閑話 侍女と大司教
私は神に祈らない。
神など何処にもいない。
ただ―――――罪だけが此処にある。
夕暮れの残光が、石造りの床に影を落とす。
聖堂というところはどういうわけかきまって薄暗い。昼間はもちろんのこと、夜ともなれば真の暗闇に閉ざされる。
母女神を光と称えるはずの聖堂が闇を内包する……かつて、私はその闇に怯える子供でしかなかった。
だが、今では私もその闇の住人だ。
金糸銀糸が縫い取られた重い聖衣をまとい、女神の薔薇香をふりまき、民を安寧に導く……そうなって初めて気付いた。
昏いからこそ、母女神の導きの光がいっそう輝く事を。
闇の中にあるからこそ、あんなにも美しく見える事を。
なるほど、聖堂は地上における神の家。効果的に印象付けるための工夫が幾つも施されている。
人の心をいかにして導くか……私はそれをこの闇の中で覚えたのだ。
(でも、この寒さだけはいつまでたっても慣れないな……)
薄暗い事も天井が高い事も、物音が響く事もさほど気にはしないが、この芯から凍りつきそうな寒さだけはどうにも我慢ならなかった。
建物が石で作られているせいもあるが、聖堂であるがゆえの天井の高さも無視できない。
何よりもここは王太子宮に附随した聖堂で、利用者はほとんどいない。その為、まったく火の気がないのが寒さの一番の原因だろう。
「……殿下……いえ、倪下」
密やかな声で呼びかけられる。
待ち人来たりて……私は、小さく笑みを浮かべて顔をあげる。
「リリア」
「大変、おまたせいたしました」
「いや、大丈夫だ」
久しぶりに会った乳姉妹は、以前よりもずっと快活そうに見える。
「……今回はお忍びでございますか?」
「そういうわけでもない。ただ、こちらに来たからと言ってすぐに父上や母上の顔を見る気にもなれなくてね」
君も知ってのとおり、私は母上が苦手だから。
そう私が言うと、リリアは困ったような表情を浮かべる。
「今の時間はお忍びということにしておいてくれ。……今の私はジュリアス最高枢機卿の使者に過ぎないから」
内緒だ、とそっと唇に指をあてるとリリアは小さくうなづく。
とはいえ、私が王宮に入ったことは兄上には伝わっているに違いない。
門を通ってここに入った以上、父と母の目を盗む事ができたとしても兄上の目を盗む事はできないだろう。
王宮に足を踏み入れることに問題があるわけではない。すでに王室を離れたとはいえ、私が王子である事実には変わりがない。
私は、王子の持つ特権……世俗のそれ……を手離し、代わりに聖なる特権を手に入れた。どちらがいいと一概には言えない。
大司教――――私の年齢を考えたら信じられないほどの地位だ。結局のところ、聖なる教会であっても俗世と切り離すことはできない。
望んで聖職者と呼ばれるようにはなったが、私はまだ神を信じていない。
「お元気そうで何よりです。もっとよくお顔を見せて下さい。ちゃんと食事はとっていますか?好き嫌いをされていませんか?」
「相変らずだな、リリアは」
私よりたった二ヶ月早いだけなのに、リリアは幼いころからまるで姉のように私に接した。
実姉のアリエノールよりも、リリアのほうがずっと私の世話を焼いてくれたものだ。
「三年ぶりでございますもの」
「……前はギヒニアに行くまえだったっけ?」
「はい」
物心ついてから私が神学校に入学するまで、私達はいつも一緒だった。
離れることなど思いもよらなかった……私の乳母であり、リリアの母であるハートレー子爵夫人が亡くなるまでは。
「ギッティスへの移動、おめでとうございます」
「ありがとう」
王都アル・グレアを含むこのギッティス教区の大司教とならなければ、私は今も北部の地方都市にいただろう。
私の年齢で大司教位を得るのは極めて異例の事だが、これまでは教区が地方の辺境に近いような都市であり、私が第一王妃の産んだ王の子であることから表立って反対をするような人間がいなかった。
