前方に広がるのは広大な大地。
帝国兵の斥候が無色の連中の動きを補足し、俺たちはその前に立つ。
「こちらから探す手間が省けたな」
オルドレイクがにやりと笑い、真っ直ぐにアリーゼへと悠然と向かってくる。
完全に他の者は眼中にない。
「アリーゼ……」
「大丈夫です。任せてください」
言うやいなや、アリーゼはオルドレイクの右に回り込み、即座に抜剣する。
「……ほぅ、昨日とはまた剣の輝きが異なっているな……くくく、実に興味深い」
オルドレイクも抜剣し、両者が純白に染まる。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
裂帛の気合と共に踏み込み跳躍、碧の賢帝と紅の暴君が激突する。
大地を揺らすほどの轟音と衝撃。大型召喚獣顔負けの力と力のぶつかり合い。
それを合図に、俺たちは散開した。
「レックス」
うん?
駆けながら視線だけ向けると、いつの間にかカイルが隣にいた。
視線の先はまっすぐに敵を見据えている。
おいおい、カイルは重要な殲滅役だろ。こんなところで油売ってる場合じゃ……
「この作戦、俺は納得しちゃいねぇ」
「……そうかい」
「アリーゼが万能じゃねぇのはてめぇが一番わかってるはずだ」
「そうかもな」
「これが終わったら、絶対にてめぇをぶん殴るからな」
「こちとら一発やられてんだ。もう黙ってやられてはやらねぇぞ」
カイルが俺に視線を飛ばし、
「上等だ」
無表情で告げると、方向転換をして無色の派閥兵の陣へと突っ込んでいった。
ファリエルが敵陣に突っ込む。
できれば召喚師連中を叩き潰して欲しいところだが、その前に立ちふさがる黒ずくめ達。
巨体のフルアーマーが黒ずくめ達を薙ぎ払うかのような袈裟斬りの豪撃を放つ。
「……がッ!?」
黒ずくめの一人が巻き込まれ盛大に吹き飛ぶ。
「次っ!!」
ファリエルが再度大剣を振るうと、狙われた黒ずくめはかろうじて躱し慌てて距離を取る。
人の見地からは完全に逸脱した規格外の一撃を見て、黒ずくめ達の動きが一瞬鈍る。
しかしその動揺をかき消すように即座に立て直し、数人でファリエルを囲む。
召喚師たちも魔力を集中させファリエルを照準する。
「御免」
前触れもなく、鬼界の忍者が召喚師の背後に出現し、音もなく刃を振るった。
「ぐ……ぁ…………」
わずかな断末魔をあげ、召喚師が倒れる。
ファリエルに集まった注意の外にいたとはいえ、まるで気配を感じさせることもなくキュウマは召喚師の背後に出現し倒してしまった。
スキル、隠密。
発動中、移動するだけの間は相手には決して気づかれることのない、問答無用の不意打ち技だ。
無論、決して無敵というわけでもない。勘のいい奴なら結局気配は読まれるし。
それでも並の相手には極悪な技に変貌する。
さらに乱戦による集中の阻害もあって、よほどの手練でなければ隠密状態のキュウマを察知することなど不可能に近い。
再度、隠密により気配を断つキュウマ。
焦る黒ずくめ達と召喚師。
その隙を逃すことなく、ファリエルは手近にいた黒ずくめに一撃をかまして沈め、再度キュウマが召喚師の背後から斬撃を見舞う。
目の前のファリエルというわかりやすい恐怖と、気配の感じられない敵と化したキュウマ。
この脅威に、無色の有象無象が冷静に対処しろという方が間違っている。
そして、さらに、
「おらああああああああああああああああああああ」
「どんどんいくよーーーー」
カイルとソノラが場をかき乱す。
乱戦の中で一人、また一人と無色の派閥兵は倒れていった。
「大恩ある我らに逆らうというのですか、ヤード・グレナーゼ!」
「……真実を知らなければその言葉に惑わされ続けていたのでしょうね」
ヤードが杖を構え、目の前の白衣の女、ツェリーヌに明確な殺気を放つ。
それは、普段冷静なヤードからは及びもつかないもの。
「無念の極地で死んでいった村人たちの仇、今ここで晴らします!」
ヤードは魔力を集中させ、召喚を果たす。
「我が呼びかけに応えよ!」
氷魔コバルディア。
氷の力を操る悪魔族の魔法戦士が出現する。
「魔氷葬刃!!」
悪魔族の戦士は巨大の氷の刃をその手に出現させ、振りかぶり投げ放つ。補足した獲物の頭上より一直線に襲い掛かる氷の刃。
絶対不可避の召喚術はしかし、ツェリーヌにいともたやすくはじかれる。
ツェリーヌが何か特別なことをしたわけではない。単純に召喚術に対する耐性が圧倒的なだけだ。
「セルボルトの血に連なる私に勝てるとでも思っているのですか。身の程を知りなさい!」
