馬車の中で、才人は眠っている。15分で起きる、なんてことはなく、朝、馬車に乗ってからずっと。
腕を組み、深くうつむいて、静かな寝息を立てている。
「ずっと寝てるわね」
「昨日、また徹夜したみたいよ」
才人の寝顔は、なかなか表情豊かだ。泣きそうになったりしかめたり、ポジティブな表情が無いのが特徴だ。
「教授……それだけは……それだけはぁ~」
「再……履?」
「……これをやれ……と?」
一時間半くらいの頻度で漏れる寝言にも、悲愴感や絶望が漂う。どんな夢を見ているのだろう。
「姉さま、才人が徹夜するのって……」
「言わないで。鬱になりそうだから」
言わなくても判る気がする。多分、アカデミーほど余裕のある研究ではなかったのだろう。
サイトのしている研究内容を聞いてみたが、正直、アカデミーの研究がおままごとに思えた。噛み砕いて説明しているのは判るのだが、どうしても判らない概念が多すぎる。それでも、比喩ではなく死ぬほど忙しいのはよくわかった。
「むしろ殺せ……」
「……寝言よね?」
何かあきらめたような顔で、もうどうにでもなれといった口調で才人が呟いた。酷い夢を見ているようだ。
「姉さま、寝ているギジュチュシャは起こしてはいけません」
夢から醒まそうとすると、ルイズに止められた。
「何故かしら」
「怖いです」
「……なるほど」
なんとなく、それには触れてはいけない気がした。まるで神の禁忌のように。
幾度かの休憩をはさんで、トリスタニアについたのは日も傾きかけた夕方だった。道中、不安をまき散らしていたサイトは、馬車が止まるたびに眼を醒ましては安堵の溜息をつき、『俺は、自由だ』などと重く呟いていた。トリスタニアにつけば起きるのは判っていたので放置していたが、まったく、不思議な人だ。鮮紅に染まっていた眼も、今では人間らしい白に戻っている。眼の下の隈もやや薄れてきている。
「っくぁ……よく寝た」
こうして見ると、素材はいいのかも知れない。今は不健康そうな顔をして、髪もぼさぼさで、全体的にくたびれているけど、磨けば光りそうだ。
「夕方か~。結構遠いんだな」
寝起きとは思えないほどにしっかりした動き。すぐに馬車を降りて、物珍しそうに当たりを見回した。
「ふーん。やっぱ中世ってところだな」
ポケットから取り出したメモ帳に、ボールペンを走らせる。何度見ても素晴らしい製紙技術とペンだ。今まで使っていた紙と羽ペンより遥かに書きやすい。一本貰ったが、それを元に全力で複製している。規格品と大量生産ができないのが魔法の欠点だと思い知らされた。サイトは『科学でできて魔法でできないことがあるのと同じで、魔法にも科学でできないことができるから、そこを補い合えばいい』と言ってくれたが。魔法と科学の融合……
「姉さま、大丈夫ですか?」
「え? あ、ええ、大丈夫よ」
ルイズが想像の世界から私を引きずり上げてくれた。サイトのいう、『夢が広がりんぐ』の意味が判る気がする。
「ねえサイト、いつまでも見てないで、先に宿に行きましょ」
ルイズが道や店を見つめてメモをとっているサイトを促す。お母さまには四泊五日の許可を貰っているが、移動を考えると三日しかない。馬車を御者に任せ、すぐに宿に向かった。
予想通りだった。
文明レベルは中世ヨーロッパ。歴史にはあまり詳しくなく、中世といっても時期によって違うが、おおよそ俺の予想していたのと同じ。
技術レベルは高いように見える。恐らくは魔法、それも練金などによるものだろう。全体的に綺麗にできているように見える建造物も、日本の建築が基準の俺の眼からすると、僅かに歪んで見える。感覚としては、測定もせずに、調整していない工作機械でパーツをつくったような感じ。もしくは、粘土で作った物を焼いて固めたってところか。正確な測定器がないらしいから、それも仕方がない。というか、ある程度強度があればいいだけから、測定器が必要とされないっぽい。
