私がこの国を持つという意味が、私にはわからない。
ただ、納得はする。
というか、あらゆる符号がそれを示している。
この国……ダーディニアにとって、『私』はとても大切な存在なのだと。
そう。もしかしたら、国王陛下以上に。
「何か得心したような顔をしているね」
「あまりにも皆が私に過保護な理由がそれなのだろうと理解できました。なぜ私がそこまで特別なのかはわかりませんが」
「……それは長い長い話になるから場所をかえないかい?ティーエ」
ここは寒すぎる、と陛下が言う。
「申し訳ありませんが、私は西宮からは出られません。殿下とお約束しましたから」
本当はあれは西宮ではなく王太子妃宮をさしていたんだろうけど、拡大解釈して西宮ということにする。苦しい言い訳なのはわかっているけど、単に自分のやましさをごまかすための建前なのでそれでいい。
「私の命令でもかい?」
「はい」
私のうなづきに陛下は眉をひそめて不快を示される。
「……国王の命よりも王太子の命を優先すると?」
「いいえ。義父の命よりも夫の言いつけを守るだけです。お許しくださいませ」
私はひょこっと立ち上がって、ふわりとワンピースの裾を揺らして軽く一礼し、また元のように座る。
陛下は、くつくつと喉の奥をならして笑った。
「それは咎められないな」
その言葉に笑みを浮かべてみせる。内心、どれほど逃げ出したいと思っていても、怖気づいていても、それでも笑う。
「せめて、壇上に行こうか」
「……はい」
促されるまま、祭壇の置かれた一段高くなった壇上に足を踏み入れた。
祭壇周辺には、天井からいくつもさがっている常夜灯がある。それが暖房器具がわりになっていて、信徒席側に比べれば段違いの温かい空気に包まれている。
更に、信徒席の床は大理石のモザイクなのだが、ここは磨きぬいた床板で美しい文様が寄木細工で描かれている。下からの底冷えがないのも、この場所が暖かく感じられる理由の一つだろう。
陛下は、司教席と司教補佐が腰掛ける椅子を向かい合わせにして、私に司教席を勧めた。私が一礼して司教席の長椅子に腰をかけると、陛下は腰の剣を私と自分の間の床においた。
これも、貴婦人に対する心遣いの一つだ。
もし、不埒なことをしたらこの剣もて我が胸を刺して構わないという意味である。
(現実問題として、これ、私には抜けないと思うけど)
飾り気のない無骨な実用一辺倒の剣は見るからに重量がある。持ち上げることができるかも怪しい。
「……私の話をする前に、君の話を聞いておきたい」
「私、ですか?」
「そう。何がきっかけだったのだろう?」
陛下はどうあっても、私がなぜ陛下を疑ったかを知りたいらしい。
何というほど明確な何かがあったかといえば、実はないのだ。
一つ一つは些細な違和感だったり、疑問だったり、新たに発見した事実だったり……それらの積み重ねが収束した結果というべきだろう。
「一つ一つは些細なことなのです。……例えば、私の大切にしているものがいつも失われること……管理の厳しいといわれている西宮の、更に最も出入りが制限されている私の宮で、なぜそんなにも頻繁に物がなくなったり壊されたりするのでしょう?単純に考えて、内部犯を疑うのが当然の流れです」
「そうだね」
「私の宮にいて不思議に思われることなくそれらに手が届くのは言うまでもなく侍女達です。私の侍女はなかなか定着しないことで知られています。女官であるリリアは別としても、これまでの侍女達は短ければその日のうちに、一年保てば褒賞に値するといわれるほど入れ替わりが激しかった。何らかの処分を受けた者も多かった……彼女達について調査してもらうとおもしろいことがわかりました」
「おもしろいこと?」
「全員とは言いませんが、そのほぼ全員が本宮に近親者が勤務しており、その大半が後宮に何らかの縁を持っていたのです。」
後宮は、陛下の私的空間だ。そこに縁のある人々は、何らかの形で陛下の影響下にあると考えられる。
「それが?」
「亡くなったエルルーシアもそうでした。彼女は、王妃殿下の命で私に仕えていたのです」
