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ドキドキしていた。
かつてない緊張というやつだ。
初めてこちらで目覚めた時も、初めて公爵に会った時も……いや、考えてみればこっちにきて緊張なんてしたことがなかった。パニくってただけかもしれないけど。
まあ、元々の性格が楽観的で細かい事を気にしないせいもある。
でも、さすがにその私も今はちょっと緊張してる。
昨夜遅くに王都に帰りついたばかりなのに、起こされる前に目が覚めた。身支度だって、侍女達がものすごく着合いいれて整えてくれたの。
(初めて、王太子殿下に会うし!初対面だよ)
今日は、朝の挨拶に代えて、国王陛下に帰還のご挨拶をする予定。そこには、王太子殿下が同席する。
前のことはまったく覚えていないから、私にとってこれが殿下と初めて顔を合わせる機会となる。
(どんな人なんだろう……)
気になってはいたのだ。だって、仮にも夫だし。
折に触れ、こっそりと王太子殿下の人物評を収集して来たけれどよくわからなかったというのが本当のところ。
だって、みんな言葉は違えど一律同じこと言うの。
美しく、聡明で、武勇に優れ、ヴェラであらせられる王太子殿下。
既に国政に参画し、次期国王として完璧な才能を持つ天才。
眉目秀麗、冷静沈着、文武両道……褒め言葉ばかりが出てくるよ。
ありえないでしょ!と突っ込みたくなった。そんな完璧な人、いないよ。絶対に猫かぶってるね!
(それに、他に愛妾なり妃なりがいないことも不思議なんだよね)
ダーディニアの国王は四人の妃を娶ることができる。
第一王妃から第四王妃まで。これ、昔は四公爵家から一人ずつ妃を出していた名残。近年は諸事情により、四正妃の座が全部埋まる事はあまりない。
それでも、今の国王陛下は二人の王妃と二人の側妃と三人の愛妾をお持ちだ。
側妃であるお二人はそれぞれ入宮の時期と家柄からいえば第二王妃、第三王妃となってもおかしくないのだが、子供がいないので側妃のまま留め置かれた。
王妃と側妃では、宮の規模や使用人の数、その他の予算からしてまったく違う。どのくらい違うかリリアに聞いたら、単純計算で倍だって。勿論、生家の援助もあるので表面上の生活ぶりからは計れないことではあるけれど。
王太子ならびに王子方は妃とすることが許されるのは一人だけだが、愛妾を置く事に問題はない。特に王太子は、いずれ国王となった時に側妃になおすこともできるし、家柄が許せば王妃とすることも可能だ。
王太子妃たる私が幼すぎて、妃としての責務……平たく言ってしまえば、世継ぎを生む為の夜の生活ができない以上、王太子殿下に決まった女性がいないことが不思議だった。
(27歳の健康な成人男子が!)
そう思ってたら、一人諜報部員みたいなリリアによれば、某侯爵未亡人やら、某男爵夫人やら、あるいは花街の高名な聖女……いわゆる高級娼婦を言う……達なんかのあとくされのないお相手とそれなりに楽しんではいるらしい。
表向きは聖人君子のような王太子殿下だが、別に真面目一方の堅物というわけではないということがわかってちょっとほっとした。
「王太子殿下は、妃はお一人でいいと常々おっしゃっており、これまでに幾つかの縁談をお断りになっています」
「男色ってわけじゃないんでしょう?」
戦国時代のお殿様の大半に男色経験があることを考えれば不思議じゃないと思って口にしたら、リリアにものすごい目で睨まれた。
「ありえません!……男色というのは、まったく存在しないとはいいませんけど、国教会により禁じられているんですよ!」
え、教会ってそういうのの温床な気がするけど。
……でも、リリアが恐いから、言わないでおく。
「……ロリコンっていうわけじゃないんだよね?」
ロリコンだったら、一番危険だよね、私。
いや、妃である以上、手を出されても何も言えないんだけど。
「ロリコンとはどういう意味ですか?」
ごめん、これはこっちの言葉にはなかったか。
「……幼女に性的欲求を覚える類の男性のことよ」
「絶対に、違います!」
リリアは顔色を変えて否定した。
とんでもないことを聞いたとばかりに悪魔除けの聖印を切る。
「そうよね……あとくされのないお相手とは遊んでるんだもんね。でも……だからって別に私を特別に大事ってわけではないのでしょう?」
「はい。言葉を飾らずに申し上げれば、王太子殿下は妃殿下に対してエルゼヴェルトの相続人として以上の価値を認めてはいませんでした……私見ですが」
この会話からもわかるだろうけど、王都までの帰途の間に、私はリリアを共犯者にすることに成功していた。
共犯者っていうか……味方っていうか……うまくいえないけど、そういうの。
だって、私一人ではできることなんか限られているから。
リリアは、いつも影のようにそばに控えてくれている。