ツェリーヌが魔氷葬刃を召喚する。
コバルディアの手にする氷の刃は、ヤードの召喚したものよりも更に巨大で禍々しい冷気を発している。
「消えなさい!」
放たれた氷の刃に貫かれ氷は爆散し、激しい冷気にヤードの身は削られる。
理不尽なまでの魔力量の相違。絶対的な力の差。
「………」
しかし、ヤードの殺気は露ほども衰えることはない。
むしろ怨敵を見据えるヤードは、更にその気を膨れ上がらせる。
ツェリーヌは一瞬驚きに目を見張るが、即座に杖を構えなおす。
「いいでしょう……セルボルト秘伝の召喚術により、冥土の地へと送りましょう」
「あら、寝ぼけるには少し時間が早いわね」
「な!?」
突如頭上より飛来するドリル。
ツェリーヌは無防備なその身に召喚術ドリトルの直撃を受ける。
轟音と共に凄まじいまでの圧力がツェリーヌを襲う。
「気合だけはそのままに、冷静さを忘れないでね、ヤード」
アルディラは肩にかかった長い髪を右手で振り払い、後ろへと戻す。
「……助かりました。アルディラさん」
「ふふ、本当に助けるのはこれからよ。
……来なさい、まさかこの程度で終わるほど脆くはないでしょう」
ツェリーヌに対して優雅に笑うアルディラ。
「……おのれ、たかだか召喚獣ごときがこの私に……」
「こちらの台詞よ」
憎悪の感情を膨れ上がらせるツェリーヌにアルディラが決然と言い放つ。
「無色の派閥ごときに、この島を好きにはさせないわ」
静かに見つめ合う一人と一人。
「元気そうね、ヘイゼル」
「………」
スカーレルの呼びかけに、ヘイゼルは沈黙で応える。
互いに無機物を見るかのような、冷めた視線だった。
「まだ囚われているの? それとも、それが貴女の生き方なのかしら」
「………」
「なんて、どうでもいいことね」
スカーレルが短剣を構えると、同様にヘイゼルも短剣を構えた。
「遊んであげる」
スカーレルの姿が掻き消える。ゼロからの加速。静止状態から身を低くしての高速移動に、並みの者であれば一瞬消えたと誤信させられるだろう。
刹那、ギィン、と軽い、しかし鋭い金属音が鳴り響く。
「………」
スカーレルの横切りを、ヘイゼルはこともなげに防ぎ間合いを取る。
ヘイゼルの余裕の対応に、スカーレルが大したものだと感心しかける。が、
「……あれから、アタシと別れてからもずっとそうしていたのなら当然かしらね」
「貴方は、弱くなった」
ヘイゼルの呟きに、スカーレルはやれやれと言いたげに嘆息する。
「……ッ!!!」
ヘイゼルは顔を歪め、一直線にスカーレルに向かって跳んだ。
「………」
俺はごくり、と唾を飲み込む。
前方にはウィゼル。相変わらず隙のない構え。
なんつーか次元が違うよな、このおっさんは。
ある意味オルドレイクよりも強いんじゃなかろうか。
ただ、こうして対峙していてもこちらから仕掛けない限り向こうも反撃してこないから助かるねぇ。
「……名はなんという?」
「あ?」
「お前の名だ」
「………」
名前くらい教えてもいいんだが、このおっさんに覚えられるってあんまりぞっとしねぇな。
まぁいいか。
「レックスだ」
「……レックス、お前は何者だ」
「あぁ?」
なんだこいつ。哲学論議でもするつもりか?
「……いいだろう、俺自身が確かめよう」
ウィゼルが無造作に刀を抜く。構えはなく右手に把持して刀身は斜めに下がったままだ。
「ちっ」
俺は舌打ちして目の前のおっさんに対して警戒度を高める。
中段に構えた剣先を僅かに修正する。
そりゃ戦いもせずに済むとは思っちゃいなかったけどよ、いざやるとなるとやっぱり気が進まねぇな。
汗で湿った柄を握り直して、気持ち低めに構える。
格上との戦いではついクセで剣先が上方へ行きがちだからなぁ。
「――――」
無音の踏み込みで俺の間合いに侵入するウィゼル。
無造作に放たれたようにしか見えない斜線の斬撃は、的確に俺の左手首を捉えんと迫る。
「っとぉ!!」
皮一枚で避け、続く胸元への突きを左へ捌きかわす。
「うらぁ!!!」
渾身の力を込めてウィゼルの右わき腹へ向けて蹴りを入れる。
しかしその場にはすでにウィゼルの姿はなく、俺の背後から胴を真っ二つにせんと斬撃が迫る。
……は。はははは。
だめだこりゃ。本当に次元が違ぇ。
迫り来る斬撃に、俺は振り返ようともせず剣を脇に構え防ごうとする。
「………」
僅かにウィゼルの逡巡する気配。そして、
「ふん」
突如ウィゼルは刀の軌道を変化させ、自身の斜め後ろへと疾らせる。
ギィン!!!
