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No.8512の一覧
[0] 日出ずる国の興隆 第六天魔王再生記 <仮想戦記>[Ika](2010/03/19 22:49)
[1] 第1話[Ika](2009/10/26 02:15)
[2] 第2話[Ika](2009/10/26 02:21)
[3] 第3話[Ika](2009/09/20 17:54)
[4] 第4話[Ika](2009/09/21 00:24)
[5] 第5話[Ika](2009/09/27 15:48)
[6] 第6話[Ika](2009/10/03 01:03)
[7] 第7話[Ika](2009/10/10 02:52)
[8] 第8話[Ika](2009/10/15 02:22)
[9] 第9話[Ika](2009/11/03 23:38)
[10] 第10話[Ika](2009/11/09 01:36)
[11] 第11話[Ika](2009/11/15 17:37)
[12] 第12話[Ika](2009/12/06 19:17)
[13] 第13話[Ika](2009/10/26 02:05)
[14] 第14話[Ika](2009/11/01 17:19)
[15] 第15話[Ika](2010/01/27 02:52)
[16] 第16話[Ika](2010/03/24 02:33)
[17] 第17話[Ika](2009/07/06 03:14)
[18] 第18話[Ika](2009/07/19 21:44)
[19] 第19話[Ika](2009/07/19 21:39)
[20] 第20話[Ika](2009/08/10 01:09)
[21] 第21話[Ika](2009/08/16 17:55)
[22] 第22話[Ika](2009/08/23 19:18)
[23] 第23話[Ika](2009/08/23 19:16)
[24] 第24話[Ika](2009/09/21 17:09)
[25] 第25話[Ika](2009/10/15 02:11)
[26] 第26話[Ika](2009/10/10 02:44)
[27] 第27話[Ika](2009/10/11 19:23)
[28] 第28話[Ika](2009/10/18 19:21)
[29] 第29話[Ika](2010/01/17 20:08)
[30] 第30話[Ika](2010/01/12 02:27)
[31] 第31話[Ika](2010/03/19 22:12)
[32] 第32話[Ika](2010/03/28 22:36)
[33] 第33話[Ika](2010/05/23 15:07)
[34] 第34話[Ika](2010/07/11 17:21)
[35] 第35話[Ika](2010/09/27 19:30)
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[8512] 第34話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d 前を表示する / 次を表示する
Date: 2010/07/11 17:21






 <第34話>




 普段は静かな小牧の山中に、この日、様々な轟音が響き渡った。
 鉄と鉄とがぶつかり合う耳障りな甲高い音、鉄砲発射の大轟音、それぞれの将兵達の上げる怒号、そして悲鳴、断末魔の叫び……。
 信長の尾張統一より幾年月、戦乱とは無縁の状態であった平和な尾張の国において、それがほんの端であるとはいえ、久方ぶりに訪れた戦塵であった。

 「やってしもうた……。止められなかった……。家康様、申し訳御座いませぬ。織田と戦火を交える仕儀と成り申した……。無念……、無念で御座る!」

 自軍を率いて信康軍と織田軍の間に割り込み、その両者の激突を何とか回避させようとした平岩親吉であったが、それは無しえなかった。
 先頭を走っていた親吉は、その平岩隊の行動を自身への攻撃だと誤認した織田軍より加えられた鉄砲の一斉射を受けて被弾したのである。その結果、落馬してしまい、地に伏した親吉はただ呆然と脇を抜けて織田軍に突進して行く信康軍を、そしてそれを迎撃する織田軍の激突する様を眺めるしなかったのだ。
 幸い、親吉に当たった弾は急所を外れ大事には至っておらず、またすぐに廻りにいた近従達に助けられたので、命に支障は無い。だが、その間に最も恐れていた両軍の激突という事態を招いてしまったのだ。

 親吉は目の前に広がる、その逃れようのない残酷な事実を前にして、必死に考える。
 戦いの規模だけで言えば、極々小さい物だ。織田軍が森可成率いる殿(しんがり)軍、五百余名。対する徳川軍が、三河緒将の助力が得られなかった為、信康の率いる部隊が約千に、平岩親吉の率いる四百の、合わせて千四百名程度。織田・徳川両家の規模から言えば、ほんの些細な小競り合い程度の合戦である。
 しかしである、この場合はその規模など関係は無いのだ。
 問題なのは同盟国である織田家に対して徳川家の軍が無法にも突然襲いかかった、という事実である。そこに兵の大小などは関係は無い。
 これは徳川家としては致命的といっても良い程の国政的・外交的な大失点なのである。

 そのような状況下にあって、自分は如何すべきか!?
 親吉は混乱した自軍を纏め上げながら、ゆっくりとその混沌とした戦場より離れつつ後ろに下がり、必死に自分の取るべき行動を考える。

 親吉がこの場にて取り得る方策は、まずおおまかに考えて二つ。すなわち、信康に味方するか、織田に味方するか、だ。
 この場合、静観・日和見はありえない。
 信康に味方するという事は、つまるところ問題の先送りである。この場を何とかして切り抜け、その後、家康の指示を受けて徳川家の方針を決めるのだ。家康が織田と争うは已む無し、と言えばそれに従うし、織田との非戦を願うのであれば、自分や徳川家重臣達が揃って信長に土下座し、腹を切ってでも、その同盟の継続の為に力を尽くす。
 但し一時とはいえ、織田と干戈(かんか)を交えるは、織田家当主・織田信長の心象を著しく損ない、主君・家康が織田との同盟継続を望もうとも、それが通らなくなる危険性があるのだ。
 なれば、ここまでの事をすでにやってしまったのである。信康に同調し、この機に一気に織田信長の首を狙うのも一つの手だ。
 ただ、それは望み薄ではある。あまりにも今回の信康の起こした挙兵計画が杜撰(ずさん)すぎるからだ。
 もし本当に信長の首級を狙うのであらば、信長に逃げる暇すら与えてはならないのである。
 例えば親吉が今回の計画を立てるというのであらば、信長を如何にかして三河にまで招き寄せ、そして徳川軍全軍でもって襲い掛かるぐらいはしているであろう。否、それぐらい準備万端、整えてやらないとけして成し得ぬ事であろう。
 それなのに、此度の信康の行動と言えば、先程言ったようにあまりに衝動的、且つ杜撰・稚拙すぎる。
 さらに言えば、信長は名(な)うての逃げ上手。すでにこの地にて織田軍が守備態勢を整えている時点で、もはや計画は破綻したと見て良いであろう。

