歩き続けた。
流れ蠢く時の中で。
走り続けた。
過ぎ去った日々を呪うように。
振り返らず。
立ち止まらず。
置き去りにした過去から逃れるために。
起こり得る必然に対し、人はどこまでも無力だ。
手のひらから水が零れ落ちるように、運命とは時に残酷な巡り合わせを起こす。
無常な日々は流れさった。───そして新たな時が刻まれる。
第五部 プロローグ 「罪と罰」
それは余りに突然だった。
人にとっての寿命がそうであるように、全てのものには始まりがあり、終わりがある。
これからも続いていくと思われた、輝くような日々は終わりを告げた。
クレスにその覚悟が無かったわけではない。
いつかはきっと、そうなる瞬間が来る。薄々とそうは感じていた。
だが、ロビンと共に<麦わらの一味>として過ごした日々は余りに楽しく、夢のように得難いもので、その覚悟を鈍らせていたのだ。
そして訪れた現実は想像以上にクレスを打ちのめした。
「あらららら、そう殺気立つなよ。
別に指令を受けた訳じゃねェんだ。天気が良かったからちょっと散歩がてらにな」
クレスの前に立つ男は、飄々とした態度で一味から放たれる殺気を受け流す。
海軍本部<大将>青雉。
<大将>の肩書を持つ人間は海軍の中でも僅か三人しか存在しない。その上には元帥であるセンゴクが君臨するのみ。
世界政府の<最高戦力>と呼ばれる三人の内の一人だ。
「……それを信じると思ってんのか?」
煮えたぎるような感情を沈め、低い声で問うクレス。
「信じるもなにも、おれは散歩をしに来ただけだつってんじゃないの。そうカッカすんな」
青雉はめんどくさそうに頭をかきながら答えた。
そして気だるげな目で一味を見まわし、何を思ったかおもむろに横になった。
「あァ、失礼。立ってんの疲れた。
だいたいお前らアレだよ、ホラ。……ああ、忘れたもういいや」
「話の内容グダグダかッ!」
あんまりな態度に思わずウソップとサンジが叫ぶ。
「何なんだよ、コイツ。おい、ロビン、クレス!
人違いじゃねェのか? こんな奴が大将な訳がねェ!」
「オイオイ、長鼻のにーちゃん、そうやって人を見かけで判断するな。
──おれの海兵としてのモットーは『ダラけきった正義』だ」
「見かけどおりだよッ!」
余りにイメージとかけ離れてい過ぎるのか、一味はいまだにこの男を大将だとは信じてはいないようだ。
「そんでまあ、早ェ話、お前らをとっ捕まえる気はないから安心しろ。
アラバスタ事後消えたニコ・ロビンとエル・クレスの消息を確認しに来ただけだ。予想通り、お前達と一緒にいた。
一応、本部には報告ぐらいしようと思う。賞金首が二人加わったから、総合賞金額(トータルバウンティ)が変わって来るもんな。
一億と、六千万と、7900万と、6200万を足して、……わからねェが、ま、ボチボチだな……」
青雉はふてぶてしい態度のまま続ける。
そんな様子に業を煮やしたのか、ルフィが、
「おい、お前! かかってこいッ! ブッ飛ばしてやる!」
「ってオイ、ルフィ! こっちから吹っ掛けてどうすんだよッ!?」
「それがなんだ! だったら、クレスとロビンを黙って渡すのかッ!」
青雉に殴りかかろうとしたルフィをウソップが止める。
それを見て青雉が、
「いや、だから……何もしないって、言ってるじゃねェか。おれはここには散歩に来ただけで……」
「なんだ散歩か。じゃあこんなとこ通るなお前、出て行け!」
「めちゃくちゃじゃないすか……」
なんとなくルフィが押していた。
どうやら言葉通り、青雉は何もする気はなさそうであった。
だが、クレスの表情は晴れる事はなかった。
視線を盗むように、ロビンの方へと目を向ける。やはりと言うべきか、ロビンは小さく震えていた。
クレスとロビンにとってこの男は、過去に見た悪夢の一つである。刻まれた記憶はそうそう克服できるものではない。
「ああ……そう言えば、あんた」
青雉は思い出したように、茫然と立っていたトンジットを指した。
突如指差されたトンジットは首を捻る。青雉は寝たままの状態で言う。
「おれは眠りが浅いから、さっき話はだいたい頭に入っている。今すぐ移住の準備をしなさい。
要するに、留守中に移住しちまった村を追い掛けて三つ先の島に行きたいが、馬は脚に怪我を負っちまって、引き潮でも移動できないんだろ?」
「それが分かってんなら、今は移住なんて出来ねェの分かるだろ」
「大丈夫だ」
ウソップの問いに青雉は即答するも、寝たままの状態なので全然説得力が無かった。
だが、肯定の言葉はロビンから発せられた。
「確かに、その男なら……それができるわ」
「……忌々しい事にな」
消え入りそうなロビンの言葉に、クレスは憎々しげに続けた。
トンジットは青雉の言う通りに移住の準備を進めた。
住居のゲルをはじめとし、生活に必要なモノを全て荷馬車へと積み込む。
10年というブランクがあるものの、遊牧民である事もあって、やはり手慣れており、一味の協力もあり準備は比較的早く済んだ。
「で? これから、どうすんだ?
