快晴である。空は青く、遠方に見える森は緑に萌えている。そして眼下には麦畑と農民達がいた。一般的な田園風景とも言うべきか。
「いやはや、姫様がわざわざこんな辺境にいらっしゃる日が来るとは思いもしておりませんでした。おっと、もちろん歓迎いたしますぞ。私の屋敷では晩餐会の準備をしております。片田舎ですが、姫様の口に合うように料理人には腕を振るわせております。このような不浄の場所にいつまでも居られてはなりませぬ。ささ、こちらへ」
「……いえ、大丈夫です……それにこうした風景を見るのは……勉強になりますし」
媚び諂うような口調で晩餐会への出席を誘う領主に丁重な断りの言葉をかけつつ、しかし、私はての震えを止める事は出来なかった。
私が現在「視察」しているのはガリア王国南西にある、穀物の収穫が他と比べ多い領地の一つだった。生産性の低い領地と比べ収穫率に倍程度の開きがあるため、何らかの新農法があるのかと思いこうしてやってきた訳である。
「いや、しかし、姫様がこのような下賎な場所にとどまられては私が困ってしまいます。屋敷では舞踏会も催されますし、」
「そうは言っても、我々の日々の糧を作ってくださっているのは彼らとこの地です。私は下賎であるとは思いません。それはそうとこの領地は非常に農作物の収穫高が高いと聞き及んでいます。大変素晴らしい事だと思います。いったいどのような魔法を使ったのですか?」
「おお、いやはや姫殿下のご慧眼にはこの私、感服いたしました。元々この地は森に覆われて農地は狭く貧しい土地でした。曾祖父の代などは、我が家は領地ばかりが広く、しかしその実は貧しく王宮で杖を振るう事など考えも出来ませんでした。それを私の曾祖父や祖父、父、そして微力ながら私も、が懸命に開墾してきたのです。おかげでこの領地はガリアでも有数の実り多き地となった訳です。いや、実に姫様はよく見ていらっしゃる」
こちらの賞賛に対し、領主の媚びるような口調はますます強くなった。言葉の端々に現れる中央へのあこがれ故だろう。嘗ての貧困から抜け出す事に成功し、さらにガリアで上にいきたいという願望が感じられた。現在ガリアの宰相である私の歓心を得る事で王宮貴族となる為の足がかりとしたい、というところだろう。
だが、この土地を開墾し、ここまで豊かにしたのはこの男やその血族ではない。それを成したのはぼろを着て畑で汗水を流している農民とその祖先だ。それなのにこれは何だ。これだけ豊かな土地でありながら、馬車の窓から見た農民の暮らしぶりは貧困そのものだった。或は、これが普通なのか。
「……なるほど」
なんとか震えを抑えながらそう返した。隣の男はその事に気づいた様子もない。気づけない。
視線を外し、近くにいる農民の方に歩いていく。
「姫様!そのような」
領主の悲鳴に近い叫びに農民が振り向いた。
「お忙しいところすいません。少しお尋ねしたい事があるのですがよろしいでしょうか」
「はあ、あの、あなた様はいったい?」
こちらに向かって駆けてきた領主と私の護衛、そして私と代わる代わる視線を移しながらその平民はそう言った。
「なんと言う無礼な口を!姫様、この者には私自らが」
「私は気にしていません。そのような事はなさらないで結構です」
平民の態度に領主が慌てた様子を見せた。それを押しとどめおびえた様子の男に静かに笑いかけながら話を再開した。
「そのように固くならないでも大丈夫です。と、申し遅れましたね。私の名前はイザベラと言います」
王女であるという事実はあえて伏せる。これ以上緊張しては何も話せなくなりかねない。
「へ、へえ、イザベラ様でございますか」
「はい。ところで、この領地は非常に豊かなようですね。何か特別な事はなさっているのですか」