「っぐ!?」
見た目以上に重い一撃に受け止めた者が一瞬怯むが、すぐさまその場からバックステップを踏む。
「新手か」
動揺することなくウィゼルが後方へ視線を向ける。
……そりゃこんな単純な手で仕留められるとは思わなかったけどさ、もうちょっとびっくりしてもいいんでないかい? ウィゼルのおっさんや。
「作戦は失敗だな、レックス」
ウィゼルを俺と挟む位置に佇むアズリアが目を細める。
「アズリアが本気の一撃放てば少しはいい線いっただろうに」
「一人を複数で攻撃するのは、気が進まん。
が、そういった考慮をする必要はなさそうだな」
俺とアズリアに前後を挟まれるウィゼル。
隙なく立つ姿にアズリアは小さく息を吐く。
「行くぞ」
はいよ。
アズリアに答える代わりに、俺は詠唱を開始した。
「俺だけ楽させてもらったみたいで複雑な心境だ」
目の前で倒れている帝国兵、ビジュを一瞥しヤッファは頭をかく。
「加勢に行ってもいいんだが……」
さりげなく周囲の様子を伺う。
(旗色が良くないのは……スカーレルとレックス達、か)
単独で紅き手袋の暗殺者と凌ぎを削るスカーレル。
一方、タッグとはいえ、まさしく刀の達人とも言えるウィゼルに挑むレックスとアズリア。
どちらも戦力が少しでも欲しいところではあるだろう。
ヤッファはどうするべきか一瞬迷うが、結局は気配を消し備えることとした。
「……決して楽させてもらってるわけじゃないんだがな」
隣に佇む者に対して言うでもなく、言い訳のように一人ごちた。
互いの斬撃を打ち砕かんとぶつかり合う。
「ちぃッ!!」
「はぁ!!!!」
つばぜり合いの状況から互いに自身の魔剣を押し込み、結果両者共に押され弾けるように後方へ跳ぶ。
アリーゼは肩で何度か息をするも、徐々に状態をフラットにしていく。
(昨日とは別人のようだな……)
オルドレイクは心中で密かに舌を巻く。
前回の戦いでは、剣に頼った力任せな部分が多く、比較的行動の先を読むことが容易だった。
しかし、今対峙しているアリーゼの身のこなしは全体的に流れるような動きへと変貌している。
逆にこちらの動きが先読みされていると考えられる状況もあった。
(技巧自体が向上したわけではないが……一体何があったというのだ)
身体能力、技術、魔力。
どれを取っても自分に優位性があることに疑う余地はない。
しかし、目の前の抜剣者に対する油断は不要なものだと認識する。
「出てきてください!!」
虚空より現出した召喚獣、ペンタ君。ひとつ、ふたつ、みっつと集まりよっつ目が舞い降りた瞬間、周囲に尋常ならざる爆砕を引き起こした。
反射的に防御の構えを取るが、もともと抜剣している身であるためほとんど危険はない。
(ダメージはそれほどでもないが……)
今のアリーゼが、単純に大した効果のない単発の召喚術を行使するとは考えられない。
オルドレイクは一瞬、自分も召喚術で反撃するか、再度接近戦を挑むかで逡巡する。
結果的に、その迷いがひとつの結果を導いた。
「風刃!!!」
「ッ!?」
突如、オルドレイクの周囲に風の刃が生み出され、その身を無数に切り刻んだ。
ペンタ君の爆発音を聞いた瞬間、俺は即座に叫ぶ。
「アズリア!」
俺の呼びかけに頷き、アズリアがウィゼルに接近する。
「紫電絶華!!!」
ウィゼルに対し高速の連続突きを見舞うアズリア。
「タケシー!!!」
追い討ちでゲレグレサンダーをウィゼルにぶちかます。
ウィゼルの顔がわずかに歪む。
紫電絶華を受け流しながらの電撃は、いくらウィゼルでも辛いはず。
「出て来い!!」
さらに召喚獣ペコを召喚し、俺はウィゼルの脇を抜ける。
ペコがウィゼルに体当たりをする間に、アズリアが連続突きを中断させ俺と共に駆ける。
「………」
無言でウィゼルがペコに対し刀を振るう姿を後に、俺たちは全力で走り去る。
前回同様で芸はないが、それほど戦術のストックがあるわけでもないし通じりゃなんでもいい。
周囲を確認すると、アルディラやヤードはツェリーヌを、スカーレルはヘイゼルとの戦闘を一方的に中断し、相手を完全に置き去りにしてオルドレイクへと迫っていた。
『な……?』
ツェリーヌやヘイゼルは、相手が突然反転をし、自分から離れていくことに対してロクに反応できずにいる。
てっきり自分との戦いに集中しているものだと思い込んでいたのだろう。
……三人とも、たっぷり挑発してうまく立ち回ったみたいだな。
俺は心中で、グッジョブ! と叫びながら、アズリアと共にオルドレイクへと迫る。
当のオルドレイクは、左方遠距離からソノラによる乱れ打ちをモロに浴びてバランスを崩し、
「虎乱凶襲爪!!!」
「ごぁッ!?」
背後からのヤッファの強烈な爪攻撃、目にも留まらぬ三連撃をまともに受け吹き飛ばされる。
体勢を立て直し、せめて防御だけでもしようとするが、
「はぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!!」
ミスミさまが風刃を発動し続け、オルドレイクの自由を奪い続ける。
ミスミさまの額に、玉の汗が次々と浮かんでいく。限界まで集中し魔力を溜め、それを一気に放出しているのだ。
気を抜けば意識を失いかねないほどの無茶だった。
……けど、そのおかげでオルドレイクの混乱は極まっている。
奴を倒すチャンスは今しかねぇ!
