<第35話>
<美濃の国 岐阜城>
「では判った事を報告致せぃ」
「ははっ!」
居城・岐阜城の大広間において、上座に座る信長の命令を受け、それに打てば響くか如く、淀みなく竹中半兵衛が答える。その周囲には、今回の小牧山の危急の報を受けて集まった諸将達、各軍団長格は流石に集められなかったが、それ以外の諸将達がずらりと座していた。
「今回の徳川方の乱の首謀者でございまするが、やはり平岩親吉にあらず。諜報により得られた情報によりますと首謀者は徳川家嫡男・徳川信康でございます。これはあの日に信康の命令によって岡崎城に集められた徳川家諸将の内より複数人より同じ証言が得られました事と、実際に小牧の地で戦った森隊の生き残りの者達よりの証言により、ほぼ間違いございませぬ」
「で、あるか」
「また現在徳川家は大混乱に陥っておりまするよしに。徳川家は遠江の国での一切の軍行動を停止し、当主・徳川家康殿は自ら軍勢を率いて反転、岡崎城に入られました。ただそれ以上の動きは一切ございませぬ。おそらくはどうしたら良いか判らず、当家がどう出るかを見守っているのでは? と推察致しまする」
「信康はどうなった?」
「はっ、家康殿の命により、内密にはでございまするが、全ての軍権等を召し上げられた上、蟄居・幽閉されたとの由。但し、その行動に一部の三河信康派の諸将達に不穏の空気有り」
結局の所、あの平岩親吉の献身的な行動であるが、結果的に言うと無駄な事であった。人の口に戸は立てられぬ。あまりにも信康の行動が大きく派手であった為、また自らの判断で織田家に情報を流す者もおり、事実はすぐに織田家の知る所となったのである。
その報告の内容に対して、すぐに織田家諸将達より怒りの声が上がった。
「これだけの事をしでかして、また森殿を殺しておきながら詫びにも来ぬとは! あまりにも非礼!」
「然り! 断固攻めるべし! 森殿の弔い合戦じゃ! 大義は我等に有り!」
滝川一益、佐々成政等々の猛将達が口々に怒りと共に徳川家への報復を進言する。
今回の不意打ち、そして森可成・可隆の親子を討ち取られた事による織田家中の怒りは相当な物があった。あのような卑怯撃ちを受ければ仕様が無い事とはいえるだろうが、感情にまかせたままの行動であれば、なんら今回の信康の行動と変わりが無い。
それ故、今回の件に対する緊急の軍議が行われていたのである。
「憤りは至極当然。されど結論を急ぎ過ぎるも、また悪手ならずや?」
「拙者もただ怒りに身を任せての力攻めには反対で御座いまする。いや、無論徳川は許せませんが、此度の仕儀はある意味、好機で御座います。徳川家は強兵揃い。真正面から攻めれば、負けはせぬでしょうが、当家の損害もかなりの数にのぼりましょう。ここは徳川方の此度の大失態を最大限利用し、戦わずして屈伏させるがよろしいかと?」
ただ、そのような大きな怒りに満ちるこの場においても、冷徹に状況を見ている者達もいた。堀秀政、蒲生氏郷の両将である。
二人は皆を押し留めるように宥めに廻る。
「そんな弱腰で如何するか! 森隊の敵討ちをせずして、彼らがどうして報われようか!?」
「丁度良き好機なりや! この機会に一気呵成に攻め入り、三河・遠江の国を併呑すべし!」
当然ながら、それを弱腰と見る者や、これを機会にさらに領土を広げるべきという考えの者からも反論が起こる。
しかし勘違いしてはならないが、堀秀政、蒲生氏郷の二人とて、怒っていない訳では無かったし、徳川家を無条件で許してる訳でも、ましてや擁護している訳でも無い。このままの同盟継続もありえないと思っていた。
覆水盆に返らずとも言うが、一度壊された物は二度と同じ形には戻せないのである。結局のところ、新しい形・関係を模索するしかない。
この二人にしても、共に望むのは皆と変わりない徳川家を屈伏させる事。もしくはその領土の併合。
但しその方法において違う考えがあったのである。