私のその質問に平民の男はきょとんとした様子を見せ、次に笑いながら答えた。
「いや、何にもしちゃいませんよ、お嬢様」
その言葉に反応しそうな様子の後ろに立っている領主を手で制した。
「なるほど、しかし、この領土は他と比べて実りが豊かです。何か理由があると私は思うのですが」
「いや、そんな事はねえですよ。他と同じように土を耕し、麦を植え、収穫しているだけです。ただ、普通牛飼ってる家は少ないんですけれども、ここら辺は牛とか豚とか飼ってる家が多いですだ。実際むこうの畑は牛とか豚の糞を畑に蒔いていますんで」
と、彼は隣の畑を指差してみせた。麦はこの畑と比べて明らかに大きい。
「……貴方は牛や豚を持ってはいないのですか」
「いやあ、牛は畠仕事を手伝ったり、糞は肥料になったり、牛乳が摂れたり便利ですけんど、餌を用意しなきゃいけないんで普通の家では無理です。木の実や藁を買わなきゃいけないですが高いんですよ」
「ところで、あの辺りは何も植えられていないようですが」
「ああ、あそこは休閑地です。麦を毎年まいていると実りが悪くなっていくんです。まあ、土も休ませないといけないという事ですだ」
「あそこに、家畜の肥料になるもの、クローバーやカブを植える事は出来ますか」
「へ?いやあ、休ませている土地に何かを植える事は出来ませんよ」
「でも、雑草は出てきています。植えられないのは麦だけで他の物なら大丈夫かもしれません。それに……クローバーは土地を豊かにすると聞いた事があります。カブなどの植物は根を張り土を柔らかくすると聞いています。ただ休ませるよりもそのようにした方がより収穫量が上がるのではないでしょうか」
三圃式に始まる農業革命が全く起っていなかったというのは若干予想外であったが、考えてみれば当たり前かもしれない。この世界では貴族と平民の差は立場だけではなく、魔法というもっと直接的な絶対的な差がある。平民の事を顧みる貴族はごく少数に違いない。そして、それ故に彼らの生活や技術を向上させようとする動きは生まれない。私が見てきた限り、貴族はこういう概念を持っているか怪しい。
「へ!?へ、そんな事は考えた事もなかったですだ。いったいどうやってそんな事を知っておられるのですか」
「……思いついただけです」
まさか本当の事を言うわけにはいかない。といってもこの説明には無理があるが、まあ立場上追求される事はあるまい。
「では、これは有効だと思いますか?」
「やってみないと上手くいくか分かりませんが、家畜を飼えるようになったら実りはずっと豊かになりますよ!」
「そうですか。わざわざ質問に答えてくださりありがとうございました」
そう言って、私は馬車の方に歩いていった。護衛も領主も驚愕を顔に浮かべている。
「いや、姫様、その、先ほどおっしゃったことは」
どもりながら領主がそう尋ねた。この話が上手くいくのなら、彼の収入が大きく上がるのである。
「上手くいくかもしれないというのが、先ほどの農民の方の意見様ですね」
「いやはや、もし上手くいけば、さらにこの地は豊かになりますぞ!!姫様には感謝しきれませんな」
「まあ、このような小娘の浅慮を採用なさると?」
「小娘などとそのようなこと全くございません……聡明な姫様の話は万の金貨にも相当しますぞ!いやはや、姫様が我が領にいらっしゃったなど、私は幸せ者ですな」
そう領主が言ってくる。
「まあ、そのようにおっしゃってくれた方は貴方が初めてですわ……農業改革、期待しています。上手くいったら、今度は王宮でお会いしましょう。」
暗に収穫を上げることが出来れば中央に進出出来るよう取りはからうと告げた。
