間欠泉のような巨大な土煙が上がった。
怒濤のような足音と共に、大地が揺れる。
辺境都市アーミゼストから、南西に馬車で半日ほど離れた位置にあるブリネル山。
その麓にある広大な森の中で、とある大きな敵と村人達は戦っていた。
青空の下、剣を持った村人・アブが、大きく腕を振るった。
「撤退! 撤退だ!」
同じように弓を持った村人・メナが、後ろを振り返る。
「軽傷の者は、重傷者を抱えて後退! 無事な連中は、それまでこの場で踏ん張れ!」
「そりゃいいですけどっ! 俺達だけじゃ……!」
頭から血を流した幼馴染みの男を肩に担いだ若い衆が、弱音を吐いた。
アブは、剣を構え正面を向いたまま、背後の仲間達に語りかける。
「戦えとは言わん……せめて、みんなが無事避難するまで――やりすごす!」
「うわー、自警団長、地味に後ろ向きだー!」
怪我を負った若い衆が、情けない顔をする。
「じゃあお前、アイツと正面切って戦えるか?」
弓を構えたメナが冷静に言うと、怪我人の青年は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい、無理デス」
「っかし、どうすりゃいいんだあんなの……!」
アブは迫り来る土煙を睨みながら、額の汗を拭った。
日の暮れた辺境都市アーミゼスト、酒場『弥勒亭』の個室ルーム。
大きなテーブルにはいつものように料理と――一角にはいつもと違って幾つか書類が積まれていた。
「カナリーのお仕事ってさー」
ヒイロは手羽先をもふもふ頬張りながら、眼鏡を掛けて書類に羽ペンを走らせるカナリーを見た。
「うん、何だいヒイロ?」
カナリーは目を書類から離さないまま、尋ね返す。
本来ならこの手の仕事はとっくに自宅で終わっていたのだが、飛び込みで新しい報告書が飛び込んできたのだ。
内容は、相手の合意なしに吸血行為に及ぶという、同族内では大問題となる事態を引き起こしたクロス・フェリーという半吸血鬼に関するモノである。
クロスは愛人の子とはいえホルスティン家の者でありその問題の解決に、ホルスティン本家からカナリーが任命されているのだった。
「ボク達手伝わなくていいの?」
「ふむ……」
ヒイロの質問に、カナリーはペンを動かす手を止めた。
「手伝ってもらいたいのは山々だけど、今は本家から派遣されてきた連中が動いている最中だからね。僕らが動くとかえって邪魔になる。しばらくは、大人しく事務仕事だよ。もちろん家宅捜索などの時は、僕も直接現場に乗り込むけど。パーティーのみんなに出番があるとすれば、そこからだね」
「ふーん」
ヒイロは手羽先の骨をばりばりと食べ終えると、尻の下から雑誌を取り出した。
情報発信基地として名高い、シトラン共和国の支部が発行している情報誌だ。
「何かあるのかな?」
「や、特に何もないなら、ちょっと行ってみたい所があるんだよねー。ここなんだけど」
ヒイロが広げる雑誌を、それまでトマトパスタを食べていたシルバも覗き込んだ。
「何だ?」
「ブリネル山麓にあるエトビ村」
聞いた事のない村だった。
「に」
焼き魚を拙くフォークで食べていたリフが、顔を上げる。
「知っているのか、リフ?」
「ごはんおいしい所。あとおふろ」
「……あー」
それは確かにリフも反応するな、とシルバは思った。
「しかし、某も聞いた事がないな。そこは、それほど有名ではないのか?」
首を傾げるキキョウに、ヒイロは頷いた。
「うん、あんまり知られてないね。でもほらアーミゼストからそれほど離れてないし、馬車で半日ぐらい?」
なるほど、記事にある地図を見てもそれほど遠くはないようだ。日帰りはちょっと厳しいが、一泊ならいい旅かも知れない。
「しかし、{墜落殿/フォーリウム}の探索がなぁ……」
キキョウが唸るが、シルバはこれに関しては首を振った。
「いや、それはいいんじゃないかと思う。探索はみんな結構頑張ってくれてて、それなりに進んでる。たまには暗い地下より、青空の下を歩く方が、気分の転換にはなるだろ」
身も蓋もない言い方をするとたまには休んだ方が効率が上がる、という事を、シルバはオブラートに包んで説明した。
実際、迷宮に潜っていない日は、街の道場やら神殿やらでみんな修業やお務めだし、こういうのはありかと思う。
「先輩の意見に全面的に賛成ー!」
「にー」
すかさず両手を挙げる年少組の二人。
一方。
「ただ僕の方は残念ながら。本家の仕事さえなければね……」
苦笑するしかないのがカナリーだった。
「あー……だよなぁ」
さすがに、その仕事を放棄しろとは言えないシルバだった。事件自体も表だってはいないが、相当に大きな問題なのだ。
下手をすれば、吸血鬼という種族そのモノが弾圧されかねない事態である。
「むむー」
「にぃ……」
さすがにそれは分かっているのか、ヒイロとリフも勢いが弱まる。
その二人が、ふとある一点を向いた。
鎧から半身を出し、野菜スティックを水と一緒にポリポリ食べている、青い燐光を瞬かせる人造精霊のタイランだ。さすがに全裸、という訳にはいかず、水の衣で身体を覆っている。
「な、何でしょうか?」
少し怯えたような表情で、タイランが首を傾げる。
「タイランの意見を聞いてない」
「に」
「そ、そうですねぇ……私も興味はありますけど……カナリーさんの件もありますし、どうするかは、お任せします」
特に自己主張のない、タイランであった。
「なるほど。……ちなみに今の話をまとめると、行きたい派がヒイロとリフ。それにタイラン。仕事で難しそうなのがカナリー」
んー、とシルバは頭の中でまとめて、どうすればいいか考えた。
「……カナリーの方で、ウチのパーティーに要請があった時の事を考えると、キキョウに責任者になってもらって、俺は居残りか」
「むぅっ!?」
「えー……それはちょっとやだなー」
「にぃ……なら、リフもがまんする……」
「そうですね。近場にも狩り場はありますし、お風呂でしたらグラスポートも……」
「ありゃりゃ」
