<第8話>
美濃平定から約3年経った永禄7年(1564年)に入っても信長は上洛にはまだ着手してはいなかった。
理由はいくつかある。
まず一つ目は、上洛という行為はそれだけで地方の野心ある有力大名達の警戒を招き、否応なく戦に巻き込まれていく事になるからだ。
所謂、出る杭は打たれるという事だ。
史実での包囲網などがそれに当たる。
この時代、すまわち中世当時の日本の情報伝達は極めて貧弱な物だ。
通常、隣国(この場合の国とは尾張国、美濃国などの旧国名の事)ならばともなく、間に二つ三つ国を挟んだ国の情勢等は噂話で流れてくる程度である。下手をすればそれすらも無い場合すらある。
あくまで社会がその国一つで成り立ち完結しているのだ。
例を挙げて言えば、例えば甲斐の国に住む人々は尾張の国の人が何をしているのかも知らないし、別に知りたいとも思っていない。自分にはまったく関係の無い話しだからである。
そんな他国の事は、感覚で言えば遥か彼方の遠い国の話しでしか無いのだ。
但し、そのような中でも京の町だけは別格なのだ。
この町だけはどれだけ荒れ果てようが日本の中心として燦然とした輝きを放っているのである。
二つ目は、永禄8年(1565年)に起こる <永禄の変> といわれた事件が起こるのを待っているのだ。
永禄の変とは室町幕府の第13代将軍・足利義輝が京都・二条御所にて、その時期畿内を治めていた三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀の軍勢に襲われ、殺された事件の事である。
その後、将軍職は彼らの傀儡である足利義親(後に義栄と改名)が就任した。
この事件は地に落ちていた将軍の権威をさらに失墜させ、室町幕府がもはや何の力も持っていない無力な存在である事を露呈した事件であった。
上記の理由に加えて信長は所領している四ヶ国の内政に専念していたというのもある。
但し、何もしていなかった訳では無い。
この期間に力を入れて一つの調略を行っていた。それは畿内各国の忍びの者に対してである。
ここでまず忍者という者に対しての説明をさせて頂く。
畿内で忍者として有名なのは伊賀の国・伊賀の里に住む伊賀流忍者と近江の国・甲賀の里に住む甲賀忍者であろう。
忍者という者達は怪しげな術を使ったり、物凄い身体能力を持っていたり等々と様々なイメージがあるが、実際の忍者はそんな物では無い。
当然の事ではあるが、彼らができるのは人間の身体能力の及ぶ範囲内だけだ。
ジャンプすれば5mはある城の塀を軽々と飛び越せたり、風よりも馬よりも早く走れたり、木の枝の上を飛び跳ねながら走ったり、分身の術等々、勿論そんな事できる訳がない。絶対に不可能である。
(当たり前の事ではあるが重要な事なので書かせて頂きました。この物語では超人的な力を持った忍者等はでてきません)
彼らが得意とする忍術というのは諜報活動に対する技術の総称の事である。
また広義的に言えば彼らは国人衆だ。
伊賀衆は伊賀守護である仁木氏の傘下に入っており、甲賀衆は六角氏の傘下に入っている土豪である。
彼らは普段は自らの土地で畑を耕したり、全国を行商をしたりして各地の情報を探ったりする一方、頭領から何らかの指令が下るとその指令を実行する工作員のような存在だ。
簡単に言い表せば良く訓練された特殊部隊員のような集団である。
但し、彼らは尊敬されてはいない。その行動全般が影働きである為、卑怯だと思われているからだ。
それ故、その扱いは極めて悪い。
その働きが表立って賞される事は無いし、名誉を貰える事も無い。
どこの大名家でも忍者衆を厚く報いている所は無いのが現状である。
中には元忍者という者が出世したという例があるが、それはあくまで表沙汰にできる戦働き等で手柄をたて出世したのであって、忍者働きで持って出世した者はいない。
だが信長は今のその忍者達の現状を調略の好機だとも思っている。
確かに忍者達の行動は武士道に合致せず、それから言えば卑怯と言える。だがここまで冷遇されなければならない程だろうか?