「!!ひ、姫様、それは!」
「では、名残惜しいですがお暇いたしましょう。晩餐会へのお誘いは嬉しかったですが、あいにく急がなければいけない身なもので」
驚愕に固まる領主を尻目に私は馬車に乗り込んだ。
「では、出発してください」
ゆっくりと馬車が動き始めた。
馬車の窓から外を眺めながら思案に耽った。先ほどの領主も、或は宮廷貴族のほとんどが同じような目をしていた。権力、金、名声、そういったものを渇望しているものの目。栄達欲、それは罪ではないだろう。より豊かになりたい、認められたいという欲望は人間本来のものだと思う。
だが、その豊かさの為に踏みにじられている者達がいる。この領地に限ったことではない。というよりもここはガリアでも有数の豊穣の地だ。農民の生活水準としては高いクラスであろう。収穫が少なくても領主はある程度の税はおさめなければならない。当然、その負担は農民にしわ寄せされるはずだ。それはつまり……
直接見たことはない。そもそも、私がこうして視察を実行に移すまでも苦労が絶えなかった。一ヶ月、それがこの視察の為に必要となった時間である。
「なにぶん急で前例のない事ですが、このような案件でいかがでしょうか」
宮廷貴族のその言葉とともに提出された国勢調査の概算書を読み、一ページ目で顔をかすかにしかめる事になった。内容があまりにお粗末すぎる上に、調査の範囲が大幅に縮小されている。しかも、各領主が自分の領の情報を申告すれば採用するという物だった。
無論、現地領主の協力は不可欠だろうが、その内容が最新の物であり、正しい事を監査する事は必須だ。そこで文句を言おうとして、思い直して最後まで読み終える事にする。
現在のガリア政府には独自調査をするだけの力があるか疑問だ。粛正の後である為、大きな反発があるとは思えないが、それ以前に調査出来るだけの人員が足りるかどうかが不明だ。それに完全にこの案を否定して宮廷貴族からこれ以上の反感や恨みを買うべきではない。少なくとも今はまだ。
「……数値が間違っていますが……」
「は……そのようなはずは……」
「いいえ、合計が一致していません」
読み進めていったところ、単純にこの調査における収支、といっても支出だけだが、の合計が一致しない。昨日自作したペンで間違いを訂正した。さらに、監査についての基本方針をいくつか書き込み書類を宮廷貴族に渡した。
「……大体はその内容で構いませんが、閣僚から提出される情報についての監査は必要です。ここに書いた通りに修正してください」
若干きつめの口調で呆然とした表情を浮かべた男に案件を返した。
「殿下……それはいったい?」
「はい?何でしょう?」
唐突に声が上がった。何の事か分からずに聞き返すと、その問いを発した男がこちらの手を指して再び聞いてきた。
「羽ペンではないですよね……インクも着けてないようですし……」
「?……昨日私が作ったペンですが……」
何を言いたいのか分からなかった。
「で、殿下が!?インクも付けないで書けるペンなんて見た事も聞いた事も」
「ああ、なるほど」
何が疑問だったのかがようやく分かった。インク壷が必要な羽ペンと比べればボールペンの使いやすさは圧倒的である。ボールペンの存在をあまりにも当たり前と思っていてその事には気づかなかった。
「なるほど、などと、大発明ではないですか!?いったい、どのようになっているのですか」
悲鳴に近い叫びを男が上げる。
「なら使ってみますか、いくつかありますし」
そう言ってペンを渡すと、彼は高価な物にでも触れているような様子でペンを調べ回した。他の貴族達も興味津々と言った様子である。書類の隅に試し書きをして、彼はこちらを向いた。
「これはすごい物ですよ!」