このままおめェが馬も家も引っ張って泳ぐのか?」
年に一度引き潮になる海岸へと到着し、ルフィが青雉に問う。
当然の如く今は潮が満ちていて、とても渡れる状態では無い。
「んじゃまあ、危ないんで少し離れてろ」
青雉は岸辺まで向かい、しゃがみこみ、海の中へと手を浸した。
一味は不審がりながらその様子を見守るも、その瞬間、海の中から巨大な影が飛び出した。
「いかんッ! この辺りの海の主だ!」
海王類の登場に、トンジットが青ざめ、一味が慌てた。
岸辺にしゃがみこむ青雉に向け、海王類は鋭い牙を剥き襲いかかる。
だが、青雉は現れた海王類に目を向ける事すらなく、凍てつくような声で<能力>を発動させた。
「氷河時代(アイス・エイジ)」
その瞬間、世界は変わった。
襲いかかろうとしていた海王類も、波打つ海すらも、見渡す限りの全ては氷結し動きを止めた。
恐ろしいまでの冷気が青雉を中心として吹き荒れる。
<ヒエヒエの実>の氷結人間。
万物全てを凍らせる。それが、海軍本部<大将>青雉の能力だ。
一味は突如現れた氷の大地に度肝を抜かれ、クレスは20年ぶりに見る圧倒的な力に戦慄を覚えた。
「一週間は持つだろ。のんびり歩いて村に合流するといい。少々冷えるんで、温かくして行きなさいや」
青雉は夢とも疑う光景に立ちつくすトンジットに向けそう言い、離れた場所で再び横になった。
トンジットは再び村と合流できる事に感激し、涙を浮かべながら礼を言う。
そして、トンジットは一味に手厚く見送られながら村へと合流するために去っていった。
「は~~よかった」
氷結した海に息を白くさせながら、ルフィが安堵の息を吐く。
割と温暖な気候だったロングリングロングランドだが、青雉の力により、海辺は冬島のような気温へと変化していた。
一味は青雉に対し警戒を解いたのか、物珍しそうに氷の大地を眺め、肌を刺すような寒さを面白がっていた。
そんな中で、クレスはなるべくロビンの傍から離れないように心掛けた。
クレス達は海賊であり、青雉は海兵だ。たとえ何が起ころうともその関係が変わるかけでは無い。
「………」
青雉は横になった状態から身体を起こし、草地に座り込んでいた。
無言のまま観察するようにルフィの姿を見て、そして重い沈黙を破るように呟いた。
「何というか……じいさんそっくりだな、モンキー・D・ルフィ。奔放というか、掴みどころがねェというか……」
「じ、じいちゃんッ!?」
青雉の言葉にルフィは珍しくうろたえた。
家族の話は聞いた事が無かったが、何かあるのだろうか。
「お前のじいさんにゃあ……おれも昔世話になってね。
おれがここに来たのはニコ・ロビン、エル・クレスに加えて、お前さんを一目見る為だ」
青雉はルフィに構わずに続けた。
そして口を閉ざし、一味全員をその瞳に納める。
その瞳は先程までとは異なり、酷く冷たかった。
「──やっぱお前ら、今死んどくか?」
海軍大将から放たれる言葉の重圧に一味は皆息をのんだ。
「政府はまだまだお前たちを軽視しているが、細かく素性を辿れば骨のある一味だ。
