「妃殿下、そのカフスはどうなさったのですか?」
さすがにリリアは目ざとい。
わたしが部屋に戻ってくるなりすぐにそれに気付いた。
自分の持ち物を誰かに渡すのには意味がある。
特に身近に持つものであればあるほど、その持ち主との親密さを示すと言われている。
(カフスというのはかなりの親密度よね)
中には特別な意味のある品がある。
女性の持ち物であれば最も特別なのは手巾(ハンカチ)だろう。男性の持ち物であれば自家の紋が入った愛用の品、武人であれば剣や短剣などの武具類は殊更、その意味が重んじられるものだ。
でも、カフスや指輪やネックレスなどの装身具というのは、男女ともに身近なものであるから親密さを示すという意味はあるものの、手巾(ハンカチ)のような特別な意味はなかったはずだ。
(しいて言えば、虫除けかしら?……ううん、虫除けの必要はないわよね。別に私に虫がついたわけではないのだし)
ナディル殿下には虫が山ほどついていると思うけれど、私にはそんなものはいないだろう。もし、いるとしたら、それは私の身分やら付随する地位やら財産やらが目当てであって、私自身についているわけではない。
(むしろ、ナディル殿下に虫除けが必要なんじゃないかしら)
ここは乙女の切り札である手巾(ハンカチ)を使うべきか!と思ったけれど、そうじゃないんだよね、と思い直す。
手巾(ハンカチ)は、あくまでも心なのだ。虫除けアイテムとしてひけらかすものではない。
(中には、もらったハンカチを剣の柄に結んで己の勲章とする男の人もいるって聞いたけど……)
ナディル様はそういう方ではない。
(それに、親密さをあらわすために何かをお渡しするというのも今更な気がするし)
どれほど年齢的に不釣合いであろうとも、私たちは夫婦だ。
親密さを改めて示す必要があると思えないし、そもそも、私には殿下以外の選択肢など、最初から存在しない。
「殿下がお守りに、ってつけてくれたの。……紫水晶だと何のお守りになるのかしら?」
こんなことまでこだわるのか!って思うくらい、こちらでは身に着けるものの一つ一つに意味がある。
マントや手袋の『長さ』なんかも身分で決まっていたりするし、女の子なんかは、ドレスのスカート丈はおおまかな年齢で決められている。
幼児は膝丈、少女は膝から床の半分くらいの丈、花冠を終えたばかり……デビュタント前後あたりはふくらはぎがかくれるくらいで、それ以降は踝が隠れる長さだ。
みだりに脚をみせるのははしたないので、こちらにはミニスカートというものが存在しない。
それから、『色』にも意味がある。
禁色というその人以外に使ってはならない色があることからわかるとおり、色の意味は重要だ。
それと同じように『宝石』にもいろいろな意味があるのだ。
「別にそういう意味ではないと思いますよ」
リリアに促されて、鏡台の前に座る。
「では、どういう意味なの?」
今日はスケジュールがきっちりと決められている日だ。
本格的に王太子妃としての公務にデビューする日、と言ってもいいかもしれない。
なので、朝から皆、とても忙しない。
私一人がのんびりしているのは申し訳ないかもしれないけれど、私まで忙しなくするとみなが焦ってしまいそうなので私はあえてのんびりとする。
「……そのカフスは、王太子殿下のご愛用の品ですわ」
「ええ」
私も何度もこれを使ってらっしゃるところを見たことがある。というか、よほど色が合わないということでなければ、いつもこのカフスを使っているはずだ。
「ご愛用の品というのはその持ち主を象徴すると考えます。……つまり、妃殿下に自分の者を身につけさせるくらいお心を傾けてらっしゃる、という王太子殿下の主張でございましょう」
「誰に対しての主張なのかしら?……もしかして、陛下が亡くなられて、私の立場が揺らいだと考えている人たちに対してなのかしら?」
唇にのせていた淡いベージュピンクを薄布で拭いとる。
こちらにはティッシュペーパーというものが存在しない。代わりに使われているのが薄ーいガーゼのような布だ。
これはたぶんどこかで再利用しているのだろうけれど、私は使い捨て。もったいないと思う一方で、それが当然だとも感じている。
