ジョバンニはフィレンツェで最高級のホテルを手配してくれた。
妹は「お城みたい!」と大はしゃぎだ。アタシは上流階級の屋敷などには免疫があるので、もう動揺したりしない。
晩飯のレストランの料金も、明日の朝食の料金も、ジョバンニが受け持ってくれるという。しっかり確認したが、すでに払いは済んでおり、自分たちで払わなければいけないという事態はなさそうだ。
夕食はフルコースだった。以前エミリオのところでこういうのは頂いているので、マナーも一応わかる。問題は妹だった。食器をどれから使えばいいかわからない、どう食べていいかわからない。アタシは自分がまず食べて見せながら、ゆっくりと教えていった。
内心、「マナーくらい教えてろよ」と思ったのは、言うまでもないだろう。平民であるため、基本的にこういう食事をする機会はないが、『勇者』として教育するなら、こういうこともしておけというのだ。
今日の反省点。相手が貴族だからと遠慮しすぎたこと。言い方、やり方によっては、今回の厄介事は回避できたはずである。
しかし問題は、ジョバンニの風格であった。なにかこう、そこにいるだけで圧倒されるような威厳すらあったように思える。しかも、それを故意に出したり抑えたりできるようだった。何か言おうとするのをためらうというか、躊躇するというか、そもそもあいつに意見するというのが不可能な雰囲気を、アタシに向けていたように思える。言い訳にしかならないだろうが。
おそらく、ジョバンニは貴族としては一流だろう。それだけに、粗いところが目立つのか気にかかるのだが……。
実は、ばっくれようと思ったりもしたのだが、しっかり見張りがいて、逃げられないようにされている。
このホテルに連れてこられる間も、何度も何とか断ろうと努力した。しかし、あいつはそれをさえぎり、あるいはかわしてみせた。
驚いたのが、そんなアタシの様子を察したらしい妹が、アタシが断ろうとするのを止めるように手を引いたことだろうか。何度目かに口を開こうとした時、妹がそれをさえぎるタイミングで手を引き、眼で制したのだ。
そして夕食も終わり、部屋に帰ってきて部屋中を調べ、異常がなさそうだと判断してから、妹にその行動の真意を尋ねた。
「だって姉さん、あの人の頼み、断ろうとしてたでしょ? それはダメだって思ったから」
「いや、断るでしょ。怪しすぎるし」
「なんでそんなこと聞くの?」という顔で、当たり前のことしただけだという妹に、アタシはあいつに感じたことをきっちり説明した。明らかに悪口にしかならない事は除いて。
アタシの話を聞き終わった妹の反応は、非常に淡泊なものだった。「ふうん」と、それがどうしたのだと言わんばかりの態度で、驚きも怒りもしなかった。
個人的に、この話を聞いた時の妹の反応を予想していたのだが、きっと「そんな!」とか言って盛大に驚くか、「人をだますなんて許せない」と言って怒るとか、そんな風にそれなりのリアクションがあるだろうと思っていたのだ。だが実際は、かなり冷静だった。
「どうかしたの?」
妹の反応に、逆にこちらが驚いて言葉をなくしていると、妹が心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。それでようやくわれに帰それでようやく我に返り、
「今の話聞いて、何とも思わないの?」
逆に、こちらから尋ねた。
妹はアタシの言葉に何を思ったのか、苦笑した。
「姉さんの言うことはもっともだと思う。私は、そんなこと考えてなかったから」
なら、アタシの話を聞いてその反応は何なんだろうか? そんな思いが顔に出ていたのか、妹は「うーん」と小さく唸り、言葉を探しながらといった感じで考え込んだ。
「私さ、ジョバンニさんが何考えてるかなんて知らない。姉さんの言うことはきっと普通に考えたら、当たり前のことだと思う」
妹はアタシの考えを言葉では肯定しつつも、言葉の外では明らかに否定していた。
アタシは自分の考えが完全に正解だとは思っていない。だが、完全に不正解だとも思っていない。だが妹は、現状に一切の危機感を持っていない。
なぜ? アタシは自分のダメさ加減に内心のたうちまわり、現状を悲観しているというのに。なぜ妹は、こうもまっすぐな目ができるんだろう。
「これは勘だけど、ジョバンニさんは悪人じゃないよ」
この言葉は、アタシの考えを否定することだった。だって、アタシの考えからすると、ジョバンニはアタシ達を利用して何かやらかそうとしていることになる。そのやり方からして、ロクなことじゃないと思うのだが、妹はそれをはっきり「違う」と言った。
「根拠は?」
「ないよ」
アタシの考えをそこまできっぱり否定するなら、それなりの根拠があるのだろうと思ったが、それすらあっさり否定された。つまり妹は、本当に全くの勘だけで言っているのだ。
少し腹が立った。アタシはそれなりに考えているのに、たったそれだけでこちらの考えを否定するのか。アタシは自分だけのために言ってるんじゃない、妹のためを思ってなのに。
「姉さんが怒るのは、当然だと思う」
アタシの怒りを感じたか、それでも妹は落ち着いた声で話す。
「でも、間違いないよ。断言してもいい。いい人じゃないだろうけど、悪人でもない」
そのまっすぐな視線は、アタシの心を貫いた。妹の言葉には、明らかな『力』があった。アタシの考えなんて矮小で、取るに足りない事なんだといわれているような気さえしてくる。アタシの考えなど小賢しいと、まるで責められている感覚になる。