少数とはいえ、これだけの曲者が顔を揃えてくると後々面倒なことになるだろう。
初頭の手配に至る経緯。これまでにお前達のやって来た所業の数々。その成長速度。
長く無法者共を相手にしてきたが──末恐ろしく思う。今日は観察のつもりだったが、止めだ。お前達を放置するのは危険すぎる」
青雉はゆっくりと立ち上がる。
人並み外れた長身により、高い位置から睥睨されているかのようだ。
「特に危険視されるのはお前らだよ、ニコ・ロビン、エル・クレス」
青雉の矛先がクレスとロビンに向いた。
クレスはロビンを庇うように前に立ち、刃のように鋭い目で青雉をにらみ返す。
「懸賞金の額は、何もそいつの強さだけを表すものじゃない。政府に及ぼす"危険度"の数値でもある。
だからこそ、ニコ・ロビン、お前は僅か8歳という幼さで賞金首になり、唯一の共犯者であり、手がかりであるエル・クレスもまた懸賞金をかけられた。
まぁ、エル・クレス……お前さんに関しちゃ、ニコ・オルビアと協同しCP9三人を相手取り勝利するという将来性も考慮されたがな。
幼い子供が二人……よく生き延びてきたもんだ。裏切っては逃げ延びて、取入っては利用して、……そうして、お前達が次に選んだのがこの一味という訳か?」
「おい、随分とカンに障りやがる言い方するじゃねェか……! ロビンちゃんとクレスに何の恨みがあるってんだッ!」
「別に恨みはねェさ……恨まれる事はあってもな」
頭に血が上ったサンジに、青雉が含むような声で返す。
「だが、お前達にもその内分かる。
厄介な奴らを抱えこんじまったと後悔する日もそう遠くはねェさ。
それが証拠に、今日までこの二人が関わった組織は全て壊滅している。その二人を除いてだ。何故かねェ?」
「黙れよ……てめェに何が分かる」
握り過ぎて白くなった拳でクレスが言う。
クレスの言葉を青雉は肩をすくめてかわした。
「さてね、何も分からんさ。
だが、お前さんの事はそれなりに分かっているつもりさ、エル・クレス。なんせ、父親そっくりだもんな」
そして僅かに細めた目で、クレスを見た。
それはクレスを通して別の誰かを見ているかのようだった。
写真でしか顔を見た事が無い父親の名前が青雉の口から出てきた事にクレスは鼻白んだ。
「海軍本部大佐<亡霊>エル・タイラー。
奴はおれの後輩さ。奴とはそれなりに付き合いがあってね、よくリベルの旦那のとこで世話になったもんだ。
今日再び、お前さんを見て確信したよ。やはりお前はあの男の息子なんだってな」
凍てついた青雉の瞳に僅かに感情の色が灯る。
しかし、クレスにはそれが何を示すかは分からなかった。
「奴はまさしく“男”だったよ。
何かを守るために己の全てを捧げられる奴だった。
そして、そのためにはどれだけ迷おうとも、取捨選択を誤らない奴だった。
お前さんには分かる筈だ。何かを守るってことは、それ以外を敵に回すって事だ。それは尊くも、それ以上に残酷だってな」
青雉の言葉にクレスは口を閉ざした。
否定することは出来なかった。
「あの島を離れてからお前はどうやってその女を守ってきた?