「もちろんそれもあるでしょう。でも、それ以上に根本的なものだと思いますわ」
「こんぽんてき?」
「はい」
リリアは自信たっぷりにうなづく。
「よく、わからないわ」
首をかしげたら、動かないでください、とミレディに注意された。
着替える時間はないけれど、髪型を多少変えるのだ。
それから、手袋と扇子も白から水色のものへと交換される。
この水色はエルゼヴェルトの色だ。
「重ねて申し上げますけれど、そのカフスは王宮に出入りする貴族ならば、王太子殿下の持ち物だと知らぬものはないほどのお品です。……今日の昼餐会に参加するほどの身分の者ならば間違いなく殿下の意図を理解するでしょう」
「意図?」
「……私は、これを、王太子殿下が、妃殿下を自分と思えとおっしゃっていると受け取りましたわ。各々、解釈はいろいろありましょうが、何よりものお守りだと思います」
王太子殿下の御心が誰の物であるのか一目でわかりますもの、とリリアは嬉しげな笑みを浮かべる。
鏡の中ではどんどん再びのメイクが進んでゆく。
ほっとタオルで顔を拭われたあと、再び、化粧水と化粧オイルで肌を整える。
おしろいはしない。おしろいなど使わなくても、肌はつるつるでしっとりなのだ。
(マスカラとかつけまつげはないけれど、アイライナーとかアイシャドウはもうあるんだよね)
化粧品は実に多彩だ。見ているだけで心が浮き立つようなかわいい入れ物に入っていて、鏡台の上はまるで色彩のパレッドだ。
「そこまで大げさな意味かしら?」
「……妃殿下、ほぼ毎日使うようなご愛用のお品ですよ?それを、妃殿下にお渡しになったのですよ」
「あのねリリア、殿下って以外に面倒くさがりやなところがあるの。だから、ご身分にふさわしいものであればそれほど身に着けるものにこだわらないわ。ほぼ毎日使ってらっしゃるのも、選ぶのが面倒くさいからだと思うわ」
紫水晶というのは、ナディル様の禁色とも相性が良い。
デザインもシンプルだし、お気に入りであるには違いないだろう。
でも、果たしてリリアが思っているほど深い意味をがあるかどうか……。
(ううん。ナディル様がそう思っているという事実ではなく、これを見た者がどう考えるか、なんだわ)
リリアのように考えるよう思考を誘導するのが、ナディル様の目的なのかもしれない。
そして、それは間違いなく私のためなのだ。
「そんな風に王太子殿下のことを評すのは妃殿下だけだと思います」
「……そうね、私もそう思うわ」
ほんの少しの誇らしさとともにそう思う。
己が踏み込める範囲が他の人間よりも広いこと。
そして、わずかなりとも心を許されていること。
それが、今の私のほんのわずかなアドバンテージだ。
(そんなの、年齢差で全部パァになっちゃうくらいささやかなものだけど)
本当は一番のアドバンテージは、正式な唯一の妻であるということなのだけれど、これはわりと両刃の剣なので振りかざすような真似はしない。
「ねえ、リリア」
「はい」
私はごくごく薄くしかメイクをしない。年齢的なこともあるし、本当はメイクなどしなくても充分なのだ。
目元は何もしていなかったのを、アイラインをいれて、うすく色を重ねる。
「……正直に言ってね」
「はい」
「……殿下の身の回りに、側妃志願の方がいるのかしら?」
だいぶ遠まわしな聞き方だけれど、これが私が問うても許されるぎりぎりの線だと思う。
(私は王太子妃だから)
王太子妃としての品位を保つねばならない。
でも、やっぱり気になることは気になる。
(クッションの一件もあるし……)
「……王太子殿下の引越しにあわせて、正宮付としてあがった者の中に何名かそういう目的の者がいるということは把握しています」
「そう」
「排除なさいますか?」
リリアが真顔で問う。
ここで私がうなづいたら、どういう手段をとるかはわからないけれど、たぶんリリアは何とかしてくれるのだろう。
それが不穏な手段だったらちょっと困る。
リリアに側にいてもらうのはそんなことのためではないのだ。
「ううん。何もしなくていいわ」
(……キリがないし)
ここで、今回送り込まれている人員を排除しても新しいのが来るだけだ。