妹にはそんな意図はないだろう。妹の目はひたすらまっすぐだ。そこには邪念は見られない。アタシの感じたことなんて、妹は考えていない。
急に、泣きたくなった。あんな目見たことない。今まで一度も見たことない。これ程まっすぐな目を出来る人間なんて知らない。
ああ、確かにアタシは小賢しい。あれこれつまらないことを考えて、過去にとらわれ、ちっちゃいことを気にしてのたうちまわり、見た目だけは取り繕う。
アタシみたいな人間には、妹の目はつらい。太陽を直視すると目がつぶれてしまうように、強すぎる光はもはや毒だ。アタシみたいな汚い人間が直視していい存在じゃないんだ。
アタシはうつむいた。妹の目を見ていられないし、妹の言葉も重い。
ジョバンニは怪しい。妹がいくら言おうと、その考えは捨てられない。しかし、妹の言葉を聞いていると、妹のほうが正しいのだと、そんな考えは捨ててしまえと、自分の中の何かがささやく。
「それにね」
妹は、さらに言葉を紡ぐ。その言葉には、迷いがない。
「ジョバンニさんの話が本当とかウソとかはどうでもいいんだ。でもね、感じたの。
ジョバンニさんの頼もうとしていることは、引き受けなくちゃいけないって」
恐る恐る、顔を上げる。妹が、いたわる様な目で、アタシを見ている。
アタシの考えを否定しても、アタシ自身は否定しないでくれている。ちゃんとアタシを見てくれている。
「ごめんね、姉さん。姉さんは引き受けたくなんてなかったんだろうけど、私は、これはやらなくちゃいけないことだって思ったの」
アタシに近寄り、アタシの手を取って、幼子をあやすように語りかけて来る。その手に障るのが恐ろしいことのように思えて、アタシは手を引っ込みかけたが、妹は強く手を握ってそれをさせなかった。
「私のこと怒っていいよ。姉さんには、その権利がある。私のせいで泣いてるんだよね」
いつの間にか、アタシは涙を流していた。
違うよ、アタシが勝手に泣いてるんだよ。リデアのせいじゃないよ。アタシ自身のせいなんだ。自分の汚さを見るのが嫌でふたをして、リデアを見てるとそんな自分があまりに身勝手で、矮小で、どうしようもない人間だと気づかされるから。リデアのせいじゃない。アタシが勝手に泣いてるんだ。
「り、リデアは、ジョバンニの仕事を受けたいんだよね」
涙で顔がぐずぐずで、声も震えているが、それでもしっかりと確認する。
「受けたいっていうか、受けなきゃいけない気がする。これは必要なことだって、私の中の何かが言ってる」
妹の中では、それは決定事項だ。
ジョバンニ個人のことなんか、妹の中にはない。ただ、自分の直感を信じている。
理解不能だ。アタシみたいな人間には、それこそ一生かかっても無理だろう。
だが、妹は自分の道を信じ、疑っていない。仮にその直感が外れていても、妹は誰もきっと恨まない。後悔もしない。ただ、受け入れるんだろう。
アタシは、妹の邪魔をしてはいけない気がした。ジョバンニに対する個人的な思いは捨てて、妹の直感を信じる。それが、正しいことのように思える。
「本当にごめんなさい、姉さん。姉さんを無視して、勝手に引き受けちゃって」
アタシはただ、首を横に振った。声を出すと、本当に泣きわめきそうだったから。
「確かに、姉さんの言う通り、何かあると思う。でもそれはきっと、姉さんが考えてるようなことじゃないよ。絶対」
アタシはただただ、頷いた。
もう、ジョバンニのことなんてどうでもよかった。信じるのは妹だ。ジョバンニを信じるんじゃなく、妹を信じる。根拠がないのがなんだ。そんなちっぽけなもの捨てておけ。
妹の言葉と目には、それだけの価値がある。
「ごめんなざい」
ぐちゃぐちゃの顔で、汚い声で謝る。ひたすら謝る。
「ごめんなざ……! ごめんなさ、い!」
妹は狼狽し、背中をさすってくれた。「何で謝るの?」と、無言で訴えて来る。
ごめんなさい。アタシは無意識にあんたを見下してた。バカにしてたんだ。リデアがなんも考えてないと思ったんだ。まともな判断なんかできてないと思ったんだ!
こんなこと考えてたなんて言えない。言えるはずがない。自分がこんな人間なんだと、妹に知られたくない。だから言わない。
でも、謝る。ひたすら謝る。謝って謝って、それでも妹はずっとそばにいてくれた。
ごめんさない。ありがとう。
これからもこんなこといっぱいあるだろうけど、それでもアタシはあんたといたいから。
ようやく泣きやみ、妹に「もう大丈夫だから」と、先に風呂に入ってもらった。
洗面所で顔を洗い、目をタオルで冷やす。明日、腫れなきゃいいんだけど。
「シグルド、アタシ、最低だ」
『妹君が出たら、さっさと風呂に入って寝てしまえ』
余計なことは考えるな、か。
シグルドは答えを返さない。今のアタシには、何を言っても逆効果だと分かっているからだろう。
アタシは、誰かに罰してほしいのだ。妹は無理だから、シグルドに頼んだ。だが、シグルドからも拒否されてしまった。
「寝てしまえ」か。それがいいかもしれない。風呂はさっさと済ませて、寝てしまおう。
ジョバンニの依頼。どんな結果になるかなんてわからないが、もう気にしないでおこう。
お風呂はさっさと済ませた。妹が心配してくれたが、これでは明日に差し支える。
「アタシ、もう寝るから。あんたもさっさと寝ちゃいな」
強引に妹をベッドに入れ、部屋の明かりを消した。
明日、どうなるか。そんなことをちょっと考えたが、泣いたせいか、すぐに睡魔が襲ってきた。
さあ、最初の冒険だ。