世界中から敵意に晒され、行きつくあても無く彷徨って、そして何を捨てた? その女の為にお前は何をし続けてきた? 幾人犠牲にした?」
青雉の言葉はクレスを罰するようであった。
クレスは僅かに俯いた。
後ろを振り返り、ロビンの表情を見る余裕は無かった。
「そうせざるを得なかった。それもまァ、分かる。
なんせ、助かりたきゃ、その女を見捨てるだけでよかった所を、守る事を選んじまったんだからな。
お前さんは良くやった。こうして今まで二人とも生き残っているって事は、それが正しかっただろう。
だが、──余りに良くやり過ぎた。
20年前のあの時、手配書が出回った時からなんとなくそうなると思っていた。
そうならない事を願っていた。だが、道筋は考えうる限り最悪だったな」
クレスの顔から表情が消える。
感情を制御するために行う、クレスの癖のようなものだ。
力とは、振るうべき時に振るうもの。
後悔はする。しかし、躊躇いは無い。たとえそれが誰に対してであっても。
背負うべき罪は多すぎた。
クレスが犯してきた罪の数々、それらが全て<ロビンを守るため>という免罪符の下で行われた。
当然、許される事ではないと知っていた。
余りに残酷な人の悪意の中で、幼く純真なロビンを守り抜くには必要なことだった。
「お前はどんなに苦悩しようとも、必ず最後にはその女を取る。
この一味とも上手くやっているようだが、お前は必ずその女の為に切り捨てるだろう」
考えたくはなかったが、その時が来れば、クレスはするのかもしれない。
今までが、そうであったように。
青雉の全身から冷気が放たれ、周囲の空気が氷結してく。
「今までも、そしてこれからも、そうして切り捨てるつもりか?
その女の為に心を偽り。
その女の為にその身を削って。
最後は己の命すらも捧げるつもりか?
正直、お前さんの生き方は不器用すぎて見るに堪えんよ」
青雉は更に言葉を紡ごうとしたが、それ以上続けることは無かった。
「……さすがに言いすぎたな」
青雉の首筋に傷痕が刻まれていた。
だが、直ぐにその部分が氷結し元に戻る。
青雉の視線が後ろへと向く。そこには瞬く間に青雉へと一撃を叩き込んだクレスの姿があった。
「それ以上喋るな、クザン……!」
漏れ出した感情は抑えきれず、憎悪となった。
青雉にそれ以上喋らせる訳にはいかなかった。
それは、エル・クレスという人間の否定であり、クレスが守ると決めた者へと否定と繋がる。
クレスはサイドバックから黒手袋を取り出し、装着する。
青雉はそれを見て小さく鼻を鳴らした。
「フン……奴の黒手袋か。
その不完全品じゃおれは倒せんよ。無駄なことは止めとけ」
「…………」
「だんまりか。……なるほど、相当頭にきてるようだな」
青雉は大気を氷結させ、氷の剣を作り出した。
絶対零度の冷気で氷結した刃はどんな名剣にも劣らない。
「覚悟しろ、命貰うぞ」
青雉は拳を構えるクレスに向け、氷の剣を振りかぶった。
だが、その刃はクレスに届く寸前で別の刃に受けとめられた。
「一人突っ走ってんじゃねェよ」
氷の剣を受け止めながらゾロが言う。
青雉の目線がゾロへと向く。だがその瞬間、飛び込んで来たサンジが氷の剣を蹴り飛ばした。
「まったくだ。
過去がどうだったかは知らねェが、今は頭冷やしやがれ」
氷の剣は青雉の手を離れ、くるくると上空を舞う。
それを好機と見て、ルフィが腕を伸ばしながら肉迫する。
「ゴムゴムのォ!!」
迫るルフィに対し、青雉は慌てた様子も無く冷めた様子でゾロとサンジを掴んだ。
それを見て、クレスが叫ぶ。
「不味いッ! 離れろお前らァ!!」
既に遅く、ルフィの拳は青雉へと突き刺さっていた。ルフィの拳を受けても青雉は全く揺るがない。
そして、クレスが恐れていた事態が起こった。
ルフィ、ゾロ、サンジの三人が苦悶を上げる。青雉の身体から強烈な冷気が発せられ、触れるもの全てを凍りつかせた。
「───ッ!!」
瞬間的にクレスが大地を蹴った。
黒く覆われた拳を固め、青雉の顔へと叩きこむ。しかし、クレスが殴りつけたのは氷の塊だった。