シルバの出した結論は、割と不評だった。
「気持ちは嬉しいけど、さすがにそれはちょっとどうかと思うよ、シルバ」
カナリーにまで、苦笑混じりにだめ出しを食らってしまった。
その時、扉をノックする音が響いた。
「よろしいですか、若様」
若い女性の声に、カナリーが返事をする。
「ちょっと待って。タイラン」
「あ、はい」
タイランが急いで、鎧の中に収まる。
「いいよ。どうした?」
カナリーが許可をすると、書類を抱えたメイドの少女が入ってきた。吸血鬼だ。
「食事中の所申し訳ございません。追加の報告書の提出に参りました」
「そうか、ご苦労様。何か分かった事はあるかな?」
書類を新たにテーブルに積み、カナリーが訊ねる。
「特には……フェリー氏はあちこちに別宅を所有しており、それらを確認するだけでも大変でして……」
「そんなに? 家なんて近場に沢山持ってても、管理するのが大変だろうに」
怪訝そうな顔をするカナリーに、メイドの少女は言いにくそうに顔を赤らめた。
「あ、いえ……それは……その……主に女性のお宅で……」
「あー……」
「それを除いても、空き家や廃屋もあるのですけど……」
「ふーん。アーミゼスト以外にも、そこそこ……」
新たに増えた書類に目を通したカナリーの手が止まる。
「…………」
「若様?」
カナリーは、書類の一点を指差した。
「この、周辺の村は調べたのかい? 例えば、エトビ村の離れにある洋館とか」
「あ、いえ、まだ……も、申し訳ございません!」
「いや、いいんだ。なら、ちょうどよかったってだけの話だから」
軽く笑いながら髪を掻き上げるカナリーに、シルバは麦酒を飲みながら、ジト目を向けた。
「……公私混同だな、カナリー」
「それぐらい、許してよ、シルバ。それにちゃんと仕事もこなすんだから。連絡の方は、ウチの伝達係とシルバ、精神共有よろしく」
「……了解」
「ど、どういう事でしょう……?」
よく分かっていないメイドの少女だけが、オロオロとカナリーとシルバを交互に見ていた。
昼下がりのエトビ村。
比較的大きな木造の宿『月見荘』の前には、馬車が横付けされていた。
「えええぇぇーーーーーっ!?」
その宿のカウンターから、ヒイロの絶叫が轟いた。
「本当にすみません」
頭に包帯を巻いた宿の主人、メナが大きく頭を下げる。
しかし、それで収まるヒイロではない。
「ヒイロ落ち着け」
眉を八の字にして涙目のヒイロを、シルバが羽交い締めにした。もっとも本気でヒイロが暴れたら、そのまま投げ飛ばされてしまうのだが。
「でも! 何で狩りが出来ないの!? ここのメインなのに!」
「それが……少々厄介な事情があるんです――」
メナは、重たい溜息を漏らした。
このエトビ村の大きな収入源は、温泉目当ての観光客にある。
そしてもう一つ、すぐ傍にあるブリネル山の森は広い上に野生の動物が多く、狩猟が名物にもなっている。
{案内人/ガイド}付きで狩った獣は、その日の内に宿の料理人が調理し、晩飯のメインディッシュになるのだ。
しかし、ここ最近、危険なモンスターが出現しており、迂闊に森に入れなくなっていた。
相手は巨大な猪だ。それも並大抵の大きさではないらしい。
キャノンボアと呼ばれるそれが大ボスとなり、バレットボアという部下を従えて、森を暴れている。時には里まで下りてきて、農作物を荒らしたりもする。
どうにも手のつけようがなく、先日自警団が武器を手に討伐隊を編成したが、結局どうにも相手にならず、ほうほうの体で帰ってくるのが精一杯だったという。
「――という訳なんです」
メナ自身もその自警団に参加しており、頭の包帯はそれが原因だったらしい。
「ははぁ、なるほど」
「それでもう、我々だけではもうどうしようもなく、これはもういっそ冒険者でも雇おうかという話にもなっている状況なんです。狩猟自体ある程度のリスクが伴うのは当然ですが、さすがにこれは、そんなレベルではありません。もしも万が一があった場合を考えると」
メナの話を聞き終えたシルバは、難しい顔をした。
「分かります。しかし何というか……それは好都合と思ってる奴が約一名いましてですね」
「……はい?」
目を輝かせたヒイロが、元気いっぱいに手を挙げた。
「はい! はいはいはい! ここに冒険者がいます! 雇いましょう! 格安ですよ!」
そんなやりとりをしている後ろで、巨大な甲冑――タイランが、カナリーの従者であるヴァーミィ・セルシアと共に『武器』を含めた荷物を抱え、ホールを見渡していた。
「あ、あのー……シルバさん、お荷物はとりあえず、そこに固めておいていいですか?」
「え?」
武器を見たメナは、シルバとヒイロに視線を戻した。
「という訳で、アーミゼストの冒険者パーティー『守護神』の一行です。一応二泊三日の予定だったんですが。仲間達と話し合って、その話に乗るか決めたいんですけど……よろしいでしょうか?」
「……まあ、そういう話になってるんだけど」
荷物を適当に置いたシルバ達は、ホールの一角にあったテーブルに集まった。
そして、カウンターでのやりとりを説明した。
「要するに、狩りをすると言う事だな、シルバ殿」
キキョウの問いに、シルバは頷く。
「うん、元々の予定ではあったし、ヒイロがものすごく乗り気だしな」
「猪系かぁ……強いって事は美味しいんだろうなぁ」
「しかも、既に食い気モードに突入しているね」
涎を垂らすヒイロに、やれやれとカナリーが肩を竦めた。
「ああ、もはや誰にも止められない。ま、成功すればここの宿代は食費も含めて全部タダだ。悪くないんじゃないか?」
「にぃ……お風呂は?」
コートの後ろから尻尾を揺らしながら、リフが心配そうにシルバを見上げていた。
「そっちは普通に大丈夫だと」
温泉は、森から離れていて、モンスターとは関係がないらしい。
「に」
「よ、よかったですね、リフちゃん」
リフとタイランが、大きさの異なる手を軽く叩き合う。
「にぃ。どうくつ温泉」