「ふむ」
陛下を見上げた。こうして見る分には普通の中年男性だ。既に五十を越えているけれど、見た目はだいぶお若い。
ただ、少し痩せすぎではないだろうか。
普段目にしているのが護衛の騎士かナディル殿下なので、余計にそう思うのかもしれない。
彼らは別に太っているというわけではないのだが、よく鍛えているせいで、陛下のような線の細さを感じさせない。
「西宮に移り、リリアが来た頃からそういったことは激減していたといいます。それは、西宮の最奥の王太子妃宮に入ることが困難になったこと、リリアという専属女官の目を盗むことが難しかったこと。そして、度重なる事件のせいで陛下が私に何かした人間を決して許さないということが周知の事実となっており、さまざまな要因がそれを阻んでいました……ですが、ゼロではなかった」
だからこそ、アルティリエは大切なものを隠していた。
「亡くなったその侍女を疑っているのかね?」
「……私が、この王宮に戻ってきてから、そういった事件は一度もないのです」
すべてがエルルーシアの仕業であったとは思わない。
けれど、彼女が誰かの……おそらくは王妃殿下の……手であったことは事実だろう。ユーリア妃殿下も否定をされていない。
「考えすぎだろう。そもそもユーリアが、自身の信頼できる侍女をそなたの側近くに仕えさせるは当たり前だ。あれはそなたの母代わりなのだから」
「その言葉だけを聞けばそうなのですが、彼女は表向き、ナディル殿下の縁で宮殿にあがっていたことになっているので」
「表向きというのは、虚偽なのかね?」
虚偽であれば厳罰に処さねばならぬ、と陛下は眉をひそめた。
「虚偽ではありませんが、絶対的に正しくもなかった……なぜ、隠していたのか……別に隠すようなことではないはずです。でも、王妃殿下とのつながりを知られたくなかったからなのではないでしょうか?」
ナディル殿下に、それを知られたくなかったのだと考えるのは穿ちすぎだろうか?
「だとすれば、そなたを狙っているのは私ではなく、ユーリアなのではないのか?」
「いいえ」
私は静かに首を横に振る。
「なぜだね」
「妃殿下は、王妃であることがご自身のすべてのように思っておられますから」
ユーリア妃殿下は、王妃であるご自身に強く執着している。
愛する祖国の滅亡を救えなかったことやご自身が身代わりであると思っておられること等、それらのすべてとダーディニアの王妃であることが引き換えのように思っているようなところがある。
まるで、王妃である自分にしか価値がないとでもいうように。
そんな妃殿下が、ダーディニアが国としてあるために必要な私を害するはずがない。
「妃殿下は、陛下の意向を汲んだだけなのではないでしょうか」
(何よりも、あの方は私にそれほど関心がない)
関心がない、と一言で言ってしまうと語弊がある。強いていうならば、特別な何かがあるわけではないと言うべきか。
妃殿下にとって私に何らかの価値があるとすれば、それは陛下が私に執着なさっているという点だけだ。
だから、陛下というファクターをはさまないで私に何かをしようとは考えないと思う。
つまり、彼女の言っていた『ささやかな嫌がらせ』さえも、私は彼女自身の意志ではないと思っているくらいだ。
「私の?」
「はい」
私は首を縦に振る。
陛下は答えない。
「ユーリア殿下は、私に何かするほど私を愛しておられませんから」
私の言葉に、陛下は笑みを浮かべた。
「陛下は、何もなさらなかった……ただ、ごらんになっていただけだった。ご自身の言葉ひとつ、あるいはその言動一つに右往左往する人々を」
この国の政治を動かしているのは、ナディル殿下だ。
陛下は政に関心がなく、口を挟もうとしない。
そんな陛下が日々、何をしておられるか……それは『社交』だ。
夜会や舞踏会……あるいはお茶会や音楽会……陛下はそういった催しがお好きで、毎日、どこかで開かれている何らかのイベントにこっそり参加している。
お忍びの参加という体裁をとって参加しなければならないほど、陛下の夜会や音楽界等の各種催しへの行幸は盛んなのだ。