青雉は既にその場から引いていた。
「危ねえなぁ、そいつで殴られれば痛いんだよ。
それにしても、いい仲間に出会ったな。……それだけに残念だ」
青雉は焼け付くような痛みを堪える三人を見て、再びクレスに視線を戻す。
ルフィ達はそれぞれに身体の一部を凍らされていて、戦力は半減した。無理に戦えば、患部が砕け散るだろう。
凍傷の危険性を知るチョッパーが逃げるように叫ぶも、敵は待ってはくれない。
クレスは震えそうになる身体を抑え込んで、青雉に向かい肉迫する。
「……ォオオ!!」
口元から雄叫びが漏れる。
それは、窮地に立たされた獣のような声だった。
クレスは自身の中で不安と絶望感が広がっていくのを感じとっていた。
20年の歳月の中でクレスは比べ物にもならないほどに成長し強くなった。それでも、最高戦力と持て囃されるこの男との実力差は開いたままだった。
一度刻まれた敗北の記憶は、圧倒的な実力差と共にクレスを苛む。
だが、同時に今まで生き伸び続けたクレスの肉体は、的確な行動を起こした。
やれるか、やれないでは無い。
やらなければならない。
今ここでこの男を倒さなければ、何かが終わってしまう。そんな気がしていた。
「アイスブロック"両棘刃"」
青雉から氷塊の矛が放たれる。
クレスは“紙絵”を用いて滑り込むようにして回避。
スピードを殺す事無く青雉に肉薄し、握りしめた拳を叩きこむ。
クレスの拳は青雉へと吸い込まれるように進むも、その身を打つ事無くすり抜けた。
拳が触れる部分をタイミングよく自然変換する事によって、青雉は逆にクレスを招き入れたのだ。
青雉は抱き込むようにクレスを覆い、肌を削るよう凶悪な冷気がクレスの肌を撫でた。
「───アイスタイム」
それはかつてクレスも受けた、絶対凍結。
まず、青雉に最も近いクレスの右腕から凍りつき、冷気はみるみるうちにクレスを侵食していく。
その這い上がるような恐怖と、奥底から燃え上がった生存本能によりクレスは瞬間的にもう片方の拳を振るった。
拳は青雉の頬を捉え、そこからクレスは渾身の力で振り抜く。衝撃に負け、その顔に僅かな驚きを浮かべ青雉が数歩後退した。
しかし、同時に青雉に触れた為にクレスの腕も凍りついていた。
「あららら。
さすがに油断したな。まさか、殺り損ねるとは」
口の中を切ったのか、口元から血を流す青雉。
この男に血を流させる事だけでも驚異的なことなのだが、その代償としてクレスはほぼ全身を氷結させられていた。
「───ぁ、あ───ッぁ」
クレスの口からかすれた音のみが漏れた。
凍結が不完全に終わり、今のクレスは身体の大部分が凍りついたという状況だ。
それが逆にクレスを苦しめていた。
血は凍り、脈動は消え、心臓の鼓動は無く、息は出来ない。なのに僅かながらも意識がある。
「クレス───ッ!!」
ロビンから悲鳴が上がる。
青雉はとどめを刺すべくクレスに近づく。
「中途半端な状態で止めちまったな。───今楽にしてやる」
青雉を阻もうと一味は動くが、青雉の方が圧倒的に速かった。
もう間に合わない、そう思われたその瞬間だった。
「ォォォオオオオオオオッ!!」
クレスの口から轟くような雄叫びがあがった。
それは青雉にとっても不可解なことだった。クレスは虫の息であり、ほぼ全身が凍りついている。そのクレスから、白い煙がたなびきだした。
死を待つだけのその状況において、クレスが行った事はある意味驚異的なことだった。
クレスは自身の体温を無理やりに上昇させる事により、青雉に受けた氷結を融解させ始めたのだ。
それは<六式>とはまた別に伝えられる、己の身体を自在に制御する<生命帰還>と呼ばれる技であった。
だが、クレスはその事を知らない。師事を受けたリベルにも生命帰還に関しては教わっていなかった。
驚異的なことだ。命の危機という淵において、クレスは自ら活路を見出したのである。
「あららら。
こりゃ、驚いた。まさか息を吹き返すとは」
青雉の目の前で、クレスは荒い息を吐くまでに回復していた。
クレスは一味に向け絞り出すように声を為した。
