所は変わらず話は続く。
次々とオバサンの口から発せられるは全て必殺の一撃。女の子の心を抉り、俺の心を無に返す。
こういう場面を見ると、俺の家がどれだけ普通で波風立たない幸せな家庭かを理解させてくれる。
あまりの五月蝿さに、今なら無想転生や明鏡止水も極めれそうだ。
5分くらい経過したところで、女の子の我慢が限界を迎えたのか「うー……! うー……!」と声を堪えて泣き出した。
溢れた涙は頬を伝って顎から零れ落ち、コンクリの地面に小さな染みをいくつも作り出す。
なんとも痛々しい限りだが、オバサン……もババァでいいや、ババァはそれをネタにしてさらに女の子を罵倒する。
そんないかにも割って入って助けてやるべき状況でも、俺は何もしない。
俺は他人だ。
例え悪い意味であっても、この女の子とババァは親戚という言葉がある限り俺よりも遥かに知り合いだ。
その仲に割り込むほどに俺は女の子を知らない。他人だから。
そんな他人が他人の身内ゲンカを止める言葉なんて「落ち着いて」や「やめろ」の変形や応用ぐらいしかないだろう。
そしてそれを言えば見た目からしてヒステリックなババァ(略してヒスバァ)をより一層燃え上がらせるだけだ。
この俺にとっては退屈の極みである時間を早く終わらせる行動は1つだけだろう。
俺が行える唯一でベストな行動、それは“なにもしない”だ。
何をしても火に油どころかガソリンを注ぐだけだ。
悪化させないために、俺は荷物を抱えて棒立ちのままオバサンの舌打ちをやり過ごす。
「わかったッ!? 2度とワタシの目の前に現れないでよッ!!」
「……っ」
「返事はッ!?」
「はい……っ!!」
話は実に30分ほど続いた。よくもまぁそこまで言葉が続くものだ。感動すら覚える。
女の子を忌々しげに見下ろした後、ババァはペンギンが凶暴になったかのような歩きかたでノッソノッソと道路の角へと消えて行った。
俺はその背に向けて、万感の想いを籠めて中指を立てて見送った。
その場に残ったのある意味関係者であり部外者である俺と、カバンを抱きしめて泣いている女の子だけだ。
「帰るぞ」
肩を引っ張ってみるが、女の子は応じようとしない。
「……先、帰っとくぞ」
僅かに、首が縦に揺れた。
俺はそれを肯定として受け取り、宣言通り家へと帰った。
買ってきた荷物を冷蔵庫へと仕舞い込み、女の子が畳んで置いていた俺の家着に着替えて座布団を枕にラノベを読む。
10ページほど捲ったところで家の戸が開き、意気消沈した女の子が家の中に入ってくる。
女の子の目元は泣きすぎで赤く腫れ上がり、加えて今でも涙を流し続けている。
鼻からも水のような鼻水が垂れていて整った顔が台無しになっている。
抱えた学生カバンを玄関近くにソッと置いた後、女の子は俺から少し離れた場所に座った。
ペタンと座り込んだ後、足を体育座りに組みなおして顔を伏せる。
……最初はヒャックリのような、小さな声だった。
だが、次第に声は大きくなり、やがて絶叫と言って差し支えが無いほどに女の子は泣き声を上げて泣き始めた。
よっぽどあのババァが怖かったのか嫌いだったんだろう。それぐらいはわかる。
ご近所さんには迷惑だろうが、あの出来事の後だ。苦情くらいなら処理してやってもいい。
五月蝿いけど読書が邪魔されるほどでは無いし、今は泣かせてやろうと心の中で譲歩する。
声に集中力を削がれながら俺は読書に勤しんだ。
時刻は午後2時を回り、今日一番の日差しが窓を透過して部屋へとやってくる。
女の子を泣き声はピークを過ぎ去り少しづつそのボリュームを下げていく。
泣きすぎたせいで喉はガラガラになっているようで、声はノイズが交じったようになっている。
頃合を見て俺は冷蔵庫からお茶を取り出してコップへと注ぎ、女の子の前へと置く。
置いたらまたラノベだ。
ページも半分まで進み、このラノベが地雷だと判断出来る所まできたので流し読みにシフトする。
女の子は出されたお茶をチビチビと飲んだ後、ポツポツと枯れた声で喋り始める。
内容はいつかに聞いた、お父さん破産→失踪→親戚引取り、の話だ。追加シナリオなどは無くコピーペーストのような話が続く。
言葉の羅列程度にしか俺は耳を貸さない。
無駄だからだ。
相槌程度なら打つけど、話の内面を聞こうとはしない。無駄だからだ。
冷たくしているようなら、そうなのかもしれない。でも、もしかしたら、“俺が恐れていること”になるかもしれないと思うと迂闊には答えられない。