「フレイムナイト!!」
アルディラのジップフレイムが炸裂し、火焔に包まれれば、
「パラ・ダリオ!!」
ヤードの召喚した大悪魔の躯が強烈な瘴気を放ち、悠久の地獄へと叩き落す。
「疾ッ」
正面からキュウマが居合切りをぶちかまし、
「オオオオオオオオオオオオオ!!!」
右方からのファリエルの剛剣、必殺のファントムソードによる一撃がオルドレイクを地にめり込ませた。
オルドレイクはサンドバッグよろしく皆の攻撃をもらいまくる。
ファリエルの攻撃と同時に風刃は消え、ミスミさまはひざをつき荒く呼吸を繰り返す。
……これならいけるか?
いや、いけるかどうかじゃねぇ、こうなったらもういくしかねぇんだ!
全員攻撃なんていう安い手、野良召喚獣ならともかく人間相手には二度と通じねぇ!
ここで一気に押し切るっきゃねぇんだ!!
「死になさい」
気づけば、オルドレイクの背後にスカーレル。
振るわれた短剣は寸分の狂いなく、オルドレイクの首を切り裂きにかかる。獰猛な殺気に隠された尋常ではない技のキレ。確実に相手を死に至らしめる刃の軌跡。
「ぐ……ぐぬぅッ」
しかし、スカーレルのバックアタックをもってしてもオルドレイクを倒すには届かない。
短剣はオルドレイクの首を捉えたが、魔剣の力で強化された身体を切り裂くには至らなかった。
「………」
スカーレルは冷めた目でそれを見届け、素早くその場から離れる。
「おらああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
直後、カイルが拳にストラを纏わせ渾身の力でオルドレイクの顔面を正面からぶん殴った。
悲鳴を上げることもできずにぶっ飛ぶオルドレイク。
抜剣したアリーゼと戦っていたときでさえ余裕の笑みを浮かべていたオルドレイクが、今は焦燥と苦悶の表情に染まっている。
吹き飛ばされた先にいるのは、俺とアズリア。
カイル、ナイスパス!
胸中で喝采する。
あとは、俺とアズリアがオルドレイクに攻撃を加え、止めをアリーゼに任せる。
アリーゼはペンタ君を召喚してから、即座に魔力の集中を開始していた。
碧の賢帝をフルに利用した、溜めに溜めた一撃でオルドレイクを完膚なきまでに粉砕する。
その状況が一瞬幻視され、俺の口端が引き上げられる。
中途半端な警戒と、紅の暴君を持った驕りが仇になったな、オルドレイク!
俺はぶっ飛ばされてきたオルドレイクに備えて歩を整え……
――――――――――斬。
「ッ!?」
恐ろしく密度の濃い殺気が背後から唐突に生まれる。
俺は一瞬、前方のオルドレイクの存在を完全に忘却して反射的に身体を捻り背中越しに後ろを確認した。
ウィゼル。
ペコはやられたのだろう、周囲には何もいない。
腰を落とし納刀した柄に右手、鞘に左手を添えている。
俺は、ばくばくとやけに大きく鳴る自分の心臓の鼓動を無視し、高速で思考する。
あれは居合い斬か?
確か鞘走りを利用した神速とも言える抜刀で近距離の敵を問答無用でぶった斬る技だ。
キュウマが得意としていたが、何歩も離れているこの場所で、なぜ俺はこれほどの脅威を感じているんだ?
同時に俺の脳裏には、ウィゼルと初対峙したときの、距離のある状況での、えも言われぬプレッシャーがよぎった。
あのときは一足一刀と感じていた威圧が、今は喉下に刀を突きつけられているようで――。
「………」
ウィゼルの視線。
その先を追う必要はなかった。
見るまでもなく、確認するまでもなく、そこに誰がいるかは把握していた。
ウィゼルの腕に力が込められる。
瞬間、俺は考えるより先に動く。
さっきから心臓がうるさい。嫌な予感が止まらない。
「……え?」
アリーゼは自分の左右の空間を、切断する何かが通り過ぎていったことを認識した。
その威力を悟りアリーゼは肝を冷やすが、どうにかパニックに陥る前に冷静さを取り戻し、集中し魔力を溜めている状態を維持し続ける。
今のをまともに受ければ、抜剣しているこの身体でも真っ二つにされていたかもしれない。
さすがにそうなれば、たとえ抜剣した状態であっても生きていられる保証はない。
アリーゼは現状を確認するため、すばやく周囲に視線を配る。
今のは一体なんだったのか。
オルドレイクに仕掛けるまでの僅かな時間で、先の脅威に備え必要があれば対処しなければならない。
そして、足元に水溜りができていることに気づく。
(……左右の空間、だけ?)