「いやはや、驚きましたな」
「これを大量に作れれば書類作業が大幅に楽になりますぞ!」
「……どうも」
予想もしていなかった反応に驚きながらそう返した。しかし、貴族達の表情を見ると半分ほどの者が昨日と違い、反感を示していない。むしろ、好感を持った者もいるようだ。時間つぶし程度に作ったペンだったが、意外な効果を示したらしい。
「以上で、会議は終了とする!よろしいですな?」
昨日、私に真っ向から口論を挑んできた男である。相変わらず、これが普通なのだろうが、私に対する反感を露にしている。よほど私のことが気に入らないらしい。私に対する評価が上がっていた場を強引に終わらせた。
「ええ、構いません。それでは案件の修正よろしくお願いします」
「……分かりました、閣下」
そう言ってその男は猛然と他の貴族達を押しのけ部屋を飛び出ていった。
彼は気がついていなかったようだがこの一連の流れは私の評価を上げ、彼の評価を下げることになった。強引さをあまり多用すれば他からいい顔をされなくなるのは当然であろう。それは国勢調査を強行させた私にも言えることではある。だが、まだ何も知らないと見られている九歳の小娘の我が侭と一人の強引な宮廷貴族、どちらがより批判されるかと言えば後者であることはこの場の雰囲気を見る限り間違いないだろう。
(思ったより……やりやすいですね)
心の中でそう呟いて、他の貴族達とともに私は会議室を出た。
「ディカス公爵についてお聞かせ願えますか」
昨日、今日と私に真正面から反対してきた者である。宮廷貴族の中で一つの勢力の中心人物ともいうべき男であるという他にはあまり知っている訳ではない為、王宮の人間関係に詳しい者から情報を集める必要がある。
「は、はい……」
「まあ、そのように緊張する必要はありませんよ」
「……わかりました」
執務室で私は一人の衛兵、昨日のうちに私の護衛に任命した老兵と向かい合っていた。この人物は早急に私の傘下に置く必要があった。宮廷貴族達にしてみれば自分たちの息のかかった者を置いて私を制御したいというところだろう、下級貴族だということでかなりの反対があったが、これも強引に任命した。
何しろプチ・トロワでの事件の真相を知っているのである。無論口止めはあのときしているが、普通の衛兵としておくことは出来ない。それに、あの極限状態の中で物事を見極めることができる洞察力と、宮廷での人間関係に関する正確な知識、情報は私にとって咽から手が出るほど欲しいものだった。そういったことがあって彼は私の下にいる。
それに今後のことを考えれば、こうした会話を通して人間関係の微妙な機微を学ぶことは必須であるだろう。結局一人で出来ることは限られる。それならば、部下の能力ややる気を引き出させる方が遥かに効果的で、その為の手段として社交術は学んでおかなければならない。
しかし、なかなか上手くいかない。老兵の緊張を解そうと意識して笑顔を作るがどうも逆に緊張させる結果になっている。鏡がないのでわからないが上手く笑えていないのかもしれない。作り笑いの練習も必要である。
(本当に、足りないことばかりね……)
衛兵の言葉に耳を傾けながら私は心の中でそう呟いた。
ただひたすら謝った。そうすることしか出来なかったから。全てはもう取り返しがつかないから
……何故、私のことは救ってくれなかったのですか!……ゴメンナサイ……簒奪者の娘が!……ゴメンナサ……あれだけ我々シャルル派を殺しておきながら貴様はのうのうと……ゴメンナ……ナゼ貴様が生きている、無能者が!…………
どれだけ謝っても許しはない。ただ、それに耐えられなくて、それでも逃げることが出来なくて
ナンデ!?