 ならば、信康を見捨てて織田に味方するか?
 しかし次に浮かんできたその考えを親吉はすぐさま否定する。確かにこの案は一番、安全・確実な策だ。今回のこの騒動の全ての責任を信康に着せ(実際その通りなのではあるが……)さらにその信康を徳川家自身の手で討つ事により、今回の失点を最小限に食い止める事ができる。
 一切の情を捨て、国の事だけを考えて行動するのであらば、そうすべきなのだ。

 だが、平岩親吉の心はすぐさまその考えを否定し、拒絶してしまう。
 親吉は信康の傅役である。長い間、それこそ信康がほんの小さい事から面倒を見てきた事による情もあるし、仲が良いとは言えないとはいえ信康が死ぬような事あれば、その時の主君・家康の嘆きは如何(いか)ばかりや。
 それにそのような行いは自身の誇りが許さない。自分は誇り高き精強なる三河武士。どのような状況であれ、仲間を見捨てるような真似が、どうして出来ようか……。
 そう親吉は考えるのだ。

 「……くっ、しょうがあるまい! 全軍、若の後詰めに入るぞ! 支度致せぃ!」

 ここに来て親吉は決断を下す。とりあえずは信康の味方をし、この場を切り抜ける、という決断である。
 もはや深く考えるだけ無駄なのだ。この後に及んでは、親吉一人の力でなせる事はほとんどないのである。できる事があるのだとすれば、それは何とかしてこの騒動の決着を、この状態をできるだけ波風立たせずに軟着陸させる為に努力する事、この場の織田軍を出来るだけ損害を出さずに(この場合は織田・徳川双方共の意味である)撃退し、さらにできるだけ早く信康を説得し兵を引かせる事なのだ。
 親吉は御多分に洩れず、屈強頑固な三河武士その物のような人物である。そして極めて勇敢な人物でもあるのだ。そんな彼が、攻めるか退くか五分五分の状況にて決断を迫られるのであらば、親吉は迷わず攻撃を選ぶ。それこそが三河武士の誇りであり、魂その物であるからだ。

 「織田軍を威圧せい! 但し、深追い不要! 無駄な人死には後の禍根を残すのみ也!」

 今まで最初に銃撃を受け、一旦下がってからは戦闘に加わっていなかった平岩親吉の部隊が、親吉の号令を受け、一斉に攻勢に転ずる。

 「織田軍は軽装! 恐るる事は無し! じっくり仕寄り、押し崩せい! 威圧し、追い散らせい!」

 平岩親吉隊の突入により、戦況は一気に徳川方有利に傾く。織田方の将・森可成は自軍の2倍の数を誇る信康の部隊の攻撃を見事に支えていたのだが、そこにさらに自部隊と同等の数を誇る親吉隊の突入を受けたのであるから、もう堪らない。
 さらに親吉隊は森可成隊の弱点も付いて来たのだ。親吉は森可成隊が急造・寄せ集め故の軽武装であると見てとると、弓矢を多用した攻撃を指示。
 普段であらば、完全武装した軍装であらば、なんなく耐えられたであろうその攻撃に、その降り注ぐ矢の雨に、森隊は少なくない出血を強いられる。本来なら当然、準備されているような竹束などの防御手段が十分に無い為だ。
 その降り注ぐ矢の雨が勇敢に戦う森隊の兵士達に次々と突き刺さる。数多くの激戦を戦い抜いてきた猛将・森可成率いる部隊はそれぐらいで崩れるようなやわな部隊では無いが、しかし彼らを怯(ひる)ませるには十分であった。
 平岩親吉隊はその隙に生じて森隊陣列に浸透して行く。また戦術も無く猛進していた信康隊もそれに乗じて、さらに攻勢を強める。

 「もう一息か……。じゃが粘りよるわ……。何故、崩れぬ……。不味いな、このままでは……」

 そして先端が開かれてよりすでに半刻と少し。戦況は徳川方が有利だ。しかしである、親吉はこの状況に焦りを覚え始める。
 元々、親吉はこの場で織田軍を全滅させてやろう、敵将・森可成をなんとしても討ち取ってやろう、などとは考えていない。元より望んだ戦いでは無いし、なし崩し的に参加した戦いである。劣勢な織田軍を威圧し、圧力を掛け続ければすぐにその陣列を崩せ、追い散らせる、と考えていたのだ。それが如何であろうか? 戦況は圧倒的に徳川方が優勢であるのに、いまだに崩れる気配すらない。