(それくらいなら、わかっているままのがいい……)
誰がどういう人間なのか線引きがはっきりできているほうがわかりやすいから対処のしようがある。
「でも、妃殿下……」
「ナディル様のお相手がそういうあからさまな者の中から選ばれないことを祈るけれど、お好みはわからないでしょう?」
「……まったくお好みではないと思いますよ。たぶん」
「なら、余計にそのままでいいわ。とりあえず、誰と誰がそうなのかを教えてほしいの」
「……わかりました」
悩むようなリリアの表情に、付け加えた。
「リリア、こういうことはこれから増えると思うの。それをいちいち全部排除することはできないわ。……私は、ただそういう人がいるということを知っておきたいだけなの。知っていれば、もしもの時に対処ができるでしょう」
「もしもってどういう時ですか?」
「……たとえば、 ナディル様がいきなり誰かを側妃としたい、と言ってきたら、私、間違いなく動揺するし、もしかしたら、泣き喚いたりするかもしれないわ」
「妃殿下が泣き喚くところなど、想像がつきませんけど」
「イヤだわ。私だって泣き喚くことくらいあるのよ。……だからね、殿下のお気に召す女性ができたとき、隠したりしないで教えてね。……私、心の準備をするから」
「心の準備でございますか?」
「ええ」
マーゴに花が咲いたような美しいカラーパレットを広げてみせられて、口紅は淡いローズピンクを選んだ。
この年齢でメイクをするのってどうなんだろうと思うけれど、女にとって装うことは必須の戦闘準備みたいなものだ。
(自信ないけど、そのときは女の戦い、がんばるから!)
このとき私は、リリアに思いっきり誤解されていることに気付いていなかった。
リリアは、私がナディル様の妃としてナディル様の選んだ女性を受け入れる覚悟をしたのだと思っていたのだけれど、私はまったく逆のことを考えていた。
(苦手でも必要なことだから)
正面から受けて立つ気まんまんだった。
仕方がないのだ。
私はまだ十三歳の少女で、務めを果たすことが出来ない。
そういう方が必要だといわれれば、それを認めるしかないのだ。
(まあ、さすがに十三歳の妃に愛人認めろとは言わないだろうから、もうちょっと配慮はあるかもだけど)
そして私は、ただの十三歳の少女ではなく、三十三年間生きた女性の記憶を持つ。その記憶が、私に泣き寝入りを許さない。
(はじめるまえに逃げ出すなんてありえないから)
そのうえ、ナディル様の妃として後宮を統率するということは、女性問題から目をそらすことも放置することもできないということだ。
せめてあと五年年をとっていたかった、とは思うものの、ないものねだりだった。
(今の私が、何とかするしかないんだから)
心の中で、自分に言い聞かせた。
ふと、気付くと、なにやら侍女達が心得顔でうなづいている。
どういうわけか、私が気付いたときには既に皆の間で、私はとても健気な耐える決意を固めたという認識が固定化していた。
そして、その誤解を解く術は私にはなかった。
(まあ、問題もなさそうだし、そのままでもいいよね)
ちょっとずるいことを言うのならば、そのほうが都合が良かったということもある。
「そういえば、リリア、たぶん、あと三十分もしたら殿下がお迎えに来てくださるから」
予定では控えの間で待ち合わせだったのだけれど、さっき朝食のときにナディル殿下がご自身で迎えに来てくださると言っていたのだ。
「……わざわざこちらに?」
「ええ」
リリアは、殿下は意外に独占欲がおありなのかもしれません、と小さく呟いて、いつもの生温い表情をみせた。
相変わらず意味がわからない、と思いつつ、私は鏡に微笑んだ。
(よし)
そっと扇子を握りしめる。
何となく、はじめての戦場に向かう見習い騎士の気持ちがわかるかもしれないと思った。
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2016.12.01 更新
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