だが、教区がギッティスとなるとこれまでのようにはいくまい。
ギッティス教区の大司教は別名を『王都大司教』。へたな枢機卿よりもよほど大きな権力をもつ。
「……兄上のご意向だろうけどね」
私がただ兄上と呼んだ場合、それは王太子である長兄を意味する。二番目の兄はアルと名前で呼ぶからだ。
私の教区の異動に関して、兄上の意思が働いているだろうことを私は疑わない。
アルは兄上を『死人すらコキ使う』と表したが、それは正しい。兄上は、いい加減、私が北部で逼塞して引きこもりをやっていることに痺れを切らしたのだろう。
兄上は怠惰を嫌う。手抜きやサボりを許さない人なのだ。
そして、近しい人間に対するほど厳しい。
「信頼されているのですわ」
「どうだろうな……信じてもらってはいると思うけれど、頼られているとは……ちょっと思えないねぇ……」
「それは仕方ありません。シオン様はわがままな駄々っ子ですもの」
「末っ子だからね」
私には異母弟妹がいるが、彼らのことはよく知らない。ほとんど接しないうちに教会に入ったので彼らの兄だと言う自覚がなく、いつまでも自分が末っ子のつもりでいる。
「……ところで、それは何?」
先ほどからリリアの持っている籠が気になっていた。
「ああ、これは、妃殿下が……」
「妃殿下……?アルティリエ姫?」
「はい。御前を失礼する許可をいただく時に、シオン様とお会いする事を申し上げましたので……そうしたら、これを」
「何だい?それ」
「…………おやつです」
「……は?」
「おやつですわ。最近、妃殿下はお菓子を作ることにご興味をお持ちなので」
「へえ……食べられるの?」
お菓子つくりを趣味とする貴婦人は少なくはない。それと、食べれるものができるかは別の話だ。
まあ、概ね食べれるものは、作っていると思い込んでいる当人の目を盗んで、菓子職人か料理人がすりかえていることが多い。
「召し上がってみてくださいませ。シオン様でしたら、即座に妃殿下に求婚したくなりますよ」
くすくすとリリアが笑う。
私が甘い菓子を今でも好む事を知っているからだ。
幼い頃、私は大好きなリンゴのプディングを作る菓子職人と結婚するのだと言って駄々をこねた事がある。結婚すれば毎日リンゴのプディングが食べられると思っていたのだ。
リリアは、信徒席の上に深いグリーンのストライプの布を広げ、籠の中身をだす。
「どうぞ」
渡されたカップからは湯気が立ち上った。
「温かい」
ちょっと驚いた。来る直前にいれたとしても、ここまでこの暖かさを保てる事が。
「これです。この布の中に軍で使ってる水筒の大きいものが入っているんです」
「へえ……」
「冷めにくいようにと妃殿下がカバーを作られて……」
軍の水筒は飾り気のない金属製だ。そのままでは熱くて持てない。冬ともなると布で包んで、湯たんぽがわりに使うこともある。
しげしげとそのカバーを見る。中に分厚く綿をいれ、水筒にぴったりな袋状。今度、教会でも作らせてみよう。
「……おいしい。これは何?」
紅茶をアレンジした飲み物だということはわかった。
ほんのりと甘く、紅茶とミルクの味がとても強い。そこにシナモンと何か香ばしい風味が添えられている。
「妃殿下は『チャイ』と言われました。古い文献で見つけた飲み物でダーディニア風にアレンジしたとか……殿下は古い文献のお料理などをよくご存知なのです」
「へえ……」
身体が芯から温まる飲み物だった。紅茶の味を消さないシナモンやおそらくはちみつだろうほのかな甘味が絶妙だ。それにまったくミルク臭くない。
「こちらは、クッキーとパンケーキサンドです」
「パンケーキサンド?」
「パンケーキを小さめに焼いて、クリームを挟んでいるんです」
薄い蝋紙にくるんだ、パンケーキサンドを受け取る。
綺麗に丸く焼かれたパンケーキの間に何か黄色いクリームがはさまっている。
私は薦められるままに口にした。
