俺とレイが遅れて会議室に入ると、会議は既にはじまっていた。
細長いテーブルの最上座にナディルの椅子が置かれている。
その席に一番近い二つ……右側にアルフレート殿下が、左側にシオン倪下がすでに座っていた。共に略正装だということに含みを感じるのは、俺がナディル流の思考に毒されているせいだろう。
アルフレート殿下の隣に座っているのは、グラーシェス公爵の嫡子にして、ナディルやアルフレート殿下の実妹、シオン倪下にとっては姉であるアリエノール王女の夫であるディハ伯爵クロード=エウスだ。
(公爵が送り込んで来た使者がディハ伯爵とはね……こりゃあ、事態は相当進行してるってことだな)
ディハ伯爵が馬術に優れているということもあるだろうが、北方師団の派遣要請依頼を持って来たに違いない。
グラーシェス公爵は、殊更、儀礼にうるさい老人だからして、わざわざ自身の嫡子をもってして、この使者にあてたのだろう。で、ディハ伯爵の隣に座っているのは、その副官であるヴェスタ子爵。
ディハ伯爵の正面が、近衛師団長レーデルド公爵リィス=エデルでその副官のウィーリート公の姿が見えないのは、既に動いているからだろう。
そして、その隣がナディルの筆頭秘書官であるラーダ子爵カトラス=ジェルディアだ。
レイは俺の隣に座り、他にも俺には馴染の面々の顔が見られる。
俺も含め、ナディルの側近と呼ばれる者達……財務官ヴィグラード伯爵エーデルス=デーセル、書記官リウス子爵セレニウス=ファドル、ルイド伯爵ボーディウス=ラディエル、執政官ナルフィア侯爵ディーデルド=リフィウス……文官の主だった人間が雁首揃えて並んでいる。
武官の面々がここにいないのは、すでに動いているからだろう。
側近団のほとんどが、幼少時からのご学友というやつだ。
王族や高位貴族の子供には、必ずそういう人間がいる。
それほど年齢の変わらぬ貴族の男児が選ばれ、同じ教育を受け、寝食を共にする。
世間一般で言う、幼馴染に近い。
幼少時は、身の回りの世話係兼遊び相手として仕え、やがては側仕えの見習いをし、成人の後は側近となる。幼時から側近くで寝食をともにしていれば、自然、結びつきは強いものになる。
俺は、そのもっとも典型的な例と言える。何せ、俺の母親はナディルの乳母で俺と奴は乳兄弟。だから俺は、ナディルが生まれたその瞬間から、ナディルの側近になることが定められていたようなものだった。
我が家は爵位こそあるが、その実、それほど広い領地もなく、父が官吏として働くことでやっと生活が成り立つというような地方の田舎貴族だった。母はその正夫人だ。
貴族女性が働く事はあまり外聞のいいことではない。男に妻を家においておけるだけの器量がないとみなされるからだ。
だが、ナディルの乳母の募集があった時、母はそれに飛びついたし、幾つかの試験を経て、それが母に決定した時、父や祖父も含め家族全員が喜んだ。
高位貴族の子供の乳母というのは、とりたてて特別な能力の無い貴族女性が就いても恥ずかしくないとされるほぼ唯一の職だったし、乳母の給料というのはかなりの高額であり、お仕えする子供が成長すれば、我が子がその家来として取り立てられることは間違いなかった。
しかも、母がお仕えする若君……ナディルは、嫡長子で……いずれ家を継ぐだろう世継ぎの若君だった。
ナディルの生まれた時の名は、ナディル=エセルバート=ディア=ダーハル=ダーディエ。
そう。
当時、ナディルは王族ではあったが、王太子どころか王子ですらなかった。
『王子』……王の息子。
ダーディニアでは、王太子の子もまた王子と呼ばれるが、グラディス4世として即位なさった現国王陛下は、ナディル殿下が生まれた当時、王子ではあったが王太子ではなかった。
陛下は前王ラグラス2世陛下の第5王子で、母親の身分から王位継承権は一つ繰りあがって第4位。上に三人の兄がいた。
ダーディニアでは、高い王位継承権を持つ王子・王女は、兄姉が即位し、その継承順位がそれなりのところに下がるまでは王宮に留まる。それは、世継ぎ争いを起こさぬための安全策の一つだ。だが、陛下が王位を継ぐことなど当人をはじめ、周囲も誰一人として考えていなかった。
だからこそ、ダーハルという小国の公女にすぎないユーリア様を正妃とすることができたし、そろそろ30歳を迎えようという年齢であっても政務を伴うような公職には就いておられなかった。
