「ルティア」
「……殿下」
振り向くと、そこには殿下がいた。
手にはガラスの杯を二つ。
「少し、飲みなさい」
殿下は一口自分で口にしてから、私に杯を手渡す。
「ありがとうございます」
中に入っていたのは檸檬の輪切りを浮かせたハーブ水だ。
「……これは?」
舌にとても慣れた味だった。
「秘書官が、君にはこれだと君の宮からこちらに持ち込んで用意していた」
「まぁ、ラーダ子爵にお礼を申し上げておいてくださいませ」
殿下が昼餐を完食したのがそんなにも嬉しかったんだろうか。
口にするかわからない私の飲み物まで準備してくれていたなんて、有り難い心遣いだ。
「……ナディア」
「え、あ、はいっ」
相変わらずナディは、殿下に弱い。
名を呼ばれただけで、しゃちほこばったすごーく怪しい動きになる。
(ほんと、可愛いなぁ、ナディ)
たぶん、ブラコンなんだと思う。
「どうぞ、ナディア姫」
殿下の後から顔を出し、ナディに杯を差し出したのは、レイモンド・ウェルス執政官だ。
フィルほどではないけれど、何度かお話させていただいたことがあるので顔なじみと言ってもいいだろう。
「ありがとう」
「中は妃殿下と同じですよ」
私の方を見る緑の瞳に、すぐに教えた。
「いつものハーブ水です」
ナディは少し安心した表情で杯に口をつける。
「……私、ハーブ水をいただくようになってから、おなかを壊さなくなったわ」
私の宮では、生では水を飲まない。
お茶だったり、ハーブ水だったり……最低でも湯冷ましを用意している。
「ああ、それは、火をいれるからですね。生水はあまり飲まないほうがいいですよ。私も飲まないようにしています」
「一度沸かしたほうかいいってこと?」
「ええ。……ハーブ水は、ハーブを煮出すために沸かしていますから、殺菌されるんです」
「さっきん?」
「はい。えーと……生水にはおなかによくないものが入っていることもあるんですけど、沸騰させるとそれがなくなるので……」
「そう。……今度から、私の宮でも飲み物は全部わかしたお水を使うようにするわ」
「それがいいですね」
あと大事なのはうがいと手洗いですと教えておく。
「わかったわ。……ルティ、少し体調が悪いのではなくて? 顔色が良くないわ」
「そうですか? ……自分ではあんまりわからないんですけど、少し熱があるみたいなんです」
たぶん、わりとアドレナリンが過剰分泌中なんだろう。疲労とか体調悪いのとかがあんまりわからない。
「……ダンスももう終わってるのだから、部屋に下がっても良いんじゃないかしら。無理はしないで」
「ええ。ありがとう、ナディ。……落ち着いたら、またお茶にしましょうね」
私の言葉に、ナディがぱあっと表情を明るくする。
「ええ。……それまでにもう少しレナーテから話を聞いておくわ」
「ありがとう」
またね、というように、そっとお互い手を振り合った。
◆◆◆◆◆◆◆
「……話は終わったか?」
「はい」
「では、そろそろ部屋に送ろう」
殿下が立ち上がるのと同時に、周囲の視線もまた動く。
「よろしいんですか?」
「ああ」
殿下とお話をしていた黒髪の鋭い目つきをした人が、私と殿下を何度か見比べて、目をしばたたかせる。そして、その人は流れるような動作で膝をついて乞うた。
「……王太子殿下、どうか私に妃殿下をご紹介くださいませんか?」
「……不本意だ」
殿下がボソリとつぶやいた。
(……不本意って何が?)