「地震が起きたら終了(オワリ)な街並みだな」
災害対策は全くなし。大通りですら5mくらいで、しかも出店やらでさらに狭くなっている。そこを大勢の人が流れている。避難経路は無い。テロをするにはもってこいの街。これだけ混んでいれば、犯罪も多いだろう。
「地震? そんなもの、滅多なことじゃ起こらないわよ」
欧州らしい。これが東アジアの島国地域だったら、震度3以上のがちょくちょく、時々大震災が発生するってのに。日本の木造建築が馬鹿みたいに)強いのは、地震や毎年恒例の台風のおかげだったり。自然災害が人類を強くするのは歴史が証明している。
「うらやましいな。俺の祖国は毎年何度も地震が起きるんで、建物はやたらと頑丈だぞ。……ん?」
一瞬で思考が塗り替えられた。五感の一つが過剰反応し、別の一つがそれをロックオン。足が自動的に動き出し、腕は邪魔な人間どもを押しのける。
「ちょ、ちょっと! どこ行こうっての……よ?」
それは一つの出店。
「お? お客さん、興味あるかい? なんなら試しに一杯どうだい?」
差し出されるコップ。そこに注がれた熱い液体。
俺は迷わずその杯を受け取り、口に含み……
「ぶっふ―――――――――――っ!」
すさまじくまずかった。
「うわ! 汚ねぇ! てめ、何しやがんだ!」
同時に湧き上がる怒り。これは俺に対する挑戦である。誰がどう否定しようと。
「……貴様」
「ひっ!?」
「茶の淹れ方も知らず、売りに出すとは笑止」
カウンターの裏に回り、そこにある設備を見、それを手に取る。
「あ、あんた何しやが……」
「黙って見ていろ」
沸騰した湯をたたえた鍋を火から下ろし、幾つかのコップに分ける。早く冷やす技だ。
冷えたら鍋から湯をつぎたし、適温に調整する。
急須に葉を少しだけ入れ、湯を入れる。蓋をして揺らしながらしばらく待ち、二つのコップに交互に淹れる。最後の一滴まで。
「飲め」
「あ、はい……これはッ!?」
店主がなにやら驚いているようだが、そんなのは興味がない。正しく淹れて、どれだけの葉か知りたかった。質のいい上質の葉なら、先ほどまでこの店主に淹れられていた葉は不敏だ。
「……ふぅ。悪くは無いけど、これといって上質なものでもないな。だが……緑茶はいい……」
この懐かしい香り。この世界に来てから三日しか経っていないが、それでもそう思えてしまう。ああ……旨い。
「何やってるのよ」
「緑茶? これが東方のお茶なのね」
『東方の地 ロバ・アル・カリイエからの舶来品 緑茶! 紅茶とはまた違った味わい』と看板の出された出店に、ルイズとエリーがやってきた。カウンターの中で一息ついてるのを見てルイズは呆れているみたいだったが、エリーは興味を持ったようだ。
「飲んでみるか?」
と訊きつつも飲ませる気満々である。既に淹れている。
「そうね……もらおうかしら」
「ねえサイト、もしかして……」
「ああ。我が祖国ニッポンでは、日常的に緑茶が飲まれている。これを飲まない日本人はいないぜ」
緑茶は低温でじっくり淹れるものだ。一部では水出し玉露などもあるくらいに。常に何もかもを高温に保たねばならない面倒な紅茶よりはお手軽だが、緑茶を淹れるプロセスには各家に先祖から代々伝わる極意があるのだ。葉の量、湯の温度、淹れる時間、揺らす半径、その速度、それらを茶葉の状態や気温、飲む者の状態により臨機応変に操り、最高の味を抽出する。その極意。母さんから叩き込まれたこの技術は俺の誇りだ。
「はい、どうぞ」
「ありがと……あ、おいしい……」
「紅茶とはまた違った美味しさね」
なかなか好評のようだ。
「で、この俺のライフラインを入手したいんだが……」
「まあ、いいわよ。少しd」
「主、あるだけ出せ! 全部買う!」
許可が出た。少しだけなんて、俺が許すわけ無いだろう?