たまたま、偶然、運良く、自分のいた場所だけは切断する何かが通ることはなく、その左右は通過した。
そんなことがありえるのか?
ならば自分に向かうはずの、それはどうなったのか。
足元の水溜りはなんなのか。
「……え?」
両手を広げた状態のまま、赤髪の男が数歩先でうつ伏せに倒れているのはなぜなのか。
見たままの状況をアリーゼは理解することができないでいる。理解することを拒否している。
「くッ…………ウィゼル! 剣を破壊する気か!?」
体勢を立て直し、ウィゼルを非難するオルドレイク。
怒涛の総攻撃を受けて傷を負ったが、致命傷には遠い。
とはいえ、自身の回復より先に魔剣の心配をするのは、常人の思考ではなかった。
「そのような失態はせん。庇われるとは思わなかったがな」
「ふん。……まあよい。剣が無事であることに変わりはないか」
二人の声はアリーゼにも届いている。
しかし、声が聞こえてもその意味を理解することができない。
目の前の光景と同様に、手の中に舞い落ちた雪のように頭で認識する前に溶けて消えていってしまう。
(庇う…………私を……庇って…………?)
アリーゼは僅かに言葉を拾う。
目の前のレックスはぴくりとも動かない。
その脇にアズリアが駆け寄り、抱きかかえ大声で何度も呼びかけていた。
「おおおおおぉぉぉぉっぁあっぁぁぁぁああああああああああああああ!!!」
地が弾け、カイルが一直線に跳ぶ。その先に在る者はウィゼル。
「ふざけんじゃねぇぞてめええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!」
怒号と共に堅く握り込んだ拳がウィゼルの顔面に迫る。
オルドレイクを殴り飛ばしたものと同様、必殺の一撃を、しかしウィゼルは刀を盾に正面から受け止めた。
「な!?」
まさか受け止められるとは思っていなかったのか、カイルが驚愕し目を見開く。
「……感情だけが先走り過ぎている。それで俺は倒せん」
ウィゼルは素早く僅かに下がりながら間合いを調整し、横斬りによるカウンターを放とうとするが、
「疾ッ!!」
「くたばれ!!!」
「はああああああああああああああああああ!!!」
キュウマ、ヤッファ、ファリエルの連続攻撃を避けるため、後方へ大きく跳躍する。
着地と同時にアルディラの召喚術が発動。
「エレキメデス!!」
ポルツテンペスト。
旧型の機体より生まれる広範囲に及ぶ電撃が放たれる。
旧型と言えど、その威力は強力で範囲対象に対して麻痺効果も生み出す召喚術だ。
荒れ狂う電撃がウィゼルを襲うが、
「くだらん」
オルドレイクが手をかざし、発生させた魔力結界にすべて阻まれた。
スカーレルは正面を見据え、短剣を片手に立っている。
背後にはアリーゼ、そしてレックス、アズリア、ソノラ、ヤードがいた。
「シャアアアアアアアアアアアア!!!」
黒ずくめの一人が、スカーレルに接近する。
迫り来る爪にスカーレルはつまらないモノを見るように一瞥だけし、その場から消えるような踏み込みをして黒ずくめに接近、右脇に刃を通過させる。
その一撃で黒ずくめは倒れるが、後方に隠れていたもう一人の黒ずくめが、スカーレルに対して必殺の爪を振り下ろす。
爪はスカーレルの瞳を寸分違わず狙いすまし、
「爆炎陣符」
しかし爪はスカーレルへ届くことなく横からの炎流にのまれ、黒ずくめはその身を焼かれる。
召喚獣、狐火の巫女による炎術。
うめき声をあげ倒れる黒ずくめに視線を向けることなく、ミスミはたった今放った召喚術を再度前方の無色の派閥兵へと展開する。
焼かれていく派閥兵と大地を、二人は朧気に見つめる。
レックスの脇にアズリアが駆け寄り、抱きかかえ大声で何度も呼びかけている。
しかし何の反応もない。
まるで精巧な人形のようで、流れ出る血だけが人間の証だった。
傍にはレックスの剣が折れて転がっている。ウィゼルの放った技、居合斬・絶を受ける際に半ばから折られていた。
瞬間、アリーゼは過去を幻視する。
似た光景を見たことがあった。死に逝く者の様子を何も出来ずに見ていたことが。
(アズリアさんのように……先生が……?)
事態の一端を認識すると同時に、身体中の血液が沸騰していく。
心臓が、頭が、熱い……。
(私は……守れなかった……? 力を手にしたはずなのに…………?)
