「…………」
「…………」
「ミィー」
かつかつかつ、とペンの走る音がリズムを刻んでは響いていく。
淀みなく解答を書き込むウィル君に、消しゴムを抱えこみながらそれを覗きこんでいるテコ。
目の前の机越しの光景を、私は笑みを浮かべながら見守っていた。
ここは私の部屋。青空教室を終えた今はウィル君の家庭教師を務めさせてもらっている。
今日は復習もかねた小試験。ウィル君の出来の良さを考慮して結構難度の高い内容にしたのだけれど……この調子だと余り意味がなかったみたいです。
今更になりますが、舌を巻かざるを得ません。筆記も実技もウィル君はそつなくこなしてしまう。いえ、そつなくという表現は控えめで、容易く終わらせてしまうというのが恐らく適切です。
島で起きた戦いを振り返ればそれがいい証拠。彼は同年代の子供達と比較して一歩も十歩も先をいっている。ううん、きっとそれ以上に。
「こらテコ、消すんじゃない。悪戯するな」
「ミュミュゥ……」
本当に家庭教師が必要だったのか、とこの子を教えてきて思わずにはいられない。
余程のことがない限り、ウィル君なら独学でも軍学校に入学できたような気がする。緊張なんて言葉はこの子にははるか無縁でしょうし……。
「って、間違ってた……?」
「ミャミャ!」
「ぐぬ……。インテリ眼鏡は伊達じゃないのか……」
でも、私個人としては、この場を預からせてもらっていることは非常に良かったと思う。
人を教えるということを学べたし、何より目の前の光景をこうして眺めることが楽しいと思えるから。
この空間がきっと好きになっている。二人だけの授業風景。心地の良い温かさに浮かされる時間。
「ミャーミャ」
「不覚だ……って、ちょ、ちょっと?」
そっと、彼の髪に指を絡ませる。ウィル君は焦ったように身体を揺らした。ついていた糸くずを拭ってあげる。
「糸くずです」と言って彼に見せると、ウィル君は顔色を変えすぐに非難がましい視線を送ってきた。
何かを物言うような目付き。ウィル君はしばらく私を睨んだ後、ふんと顔を背け筆記に取り掛りっていった。
でも、そんな態度と裏腹に俯いた頬には赤みが差している。照れて恥ずかしがっているウィル君が微笑ましく、私はくすくすと笑みをこぼした。
ぶす、とすぐに手をペンで刺されましたけど。
痛いですよ……。
「…………」
かけがえのない時間。
そんな言葉が心に浮かび上がると同時に自分の顔が曇ったことがわかった。
頭を過ったのは、未だ塞ぎこんでいる彼女達のこと。
アルディラとファリエル。遺跡の一件以来、私を含めたみんなは彼女達へ何も働きかけずにいた。
犠牲を省みず私達を利用しようとしたアルディラ。島の秘密を語ろうとせず、今は疲弊しきった身体を休めているファリエル。
傷付いた彼女達に近付くことが出来ない。躊躇ってしまう。特に、アルディラについては。
彼女の行為をカイルさんは私達に対する裏切りだという。愛に縛られている彼女のことをスカ―レルは哀れだという。
どちらも当たっている。それらは認めるしかなく、だからこそ、私は彼女の為に何も出来ずにいた。
「丸くなりましたよね、先生」
「……?」
前触れなく、ぽつりと目の前にいるウィル君がその言葉を落とした。
二人だけしかいない室内ではやけにその声が響き渡る。訪れる沈黙。
……………………。
………………。
……!!
「ふ、太ってなんかないですよっ!?」
「ちげーよ」
ばっ! とすごい勢いでお腹を両手で覆い隠す。
け、決して島の果物が美味しくてつい食べ過ぎなんてこと、し、してませんっ!! お、お腹がちょっと気になってきたなんて勿論、あ、あり得ませんっ!
ついこの間食欲に負け、マルルゥが見てない所でナウパの実をこっそり頂いたなんてそんなことはっ……!?
「丸く収まるようになってきた、ってことです」
「…………はい?」
動揺する私を尻目にウィル君はそう続けた。
若干の冷静さを復活させ、まだ顔を赤くしながらも私は耳を傾ける。
「前なら人の都合お構いなしにずいずい踏み込んでいったのに、今はちゃんと人に遠慮することを覚えています。ええ、すごい進歩です」
「そ、そんなことは……」
「僕達の迷惑も省みず、おりゃーと言って帝国軍説得しにいったのが懐かしいですね」
「うっ……」
以前のことを引っぱり出して本当に懐かしそうに語るウィル君。満面の笑みで此方の心を抉るように。
な、何も言い返せない……。
「ただ、遠慮という言葉を知ったのは喜ばしいですが……ちょっと先生らしくないような気がします」
「……えっ?」
「近付くのを踏み止まって遠慮するのは似合ってないって、そう思うんです」
「…………」
ウィル君は視線を合わせ真っ直ぐ見つめてくる。
口元がほのかに曲がって、私に投げかけられた。
「難しいこと考えないでぶつかっていく方が、きっと先生らしいですよ」
「ウィル君……」
とん、と背中を押されたような気がした。
彼の言葉が胸の憂いを溶かすように沁みこんでいく。
鼓動が何かを伝えるように、全身へ音を送り届けてきた。
「……では」
顔を元に戻したウィル君は、言いたいことはこれで終わりというように言葉を切った。
記述を終えた解答用紙を私の元に提出し席を立ち、テコが便乗して彼の腕を伝って肩にとまる。
はっ、とした私は慌てて正気に戻った。
「僕はファリエルのお見舞いに行ってきますんで」
「ウィ、ウィル君!? まだ採点終わってないですよ?!」
「きっと満点です」
「ミャミャー」
制止も聞かないウィル君がドアの向こうに消えた後、急いで解答用紙に目を通す。
流し読みだったが、作ったのは自分自身なのでざっと内容を見ればおおよその正否は判断がつく。
結果は……満点。
可愛げないくらい優秀です……。
「…………」
難しいことを考えないでぶつかっていく。
ウィルの言葉を反芻し、そして、自分でもきっとそうだと頷いた。
彼女達に時間を与えているつもりだったけど、それは逃げでしかなかったんだと思う。
つらい事実から目を背けていただけだ。時間が今の状況を解消してくれることを望んでいただけだ。
私らしくない。うじうじ考えてしまうのは。今の私は、私らしくない。
言葉は打ち砕かれた心をより強く蘇らせてくれる。
それを、私はあの人達に教えてもらったじゃないか。
「……行きましょう」
立ち上がる。
もう躊躇わない。今自分のすべきことが解ったから。
扉を開け、今を苦しんでいる彼女の元へと向かった。
然もないと 11話 「昔日の残照を浴びながら」
瞑想の祠。
二本の大樹に挟まれている水晶群、そこにできた天然の洞穴。周囲のクリスタルにマナが集まりやすく魔力純度の高い空間が形成される、サプレスの召喚獣達にとっては一種の休憩地。
その入り口正面に、フレイズが身動き一つせず佇んでいた。仁王立ちのような威勢こそないが、静寂な迫力が何人たりとも祠の奥へ進むことを拒絶している。
目を閉じてその場にいることを全うしている天使の姿は自然と門番の姿を彷彿させた。
『ハッハッハッ、フレイズ様のお通りだぞ~! ドケドケ~!』
「────!?」
徐にフレイズの視線の先を、全身が銀色尽くめになった彼瓜二つの天使が横切っていった。
青い瞳が驚愕に見開かれ、次には背中から天使にあるまじき荒んだ怒気を発散される。
偽フレイズは本人に見せびらかすように痴態を演じ、そこかしこにいる召喚獣達へ好き放題な行為を働いていた。
「あの馬鹿師匠の仕業だったのですか……!」と、普段の彼を知っている者が聞けば耳を疑うような怨嗟の声が呟かれる。神経がブチ切れるような擬音も発生し始めた。
耐えろ私にはファリエル様の側に控える重要な使命がっ、と自らに言い聞かせるようにブツブツ言葉を唱えていたフレイズだったが、偽フレイズが見習いロリ天使に甘いマスクでナンパしている所を目撃し、瞬間地を蹴った。