特に、墜落事件の後は責任を感じてか私から目を離さない。その目をごまかして何かすることはほとんど不可能だ。これからのことを考えたら、リリアを味方にしなければ何もできないと思ったし、いろいろ考えたけど、私はリリアが信じるに足ると判断して、正直な事情を話した。
さすがに、33歳の異世界人の記憶があることだけは言えなかったけど、それ以外は全部。
墜落事件で目覚める以前のことはまったく覚えていない事。必要な知識が時々、記憶の底から浮かび上がってくることがある事。口を開かなかったのは、声がでなかったのではなく状況を観察していた事……元々、違和感を覚えていたというリリアはそれらの事実をすぐに納得してくれた。
私がすらすらしゃべるのにもの凄く驚いていたけど。
その上で協力を求めたのだ。
このまま、ただ狙われつづけるのは嫌だと。
墜落事件とエルルーシアの事件を調べて、犯人に思い知らせてやりたいと。
リリアは当初、難色を示した。私の身を案じての事だ。
だから私は自分から危険に飛び込むつもりはない事とこの手でどうこうすのではなく、事件の全貌を明らかにして本当の犯人を法廷に送ってやりたいのだと告げた。
絶対に一人にはならないことと、何でもリリアに相談する事を条件にリリアは私の味方になることを約束してくれたのだ。
……気心がしれたといえば聴こえはいいけれど、何かいろいろ容赦なくなった気がする。
「もちろん表面上はお優しかったですよ。妃殿下を気にかけ、誕生日の贈り物は欠かしたことがございませんし、妃として大切に遇されていました……どんな時でも儀礼の域からは一歩も出ませんでしたが」
「そう」
まあ、そんなところだろう。
人形姫と呼ばれるほどに周囲を拒絶していたアルティリエ……今のところ、例外がいたような様子はない。そして、その聡明さを誰もが誉めそやすような男が、そんな少女に特別な価値を認めるとは思えない。たとえ、定められた妻だったとしても。
でも、よくできた王子様は幼い少女を無駄に傷つけるような真似はしなかった……立場をちゃんと慮ったとも言える。私の母のこともあるし、民の評判もある。
何よりも、アルティリエは彼にエルゼヴェルトをもたらす存在だ。
「でも、政略結婚ってそんなものじゃないのかしら?」
そう。政略結婚なのだ。
彼と恋人同士なわけじゃなし、恋愛するわけでもない。
ましてや、12歳と27歳。今すぐ男女間のドロドロに巻き込まれたりはしないだろう。
お互いに思いやりをもって接し、互いの立場を守って生活できれば十分じゃないだろうか。
「……なぁに?」
「いえ……本当に記憶がおありではないのですね」
半ば感心したようなリリアの声音。
「どうして?」
リリアがなんでそんなことを言い出したのかわからなくて首を傾げる。
「……記憶喪失と言われても、日常的には特に記憶がないようにはお見受けしないんです。何しろ、妃殿下は必要最低限を満たさぬほどまったく口を開かなかったですし、何をお考えかは誰にもお話になりませんでした。お声を失っていたと思っていたあの時だって、声についてはほとんど皆気にしてなかったのです」
必要最低限を満たさないって……すごい言われようだ。
でも、だからこそ、こんな風に私が話しているのがとても新鮮で、そして、だからこそ記憶がないことが信じられるという。
普通、女の子はおしゃべりが大好きなものだが、アルティリエは自由時間は、本を読んでいるか、勉強しているかがほとんどだったそうだ。
「長年、妃殿下の家庭教師を務めていたルハイエ教授とは言葉少なにでしたが、意見交換などもなさっておりました。お年こそ離れておりましたが、教授が妃殿下と一番近しかったと思います」
「その教授はどうなさったの?」
「残念ながら妃殿下がこちらをご出立前に風邪をこじらせてお亡くなりに……お年を召した方だたので……家庭教師の後任はまだ決まっておりません」
リリアは悲痛な表情をする。
「残念だわ。……乳母は、いないの?」
母がいない以上、乳母が絶対いたはず。
「妃殿下の乳母であられたマレーネ様は、私がこちらにあがりました年にお亡くなりになりました……暴漢に襲われて」
「そう…なの……」
ここでも、アルティリエの周囲には危険と不幸の影が差す。
何ていうか……一言で言ってしまうと運が悪いのかもしれない。
「アリスは、マレーネ様の姪になるんですよ。マレーネ様のお子様は男ばかりでございましたのでアリスが代わりにこちらの宮にあがったんです」
「へえ……」
こんな風に話すのはリリアと二人の時だけだ。
急にベラベラ話しだすのもおかしいから、普段はなるべく昔のアルティリエっぽく振舞うようにしている。これは真犯人に警戒させない為もある。
でも、最低限の礼儀というか……お礼を言ったり、挨拶くらいはするし、笑みをこぼすことくらいはある。
それだけで皆が驚くの。ほんと、これまでの自分に涙が出るよ。
この一件が片付いたら自己改革をはかるから!絶対に!