アズリアに抱きかかえられているレックスは、ぐったりとしていて身じろぎすらすることなく呼吸の気配がない。
「聖母プラーマ!!!」
傍らでヤードが祝福の聖光を繰り返す。
「しっかりしてよ!! 先生!!!」
ソノラはレックスの右手を握り、アズリアと共に何度も呼びかける。
しかし、レックスの身体から急速に生命の灯が消失しつつあるのは目に見えて明らかだった。
いや、もはやすでにその命は失われて……
「嫌あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫と共に、アリーゼは全力で魔力を放出させた。
ああ、死んだな。
ウィゼルの居合いを正面から受けた感想は、ただそれだけだった。
痛みはない。
全身が動かない。指の一本すらまったく反応しない。
痛みすら感じる暇もなく、綺麗さっぱりぶった斬られたんだろう。
その事実を、俺はひどく自然に納得できた。
…………お?
ふいに、声が聞こえた。
これは、アリーゼの声か。
なにかの召喚術を発動するのか?
また莫大な魔力が溢れ帰ってるんだろうなぁ。
…………?
唐突に強烈な違和感を抱く。
どうしてか、俺はアリーゼと出会ったころの、船着場でのことを思い出していた。
アリーゼの世話役……確かサローネとかいう婆さんで……アリーゼはその影に隠れてて……、つーかそんなの今どうでもいいだろう……。
思いつつも、そのときの出来事がやけにくっきり脳裏によぎっていく。
あの時は、自己紹介すら満足に出来なくて……、この先どうやって接すりゃいいんだ、なんてちょっと悩んだんだよな。
厄介な女の子の世話押し付けられたなぁ、でもマルティーニさんの娘だしなぁ、とか思ってて……。
それから船の中で不安になって泣いてるアリーゼを見て……、
………………あ?
自分の記憶に齟齬が生じている。
いや、正確には『齟齬としか思えない出来事』が起こっている。
世話役のサローネは言っていた。
今まで満足に家庭教師を勤めた先生はいなかったと。
当然アリーゼの信頼を勝ち得た先生がいたとは考えにくい。
……じゃあ一体、アリーゼの言う『先生』って何者なんだ?
『先生』とは、いつ出会ったんだ?
他にも。
出会ったころのアリーゼは、事情が事情だから俺に対して困惑する態度を見せるのは当然といえば当然だった。
だが、それを差し引いても、初めて会ったときのアリーゼは誰に対してもあまり積極的に接するタイプの性格には見えなかった。
それが、どうして海賊ですらあったカイル達にはあれほど早く馴染んだ?
なぜ、島の召喚獣たちに対して偏見もなく最初から自然に接していた?
島に来る直前の記憶。
晴天だった空が、突如嵐になった海の上でのカイルたちとの戦いの際、ただ不安で怯えていたアリーゼ。
それから島に漂着した直後の記憶。
魔剣を意のままに操り、圧倒的な力で襲い掛かる召喚獣たちを蹴散らしたアリーゼ。
いつの間にか手にしていた召喚石、ブラックラックやビットガンマー。
大型の船を召喚するという、見知らぬ召喚術を苦もなく行使するアリーゼ。
なんだよ。
なんなんだよ……。
今になって、違和感だけが残る記憶。
まるで……島に入る前と、入った後の記憶が雑に合わさっているような……。
違う。
まるで、なんかじゃねぇ……。
島に入る前と入った後で、記憶の中でのアリーゼの立ち居振る舞いが異なる他に、圧倒的な魔力量の差がある。
……なんでこんなことに今更気づくんだよ……つーか、こんなの最初に気づいてても……、いや最初ってなんだよ?
なんだよ、何が基点なんだ? はじまりはどこだ?
思考する先に一人の存在が現出する。
赤毛の女。
微笑む姿は、見る者を安心させる力があった。
――――――――――――アティ。
その存在に至ると同時、世界が白く染まった。
「キュピー!!」
キユピーの姿が本来の天使に移り変わる。
天をも貫かんばかりに魔力の奔流がうねりをあげ、キユピーが本当の意味でこの世界に現出する。
「おお……」
オルドレイクが感嘆のため息を漏らし、ウィゼルは無言で成り行きを伺う。
いや、ウィゼルだけではない。
だれもが戦いを中断し、その溢れ出る魔力にあてられ呆然として事の成り行きを見ていた。
「キユピー、お願い」
アリーゼがレックスの元まで歩み、遠くを見つめるような目でレックスを示すと、キユピーは祈るように両手を組みあふれ出る魔力が光の粒子となり白光する。
キユピーの召喚術、ホーリィスペルが発動する。レックスの傷に光の粒が触れ、瞬く間に回復させていった。
「うそ……」
「ばかな……」
「奇跡、です……」
レックスの傍にいたソノラ、アズリア、ヤードが知らず呟く。
絶対の致命傷と思われたレックスの傷は塞がれ、完全とは言わないまでも顔には生気が生まれていた。
「なんという魔力だ……ようやく本来の力に目覚めたということか……。
素晴らしい……実に素晴らしいぞ!! それでこそ出向いた価値がある!!!」
「………」
興奮し愉悦するオルドレイクに、アリーゼは静かに目を向ける。
ぴし。
キユピーが再び発光し、天使の姿から元の身体へと戻る。
ぴしぴしぴしぴし。
アリーゼが剣を構える。
がぎィッ!!!!
