「では、行こうか」
約束したとおり、殿下はわざわざ私の部屋にまでお迎えに来てくださった。
「はい」
そのことが嬉しくて、「ありがとうございます」と付け加えると、殿下は何を言われたのかよくわからない、という表情をした。
「お迎えに来てくださってうれしかったのです」
「……公務の一環だ」
「でも、嬉しいです」
心の底からの笑みを、何のてらいもなく向けることができるのが嬉しい。
(妻ですから、こういう時、遠慮しなくてもいいのです)
好意を告げるのにためらう必要がない。
だから、思う存分伝えたい。
(言葉では、伝えきれないのが残念です)
ここで無邪気に抱きついたりできればいいのだけれど、それをするには三十三年分の記憶が邪魔をする。
(恥ずかしくて、そんなことできないですから!)
「君は、こんな些細なことを喜びすぎだ」
殿下は不機嫌そうにもみえる表情で小さな溜め息を一つついた。
でも、私はちゃんと気付いていた。
どこか困惑したような様子でありながら、殿下の口元には小さな笑みが浮かんでいる。
「ナディル様のお気持ちは、どんな些細なものであっても嬉しいものですから」
好意に好意を返されること。それがとても嬉しい。
それにちゃんと理解もしている。
(あえてお迎えにきてくれたのは、私の為だ)
「君は大げさすぎる」
「そうでしょうか?」
「ああ」
ナディル様がエスコートのために私に向かってのばした手に、そっと己の手を重ねる。
絹の手袋ごしに触れた手に大きな安心感を覚えた。
ここで手をつなぐことが嬉しいと口にすることはぐっと堪えた。少しはしゃぎすぎだ。
(大げさなのはナディル様のほうだと思う)
これから積極的に公務に参加してゆく私の安全のために、殿下は余計な障害は一つ一つ丁寧にとりのぞいていくことに決めたようで、椅子の件も、たかがクッション一つのことなのに、きちんと原因を究明することをアーニャに申し渡したし、こうして予定を変更して迎えに来るくらい気遣って下さる。
(そこまで大げさにする必要はない、と言ったのだけれど)
でも、殿下は静かに首を横に振ったのだ。
ただ一つのささやかな悪意を見過ごしたことで、もっと大きな悪意をよぶことにはなりたくないのだと。
(悪意は伝染する)
その実例を私たちは知っているのだ。
後宮という特殊な閉鎖空間において、それが及ぼす波紋を、その影響を殿下は案じたのだろう。
(これまでのことがあるから……)
そのためにいまの『私』が、存在しているから。
(陛下の影響を排除したと思ったら、今回のことがあって、ナディル様は少しお腹立ちなのかもしれない)
一新したはずの後宮で再び悪意が芽吹くことをナディル様は許すつもりがないのだろう。
(徹底してるから……)
ナディル様はそういうところ、まったく手抜きをしない方なのだ。
私たちが歩く長い長い廊下はロングギャラリーになっている。
ここに飾られているのは、ダーディニアの歴史から題材をとった作品ばかりで、どれもその時代の高名な画家が描いている大作ばかりだ。
一度ゆっくり見たいと思いつつ、まだ果たせていない。
まだ安全が確保されていないとして、極力、己の領域としている一角から出ないようにと言いつけられているせいだ。
(これは、一度、デートに誘ってみようかしら)
デートという名の王宮案内をしてもらうのが目的だ。殿下と過ごす時間を増やし、さらには中も深めることができるという一石二鳥のアイデアだと思う。
(……うん。悪くない)
王宮内なら即座にダメだしはされないだろうし、何だったらバスケットにお菓子と水筒をいれてピクニックとしゃれこんでもいい。
私は、実現までの手順を頭の中でシミュレーションしていく。
「ルティア」
「……はい?」
名を呼ばれてナディル様に意識を向けた。
私にはいつも甘い眼差しに目線を合わせる。
「昼餐の出来について、総料理長があとで講評をいただきたいとのことだ。可能であれば近いうちに時間をとってやってくれ」