忍者達がすぐ裏切る(主を変える)等は、忍者を用いる側のその冷遇さが原因だとも言えるだろう。
情報という物は極めて重要な物なのだ。
特に今、織田家は未来を知っているおかげで他家に対して圧倒的な優位を確立できている。情報の重要性は身に染みる程痛感している。
それら情報を扱える忍者達はもっと評価されてしかるべきであるのだ。
(但し主家(織田家)にたいして忠誠をつくして働けるもの達にかぎるが)
誇り高き伊賀衆・甲賀衆よ。
我が織田家に仕え、天下に益する働きをせよ。
さすれば汝らは富を得られよう。名誉を得られよう。子供達の為に胸を張って働けるだけの誇りを得られよう。輝かしい未来を得られよう。
汝らけして卑怯者にあらず。
こうして戦国時代の常識から考えれば破格の条件でもって、両家に対しての織田家の調略が始まった。
条件は下記の通り。
1:所領として三万石を与える(伊賀衆は伊賀の国で三万石。甲賀衆は近江の国で三万石)
2:織田家は伊賀衆・甲賀衆共、士分として扱う。
3:各家頭領に織田家侍大将の身分を与える。
4:各家頭領に軍議に参加する権利を与える。
その書状を受け取った伊賀・甲賀双方共にて、同じように激震が走った。
「これは罠なのではないか? この条件、到底信じられぬぞ……」
「上手い事この伊賀をかすめ取った後に約束を反故にする気なのではないか?」
最初、伊賀衆・甲賀衆共この条件を信じなかった、というよりも信じられなかった。
今まで散々冷遇されてきたのである。
逆に戸惑ってしまう。
この条件は自分達をいきなり織田家の重臣として取り立てるという意味だ。
特に石高が凄い。一般に一万石を超えれば大名といわれる中での三万石。織田家内でもこんなにもらっている者は少ない。重臣クラスだけである。
だが日を追うごとに、どうやら織田信長が本気で言っているのだと両家共理解する。
両家共、織田家を信じるか信じないかで話し合いは紛糾した。
特に老人達は今までの経験からの慎重論が多かったが、若い者達は総じて輝かしい未来を望んだ。彼らはけして満足な生活をしていた訳では無い。
かの有名な徳川家の忍者・服部半蔵も困窮の末、伊賀の国を出て松平家に仕えたとの説もある。
若い者達は今の何の未来も、希望も無いこの困窮した生活にうんざりしとていたのだ。それゆえこの話し合いの場でも積極的に熱弁を振るう。
「じゃが、今のままでのこの暮らしに意味などあるのか!? ワシはこのままは嫌じゃ!」
「然り! ここは織田家を信じてみようではないか!」
「応! もし織田家が裏切れば、その時は我が伊賀衆の総力を持って後悔させてやれば良いのじゃ!」
それはまさしく彼らの魂の叫びであった。
彼らは本当に今の現状に絶望していたのである。
武士達は自分達を卑怯だ、何だと言う。そして自分達をまるで物のように扱う。文字通り使い捨てだ。
大名家によっては牛馬以下の扱いである場合もある。
なんらかの手柄を立ててもそれが評される事も無い。全て武士の手柄になってしまう。
死んでも手厚く弔ってすらくれない。
彼らは別に大金や名誉が欲しくてこんな事を言っている訳ではない。
ただ認めて欲しいだけなのだ。その仕事を、その生き様を、その価値を。
自分達は道具などでは無い、誇り高き人間である、と。
そしてその熱い思いは両家の頭領の心に確かに届いたのである。
そうして両家共、激しい話しあいの末、同じ結論を出した。 「織田家を信じて賭けてみよう」 と。
こうして伊賀衆・甲賀衆を味方に引き入れた織田家は約束を履行する為に伊賀の国及び南近江に侵攻を開始した。
伊賀の国はすぐに決着が着いた。伊賀は隠れ国といわれる程、道路が貧弱で交通の便が悪い国である。
周囲を険しい高い山々で囲まれた攻めるに難く守るに易い要害の土地であるが、しかしその地理に明るい伊賀衆が味方についた以上、障害は何もなかった。
織田軍は一万の大軍でもって怒涛の勢いで伊賀に乱入し、侵攻後僅か一月で特に苦戦する事も無く伊賀全土を完全制圧したのである。
伊賀守護である仁木氏は自刃し、伊賀衆には元からの所領を中心に約束通り3万石が与えられた。
南近江の六角氏攻めも予想以上に順調に進む。
六角氏は前年の永禄6年(1563年)に観音寺騒動と呼ばれるお家騒動を起こしていた。
無能で小心者であった当主の六角義治が、こともあろうに家臣団筆頭で自分よりも人望の厚かった宿老の後藤賢豊を嫉妬から謀殺してしまったのである。
この事件は、途轍もなく深い亀裂を六角家にもたらした。
後藤賢豊は家臣団筆頭の身分であり、人望も厚く有能で、家中の諸処細々とした事柄を差配していた人物である。
そしてそのような立場にいた後藤賢豊の死は、六角家家臣団に重大な衝撃を与え主君・六角義治に対する家臣団達の信頼を無くす切欠を作ってしまったのだ。
この事件で六角家家臣団の中には隣国の浅井家に寝返る者も出たり、さらにはこの事件に不満を抱く一部の急進派家臣団の手によって一時的にとはいえ六角義治が居城・観音寺城より追い落されるという事態にも発展したのである。
言うなれば六角家は自らが起こしたお家騒動によって、織田家が侵攻する前からすでにガタガタになっていたのだ。
そして織田家四万の大軍の侵攻が始まる。
この時畿内では、すでに<永禄の変>が起こっており三好三人衆は六角家に対して援軍を送る余裕は無かった。
その為、六角氏単独での防衛戦となったが推移はほぼ史実と同じであった。
六角義治は緒戦において織田勢の羽柴隊によって支城の一つである箕作城を落とされると、早々に抗戦を断念。観音寺城他全ての城を放棄し甲賀群に向けて落ちて行ったのである。
その六角氏の逃亡により織田家は労せずして六角氏を駆逐し、南近江を拾った。
甲賀衆には約束通り、元の所領を中心に3万石が与えられる。
ちなみに甲賀衆が織田家に内応したのを知らずに甲賀に逃げた六角義治とその一党は、すぐに捕まり全員首を刎ねられその首は信長の元へ届けられた。
こうして織田家は後に織田家の眼と呼ばれた伊賀衆・甲賀衆を味方に引き入れ、さらにその所領を増やしたのである。
これより後、あらゆる局面で伊賀衆・甲賀衆は織田家の為のみに戦い、彼らが織田家を裏切る事はけっして無かったのだ。
<後書き>
忍者に関する解釈は作者独自の物です。事実とは異なる部分があるかもしれません。
作品中にも書きました通り、この作品中においては超人的な人物は出てきません。
また明らかに後世の創作である人物等も基本は出さない予定です(真田十勇士等)
現在の織田家の所領
尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 南近江45万石