「はっ!」
うたた寝をしていたらしい。夢は相変わらず悪夢だった。ここ一ヶ月ほぼ毎晩のように見ているのに未だに慣れない。
体は汗ぐっしょりと濡れている。脇にある子棚から手鏡を取り出した。若干青ざめた顔色に目の縁には隈が浮かんでいる。
杖を取り出した。目を閉じて意識を集中する。意識する先は私の体、さらに言えば体中に張り巡らされた血管である。呪文を唱える。呪文の効果は迅速だった。顔色は回復し、隈もなくなった。別にそうたいしたことではない。ただ、魔法で全身の血流を促進しただけだ。それだけだが、短時間で身を取り繕うことが出来るので重宝している。
続いて、体の周りの水に働きかけて服を乾かした。取りあえずこれで良い。
丁度、馬車の動きが止まった。目的地に着いたらしい。宮廷につながりのある貴族の領地である。いくら私が宰相となって政治に口を出すことが気に入らないとは言え、王女である以上取り入ろうとするのは普通である。自然今回の調査で私が泊まる予定となっている領は全て宮廷貴族の所か若しくは彼らと関係のある所である。
ここ一ヶ月、私は直接的には政策を強行することはしてこなかった。いくつかの政策案を提案して入るがディカス公爵が強行に私と対立していること、さらに私が国勢調査をのぞけば基本的に彼に従う様子を見せていることから実行された物はない。そのため、九歳という年齢で政治に口出しをしようとする生意気な小娘という印象は、逆にディカス伯爵の強引な手法により打ち消される結果になっている。
「お初にお目にかかります、イザベラ王女殿下。このたびは――」
馬車を降り、着飾った領主とその護衛こちらに挨拶にきた。それに最近慣れてきた笑顔で答える。社交辞令が済むと彼らに促され私達は屋敷に入った。
「王女殿下の護衛として今回の旅行に同行出来るなんてすごいです!」
青年が興奮した様子で老兵に言う。実際に異常とも言うべきことだった。下級貴族と見習い兵が幼いとはいえガリアの王女の護衛に着くということは。彼はこの『旅行』中、いや、それが決まった時からずっとこのように喜んでいる。
「ああ、そうだね」
「貴方のおかげです。このような名誉を得られるのは。それに王女殿下から色々と相談を受けているのでしょう?」
青年は年かさの兵士に向かってそう言った。声には尊敬の念が溢れている。
老兵は身分がある訳ではない。当初少年が最初見習いとして彼の下に就くことになったと聞いた時は落胆したものだ。身分のある者、栄達の見込みのある者の下に就くことが出来れば、出世に際して口利きをしてもらえる可能性がある。しかし、年老いた下級貴族ではそう言うわけにはいかない。この人物の下に見習いとして入ると決まった時点で自分の将来は木っ端役人で終わると彼は考えていた。
だが、実際の老兵の言葉、立ち振る舞いは深い経験と賢さに満ちていた。会って一週間もすると少年はこの老人の虜になっていた。これだけの人物が何故こんな地位にいるのかと純粋な青年の心では嘆いた事もある。
それが今では王女殿下直々に相談を受ける身分になり、さらに護衛もまかされるようになっている。そして、自分もそれに付き従う形で王女殿下の護衛と言う名誉を受ける事が出来た。護衛に指名されるという事は王女殿下から高い信用を得たという事だ。老兵が望めば一気に栄達する事も可能だと青年は信じていた。
「ああ、そうだね」
少年にそう答えながら、老兵の顔色には何処か冴えない様子があった。いつもそばにいる青年ですら気づかないかすかな物でしかない。普通気づけるものではない。
下級貴族である彼は長く宮廷に勤務してきた。下級とはいっても王宮に勤める以上、政治の術数権謀と無縁でいる事は出来ない。時には知ってはならない事が耳に入ってきた事もある。或は、シャルル派に勧誘されると言った事もあった。それらを知らない振りをして、或は一歩引いて過ごしてきた。だからこそ見えるものがある。特に自分に他より優れた何かがある訳ではない。ごく普通の判断力と客観的な視点にいるからこそ宮廷の動向を正確に知る事が出来たのだ。少なくとも彼自身はそう思っている。
そして、長年宮廷を見てきたが今の王女殿下ほどの人物は見た事がない。現王ジョゼフも不気味さを持っていたが王女ほどではない。少なくともジョゼフの考えや思想は彼から見て理解出来る範疇にある。