今回の徳川家のやってしまった行動、例えそれが当主・家康の命令で行った物では無かったとしても、それは致命的な国政・外交上の大失点なのだ。特に首謀者が嫡男である、というのが不味い。そして織田家としては、徳川家が起こした今回の行動に重大な失点・負い目がある以上、そこに徹底的に付け込むべきである。そう、堀秀政や蒲生氏郷は考えるのだ。
「上様、如何にござりましょうや?」
それから暫くして、一通りの意見が出揃った時点で、蒲生氏郷が上座で静かに話しを聞いているだけであった信長に問いかける。
その声は僅かに緊張に強張っていた。それもその筈。彼が問い掛けた信長はといえば、この軍議が始まる前から途轍もない怒気を放っていたからである。と言っても、辺り構わず怒鳴り散らしているとか、そういった訳では無い。むしろ逆、何も言葉を発さず、ただ静かに、能面の如き表情で静かに座っているだけだ。
しかし、誰もが知っていたのである。その状態こそが信長が怒り心頭に達している証拠であると。廻りの者としては、むしろ怒鳴り散らしてくれた方が気が楽である。
皆、そのような状態の信長が、如何様な判断を下すのか、と恐る恐る反応を待つ。
「……竹千代めにはケジメを取らせる」
家康の事をわざわざ幼名で呼び、静かに信長はそう呟く。
「して、そのケジメとは?」
「氏郷、お前はこれより岡崎城へ赴(おもむ)き、竹千代めに会って参れ。此度の責任の取り方は竹千代本人に決めさせよ」
「はっ!? 我等では無く、家康殿に決めさせる……、ですか?」
「そう申したはずぞ……。聞こえなんだか……?」
「いえ! しかと聞こえておりまする! 申し訳ござりません! しかと受け賜りました!」
その場に居た全員が、その信長の発した言葉に呆然となった。それも当然である。家康本人に決めさせるなど、例えるなら犯罪を犯した犯人に、自らの罰則を決めさせるような物だ。
そのようなやり様で、しっかりとしたけじめが取れようか?
皆、一様にそう考えるのだ。おもわず聞き返してしまった氏郷は、返ってきた信長のドスの利いた声と、迫力ある眼光に睨まれ、すぐさま平身低頭して謝る。
あまりのその信長の険しい様子に、今まで主戦論を唱えていた者達も黙り込んでしまう。
しかし、そのままにもしておけないのが、命令を受けた当の本人である蒲生氏郷だ。
けじめといっても、その条件は? 上様は何をお望みか? 徳川を潰したいのか、はたまたその逆に同盟の継続を望んでいるのか?
ただ言われるままに徳川家に赴いて、要件を伝えるだけであらば、子供のお遣いと変わりない。信長の望む事を成し遂げてこその見事なる働きと言えよう物である。
しかしである、今のままではそれも儘(まま)ならない。
それ故、氏郷は勇気を振り絞り、少しでも情報を仕入れようと、さらに信長に問い掛けた。
「して上様、徳川家に求めるけじめ・条件とは如何様な物でございましょうや!? どの程度の処罰を御求めであるか、同盟か従属か、はたまた攻める準備の為の時間稼ぎでございましょうや!? 仰って頂けますれば、必ずやこの氏郷! 成し遂げて御覧にいれましょうぞ!」
丹田に力を込め、威勢よく大声を張り上げる氏郷。しかしその実、内心では叱責を受けるかと冷や汗をかいていた。だがしかし、それは杞憂である。
「徳川に示させるは、我等に対する覚悟也。今後、我等とどう向き合って行くのか? どう天下に向き合っていくのか? どのような関係を望むか? 天下の内で自家をどのように認識しているのか? それらを問う」
氏郷はその静かに言い放たれた信長の言葉を、一言一句違(たが)えないように、脳裏に刻み込んで行く。
また、信長の言葉はまだ終わってない様子であったので、そのまま静かに待つ。
「今までと同様の同盟国たる徳川家はもはや不要。もし可能性があるとすれば、織田の天下の元にてその一員となる事のみ也。これまでの全てを捨て、またその為にその旗下に集いし者達を統率し、新しき徳川家として、生まれ変わる事ができようか? その覚悟と能力を問う」
