戦闘はほぼ五分の推移で、ヴィスト軍の隊列は甚大な被害を受けつつも粘り強く敵を受け止めていた。 初撃を受け止めて粉砕された槍隊の損耗率は合計で2割を越え、後方で応急の再編を終えたばかり。敢えて散開して戦闘を挑んでいる剣兵に至っては、戦闘状態に入った者のうち3分の1近くが大地に倒れた。 真正面から挑んで存分に暴れたノア隊もただでは済んでいない。敵将であるミリアには正確に把握する事は適わないが、ここまでで200名近い離脱者を出している。 これだけの被害を出してなお統率が維持されているのは驚異的な現象であったが、彼らはただひとつの命令をただただ愚直に守る事でそれを実現していた。――前進せよ。前進せよ。前進せよ! 全ての兵をすり潰してでも敵の片翼をもぎ取る。 ノアの執念が麾下の兵全てに伝播したかのような鬼気を伴っての突撃だ。 ただし、ヴィスト軍の状況は総指揮官のミリアのコントロール下にあったのに対し、ノア隊の奮戦はセージの思惑とは全く違うものだった。 セージとしては、ノア隊には過大な要求をするつもりは無かった。ヴィスト軍が全軍で村に突入を掛けられないように牽制できればそれでも十分というつもりだったのだ。 万全の態勢の敵に突っ込んで暴れるなどとは思っていない。あくまで、彼の中では騎兵は機動戦力なのだ。 ノアが打撃戦力として騎兵を使用した結果、リトリー勢の当初の戦術目標はある程度達成されてはいたが、代償としてノア隊の作戦能力は喪失しつつあった。 つまり、明日は無い、ということだ。■ ノア隊が急速にその数を減らしつつある中、2重戦線の内線側でも激戦によって死傷者が量産されつつあった。 セルバイアン隊の出血はノア隊に匹敵するレベルになりつつある。槍衾で前進を妨げられているところに投石をまともに受けているため、損害の拡大が止まらないのだ。 それに対するリトリー勢も、槍隊の損害が目に見えて目立ってきた。 比較的無事なのは第1、第6、第7小隊くらいで、特に第1小隊の奮戦は戦場全体を見ても抜けていた。リトリー勢の戦線が何とか維持されているのは彼らの働きに依るところが大きい。 だが、数の差だけはどうしようもなかった。疲労によって戦闘力が急速に落ち始めた前線が少しずつ下がりはじめている。 ……これは、駄目かな。降伏するのは……、政治的な自殺だよなぁ。 しかしいざとなったら決断しなきゃならないか。 心の内でそうぼやきながらも、セージは戦線のすぐ後方で仁王立ちしたまま全く表情を動かしていない。 既に戦況はセージの手を離れつつある。今更慌てたところで何も出来ない。 否。1つだけ手が無くはないが、セージはそれを決断しかねていた。「リトリー殿、一旦槍隊を下げて再編しなければ。このままでは完全に戦闘能力を失いますぞ」「敵が諦めてくれればすぐにでも再編するさ。生憎、日没まで諦めてくれなさそうだけど」「……リトリー殿。我々の覚悟はもう固まっています。最善を尽くして下さい。 それに……、いずれにせよ死が免れぬのであれば、最期まで戦うのが我らの生き方です」 ビリーの静かな言葉にも、本陣周りの獣人はしわぶきのひとつも漏らさない。 降伏しても処刑されるだけなのだから、今ここで死ぬくらいの覚悟は出来ていて当然だと言わんばかりの態度であった。「……戦線が硬直している今なら、逃げられるでしょうに」「誇りを殺すくらいなら僅かでも生き延びる可能性に賭けた方がマシです。それを抜きにしてさえ、僅か11の子供に助けられた揚句それを見捨てて逃げるなど、大陸中に恥を晒すようなものですよ。到底我慢出来るような事ではありません」「…………」「私が言えた義理でも無いですし、こんな事を言うのは酷だとも思いますが。 部下に『死ね』と言う事も上に立つ者の義務の1つです。必要な時に義務を怠ってはいけません」「部下を無駄死にさせない義務を放棄した覚えはないんですけどね……」 セージはそう言うと瞳を閉じて深いため息をついた。 内心の全てを吐き出すような、重いため息を。 それだけで、覚悟は決まった。 決めるしかなかった。 今この場では、零れ落ちる砂時計の砂の価値は砂金のそれより遥かに重い。浪費は許されない。「ビリー殿は麾下の兵を率いて敵勢に突撃せよ。突撃開始をもって槍隊は応急再編作業に入るため、後退はこれを許可しない。槍隊の再編が終了するまで1兵たりとも後ろに通すな」「はっ!」「……ビリー殿は必ず最後まで生き残れ。指揮する兵がある限り、彼らを最大限効率的に死なせろ。無駄死にだけは許さん」「微力を尽くします」 言葉は、それで終わりだった。 僅か5名ほどのセージの護衛と未だ前線を支える投石隊の要員を除いた獣人族の戦士全てが、手負いの獣の牙とならんとしていた。 既に策も兵力も物資も尽きようとしている今、残された手段はただひとつ。 時間を命で購う。それだけだ。 ――死兵が征く。■ おまけ 南ヘルミナ騒乱最終段階での両軍の編制。 なお、リトリー勢の弓兵隊150は残弾不足の為に戦闘能力を喪失。セージの厳命により、既に戦場から離脱している。リトリー勢 篭城戦力(指揮官:セージ・リトリー公爵) (カーロン隊) 警察予備隊槍兵7個小隊 定数350→約300 獣人族投石隊 約50 (ビリー隊) 獣人族抜剣隊 約350 合計 約700 強襲戦力(指揮官:ノア・ロイア伯爵公子) (ノア隊) 騎兵隊 定数1000→約800 合計 約800全軍合計 約1500(当初戦力の約25%を損耗)ヴィスト王国軍 内線部戦力(指揮官:セルバイアン備将軍) (セルバイアン隊) 剣兵隊 約600 (アーク隊) 剣兵隊 600 (ベア隊) 剣兵隊 約600 合計約1800 外線部戦力(指揮官:ミリア・ダヴー右将軍) (ミリア隊) 手槍兵隊 約600 (コーク隊) 手槍兵隊 約600 (ダン隊) 剣兵隊 約600 合計 約1800 伏兵・後方遮断戦力 (エディ隊) 剣兵隊 約100 手槍兵隊 約80 弓兵隊 約20 合計 約200 全軍合計 約3800(当初戦力の約27%を損耗後、600が合流)