王室に生まれ、大司教の高位にある今も毒物には注意を払わねばならない身の上ではあるが、リリアが薦めるものに間違いがあるはずがなかった。
「おいしい」
素直にその言葉がこぼれる。
卵とミルクの味がするクリームは、ちょっとだけリキュールがたらしてある。それが、アクセントになっていて、この菓子を特別なものにしている。
「クリームの味が違うんです」
「うん。……なるほど、これはちょっとすごいな。確かに、求婚したくなるね」
この味が毎日食べられるなら、私も結婚を考えてもいい。
国教会の高位聖職者は、修道の誓いをたてている独身主義者が多いが、別に婚姻は禁じられていない。ルティア聖教において、婚姻は聖なるもの。母女神の祝福なのだ。
ただし、司教以上の高位聖職者の子供は親が聖職にある限り叙階を許されないという決まりがある。つまり、高位聖職者の子供は聖職者にはなれない。世襲を許さない仕組みだ。
「兄上にはもったいない」
心底そう思う。兄上は味オンチではないが食べ物にさほど関心がある人ではない。きっと、この素晴らしさがわからないだろう。
……何しろ、三食とも軍の携帯糧食でもいいという人だ。事実、晩餐会でもなければ、携帯糧食と水で食事を済ませてしまう人なのだ。
「だから申し上げたじゃないですか、シオンさまが求婚したくなるような味だって」
「本当にね」
よくよく味わうと、生地にも何か工夫があるようで、香ばしい味がしている。
「見た目は一緒ですけど、味は三種類あるそうですよ。それは後程確かめてくださいね」
「楽しみだね」
カップに注がれる飲み物。リリアもおかわりを口にする。
「こちらのクッキーも今召し上がります?」
「一枚だけ」
大き目に焼かれたクッキーを手にすると、なんだか、頬がゆるんだ。
甘いものを食べると心がほっとする。だからこそ、私は菓子が好きなのかもしれない。
「何だい?」
「いえ……そんなお顔を久しぶりに拝見したと思いまして」
「仕方ないだろう。……好きなんだ、甘いもの」
大人になれば味覚は変わるといわれたが、甘いものを好む嗜好は変わらなかった。
教会への喜捨物に砂糖が多いのもそれに拍車をかけたかもしれない。
これまで幾つかの聖堂に赴任したがどこの聖堂でも、修道女や修道士達が喜捨された砂糖を使って独自の菓子やらジャムやらを作って売っていたので菓子に不自由したことがなかった。
幼い頃は甘いだけで喜んでいたものだが、今ではいろいろな味を知ったせいかちょっとうるさくなったかもしれない。
手にしたクッキーは、見た目は、どこぞの農家で軽食代わりとして焼かれるような素朴なクッキーとそうかわらない。
(あ……)
だが、口にした瞬間、それがまったく別物なのだとわかった。
「……本当にもったいない」
思わず溜息をついてしまう。
何種類ものシリアルやナッツに干しぶどうが入っているそれはいかにも腹持ちが良さそうだ。
クッキーにしてはずっしりと重い。クッキー部分はさっくりとシリアルはぱりっと焼けていて、ナッツ類の香ばしさと干しブドウの甘味が絶妙だった。
「リリアも食べなよ」
「いえ、私はもう……作っている時にたくさんいただきましたので。……クッキーは一週間くらい。パンケーキは明日くらいまではおいしくいただけるそうなので、残りはお持ちくださいね」
「ありがたく」
「……どなかに差し上げる時は妃殿下のお手製ということは内緒にして下さい。これを作るのに台所に入られているんです」
「ああ……兄上にバレたら怒られそうだね」
「はい。……それに、台所にいる時の格好を知られたら……」
リリアの視線が泳いだ。
「何?そんなかわった格好をしているの?だいたい、よく、王太子宮の料理人が台所にいれたね」
王太子妃宮の厨房は、私がまだ王宮にいる時に騒ぎがあって閉ざされたはずだ。
兄上が携帯糧食でほとんどの食事を済ませるような人なので王太子宮の料理人の数は少ないだろうが、それでも姫を台所にいれるのは難しいだろう。