言葉にならない絶叫をあげながら、彼は偽フレイズの元へ猛速で飛んでいった。
「行ったか……」
犬天使と偽天使が壮絶なデッドレースを繰り広げながら消えていく。偽天使の方は飛ぶことも忘れ激必死でドタドタ走りだ。
それを見届けた俺は木の影から顔を出す。計画通りと黒い笑みを浮かべる、なんてことはなく、すたこらと祠へと足を進めた。犬天使がすぐに戻ってきたらかなわん。
アティさんの部屋から出てきた俺は、彼女に言ったようにファリエルの所に来ていた。
ここ数日の間は先程のようにフレイズが立ち塞がっていたので顔を合わせることも出来なかったが、これでようやく彼女に会える。
あいつの主人を想う直向きさは尊敬さえするが、しかしもう少し融通も利いてくれんかな。ちょっとくらいファリエルの顔を見ることくらい許されると思うんだが。
消耗しているファリエルを思い遣ってのフレイズの行動は理解しているけど、今回は餌で釣ることで──餌であるマネマネ師匠は脅した──強引に突破口を開かせてもらった。
こうでもしないとファリエルに会えないし、時間も余りかけてられない。「記憶」が正しければ帝国軍が今日にも攻めてくる。身体を休めている彼女には悪いが、そろそろタイムリミットだ。
アルディラの方は完全にアティさん任せ。信用しているし、俺よりかは遥かにアルディラの為になるだろう。
遠まわしにファリエルの方は任せろと言ったつもりだ。あの人ならきっと意味を汲んでくれてアルディラの所へ赴いてくれている筈。
「じゃあ、行こう」
そう口にして俺は祠へ入っていった。
「……ウィル?」
淡く青い光で照らしだされる洞窟内。円形に縁取られた奥の広間で、ファリエルが壁に寄り掛かる姿勢を作っていた。
鎧を解いている彼女の顔は未だ疲労の色が濃く残っている。俺は心の中で謝罪しながら彼女へと近付く。
「おはよう、ファリエル。お見舞いに来たよ」
「……ありがとう」
弱々しい笑み。その顔には疲れ以外にも何かを覚悟したような雰囲気が覗いている。
俺はそれに気付かないふりをしながら、大丈夫か、身体の調子はどうか、など有り体の言葉を送り、二三言交わしてから手に持っていた風呂敷の中身をごそごそと取り出した。
包みの中から顔を出すのはすり鉢や木の棒、それに沢山の木の実。
すり鉢に実をばらばらと入れて、すりこぎで粉状にしていく。ごりごりごり、と木と木の摩擦で生じる音が、物音一つしない祠に鮮明に響いていった。
ファリエルは俺の行動に疑問の顔を作っていたが、それから表情を改めて口を開いた。
「聞かないんですか……?」
「何を?」
「……私がウィル達に黙っていたことを、です」
「…………」
もう知ってるから別に構わないさ、なんて言えんがな……。
覇気のない顔をしているファリエルには非常に悪いが、俺の心情はそんな感じだった。
島にまつわる話は「レックス」の時に聞いて熟知済み。そんなこと今更だろう? と笑顔で言うような感覚が否めない。
俺としては早く元気になってみんなと和解してもらいたいだけだったりする。
「……聞きたくないって言ったら嘘になる。何で今まで話してくれなかったのか、っていうことも含めて」
「…………」
まぁ、少々の本音と冗談はさておき。
思いつめてしまっているファリエルに失礼のないよう真剣に語ってみる。
「それでも、今まで頑張ってきたファリエルのこと考えてみたらそんな無茶言えないし、今の悲しそうな顔も見ていると無理に聞き出すのもはばかれる、かな……?」
「……っ」
俺の指摘にファリエルは肩を震わした。すぐに顔を俯きかけてしまう。
ごりごりごりと依然手を動かしながら、俺は言葉を続けた。
「だから、ファリエルを信じることにした」
「……え?」
ファリエルの疑問に答える前に、完璧粉末になったすり鉢の中身を土瓶のような容器に入れ替える。
簡単な装飾をされたそれを弄って、ファリエルの前にコトリと置いた。
「……?」
「ミスミ様とヤッファの所で借りてきた」
程なくして容器から蒼の光粒が昇っていく。
薄く淡い輝きがきらきらと祠の内部に反射した。
「……これは」
「ん、蒼氷樹の実」
蒼氷の滝の付近で生息している蒼氷樹。それから木の実を少々失敬してきた。
蒼氷樹は冷気と一緒にマナを放出する珍しい樹木で、その辺りには豊富なマナが潤う。ファリエルの身体が回復するのに役立つと思い立ち、活用することにした。
流石に木を引っこ抜いてくる訳にもいかないので、というか無理なので、氷飴のような木の実をこうしてすりおろし、香炉に入れて焚いてみたのだ。
すり鉢セットはミスミ様から、結構すごそうな香炉はヤッファから。後者は呪術などで用いられるものらしく、どうやらマナを焚くのも成功したようである。
「…………」
「ファリエルの身体に少しは良い、はず……」
マナの微光と香りがこの場を満たす。
呆然と自分の元に降ってくる光の欠片を見上げるファリエルに、俺は先程の続きを話した。
「……絶対みんな解ってくれるから、だから『頑張れ』」
「……!」
「あの時のこと、ファリエルが守ってくれるって、そう信じることにした」
「………………」
ファリエルは完全に顔を俯ける。
少しだけ、彼女の勇気を煽る真似。恐らく彼女のことだから、俺達が何も言わなくても話すつもりだったのだろうが…………抱える不安を和らげてやろうと要らないお節介をしてみた。
「ずるいかな……?」
「…………ううん」
俯いた顔がふるふると左右に振られる。
俺の呟きに返ってきた声が持ち合わせるのは、どこか湿ったような響き
やがてゆっくりと上げられた顔には、潤んだ瞳と笑顔があった。
「なんで、貴方はそんな優しいのかな……?」
「女性を助けるのは当たり前だから」
サムズアップしながら場違いな笑みを浮かべる。
ファリエルは瞳に溜まった涙をそっと拭う仕草をして、改めて泣き笑いを作った。
「ありがとう……」とかき消えるような細かい声と頬を薄く染めた笑顔に、不覚にも心臓が跳ねてしまう。
うぐっ、と内心で声を詰まらせた俺は誤魔化すように横を向いた。
「あー、うん、僕はそれでいいんだけど……」
「?」
歯切れの悪い俺にファリエルは首を小さく傾ける。
そういえばこの娘も天然だった、と赤い悪魔によって忘れて久しい事柄を思い出す。「以前」は「あの娘」のキラーパスに結構苦しめられました。
悶えそうになるのを理性で抑え込みながら、俺は指を後ろの方に向けた。
「……ただ、“友達”としてはちゃんとお話を聞きたいだってさ」
「あっ……」
俺が指を向けた方向。
死角になっている祠の壁から黒のテンガロンハットがはみ出ており、そわそわと揺れていた。
目を見開くファリエルに、俺は外で待っていると伝えて腰を持ち上げる。慌てた声が聞こえてきたが、構わず外に向かった。
件の壁の前を通れば、そこにはソノラ。落ち着きのない彼女は若干頬を赤らめながら半目をやり、ありがと、と音にならない文字を唇で作った。
俺は眉を下げる笑みで肩を竦ませソノラの前も通り過ぎる。壁から離れ広間に出ていく気配を背後で感じながら、またあの夜ように笑い合って欲しいなと願う。
あの娘(ファリエル)に関しては、自分は献身的な傾向があるのかもしれない。
どこか何時も少女のことを気にかけている自分を省みて、そんなことを思った。
知らずの内に惹かれてたのかな、と「あの娘」のことを思い出し、苦笑して、そして「過去」を見るのを止め、今の少女のことを考える。
どちらにせよ、あの娘に幸せになって欲しいという想いは偽りじゃないとそう結論。
幻想的な光の森を見上げ、「過去」のものと変わらない光輝を浴びながら、ゆっくりと歩みを連ねていった。