「妃殿下の侍女は入れ替わりが激しいんです……よく狙われるので危険もありますから」
「そんなに狙われるの?外にはあまり出ないんでしょう?」
「はい。……王宮にいれば安全ですよ。ここの宮は後宮よりも警備が厳しいですから。でも、王太子妃であられる以上、外にまったく出ないっていうわけではありませんから」
王太子妃には絶対にやらねばならない公務がある。
幼い頃は免除されていたものも、最近では少しづつ増えているんだそう。
「今は月に一回くらいでしょうか……そのたびに、何かあるんですけど」
だいたい事前に王太子殿下の兵に検挙されてますけど、三回に一回くらいは騒ぎになってますね、と苦笑する。
「騒ぎ?」
「はい。行列に火矢を射込んで霍乱して拉致しようとしたり……暴れ馬を乱入させて妃殿下を攫おうとしたり……いつの時もまったく無表情でしたのには驚きました。重ねて失礼を申し上げるようですが、人形姫とはよく言ったものだと思っておりました」
「覚えてないから別にいいけど、それもすごいね……」
我が事ながら、逆に感心する。
ああ、でも……拉致とか誘拐なんだ。……殺すんじゃなくて。
その時と今では何が違うんだろう?
「……失礼ですが、殿下は、どのようなことなら覚えていらっしゃるのですか?」
「人の名前を聞くと経歴がぱっと浮かんできたりするの。でも、顔はあまり覚えていないからあまり役には立たない」
視覚的な記憶というのは呼び起こすのが難しいものなのかもしれない。
正直、リリアにナディル殿下の容姿を説明してもらったけれど、さっぱり思い浮かばなかった。
「お作法などは大丈夫でしたのに」
「習慣的な動作とかは忘れないものなんだと思うの。頭では忘れても身体では覚えてるから、なぞれば思い出すんだと思う」
「そうですわね。……くれぐれも殿下、挨拶の順番だけは、絶対に間違えないで下さいね」
基本的に挨拶は、下位のものから先に口を開く。
そして、挨拶の後に話し掛けるのは上位のものからが基本。
挨拶のあと、自分が先に口を開くのは礼儀に反するらしい。
まあ、それほど厳密なものでもないのだが、儀礼が必要な場では重要になる。
(エルゼヴェルトの城で公爵が挨拶しかしなかったのは、そのせいか……)
誤解していたことをちょっと反省した。
私はリリアには、必要な時はいつでも自分から口を開いて良いと言ってある。
面倒なことだけど、階級社会というのはそういうもので、頂点に近い私がそれを破るわけにはいかない。
この国で私より位が上なのは、国王陛下、第一王妃殿下、王太子殿下のみ。
王太子殿下以外の第一王妃所生の御子と第二王妃殿下とその所生の御子は、王太子妃である私より身分が下だ。即妃や愛妾は言うに及ばず。
「気をつけます」
私は真面目な顔でうなづく。
リリアはちょっと目を見張って、それから笑った。笑うとリリアは年相応に見える。いつもは、五、六歳年上っぽい。
「なあに」
「いえ、嬉しかったんですわ」
「……私?」
「はい。……もし、これを言うのは、不敬にあたるのかもしれませんが……。もし、記憶がないせいで今の殿下になられたというのなら、ずっと記憶がないままでもかまわないと思うくらいです」
そう思ってくれるのは嬉しかった。
それは、今の私でいいってことだから。
記憶のすべてが戻るかは怪しい……でも、もし戻ったとしても、私はもう人形姫には戻れないし、戻るつもりもない。
「妃殿下のご記憶に混乱があることは、それとなく宮中に噂を流してございますから、今後、多少おかしな行動をとったところでたいした問題にはならないと思います」
「ありがとう、リリア」
すごいよ、リリア。手回し良すぎ。
リリアが味方になってくれたことで、私の自由度は格段に広がった。そして、得られる情報量も桁違いになった。ここまでだとは思わなかった。
リリアを味方に引き入れると決めるまでにあんなにもいろいろ悩んだことがバカバカしくも思えてくるほど。
……わからないことはたくさんある。
本当はリリアの全部を信じることはまだ恐い。
女官というには、リリアは知りすぎているような気がするから。
(でも……)
信じると決めたのだ。
だから、あとは私の決意一つ、気持ち一つでしかない。
「……そろそろ参りましょうか」
「もう、時間?」
あんなに早起きしたのに。
「はい。やや早めの方が遅れるよりいいです」
「そうね」
ゆっくりと立ち上がる。勢いよく立ったり座ったりするのはNG。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
リリアがいてくれる。それから、私に剣を捧げてくれたシュターゼン伯爵や護衛騎士達。
私はこの世界でもう一人ぼっちじゃない。
だから、自信を持って足を踏み出した。
2009.05.15 初出
2009.05.23 手直し
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王宮編。まずは王太子殿下との対面。