「……お前ら、逃げろ……!! コイツはおれが何とかする」
身体が動くようにはなったものの、それは僅かに過ぎない。
今だクレスの全身のほとんどは凍りついており、クレスが危機的状況にあるのは変わらない。
戦えば必ず敗北する。
クレスとて命を捨てる気は無い。しかし、これが最善の方法だった。
この中で青雉を相手にまともに戦えるのはクレスしかいないのだ。
逃げ場など無い。青雉が本気になれば誰が相手であろうとも逃げる事は困難を極める。
ましてやここは無人の孤島。メリー号で海に出ようとも、青雉はその海すらも凍らせる。
クレスは融けだした拳を握り直す。戦うしか道は無かった。
「クレス……!! ダメ……ッ」
後ろから聞こえた、今にも泣き出しそうなその声に、クレスは首を横に振った。
今のクレスに可能なのは時間を稼ぐ事だけ。
クレスは安心させるように言葉を紡いだ。
「……アイツ等を連れて先に逃げろ、ロビン。心配すんな、また後で会えるから」
クレスは凍りついた両腕を無理やりに身体の前に突き出した。
凍っていた腕を無理やりに動かしたために、クレスの腕に亀裂が走り、嫌な音が連続して響いた。
「かかってこいよ……クザン」
「フン、生意気な口を聞くじゃないの。
もう足掻くな。お前さんは見ていて哀れだよ。いっそ、殺してやった方がいいとさえ思うほどにな」
凍りついた全身を無理やりに動かして、一歩一歩クザンへと向かって行く。
生命帰還の影響か、視界が妙に赤くなってゆき、吐く息は今にも血が混じりそうだった。
奇しくもそれは20年前のオハラと同じ状況だった。
その背に守るべきモノを背負い、己の身一つのみで強大な敵に立ち向かう。
勝利条件は時間稼ぎ。付け加えるならばその後に離脱すること。
───五分、いや……十分は持たせる。
クレスの視界にはもはや青雉の姿しか映ってはいない。
だから、気がつかなかった。クレスへと歩み寄るもう一つの影を。
「……クレス」
クレスの耳に届いたのは感情を伺わせない声だ。
それは、麦わら帽子の船長のもの。
クレスがそちらに僅かに意識を向けた瞬間、ようやく融解を果たした腹部に───強烈な一撃が突き刺さった。
「───なっ!?」
予想外の一撃にクレスは意識が混濁し膝をついた。
そして無理やりに胸倉を掴まれ、後方へと投げ飛ばされる。
投げ飛ばされたクレスはロビンによって抱きとめられた。
「どいてろ、邪魔だ」
先程までクレスが立っていた位置でルフィは拳を鳴らした。
「おめェら、クレスとロビンを連れて先に船に行け。一騎打ちでやりてェ」
突然の発言に一味は困惑する。
そんな中で、ゾロが苦々しい顔で刀を納め、一味を促した。
「ボサッとすんな、船長命令だ!!」
「待て、ゾロ!! それはいくらなんでもそりゃねェだろ!!」
「黙れ、ウソップ!! いいから、船に行くんだよ!!」
薄情とも取れるゾロの言動にウソップが激昂するも、サンジに掴みかかられる。
今は一味の瀬戸際だ。その中での船長の意志は重い。
海賊として、それがどんなに受けれられないものでも、受け入れるしかないのだ。
「……クレス、しっかりして……!!」
ルフィによって緊張の糸が切られたために、本来ならば歩くことすら困難なクレスは完全に意識を失っていた。
その顔に生気は無く、ロビンが必死な様子でクレスを運ぶ。
それを見て、チョッパーは<人型>へと変形した。
「ロビン、おれが運ぶよ」
駆け寄ったチョッパーがクレスを受け取るも、クレスに触れた瞬間、その体温に驚いた。
クレスの身体は青雉から受けた凍結を融解させようと、異常なまでに体温を上げている。
肌の一部は氷のように冷たく、一部は火傷しそうなほど熱い。
凍結と加熱。相反する二つの熱がクレスの身体を覆っていた。
「みんな急いで!! クレスの症状が思ったより酷い。裂傷と凍傷、それに異常な発熱……早く治療しないと大変なことになる!!」
チョッパーが重体のクレスを見てウソップ達に呼びかける。
「……船医さん、クレスが……」
「ロビン、しっかりして。クレスは大丈夫だから」
うろたえるロビンをナミが毅然と励ます。