「わかりました。リリアに調整してもらいますね」
本日の昼餐のメニューは、殿下からの依頼で私が決めた。
もちろん、正宮の料理長と綿密な打ち合わせをしている。
(結構大変だったけど……)
職人気質の強い料理長で縄張り意識も強かったのだけれど、そこは、それ。
何といっても、『おいしいは正義』なのだ。
普段、後宮で殿下が召し上がっている朝食を出したら、それですっかり静かになった。
以後は、後宮の厨房でよく顔を見るようになった。
後宮の私の料理人たちは私の専属の料理人という扱いになっているので、料理長の部下ではないのだけれど、料理長がいると緊張するらしく、慣れるまではいろいろと大変だった。
別に自分の部下じゃない者にいばりちらしたりするような人ではないのだれど、王宮総料理長の肩書きは、皆を萎縮させるには充分だったのだ。
(エルダはあんまり気にしていなかったみたいだけど)
でも、結局のところ、料理人というのは職人気質が強い。彼らにとって一番大切なのは目の前の料理をよりおいしく作り上げることだ。
だから、作っているうちに皆が料理長の身分を忘れた。
そして、料理長もまた一人の料理人でしかないことを理解すれば、その後は特に問題はなかった。
「……どのような料理が出るのか楽しみだ」
「殿下のお口にあうと良いのですけれど……」
「君が作るものは何でも美味い」
(よーし)
思わず手にしていた扇を握り締める。
もちろん、ナディル殿下に預けている右手はそっと添えているだけ。まちがってもその手をはしたなく力いっぱい握り締めたりはしない。
(まあ、この身体では握力なんか全然ないんだけど)
「今回は少し趣向を凝らしております」
「趣向?」
「はい。四公爵が全員揃うということだったので……」
四公爵家────その当主全員が揃う機会というのはそう多いわけではない。
今年は殿下の即位等の国家行事等が続くので、揃って拝謁という機会が再びあるかもしれないが、ダーディニアの四方守護という四公爵家の役割からすれば彼らが全員王都に集うというのはあまり良いこととはいえないからだ。
「どんな趣向を?……いや、聞くのはやめておこう。楽しみがなくなる」
「はい。どうぞ一緒に楽しんでくださいませ」
ナディル殿下はどこかいたずらめいた目をして、笑った。
私も笑みを返す。
瞳を見交わすだけで、何となく通い合うものがある。
(それだけで、満たされた気持ちになるのは何でなんだろう)
それって夫婦として一つ上のステップに進んだってことなのかな、と思いながらも、何かちょっと違う気もする。
エスコートしてもらっているのだけれど、たぶん傍から見れば私が手を引かれて歩いているようにしか見えないだろう。
頭二つ分くらい違うこの身長差が憎い。
回廊のところどころには警備の近衛騎士が立っていて、その視線はさりげなく私たちに向けられている。
後宮に通じるこの回廊の警備は他の場所に比べて厳しく、私たちが真の意味で二人きりになることはない。
(息苦しい日常……)
それが、王族として生きるということだ。
(そんな日常に、小さな風穴を開けたい)
アルティリエとしての記憶をもたなくて、ただただ必死で生活していた時期を過ぎてみれば、この、あらゆることが定められベッドとトイレでしか一人になれないような生活というのは、時として耐え難いものと感じるものだった。
(あちらの世界にいたころは考えもしなかった……)
あちらでは、基本的に一人だった。
何もかもを自分で決められる代わりに、すべてを一人で負っていた。
(ほんのちょっと孤独で、でも自由な生活)
今では、私には一人になる自由なんて欠片もない。
部屋のどこにいても必ず侍女はいるし、部屋の外へ出る時には必ず侍女を複数連れるように言われている。
(私の警備が厚いのは、私がエルゼヴェルトだからってこともあるけれど)
どこにいても、人の目がついてまわるのはもう仕方がないことだ。
そしてそれは、ナディル様も一緒だ。