「料理長は妃殿下の新しい侍女だと思ってます。……台所の洗い物をしている下働きの少女と同じ格好でしたし……」
「それは……まずいねぇ・……」
「わかってます。今回だけに決まってるじゃないですか。……何かあったらただじゃすみませんもの」
リリアは胃が痛みます、と溜息をつく。
兄上が知ったらきっと怒るに違いない。あの人は、変なところで過保護だ。
先日、アルにボヤかれたが、姫がエルゼヴェルト領に里帰りしていた時はそりゃあ大変だったらしい。墜落事故や意識不明や毒殺未遂やらの情報が錯綜していたのだから気が気ではないのはわかるが、その怒気のおそろしさに誰も何も言えなかったそうだ。
兄上は姫に対して特別な関心はないのだが、不憫な子供だとは思っていて、自分が保護することを決めている。その相手が傷つけられたら、きっとただではすまないだろう。
けろっとして無傷で帰ってきた姫を危うく怒鳴りつけるところだったらしいが、鉄壁の猫かぶりで事なきを得たらしい。12歳の女の子が、兄上に怒鳴りつけられたら絶対にトラウマになる。賭けてもいい。
「うまくやっているのだね……」
私は苦笑する。その中に淋しさが混じっていることは秘密だ。
リリアが私の絶対の味方であることを知ってはいても、こうして子供みたいな独占欲を覚える。
「勿論です……と、言いたいところですが、妃殿下が記憶をなくされなければ今のようにはならなかったでしょう。ご記憶をなくしたせいで妃殿下は随分と明るくなられましたので」
「良いというべきか、悪いというべきか……」
私達は会えなくなった分を手紙で埋めているから、おおまかな事情くらいは知っていた。
そもそも、アルティリエ姫が人形のようになってしまった理由を、私は薄々察していた。確証はなかったが……。
だからこそ、私はリリアを王太子妃宮へと送り込んだのだ。
私は、誰にも何も言えなかった―――――言えぬまま王宮を逃げ出した私には、できることはほとんどなかった。
何も言わずとも私の望みを叶えてくれる者は、リリアしかいなかった。
「姫を頼むよ、リリア。……もし、彼女に何かあったら、ダーディニアは内乱になる」
「承知しております」
リリアは深々とうなづく。
それは、大げさなことではなかった。
アルティリエ姫こそがエルゼヴェルトの暫定相続者であることはほぼ確定している。
王位は男児優先相続であるが、それ以外の爵位は一部の例外をのぞき男女を問わないことが多い。姫が二人子供を産めば、必ずどちらかはエルゼヴェルト公爵位を継ぐことができる。
逆を返して言えば、姫が子供を産まなかったら公爵位は宙に浮く。
「今がどんなに危険な状態か……理解している人間がどれだけいるだろうね」
東のエルゼヴェルト、西のフェルディス、北のグラーシェス、南のアルハン、……四大公爵家とか四公家と呼ばれるこれらの家は、それぞれがダーディニアの四方……各方面の地方諸侯をまとめた連合の盟主でもある。
公爵家の世継ぎ問題は、エルゼヴェルトという一つの家、一つの一族の問題ではない。
国家の枠組みで考えた時、エルゼヴェルトは東部の盟主であり、王家に対して考えた時、四公爵家の一角である……二重の要なのだ。
王家はアルティリエ姫の子供を通じてエルゼヴェルトと王家とを密接に結びつける事は望むが、エルゼヴェルトを王室領として併合するわけにはいかない理由がここにある。
「一番危険なのは当代エルゼヴェルト公爵が亡くなり、妃殿下がまだ子供を産んでいないという状態が出現した時ですから、まだマシですよ」
「あんまりうれしくない指摘、ありがとう」
実を言えば私は、アルティリエ姫と兄上が離婚して、姫がエルゼヴェルトの世継ぎとなることが一番だと思っている。……あの男のせいで、父上が絶対にそれを許さないが。
「……変な話ですが、もし、今、妃殿下がお亡くなりになるようなことがあったら、誰が相続人になるんですか?」