「わ、私も楽しみです」
「に」
「僕の方は洋館の調査か……」
一方カナリーは、仕事の方も忘れていなかった。
「ま、そっちももちろん同行するつもりだけどな」
「だね」
みんな、それぞれにやりたい事があるみたいだ。
シルバはシルバで、ちょっとばかり考えている事があった。もっともそれは、今回の小旅行そのものとは、あまり関係がない。
しかしそんなシルバの様子に、リフは気付いたようだ。
「……お兄、何か気になってる?」
司祭の服を引っ張り、尋ねてくる。
「んー……まあな。ほら、出発前にお前が教えてくれた、霊道って奴。あれ、何とか使えないかなーとか、まあちょっと色々調べてみたいかも」
シルバは、精霊眼鏡を取り出した。
霊道というのは、精霊にしか使えない特殊なトンネルのようなモノで、普通の空間よりも圧倒的に速い移動が可能な通路だ。使えない理由は単純で、精霊にしか見えないからだ。ちゃんと認識していないと、入る事は出来ない。
たまに人間が神隠しに遭うのも、うっかりこれに入り込んでしまうのが原因ではないかとされている。
「幸い、都市よりも精霊は多いみたいだし」
「にぃ……霊道も多い」
何をどうするかというのは、特に決めていないが、何かの成果が出せればなぁと思うシルバだった。
「シルバ殿は、真面目であるなぁ」
「もうほとんど、趣味の領域になってるね。実用的でいい趣味だとは思うけど」
キキョウとカナリーが顔を見合わせ苦笑する。
「某も久しぶりに、滝修行をしてみるかな……」
「そして残る問題は一つ」
メンバーの間に、小さく緊張が走った。
「……うむ」
「……そうだね」
「部屋割りだ」
テーブルに広げられた用紙には、二人部屋が三つ、書かれていた。
つまり、誰と誰が一緒になるか。
とても、重要な事だった。
「あ、あのー……それですけど」
大きな手を挙げたのは、タイランだ。
「珍しいな。タイランが一番の意見なんて」
「あ、は、はい。私は……ヒイロと一緒でいいです。付き合い長いですし……」
遠慮がちにいうタイランに、あっさりとヒイロは賛意を示した。
「あ、そだね! じゃ、ボクはタイランと相部屋でー!」
「……まあ、妥当な所ではあるか」
キキョウが軽く息をつく。
「に」
次に手を挙げたのは、リフだった。
「はい、リフ」
「リフはお兄といっしょがいい」
「ぬぅっ!?」
「こ、これはストレートな……!?」
リフの発言に、キキョウの尻尾が逆立ち、カナリーの尖った耳が激しく上下した。
「し、しかしリフ。さすがにそれはどうかと思うのだ。もし何らかの間違いが起こったら、君のお父上が都市を丸ごと一つ焼きかねない」
「に……」
ちなみに、この旅行の前、保護者としてリフに同行すると強行に主張していたフィリオであった。学習院の講義がなければ、絶対に参加していただろう。
「でもこのままだと……」
リフは、キキョウとカナリーを交互に見て。
「お兄より、二人がこまる」
ズバリ、核心を突いた。
「ぬ……!?」
「…………」
動揺するキキョウに対し、カナリーはしばし考え。
「……なるほど、心遣い痛み入るよ、リフ。君はいい子だ」
頷き、リフの頭を撫でた。
「にぃ……」
カナリーは考える。
三人の誰もが、シルバと同じ部屋になる可能性があった。
しかし、カナリーは自分が女性である事を、シルバに知られている。淑女としてそうした事態は避けたい所だった。
かといってキキョウ。こちらも何となくカナリーには察しがついているが、やはりシルバと同室では困る事情が存在する。何がややこしいといって、キキョウの場合は同室になって喜ぶのはいいが、その直後にうろたえてしまうのが容易に想像がついてしまうのだ。
だから、シルバに妹分として見られているという自覚のあるリフが立候補したのだろう。
カナリーはリフの行動をそう察した。
……それは、いち早く一歩引いたタイランも、似たようなモノだ。
まったく興味深いな、とカナリーは思う。
「まあ、そういう訳でよろしく頼むよ、キキョウ。相部屋とはいえ僕はプライベートな空間を尊重する主義だ。なるべく君の行動を妨げるような真似はしないつもりだし、安心していいと思う」
「む、むぅ……」
案の定、尻尾を弱々しく振っているキキョウに、カナリーは手を差し出した。
「……いや、うむ。カナリー、こちらこそよろしく頼む」
その手をキキョウは握り返し、それからへにゃりと尻尾を垂らした。
「……残念やら、ホッとするやら、微妙な気分だ」
自分達の部屋に荷物を置くと、シルバは宿常備の軽い布の服に着替えた。前をボタンで留めるタイプの簡単な服装だ。
「という訳で風呂だ」
「に!」
そしてリフは、真っ白い仔猫の姿になっていた。
会話自体は精神念話で行えるので、リフが宿の人間と話す事でもない限りは支障はない。
「うん、そっちの姿だと俺も助かるぞ、リフ」
……さすがに、シルバとしても小さな女の子と一緒に風呂に入る訳にはいかない。
「に。リフは元々こっちがホントの姿」
尻尾を軽く揺らしながら、リフにも不満はなさそうだ。
「動物入浴ありらしいのは助かったな。そうじゃなかったらちょっと厄介だった」
「にぃ」
シルバは自分のベッドの上に胡坐をかくと、エトビ村の地図を広げた。リフもそのベッドに飛び乗る。
もちろんそれは、翌日に控えるモンスター退治の為……ではなく。
「……結構温泉多いな」
「に……全部はむずかしい」
温泉巡りの為だが、一人と一匹の表情は真剣だった。
「しかし、洞窟温泉は外せない、と」
「に。山の中だから、いい霊力あるはず」
「けどちょっと距離あるし、これは回復も兼ねて明日の仕事が終わってからだな。とりあえず今日の所はこの宿の露天風呂にしとこう」
「に」
リフのも異存はないらしく、二人は露天風呂に向かう事にした。
脱衣所で服を脱ぎ、シルバは腰にタオルを巻いた。
脱衣所には人気が全くない。
「……やっぱり、ちょっと人が少ないな。元々が隠れ里ってのと、あとは例の猪連中が原因か」