「……お前さんたちもモノ好きな奴らだな。
やめとけ、そいつも、その女も……助けな方が世の為だ」
「お言葉ですけど、そういうのの集まりよ、海賊って」
呆れ交じりに吐いた青雉の言葉にナミが強気に反論する。
青雉は、口元を軽く緩め、「……よくわかってんじゃねぇの」と呟く。
そんな青雉にルフィの拳が飛んだ。
「おい、お前の相手はおれだッ!!」
「……変わった奴だ。
分かった。その心意気を買ってやろう。
ただし、連行する船がねェんで───殺していくぞ」
「オウッ! 望むところだ!!」
◆ ◆ ◆
ルフィが青雉を引き付けた隙に、一味は重体のクレスを連れ、大急ぎでメリー号へと戻った。
チョッパーの指示を受け、ゾロとサンジは青雉に付けられた凍傷を処置し、その間にチョッパーはクレスの手当てを行う。
クレスはかなり危険な状況だった。青雉に受けた凍傷もさることながら、それを融かそうと限界以上に体温を上昇させた事によって体中にガタが来ていた。
おそらく、あの時点でルフィが止めなければ死に至る危険性すらあった。
「おい、クレスは大丈夫なのか、ナミ!?」
「……大丈夫だとは言えないみたい。中でチョッパーがまだ処置を続けてる」
ナミの声は苦しげだ。
チョッパーが船医として全力を尽くしても、限界はあった。
「……ロビンは?」
そう聞いたウソップに、ナミが重い様子で答えた。
「クレスの傍に居るわ。チョッパーを手伝ってる。本当なら休ませたいんだけど、今は……」
「そうか……」
今は多少は落ちついているものの、 いつもの冷静な顔はなく、見るからにロビンは動揺している。
クレスが倒された時も、青雉への怒りよりもクレスへの心配が勝っていた。
やはりそれだけ、ロビンにとってクレスという存在は大きかったのだろう。
「クレスの奴、無茶しやがって……」
悔しそうに呟き、ウソップ甲板の方へと視線を向けた。
そこにはゾロとサンジが沈黙と共に座り込み、手を出す事の出来ないこの状況に苛立っている。
一人残ったルフィも、決着がついていてもおかしくはない。
運命がどう傾こうとも、それに答えるだけの腹を括る必要があった。
◆ ◆ ◆
「まいったな。ハメられた」
氷結した大地。
その中心に座り込んだ青雉は、頭をかきながら、ルフィに向けてそういった。
その言葉にルフィは答える事はない。
青雉とルフィの勝負は既に決していた。
ルフィの拳は青雉には届かず、変わりに青雉の冷気がルフィを襲い敗北。ルフィは全身を凍らされていた。
「“一騎打ち”を受けちまったからには、この勝負おれの勝ちでそれまで。そういう事か?
これ以上他の奴らに手を出せば、ヤボはおれだわな。なァ……船長(キャプテン)」
言い訳のように一味に手を出さない理由を並べ、そしてフッと小さな笑みを浮かべた。
「それとも───本気でおれに勝つきでいたのか?」
凍りついたルフィはその問いには答えない。
青雉は立ちあがると、宣告するように言い放つ。
「お前達はこの先、必ずあの二人を持て余す。
ニコ・ロビンという女の生まれついた星の凶暴性。それを守護するエル・クレスという狂犬。
この二人は必ず破滅をもたらす。お前達はいずれそれを背負いきれなくなる。あの二人を船に乗せるってことは、そういう事なんだ。モンキー・D・ルフィ!」
青雉は持ち上げた脚を前に突き出す。
踵は氷塊を捉え、砕いた。
だが、それはルフィでは無かった。
「このままお前を砕いちまって命を断つことは造作もねェが、借りがある。
これでクロコダイル討伐の一件、チャラにして貰おうじゃないの。アイツ等も……まァいい、この件は無しだ」
じゃあなと、青雉はルフィに背を向け歩きだす。
投げ捨てていたコートを羽織ると、近くに止めてあった<自転車>へと跨った。
「ここの記録(ログ)を辿ると、アイツ等の次の進路は……」
青雉はコートのポケットから地図を取り出すとそれを広げた。
「『ウォーターセブン』“水の都”か。
……あらら、だいぶ本部に近付いてんじゃないの」
そうして、海軍大将は海上の上に氷の道を引き、自転車に乗って去っていった。