「純粋に国法に沿うなら、エルゼヴェルト公爵の実弟妹となる。が。知ってのとおり国内に残った公爵の実弟妹は亡くなっていて嫡出子もいなかった。庶子ならばラザス大司教がおられるが、あの方は学術肌であるし、そもそもが庶子だから相続権がない。
そうすると、もう一代遡った公爵の実弟妹が対象となる。彼らは既に亡くなっているからその子供だね。……で、そうなると、父上と当代グラーシェス公爵と先代フェルディス公爵が対象になるんだ。勿論、この三者はそれぞれ継いでいる家があるから公爵位は継げない。だが、その嫡出子には等しく全員に権利がある。私が内乱になるというのは、そのせい」
等しくというところが問題だ。等しい為に互いに争う。しかも、そこまで遡ると対象が多くなりすぎる。
自分が継げぬことは我慢できても、他者がそれを手に入れることは許せないのが人の心というものだ。
「…………決着つかないでしょうね」
「だろうね。……これが他の貴族なら、家を潰して爵位を返上。領土や資産を三分割というのもありだけど、四公爵家にそれはできない。……だから、もし、今、アルティリエ姫が亡くなることがあったら、公爵は自分の意志がどうあれ離婚して子供を作るしかないね」
そして、子供ができぬまま公爵が死ねば再び内乱コース一直線だ。
リリアは私が何を示唆したかわかっていたので、何も言わなかった。
「……だから私はあの男が最低だっていうのだ。皆、彼を有能だというけれど、あの男はそもそも最低限の義務を果たしていない」
世継ぎを作るのは貴族に生まれた男の最低限の義務だ。その為に、冷静に考えれば非人道的なことをどこの家だってさんざんしてきているし、そんな話はどこにだってある。
伯母上の話が有名なのは、伯母上が世継ぎを産める身でありながら、ないがしろにされたからだ。
「私はね、リリア。エルゼヴェルト公爵が伯母上……エフィニア王女を悲嘆のうちに死なせたことはどうでもいいんだ。私は兄上達と違って伯母上の事をよく知らないから。
……だってさ、ちょっと考えてみるといい。あの話は伯母上の立場から見るから最低に見えるのであって、ルシエラの側から見たら、どんな困難をも乗り越えて絶対の愛を誓ってくれた最高の男ということになるんだよ」
一族の反対、社会の反対をものともせずに、身分の差を乗り越えて妻にまでしてくれたのだ。まるで、流行の恋愛小説を地でゆく。
「それこそ女性向け流行小説の世界だ。……だが、私はそんなことはどうでもいい。所詮、私事にすぎない。だが、あの男は、ただ一人の女の為に国を内乱に導く種をまいた。あの男が私事を優先して最低限の公人としての義務を果たさなかったせいで、今のこの状態があるのだ。せいぜい、あの男には長生きしてもらわねばなるまいよ。せめて、姫が二人の子供を産むまでね」
惚れたの何のと言うのなら、義務を果たしてからにするべきだろう。
「でも、私にとって一番腹だたしいのは、姫にとって一番の危険が、そういった理屈をまったく無視したところにあることだ……」
そう。
……たぶん、私以外は誰も知らぬ危険。
姫は確かに狙われている。
例えば、他国からの……帝国あたりの刺客もいるかもしれないし、エルゼヴェルトの継承をめぐって四公爵家の他の家から狙われているかもしれない。
だが、一番危険なのは、それらではないのだと断言できる。
本当は兄上に話すことさえできれば問題の大半が解決するに違いない。
けれど、私は兄上にすらそれを言えない。
恐ろしいからだ。
口に出して、それを真実にしてしまうのが恐ろしい。
「シオンさま」
何かを決意したようにリリアが私を呼んだ。
「何だい、リリア」
私は微笑を浮かべる。聖職についてから、常に浮かべるようになった微笑み。
それが母によく似ていることに気付いた時は、吐き気を覚えた。
「エルルーシアが死んだ毒は、母と同じものでしたわ……」
リリアが呟くように告げる。
手紙に書かれることのなかったその事実。
「そう……」