ちなみに、師匠を脅したのは少女の黒光りする銃だったりする。
◇
「遺跡を、封印しましょう」
集いの泉で、私は決着させた選択を全員に聞こえるよう言った。
アルディラやファリエル、みんなが集まっているこの場で。
四界全ての魔力を膨大に生み出す装置。全ての界に繋がりあらゆる召喚獣を喚び寄せてみせる喚起の門。
それら圧倒的な設備を開発した無色の派閥の最終的な目標は、人の手で界の意志(エルゴ)を作り出すことだった。
界の意志から派生し世界のあらゆる万物と繋がっている共界線(クリプス)、それを掌握することで世界を意のままに操る。人の意志をもって界の意志に成り代わる方法、無色の派閥はその手段をこの島で模索していた。この島は、その為の実験場。
界の意志と世界の両方から送られる莫大な情報を捌くことは事実上不可能。装置の制御中枢、核識に成りえる人物は存在せず、無色の派閥の計画は座礁することになる。
しかし、唯一例外だったハイネル・コープスさん──ファリエルの兄でありアルディラのマスター──の存在が、無色の派閥の危機感を刺激することとなってしまう。
無色の派閥は核識に耐え得るハイネルさんを恐れ、この島の放棄を決定。彼ともども島を抹消しようとした。
それが過去の顛末。この忘れられた島で起こってしまった凄惨な悲劇。
「剣」の魔力によって活性化してしまう島の亡霊達も、壊れてしまった核識──「遺跡」の思念によって歪んだ共界線に囚われた、過去の犠牲者達だった。
遺跡を復活させれば封印されたハイネルさんの意識も蘇るかもしれない。私という鍵を見出したアルディラは、そう思って今回の行いに踏み切った。
そして、ファリエルは何も知らずに暮らす島のみんなの今を守る為に、亡霊達を鎮め続け、また今を壊そうとするアルディラに剣を振るった。打ち明けることをしなかったのも、知らずにいて欲しかったから。何も変わらないでいて欲しかったから。今という時間を、守りたかったから。
過去の全容、二人がずっと背負ってきたもの。それを私は聞いた。
アルディラの想い。ハイネルさんへの赤心の愛情。「遺跡」に自らを捧げてまで大切な人に会おうとした果てのない悲哀。
ファリエルの責務。護人を通じて悟った兄の望んだ今の在るべき姿。守れなかった兄の代わりにその夢を守ってあげたい。巻き込んでしまった者達への償いという名の願い。
二人の全てを聞いて私が下した結論は、アルディラの望みに幕を下ろすこと。
彼女の愛が理解できないなんて言わない。また理解できたとも言わない。その上で、彼女の思慕を間違っているなど言える筈がなかった。
それでも私はこの選択をとった。彼女が傷付くと解っていて。
今を選んだという事実はいくら弁解しようとしても言い訳になってしまう。だから、彼女に何を言おうとは思わない。
今という現在を代償にして失ってしまった過去を取り戻すことを、私は選べなかった。
それだけが真実だから。
「ふふふ……。やっぱり、そういう答えになるのよね……」
「…………」
「封印なんて、絶対にさせないわ……!」
「アルディラ……」
赫怒とも悲愴ともいえる面持ちが私の言葉を拒絶する。
自分の選んだ結果。私はそれに対して、心の痛みに耐えることしか出来ない。
「アルディラ、お前……!」
「我らが護人になった理由をお忘れですか!」
事情を話しこの場立ち合っていたヤッファさんとキュウマさんが、アルディラに説得するように呼び掛ける。
それを彼女はかぶりを振って受け付けない。目に涙を溜める彼女が抱くのは深すぎる情念。自身の抑制すら利かない、昇華され歪んでしまった一途な想い。
「私が護人になったのは、帰ってくるあの人の居場所を守るため!」
叫ぶ。彼女自身の想いの丈を言い表すかのように。
「それが叶わないのなら、この島も、私自身にも、存在する価値なんて在りはしないわ!!」
その悲鳴を否定することだけは、この場にいる誰もが出来なかった。
「どうしても封印を行うというのなら、私を倒しなさいっ!!」
魔力が発散される。相貌が歪み罅割れる。双眸から涙がこぼれ落ちる。
「私を壊してっ、全部、終わりにしてよぉッ!!?」
召喚光がアルディラを照らし出し、そして彼女の細い肩が何者かの手によってポンと叩かれた。
「10万ぼると」
電流が、ほとばしった。
「#$%&¥#$%¥$$&¥#&%%¥#$#&¥~~~~~~~~~~~~!!!?!?!?」
「「「「「「って、オイッッ!!!?」」」」」」
「何やってるんですかぁーーーーーっ!!!?」
目が眩むような閃光がアルディラを襲う。声にならない絶叫をあげ、彼女はバタリと地面に沈んだ。
私達の非難もなんのその。誰にも気付かせることなくアルディラの背後に忍び寄ったウィル君は、ふぅと息を吐いて此方にイイ笑顔を見せた。
「ファインプレーだぜ、ウィル」
「「「「「「「意味がわからない!!?」」」」」」」
親指を上げてみせるウィル君に対して私達の心は一つだった。
混乱と混沌が均等に配合された空間。ファリエルなんて余りの光景に固まってしまっている。
「な、何をしたんですかウィル君!?」
「クノンに手伝ってもらって、電流をバチッと」
ほら、と言ってウィル君は握っている他人の手を私に見せる。
バチバチと電流を瞬かせる掌は確かにクノンのものだ。これでさっきアルディラの肩叩いたんですか……
「って、腕長っ!?」
「僕はともかく、クノンの存在をアルディラに気付かれない為ワイヤードフィストをフル活用した訳ですね。敵に回せば恐ろしい機能も、味方になればこれほど頼もしい存在はいないということです」
「意味がわからないです……」
「鬼に金棒ならぬ看護婦にスタンガンですね!」
「本当に意味がわからない!?」
伸びた腕の方角を窺えば、奥の方に申し訳なさそうにしているクノンの姿が見えた。
取り敢えず、諸悪の元凶はウィル君だということはわかりました……。
「うっ、うぅ……」
「ア、 アルディラ!? 無事ですかっ?!」
「あっ、ちなみにこれは絶縁グローブです」
「貴方は黙っていてください!!」
ぶすぶす焼け焦げたアルディラは微小な痙攣を繰り返す。
その姿を見て非常に悲しいことながら、哀れみという名の親近感が止まらなかった。ごめんなさい、アルディラ……。
「みたか、アルディラ。これが長い年月僕が味わってきた慈悲なきフィーバーだ」
「し、してませんっ!」
駆け寄ってきたクノンが顔を赤くしてウィル君に異議を唱える。
そしてすぐに彼女は謝りながらアルディラの介抱を始めた。健気過ぎる……。
「それで、何でこんなことしたんですか……」
「こういった修羅場は自分が主導権を握るに限ります。似たような経験があるのでこれはガチです」
「根本的な答えになってないです……」
ウィル君はそう言ってくるりと私に背を向けてアルディラに向き直った。
なんだか上手く誤魔化されたような気がする……。
「で、真剣な話。死ぬなんて馬鹿なこと言うんじゃありません」
「……っ。貴方に、一体何がっ……!」
「解るか馬鹿。死ぬなんてほざく馬鹿な奴の気持ちなんて」
ウィル君の空気が変わった。
此方から唯一見える小さな背中が、本気で怒っているように見えた。
「何ですって……!?」
「柄じゃないから一つだけ言っとく。────無責任なことすんな」
鋭い語気。反論を許さないその響きを、私は聞いたことがあった。
あれは、そう、ジルコーダの時の……
「アルディラ様……」
回想に耽りかけた所で、小さな声が耳朶を打った。
アルディラの横を支えるクノンが、力のない顔で、ともすれば悲しそうな面持ちで語りかけている。
「私に生きて欲しいとおっしゃったのは、アルディラ様ではないですか……?」
「!!」
「私を置いて、ご自分だけいってしまわれるのですか?」