 さらにいえば森可成を討ち取ってしまうのも、後の事を考えれば不味いのだ。
 森可成といえば、信長が幼少のころより仕える重臣中の重臣。今のこの状態ですら不味いのに、さらにこの可成まで討ち取ってしまっては、織田との関係は修復不可能な所までいってしまう可能性すらあろう。
 だからこそ親吉は織田軍の潰走をこそ望み、徹底的に面で押し込んでいたのである。
 さらに言えば、織田方後方には兵を送っていない。包囲はせずに織田方の将兵達が逃げようと思えばいつでも逃げれる道を与えているのだ。
 織田方は逃げようと思えばいつでも逃げる事ができる。そしてそうなれば、親吉は追い討ちはしないつもりである。ただ追い散らせば良し、とだけ考えていたのだ。
 しかしこの状況に至っても、織田方にはその気配すら無い。全将兵が必死に前だけを見て、死に物狂いで抵抗を続けている。一人として逃げだす者はいない。
 状況は親吉の予想・希望に反し、もはや血みどろの消耗戦の様相を呈していた。信康の考え無しの猛攻も、さらにそれに拍車を掛けている。両軍の兵士達が死闘を繰り広げ、まさに阿鼻叫喚。ただ死屍累々とした状況が眼前に広がるのみだ。

 それもその筈、徳川方は気付いていなかったが、森隊各将兵達はいわば死兵。殿(しんがり)を任された彼らはすでに命を捨てていたのである。
 さらに信長の鷹狩りの護衛の為にこの場に来ていた彼らは、幸か不幸か少数精鋭という状態だったのだ。だからこそこの森隊将兵達は、たかが五百、されど五百…、だったのである。
 その死兵たる彼らが死に物狂いで抵抗するこの戦場・織田軍の陣列はまさに鉄壁。いくら攻めようとも死ぬまで戦い続ける彼らに損害のみが積み重なっていく。
 森隊の状況は、後少しで突き崩せそうな様相であるというのに、それが攻め切れない。決定的なところで持ち堪えられてしまう。その状況が早、四半刻ほど続いていたのだ。
 これでもしこの地にいるのが織田軍有数の猛将・森可成の率いる部隊でなければ、もしくは逆にもっと数が多く、戦闘の途中に逃げ出すような練度の低い兵が少しでも混ざっていれば、今の状況とは違った戦況になっていたかもしれない。
 しかし仮定の話しをしても仕方が無い。状況は斯(か)くの如しである。
 遅ればせながら、ようやく親吉もそれに気づいた。

 「甘う見すぎていたな…。彼奴ら、すでに死兵か…。見事な物よ。じゃが、呑気な事も言うてられんわ…」

 「親吉様、如何致しましょうや? このままでは埒(らち)が明きませぬ。味方の損害も増えるばかりにござる。なんらかの手を打ちませぬと…」

 織田軍のその様子に気付いた親吉がおもわず弱音を洩らす。それに合わせるように側近の一人が親吉に新たなる指示を求めてくる。
 だが親吉はその問いにすぐ答えることができなかった。
 先程も説明したように、後の事を考えれば、やりすぎても不味いのである。すでにこの織田軍を攻めているという状態ですら最悪だと言うのに、さらに名の有る将を討ち取ってしまえば、徳川家の未来はどうなる事か。
 だが状況は、といえば完全な手詰まりだ。織田方は最後の一兵まで戦い抜くかの如くの勢いである。
 死兵には当たるべからず。それが戦場での定石(じょうせき)だ。それなのに、今現在、真正面からがっぷり四つになって戦ってしまっている。

 本来であればここまで苦戦はしていない戦だ。数でいえば徳川方は織田の三倍。装備も比較的軽装な準備の完全に出来ていない織田方に対し、完全武装の徳川軍。
 それなのに未だに徳川軍が勝利を収めていない理由は先の織田軍の奮戦振りに加えてもう一つ。徳川方、さらに言うと平岩親吉が自ら戦術において大きな枷を嵌めて戦っているからだ。
 先程も行ったように、この戦はただ勝てばよいという戦では無い。親吉は後の事も考え、極力、波風の立たない状態で収めなければならないのだ。
 それらの思案が、様々な制約となって親吉の手足を雁字搦めに縛ってしまう。
 信康は端から考え無しに猛攻を加えているが、これも有効打とはなっていない。経験豊富な森可成の指揮に、上手く受け流されているような状態である。
 別に信康が無能であるという訳では無い。ただ未だ年若い信康には圧倒的に経験が足りていないのだ。普通であれば、例えば経験豊富な親吉のような百戦錬磨の将が補佐に付いて助けるのが常道である。がしかしだ、此度の戦は元は暴走した信康のその動きにずるずると引きずられ、泥縄式に参加してしまった事により、そこまでの算段をする余裕すら無かった。
 その為、信康を補佐し助ける者はおらず、信康は唯一人で部隊の士気を採る。別段、信康の指揮が不味い訳では無い。ただ可成の老練な采配には敵わない、ただそれだけである。
 今も突撃する信康隊の将兵達を織田軍は柔らかく受け止め、受け流し、信康隊が攻勢限界に達したところで押し返す、といったような動きが何度も繰り返されているのだ。

 戦況が手詰まりとなった事を悟った親吉は必死に打開策を考える。だが、何も浮かんでは来なかった。否、手はあるのだが、後の事を考えると躊躇ってしまうのである。













 <織田軍 森可成隊>


 「稚拙な……。あれが家康の倅か? まだ若いな。戦場(いくさば)の妙という物が判っておらぬわ。じゃがまあ、あの歳では仕方が無いかもしれんがのう……」

 可成は自身の目前で繰り広げられている激戦を眺めながらポツリと静かに呟く。
 彼の視線の先には、最前線に程近い地点で必死に自軍を奮い立たせながら采配を振るう信康の姿があった。