その信長の発した言葉の意味を、その明晰な頭脳で整理する。
上様は今までのような同盟関係は不要と仰られた。すなわち同盟継続の線はこれで完全に消えた。ならば戦かと言えば、そうでも無し。
ここまで考えて氏郷は気付く。信長が何を望んでいるのかを。
「試されるのでございますね……。我等に本当に必要な者であるか、その覚悟を、その能力を……。新たなる形となろうとしているこの日ノ本において、自家をどう考えているのかを、またそれに対応できるだけの統率力が、また柔軟性があるのかを……」
そこまで考え、これよりの徳川家の行く末を思い、哀れにすら感じる氏郷。もしその考えている事が事実であらば、徳川家にとってはどちらの道を選ぶにしろ、苦渋の決断となろう。またそのどちらの道を選ぶにしろ、大小の問題だけで、さらなる流血は避けられない。
「もし、我等を納得させるだけのけじめを付けられるのであらば、表向きは此度の乱の首謀者は平岩親吉としても良い。だがそれらを決めるのは徳川家自身。氏郷、主(ぬし)に今回の件に対する全権を与える。決着を付けて参れ」
「畏まりました。すぐに向かいます。されど上様。最後に一つ、御聞き致しまするが、徳川家に覚悟無く、また決断もできぬようであらば、その時は如何様(いかよう)になりましょうや……」
恐る恐ると氏郷は信長に問い掛ける。
怒り心頭に達している上様がここまでその怒りを堪え、譲歩しているのだ。逆にそれが成らぬ場合はとんでも無い事になってしまう。
そう考え、問い掛けた氏郷であったが、すぐにその心胆、寒からしめられる事となった。
氏郷の言葉を聞いた信長は、今までの能面のような表情から一転、まるで悪魔か閻魔大王か、と言わんばかりにその表情を憤怒一色に染め、静かにこう呟いたのである。
――その時は……皆殺しじゃ……! 三河・遠江の国、全ての地において徳川家に類する全ての者達を撫で斬りにしてくれるわ……!
<甲斐の国 武田家居城・躑躅ヶ崎館>
その日、武田家当主・武田勝頼は、最近では類を見ない程の上機嫌な様子であった。
「ぐわっはっはっはっ! 信長め、命からがら逃げ帰りおったか! 無様な物よ! 徳川家にも誠の大儀を理解する武士(もののふ)がおったか! 誠、痛快也!」
愉快気に大笑いしながら、酒杯を重ねる勝頼。
ここ最近は暗い話題しか無かった勝頼にとって、まさしく久方ぶりの痛快事。多いに溜飲を下げさせてくれるこの出来事を素直に、そして無邪気に喜んでいた。
「……はははっ、誠に仰る通りでございまするな……」
だが、それとは逆に、勝頼の上機嫌の言葉に相槌を打ちながらも、全く逆の事を思案していたのが、その傍らに侍っていた高坂昌信と真田昌幸の二人だ。
彼らにとっても今回の自らの計略の成功は望外の喜びである。しかしだ、想像していた程の効果が上がっていないのもまた事実。
「(謀反の首謀者が平岩親吉? 信康では無いのか? しかもその平岩親吉の討ち死に以降は戦はおこっておらず、事態が収束に向かいつつあるのかもしれんとの由。家康め、重臣一人を生贄にしてこの難局を乗り切ろうてか……? 思ったよりも強(したた)か、老練な手腕也。否、本当に家康の仕儀か? どちらにしろこのまま終っては、つまらぬわ……。せっかく掻き回した物を、こう簡単に収められては、のう。もっと足掻いてもらわねば割りに合わぬ)」
今回の計略の発案者・実行犯である真田昌幸は、勝頼の言葉を聞きつつも内心ではまったく別の事を考えていた。
彼はこの策の責任者として、実際に信康が挙兵するその直前まで三河の国に潜入していたのである。流石に騒動が起こってからでは国を出るのに危険が大きすぎる為に、その前に出国はしたが、首謀者は確かに徳川信康の筈。絶対に平岩親吉では無い筈だ。
やはり危険を冒してでも、最後まで見届けるべきであったか?