もうしばらくすれば、殿下ではなく陛下となられるナディル様は私とは別の理由でお一人になることがない。
(だから……)
ぎっちぎちに定められたスケジュールを繰り返す日常の中に、私は彩を添えたい。
私との朝食がそういう時間になってくれればいいと思っているし、その権利を……そういう時間を少しでも多く確保したいと思っている。
(それで)
できることならば、ナディルさまに心を躍らせるような小さな驚きを与えたい。
(ささやかな楽しみというか、ワクワクするようなそういうものをあげたい)
私に政治や国を治めるための差配なんてできない。
その助けになるような意見を述べることもできない。
だから、私は私にできることでナディル様の支えになりたい。
(ナディルさまは、何もかもが予測通りなのだとフィルが言ってたから……)
予測のつかない何か……決まりきったと思われているものを変えたい。
玉座の重圧を負わねばならないナディルさまのお心を慰めるようなひとときをこの手でつくりたい。
「……ルティア?気分でも?」
「いいえ。大丈夫です。ちょっと緊張しているだけです」
安心してください、というように小さく笑みを浮かべてみせる。
ナディル殿下は、わかったというようにうなづいた。
(気合をいれないと)
私はもう人形姫であることをやめた。
今日は、それを公に示す第一歩なのだ。
「私がいる。……君が緊張する必要などまったくない」
覗きこむ蒼銀の瞳は、暖かな光を帯びている。
「……そうですね。ナディルさまがいらっしゃるのなら何も心配することなどありませんよね」
そういわれて見ればそうだ、と思って、あっさり肩の力をぬいて相槌をうつと、殿下は顔に手をあてて天を仰いだ。
「……ナディルさま?どうかなさいまして?」
「……ルティア」
ここでナディル様は溜め息を一つつく。
「はい」
「……君はもう少し、人の言葉を疑うことを覚えたほうがいい」
「……ナディル様を疑うのですか?」
「そうだ。……君は私を信じすぎる。私を含め、人はどれほど誠実に見えたとしても、忠義をささげているようにみえたとしても、結局のところ、自分に都合の良いことしか言わないものだ」
小さく首を横に振って、ごく真面目な表情で告げる。
「別に問題ありません」
私はふるふると首を横に振る。
「ルティア」
少し咎めるような響き。
でも、私はもうそれを怖いと思うことはない。
「私はナディル様を誰よりも信じておりますから」
それはもう大前提だ。
(ナディル様を信じられないなんてありえないし……)
「……ルティア、私はその言葉に値する男ではないよ」
なのに、ナディルはその丹精な顔に能面のような無表情を貼り付けて告げる。
(……これ、たぶん困惑していらっしゃるんだわ)
何となくわかる。
(というか、今更、何をおっしゃってるんだろう)
今のアルティリエが在るがゆえの罪悪感のせいか、はたまた、別に理由があるのか……。
(そういうの、ナディル様のキャラではないと思うのですけれど)
別にどういうナディル様であっても、ナディル様はナディル様なのだけれど、どうこたえればいいかわからない。
「ナディル様」
だから、そっとその名を紡ぐ。
上から覗き込む顔……その瞳に目を合わせ、まっすぐと見上げて告げた。
「……私がナディル様を信じるのは大前提です。それが崩れたら、世界が成り立ちません」
ナディル様の目が軽く見開かれる。
これ、間違いなく驚いている顔だ。
「ですから、どんなにナディル様がそれを否定しても無駄です」
「ルティア……」
「信じているというのは、他者に少し否定されたくらいで揺らいだりはしません。────たとえ、それが本人の否定であっても」
私にとって、信じるというのは覚悟をすることだ。
だから、私は自信をもってナディル様に笑んでみせた。
(覚悟なら、もうとっくにしています)
この世界で生きていくのだと決めたあの夜に。
*********
2016.12.14 更新