 「あの歳で、単身あれだけの采配が振るえれば、上出来と言えるのでは? これで経験を積み上げていけば、一廉(ひとかど)の武将になりましょうぞ」

 「まあ、それもそうじゃの。じゃがそれ故に芽は早い内に摘み取っておくべきか…」

 可成の呟きを聞きつけた側近の一人が答える。その側近の答えに可成は深く考え込む。
 それはこれから採り得るべき戦術の事であった。幸い、現状は拮抗した状態であり膠着(こうちゃく)している。だが逆に言えばそれがいつまでも続くという物でも無いのだ。
 確かに今は防げている。だが兵力差は三倍。その意味は大きい。戦場において数は絶対なのだ。
 今はまだいい。だが最前線で戦う兵士達の体力は早晩(そうばん)尽きてくる。織田軍・徳川軍双方が同じ状態で戦ったとして、同じ時点で体力が尽きたとしても、単純に考えて徳川軍には後二回、交代させるための兵がいるのだ。
 そうなれば支え切るのは不可能である。あくまでも時間制限付きの膠着状態。今の現状はそう判断すべき物であろう。
 なれば、まだ元気の残っている内に何か手を打つべきでは無いか?
 それが可成の脳裏に浮かび、そしてずっと考え続けている事だったのである。

 そもそも可成は今回の戦いが始まってから、何処か拍子抜けした部分を感じていた。
 可成は徳川軍が攻めて来ると聞き殿を任されてからは、万とは言わずとも、七、八千程度の軍勢と戦わなければいけない、と覚悟を決めていたのである。それがいざ蓋を開けてみれば、敵勢僅か千五百。逆に何か罠ではないのか? と咄嗟に考えた程に最初に考えていた数字からかけ離れた数なのだ。
 さらにその内の五百、旗印から見れば平岩親吉隊はやる気があるのか? と疑う程の消極的な戦い方である。
 それ故、敵勢実質約一千。だからこそなんとか支え切れている状態ではあるのだが……。

 ここに来て可成にはある欲が出て来ていた。
 想像だにしていなかったこの戦局の優勢さを受けて、一旦は確実な死を覚悟しておきながらも、生き残れるかもという可能性を前にして、さらに大きな功名(こうみょう)という欲が出てきたのである。そしてその功名はすぐ目前にあるのだ。そう、徳川信康という抜群の功名である。
 そして可成はここにきて覚悟を決め決断を下す。

 「中陣、本営の残った兵達を纏めよ。攻撃に転ずるぞ。敵将・信康を討ち取る」

 「よろしいのですか? 我等の任は殿(しんがり)で御座る。このまま支え続けておるだけでも、それだけで功名でございまするが?」

 「すでに戦が始まってより一刻以上。すでに殿としての任は完遂しておる。それに殿だとは言っても、守備だけしていなければならぬ道理はあるまい。討ち取れるようであらば、討ち取ってしまっても良かろうて。それにこのままではシリ貧じゃ」

 「それもそうで御座いますね……。委細承知。準備を始めます」

 可成は守備から攻撃に転ずる事を決断、すぐさま側近近従に対して攻撃準備の命令を下す。その命令を受けて、皆が一斉に動き出した。可成自身も兜をかぶり直し、手槍装備を手に馬に跨る。
 この決断は生き残るだけではなく、さらに勝利しようという為の決断だ。
 すでに可成は殿の任は達成している、と判断している。
 元々、この地は国境とはいえ尾張の国、織田の領地なのだ。これが敵地の奥深くと言うのであるならばまだしも、本貫である尾張であるならば、妨害無く全力で逃げる事ができれば一刻で安全圏にまで到達可能である。
 だからこそ信康としては、もし本当に信長を討つつもりであれば逃げる隙すら与えてはならなかったのだ。
 元より眼と鼻の先。一日あれば数千。二、三日もあれば万を超す軍勢が三河国境に展開できるだろう。

 「者共、見よ! いまだ乳飲み子の如き小童(こわっぱ)が、身の程も弁えずに我等に襲い掛かってきおったわ! まるで子犬が虎を犯すが如き哉! 笑止! 残らず踏み潰すべし!」

 「応おおうぅう!!」

 後顧に憂いの無くなった可成は、攻勢に転ずる為に怒号を発しながら采配を振るう。
 それは一種の賭けである。今は一種、膠着状態であるとはいえ、味方の数は敵の三分の一。だが猛将である可成は守勢によるジリ貧よりも攻勢による勝利を望んだのだ。
 可成のその怒号に、織田軍殿隊の将兵達が同じく怒号で答え、一気呵成に突撃を始める。

 だが可成は重大な事を一つ見落としていた。
 彼がやる気があるのかと疑うほど消極的、と評した平岩親吉隊の思惑を。
 経験の浅い信康隊では無く、経験豊富な、信康隊の半分しかいない彼らこそが、この地にいる徳川軍の本隊・主力のような物である、と。












 <徳川軍 平岩親吉隊>


 「て、敵軍、突如一斉に攻勢に転じました! 信康様の部隊が攻め立てられておりまする!」

 「何じゃと!? 馬鹿な!?」

 その報告を受けた平岩親吉は驚き、戸惑う。
 あの数、あの劣性の中で反撃に転じるとは、何たる豪胆。流石は猛将・森可成よ、と称賛の念が湧き起こってくる。
 だがあまり悠長な事も言ってられない。あの猛将・可成が反撃に転じたとなれば、経験の浅い信康では対応しきれない可能性がある。

 「若は無事か!? 状況は如何なっておるか!?」

 「信康様は前線に程近い地点で采配を取っておられました故、真っ先に狙われておるとの事! ですが側近衆達の奮戦により無事にはございまする! されど『未だ死地に有り! 至急援軍を乞う!』 との事!」