(政治的権力からは離れておられるが、貴族たちへの影響力は大きい)
政治的権力が伴わなければ影響力などないだろうと考えるかもしれないが、仮にも国王陛下である。実権はナディル殿下にあれど、陛下はナディル殿下にそれなりの影響力をもっていると周囲にみなされているのだ。
「今回のこともそうでした。陛下は、殺したいというよりは、仮にそれが私の死を招いてもかまわないと考えておられたのだと思いました」
殺そうとしている……あるいは、私が死んでも良いと思っている人たちと、さほど直接的ではなくとも私を狙っている人たち……これらの間に何の違いがあるのか。
フィル・リンは違いがあると考えていた。殺そうとしている者と嫌がらせをしている者は別であるのだと。目的がまったく違うのだから同じであるはずがないのだと。
確かに別物ではある。
私も違うのだと思っていた。でも、そのどちらに所属するかは、そう大した差ではなかった。
なぜならば、実行する手がどれほど違っていたとしても、それを動かす意思はひとつだったからだ。
「本当にそなたにはわかっているのだね」
どこか甘さを孕んだ声だった。
「証拠は何一つありませんけれど」
陛下は、床に片膝をついて、私と目線の高さをあわせる。
慈しみに満ちた眼差しだった。
「君を害そうと思ったことなどないのだよ」
その手が、私の髪をそっとすくう。背筋がびくりと震えたが、私はその手をはねのけなかった。
事の、その中心にいたのが陛下だとしても、この方が私を大切に思ってくださっていることは否定できない。今、こうしている陛下に嘘はないのだ。
「でも、結果として、あの時までの私は失われました」
(あなたこそが、アルティリエを殺したのだ)
そう思うのに、なぜか責めることができない。
ただ、胸が締め付けられて息苦しかった。
「君はこうして傷一つなくここにいる」
「身体的には、ですね。でも、心は別です。……だから、私は思い出すことができないのでしょう」
身体が覚えている事。
不意に襲いくる泣きたくなるような切なさだったり、理由のない恐れだったり……あるいは、どうあっても胸の片隅から消えない淋しさだったりするそれは、きっとかすかな記憶の残滓だ。
医師は何かの拍子に思い出すかもしれないと殿下に言っていたが、私はもう思い出さないだろうと思っている。
(『私』が、ここにいるから)
「何度も申し上げていますが、記憶が失われるというのは、それまでの自身を失うことです。私の中にはそれとわかるような記憶はいっさい残っていませんでした。それまでに過ごしてきたすべてを私は失い……それは、それまでの私が殺されたということに他ならないのだと思います。陛下に私を殺すつもりはなかったとしても、予測しなかったわけではありますまい」
「ティーエ……」
「……なぜ、私はあの冬の湖で殺されたのでしょう?」
さっきも問うた同じ問いを、言葉をかえて繰り返した ──── 陛下の眼差しが揺らぐ。
他国の人間にも狙われているかもしれない。あるいは他にも狙う者がいるのかもしれない。
でも、これほどまでに守られている私の身に迫ることができる者はそう多くはない。
「陛下の私に向ける優しさを嘘だとは思いませんでした……でも、怖いと思いました。妃殿下もそうです。何も覚えていないのにこわかった。……最初は、殿下のことも怖かったのです。でも、それはすぐに消えた。なのに、陛下や妃殿下を怖いと感じることは消えなかった」
私の中には確かにアルティリエがいて、その記憶の残滓がある。
「ティーエ……」
「愛することと憎むことはとてもよく似ています」
それはユーリア妃殿下をみていればわかることだ。
私はまっすぐと頭を上げる。
「……ティーエ」
その声音がどこか悲痛な色を帯びる。
「陛下は、私のせいで母が亡くなったとお考えなのですね」
息を呑む音がする。
「私を産んだせいで母が死んだのだと」
私は陛下を見る。
陛下もまた、私を見る。
エフィニアの子ゆえに、私を愛する。
だとすれば、そのエフィニアを死に至らしめた私に対しては?