「……っ」
「そのような悲しいこと、言わないでくださいっ……」
クノンが静かに涙を流した。ぽろぽろと雫がその数を増やしていく。
震える手が、何かを訴えかけるようにアルディラの腕を強く握った。
「ク、ノン……」
「……今死ねば、あんたを泣かせてでも守った男の全てが、無駄になるぞ」
「──────」
「誰もアルディラの死なんて望んじゃいない」
アルディラの時間が止まった。大きく見開かれた瞳からみるみるうちに涙が溢れてくる。
ぎこちない動作で自分に顔を向けたアルディラに、ウィル君は私達に聞こえない声で、けれど確かに何かを呟いた。
「…………それが、“アナタ”の望み?」
「……ああ、僕の望みだ」
涙に崩れた笑みが一つの問いを尋ねた。彼女自身にしか真意は解らない一つの問いを。
ウィル君の解答に、アルディラの表情に僅かな落胆が宿る。けれど、
「白いの…………ハイネル、さんも、きっとそれを望んでいる」
「……ぁ、ぁあぁああああっ、あああああああああああああっ…………!!」
その言葉で、アルディラが崩れ落ちた。
万感がつまった痛哭を漏らし、虚空を見上げながら。
哀切と、寂寞と、空虚と、無念と、謝罪と、懇請と、慕情が。
協奏を作って泉に波紋を広げていく。
胸が引き裂かれるような音色に誰もが顔を歪め、そして誰もそれから目を背けることはなかった。
呼応するかのように私の目尻にも涙が溜まる。
滂沱の雨が絶え間なく降り続き、昔日からの雨雲が、今日あがった。
◇
「む~~~~~~~~~~」
「ミィイ……」
行ったり来たりと。
腕を組んだ体勢で同じ場所を右に左に動き回る。
唸っていることも忘れ、俺は懊悩という行為をひたすら続けていた。
「いい加減落ち着け」
「そうだよ、みっともない」
「だって……」
「ミュウー」
カイルとソノラの注意に、俺は顔を顰めて口応えする。
此処、集いの泉にいるのは俺とカイル達に加えヤッファとキュウマ、それとクノンしかいない。
アティさんにファリエルとアルディラは封印を行う為に「遺跡」へと赴いていった。そう、三人だけで。
「先生だよ、先生? 何をしでかすか分からない、見てるこっちがドキドキハラハラする先生だよ?」
「「お前がそれを言うな」」
何故だ。俺はあれほど無茶苦茶じゃないぞ。
「ファリエルだって本調子じゃないだろうし、アルディラだって……」
今不安定な状態だ、というその先の言葉は飲み込んだ。
……早い話、俺は「遺跡」に向かったアティさん達が心配でならなかった。「レックス」の「記憶」からこの後起きるだろうことも予想できてしまうため、気が気でないのだ。
「遺跡」からの干渉、「キュウマ」が行いかけた裏切り行為。それを元に検証してみると、下手をすればアティさん達は……。
そんな懸念が、頭を過っては堂々巡り回る。
「やっぱり、僕ちょっと見に行って……」
「やめろ馬鹿。藪蛇になるぞ」
「ぐえっ」
ヤッファのぶっとい腕が、むんず、と俺の首襟を捕獲。
そのまま吊るし上げられ、宙づりの状態となった。
「ったく、送り出してやったんだからきっちり待ってろ。けじめを持て」
「……ヤッファは心配してないの?」
「アルディラと嬢ちゃんがやらせてくれ、って言ったからな。心配どうこうより、信用の方が勝ってるわな」
「…………」
「彼女達なら何事なくやり遂げてくれますよ、ウィル」
てめーが言うな、と口走りそうになったが、なんとかこらえた。
キュウマにとっては身に覚えのないことだし、それはただの醜い八つ当たりだ。
すまんと呟きつつ、結構自分も不安定な状態になっているな、と自分のことながら思った。
「それにこれはアルディラ達にとってもけじめだ。護人であるあいつ等が、各々の判断で島を危機に追いやっていたんだ。あの二人が責任を取らなくちゃならねえ」
「自分達も封印の助太刀をしてやりたいのですが、こればかりは」
彼等の掟、ひいては固い絆を知っているだけに何も言葉を挟みこめない。
「ウィル、アルディラ様達を信じてあげでください」
「クノン……」
「お前の気持ちも分からんでもないけどよ、必要以上の疑いは先生達の誇りを汚すことになるぜ?」
「……それも先代の教え?」
「おうよ!」
強いな、と笑みを浮かべるカイル達を見て思う。
どうしてそこまで彼等は平静でいられるのかと考えてみると、ふとそこで、自分は待つということを全くしていなかったことに気がついた。
何時も自分は窮地に向かう側で、大切な人達を待つ側に回ったことがないに等しいのだと。
「戦う時になればいつも背中任せてくれるじゃん。それと同じ、信じようよ」
「そうよ、先生達ならきっと大丈夫」
「…………ん」
大人しく信じるってことに対するもどかしさや歯痒さが消えた訳じゃない。
それでも、みんなの言葉を受けて待つことにした。
「それにしても、初めてウィルの年相応の姿を見た気がしますね」
「はっ、違いない」
「いつもこれくらいの可愛げがありゃあなぁ」
「むりむり。絶対あり得ないって」
「ソノラ様、それはツンデレというものですか?」
「何言っちゃってるのクノン!?」
「如実に必読書の効果が表れてるわね!」
「あんたが原因か!!」
騒がしいやり取りの中にみんなの信頼が窺えて、「過去」見ることのなかった新しい一面を垣間見た気がする。
こうやって「自分」も待っていてくれたのだろうか、と苦笑混じりの感情が湧きでて、少し笑えた。
もう確かめる術はないけれど、きっとそうなのだろうと、そう思えた。
◇
「おい、何処行くんだ、イスラ?」
「んー?」
小波と潮風の音が響き渡っていた。
照りつける日光を受け止めはね返す広い砂浜、海岸線。そこに二つの人影が点在している。
丁度いま振り返った少女の背中に、ビジュは続けて呼びかけた。
「もう隊長が出撃の号令出すぞ。抜け出してきていいのか?」
「抜け出してきたそんな私を追いかけてくるなんて、ビジュ、もしかして私に気がある?」
「……馬鹿野郎、はぐらかすんじゃねえよ」
少女の指摘にビジュは動揺が顔を出ないようにぐっ、と下顎に力をこめる。
くすくすと面白そうに笑う少女、イスラはからかうような面立ちを浮かべるだけで、ビジュの変化に気付いた様子もなかった。
「ちょっと私用だよ。やっておきたいことがあるんだ」
「何だよ、そりゃあ?」
「秘密ー」
「ちっ、てめえがあの女隊長と同じ遺伝子持ってることが信じられねえ」
「あっはははははっ! 言うね、ビジュ! うん、私も本当にそう思うよ」
笑う。笑う。笑う。
ころころ表情を変えて楽しそうに。あどけない少女の顔が彩りを添えるように咲き開く。
それを見て、心の中でビジュはもう一度舌打ちをついた。
心を揺さぶって絶えない少女と、分かっていてもそれにいい様に振り回される自分の不甲斐なさに。
どちらに対しても、如何しようもねぇ、と呟くのが彼の精一杯だった。
「なんなら、俺も手を貸すか? どうせ海賊の奴等を嵌める手回しなんだろ?」
「んー、当たらずとも遠からずかな」
前に向き直り、イスラの表情が隠れる。
黒い短髪が陽光を浴びて光沢を帯び、風に揺れて爽やかに流れていった。
「ちょっと悪巧みをね。結構面倒だから、来なくていいよ」
「二人の方が早く片がつくだろう」
「それに危ないかも」
「別に構いやしねえよ。それに尚更だろう、危ねえっていうんなら」
「心配してくれるんだ?」
顔が傾けられ目を弓なりにした笑みが向けられた。
満面といえる笑顔と図星であるその言葉に、ビジュの顔がとうとう気色ばむ。
「……悪りいかよ」
「ううん、嬉しいよ」
「…………」
笑みは変わらずに、一息。
「それじゃあさ、ビジュ。私じゃなくて、私の心配事を気にかけてもらえないかな?」
「何だよ……?」