 「畜生、読み誤ったわ! 余裕ぶって攻めた結果がこれか! 何が威圧し押し崩せか! ワシはとんだ無能者よ!」

 親吉の心中に、称賛の後に湧き上がってきたのは後悔の念であった。
 よかれと思い取った行動の結果がこのざまである。ずるずると戦闘が長引き、とうとう信康の身にまで危険が及んだのだ。その結果に親吉は打ちのめされる。
 だが皮肉な事に、逆にこの出来事が親吉の中の迷いを打ち砕いたとも言えた。

 「五介! 百を率いて突出した織田軍に対して横槍を入れよ! 首は拾うな! ただ遮二無二、突き進め! 功名を考えるでないぞ! ここがお前の死に場所じゃ! 生きて帰るな!」

 「おう!!」

 「残る者共は我に続けい! 若を救出するぞ! 全軍突撃!!」

 「応おおぉぉう!!」

 今までの方針を全て放棄し、一斉に平岩親吉隊は攻勢に転ずる。それは今までの攻撃とはまったく違う、苛烈な物であった。皆が一丸となって、まるで火の出るような勢いで織田軍に襲い掛かったのである。
 親吉は部隊を二つに分け、百を分派しそれを五介という勇敢な配下に託すとそれに織田軍への突撃を命じた。その命令は冷徹な物、つまりは捨石・時間稼ぎの為の決死の突撃である。
 そして親吉率いる本隊四百は信康救出の為に動き出したのだ。

 ここに来てようやく徳川軍はその本領を発揮し出す。
 五介の部隊はすぐさま織田軍の横腹に突入し、その勇猛振りを存分に発揮し、織田軍の反撃を受けて危機に陥った信康の事を守る信康側近衆達も脅威的な粘り・献身をみせて文字通り我が身と引き換えに信康を後方に逃がし続けているのだ。
 これぞまさに三河武士の面目躍如。甲斐や越後の強兵達と比べても、勝るとも劣らぬと称される彼らの実力である。
 それに焦ったのが、いけると思い攻勢に転じた森可成であった。
 彼は急激に悪化する状況に焦る。

 「可成様! 敵・平岩親吉隊が突っ込んで参りまする。横槍を入れられました!」

 「馬鹿な!? 何故今になって突然動き出すのじゃ!?」

 可成達、織田軍将兵達にとって、それはまさに豹変、と言ってもよい程の突然の変わりようであった。
 いままで然したる動きの無かった彼らが、まるでやる気のなさげであった彼らが何故? それらの思いが可成の心中を埋め尽くす。
 だがしかし、一つだけしっかりと判っていた事もある。すなわち、自分は一世一代の賭けに負けたのだ、と。
 戦況は刻一刻と悪化して行く。

 「よ、可隆(よしたか)様、御討ち死に! 後備え、崩れます!」

 そして、しばらくして極めつけの凶報がもたらされた。嫡男可隆の討ち死にである。
 可隆は横槍を入れてきた徳川方の将・五介の突進を止めるために奮戦し、それを討ち取るのと引き換えに、壮烈な討ち死にを遂げたのだ。

 「そうか……。可隆……。親不孝者め…、ワシよりも先に逝きおったか……」

 自分の拙い、そして不用意であった采配によって我が子・可隆を死に追いやってしまった。そう可成は考えてしまう。
 可成にとってはタイミングが最悪な物であったのである。あの親吉の逡巡(しゅんじゅん)が、迷いが、結果的に可成を誘(おび)き寄せる為の最高のエサになってしまったのだ。
 現に可成もそう考えたのである。すなわち最初のあのやる気の無いような攻めは、自分を誘き寄せるための罠であったか……、と。
 そして自身が攻撃に転じた後の平岩親吉隊の働きはまさに見事の一言。その猛烈な攻めで、森隊の可隆を討ちとり、後備えが崩壊してしまっている。

 「もはやこれまでか! 我が命運はこれにて尽きたわ!!」

 可成は覚悟を決めた。賭けに出て、そして負けた以上、もはや打つ手は無い。残った選択肢はただ前に進むだけである。

 「全軍、遮二無二に進めい! もはや後背に我等が退き口は無し! 進めい! 我等が生きようと思わば、もはや前に進むしか無し! 信康を討ちとれい! それで我らが勝利ぞ!」

 危機に陥った森隊の将兵達を奮い立たせる為に声を張り上げる。
 しかし、自身で叫んだその内容であったが、可成自身はもはやそれすら叶わぬ、と悟ってもいた。ありもしない勝算を掲げ、なんとか士気を保とうという苦肉の策でしか無い。
 信康の首級を求め猛進する可成。その攻撃より必死に逃げる信康。可成の進撃をなんとか止めようと死に物狂いで抵抗する信康の側近旗本衆達。絶好の機に可成隊に横槍を入れ、森隊を刻一刻と喰い破って行く平岩親吉隊。
 例えるなら生死をかけた棒倒しである。信康が死ぬのが先か、可成が死ぬのが先か……。森隊は壊滅する前に信康を討ち取れるか、逆に徳川方は信康が討ち取られる前に森隊を殲滅できるか……。その競争なのだ。

 「敵勢の勢いは弱まったぞ! 好機也! 押し戻せぃ!」

 そして限界は、決着は訪れる。猛進する森隊の前に築かれる平岩隊の幾重もの防衛線。刻一刻と強くなる周囲よりの圧迫。
 森隊が限界に達し、遂にその動きを止めてしまう。所謂、攻勢終末点という物だ。ある地点において、まるで力尽きたかの如くその勢いを完全に喪失してしまうのである。それはまるで空に向かって投げたボールが力を無くして地面に落ちて来るが如く。
 そして一度力尽き、動きを止めてしまった部隊は二度と動けない。その為のエネルギーがもう無いのだ。