どちらも同じ私には違いないが、どちらが陛下の中で大きいのだろう。
ううん。どちらかである必要はない。それは表裏一体だ。
ただ、時として、どちらかに傾くだけだ。
交わした視線を先にはずしたのは陛下だった。
「そなたに罪はない……そなたのせいではない……わかっているのだ」
「でも、私を産むことで母が亡くなったのは事実です」
「……違う……いや、違わないのかもしれない。だが……」
それから、まるで何かにつかれたかのように、違う、違う、違う……と何度も繰り返し、激しく頭を振った。そして……陛下の表情が苦悶に歪む。
「……余が……憎しみを募らせたのはあの男だ」
余の可愛いエフィニアを死に追いやった男、と陛下は地の底から響いてくるような憎悪の響きでエルゼヴェルト、と呟かれる。
「あの男を殺してしまいたいと思った。ああ、頭の中では、何度も何度も殺したとも。だが、現実には殺せない。余のエフィニアを殺した男を、余は殺すことができない。あの男が死ねば、そなたの身が危うくなる……エフィニアの遺したそなた……ティーエの血を引くそなたの身が危うくなる。そんなことをゆるせるものか」
ティーエ、そう呼ばれたのは私の名ではない。
「そなたは、余の可愛いエフィニアの娘、だが、同時に殺しても飽きたらぬあの男の娘でもある。愛おしくて大切でならないのに、憎らしいとも思う。そなたの身を守らねばと思う反面、そなたさえいなければとも思う」
入れ替わる躁と鬱が、めまぐるしく陛下の表情を変えていた。
「なぜ、エフィニアの婚姻を止めることができなかったのかと問うたな。……確かにそなたの言うとおり、無理をすれば婚約を破棄することもできただろう……だが、婚約を破棄してどうする?エフィニアを誰と結婚させるのだ?……ああ、候補は他にもいたとも。王女が嫁すは最高の栄誉だ。……だが……」
陛下はその言葉を口にするのをおそれるように、口ごもる。
私はまっすぐと陛下を見つめ、その先を促した。
「だが、一番の候補は、王太子だったのだ」
ひどい笑いだった。陛下はあまりの皮肉だった、と頬を歪める。
「素行に多大な問題があるとはいえ、エルゼヴェルトを退けるのだ。次の相手はそれなりの相手でなくばなるまい。だが、あれはその条件に合っていた。我が父王に王太子と定められた身だ。まったく問題はあるまい。……誰もがそう思っただろう。エルゼヴェルト以外の三公からも、その提案があったくらいだ」
「それではいけなかったのですか?」
答えを知っているのに、私は問うた。
「余は、それだけは認められなかった。どうしても認められなかった。エフィニアを王太子の妃にしない為には、あの男に降嫁することを許すしかなかった」
(それは……)
「幸いなことに、エフィニアはあの男に恋をしていた。一方的なものだったが、エフィニアは降嫁する日を指折り数えてさえいたのだ」
騙されていたのだが、と呟く。
「……そなたの言うとおり、余はわかっていた。恋に恋をするように理想の男を公爵に映してのぼせていたエフィニアは何も知らなかったが、私は知っていた。知っていたが止めなかった……止められなかった。あれの婚約破棄を認めることはできなかったからだ」
「婚約破棄が成立し、ナディル殿下との婚姻が成立したら困るから、ですね」
私は慎重に確認をとる。陛下はうなだれながらも、首肯した。
「余は、後悔した。ああ、そうだ。余は王になどなるつもりはなかった。なれるはずなどないと思い知らされていた。
すべて諦めていたから、ユーリアを娶った。それが、ささやかな余の抵抗であったのだ。
なのに……余の思慮のなさが……ユーリアを望んだ余の浅慮が、エフィニアを殺した。余がユーリアを望まなければ……婚姻などせず、子など持たなければエフィニアは死ななかったのだ。ティーエの遺したたった一人の子が……」
泣いているのだと思った。
涙はどこにもなかったけれど、泣いているのだと。
シュターゼン伯爵やフィル=リンの知る、かつてのご一家は、ごく普通の家族だった。
子供にあまり関心がなく少々扱いにくい父親とそんな父親との間をうまくつないでいた聡明で優しい母親、仲のよい子供たち……だが、降ってわいた王冠の存在が、その家族の様相を変えたのだという。
だが、果たしてそれだけだったのだろうか?