「この学生服、お父さんに、買ってもらった」
「……」
「貴方も前に言ってた『すぐ大きくなる』って言って、サイズ大きいの買ってもらった」
「……」
俺は答えない。ただ「そうか」と言って話を流す。
明らかに俺が興味を示してないと分かっていながら、なおも女の子は話を続ける。
「このノートもギッチリ書いて、先生がチェックした時の評価は、いつも高かった」
「……」
「……体操服はブルマじゃなくて短パン」
「……」
「……っ水着はっ普通のスクール水着だったっ!」
「……そうか」
「―――ッ!!」
俺が寝返りを打って女の子から背を向けようとした瞬間、女の子が飛びついてきた。
突然の強襲に対応出来るわけも無く、強引に馬乗りにされる。
女の子は乱暴な動作で俺が読んでいたラノベを弾き飛ばす。宙を舞ったラノベは、一時滞空の後に床へと落ちた。
悲しみと怒りを綯い交ぜにした顔で女の子は俺を見下げる。
俺は無抵抗に女の子を見上げる。
女の子は歯を食いしばって、俺を見つめたまま再度涙を流しはじめた。涙腺に限界はないらしい。
そんな女の子の表情を見て、俺は、
これはもうダメだな。
そう思った。
待っても俺が何も言わないのに痺れを切らしたのか、女の子は俺の両肩に両腕を押し付けて顔面を近づける。
次に発される言葉は半分予測が付いている。
「言っ……てよ……ッ! 言ってよッ! ―――『大丈夫か?』って『どうしたんだ?』って、言ってよッ!! 聞いてよッ!! 心配してよッ!!」
あらゆる感情がゴチャゴチャになった言葉を投げかけられる。
唾が飛んでくるほどの絶叫。
女の子の白い髪が顔に掛かる。
肩に女の子の爪が食い込む。
「話を聞いてよッ!! 共有してよッ!! 無視しないでよッ!! わたしをッ!! わたしを、わたしを、わたしをわたしをわたしを……」
「……」
言葉尻に声が小さくなっていく。
「たすけてよぉ……」
初めて女の子の中身が歳相応になった瞬間だった。
悲哀に満ちた表情から零れ出したその言葉は、女の子が今最も求めていたことだった。
女の子の言動は大人びていた。
女の子の思考は大人びていた。
一度話してみれば、女の子がどれだけ背伸びをした存在かを理解できた。
その背伸びは、彼女の“素”だ。無理にやっているものじゃない。
でも、それは“素”であって“本音”じゃない。
今目の前で泣きはらしている女の子が彼女の本音。
弱い自分だ。
その生涯取り繕って隠していくべき所を、俺に見せてまでも、女の子は助けを求めた。
限界だったんだろう。
これ以上耐えれなかったんだろう。
思いを吐き出さないと心が決壊してしまうと悟ってしまったんだろう。
だから俺を拠り所にしようとした。
他人である。俺をだ。
予想は確信へと変わり、俺は相応の対応を取らなければいけなくなる。
「俺は他人だ」
女の子と俺、2人の立場を確認させる。簡単に言えば拒絶だ。
こんな面倒事なんて真っ平ごめんだ。どれだけ時間を無駄にしてしまうかわかったものじゃない。
たしかに俺は彼女に同居を許した。
でもただそれだけだ。色恋で決めたものではなく、一時の気まぐれで決まったものだ。
彼女の内面を俺はこれまで一切見ようとしてこなかった。
外面の付き合いだけしかしてこなかった。
「家に泊まっていいとは言った。けど、お前の面倒を見るなんて一切言っていない」
「……っ」
「助けろだって? お門違いも甚だしい。なんでそんな面倒くさいことをしないといけないんだ」
「……っ!」
「赤の他人に『助けてください』と言って返って来る言葉の9割がどんなものか、お前なら分かるだろ」
一瞬。食い込む爪の力が強くなった後、女の子は立ち上がった。
表情は髪に隠れて見えない。
「お風呂入って、寝る」
「そうか」
「変なこと言って、ごめん」
「別にいい」
女の子がお風呂へと消えて行き、そのままシャワーの音が聞こえ始めた。
俺はその間に早めの夕飯を作って出てきた女の子に振舞った。
言葉通り女の子は布団を敷いて潜り込み、寝息を立て始める。
その間会話は無かった。
不思議なことに空気は重くなかった。
そして翌朝。
俺の平和な日常が返ってきた。
飾られたガッチャピンが消え、着替えが消え、学生カバンが消え、女の子が消えた。
「『今までありがとうございました。迷惑を掛けてすいませんでした』」
代わりに机の上に、一枚の紙切れがあった。
偉く達筆な文字だった。
△▽
次回へ続く。