いずれ自分より継承順位が上の兄らに子が生まれてその順位が下がれば、公爵位を与えられて臣籍に降下する。それが一般的なダーディニアの王子の身の処し方だ。
当人一代限りは大公と呼ばれ、その子供は『ディア』の称号を許されるが、以降はただの『公爵』となる。ナディルは、『ディア』の称号こそ持つがただの公子で、いずれは公爵となるはずだった。
(陛下もその日を心待ちにしてたそうだからな……)
音楽に造詣が深く、芸術を愛しておられた陛下は、当時から音楽家や芸術家の後援者として有名だった。実際、その方面に関しては並ならぬ才能と熱意とを持ち合わせており、当時陛下が後援していた芸術家の中には後に大成した者も多い。
反面、政治的な事にはまったく関心がなく、自身の荘園の管理などは家令に任せきり、家令は指示をユーリア妃に仰いでいたという。
それは陛下の美点であると周囲からは認識されていた。
継承権が高いだけで王位に就くことなどない王子だ。なまじ政治に興味をもち積極的に介入されることは誰にとっても喜ばしいことではなかった。
陛下は自身が臣籍に降下したら名乗る家名を既に『ノーヴィル』と定め、それを承認されてもいた。
(だが……)
思いもよらぬことが起こった。
まず、共に第一王妃の子供である第一王子と第二王子が外聞をはばかる事情によりほぼ同時に死んでしまった。
それは、今も真相が明らかにされない王家の大醜聞[で、王宮では今もなお、決して話題にされることがない。
ナディルが立太子し、その関係でこうして政の深くにまでかかわるようになった俺ですら、その真相を知らないくらいだ。その一件を脚色した芝居があったが、上演した劇場ごと潰されたほど。
それでも、陛下にはまだ同じ第二王妃腹の兄、第三王子のニーディス殿下がいた。当時の近衛師団の団長であり、その武名が他国にまで鳴り響くほど出来物の兄が。
(けど、不幸は手をつないでやってくるもんなんだよな)
その武勇優れたニーディス殿下が、市内を騎馬で巡回中に落馬し……それが原因で命を落とすとは誰も思わなかっただろう。
原因は、殿下の愛馬の耳に飛び込んだ虻一匹。
馬は殿下を振り落としたばかりか、思いっきり蹴り上げ、踏みにじった。暴走馬を取り押さえた時、殿下は既に息がなかったという。
(その結果……)
はからずも、当時第五王子であられた陛下は、第一王位継承権者となってしまった。
それは、周囲にとって……そして、当人にとっても、とても不幸な出来事だった。
まだ王子であった陛下は、「政治に興味もなければ、自身に正しい判断が下せるとも思えない。己には国を治める器量がない。このまま臣下にくだることをお認め下さい」と父王に奏上したとも聞く。
だが、それは認められなかった。
当時、陛下に次ぐ王位継承権第五位は第三正妃の生んだ生後3ヶ月のシュナック殿下で、第六位が8歳のフェリシア王女、第七位のエフィニア王女は更に幼かった。
その間に他の兄弟がいないわけではなかったが、ダーディニアにおいては、側妃ないし、愛妾から生まれた子供たちの王位継承権は、正妃から生まれた子供たちにはまったく及ばない。
(……だから、陛下は即位するしかなかった)
過去、幼児や女王が即位したことがなかったわけではない。
だが、それはやむをえなかった場合に限られている。
陛下は、側妃腹とはいえ文官として堅実な手腕を持つ異母兄アーサー王子に継承権一位を譲りたいと考えていたが、それは父王に却下された。
特例を認めてしまえば、それが前例となる。
ダーディニアの王位継承権は年齢性別にかかわらず、正妃から生まれた子供が優先する。その原則を崩すことは許されなかった。後の世で継承権争いの種となるような事例を作ってはならないと言い諭されたのだ。
結果として、王冠は、最もそれを望んでいなかった王子の下へと転がりこんでしまった。しかも、本人はまったく期待されていなかったにもかかわらずだ。
しかも、悲惨だと思うのは、それを本人も周囲も知っていたことだ。
王位についてからの陛下が、時々、常軌を逸したような我侭な行動をとるのは、そのせいなのかもしれない。
(ぼくは、しょうらい、がくしゃになってたいりくじゅうをまわるから、フィルはごえいでいっしょにくるといい)
(そーだな!おれはたいりくいちのけんしになって、ナディルをまもってやるよ!!)