「にぃ……」
頭の上で、リフも鳴く。
「ポジティブに考えると、貸し切り状態だが」
「に。およぎほうだい」
「それはマナー違反」
などと言い合いながら、シルバ達は露天風呂に踏み込んだ。
「うお、でけー」
「にぃ、でけー」
やや日の傾きつつある露天風呂。
うっすらと白い湯煙の立つそこは、左右の仕切りを見た限りでは大きなホールほどの広さだろうか。
しかし、正面は。
「……湯煙で先が見えねえ」
どれだけ広いのか、ちょっと見当もつかなかった。
「に。探検」
シルバの頭の上で、リフがきりりと言う。
「……ポジティブだな、リフ」
「ちがう。あくてぃぶ」
「……地形効果・温泉か。ま、いいや。とりあえずは身体洗ってから、奥の探索と行こう」
「にぃ」
身体を洗い終えた二人は、ジャバジャバと腰近くの深さの湯船を奥に向かって歩く。
「……ま、この辺でいいか」
「にぃ」
適当な所で腰を下ろし、シルバ達は湯船に浸かった。
リフはそのままでは溺れてしまうので、シルバが湯桶に溜めたお湯に入る。
「なかなか……いい湯だな」
「にー……」
熱さも程々で、二人揃って和んでいると、遠くにうっすらと人影らしき者が見えた。
別の客だろうか、不思議と湯を掻き分ける足の音が聞こえない。
と思っていたら。
「……シ、シルバさん?」
淡く青い光をまとった人工精霊のタイランだった。長い髪を頭の後ろでひとまとめにし、身体にはおそらく水で作ったと思われる薄衣をまとっていた。
「……混浴じゃなかったよな、リフ?」
「に、男湯と女湯が繋がっているのはよくある事」
「確かに」
他の男客がいなくてよかったと思うシルバだった。
もしいたら、ちょっとこの美人さんの注目具合は、大変な事になっていたかも知れない。
「って冷静ですね二人とも!?」
「今更だろ。それにお前が素っ裸ならともかく、もう服着てるじゃないか」
「せ、正確には服じゃないですけど……」
確かにタイランは、タオルよりもこちらの薄衣の方が楽だろう。
何だか、おとぎ話に出て来る泉の女神のような服装だなと、シルバは思う。
「……ま、あんまりジロジロみるのも失礼だよな」
恥ずかしそうなタイランから、シルバは目を逸らした。
「に、お兄だめ」
「はっはー」
「……あの、シルバさん、その胸の傷は一体」
タイランも湯船に浸かりながら、シルバに訊ねてきた。薄衣も水製のようなので、そのまま入っても問題はないらしい。
言われ、シルバは自分の心臓を貫く、大きな傷痕に手を当てた。
「ん? 昔の傷痕。まあ気にするな」
「にぃ。お兄、一回死んだ事があって、その時のだって」
「……あっ、そ、そうですか」
気楽に言うシルバにリフが言い足すと、何だかタイランは触れちゃいけない話題だったかのように思ったらしい。
「その、ヒ、ヒイロは何か遠くまで泳ぎに行きましたよ?」
「……そいつはよかった」
ちょっと安心。
「にぃ、マナーいはん」
「お前が言うな。それより誰かに鎧から出る所を見られたって事はないよな?」
「へ、部屋からこの姿ですから多分、大丈夫です」
「なるほど」
「……キ、キキョウさん達はどうしたんでしょう」
「あ、キキョウは何か、滝の下見に行くって。カナリーも村はずれにあるっていう洋館見に行くらしいから、途中まで二人一緒じゃないかな」
のへーとリラックスしながら、シルバが言う。
普通の男なら、美人と二人(正確には三人だが仔猫状態なのでノーカウント)ならそれなりに緊張もするのだろうが、子供の頃から姉や妹と一緒に風呂に入っていたシルバには、その辺の感覚はかなり麻痺していたりする。
「モンスター退治のお話ですけど……どういう感じになるんでしょうか?」
「んー、うん、そりゃみんなが集まってから話すつもりだったけど、まあいいか。あくまで予定だしな」
頭の中で作っている予定を、シルバはそのまま口にする。
「仕事自体は早朝からスタートだな。だから今日は夜更かし厳禁」
村に被害を与えているキャノンボアというモンスターに関しては、宿の主人メナから大体の事を聞いている。
まさしく猪突猛進な相手のようだが、そのキャノンボアよりもむしろ、周囲のバレットボアが厄介そうだとシルバは判断している。
手下と言っても、やはり通常の猪より相当に大きいらしい。
明らかにパワーと破壊力が必要そうな相手なので、キャノンボアを相手にするメインアタッカーはヒイロとタイラン。
それを邪魔されないようにバレットボアを相手取るサポートが、動きの素早いキキョウとリフ。
カナリーはシルバと一緒に後方支援、こちらの火力も主にキャノンボアに集中させる……。
「――と、こんな感じ。持ってきた装備以外の準備は、風呂上がってから整えよう」
「は、はい」
「それにしても、ヒイロは一体どこまで行ったんだ? ……遭遇しても困るんだけど」
後半を小さく呟き、シルバはまだ戻ってくる気配のない鬼っ子の事を考えた。
「に……」
不意に、リフが頭を上げた。
何だか緊張しているようだ。
「ん?」
「悲鳴、きこえた」
「覗きか!」
「多分、ちがう」
そろそろ夕方に差し掛かろうという、露天風呂の裏手に広がる農園。
突然だが、農園で働く青年アッシュルは命の危機に瀕していた。
「ブルルルル……」
どうやら、迷い込んできたバレットボアの一頭らしい。
食べ物を求めてこの農園に潜り込んできた彼と、アッシュルは見事に鉢合わせしてしまったのだ。
「ひ、ひぃ……っ! だ、誰か……っ!」
尻餅をついたまま、アッシュルはかすれた声を上げる。
その声がまずかったらしい。
「ブルッ……!」
刺激になったのか、バレットボアは後ろ足を蹴ると、アッシュル目がけて猛然と突進を掛けてきた。
「うわあああっ!!」
たまらず、アッシュルは目の前を両手で覆った。
「うおりゃあっ!!」
元気のいい声が響き、その直後、鈍い打撃音が響き渡った。
「ブルゥ!?」
猪の悲鳴と……しばらくして、遠くに重い物が倒れる音。