そのような事を考えてしまう。
「のう、昌幸よ。誠、痛快也。これに乗じて我等も何か成すべきかもしれぬ。何か思案は無いか?」
しかし、そのような考え事も勝頼に話しかけられる事によって中断させられる。気を取り直して昌幸は勝頼の方に身体を向け平伏し、自らの所見を述べる事にした。
「此度の一件、織田徳川間の同盟関係にけして小さくない亀裂を生じさせました事は確実にございまする。なれば我等はこの亀裂をさらに広げるべし。我等武田家にとって最善は織田と徳川間の同盟が決裂し、徳川が我等が味方になる事。次善は両者が敵対に至らずとも同盟関係が解消される事に御座いまする。そうなれば徳川家を我等が側に引き込める可能性も出てきましょうぞ」
「うむ、成程。その通りである。して、徳川を味方につけるその方策とは如何に?」
「ありませぬな」
「な、……何!?」
勝頼はまったく予期していなかったその昌幸の、何処かとぼけたような返答に、思わず面食らってしまう。そんな勝頼の様子に構わず、昌幸はさらに続きを話し始める。
「いやー、今の所はなんら打つ手はございません。せめて織田が報復に兵を動かしておれば打つ手はあったのですが、未だその気配は無しとの事。いやはや、織田信長という男、血の気が多いように見えて、これが中々我慢強い食わせ者。ここで動かぬは敵ながら天晴と言うほか御座いませぬなー」
まいった、まいった、と自分の頭をポンポンと叩きながら、どこかおどけたような様子で話す昌幸。
「あ、ありませぬ、ではなかろうが。知恵者であるならば、なんぞ考えぬか……」
「いやしかし、当事者間で争いが起こっておらぬに、第三者の我等が出る幕はございませぬ。出来るのは両者の間を煽ってやる事ぐらいかと。この状況に至りましては、むしろその逆こそ我等が取るべき方策かもしれませぬ」
「逆? 逆とはいかなる物か?」
「此度の徳川家の行動を同盟の信義にもとる、非道の行動であると非難し、織田に協力し、共に徳川家を攻め滅ぼすべし」
「な、なんじゃと!? 織田めと手を結び、徳川を攻め滅ぼせ、だと!!」
「然り」
その昌幸の言葉に、勝頼は驚愕する。それに構わず、昌幸はさらに言葉を続けた。
「結果的に織田家の同盟国である徳川家が、この世からのうなれば、その過程がどうであれ我等の勝利です。敵と一時的に手を組むも武略・知略と申す物也」
昌幸が献策するこの策は、勝頼にとっては想像すらしていなかった物であった。それに加えて、実はこの策にはそれ以外にも狙いがあったのである。
それが織田との講和だ。
今、武田家はざっくばらんに分けて二つの派閥がある。当主勝頼や高坂昌信を中心とした織田抗戦派と一門衆筆頭の穴山信君を中心とした講和穏健派の二つだ。
これらが日々、方針を巡り争っているのであるが、双方共、けして一枚岩である、といった訳ではない。それは織田抗戦派の中においても例外では無かった。
知恵者である高坂昌信と真田昌幸の二人は、織田交戦派ではあるが、同時にその落とし所をも同時に模索していたのである。
実のところ、此度の織田徳川間の離間策であるが、勝頼には知らされず、この二人の間で極秘裏に行われた物だったのだ。その理由は一つ……。
「ふざけるな! なんで織田なんぞと手が結べる物か! 昌幸! もしや貴様まで臆病風に吹かされたのではあるまいな!?」
「(やはり融通が利かぬな……。外交という点においては致命的な程、頑固かつ、誇り高すぎる……)」
この勝頼の性格にあった。けして無能な人物でな無い。否、むしろ優秀な人物であったのだが、いかんせん誇り高すぎ、頑固な面があったのである。その性格ゆえに、その大きすぎる自尊心ゆえに、徒(いたずら)にその行動の幅を狭める結果となっていたのだ。
二人は別に降伏を望んでいる訳では無い。ただ誤解の無いように記すが、降伏・和を乞うという事は、それほど不名誉な事では無いのである。勿論、それは苦渋の決断であるし、負けを認める事は屈辱の極みでしかない。しかしである、それは国政・外交を司る者にとって、けして避けては通れぬ道なのである。