「私はあの男が憎かった。憎くてならなかった。殺しても飽き足らぬ……だが、現実には殺すことなどできないのだ……あの男の罪は許しがたい。だが、罪ならば私にもある」
「……………」
「そなたは、可愛いエフィニアの娘……だが、愛しいと思うのに、そなたもまたエルゼヴェルトであるという事実が、心に棘のように突き刺さる」
そなたはエフィニアの娘であると同時にあの男の娘でもある。と、陛下は苦々しい口調で言う。
「おそらくは、その余の逡巡を、側にいた者達はそれぞれに受け止めたのだろう」
相反する二つの感情。
まったく異なる二つの望み。
ある人には募る愛しさが伝わり、ある人には押し殺しきれない憎しみが伝わる。
「誰が最初にはじめたのか……はじまりは、他愛ない嫌がらせだった。そなたの気に入りのドレスを汚したり、あるいは、大切にしていたカップを壊したり……そのたびに、泣いているそなたを抱きしめ、その背をなでた」
小さな小さなそなたは、私の腕の中で泣いた。
目下の者には涙を……弱さを見せてはならぬ、それが王族の教えなのだ、そなたが泣けるところは限られていた、と陛下は言う。
「……そなたはとても辛抱強かった。それでも、我慢できないことはあるものだ。……そなたが私に縋り、私の言葉に慰められていることに、私は歪んだ満足を覚えた。そして、それに気付いて愕然としたのだ。あまりもの自分の醜さに吐き気を覚えさえした」
私は、震える拳をぎゅっと握り締める。
「エフィニアに生き写しのそなたを見ていると心が和んだ。だが、その反面、そなたを傷つけることで愉悦を覚える自分がいるのだ」
余の密かなその愉しみに、まずユーリアが気づいた、と陛下は昏い笑みを浮かべて言う。
「ユーリアは何も言わずとも、私の望みを汲んだ」
ささやかな嫌がらせが繰り返された。
妃殿下の手は、陛下の手である。
自身の手で傷をつけ、自身で慰める。
滑稽で醜悪な図式。
「そして、それはユーリアの思惑を越えて周囲に広がり……急激にエスカレートした。……そこが後宮だった為に」
閉ざされた空間。
女たちの嫉妬と羨望がうずまき、ある意味、現実から隔離された場。
そんなところに火種が生まれたのだ。
傍目から見れば、ユーリア殿下が嫉妬心から、アルティリエを虐めているようにも見えただろう。
そして、アルティリエは後宮中から嫉妬されていたのだ。
「余の関心を買うという一点において目的は同じであったが、手段はそれぞれに違っていたな。
ある者は、そなたに罵声をあびせて貶めようとしたし、ある者は些細というには悪辣すぎる嫌がらせをして虐め苛んだ。
また、ある者はそれからかばってみせることで余に最も影響力を持つといわれていたそなたの口から自身の賛美をひきだそうとした。後宮中がそなたを目の敵にしていた。
余は、女という生き物の醜悪さを目の当たりにしたよ」
だからといって、今更幻滅するということもなかった、と陛下は口にし、それから付け加える。
「何しろ、最も醜悪なのは私であるという自覚があるからな」
穏やかな様子なのに、その言葉にはどこか底のしれない熱がある。
まるで、さきほどのユーリア殿下のように。
「そなたを肉体的に傷つけることは許されなかった。傷を負わせなかったとしても、挨拶に来なくなるほどのことを起こした者も許さなかった」
ほんのわずかでも傷をつけることを許したら、どんな大怪我をするかわからない。だからそこには慎重に目を配ったのだ、と陛下は言う。
「そなたが失われることがあってはならない……危険な状態にあることはわかっていた。すべてが私の思い通りに運ぶわけではない。暴発することとてありえるのだ。
……それなのに、救いようないことに、そこに至っても余は余の腕の中でそなたが涙を流すたびに、あるいは、どうしてもたえきえずに一つずつ感情を亡くしていくたびに、心が震えた。傷つけたのは自分であることに昏い喜びを覚え……そして、それでありながらそなたを傷つける者を憎み、厳罰を与え、我が手でそなたを庇護することに酔っていた」
そのどうしようもない泥沼。
救いがない、と思う。
幼いアルティリエに抵抗する手段がない。