 「どうしたー! 行けぃ! 攻めよ! この場に留まるは唯々、無駄死にするだけぞ! 動けぃ!」

 可成が必死に鼓舞するが、その部隊はもはや動けない。否、正確に言えば、個々には動いているのだが、すでに軍としての集団の動きが出来ていないのである。
 これまで幾重にも築かれる信康隊の、平岩隊の防衛線を幾つも踏み潰し、突破してきた森隊であるが、もはや為す術無し。各部隊は散り散りとなり、まるで溶けていくかの如く、個々に殲滅されて行く。

 「これまでかッ! 信長様、申し訳御座いません! 可成はここまでで御座る!」

 その状況を、潰走へと至った部隊の状況を受け、可成は最期の覚悟を決めた。
 せめて最後の意地を見せんと、この場に来るまでにボロボロになった満身創痍の身体に鞭打ち、返り血に塗れる顔を鬼の如く顰め、最後の突撃に移る。

 「おおおおぉぉおぉお!! 遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 織田家家老・森可成、此れに在り! 同盟の信義も守れぬ卑怯千万な鼠賊(そぞく)共に、真の武士(もののふ)の死に様、存分に見せてくれようぞ! 参れぃ!!」

 可成のその裂帛の叫びに、その怒涛の如き迫力に、そして彼の振るう稲妻の如きその槍に、気圧(けお)された徳川軍将兵が怯む。
 その可成の誇り高き姿・威容に敵味方を問わずして見惚れる。だがしかしである、その行動は同時に無謀でもあった。

 「功名首じゃ! 兜首じゃ! 取り囲めぃ!」

 「槍衾で止めよ!」

 「あの首はワシの物じゃい! 邪魔するな!」

 功名に逸(はや)る雑兵達が可成に群がってくる。その者達を可成は蹴散らして行く。次々に馬蹄にかけ、手槍で貫き、吹き飛ばして行く。
 しかしそれも長くは持たない。四方八方から向かってくる兵達に次第に抗しきれなくなる。

 「えい! とう! えい! とう!」

 呼吸を合わせ、声を合わせ、一斉に付き入れられる穂先・槍衾に絡め取られ、まず乗っていた馬がやられた。槍をその身に幾本も突き入れられた馬は激痛に身悶え、そして後足で仁王立ちとなり、乗っていた可成を振り落とす。
 地面に身体を強く打ちつけた可成であったが、すぐさま立ち上がり、再度駆け出そうとする。
 そうしないとすぐにやられてしまうからだ。
 だが、その可成に終わりを告げる物は、思いもよらぬ所から齎される。
 少し離れた所から聞こえたバババンという、鉄砲発射の大音声。そしてその一瞬後に可成の眉間にボツリと一つの穴が穿(うが)たれた。頭を後に、大きく弾かれたように動かした可成は、そのまま2・3歩前に歩いたかと思うと、そのまま崩れ落ちるように倒れこむ。
 その瞳にはもはや何も映してはいなかった。完全な即死である。そしてその可成に、よってたかって雑兵達が群がり、その首級を掻き毟った。

 「敵将、森可成! 討ち取ったー!」

 信長が家督を相続する前からその傍らに侍り、補佐し続けてきた忠臣、織田家家老・森可成ここに討ち死にす。享年五十二歳。驚異的な程の奮戦の後の討ち死にであった。















 「勝つには勝ったが…、とうとうやってしもうたか…」

 戦勝に沸き立つ信康隊の将兵達の、その喜ぶ姿を、平岩親吉はどこか呆然としたように、ただ凄惨な戦場の跡を眺めつつ呟く。
 数多の両軍兵士達の骸(むくろ)が累々と、その無残な姿を晒す。
 この無意味な戦いでの両軍の損害は甚大であった。
 織田方・森可成隊は大将すら討ち取られ、文字通りに全滅。生きて無事に逃げかえった者など、本当に数える程である。
 対する徳川方も、織田軍の猛攻に押され、全体の三割という、勝った側からしても異様と言える程の損害を蒙った。信康隊の雑兵達はその欝憤を晴らすかの如く、まだ息のある織田軍の将兵達にトドメを刺したり、またその場に放棄されていた、信長が鷹狩りの為に持って来ていた高価な道具や調度品などの略奪に走っている。

 無論、家康が居ればこのような無秩序な状態には陥っていなかったであろう。
 信康にはまだこれだけの部隊を統率するだけの実績も実力も経験も不足しているのだ。そして理由がもう一つ……。

 「しっかりなさいませ! これからが正念場でございまするぞ!」

 「う、うむ。ああ……」

 力無く地面に蹲(うずくま)っていた信康に、親吉は発奮を促すように声を掛ける。
 しかし、声を掛けられた信康はと言えば、ただ力の籠らない生返事を返すばかりであった。

 信康にとっては、思いもしなかった森可成隊の猛攻に、その精神が限界に達していたのである。
 但し、これは信康が臆病であるとか、そういう意味では無い。
 元々無理があったのだ。
 信康はと言えば、元より年若く、初陣は済ませているとはいえ、実戦経験はまだ無いに等しい数である。さらにそれらの戦は、初陣で万が一があってはならぬと、勝てる戦、簡単な戦を家康が吟味した上で参加した、ある意味勝ちが約束された戦ばかりであった。
 当然の事ながら、命の危機に面した事などこれまでになかったのである。
 しかし、この戦場において、信康は初めてその命の危機に瀕した。思いもしなかった森可成の反撃を受け、馬廻り衆達に守られながらの、命からがらの逃走劇を強いられたのである。
 その身体の芯から凍りつく如くの途轍の無い恐怖と絶望感。自身の周りで、自分を守りながら、今まで親しく話していた者達が次々と死んでいくその無念さと怒り。
 それらは信康の初めて受ける戦地の手荒い洗礼であり、そしてもっとも人間としての根本に根差す物、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、正義も悪も大儀も不義も無い、もっと剥き出しのただの本能その物のぶつかり合いであった。