例えば、彼の父親、武田信玄も好機とみれば攻め、不利とみれば頭を下げ和を乞うという事もしていた。それらは他の戦国大名、徳川家・北条家・毛利家・上杉家・島津家等々、どこでも変わりはない事である。
百戦して百勝できる者など、いよう筈も無い。勝ちがあれば、必ず負けもあるのだ。
史実の織田信長に至っては、第一次信長包囲網の折、浅井・朝倉連合軍に攻められ危急存亡の危機に陥った時には、その朝倉義景に向かって、「これより天下は朝倉殿が持ち給え。もはや我に望み無し」 と土下座し、おべっかまで言って和を乞うたのである。
そして講和を結んだ結果は歴史が証明している。浅井・朝倉の両家は滅び、織田が生き残ったのだ。
土下座までして和を乞うた信長はその評判を落としたか?
答えは否である。逆にその評判を落としたのは朝倉義景の方だったのだ。
そしてそれが出来るのが、織田信長という男の凄い所である。
苛烈な所業ばかりが眼に付き、目立つ信長であるが、その実、彼の手腕という物は政戦両略において、実に堅実な方法を選び、基本をけして踏み外さない。
戦略においては敵よりも大軍を用意し、寡兵で当たる事は無い。戦略をこそ重視し、例え戦術的な敗北を蒙っても、それを政治的・戦略的な勝利によって取り返す術を知っているのだ。
翻って危急存亡の折と見れば、自ら軍の先頭に立ち、戦場に突っ込む果断さをも持ち合わせている。それは信長の生涯で三度。稲生の戦い、桶狭間の戦い、そして天王寺砦の戦いだ。その人生の節目節目の危機において必ずといって良い程、先頭に立って戦い、そして勝利しているのだ。
外交でも状況を冷徹に見定め、武田家や上杉家といった強敵達に対しては、情けないとも言えるほどの弱腰で気をつかい、毎年貢物を送るなどして関係を良好に保てるように努力していたのである。名を捨て実をとる臨機応変の対応ができる人物というのは、実は案外少ないのだ。大概の場合は誇りや名誉といった物が邪魔をし、大局を見誤るのである。
また、敵に対するある種の冷酷さは、この場合は利点であろう。
内政においても、その辣腕を遺憾なく発揮した。織田家の躍進はこの内政での成功にあると言っても良いであろう。信長包囲網などの出来事から、嫌われ者的なイメージが湧くが、その逆に、領民達からは大いに慕われていたのだ。治安に対する意識が強く、その生涯において過酷な治世といった物とは一切無縁であり、信長が通った後は石高が増える、とまで言われる程である。その内政の手腕は大胆にして繊細且つ合理的。自ら親しく民衆達の間に入って行き、身分の区別無く交流したと言われている。
少なくとも統治者としては超一流であった。
当然、それらと逆の欠点もまた存在するが、人の上に立つ上で必要とされる条件をバランス良く持っていたのが、織田信長という男なのである。
「とは申せ、もはや我等と織田家の力関係はかなりの所までいっておりまする。城攻めと同じく、順を追わずんば、被害が増えるだけで御座いまする。まずは織田の外堀たる徳川家を攻め滅ぼす事に専念すべし」
「やめよ! それ以上は申すな! 徳川家の此度の所業はまさに悪に対する正義! 正に義挙也! それをどうして攻める事ができようや!」
昌幸のその献策を、勝頼はけんもほろろに突っぱねた。それどころか怒りすら見せて昌幸に怒号を浴びせ掛ける。
「もう良い! それ以上は何も申すな! 織田なんぞとは死んでも、例え殺されようとも共闘などありえぬわ! 最初に言うたように、徳川を味方に引き入れるように何か算段致せ! それ以外の策など聞きたくもないわ! 下がれぃ! なんぞ思いつくまで出仕に及ばず!」
先程までの上機嫌な様子から一転、一気に不機嫌な様子に成ってしまった勝頼を見て、これ以上は何を言うても詮無き事、と思い至り二人は一旦引き揚げる事にした。
未だ酒杯を重ねながら、不機嫌そうにブツブツと呟く勝頼を一人残し、高坂昌信と真田昌幸は静かに部屋を出る。