「やがて、そなたの侍女が怪我をしたり……死者も出た。随分と噂にもなった……それでも、後宮だけでおさまっていればまだよかった。
だが、騒ぎは表にも飛び火したのだ。無関係な人間が何人か死んだ……
枢機卿の乳母や、王太子の学友やら……私は何が起こったのかわからなかったよ」
「………………」
「悪意というものは伝染するのだと知った」
そなたが何も関わらないところで思いもかけないような事件がおきたのだ、と陛下は言う。
誰もが、心の中に隠し持つ悪意。
誰だって腹をたてたり怒りを覚えることはある。それが現実の事象に結びつくことはそう多くはない。
人は理性ある生き物だ。そして、『時間』は感情をも昇華することができる。
でも、陛下の悪意は、他者の悪意に火をつけてしまったのだ。それが罪となるほどに。
「人とはどこまでも欲深く、醜悪なものだ。余は、それをただ見ていた」
「止めようとは思わなかったのですか?」
「直接見知った者ならばともかく、どういう影響で何が動き、誰がどうしたのか……もう私にもわからなかった」
陛下は無表情に言葉を重ねる。
「私は傍観者だった。いや、新たな火種を投げ入れることさえした。どうでもよかったのだよ。私は大概のことに関心がない」
むしろ、おもしろい見せ物のように思っていた、と陛下は無慈悲とも思えるような発言をする。
時々、身の程知らずにもそなたを傷つけた人間を処分するのも、退屈しのぎには良かった、と
「他者が何人死のうと気にならなかった。私には何もない。……やがて、王太子が気がついた。本格的に国政に関わり、まだ大学にも通っていた時期だったのだが、あれは細かなところにもよく気がつく」
「気付いた殿下が、私を後宮から連れ出したのですね?」
「そうだ」
陛下は大きくうなづく。
「そこでまた新たな事件がおこった。……いや、あれは、私が起こしたというべきなのか……。
私の寵姫とされていた女がいた。以前からずっと余計な野心を抱いていた女だ。女はずっと、妃になりたがっていた。それも、側妃ではな、王妃にだ。
確かに私の正妃の座は二つしか埋まっておらぬ。だが、なぜ己が残る座に座れるなどと考えたのか……余にはその思い上がりがまったくわからぬ。
正妃の地位が、なぜ四公家の娘にしか許されなかったのか……ユーリアがその地位に在るから自分もなれると思ったか?
狭い後宮の中で華やぐことしか考えておらぬ愚かな女……自分の美貌が私を虜にしているのだと思い込んでおった。私がそれまで何も言わずにあれの望みをかなえてやっていたのは、あれとは話をする必要を認めなかったからだ」
酷薄な表情は、外面を整えている時の殿下との相似を強く感じさせる。
「そもそも、あの女を選んだのは、あの女がエフィニアの最も近しくしていた学友だったからにすぎぬ。あれは黙って座っていればよかった。余はあれを見るたびに、たやすくエフィニアの思い出をたどることができたのだ……」
あれらはいつも二人でいたから、とつぶやくその眼差しは、遠くに向けられている。
「ただそれだけの価値であったのに、よくぞ思い上がったものよ。あれはティーエなど知らないと言った。ティーエを狙ってなどいないと。狙っていなくとも、巻き込まれれば同じであろうに。
あれは、最後まで、自分だけは許されるだろうと……後宮に戻れるのだろうと思っていたようだ。
私がティーエを狙ったものを許したことなど一度もないというのに。余の側近くにありながら、何を見ていたのか不思議だった」
寵妃など、その程度のものだ、と陛下は嘯く。
「そなたが西宮に居することになって私は心のどこかで安心した。王太子は本当に出来の良い子だった……あれの元にいるのならば、きっと守られるのだろうと思った。……だが」
陛下はそこで言葉を切り、そして嗤った
「だが、安心するのと同時に、どうしようもなく心が揺らいだのだ」
「……………」
「余は、そなたを王太子に奪われたと思った」
「私たちの結婚を決めたのは陛下であったはずですが」