 今の信康には、そのまだ年若い未成熟な心に叩きつけられた暴風の如き殺意・害意に傷ついた心を癒すのには、ただただ時間が必要である。
 一ヶ月や一年とは言わない。元より根が勇猛果敢な信康であらば、一晩二晩もあれば、ある程度の踏ん切りを付けてまた今までと同様に戦えるだろう。
 だがしかし、この場ではもはや無理なのだ。これ以上無理をするのは不可能である。始めての命の危機を覚えての退き戦は、それほどの衝撃を信康の心に叩きつけていたのだ。

 しかしである、状況がまだ信康が休むのを許さない。

 「若! ここまでやってしまったのです! もはや退くという決断は無くなり申した! すぐさま追い討ちを掛け、信長公の御首(みしるし)を上げるべし!」

 親吉は開戦前の方針を百八十度、転換し、さらなる進軍を信康に求めた。
 織田家重臣、森可成を討ち取った事により、もはや状況は冗談では済まなっている。そしてこの状況において、徳川家の最善は、もはや可能性は零に近くとも信長を討ちとりその首級を挙げる事である、と判断していたのだ。こんな所で、たかだか重臣の一人を討ち取った所で止まる訳にはいかないのである。

 「……いや、もはやこれで十分じゃ。これで我等が義は、信長の不義に対する徳川の義の旗印はこの地に打ち立てられた。もはやこれ以上の犠牲は無意味であろう。引き上げじゃ……」

 「な、なんですと!? このような中途半端な所で退くつもりで御座いまするか!?」

 信康に、もはや織田軍と戦う闘志は残っていなかった。
 彼は現状これだけの成果で、十分にその目的を果たした、と判断したのである。元より彼に何としても信長を討ち取ってやろうぞ、とは思ってはいないのだ。ただ自らの信ずる正義の為のその行動を天下に示せればそれで良かったのである。だからこそ、すでに心を折られた彼は撤退を望んだ……、否、それしか考えられなくなっていた……。
 しかし逆にそれに納得がいかないのが親吉である。彼は信康に向かってさらに吼えた。

 「もはや情勢はそのような段階にあらず! 我等はただ前に突き進むのみ!」

 「やめよ…。もはやこれ以上の戦いは無意味。いらぬ犠牲を出すだけじゃ…。信長は重臣を捨石にして無様(ぶざま)に逃げ出した…。天下の笑い物になろう…。それで十分じゃ」

 「笑い物!? なにを愚かな事を! それにいらぬ犠牲!? ならばお聞きしますが、今この場で無残な屍をさらすこの両軍の将兵達の死には意味があったとでも言うのですか!? 意味を作るのはこれからに御座る! 信長公の首級を挙げて初めて彼らの犠牲に意味が生まれるのです! もはや我等の命はその為にのみ存在するのです! すぐさま進軍を再開すべし! 信長の首級をとるか、それが果たせぬであらば、我等打ち揃って討ち死にすべし!」

 親吉にとって、この後に及んで唯々考えるのは、何としても守ろうと考えていた信康の事でも、勿論自身の事でも無い。ただ徳川家の行く末だけであった。もはやここまでの大事を起こしてしまった自分達は信長の首級を上げられなければ生きて帰るべきでは無い。否、生き残ってはならないのだ。
 この後、当主・家康が和・戦、どちらの方針を取るか判らない。しかしどちらにしろ責任をとる者が必要であり、そしてそれを当主・家康に被せてはならないのである。

 「彼らは信長の不義を正す為に、正義の為に戦い、そしてその犠牲となったのだ。誠の義の烈士也。それを責める者がいようものか……」

 「まだそのような世迷言を申されるか! 何が不義か、何が正義か、何が義か! そんな物は戦場においては何の意味もござらん! ワシは若の教育を根本から誤り申した! ワシは武骨者ゆえ、侍の心意気や武芸を重きとして、御教授して参りましたが、国政のなんたるかを、人の上に立つ者、当主たる者にとって何が一番大切な事なのかを御教えする事が、御理解して頂く事が出来ていなかったようでござるな!」

 「人には命を掛けても何かを為さねばならぬ事がある。何故それが判らぬ? この織田に対する正義の鉄鎚は天下万民の望む大儀也。その為に死ぬるは彼らも本望であろうぞ……」

 信康がそう言った瞬間であった。親吉の身体が動き、渾身の力を込めた拳を信康の頬に叩き込んだのである。
 殴られた信康は、全く予期していなかった事もあり、大きく吹き飛ばされた。力無く地面に横たわり、何が起こったのか判らない様子でただただ、呆然としている。

 「親吉様! 一体な……に……、を……?」

 その親吉の、突然の暴挙とも言える行動に吃驚仰天した信康の側近旗本衆達が親吉を止めようと詰め寄ろうとするが、直ぐにその動きを止めた。
 それもその筈、親吉はその双眸から滂沱の如き涙を流しながら、声も発さず泣いていたのである。その親吉の予想だにしていなかった様子に、皆は動きを止めた。

 「彼らも本望? 若、それを苦しみながら、大切な者達をこの世に残して死んでいった、彼らの死に顔を見ながらでも同じ事を言えまするか? それを嘆き悲しむ彼らの遺族の前でも堂々と言えまするか? 無論、我等徳川家の臣、当然ながら御命令あらばいつでも死ぬる覚悟はできて御座る。しかしで御座る、それは徳川家の御為に、故郷を守る為に、我等の子々孫々の為になればこそで御座る……。けして、こんな、こんな若の言う正義を為す為ではござらん!」