アッシュルが顔を上げると、夕日を逆光に、自分の大きな上着を身に纏った、短髪を濡らした少女が立っていた。
やたら滑らかな素足が片方持ち上がっているのは、おそらく蹴りを放ったせいだろう。アッシュルは直接、その蹴りを見ていた訳ではないので、推測するしかないが。
「お、{鬼/オーガ}!?」
「味方味方」
ひらひらと、彼女は笑いながら手を振った。
「あ、あんたは?」
「通りすがりの入浴客だよ! 悪いね、兄ちゃん。ちょっと上着借りる。大きくて助かった」
青年に背中越しに答えながら、ヒイロは前のボタンを留める。
野良作業に邪魔だったのだろう、小ぶりの岩に預けられていたそこそこ長身な青年の上着の裾は、ヒイロの身体を膝上近くまで隠していた。
腕の丈も相当あるようなので、手首までめくり上げる。
濡れた身体に布がくっつくのが少々気持ち悪かったが、その程度は許容範囲だ。
「……人間社会じゃ、パンツ一丁でも大問題だもんねー。さて」
吹き飛ばされたバレットボアが、ゆっくりと立ち上がる。
「ブルル……」
ヒイロの蹴りもそれなりに効いているようだが、戦闘意欲は落ちていないようだ。
上等上等、とヒイロは嬉しくなった。
「やっぱり今の一撃じゃ致命傷にはならなかったか。兄ちゃん、武器貸して!」
「ぶ、ぶき?」
へたり込んだまま、青年が尋ねてくる。
チラッとヒイロは、あれ? と青年が持つ鍬を見た。
「その手に持ってるのは飾り?」
「た、頼む!」
ようやくその存在に気がついたのか、青年は鍬をヒイロに放り投げた。
「あいさ! ボクが引きつけとくから、その間に兄ちゃんは逃げて人呼んで」
受け取った鍬の柄をキリキリと回転させながら、ヒイロは突進してくるバレットボアを迎え撃つ。
「そ、それが」
「ん?」
「腰が抜けて」
動けないらしい。ちなみに、バレットボア、ヒイロ、青年の位置関係はほぼ一直線である。
「ええっ!? ちょ――」
「ブルゥ……!!」
バレットボアの頭突きが、ヒイロの目前に迫る!
「嬢ちゃん!?」
強烈な衝撃が、ヒイロの全身に伝わってきた。
「……んー……」
だが、足は地面についたまま。
ヒイロはバレットボアを、正面から受け止めていた。
正確には、両足は土の中に深く埋まっていた。それでかろうじて、バレットボアのチャージを受け止めたのだろう。
その代わり、ヒイロの持っていた鍬は見事に砕けていた。
「ぶ、無事……なのか!?」
青年は尻餅をついたまま、後ずさる。
「やっぱ、こんな細っこい武器じゃ今一つだね。あと、一応嬢ちゃんじゃないって事になってるんで一つよろしく――よっと」
無造作に引き抜いたヒイロの片膝が、バレットボアの顎に強烈にヒットした。
「がふ……っ!?」
真下からの電撃的な攻撃に、バレットボアの身体が軽く浮く。
もちろんそれを見過ごすヒイロではない。
「へ?」
「ちょいさっ」
呆気にとられる青年を無視して、力任せに両手で相手を押し切る。
「ブルっ!?」
踏ん張りの利かなくなったバレットボアが、土煙を上げながら10メルトほど弾き飛ばされる。
「うし」
ヒイロはそのまま振り返ると、青年の襟首を掴んだ。
「兄ちゃん名前は?」
「ア、アッシェル」
「ボクはヒイロ。足腰立ったら、そのまま逃げてね」
言って、ヒイロはアッシュルを無造作に放り投げた。
「うわああああああ」
温泉の仕切りの向こうに放り投げられ、直後、派手な水音が響き渡る。
「よいしょ」
ヒイロは、畑を出て近くにあった岩を掴んだ。
一抱えほどもあるそれを持ち上げて、改めてバレットボアに向き直った。思ったより地面に埋まっていたらしく、直径1メルト半はあるだろうか。
正直、ヒイロ本人より大きい。
「ブルァ!?」
立ち直ったバレットボアも、さすがに腰が引けたようだ。
「食らえ!」
「ブルゥ……!!」
飛んできた岩を、バレットボアはとっさに回避した。
しかしその正面に、既にヒイロは回り込んでいた。
「本番前の腕試しだ。ちょっとパワーの程を確かめさせてもらうよ?」
身体を捻りながら、土まみれになったヒイロはニカッと笑った。
「正面からのどつきあいで!」
ヒイロはバレットボアに見事な『回し蹴り』を食らわせた。
「ブホァ……!?」
――そんな一人と一頭の死闘も、遠目から見ればじゃれ合っているようにしか見えない。
やや遠く離れた岩場の上から、恐ろしく巨大な猪・キャノンボアと、その手下であるバレットボア達が戦いを見下ろしていた。
群れの規律を乱し、勝手に行動した手下を連れ戻そうとしていたのだが……。
その必要はなさそうだと判断したのか、キャノンボアは楽しそうに戦うヒイロを見て眼を細めた。
……引き返す。
手下達もゾロゾロとそれを追い、やがて岩場には誰もいなくなった。
――少し時間は戻る。
諸事情により入浴時間の調整を検討せざるを得ないキキョウと従者を連れたカナリーは、宿を出た。
そして、村外れにあるというクロス・フェリーの隠れ家の一つである洋館と滝の下見に向かった。
洋館は無人である事を確かめて引き上げ、今度はキキョウの目当てである滝に向かう。
そこで、二人は意外な人物に出会った。
瀑布から少し離れた所で経営していた小さな茶店で、キキョウとカナリーは彼らと向き合った。
「そうか、シルバは相変わらずのようだな。テーストは訳の分からん事になっているが、まあ奴らしいといえばらしいか」
革の上着にシャツ、ズボンという軽装で、元『プラチナ・クロス』のリーダー、イスハータは苦笑し、温かい香茶を口に含んだ。
隣に控える戦士・ロッシェも似たような格好で、こちらは串焼きにされた魚を食べている。
二人の顔を知っていたキキョウがカナリーに紹介し、近況を語った所だ。
「イスハータさん。貴方方は今、何をしてらっしゃる」
カナリーと二人分の皿からフライドポテトをつまみつつ、キキョウは尋ねた。
「パーティーを解散した後、ロッシェと組んで武者修行といった所さ。一から出直しだよ」
「うむ」
口数の少ないロッシェが短く頷く。