「ああ、そうだとも。エルゼヴェルトから取り戻すのにそれが一番の方便だった。同時に、四公爵家の者ではない母から生まれた王太子には絶対にそなたが必要だった……どんな手をつかったとしても絶対に必要なのだ。だから、それは最適な理由になった。余は、もう二度とそなたをどこにもやるつもりがなかった」
吐き捨てるような語尾に、憎しみと怒りとがほの見える。
『エルゼヴェルト』はそれほどに憎しみをかきたてる存在らしい。
「王太子の元にそなたが連れ去られ……半年もせぬうちに事はおさまりつつあった。あれは、事の本質がどこにあるのかよくわかっていたようだった。まあ、そうでなくばこの国を治めることなどできまい。……巧みに実権を握り、私の周囲に統制を加えるようになっていた」
陛下を止めることはできない。陛下は何もなさっていないのだ。
だが、その周囲を止めることはできる。
陛下の手足となる人々、陛下の影響で動く人々を統制することで、事の沈静化をはかったのだろう。
「……………」
「そして、私は、そなたの心が王太子に傾きはじめていることを知った」
ある意味、それは当然だ。
泥沼な状況に投げ入れられていた幼い少女が、自分をそこから助け出してくれた相手に心を傾けぬはずがない。
ましてや、その相手は夫なのだ。想っても許される相手だ。
普通ならば。
「救いようのない私は、喜ぶより先に怒りを覚えたよ。そなたを奪われた、という思いが一層つのったのだ。それは、エフィニアのことを私に思い出させた」
「殿下は陛下の御子です」
「ああ、そうだ。……だが、私ではない。私にはあれがエルゼヴェルトと重なった……私からエフィニアをうばったエルゼヴェルトに」
「似ているところなどございません……殿下はユーリア妃殿下と陛下の御子です。エルゼヴェルトの血など一滴もひいていない」
「ああ、そうだ。だが、その事実もまた私の怒りをかきたてる……あれが一滴でもエルゼヴェルトの血をひいていれば、そなたを与えずともよかった」
陛下は笑う。
私はやりきれない気持ちになった。
「……今のこの事態に、陛下は関わっておいでなのですか?」
エサルカルの政変からはじまる帝国軍進攻にいたるまでの流れに、この方は何か果たす役割があったのだろうか?
だが、まさか、という思いしか浮かばない。
ダーディニアは、婚姻外交こそないものの別に鎖国をしているわけではない。
友好国は王都に大使館を構えているし、こちらからも派遣している。
だが、陛下は外交には積極的に携わっていないのだ。
「さて……余は、帝国やらエサルカルやらの匂いがする謁見者に多少のリップサービスはしたが、売国奴になった覚えはないな」
陛下が好んで許される謁見者は、音楽家や芸術家だ。
陛下は『芸術の庇護者』として知られている。普通、どこの国でも国王陛下への謁見はそれなりの身分でなくば叶わないが、ダーディニアでは、陛下の御心をひくような一芸をもっていればそれが叶う。
たとえ敵国と認識されている帝国人であったとしても、高名な音楽家、あるいは画家であれば許されるのだ。
(多少、身分が怪しくても)
「……何をされたのですか」
「何もしていないよ、ティーエ。ただ、あれらの使者を名乗る者の話を笑って聞いてやっただけだ。何度かうなづいてもやった。それだけで今のこの事態があるとしたら、その方が驚きだよ」
もし、そうなのだとしたら、帝国もエサルカルも随分と単純なことだ、と陛下は口元を歪める。
「余の身辺に帝国やエサルカルの手の者が入りこんでおることが不思議か?」
「はい」
陛下の身辺は、殿下の統制の下にあるのだとさっきご自身でおっしゃっていたはずだ。
エサルカルはまだいい。エサルカルは政変の前は友好国だったのだから。
だが、帝国は完全に敵国だ。特に、ナディル殿下は、帝国では悪鬼羅刹のような扱いだと聞いた。帝国にとって我が国は最大の敵国であり、我が国にとってもそれは同じだ。
敵国とのかかわりが疑われるような人間が、陛下の側近くに在ることが見逃されるとは思えない。
(我が国……)
自然にそういう発想が浮かぶこと、それがこのダーディニアを示すことに気付いて少し驚いた。