「ままならぬ物でございまするな」
「ああ、御屋形様も、もう少し物事を柔軟に考えられるようになれねば、御家を滅ぼす事になりかねんぞ……」
昌幸の言葉に、渋面を浮かべ呟く高坂昌信。
今回の件において、一気に講和とは言わずとも、なし崩し的に織田との交渉のとっかかりぐらいは、と思ってはいたのであるが、まるで取りつく島も無い状態だ。
「やはり御屋形様に内密に策を進めて正解でしたな。あの様子では、正直に話していては、そのような卑怯な真似ができるか、とでも言われるのが関の山かと」
「長篠以外の負けを知らず、辛酸を舐めつくすかの如くの武田家興隆期の時期をも知らず、常勝・最強武田軍の幻想を未だに引きずられておるのか……。どちらにしろ、若い、考えが青すぎるわ……」
「別に卑怯者になれやら言うつもりは無いですし、またそうなられても困りまするが、もう少し清濁合わせ飲む器量が欲しい所で御座いまする」
「まあ、それが御屋形様の良い所ではあるが、のう……。それ故、補佐のしがいがあるんじゃが、正直、真っ直ぐさ、誇り高いという美点も、度を過ぎれば毒にしかならぬ。特に国政の場であらばそれも一入(ひとしお)という物……」
昌信は話しながら溜め息をつく。
元よりこれほどの重大事。本来なら当主たる勝頼の裁可を経て、実施されてしかるべき事柄である。しかし今回は高坂昌信が、ばれればその責任を一身に受ける覚悟をした上で、独断で真田昌幸に命じて行った物であった。
それは何故か?
まず第一に勝頼の裁可が得られないであろう事。先程も記したように、そのような卑怯な真似ができるか! という叱責を受けるだけであろう。それに例えそれを承認したとしても、次は勝頼の命じたように、徳川家への支援に固執してしまうであろうからだ。それでは駄目なのだ。
そう、第二の理由として、これは徳川家を生贄の羊とした、武田家の生き残りの道の模索なのである。
今回のこの離間策の戦略目標は、織田徳川間の同盟を決裂させた上で争わせる事。そしてその織田徳川連合軍の戦力を低下させ、結果的に武田家に対する織田の圧力を減らす事。最後に、決裂している武田織田間の外交のパイプを復活させる事。以上の三つなのだ。
武田にとってはそのどれに転んでも良いのである。
織田が徳川を攻めれば、それに乗じて一緒に徳川を攻めるも良し、はたまた、無理やりにでも援軍として出兵し、徳川家に恩を売り、こちら側に引き込むも良し、織田に先んじて併呑するも良し。強国の間に挟まれた小国の意思など誰が顧(かえり)みようか。
昌信の考えていた最善・ベストな結果とは、織田徳川間の間にて争いが起こり、それに武田家が介入。それも織田側に立ってである。その上で織田との誼を復活させた上で、今徳川家のある立場に、そのまま武田家が入ろうとの考えだったのだ。
つまりは徳川家を蹴落とし、武田家を最大版図を保たせたまま、織田の作る新秩序の中において存続させよう、との目論見だったのである。
実の所、高坂昌信と真田昌幸の二人は、織田抗戦派の派閥に属しながらも、これまでに行ってきた国力増強の行いがほぼ手詰まりに陥ってしまった現状を踏まえ、織田に抗するは不可能、との結論を出していた。
このままでは織田がその気になれば早くて2~3年、遅くとも5~8年以内には甲斐・信濃の地から武田家という家が消えさる、と考えていたのである。
それを回避するには、それこそ奇跡のような大逆転が、例えば信長とその嫡男信忠が揃って死ぬような奇跡のような大逆転が無いと不可能だと考えていたのだ。それほどまでに両家の国力・戦力差は開いており、それは時間と共にさらに刻一刻と開いていく始末。
戦争だけが方法では無いのだ。戦争というのは数ある手段の中の一つでしか無い。臥薪嘗胆、それもまた一つの手である。
また武田家が常に天下第一党の頂点の家である必要も無い。
本当に大事なのは家を守り、家臣達を守り、領民達を守り、末長くその者達を安寧に導く事にあり。