イスハータ達は、ここから少し離れた小さな集落で、依頼を受けているのだという。
「あと、ノワの件は聞いているが……バサンズだけは解散してから行方が分からない。生きているかどうかだけでも、シルバに確認してもらえると助かるかな。精神共有切ってなければの話だけど」
「分かった。伝えておこう。今、某達はエトビ村に滞在している。シルバ殿には会っては行かぬか」
キキョウの勧めに、イスハータは軽く笑って首を振った。
「そうしたい所だけど、今回はやめておくよ。どうもテーストみたいに図々しくなれなくてね。まだ顔向けが出来ない。もう少し修練を積んでからにさせてもらいたい」
「そうか」
「それに、俺もロッシェも一応まだ繋がってるから、その気になればコンタクトは可能だしな」
精神共有の事を言っているのだろう、彼は自分のこめかみを軽く指で叩いた。
「貴方達がいると、猪狩りも楽が出来そうだったんだけどね」
赤と青の従者を背後に控えさせたカナリーは、ホットワインのカップを口元で傾けた。
「猪狩り?」
どうやら、イスハータ達は、エトビ村の問題を知らないらしい。
「ああ。僕達は身体を休めにこの土地にやってきたんだけど、ちょっと問題があってね」
カナリーは事情を説明した。
「そうか。そういう事ならこっちの手が空いていれば手伝いたかったが……」
しかし、イスハータ達にも、仕事があるというのはさっきも聞いた話だ。
「そちらにも都合があるだろう。しかし、二人で大丈夫なのか。それとも……」
キキョウはもう一皿、フライドポテトを頼むべきか迷ったが、夕飯も近いので諦めた。
「いや、本当に俺達二人だけだが、相手は雑鬼連中ばかりらしいし、何とかなるさ」
「ああ」
相棒の言葉に、ロッシェは静かに同意する。
雑鬼とは、{鬼/オーガ}とやや似ているが、より貧弱な種族だ。その代わり、繁殖率が高く、悪知恵も回る。
それでも知能も人間ほど高くないので、ビギナーの冒険者達の討伐依頼では割とお馴染みの連中だ。
一般的な評価は弱くて卑怯な雑魚モンスター、である。
イスハータはそれから、得心がいったように頷いた。
「むしろどこから沸いてきたかが気になっていたんだが……なるほど、おそらくそっちの事件とリンクしていたんだな」
「む?」
眉を寄せるキキョウに、カナリーが説明した。
「つまり、雑鬼連中は元々はこちらの森の奥に住んでいたのではないかという事さ。しかし、キャノンボア達が暴れ回っているせいで、雑鬼連中は追い出され、余所の集落に迷惑を掛けているという訳さ」
「なるほど……」
イスハータは苦々しく、顔をしかめた。
「放っておくと棲み着いて家建てて、どんどん我が物顔に振る舞う連中だからな。次に畑に忍び込んでくる時間は深夜だって分かっているから、それまでは準備期間中なのさ」
「締めの滝浴びという事か」
キキョウに頷き、イスハータは窓から見える大きな滝に視線をやった。
「そういう事。あ、結構効くから、シルバにも勧めておいた方がいい。迷宮探索を頑張っているのなら、尚更だ」
「う、うむ……そ、そうだな」
「?」
何故か口ごもるキキョウを、イスハータは不思議そうに見た。
「ふふふ、気にしないでくれ。複雑な事情があるのだよ」
笑うカナリーのカップの中身も、ちょうど空になった。ポットを持ったヴァーミィを、首を振って制する。
「そうか。それじゃそろそろ俺達は行くよ。日が暮れる前には、{郷/さと}の方に戻りたい」
「ああ」
イスハータ達と一緒にキキョウ達も、席を立つ。
「ああ。気をつけて」
「ご武運を祈っている」
ちなみに、キキョウがフライドポテトのおかわりを諦めたのが大正解だったと知るのは、晩飯にでかい猪が出されてからの事となる。
『月見荘』の食堂。
ヒイロの狩ったバレットボアを使った豪華な夕食が終わり、シルバは壁の時計を確かめた。
本来なら、寝るにはまだ早い時間だろうが、パーティーのメンバーを見渡した。
「明日は早いから、今日は早寝な」
そして、夜行性の種族であるカナリーと、目を合わせる。
「……って訳で、悪いなカナリー。『昼更かし』になりそうだ」
「いいよ。その分、存分に『夜寝』させてもらうから。じゃあ今日はこれで解散かな」
「そうだな。後は風呂入って……あ、タイランは一時間後にホールに来てくれ」
シルバに言われ、重甲冑の前面を閉じようとしていたタイランは、首を傾げた。
「は、はい……? 何かあるんですか?」
「んー、俺の実験。そんなに時間は掛からないから手伝ってもらえると助かるかなと。リフだけでもいいんだけど、精霊のバリエーションは多い方がいいからな」
「? は、はぁ……」
「シ、シ、シルバ殿?」
何故か慌てたように尻尾を揺らしまくったキキョウが、シルバの裾を掴んだ。
「ん? どうした、キキョウ」
「そ、某も一応、半分ほど精霊なのだが……」
そう言われてみればそうだった事を思い出したシルバは、ポンと手を打った。
「ああ! じゃあ、キキョウも手伝ってくれるか?」
「む、無論」
すると、今度はカナリーが大仰に肩をすくめる番だった。
「ちょっと待った、シルバ。精霊系の実験なんて面白そうなモノを放って、僕に寝ろというのか? それはあんまりじゃないかな」
「い、いや、でもお前は寝ないと」
「時間は掛からないって君は今、言っただろう?」
「じゃ、じゃあ、カナリーも? いや、いいけど、多分『見えない』人には退屈だぞ?」
「構いやしないよ。分析は自分でさせてもらうしね」
「じゃあ、ボクもー」
満腹で眠たそうなヒイロも、立候補する。
「……結局全員かよ」
見上げると大きな月と広い夜空が広がっている。
風呂も上がり、パーティーの面々は『月見荘』のすぐ近くにある小さな空き地に集まった。
「もう一回言っとくけど、そっちの二人はえらい退屈だからな」
「はーい」
「構わないさ」
大きな切り株に腰掛けた二人は、軽くシルバに手を振った。すぐ傍らには、タイランの甲冑も置かれている。