「この期に及んで往生際が悪いと思いますが?」
くすくすと笑い声がする。
「……致し方があるまい」
ナディル殿下は深いため息をついて言葉を続けた。
「……ルティア、これはクロード・エウス。北公の嫡孫で妹の夫だ」
「……素直に義弟とおっしゃって下されば良いのでは?」
「まあ、そうとも言うな。だが、私にとっておまえは義理の弟というよりは副官という認識が強いからな」
(フィルが右腕なら、この人が左腕ってところなのかな……)
ナディル殿下の空気が少し和らいでいる。
たぶん、殿下にとって特別な人なのだ。
「……ありがとうございます」
クロードは、わかりにくいけれどほんの少しだけ頬を緩め、そして私を見上げた。
「ご紹介に預かりました、クロード・エウスと申します。かつて、殿下が近衛に在籍していた当時、副官としてお仕えさせていただいておりました」
「伺っております。……どうぞ、今後とも殿下に忠実にあってください」
軽く目礼して、手を伸べる。
「はい」
クロードは私の手をとって、そっと唇を寄せた。
これ、すごく恥ずかしいけど、王太子妃が男性貴族から挨拶をうけるときの一般的な作法。
手を伸べて甲に口づけを許すのは、あなたの忠誠を受けますよ、という意味だ。もちろん、手袋はしたまま。
これ、生の手に口づけを許すのは特別な意味になる。
(そもそも、公式行事の席で手袋なしというのはありえないけどね)
クロードが微妙な表情で何か問いたげに私を見る。
私は問われている意味がわからなくて首を傾げた。
「……では、クロード、あとは頼む」
立ち上がった殿下が、今度こそ私の退出の為に手を伸べる。
「かしこまりました」
クロードは恭しく頭を下げた。
「よろしいのですか?」
私は殿下の手に自分の手を重ねながら問うた。
「構わない。元々、私はあまり夜会には出席しない」
そう。こういう夜会への出席をいつもされていたのは陛下だ。
ナディル殿下の仕事量を考えたら、今後の夜会の出席は必要最低限になるだろう。つまり、国王となったナディル様がご自身で主催されるものだけになるのだと思う。
「私が代理で出席できるようになればいいのですけれど……」
「必要ない。代理なら執政官でも、秘書官でもかまわない」
「そうなのですか?」
「ああ。彼らが代理で出席できないようなものは、元々、私が絶対に出席しなければいけない類のものだけだ」
痛む足をおして、殿下のエスコートで出口へと足を向ける。
(あともう少し……)
もの言いたげな人々には、笑みを浮かべて手を振った。
ダーディニアでは、下位の者が高位の者に話しかけることは不作法とされている。だから普通なら、ナディル殿下にも私にも自分達から話しかけることはしない。
なのに、声がした。
「ごきげんよう、王太子殿下」
おっとりとした声音はどこか不思議な艶やかさを帯びている。
(……グラーシェス公爵妃エレーヌ様)
昼餐会でお会いしたその人が柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
殿下は冷ややかな一瞥を公爵妃に向けたが、公爵妃は殿下の険しい表情にはまるで気づかないかのようににっこりと笑った。
「殿下、どうか、お時間をいただけませんこと?」
小さく首を傾げる。たぶん、自分が断られることなど考えたことがないのだろう。
だが、殿下はあっさりと一刀両断した。
「断る」
公爵妃が何を望もうとしているのかまったく私にはわからなかったけれど、ナディル様が断ってくれたことが嬉しかった。
さっきまで何も感じていなかったのに、今は身体が重い。一気に身体に重石がのしかかってきたかのような疲労を感じていた。
(別に薬なんか飲んでなかったけど、ドーピングが切れたみたいだ)
頭や身体は重く感じるのに、足元だけがふわふわしている。
(……眩暈がしてるのかな?)
一刻も早く宮に戻りたかった。
「……殿下、私が大叔母様にお願いしたのです」
公爵夫人の背後から見知らぬ女性が顔を出す。
ナディル殿下の表情がさらに冷ややかなものになった。
「アルティリエ妃殿下、どうぞ、私が王太子殿下のお時間をいただくことをお許しください」
先ほど、殿下がはっきりと断ったからか、私を名指しした。
淡い金の髪に紫の瞳……年のころは二十二、三といったところだろうか。でも、こちらの貴婦人と呼ばれる人たちは美容にとても力をいれているせいか、皆、若く見えるのでもう少し年上かもしれない。
私は返事をする代わりに軽く首を傾げて、どうしましょう? というように、殿下を見あげる。可であれ否であれ、ここで返事をしてしまうと彼女の不作法を許したことになる。
(……幼い私なら聞き入れると思うのは大間違いです)
これを許してしまうと、この先、こんな風に一方的に呼び止められることをすべて許すことになってしまう。
まあ、いろいろ理由をくっつけても、結局のところ私は、虎の威を借るキツネ的な必殺技『殿下に丸投げ』を出すだけなので、殿下にお任せしますという顔でぎゅっと殿下の手を握り締めた。
瞬間、ゾクリと悪寒がした。
何かこう背筋がひんやりとしたものに触れたような……。
そぉっと私は上を見る。
何度見ても美しいその顔に、笑みが浮かんでいた。
(……あ……)
これ、すごくヤバいやつ! と反射的に理解した。考えるとかそんな間もなく、ただもう本能がそう判断した。
穏やかでにこやかな笑み……まるで上機嫌に見えるほどの。
でも、これ反対なのだ。
絶対に怒ってるから!
「……グラーシェス公爵」
低い低い声で殿下が老公爵を呼んだ。
さざめいていた空気が凍り付いたように静まり返った為、その声は思いのほか響いた。