「お姉ちゃん、守ってあげて」
ビジュは眉を八の字にする。
不可解な言葉を聞いての反射的な行動だった。
「あの馬鹿みたいに強え女隊長を守る必要があるのか?」
「あれでもお姉ちゃん、結構女の子なんだよ? まぁ言い方が悪かったかな。離れないで、これからも近くで力になってあげて欲しいんだ。どんな時でも、さ」
「お前は、そうして欲しいのか?」
「うん、そうして欲しいな」
「……わあったよ」
満面の笑み。けれど一向に距離は埋まらない、そう錯覚してしまうような遠い笑み。
長い軍人生活であらゆる経験をまたいできたビジュは、目の前にいる少女の間合いがここまでなのだと理解し、それ以上踏み出すことなく足を退いた。
イスラに背を向け、少しの心残りと共に踵を返していく。
「ビジュ」
浜辺に数歩の足跡を作った所で声が投げかけられた。
ビジュは首を捻る動きで背後を顧みる。そして、息を呑んだ。
「約束だよ」
全身は正面を向き、手は背の方に回された気軽な姿勢。
浮かぶ笑みは貼り付けられた仮面ではなく、恐らく、少女の本物の微笑だった。
双眼が瞠目し、身体の動きが止まる。空っぽになった頭の中に押し寄せてきた波音が静かに届いてきた。
青空を背景にしたその穏やかな絵が、ひどく果敢ないものに見えたのは、何故だったのか。
◇
「尚のこと、我等はお前達を許す訳にはいかなくなった!」
アズリアの怒号が辺り一面に散らばった。
アジト近辺。カイル達の船を後方に置いて俺達はアズリア達帝国軍と相対する。
「遺跡」の封印作業を終えたアティさん達が帰ってきて、まだ間もない時間だった。
奪われた「剣」の奪還。
それを目標に掲げる帝国軍にとって、俺達が敢行した「剣」の存在を「遺跡」に閉じ込める封印行為は、決して許容できるものではなかった。
「剣」の護送任務を課せられた彼等にとっては当然の話。此方がもう渡すべき「剣」がないからといって戦闘停止を促しても、それでこれまでの図式が変化する訳もなく。
帝国軍は「遺跡」に封じられた「剣」を取り戻そうと、これまで以上に躍起になって俺達に襲いかかるということになる。
「つまり、泥沼……」
「アルディラ達の願いのように、アタシ達の思惑も決して両立することはなかったっていうことね」
俺の呟きにスカ―レルが悟ったような笑みで言葉をこぼした。
現状に苛まれているアティさんの苦衷を察するが、こればっかりはどうしようもないことだった。
スカ―レルの言ったように、どちらかの主張が立つためにはどちらか一方を切り捨てるしかないのだから。
望む望まない関わらず、場は臨戦態勢に移行する。
集結した両陣営の戦力がそれぞれの得物を手にしていった。
「貴方達の言い分は関係ないわ。島の平穏を乱す者は、私達護人が許さない。……そうでしょう、ファルゼン?」
『……アア!』
そんな中でアルディラとファリエルが先頭に出て勇み立った。
どうやら調子を取り戻したようである。彼女達の頼もしい姿を見て、俺は懸念材料が無くなったと安堵の気持ちを抱いた。
これなら何も心配することはないだろう。
「同じ言葉をそのまま返してやる。いくぞ、総員戦闘準備!」
「待ちなさい!」
と、アズリアの号令から戦闘の火蓋が切られようとした所に、アルディラから待ったがかけられた。
思わず前につんのめりそうになった俺は、何だ何だと彼女の方を見やる。他のみんなも同じ様子であった。
「どうした、怖じけついたのか」
「安心してちょうだい、今更和解なんて言うつもりはないわ。……クノン」
「はい、アルディラ様」
淀みのない動きで、ていうか何時の間にか移動したのか分からない動きでクノンがアルディラの横に控え立つ。
両手で持っていたボックスから何かビンのようなものを取り出し、アルディラへと手渡した。
あれは、錠剤の入ったガラス容器? 何だってそんなものを……。
俺を含めたみなが疑問符を頭に浮かべる中、アルディラはライザーを召喚。
もらった容器をライザーに預け、アズリアの元へ向かわせる。
錠剤をアズリアの手の中に落としてライザーは送還された。
「……何だ、コレは」
「カルシウムを主成分に調合したサプリメントよ。冷静な判断を見失っているだろうから、飲みなさいな」
「「「「「「「「「「………………」」」」」」」」」」
俺達の間で重い沈黙が形成された。
アズリアも目元が見えないように顔を俯け、次には手に持ったサプリメントを純粋な握力で「バキッ!!」と粉砕、爆破。
「何て奴なの!? 人の善意を無下にするなんて……!」
((((((((((いやいやいやいや…………))))))))))
挑発行為にしか見えない。
味方ながら彼女を肯定する者は誰もいなかった。
「全軍っ、奴等を殲滅しろッ!!」
「行くわよ、クノン!」
「はい、アルディラ様」
兎に角、戦闘開始。
剣戟の音が幾重にも鳴り響いた。
敵陣営を包囲するように広域展開した帝国軍と、それに構うことなく前進したアティ達の剣が一斉にぶつかり合う。
崖に半ば囲まれた上に高さという地の利を取られたアティ達の選んだ戦法は、愚直でありなけなしの勢いを秘める正面突破。
散開して各方面で対処することより、広がることによって壁が手薄になる帝国軍陣形を一点集中で蹴散らすことで活路を開く。
数では確かに上回る帝国軍ではあるが、それもあくまで数人程度。怒涛となって押し寄せてくるアティ達に、彼等は戦力を左右に分担されないようにする為にも、すぐさま中央を厚くせざるを得ない。
各個の戦闘能力差と互いをサポートする連携の練度が、帝国軍の戦法を瓦解させかけていた。
「ちっ……!」
早くも旗色が悪くなりだしている戦況にビジュは顔を歪めた。
小細工なしの戦術でありながら、速さと連携のみで一気に此方へ防戦を課してきている。
逆の言い方をすれば、アティ達は小細工なしの舞台にすることで極めて優勢に近い拮抗状態をもぎ取ったということになる。
認めるしかない。敵は「剣」の力を頼らずとも強力無比の猛者達だということを。
「……おい、副隊長さんよお」
「なんだ」
前衛で指揮を任せられているギャレオにビジュは声をかける。ギャレオは重く低い声で相槌を打った。
互いの顔には親しみのしの字の感情もなく、無愛想の表情が牽制するように貼りついている。
「俺はてめえのことが嫌いだ。反りが合わねえ」
「奇遇だな、俺もだ」
眼前の戦場に視線を固定している彼等は目を合わせようともしない。
すぐ側に控えているビジュ親衛隊が『戦場のど真ん中で何言い出すんだこの人達……!?』と冷や汗ながら彼等の動向を見守っていた。
「だが、この状況で四の五も言ってられねえ。……力貸せや」
「……どういった心境の変化だ」
「うるせえ、いいからてめえの馬鹿力を貸し出せ」
約束とかいう、あまっちょろい言葉を破る訳にはいかない。
ビジュの脳裏に過るのはたったの一言と寄せられた笑み。
此処は任されたからには応えてみせる。ビジュの心で押し固まった一つの決意だ
「ふん、いいだろう。不肖の部下の申し出だ、部隊の為にも聞いてやる」
「死ね、ゴリラ」
「口を閉じろ、不良問題児が」
悪態が交わされる一方で、投具と武具が音を鳴らす。
決して互いを認めようとしない二人だったが、この時は瞳に据える意志を一つした。
────闘る。
「いくぞ、コラアァッ!!」
「全隊、援護しろっ!」
「第一小隊は左翼を狙え! 前衛と合わせて敵の急所を突く! 第二小隊は中央の補助を続けろ!」
地殻が高く突出した隆起帯。
戦場を高く見下ろせる位置でアズリアは一人周囲を一望し指示を飛ばす。
アズリアに付きそっている兵士は誰もおらず、弓弩兵や召喚兵といった射撃部隊が彼女の視界隅に取り巻いているのみだ。
彼女の声に従い多くの矢と召喚術が前方を貫く。
(くっ……!)