「余は、心底、政を疎んじているのだが、そうとは思わない人間が多くてな。権力というものはよほど魅力的なものであるらしい。できもせぬくせに、王太子から実権を取り戻してやるともちかけてくる人間が多いのだよ。王太子に実権を奪われ、それを取り戻したいと余が思っていると思い込んでおるのだ」
なぜ、余がそんな面倒くさいことをせねばならぬのだと、陛下は溜息をつく。
「余は、政に関わらぬ。そう決めておる。王太子には済まぬと思うことがあるのだ……だから、おかしな者がおれば、ちゃんと王太子に伝えもする。王太子はちゃんと知っていた。取り締まることばかりがすべてではない。顔がわかっているスパイなどスパイでも何でもない。ただの伝書鳩だ」
そう口にされる陛下を見ながら、やはり、この方は生まれながらの王族であるのだと思った。
政を厭い、それを公言し、ご自身で遠ざけているのにも関わらず、支配する者としての意識が根付いている。
「……そなたは、自分が何の為に生まれてきたのか考えたことがあるか?」
陛下の言葉に、私は目を大きく見開いた。
全身が震えた。
(ある)
私ははっきりきっぱりとそう答えられる。
というよりは、目覚めてからずっとそれを考えていた。
なぜ、私の記憶が蘇ったのか。
私がここにいる意味を知りたかった。
「私は、それを確かめたくて、賭けをはじめた」
「それが、私を挟んで殿下と対峙されることだと?」
「王太子を試そうと思ったのは確かだ。だが、それだけではない……ただ、そなたは、この国そのものを象徴しており、王太子は変革であり、未来から吹く風であり、新しい血だ。私は……変えようのないこれまでの歴史であり過去であり、王家の歴史に澱んだ汚濁そのものだ。
そなたという存在が唯一無二のものになってしまった時、私達が象徴するものに思い到り、運命の皮肉、のようなものを感じたものだ」
「運命、ですか?」
「ああ……人ではどうにもならない何か、計算や謀ではどうにもならない何か……私はそれに抗い続けてきたつもりだった。けれど、結局私がたどり着いたのは私が逃れたいと思ってきたその続きでしかなかった」
この方は、何に抗ってきたのだろう。
記憶のない私には、この方に対する何らかの思い入れや強い感情に欠けている。あるのは、アルティリエのもっていたその欠片と、どうしようもないやるせなさだ。
「陛下と殿下がなさってきた賭けの勝利条件は何ですか?」
陛下が一方的に賭け、と考えておられたとしても、殿下が気付いていなかったわけではないだろう。
ただ、殿下は、先延ばしにしておられたのだと思う。決着をつけることを。
だって、単純に決着をつけるのならば、本当は陛下を押さえてしまうのが一番良い。陛下を軟禁なり幽閉なりしてしまうのが最適なのだ。
それでも殿下はそれをしなかった。
「勝利条件か……」
陛下は、私を見て、小さく笑った。
私抜きで向き合ってくだされば良いのに、と思うのだけれど、それができないのがこの親子なのだとも思う。
断絶っぷりが酷すぎる。たぶん、二人きりにさせたら無言でそのまま朝までとか平気ですると思う。
何といっても、国王陛下と王太子殿下だ。どちらもスルースキルは最大限に鍛えられている。
「……もう、詰んだよ。そなたがここに来た時点で、王太子の勝ちだ」
「なぜですか?」
「私が勝負から降りるから……王太子が相手ならばいくらでも続けられるが、そなたとは無理だ」
陛下は、私の頭にそっと手をやる。
「私は、本当にそなただけは大切なのだよ」
陛下がそう心の底からおっしゃっているのだと、わかるのがイヤだった。どうしようもないやりきれなさが募る。
さんざん傷つけたのは自分のクセにと恨み言を言いたくなる。
「では、殿下でなく私の勝ちですね」
何だか悔しかったのでそう告げた。
「………え?」
「陛下が負けたのは殿下にではなく、私にですね、と申し上げたのです」
「ああ……余は、そなたに負けたのだな」
陛下は大きく目を見開き、そして、それならばゆるせる、と呟いた。
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2013.10.01 更新
見込みが甘くて、40では終わりませんでした。
まだ、続きます。すいません。