だが、王女は違う。彼女の考案したボールペンや政策案などは彼の目から見ても九歳の子供に思いつくようなものではないのだ。しかし、誰かが教えた訳ではない。そのような事が出来る人物はガリアには、いや、ハルケギニアにはいないのである。
(いや、それは些細な事か……)
この一ヶ月で一般の宮廷貴族の王女に対する評価は最初と比べ格段に上がっている。根強く彼女に反発する勢力が敬遠された事が主な理由である。だが、それは決して偶然の産物ではない。
ここ最近、王女が提案した交通網の整備や運河の建設など一部の政策はディカス公爵の領土に負担を強いたり、権益を削いだりする内容になっている。始めから王女に対して持っていた反感と相まって、公爵はとても王女と和解するなどと考えられなくなっている。王女の意見ならそれが何であっても叩き潰している。それが、彼の評価を下げかねないと分かっていても、である。
(無理もない……)
老兵はそう思う。公爵にしてみれば自分が押し上げたおかげでジョゼフは王位に就けたという思いがある。その功績を持ってマザランを押しのけ宰相に就くのは自分だと取り巻きに言ったという噂もある。それが自分ではなく自分が押し立てた男の幼い娘が宰相になり、しかもその小娘が自分の権益を削ごうとしている、など認められる訳がない。
当然、公爵は王女に激しく反感、敵意を示すまでになっており、それに冷静に対応する事で王女は自らの評価を上げている。
(それを、完全に理解した上で実行している……)
何も知らぬ小娘などと公爵は言うが、老兵の目から見て彼は王女の手のひらの上で踊っているに過ぎない。大の大人をこうも簡単に操る能力、才覚、そして、その人物に目を付けられた事、その事が彼にとっては恐ろしくてならなかった。
ドアをノックする音が聞こえる。
「どうぞ」
その言葉にドアが開き、一人の男が入ってきた。プチ・トロワ件の後、私の護衛に任命した年かさの兵士である。ドアのまで直立不動の体勢をとっている。
「そのように緊張なさらずとも結構です。こちらにおかけになってください」
そう言うが、その言葉通り彼が私の前で緊張を解いた事はない。プチ・トロワから私を知っている以上無理もないかもしれないが。別にそれならそれで構わない。
「さて……何かおっしゃいたい事があるのですか?」
微妙な表情、特に緊張したときに指を無意識のうちに動かす彼の癖などからそう推測する。衛兵はかすかに驚きの表情を見せた。正解らしい。
「……ゴンドラン伯に殿下が王宮への進出に協力するとそうおっしゃったのは何故ですか」
今日視察したゴランドン伯爵領での言葉から、老兵は言及してきた。
「彼が農業技術を発展させる事ができればの話です。まあ早くても一、二年後の話です」
成功する事は分かっているとは言えわざわざ一から試行錯誤して技術を開発、実用化するには大きな労力と長い時間が必要となる。私にしても農業に関する知識は十分とは言えない。それならば技術のある所から成果を流用すれば良い。彼の領で農業改革が成功すれば、彼を中央に進出させる変わりに技術をガリア全土に普及させるというのが私の目論見である。勿論ここだけでは失敗の可能性があるので、他のいくつかの領主にも同じような事を言い含めようとは思っているが。
「その言葉を実行に移す事は難しいと思いますが」
私が彼を宮廷の役職に就けようとしてもディカス公爵を始めとした宮廷貴族が止めるだろう。現状では……だ。その事を私が理解している事は、この老兵は織り込んでいるだろう。
つまり、この老兵がわざわざ私に尋ねようとしている事は……
「そうですね。この話は明日までには確実にディカス公の耳に入る事になるでしょうし、そうなればあの方は私を阻止しようとするでしょう」
「……ディカス公とは対立するつもりなのですか……あの方の勢力はかなりのものですが」
「さて……ただ、むこうはそう考えているかもしれませんね。だいぶ私の動きには警戒しているようですし。まあ、あの方は目に見える敵ばかりに注目して、目に見えない敵の可能性を考える余裕はなかったようですが」
「それは……」
絶句する衛兵から目を逸らした。この一ヶ月で仕込みは済んでいる。後は実行に移す段階だ。この調査が終わり、私が王宮に帰った時、それがディカス公の……そして、王宮は私の手に……
「さて、聞きたい事はこれで全てですか……?」
月明かりに照らされ蒼白な顔をしている老兵に私は静かに笑いかけた。窓越しに見える夜空には二つの満月が浮かんでいる。