ギャレオとビジュの指揮と奮闘により前衛部隊は善戦している。
崩れかける戦線は迅速に編成して立て直し、未だかつて目にしたことのない二人の協力戦闘は敵陣営への反撃にも転じていた。ギャレオとビジュは敵前衛に決して引けを取っていない。
だが、越えられない。カイル達の防壁を。
アティ達召喚師組みによる結界と回復によりあと一歩が及ばない。
「おらぁああああああっ!!」
「ハアッ!!」
そして、止まらない。護人と称される四体の召喚獣達、その卓越した連携動作が。
もはや以心伝心の領域まで達している各個の動きが複雑に絡み合い、一糸乱れぬ波状攻撃となって味方の被害を広げている。
止まらない、止まらない、止められない。
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!』
遂に、崩壊。
白騎士の渾身の斬撃が前衛部隊に大穴を開ける。そこから雪崩れ込んできた敵勢力が楔となり中枢へ食らいつき、更に一部が反転し左方の部隊に襲いかかった。
アズリアの眉間が一杯に寄る。此方の左翼は壁が薄いとみせかけられ、まんまと敵の手中に誘き出されていた。前衛部隊は左右に割られ指示系統もままならない。
あの狸か。憎たらしいほど物の見事な手並みに、アズリアはギリと歯軋りをもらした。
「スクリプト・オン!」
「っ!」
枝分かれした幾条もの幕電が視界を瞬いた。
広範囲召喚術が両側面に走り土煙を巻き上げ、アズリアは反射的に腕で顔面を覆う。後から鼓膜が弾けるような電流の音がきた。
射撃部隊を狙ったのか、宙に舞う塵芥により確認が届かない。
と、前方の砂塵が揺らめきを作る。浮かび出る薄い影が陽炎のようにブレたかと思うと、次には煙の尾を曳いて白と黒の看護衣が姿を現した。
「お相手を務めさせていただきます」
優雅な一礼。
スカートの裾を両手で摘み頭を下げる侍女の動作。
そしてそれに連動するように後方の砂塵が風で薙がれ、晴れた背景には混戦となった戦況が顕になった。
戦士達の雄叫びと破壊の音色が晴れ渡る空を昇り、切り離されたこの空間にもその余韻を示す。
「…………機械人形か」
「訂正は必要ありません。ただ、この後で私を人形と呼んだことを撤回してもらいます」
アズリアは油断することなく腰を落とし、地面に刺さっていた槍を手にする。
機械人形と呼ばれたクノンも左手にある槍をアズリアへ突き出すように構えた。
「────やってみせろ!」
「!!」
互いの槍が交差する。
機先に突き出されるアズリアの戦槍をクノンは的確に捉えた。
アズリアとクノンが持つのは同じ種類の間接武器。得物のリーチも差はほとんどなく、両者の間合いは一定の距離を保たれたまま離れない。
「はあっ!」
「っ!」
速く重いアズリアの連撃に対してクノンは全て対応してみせる。
機関砲の如く突き進む銀の矛先を、刃で弾き柄で往なす。
大きく相手の軌道を逸らせば一転して攻勢。アズリアのものに威力こそ届かないが、前に縦に横に、巧みな槍捌きで旋風を作って様々な軌跡を描く。
空間を疾る槍にアズリアの防御が重なり合い、ことごとく火花が散った。
(技量は十分、経験の不足も機械さながらの状況判断で埋め合わせている……)
代わる代わる一連の攻守の中で、アズリアはクノンの槍を観察する。
未熟な面はあるが思い切りはいい。少なくとも自分が容易に切り崩せないほどの実力は有している。
(……だが、綺麗過ぎる!)
教本の内容をそのまま忠実に再現したような動き。余りにも明快で単純。
その速度と技術は認めよう。だが、アズリアにはクノンの次の動きが手に取るように予測できる。
踏み込みと同時に打たれようとする攻撃──見切りきった未来動作に、アズリアは一挙に前へ出た。
「!?」
「そこだっ!」
槍の穂先が出端から弾き飛ばされ、クノンの瞳が驚愕に見開いた
待機型「先制」。神速のカウンター。アズリアの振るった一撃によりクノンの槍が後方へと流される。
アズリアはすかさず回脚。左足を軸とした回し蹴りがクノンの腹部を穿つ。
「ぐっ──!?」
「終わりだっ!!」
後ろへと跳ぶことで衝撃を逃がしたようだが、それも徒労。
槍を持つ対人との戦闘の中で後方への緊急避難は下策中の下策。退避している無防備な身体に必殺の追撃が突貫となって見舞われるだけだ。
右手に溜めた一撃。アズリアは躊躇うことなくその砕撃を解放させた。
「────Full power」
「──────」
窮地に追い込まれる間にもアズリアの元へ注ぎこまれていた漆黒の瞳が、その瞬間をもって無機質な光を灯す。
全身の神経を走り抜ける寒気。まるで陥穽にはまったような嫌な感覚に、アズリアの本能が大声で叫びをあげた。
そして、一閃。
通常ではあり得ない体勢から放たれた剛槍。
重心が後ろに傾いているのにも関わらず、超速の刺突がアズリアの元へ繰り出された。
「────ッッ!!?」
直線的な線条が突風を生み、大気に穿孔が形成される。
閃光と化した穂先がアズリアの寸での防御を貫いた。
斜に構えられた戦槍、その刃の接合部が粉砕され、クノンのスピアはアズリアの脇下を通過。
黄金の稲光。空気を引き千切るような裂罅音に伴って、電流の飛沫が乱雑に拡散する。
「なっ……!?」
「……外れました」
今度はアズリアが目を見開く番だった。
回避にはかろうじて成功、だが咄嗟に出した槍刃の根元は高熱にあぶられたように融解し、スピアの軌道が掠めた脇下と腰周りの制服がボロボロに炭化している。
焦げた衣服から微細な電火が飛び跳ねては散った。
「機界の恩恵かっ……!」
「アルディラ様のサポートは万全です」
クノンの肩口に浮かび上がる実像。
守護者の如く現れたのは「エレキメデス」。憑依召喚「ボルツイクイップ」がクノンの攻撃力を上昇させ、またエレキメデスの属性である電気がそのまま付与されていた。
無理矢理な体勢から繋がった一撃は、はね上がった攻撃力をそのまま頼りに、そして機械の全身を完全酷似したことで為せた技か。
更にこの一瞬まで憑依能力を隠蔽していた事実も見逃せない。
戦闘能力で劣る自分に対して策を弄してきたクノンに、アズリアはただの人形という認識を改める。
敵を機械的と捉えるのは危険とそう判断した。
使い物にならない戦槍を放棄し帯刀していた剣を抜き放つ。
電撃を付与した槍を構えるクノンと仕切り直そうと半身をとった。
碧の輝きが戦場に散華したのは、その時だった。
「「!?」」
膨大な魔力と共に、賢帝の名を持つ妖剣が姿を降臨させた。
「……何だよ、ありゃあ」
「空が……」
「何が起こっている!?」
「自分にも解りません!?」
紅の柱。
瞬く間に蒼天を覆い尽くした暗雲に衝き立った、鮮血の一柱。
喚起の門を越えた島の深奥部を出所にするそれは、天と地を繋ぐ螺旋のごとく伸び上がっている。
封印した筈の「剣」──シャルトスがアティの意思関係なく召喚されてから島の環境は激変の一途を辿っていた。
予兆のない突然の嵐。誰しもこの異常気象に上空を仰ぎ目を見張る。
漆黒の空から降り注ぐ暴雨は頬を絶え間なく叩き、吹き荒れる風の錯綜は身体を掴みあげて止まない。冷寒とした空気は、何かを囁くように肌にまとわりついていた。
「…………」
ウィルは見上げる。
平穏の終局を告げる暴君の猛りを。「過去」の赤光に身を濡らしながら。
始まるのだ、これから。
◆
雨が止まらない。
深夜に入っても一向に勢いが衰えることのない嵐。夜の色に染まり切った黒雲が依然猛威を振るっている。
降雨が木々に当たっては砕け、細かな雫となって地面へと吸い込まれていく。耳を通ずる音は雨風のもの以外存在しない。