(やはり……)
「……まだ、お話、いただけませんか?」
「……………ごめん」
王宮に在る闇……その奥底で蠢く昏きもの。
私はそれを知っているが理解してはおらず、誰がそれを理解しているのかを知らない。
もしかしたら誰にも理解できないのかもしれない。
ただ、罪はそこに在り、それは、告発できぬ私の罪でもある。
「……いいですわ」
見捨てられたような気がして思わず顔をあげるとリリアはわらっていた。
「無理して聞き出したりはしません。シオン様が私にお話になれないのには、なれないだけの理由があるのでしょうから。……お気になさらないで下さい」
リリアの笑みに安堵し、すぐに不安がおそった。こんなにあっさりと諦めるのはいかにもリリアらしくない。
「リリア、危険なことは……」
「致しませんわ。……ただ、私は妃殿下をお助けするだけです。その結果、真相にたどり着くことがあるのかもしれません」
「……何をするつもりだ?わかっているだろう?どこで誰に見られているのかわからないんだ」
「危ない事はいたしません」
「危ないかどうかを判断するのは君ではない。そして……」
「そして……何です?」
強い目線に促されて、私は口にする。
私はリリアにかなわない。
「……アルティリエ姫にこれ以上近づいてはいけない」
リリアは答えない。答えない代わりに笑みを見せる。
「リリア、本当に危険なんだ!」
「矛盾しておりますわ、シオンさま。妃殿下をお守りせよと最初におっしゃったのはシオン様です。なのに、これ以上は近づくななどと……私は妃殿下の女官ですよ」
「矛盾しているのはわかっている。わかっているんだ……だけど……」
リリアが駄々をこねた子供を宥めるような眼差しを私に向ける。
「シオン様、私はシオン様の乳姉妹ですわ」
「わかっている」
「でも、アルティリエ妃殿下の女官ですの」
「リリア……」
「シオン様を大切に思う気持ちは変わりません。ずっと思いつづけるでしょう……乳姉妹ですもの」
「だったら……」
リリアは綺麗に笑う。そして、首を横に振って私の言葉を遮った。
「今、私のお仕えしている主はアルティリエ妃殿下なのですわ……シオン様」
私はいつものように笑った。うまく笑えたかはわからない。
「……私は君に見捨てられたのかな、リリア」
「いいえ、シオン様」
「だったら、どうして……」
「私はずっとシオン様の味方ですわ。できる限りのことをしてさしあげたいと思っております。……でも、優先するのは妃殿下です」
「なぜ?」
「シオン様よりも、妃殿下の方が危なっかしいので」
その回答にちょっとだけ気が抜けた。
「危なっかしいのかい?」
「はい。……記憶をなくしたせいで、何が危険かそうでないかわかっておられません。それに、妙な行動力もおありで」
「妙な行動力……」
私は心底困っている様子のリリアに、つい笑ってしまった。
「笑い事ではありません。危険には近づかないと約束して下さいましたし、12歳とは思えぬ落ち着きと思慮と分別をお持ちですが、どうにも危なっかしいんです」
「……姫は、随分と変わったのだね」
人形姫と呼ばれてた姫がそんな風に言われるようになるとは、何とも不思議なことだった。
リリアが影ながら人形となってしまった姫に心を配っていた事を知っている私としては、報われて良かったと思うべきかもしれない。
「はい。……でも、本当は変わったのでも何でもないのかもしれません」
「どういうこと?」
「記憶を失ったせいで、単に妃殿下を縛っていた枷がなくなっただけ……今の状態が妃殿下の素の状態とも考えられます」
「なるほど、戻っただけってことか」
「今となってはもう、そんなことはあまり関係ないのです。……妃殿下は妃殿下ですから」
そして、リリアは笑って付け加えた。
「……シオン様が、王子であろうとも、大司教であろうともシオン様であるように」
「リリア……」
私はリリアを失ったわけではないことに安堵する。