「ところでタイラン、身体の調子はどうだ」
「あ、は、はい……かなりいい感じです」
今のタイランは甲冑を脱ぎ、水の衣を羽織った肢体を淡い青光が包んでいる状態にある。
タイランは、故郷であるサフォイア連合国では、義理の父、コラン・ハーベスタと共に追われる身だ。その正体を悟られないようにする為、精霊としての力を普段は巨大な甲冑に封じている。
霊獣の長であるフィリオの話によると、タイランは人工精霊という特殊な存在の為、魔法探知を使えばその波長さえ知っていれば、追跡するのは容易なのだという。
本来は精霊炉用の核として生み出されたタイランは本来、地水火風という四大属性をすべてに対応出来る混成属性として作られたのではないかというのが、フィリオの分析だ。
そんな目立つ精霊なら、どれだけ遠くにいても分かる。
逆に言えば、一つの属性に固定してしまえば、分かりにくくなる。
ただし、強い力を使うとまずい。何故なら疲労すると、固定していた属性が解け、本来の混成属性に戻ってしまうのだ。
属性を固定するなら外に出ても構わないが、運動は軽いモノでも駄目。人間で言えば、ジョギング程度でも、集中力が切れかねないらしい。
という訳で、今のタイランは最も安定する水の属性で固定していた。
「やっぱり外の方がいいか」
「あ、あちらはあちらで、安心できます……もう、家みたいなモノですし」
「それで、精霊の属性なんだけど……あれの切り替えは、お前の負担になるのか?」
シルバの問いに、タイランは首を振った。
「い、いえ、切り替えだけでしたら、まったく……。ただ、力の使用は極力避けるようにと、フィリオさんはおっしゃってました……疲れると、本来の混成属性に戻ってしまうみたいなので……」
「なるほど、了解」
「でまあ、実験な訳だけど霊道に関して」
精霊眼鏡を掛けたシルバは、空き地の中央に立った。
「高速で移動出来る、精霊の通り道だったかな」
切り株に腰掛けたまま、カナリーがシルバの背後で首を傾げる。
「ああ。人間でもたまに使える人はいるらしいんだけど」
「にぃ……普通は駄目。子供なら割と入れるけど、大きくなるとほとんど無理」
リフが首を振る。風呂を上がってからは、リフはずっと獣人形態でいた。
「って事らしい。俺も弾かれた」
シルバも霊道に入る事は出来ず、苦笑する。
さらに、キキョウが腕を組んだまま唸った。
「それに、入るのにも少々手間が掛かる」
「そうなのかい?」
カナリーの問いに、リフが頷いた。
「にぃ……霊圧がすごいから、五分ぐらいじゅんびいる」
「わ、私はそうでもないですけど」
「タイランみたいな純粋な精霊種はべつ。霊道とおなじモノだから」
「……なかなか制約が多いね」
利用しようにも、問題は山積みのようだ。
「おまけに、どこにでも出られるって訳でもない……んだったか、リフ」
「に。あちこちに出口はあるけど、途中では出られない。枝分かれするトンネルみたいなモノ」
やれやれ、とカナリーは溜め息をついた。
「……シルバ。言っちゃ何だが、とても厄介な代物じゃないかこれは? 君は一体、これをどうしたいんだい?」
「どうしたいというか、どうしたかったのかっていうと、パーティー全員の迷宮からの脱出と、途中からの再開だったんだ」
霊道が利用出来るなら、行きも帰りも大幅に時間の短縮になる。
それが、シルバの目論見だった。
「ああ、なるほど、それは便利だ。ただ、現状だと、君と僕とヒイロが置き去りになってしまうけどね。ああ、あとタイランの甲冑もだ」
「……えー?」
かなり眠たそうにしながら、ヒイロがカナリーにもたれかかったまま、残念そうな声を上げる。
「そうなんだよなぁ。入り口の発生まではクリアしたんだけど」
あっさりというシルバに、キキョウが仰天した。
「な、なんと?」
「だから、さっき言ってた、入るまでに時間が掛かるっていう話な。それはまあ、何とかなった。例えばこの空き地の霊道はここと――」
淡い白光で出来た人が通れるほどのトンネルを、シルバは指差す。普通の人間には見えないが、精霊眼鏡を通したシルバにはそれが認識できた。
そして、その出口を指が追いかける。
「――あそこが繋がっている」
「うむ」
「こうすれば、通れる」
シルバは、用意していた針で霊道を刺した。
「ぬお……っ!?」
突風が生じ、キキョウが後ずさる。
「……僕には何が起こってるのかサッパリだよ」
「……同じくー」
不満そうなカナリーと、眠たそうなヒイロからはブーイングが上がった。
「じゃあま、キキョウ実践」
「う、うむ」
苦笑いを浮かべながらシルバが促すと、キキョウは霊道に踏み込んだ。
その直後、キキョウの姿は空き地の端に移動していた。
「……へえ」
カナリーは軽く目を見開き、切り株から腰を浮かせた。
「も、戻ってもよろしいかー?」
「いいよー」
離れた場所で手を振るキキョウを、シルバは手招きした。
「ほ、本当に通れたが、戻りは徒歩なのだな」
霊道の出口を振り返り、キキョウは残念そうな顔をした。
「一方通行でね。向こうに俺がいたら、また開けるんだけど」
「うむむ、任意の場所に出られるなら、恐ろしく便利なのだが……」
「なかなかそこまで話はうまくない。リフの精霊砲を使って、あらぬ方角からの奇襲攻撃……ってのも考えたけど、滅多に出来るもんじゃないな」
「にぃ……相手の近くに霊道ないと……」
しょぼんとするリフに、キキョウも改めて唸る。
「しかし、戦闘に限定した話になるが、奇襲にはかなり有効な手段ではないだろうか。こう、某とリフが相手の後ろを取るという方向で……」
「悪くはない。悪くはないんだが……」
「霊道の場所が限られているのが痛い、か」
カナリーが的確に問題点を指摘した。
「そういう事。移動手段として活用できれば、探索に関してものすごいアドバンテージになると思うんだけど、まだまだ考えなきゃならないみたいだ」
「交通費も浮きますしね……」
タイランの言葉に、シルバは深く頷いた。