確か、全てを失ったあの日も、こんな容赦のない雨が降り続いていた。
「ファリエル?」
「あっ、何でもないです」
隣にいる義姉さんの声に、感傷に浸りかけていた頭を立ち直らせた。
帝国軍との戦闘が強制的に終了してからもう数時間。
今は「遺跡」の再調査の帰り。封印したにも関わらず召喚された「剣」を受けて、私と義姉さんはこうして「遺跡」へと足を運びにいっていた。
間違いなく封印は成功していた。けれど「剣」はああしてアティの手の中で抜剣を果たしてしまった。
不備があったのかと慎重に「遺跡」へ探りを入れてみたが、結果はシロ。やはり封印は作用しており、窺った限りでは異常は見当たらなかった。
何が起きているのか、ちっとも把握できない。
沈黙を擬態としている可能性も否めないと義姉さんは言っていたけど、使い物にならないように破壊してきたから、差し迫った心配はないと思うけど……。
「それで? その後はどうしたの?」
「はい、その後はウィルに色々助けてもらって……」
考えてもしょうがないことだ。この話は「遺跡」へ向かう途中で散々議論したことなのだし。
今はこうして義姉さんとの距離を少しでも縮められるようにしたい。
これまですれ違ってばっかりいたから、今までの空白の時間を帳消しにするように私と義姉さんは互いに沢山の話を交わしていた。
「それで、ヤッファさん達に打ち明けることが出来たんです」
「へぇ、あれはそういうことだったの……」
今日一日で全て元通りになるとは思わないけど、何時かは兄さんの生きていた時のような関係になればと心から願う。
私の言葉を聞いて微笑を浮かべる義姉さんを見て、つい弾んだ声が出るのが自分でもわかった。
「そういえば、あの時ウィルになんて言われたの、義姉さん?」
「…………」
ふと疑問になったことを、思い切って尋ねてみる。
集いの泉でウィルが義姉さんに小さく囁いた言葉。無作法な気もしたけど、それがどうしても心に引っかかっていた私は口に出した。
義姉さんは小さく笑って、瞳は何処かを見つめるように答えてくれた。
「みんなと笑っていて欲しい、ですって……」
「…………それって、」
「本当、不思議ね……」
まるで兄さんの言葉のようだった。
この島を楽園にして、みんなが笑顔でいられるようにと望んだ兄さんの……。
「ウィルがハイネルの生まれ変わりなのではないか」というヤッファさんの言葉が思い出される。
……本当に、ウィルは兄さんの転生体なのだろうか?
「ども」
「!」
「ウィル?」
と、木の枝が折れる音に振り向いてみると、頭の中で思い描いていた当の本人が顔を出していた。
やけに似合うシルターンの古傘を持ってウィルは此方に近付いてくる。
「どうしたのよ、こんな所で?」
「いやちょっと用事が」
「私達にですか?」
「んー、まぁね。ああ、『遺跡』の方はどうだった?」
こんな夜遅くの時間帯に尋ねなければいけないことなのか。
内心で疑問に思いながらウィルへ「遺跡」のことを話した。
「結局何故あんなことが起こったのか、何も解りませんでした……」
「説明がつかないの。封印が機能している一方で、水面下の活動を続けているなんて。アティが抜剣して『遺跡』に力を流出させた訳じゃないのに……矛盾しているわ」
義姉さんが半ば愚痴のように吐き連ねる。
ウィルは義姉さんの言葉を、何時もと変わらない表情で聞いていた。
「……扉は一つ。『鍵』は二つ」
「えっ……?」
「──────」
「もうひと振りの『剣』、何処にあるのかな?」
薄く呟かれた言葉は、今は身長が高くなっている私には届かず、雨落ちる音にも消えて聞き逃した。
私よりウィルの近くにいた義姉さんは動きを止める。僅かに震えた身体が息を呑んでいた。
「ね、義姉さん? ウィル……?」
「……まぁ、予想の話なんて置いといて。アルディラ、いい?」
「え、ええ…………な、何?」
明らかに動揺している義姉さんに構わずウィルは言葉を続けた。
さっき言っていた用事の件だということは見当がついたけれど、私は義姉さんの態度が気になってしまった。
ウィルはウィルでこの場をすぐに切り上げようとしている気がする。いえ、なんというか真剣な話じゃなくて、早く終わらせようというような気だるげな雰囲気があるというか……。
「ちょっとヴァルゼルドの装備のことで相談が……」
ウィルは腰の辺りをまさぐったかと思うと、一枚の図面らしきものを手に握っていた。
……どこから取り出したんだろう?
「…………………………詳しく聞かせなさい」
義姉さんの目の色が変わった。
ウィルの言葉を聞いてすっと目を細めて、表情がいわゆる本気なものへと豹変する。
ああやっぱり…、なんて呟きがウィルの方から聞こえてきた。
顔を寄せ合い図面に目を落とし、ごにょごにょごにょと囁き合うウィルと義姉さん。
その光景を見て、むっ、と眉が吊り上がるのが分かった。
蚊帳の外に置かれたことに私は非難の視線を二人に送るが、全く取り合ってくれない。
義姉さんはウィルの提供する考えを聞いて、ふむふむとそれを咀嚼してようだった。
「で、だからさ、こう撃ちまくった後はもう用無しになる訳だから……」
「なるほど、つまり排除分離機構にすることでその後の高機動戦闘にも差し支えなくしてより高度なオペレートを持続可能にし更に固定装備に囚われない多様性を並行して実現できる訳ねなるほどそれは盲点だったわこれで積載量の問題もクリアできるええ素晴らしいわウィルでもそうすると冷却機構も別規格にすることでより強力なパフォーマンスも期待できるんじゃないかしらいえ逝けるわ間違いない私なら出来るフフフ面白くなってきたわね……………………」
「……………………」
「……………………」
ね、義姉さん、怖い……。
「じゃあ、アルディラとは色々話せたんだ」
「はい、昔のこととかも懐かしんだりして、沢山話しました」
集落の位置関係で先にラトリクスへ戻った義姉さんと別れ、今はウィルと私で二人。
相変わらず雨は降り続いているけど、今のこの時の場面に心は浮き立っていた。
「本当に良かったね」
「はいっ」
笑みを浮かべ祝福してくれるウィルに上ずった声で返答する。
きっと、今自分は幸せなのだろう。
思えば、ウィルのおかげで失っていたものを取り戻せた。新しいものも手にすることが出来た。
ヤッファさん達と和解できた。義姉さんと笑い合えるようになった。ソノラさんとも友達になった。
諦めていたものも、羨望していたものも、今は数多く手にしている。
ファルゼンではなく、ファリエルとして今ここに居ることが出来る。
それが、たまらなく嬉しい。
「むっ、強くなってきた……」
「雨宿りしますか?」
鎧を纏っている私と違い、ウィルはこのままでは風邪を引いてしまう。
風も出て横殴りとなった激しい強雨に、私とウィルは急いで一本の樹の下へと避難した。
邪魔にならないように鎧を解く。雨は弱まるどころか強くなっていき、今暫くはこうしていた方がよさそうだった。
「うへぇ……」
「だ、大丈夫ですか?」
ずぶ濡れ、とまではいかなくても、かなりの雨に曝されてしまったウィルの服は相当湿っていた。
髪からは雫がポタポタと零れおち、また一滴の水粒がうなじへとすーっと下っていく。
細い顎からも汗のように雫が垂れ、また上下するきめ細かな肌を幾筋もの水流が伝っていった。
よく見れば雨に濡れた服はその小さな身体にぴったり貼りついていて…………
「………………はっ!?」
「ファリエル?」
「なっ、ななななななななな何でもないですよっっ!!?」
「う、うん?」
ド、ドキドキしてきたっ……!!