己の単純さが愚かしく、そして愛しい。
リリアにそう言ってもらえる限り、私は私を見捨てないでいられるだろう。
―――― 時に、吐き気がするほどの嫌悪を覚えたとしても。
「私、そろそろ戻ります。シオン様は、王太子殿下の元に行かれるんですよね?」
「ああ」
リリアは手早く片付けを済ませると、私にお菓子の包みを押し付けた。私はそれを聖衣の懐にしまう。白地に金糸銀糸で聖句や母女神の紋を縫いとったゆったりとした衣には物を隠す場所がいっぱいある。
「先に参ります」
「うん」
私とリリアが王太子宮のこの小さな聖堂で会っていたとしても不思議に思う人間はいない。
だが、今日は父上と母上のところに挨拶に行くつもりがなかったので、リリアと会った事がわかるとリリアの立場が良くないことになるだろう。
「…………そうそう、シオン様、ダメですよ。こんな誘導に簡単にひっかかっては」
聖堂の入り口で立ち止まったリリアが振り返る。
「え?」
「今のこの時期、王太子殿下の元にジュリアス最高枢機卿殿下からの使者で新任のヴィッティス大司教がいらっしゃるなんて、勘繰ってくれといってるようなものですわ」
「あ……」
神の国の昏い闇の中を歩き回り、一人前の住人になったつもりでも、私はリリアにはまだまだ及ばない。
「私に気を許して下さっているのは嬉しいですが、お気をつけて下さいね」
「ああ」
「明日以降に女官たちの間にはそれとなくひろめておきますわ。……シオンさまが新任のご挨拶がてら、王太子殿下におねだりにきたようだって」
「……何をねだったらよいだろうか?」
「ヴィッティス大聖堂の信徒席の改修費用なんていかがですか?去年、妃殿下の代参で参りました時のベンチのボロさ……失礼、古さに驚きましたもの」
「……そう。じゃあ、そうしよう」
リリアがこう言うからには、兄上は何も言わずに用立ててくれるだろう。
あの方は神を信じていないが、だからといって喜捨を惜しむ吝嗇家でもない。相応の理由があればちゃんと出してくれる。信徒席の改修なら文句はないだろう。
「リリア……」
ドアに手をかけたリリアを呼び止める。
「はい」
ドアから差し込む夕暮れの残光の中でリリアが振り向く。
私は、眩しくて目を細める。
「……君は、神を信じるかい?」
「いいえ」
静かな声音。
「……シオンさまは信じますか?」
「いや」
聖職者にあるまじき答え。
私達は互いに小さく笑った。
私は神を信じない。
神など何処にもいない。
ただ―――――私の祈りだけが此処にある。
2009.05.23 初出
2009.06.10 手直し
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おまけ 王太子と大司教
「……なんだ」
私が最高枢機卿から預かった書面に目を通していた兄上が顔をあげる。
思わず強く見つめすぎたらしい。
「……いえ」
別に怒られているわけではないのだが、この人にまっすぐと見られるとどうも居心地が悪い。幼児体験のせいだろうか……。
「そういえば、アルティリエ姫とはどうですか?事故で記憶がないと聞きましたが……」
話を変える事にした。下手なことを言って薮蛇になるのも困るので、一番無難な話題を持ち出す。
「……問題ない」
(なんだ?今の間は)
「本当に?」
「何が言いたい?」
兄上は完全無欠の鉄面皮だ。感情と言うものを極力出さぬように自分をコントロールしているといえば聞こえがいが、私が思うに感受性に問題があるのだと思う。
「いえ。兄上が姫を必要としないのでしたら、私が父上に願い出ようかと思いまして……」
「何を?」
「私の妻に、と」
兄上は思いっきり怪訝そうに私を見る。
「別に兄上に内緒で浮気なんかしてませんよ」
「当たり前だ」
「ちょっと姫の作ったお菓子にKOされまして……」
「……なるほど」
そこで納得されるのが不思議だ。
(あれ……?)