「ちょ、サイト!?」
「いいじゃない。これを逃したら買えないかも知れないんだし、はい、お金」
流石エリー、話せるじゃないか!
「あ、あの、お客さん、お名前をお教え……」
「うるせえ! 才人だ! おい、これで足りるか?」
「はい、ではお釣りを」
釣りと袋入りの茶葉を受け取り、意気揚揚とカウンターを出る。なんだか背後に熱い視線を感じるが、知ったことではない。今は異界の地で緑茶が手に入ったことをただひたすらに喜ぶ時だ。何人たりとも、この幸福を邪魔することは許さん。
宿についてティーポットを借り、一服してやっとクールダウンした。まだ心は踊っているが、精神安定剤(お茶)が入っているので躯はくつろいでいる。
「十杯目よ。よく飽きないわね」
「人には譲れないものが最低十はある。技術者は更にその十倍はこだわるものがある。つーか、ルイズにとっての紅茶だと思えば判りやすいだろ?」
まったく違う環境に放り出されて溜まっていたわずかなストレスが、安堵の溜息とともに抜けていく。これが安息というものだったか。文字通り忙殺されて、デスマーチが日常になってどれくらいだったか。ストレスにも疲労にも慣れきっていた事実に驚きながらも納得していた。
課題、レポート、実験、設計、研究、講義、今その全てから解放されている。教授無き異世界で、新たな人生を書き連ねる。俺は変わる。
「紅茶なら仕方ないわね。おかわり」
「そういうおちびだって、もう五杯目よ」
「うっ……」
「ははははは、その芳香の魅力に飲まれるがよい」
「偉そうに……」
あの忙殺地獄から救い出してくれたことに関しては、ルイズに感謝しなくてはならないのかも知れない。それが誘拐のような形であっても。
「ねえサイト。何書いてるの?」
俺のメモ帳に、エリーが興味を持ったらしい。
「色々、だ。俺の常識に無いもの、気づいたこと、儲かりそうなものとか」
「何か判った?」
「首都とは思えないな。全体的に道が狭くて混むから、敵国のスパイが破壊活動でもしたら被害は甚大。人ごみに紛れて犯罪もしやすい。同じ理由で自然災害にも弱いし、避難経路も避難場所も考えられてない。衛生観念がないからか、ゴミや汚れが目立つ。伝染病が流行ってないのは、下水が整備されてるからかな?この規模で都市計画を考えると、整備するより首都移転の方が手っ取り早いな」
ざっと見た感じをエリーに報告する。日本の満員電車の中で乗客全員が不自由気ままに歩き回るようなものだ。人との接触が飽和し、スリや痴漢が日常となる。そんな中で爆発とか、いや、パニックを演出するだけでいい。ぷよぷよみたいに連鎖して、圧死する人が多発するだろう。そんななかにウィルスキャリアがいたら、一気にペストの嵐と同じ状況に陥る。
「伝染病?」
「汚染はあらゆる病の元なんだ。ウィルス、病原菌、アレルギー、精神汚染、薬物汚染、数えればきりがない」
「…………」
「カトレアは違うよ。あれは多分、躯の方に問題があるんだと思う。俺は素人だから断言できないけど」
まさか、と言いたそうなエリーを安心させるため、というのもおかしいが、俺の予想を言ってみた。元の世界のテレビ番組『密着! 救急○命24時』とか『本当は怖い た○しの家庭の医学』などで得たうろ覚えな知識だが、どうあがいたって技術が進歩するまで、医学や薬学が進むまで俺にできることはないんだ。気休めくらいは言って、ちょっとだけでも安心させてやることしかできない。
「言い方は悪いが、カトレアは今すぐどうにかなる訳じゃない。悔しいけど、焦らずに確実に、技術を進歩させていくしかないんだ」
「そう……そうよね」
以降、必要でない限り病気や医療の話はしないと誓った。
「んで、俺は思った訳だ。正確な計測器が欲しいと。マザーマシンと刃物と精密測定器は定期的に補給しないと狂い死んじまう」
無理矢理話題を変える。鬱鬱しい雰囲気は苦手だ。なんの脈絡もなく話題を変えるのは技術者の特権である。
「……測定器?」