「それはかなり大きいな」
「移動時間の大幅な短縮にもなるし、そうなると行動範囲も広がる」
カナリーの言っている事が、まさしくシルバの目指すモノであった。
「うん、ただ夢は大きいけど、実用化に到るまでがなぁ」
「実験って言うのはこれでおしまいかい?」
カナリーの問いに、シルバは首を振った。
「いや、もう一つ。むしろこっちがリフやタイランに通用するか、確かめて欲しかったんだけど」
シルバは新たな針を取り出して、空き地を見渡した。
幾つもの光の穴とそれらを繋ぐ無数の線、それらが精霊眼鏡を通して見て取れる。
「霊脈には、二種類の力の{穴/スポット}がある事が分かった。収束と解放だ。カナリーの雷撃……だと、近所の人に騒がれるな。タイラン、風属性になってもらえるか」
「は、はい……」
タイランを包む青い燐光が、白い光へと変化した。タイランを中心に、大気が緩やかに渦を描き始める。
「さいくろん」
何か、リフが呟いた。
「でまあ、収束するスポットに楔を打ち込むと――」
シルバは針を、風の精霊が収束している霊脈の一つに突き刺した。
その途端、針を中心に巨大な突風が発生した。
「瞬間的に風が強まる」
「おお」
「……実に興味深いな」
キキョウとカナリーが、感心したように頷いた。
風はすぐに収まった。
「そしてもう一つ、解放の方に楔を打ち込んで……タイラン、ちょっとでいいんで、風をあそこへ」
「は、はい」
シルバが新たに針を打ち込んだ地点に、タイランが緩やかに風を放つ。
すると、そこに緩やかな竜巻が生じた。しかしその竜巻が消失する気配はない。
「風がしばらく留まるようになる。俺が打ち込んだ針の仕事は、力の維持だな」
「面白い……が、厳しい事を言えば、正直あまり意味がないな」
カナリーは残念そうに首を振った。
まったくその通りなので、シルバも気まずそうに頭を掻くしかない。
「うん。これも、簡単なトラップとしては有効だけどなぁ。でまあ、そのバリエーションの一つなんだけど――{回復/ヒルタン}」
シルバは新たな霊脈に針を打ち込み、指を鳴らした。
地面の一角が青い光を放ち始める。
「そうだな、キキョウ。その針を回収してくれないか」
「? う、うむ……」
キキョウは言われるままに、青い光を放出する霊脈に近付いた。
柔らかい光に包まれたその箇所は、ほんわかと温かい。
「……何と!?」
その光が生じる癒しの効果は、前衛職であるキキョウには馴染みのあるモノだった。
「回復にも使えるらしい」
ふー、とシルバは重い息を吐いた。
「って事は分かったんだけどな。正直カナリーの言う通り、あまり意味がない。だってそうだろ。これだと二度手間だ。俺が唱えた方が早いじゃん」
「シルバ。それはちょっと違う」
先刻否定したばかりのカナリーが首を振った。
「うん? だってお前……」
「精霊による攻撃と{回復/それ}では、まったく意味が異なるよ。リフ、君もキキョウの所に行くといい」
「に」
カナリーに促され、リフはキキョウに駆け寄った。
「にぃ……?」
すると、リフの身体も淡い青光に包まれる。
「僕だとダメージを食らってしまうのでね。君が言ったのだよ、シルバ。ある程度、力の維持が出来ると」
カナリーは、青い光の真上に立つキキョウとリフを指差した。
「という事はだね、あそこを前衛の拠点としておけば、その分シルバの手数が増えるという事じゃないか、これは? 常時回復出来る拠点防衛というのは、大きいと思うよ僕は」
「……さすが。お前、連れてきて正解だったな」
思いつかなかったシルバは感心したように、カナリーを見た。
「か、感謝するといい」
カナリーは頬を赤らめ、そっぽを向いた。
「あと、お兄」
リフは足下の針を見つめていた。
「ん?」
「針のある収束スポットにリフ達立つと、ちょっとつよくなるみたい」
「ですね……精霊の力の収束点ですから」
「前衛ならば某、後衛ならばリフの力が増すという事か。タイランは今の状態ならばよいが……」
「普段の甲冑ですと、難しいですね……」
それはまあ、しょうがないだろう、とシルバは肩を竦めるしかなかった。
「うん……ひとまず今の所はこんなモンか。霊道を使うアイデアが、もうちょっとでモノになりそうな気がするんだけどなぁ……」
シルバは今日分かった事をメモに取ると、顔を上げた。
「それじゃそろそろ帰るか」
メモをポケットにしまって促すが、何故かカナリーが立ち上がらなかった。
「うん。それはいいけどシルバ」
「どした?」
カナリーは、自分にもたれかかるヒイロを指差した。
「……くー……すー……」
「……寝てるな」
「寝てるね」
道理で、静かだと思った。
かと言ってこんな所に放っておく訳にもいかない。
「ったくしょうがないな。ヒイロ、起きろ」
軽く揺さぶってみる。
「んむ……おかわり……」
「……何てベタな夢をみてやがる」
「やれやれ。ヴァーミィ」
カナリーがしょうがない、という風に指を鳴らすと、影の中から赤いドレスの美女が出現した。
しかし、こんな事で彼女を煩わせる必要はないとシルバは判断した。
「いや、これぐらい俺が運ぶって。どうせすぐ近くだし」
言って、シルバはだらんと力のないヒイロの身体を、背中に担いだ。
「……馬鹿」
「うん?」
残念そうに頭を振るカナリーの意味が、シルバには分からなかった。
……分かったのは、ヒイロの身体が背中に密着してからだ、
「…………」
ダラダラと汗を流しながらカナリーを見ると、「それみたことか」といった表情をしていた。
「ど、どうした、シルバ殿」
「いや、まあ、その……」
「……当たってるんですね」
「……い、一応」
※いつもの倍の量でお届けしますが、何とも設定話っぽい内容でございますよ。
霊道に関しては、もうちょっと研究が必要というか以前シルバ自身が言ってましたが、実戦で使ってナンボです。
ひとまずこれで、ヒイロようやく公式バレの方向で。
「ジョーカー!」と「あててるんだよ」は自制しました。