「…………」
「弱まんないな……」
ザーザーと降って止まらない雨は私とウィルを狭い木の下に閉じ込めてしまった。
二人の状態を正しく認識した所で途端身体が熱くなってくる。思考がぐちゃぐちゃして冷静な判断ができない。
浅い呼吸が何度も繰り返され、今にも全身が茹であがってもしまいそうだった。
というか二人の間隔が狭い……!
「…………ぅ、ぅぅ」
「平気、ファリエル? なんかさっきから……」
「! だっ、大丈夫ですよ?! た、ただ色々考え事というかっ、えっと、そのっ、」
呂律が上手く回らない。
とにかく何かを口から紡ぎ出そうと、必死になって頭の中身を言葉にした。
「ほ、ほらっ、こういう雨宿りって、なんだか恋人同士がすることみたいじゃないですかっ!? 私っ、昔読んだ本でこういうのにずっと憧れてて、それ、で…………」
…………スゴイコトを口走ってしまったような気がする。
「…………」
首からグングン伸びてくる熱に頭が沸騰しかけ、それでも何とか気力で意志を繋ぎ止め。
勇気を振り絞って隣を窺い見た。
「……………………」
赤く染まりきった頬をかきながら、ウィルは此方を向こうとせず正面を見つめていた。
「~~~~~~~~~っ!!?」
ボンっ!! と盛大な音を立てて爆発する。
しゅうううぅ、と木の上を仰ぎ見る形になった顔から煙が上がっていた。
じ、自爆……!!
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
無言のやり取りが交わされる。ウィルも私も一向に口を開こうとしない。
けれどそれは気まずい沈黙ではなく、次に何か言うことで嫌でも相手のことを意識してしまうような、この場を壊してしまうことを躊躇ってしまうような、そんな歯痒さが満ちた沈黙だった。
「…………」
昔読んだ本では、この後は何があっただろうか。
雨が止むまでずっとこのままだったような気もするし、何か甘い言葉を交わしたかもしれない。
見ず知らずの他人がやってきてお流れになっていたような気もする。
もしかしたら、二人の身体が寄り添ったかも……しれない。
「…………」
ウィルの頬は赤いままだ。傍目にも照れているのが分かる。
そして、きっと私の方は顔全体が真っ赤だ。
「…………」
いいだろうか? 彼は嫌がっていないだろうか? 私の独りよがりになっていないだろうか?
わからない。わからないけど、もうこのままではいられない。
「…………」
喉を静かに転がす。顔は依然朱色を灯し、熱に浮かされている。
視線を下へ。触れるか触れないかの距離にある彼の手。それをじっと見つめた後、意を決す。
「…………」
ゆっくりと手を回し、ちっとも進まない動きでそっと傾けていく。
びくりと震えて一度止まり、少し躊躇ってから、もう一度近付けた。
そして、
────指ガ、彼ノ手ヲ透キ通ッタ────
「──────────」
一気に、頭の熱が消失した。
重大であり当然であり必然であり皮肉であり愚かなまでに既知であった事実が、胸へと突き刺さる。
瞳がその無感動の光景に固定され、次には感情という感情が全身から洗われた。
思い浮かべていた夢や願望は無用の長物と化し、勇気と信頼で包まれていた自尊心は廃れていく。
全て(ファリエル)の全てが、意味を失った。
「───────…………」
さっきまで幸せだと思っていた筈なのに。
確かに幸せだとその想いに満たされていた筈なのに。
どうして、今はもう、このファリエルという魂の器は空洞と化しているのか。
「…………」
いたい。イタイ。痛い。甚い。傷(いた)い。辛(いた)い。苦(いた)い。酷(いた)い。
全身に亀裂が生じ、あちこちの裂け目から慨嘆の声が漏れ出していく。
初めてこの身体を呪った。初めて今ここに居る自分自身を恨んだ。初めて、身の程を弁えない自分の愚かしさを憎んだ。
「…………」
「……ファリエル?」
罅割れた身体で木の根元を離れる。
力を失った足取りが、比喩ではない幽鬼の歩を踏んだ。
雨がばら撒かれている。風が走っていく。冷気がうねり襲いかかってくる。
けれど、この身体は雨にも濡れず、風になびくこともなく、冷たいと感じることもない。
彼に触れることも。
「…………」
なんてことはない、定められていた事柄。
悲しいなんて思うのはおこがましく、今存在を許されていることだけでも喜ばなくてはならない。
それでも、ぽっかりと身体に空いた喪失感は消えてくれなくて。
────こんなのっ、嫌だっ……。
私をこの世界に繋ぎ止めている想いが弱くなる。
薄れていく。
果敢なくなっていく。
魂が失われる、そう思われた。
「ファリエル!」
「…………っ」
けれど、無理だった。
そんなことは不可能だった。
求めてしまっている。
彼を、求めてしまっている。
こんなにも苦しい思いをしながら、それでも彼を求めてしまっている。
知らなかった。
知らなかった。
知らなかった。
────自分がこんな欲張りだったなんて、知らなかった。
「ねえ、ウィル」
「……!」
振り向く。
「ちゃんと身体があったら、想いを届けられたかな?」
「──────」
涙で濡れた顔で、精一杯の笑顔を浮かべて。
「ちゃんと身体があったら、触れられて、恋人になれたかな?」
この涙を、雨は誤魔化してくれないだろうか。
「こんなに好きなのに、悲しいんです」
……あははっ、馬鹿みたいだ。
「これ以上幸せなんてないのに」
もう気付かれているに決まってる。
「これ以上望んだらばちが当たっちゃうのに……」
この身体はただ在るだけで、物事も、時間も、温もりも、全てが過ぎ去っていくのだから。
「自分がこんなに欲張りだなんて、知らなかったよっ……」
笑う。一生懸命笑う。溢れてくる想いを塗り潰すように。
こみ上げてくる嗚咽を抑え込み、一杯の笑みを浮かべる。
瞳から落ちる雫が頬を半ば伝い、すぐに紫紺の輝きとなって宙に四散した。
「俺は……」
「…………」
「俺はっ、君に幸せになって欲しいから……!」
「……!」
「誰よりも幸せになって欲しいからっ!」
「…………ぅ、っ」
「だがらっ……!」
彼が口を開く。とても苦しそうな表情で。
彼自身の本当を、一杯に叫んでくれた。
言葉に成らない続きが、私の胸を揺さぶってならない。
涙が枯れない。枯れ果てることがない。
思わず顔を俯けた。
喜びに染まる想念と、悲しみに溢れかえる情念が決壊しそうになる。
瞼を思い切り瞑った。
「…………ぃ、っしよに、いて……?」
やがて、愚かな願いを口にした
「ず、っと、一緒にいて……?」
そして、また一つ咎を増やした
「貴方の、隣にいるのは、私じゃなくてもいいからっ……」
でも、もう止められない
「貴方が消えてしまう、その時まで、ずっと一緒にっ……いてください」
「…………ファリエル」
痛ましい顔をする彼に、最後に一度微笑んだ。
空の滴が身体を貫いていく。幾度となく身体を刺して、沁み込むことなく地面へ行き着いていく。
矛盾を孕んだ残酷な願いを、雨と一緒に彼へと落とした。
月も星も見えない夜の空の下で、静かに誓う。
彼が消え、もし許されるのであれば、
その時は、自分も共に消えよう。