「たとえば小麦売った金を税として徴収するとしよう。この小麦を売る時、最も安定した計測方法は何だ?」
「体積?」
「重さかしら」
「ルイズ、正解。重量で計算するんだ。質が悪くてスッカラカンだったら最悪だからな。正確さは欲しい。で、これを見てくれ。これをどう思う」
さっきの緑茶屋から買った葉の袋を見せる。袋には値札がついたままだ。
「すごく……」
「量に差があるわね」
「計測技術が遅れているからな。大量生産で安く正確な重量計ができれば……」
『!』と頭の中で効果音が鳴る。頭の上には無論感嘆符。
ポケットの中身を取り出し、財布から使うとは思わなかった小銭をじゃらじゃら机に撒く。
「1円玉! 1gで直径20mmだ!」
日本で最も小さく軽い硬貨。他にも全種類じゃらじゃら揃っている。
「50円玉、4gで21mm、穴が4mm。そして7gの新五百円玉……」
我ながらよく覚えている。実験で分銅の量に困ったらこれを代わりに使っていた。殆どが平成20年以降の傷の少ないものばかりだ。
「へぇ……綺麗ね。これがサイトの国のお金?」
「ああ。日本円だ。通貨にして重量と長さの基準だ」
ルイズはそれほど興味なさそうに見ているが、エリーはテーブルにかじりついて、特に新五百円玉を穴があくほど見ている。重ねたり並べたり、立ててみたり。
「なんて……美しいの」
日本で聞いたら、大丈夫かコイツ、って眼で見られそうだが、ここはトリステイン。
「見なさいおちび! この『500』の字、角度を変えると中にも『500』が見えるわ! それにこんなに細かい彫刻が寸分違わず刻んであるわ! この『10』の硬貨なんて、こんな小さな円盤に城が!」
大はしゃぎだ。つられるようにルイズもそれに気付き、目を丸くする。
「積み上げても崩れない……いいえ、立てても倒れない? 大きさにも形にも全くばらつきがないわ」
世界で最も偽造しづらい札を見せたらどうなるのだろう。
「あ、ここ、とっても小さな字で何か書いてあるわ」
500円玉の18μmで刻んである『NIPPON』を読み取っているらしい。エリー、貴方の眼は顕微鏡ですか。
あの後、紙幣を見せたらエリーが感動して涙を流すなんてアクシデントがあり、最終的に二人は疲れ切って眠ってしまった。
《あとがき》
Oct.4.2009
緑茶は精神安定剤です。異論は認めない。
百利あって一害なしの、超健康飲料であるッ!
トリスタニアはなんというか狭いイメージが。手榴弾一発で百人規模で死人が出そうな都市だと思うわけです。主にパニックの方向で。路地裏も汚物が転がっているとかあるので、綺麗な街並みではない=衛生観念が発達してないかと。
日本の通貨は世界一チィィィィィィ!
偽造などできぬゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!
紙幣に限る。五百円玉は某国で偽造されたらしいし。
実際、金に使われる技術は果てしなく高度だと思います。結構新しい硬貨マイクロメータで測っても誤差はあまりないし。
サイトが何故そんなに詳しいかって? 技術屋ってのは大半の人が知らないことを覚えようとするものさ。
とにかく、マイクロメータ作る目途が立ちました。
手榴弾はパニックの起爆剤みたいなもんです。
さすがに混雑した街中で起爆した場合、死人は出ます。運河よくて(悪くて?)重傷です。破片は人を楯にすれば防げるので、直接の被害は数人くらいでしょうが。
実際は、爆弾で直接殺すよりもパニックを起こした方が政治的ダメージは大きいので。爆発で人が死ぬ必要は無いです。スタングレネードで充分です。
テロリズムの語源はテラー(恐怖)ですから。
《訂正》
カフェインの副作用忘れてた……
ついでに利尿作用も。
緑茶にも一害二害くらいはあります。それもコントロールしてこその日本人。
でも過ぎたるは及ばざるが如しです。
Oct.5.2009
リンクの異常を修正しました。
脱字を修正しました。
トリスタニアの道幅に関する記述を修正しました。
ご指摘、ありがとうございます。