納得したということは、兄上も姫の作ったお菓子がおいしいと思っているということだった。
私は思わぬことに新鮮な驚きを覚え、それから、小さく笑う。
「なんだ?」
「いえ……兄上のそのいつもの冷ややかさだと、12歳の女の子はさぞ怯えるだろうと思いまして」
「ああ。……そう言われた」
(あ、やっぱり)
「言われた?」
「そうだ。だが、これが私の普通だと言ったら……慣れるように努力すると言っていた」
「姫がですか?」
「………ああ」
何か問題でも?という表情で兄上が私を見る。
「お変わりなりましたね」
「そうだな」
兄上は誤解したようだったが、私が変わったと言ったのは兄上だった。幼い子供と会話が成立するような人ではなかったが、どうやらまっとうに話をしたことがあるらしい。
これまでの目の前にいながら音信不通状態を脱却したのは大きな第一歩だろう。
「あれは変わった。私のように空虚な人間には人形が相応しいかと思っていたが、あれはもはや人形ではないようだ」
「兄上……」
「不憫なことだが、あれは私の妃だ。諦めてもらわねばなるまい」
自嘲げな笑みでありながら、卑屈さは欠片もない。
兄上はどこまでいっても兄上だった。
兄上がこんなふうに姫をちゃんと認識して気遣っているのを初めて見たかもしれない。
「……もしや、所有権を主張されてます?」
兄上は首を傾げる。
「おまえの言う意味がわからないのだが」
「いや、私の妃だとあまりにも強くおっしゃるもので」
「……事実だが?」
「いや、そうなんですけどね」
どうやら当人には自覚がないらしい。
(へえ……)
私は何だかおかしくなって笑みをもらす。
「返事を書くまで、しばし待て」
「はーい」
「語尾を伸ばすな」
「はい」
兄上は相変らずだった。
だが、以前とは違う事にも私は気付いていて、そのことが嬉しかった。
ふと、いたずら心がわいて問いかける。
「……兄上は、神を信じますか?」
「いや」
予測通りの即答だった。
「一応、兄上は将来の国教会の最高権威者になられるのですが……」
「わかっている。だが、私は気まぐれな神の御手などより人の力を信じる」
「知っています」
「宗教の最高権威者は、自身が信者であるよりも、信者を庇護する者である方がいいというのが私の持論だ。狂信的に何かを信じる人間がトップにあるのは危険すぎる」
「そうですね」
父も母も熱心な信者なのだが、私達兄弟は姉を含めても熱心とは言いがたいだろう。
母女神に縋るには、私達はあまりにも現実的な計算が働きすぎるのかもしれない。
(……ああ、でも……)
考えてみれば、実質的に私達兄弟を育てたのは兄上なのだった。
兄上を見ていて母女神への信仰心が芽生えるとは思えない。
「おまえは、神を信じるくらいなら私を信じておけ」
傲慢なまでの物言い。
滲み出る、その覇気とも言うべきもの……。
「はい」
(私の陛下)
私は笑みを浮かべてうなづいた。
兄が私に示す未来[こそが、私にとっての導きの光だった。