砕ける音が鳴り響き、碧の賢帝は半ばから折れた。
折れた刀身が地に落下すると、バラバラに砕け散った。
「………」
アリーゼの身体がふらりと揺れると、力が抜けたように膝をつき、剣を離し横向きに倒れた。
アリーゼは白の姿から元へと戻り、倒れたまま呼吸のみを繰り返す。
「キュピー!!」
キユピーがアリーゼの傍まで移動して声をかけるが、反応はない。
皆が呆然とする中、沈黙を破ったのはオルドレイクだった。
「……くだらん」
オルドレイクがアリーゼを見据えて魔力を集中させる。
「力を手にしても、使うものが未熟であれば、その器が欠けたものであれば、こうなることは必然なのか……」
「まずい!?」
オルドレイクが召喚術を放とうとしていることに気づき、ヤッファが声をあげる。
他の護人も気づくが、距離が遠い。防ぐことも庇うことも間に合うタイミングではない。
「アリーゼ!?」
ミスミとスカーレルも同様に距離がある。
「消え失せろ」
オルドレイクの召喚術が完成する。
砂棺の王。怨王の錫杖より出でる、王の存在を現出させる召喚術。
霊王の裁きと呼ばれるそれは、一切の慈悲なく、対象を冥界へと葬り去る。
「させません!!!!」
ヤードがアリーゼの前に立ちはだかり、召喚術の直撃を受ける。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「……不肖の弟子ごときに、我の召喚術は止められん」
「ああああああ……ぐ……ぐぅぅぅ……」
ヤードは、すべてを投げて意識を手放しそうになる気持ちを無理矢理に抑えて、霊王の裁きに耐え続ける。
(私が……倒れるわけには……)
すぐ後ろには、アリーゼが、レックスとアズリアが、そして自分を客人として受け入れてくれたソノラがいる。
自分の都合で巻き込んでしまった者たちに、今以上に顔向けできなくなるようなことをヤードはするまいと覇気を放つ。
「あがくな」
「ぐぅぅぅぅぅううううううぅぅぅぅううううああああああぁぁっぁぁぁぁああああああああああああああ!!!」
霊王からの圧力が増す。オルドレイクが魔力をさらに込め、召喚術の威力を上げていく。
もはやヤードに考える力は残っていない。
自身をひとつの盾として、決して破られない結界として、自身の身体と魔力を十全に使いオルドレイクの召喚術に立ちはだかった。
「ふん……」
「………」
やがて、霊王はその役目を終え送還された。
オルドレイクは、立ったまま気を失ったヤードに対して何かが浮かぶが、明確な言葉として言い表すことができないでいる。
「……所詮、一時を永らえただけか」
もう一度オルドレイクが召喚術を行使しようと、魔力を集中させる。
「あ……」
だれかの漏らした声。あるいはその場の全員か。
オルドレイクは構うことなく集中を続け、召喚術を解き放とうとして、
「ぶっとべ」
真正面からの突撃を、オルドレイクは反射行動のみで紅の暴君により受け止めた。
気を失っていたのはどれだけの時間だったのか。
目覚めて真っ先に視界に映ったのはアズリア。
アズリアは前を睨みつけたままで、目が合うことはなかった。
というか、なんでこいつに抱かれているんですかね俺は。わけわからんわ。
前方のオルドレイクからシャレにならない密度の魔力が練られている。
あんなもんぶっ放されたら、魂まですっ飛びかねない。
右腕に力を込めると、意志に従い拳が固められる。
俺はすぐさま起き上がり、脇に落ちていた折れた剣を拾い上げる。
身体は動く。頭も働いている。やれる。
一直線にオルドレイクへと突っ込み剣を振るう。
「ぶっとべ」
俺の縦斬りがあわや直撃かと思われたが、オルドレイクはかろうじて魔剣により受け止めた。
ち、悪運の強い奴め。
まぁ、今のが当たったところで俺の攻撃じゃタカが知れてるんだろうけど……て、おおおお?
「ぐがぁ……!?」
オルドレイクの剣と俺の持つ剣が激突した瞬間、大地が揺れ空には雷撃が走る。
天変地異としか言いようのない現象に、オルドレイクも動揺を隠せずにいる。
オルドレイクは目を限界まで開き、周囲の状況に慄いている。
「あ……あ…………ぁぁ……」
……うん?
オルドレイクの野郎の様子、おかしくねぇか?
変なうめき声出すわ、妙に汗かいてるわ、目の焦点は合ってないわ。
「……っとぉ!?」
俺の足元の大地が隆起し俺は慌ててその場を離れる。
同時に揺れは収まり、荒れ狂っていた天気も元に戻る。
……一体、なんなんだよ今の珍現象は。
オルドレイクの剣が暴走でもしてんのか?