高坂昌信と真田昌幸の二人は、とかく誇りや建前・面子といった物を重視するこの時代の武士達の中にあって、かなり論理的な思考の持ち主であり、そう考えるのだ。
誇りや面子などどうでも良い、などとは言うつもりは無い。それらは大事な物であり、誇りを持たぬ人間など、奴隷のような人間になるか、平気で極悪非道なる行いをおこなう犯罪者になるかの、どちらかでしかないであろう。
だが同時にこうも考えるのだ。
その為だけに全ての家臣・領民達を犠牲にし、また武田家という家を滅ぼしても良い物であろうか?
だからこそ彼らは考えた。名誉ある形で今の版図を保ったまま、それも武田家の誇りを傷付けない形で織田に組みせる形という起死回生の一手を。そしてそれをなし崩し的な方向で当主勝頼に承認してもらおうと。
勝頼とて、いつまでも今のような甘い考えばかりはしていないであろう。責任ある立場にあらば、酸いも甘いも味わい、必然、物事の表も裏も理解し、奇麗事だけではこの世は渡ってはいけないという事を理解し、また成長もしてくれよう。元より、勝頼はけして無能な人物では無いのだ。一旦、なし崩し的にその形の収まれば、それを納得もしてくれよう、と。
また逆に、彼らは従来の他の大名家、上杉家や本願寺家といった者達との連帯・同盟といった手段を放棄した訳でも無い。
人の上に立つ者として、打てる手は全て打っておくべきである。それが人の上に立つ者の責任なのだ。
「まあ、この苦境をなんとかしてみせてこその忠義、見事なる働きといった物であろうぞ。御屋形様の方はワシがなんとか宥めておく故、昌幸、お主は引き続き、織田・徳川間の情勢を調べておいてくれ。特に織田がどう出るかを見逃さぬようにな」
「かしこまってござる」
「それと穴山殿の動きにも、じゃ。あの御仁が何か軽挙妄動するかもしれんからのう」
昌信は一門衆筆頭の穴山信君の事にも思案を巡らせる。彼は一見、この二人と同じ所を目指しているようではあるが、その実、大きな違いが存在していた。
その事を昌信は危惧していたのである。
「穴山殿も素晴らしい人物ではあるのじゃが、見通しが甘い上に、信長という男の怖さを本当の意味で理解しておらぬ……。今の状態で何の考えも無しに降伏してみろ。媚びた顔で信長の前に立った次の瞬間には首が地に落ちておるわ……」
「誠に。現状においては織田がそのまま武田を残してやる義理も、それによる利点も、何もあり申さぬ故……。その前に我等の力・能力をあの魔王に示した上で、我等を敵に廻すよりも味方とした方が利点が多いと判らせねば、容赦無く踏み潰されましょうぞ。逆に言えば、その利点を示せれば生き残りの目は出てきます」
元より今まで敵対していた敵に我を乞う、降伏するという事は苦渋の決断。それこそ今から戦争を始めようと言う以上に、その先々の展開を読み切り、ただ戦う何倍以上もの労力、それに努力を必要とするであろう。
戦いを始めるのは容易く、終わらせるのは至難の業なのだ。
さらに言えば、戦いを始めるのはどちらか一方の意思だけで始まるが、終わらせる時はどちらか一方が完全勝利を収める以外では、その双方の同意が必要なのである。簡単に言えばここで武田家が 『戦争はいけません。平和が一番です。戦争なんかやめましょう』 と言ったところで戦争は終わりはしないという事である。
ふざけるな、の一言で切って捨てられるだけであろう。そんな物、子供の戯言でしかない。
それにそのような中途半端な終わらせ方は将来へ禍根を残す結果としかならない。
「まあ幸い、これにていくらかの時間は稼げようぞ。その間に、戦う事になるにせよ、和儀になるにせよ、その両方どちらにでも対応できるように対処せねばならん」
「畏まりました」
「ワシは上杉への抑えもせねばならぬゆえ、ずっとここには居れぬ。昌幸、頼んだぞ」
良く言えば臨機応変、悪く言えば面従腹背。右手で握手を求めつつ、背中に隠した左手にはナイフを隠し持つ、そのような矛盾。それらを理解せずして、どうして一国を率いれようか?