そんなことを言っていた俺たちの環境は激変した。
陛下が立太子されると同時に、既に生まれていたナディルをはじめとする公子・公女には 『王の子[』の称号が与えられた。この場合は、後に王となることが定められた者の子という意味になる。
ナディルら兄弟は、王子・王女と呼ばれるようになり……そして、ナディルは次の王太子と定められた。
そう。ラグラス2世陛下は、息子であるグラディス4世陛下よりも孫のナディルに大きく期待していたのだ。
もし、ラグラス陛下があと10年……いや、5年長生きしていたら、玉座は、グラディス陛下を跳び越して直接ナディルに譲られていたかもしれない。
そして、その方がナディル以外の人間にとっては幸せな結果になったに違いない。
小さい頃からそばにいる俺はよく知っているが、ナディルというのは昔から物静かなガキで、三度のメシよりも読書が好きな本の虫だった。
図書室にいれば、時間がたつのも忘れて本に夢中になり、挙句の果てには気がついたら図書室に閉じ込められてる……なーんてことも、よくあることだった。
ユーリア妃殿下は、図書室の係の者に必ずナディルの居場所を確認してから図書室の鍵を閉めるように言いつけたという笑い話があるくらいだ。何事もなければ、ナディルは公爵位を継ぎ、好きな本に囲まれて、好きな学問三昧の日々を送っていたに違いない。
俺からすると信じられないことだが、ナディルは『勉強する』という事が好きで、苦にならない人間なのだ。実際に頭もいい。大学に入学するというだけで、それはもう証明されたようなものだった。
ラグラス2世陛下が、政にはまったく向いていない息子よりも孫のナディルに期待したのもうなづける話だった。
(だから……)
俺たちは、もうただの乳兄弟の幼馴染でいることはできなかった。
主とそれに仕える側近……元より対等であろうはずもなかったが、それでも幼い俺たちの間にあった特別な何かは消えさり、明確な線引きがなされた。
未来の公爵と下級貴族の乳兄弟がタメ口で話すことは許されても、未来の国王と下級貴族の乳兄弟がタメ口で話すことを、周囲は許さなかった。
他のやつらも一緒だった。
ナディルと俺たちの間には決して越えられない一線がひかれた。……かつてはたびたび踏み越え、対等に笑いあったこともあったが、それは遠い話となったのだ。
(そして……)
頭の良い子供だったナディルは、それをおとなしく受け入れた。
……受け入れざるを得なかったのだ。
ナディルの存在が、ユーリア妃殿下の地位に……そして、幼い弟や妹たちの未来に直結していた為に。
陛下が王太子となられた時、第一妃となる娘は四公爵家のうちから選ばれるだろうというのが宮廷雀たちのもっぱらの噂だった。
そもそも、ユーリア妃殿下は、陛下が『王位継承権第四位の第五王子』だったからこそ正妃として迎えることを許されたのだ。もし、グラディス4世陛下の継承順があと1つ上だったとしたら、どんなにグラディス陛下本人が望んだとしても、ダーハルのような小国の公女であるユーリア殿下は正妃となることはできなかっただろう。
しかも、この当時既に、ユーリア殿下の故国たるダーハルは帝国に併合され、妃殿下には何の後ろ盾もなかった。
その上、四公爵家にはそれぞれ陛下に差し出せる妙齢の娘がいたのだ。
ユーリア妃殿下にあったのは、ただグラディス陛下の愛情と、陛下との間に生まれた四人の子供達だけだった。
陛下がユーリア妃殿下を愛しておられることに疑いはない。だが、陛下が、四公爵から差し出される妃を拒めるとは誰も思っていなかった。それは妃殿下が一番良く知っていたに違いない。
実際、エルゼヴェルドを除く三公爵家からは後宮に娘たちが送り込まれた。
それが、第二王妃であるアルジェナ妃殿下であり、側妃であるアリアーナ妃とネイシア妃だ。
ユーリア妃殿下の幸運は、ナディルという子供がいたことだと誰もが言う。
ナディルはちょうどその頃、大学への入学を決めていた。
大学という機関は、生まれや血筋などはまったく斟酌しない。学術的才能だけが物を言う。
ラグラス2世陛下は、これから生まれるかもしれない血筋のよい未来の孫よりも、既に並外れて聡明だとわかっているナディルを選んだ。
ナディルを未来の王太子……ひいては、未来の国王にする為に、陛下はユーリア妃殿下を『王太子の第一妃』そして、いずれは、『第一王妃』とするように定められたのだ。
そうでなくば、ユーリア妃殿下の地位はもっと下……何番目かの王妃になれればよい方で、下手をしたら側妃とされていたかもしれない。
側妃というのは、妃とはつくものの、ようはただの公式に認められた妾にすぎず、そこに正式な婚姻関係は成立していないとされる。
アリアーナ妃とネイシア妃は、子供さえ生まれれば即座に正妃となることができたのだが、あいにくお二方には子供ができなかった為に側妃に留まっているだけで、ユーリア妃殿下が側妃に落とされる場合とはまったく意味が違う。
だから、もしそうなったとしたら、その妃殿下から生まれた子供たちは、当然、王の子[と呼ばれることはなく、側妃の子となってしまったことで、王族[という称号すら、理由をつけて剥奪されるおそれがあった。
ナディル自身は、学問で身をたてるつもりだったから、身分がどうなろうと構わなかっただろう。
だが、ナディルは、まだ幼い弟や妹たちを案じた。
だから、何一つ文句を言うことなく、未来の王太子となることを受け入れた。
……それは、ナディルが、手に届くところにあった自身の望んでいた未来を諦めた瞬間だった。
ナディルは、およそ挫折や失敗というものを知らない人間のように見えるが、そんなことはない。
ナディルもまた、まったく王位など望んでいなかったにもかかわらず、玉座につくことを定められてしまった人間であり、自身の望んだ未来を奪われた人間でもあった。
奴の口から、愚痴やら文句やらを一度も聞いたことがなかったけれど。
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糖分ない回があと1回です。
そして、やっと本編。
このへん書くのは私もいろいろ足りなくなりますが、ここを書かなければお話が結末まで行かなくなるので。……すいません。