……にしても、さっきの一撃、やけに力が入ったような気がしたな。
折れた剣でぶちかました分、威力なんて期待できるようなもんじゃなかったはずなん……だ……が。
「え?」
自分の持っている剣を凝視する。
半ばから折れた剣は淡い碧色の輝きを放っている。魔剣、碧の賢帝。
なんで、こんなもんを俺が持って……、しかも折れて……? 一体何があったんだ?
あれ……? つか、なんかやけに心臓の鼓動が早くなってきたような……。
いや、それよりも……アリーゼは? ……アリーゼは…………どうしたんだ?
「退け、オルドレイク」
「ウィ……ゼ…………ル……」
オルドレイクは額に玉の汗を浮かべ、やっとのことで声を搾り出す。
その身はふらりふらりと揺れ、まともに立つこともできないでいる。
オルドレイクの魔剣、紅の暴君には僅かではあるが破壊された痕跡として亀裂が生まれていた。
「ツェリーヌ」
ウィゼルに呼ばれ、ツェリーヌがはっと我に返り、オルドレイクに駆け寄る。
「あなた!?」
「……ぬぅぅ…………!!」
苦悶の声をあげ顔を顰めるオルドレイク。
ツェリーヌは瞬時に集中し魔力を練り上げ召喚する。
「聖母プラーマ!!」
オルドレイクの受けた傷は回復するが、その様子に変化はなく苦し気に荒い呼吸を繰り返す。
「あなた!? あなた……!?」
「オルドレイクを連れて船へ戻れ。今、どんな状態なのかはわからんが、相当な負担が掛かっているのは間違いない。この場で回復できるものではないだろう」
ツェリーヌはウィゼルの言葉に従い、オルドレイクに肩を貸し後方へ下がっていく。
「待ちなさい!」
護人たちが逃がすまいとその後を追うが、
「……通さない」
ヘイゼル以下黒ずくめ達と無色の派閥兵、そしてウィゼルがその道を塞ぐ。
双方、臨戦態勢に入る。
互いに獲物を構え、目の前の敵を排除しよう殺気を放つ。
……まずい、俺も、加勢しないと……いや、でもアリーゼはどこに…………あそこか?
なんで、あんなところに倒れてるんだよ……? 平気なのか? くそ、ここからじゃよくわかんねぇ……。
俺はアリーゼの方へと歩き出そうとするが、一歩が出ない。
身体が自由に動かない。頭がうまく働かない。
身体だけでなく思考まで大地についつけられたように、その場から移動することすら困難だった。
「レックス!? おいレックス!!!」
カイルがいつの間にか俺の正面に立っていて、肩をゆすって呼びかけていた。
……そういや、俺お前にまた殴られんのか……、ちょっと後にしてくんねぇ? 今結構キツいみたいだからよぉ……。
間抜けな思考を最後に、俺は意識を手放した。
翌朝。というか、太陽の位置からして昼近く。
目が覚めたら船の自室だった。
廊下に出るとソノラがいたので、昨日のことについて簡単に聞いた。
あの後、皆は無色に仕掛けるタイミングを逸し、奴らも様子を見ながら撤退をしていったとのことだった。
奴らに撤退をさせたことは僥倖だが、できればあの場で決着をつけてしまいたかった。
今後、どうするかしっかり考えねぇとなぁ……。
が、しかし。なにはともあれ、まずは腹ごしらえだ!
「にしても、碧の賢帝が折れるとはなぁ……」
折れた魔剣はカイルが回収し、今は俺の部屋の壁に立て掛けられている。
切断面は荒く、無理矢理に砕かれたかのように亀裂が走っていた。
砕けた刀身の破片については俺の机の上にまとめられている。
「精神の剣、か」
いつかのファリエルの言葉を思い出す。
碧の賢帝を手にした今なら、本当の意味でそれを理解することができる。
折れた剣からの心身、特に心への負担は生半可なものではなかった。
と、そういやアリーゼはもう起きたのかね?
ちと様子見てくるか。
ノックをすると「どうぞ」の声。
部屋に入ると、アリーゼはベッドに座っていた。
うん、顔色もちょっと赤い程度だし、調子は悪くなさそうだな。
碧の賢帝が折れたとはいっても、手にさえしてなければそれほど影響はないのかもしれない。
「おう、アリーゼはもう飯食ったのか?」
「……いえ」
「そっか。俺もまだなんだ。一緒に行くか?」
「あの……先ほどソノラさんが来て、これから持ってきてくれるそうです」
「ふぅん。じゃあどうすっかな。俺もこっち持ってきて食うかなぁ」
「………」
「………」
「………」
「……?」
アリーゼが僅かに小首を傾げて俺を見続けている。
はて、なんか顔についてるかな? あ、そういや顔も洗わずに来ちまったっけ。
「あの」
「あぁ」
アリーゼが、一瞬間を空けて言った。
「……あなたは、誰ですか?」