個人の善悪と、国家の善悪とは似て非なる物なのだ。それはけして同じように考えてはならない物である。
武田家の人々すら騙し、反織田家の勢力の中にありつつ、それと共闘しながらも、織田に通じようとするその行動は汚い。また、その行動を隠し、織田との関係正常化が上手く行かなかった場合は、何食わぬ顔でそのまま反織田勢力の一角にあろうとする。露見すれば二股膏薬よ、卑怯者よ、と非難されても仕方が無いような行動だ。
だが結果こそが、否、結果のみこそが求められるこの冷酷な国政の場にありて、馬鹿正直や良い人という評価はマイナスの意味を持っているといっても良いであろう。
そんなに簡単な世界では無いのだ。権力という物にはそれだけの価値と、そしてそれ以上の責任が生じるのである。
魑魅魍魎が跋扈する、策謀とドロドロとした欲望渦巻くこの世にある生き地獄。それこそが権力という物だ。
当然、その世界に住む住人達、住まざるを得ぬ住人達も、好む、好まざるとて、それと無関係ではいられない。
それが嫌であれば、自らが汚れるのを嫌う者は、常に聖人君主の如きあり誰からも好かれていたいと思っている者は、権力を、特権を放棄し、速やかに退場すべきである。
だからこそ、二人は汚名をおそれずにやる。武田家の為、領民達の為に。
今となっては唯の悪足掻きとなってしまうかもしれない。だが足掻き続けねばならない。足掻く責任があるのだ。
それ故、二人はあらゆる方法、考えつくだけの全ての手を尽くして、孤軍奮闘、足掻き続けるのである。
<西国 長門の国 赤間ヶ関>
東国において、織田・徳川・武田等々の大名達が小牧の戦いの余波を受け、右往左往しているその時に、異変は西国でも起ころうとしていた。
それは九州と中国地方を分つ関門海峡の北岸、毛利家領、赤間ヶ関においてである。
この赤間ヶ関とは現在の下関の事であり、本州の西端にある、まさに九州や外ツ国に対する玄関口というべき位置に存在する天然の良港であり、戦略的に極めて重要な拠点なのだ。
その日、その赤間ヶ関において、誰もが想像だにしなかった大事件が起こったのである。
「な、なんじゃあれは!?」
「て、敵なのか!? は、早よう早馬にてお知らせせねば!」
水平線の彼方より、ポツリポツリと、まるで浮き出て来るかの如く、多くの船が赤間ヶ関に対して向かってくるのを見て、毛利家に属する守兵達が泡を食って右往左往する。
それらは時間と共にどんどん増えていき、最終的には二百隻にはなろうか? 大小さまざまな船が様々な旗印を押し立て突進してきたのだ。
一番多い旗印は杏葉紋。九州最大勢力の大友家の家紋である。しかしそれだけでは無い。そこには竜造寺家の日足紋、島津の十字紋等々、九州各地の大名達の旗印も含まれていた。
そしてその中でも一種異様な旗印が所々に含まれていたのである。
それは九州の地図を描き、その真ん中に大きく十字架が描かれた旗印、今まで誰もが見た事も無い旗印。
反信長九州キリスト大同盟の旗印であった。
<次話へ続く>