 「ち……、親吉……」

 力一杯に殴られ、熱を持ち酷く痛む頬を抑えながら信康は力無く親吉を見上げる。
 彼にとってはこんな親吉の様子はまったく想定していなかった。自分は正義を成しているのだから、当然皆から褒め立てられる物だと思っていたのに、その全く逆の反応である。
 こんな筈では無かった……。それが信康の一番の思いであった。
 それと同時に現状に対する怒りが心中より湧きおこってくる。何故自分がこんなにも責められなければならない、何故自分の思いを判ってくれぬのだ…。
 そんな不平不満が後から後から湧いて出て来る。信康のその若い心が、今のその現状を認められない、認める事ができない。だからこそさらに意固地になってしまう。
 何故誰も自分や母上の事を理解してくれない、何故正しい自分が責められなければならない、あの信長に媚び諂う父などより自分の方が国の為に有意義な仕事ができるのだ。母上も大賀弥四郎達側近衆達もそう言ってくれているのだ。だから自分は間違ってなどいない。間違っているのは、正義を理解できない愚かな俗物は親吉の方なのだ……。

 今の信康は思考方向が一方向で凝り固まっている。若い時分にありがちな潔癖気味な正義感と、自らの母親の教育のその二つが合わさり、自らの考えを疑わない、疑う事ができないような状態になっていた。
 勿論、自分の考えに自信を持つのは良い事ではある。だがしかしだ、それが客観的に顧みれない状態にまでなるのは極めて危険なのだ。過剰な自信、すなわち盲信は道を誤らせる元となる。

 「もはや問答は無用で御座る。それがしはこれにて別行動を取り申す。これにて今生の別れで御座る。しからば御免!」

 親吉にはそのような信康の心中が、その不満げな表情やその仕草などから、ある程度の予想がついてはいた。しかし彼には時間が無かったのである。本当ならそのような信康に、教え諭してやりたい、傅役として、またその成長を見てきた年長者として、最後まで導いてやりたいとも思う。だが誰かがこの戦いの決着を付けなければならない。
 むしろこれで良かったのかもしれない……。
 そう親吉は考える。少なくともこのまだ年若い信康を死なせずにすむのであるから……。

 親吉は信康に一方的な別れの言葉を告げると、すぐさま自陣に帰り、とある用意を始める。
 それはこの戦いの責任をとる為の準備であった。

 「森殿の御首(みしるし)は?」

 「はっ、可成殿、可隆殿、共にこちらに」

 「この書状を家康様と石川数正殿にお渡しせよ。但し、これは此度の顛末等を記した重要な書状であるので、必ず御本人にお渡しするのだ。誰であろうと、それ以外の者に渡すでないぞ」

 「はっ、承知仕りました!」

 矢継ぎ早に、次々と指示を飛ばしていく親吉。それと同時に自隊の準備・再編成を同時に進めていく。
 それとは逆に撤退の準備を進めていたのは信康隊である。

 「親吉様、信康様よりの御連絡です。先に退かせて頂く、との由」

 「ああ、かまわん。御先に御退き候へ(おさきにおひきそうらえ)、と返しておけぃ」

 この局面にきて、平岩親吉隊は独自の判断により、共に撤退する物と思いこんでいる信康を欺き、信康隊と分かれて、単独行動に移った。
 その方針通りに信康隊の撤退を見届けた後、おもむろに穂先をその逆に向ける。

 「ああ、今日はこんなにも空が高く、清々しい日であったのか……。あまりにも忙しく、色々な事がありすぎて、そんな事にも気付けなんだか……。美しく、なんとも爽快な心持ちよ……。なあ、皆よ……、死ぬるには良い日ではないか……」

 再度、隊列を整え、親吉の命令を待っていた自軍の将兵達に、おもむろに空を見上げながら親吉は語りかけた。その親吉の言葉を受け、皆が様々に空を見上げる。

 「ええ、本当に気持ちの良い日和で御座いまするな……」

 「誠に……」

 皆が笑いながらその言葉に同意を返す。その彼らの表情は何かを覚悟したかの如く、なんとも穏やかで、そして涼やかな物であった。

 「皆の者、すまぬな……。ワシの力が至らぬばかりに、このような所業に至ってしもうた……。その責を負い、また後に残る御屋形様を始めとした徳川家の皆々の為に、我、此れより死出の旅路へと参らん……。だが、皆はそれに付き合う道理は無し。罪には問わぬし、不名誉にもならぬ。速やかに陣を離れ、故郷(くに)に帰るべし」

 「何を申されまするか? たったお一人でお行きになさる御積もりか? 一人占めは浅ましいですぞ。我等もその死出の旅路、意地でも御一緒させてもらいまする」

 「然り。我等、誇り高き平岩隊。どこまでも殿と御一緒に」

 親吉は脳裏に浮かべた、これよりの決死の道程を考え、逃がせる者は逃がそうと、部隊からの離脱を命令。しかしそれに応じる者は唯の一人もいなかった。
 全員が僅かな微笑を顔に浮かべ、そして真っ直ぐに親吉を見詰めながら同行の意を示す。

 「くっ……。皆の物、すまぬ。誠、有り難き哉……。ならば最期まで共に参らん!」

 その皆の様子に、その皆の誇り高き涼しげな顔に、親吉は感動を覚えつつ、自身最後となる命令を下す。乗馬に跨り、右手に抜き身の刀を持ち、それを前方に振り下ろしながら渾身の思いを込めた命令を発した。

 「此れより我等、岐阜城に向け進軍する! その間、繰り返し大声で歓呼すべし! 『我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!』 さあ、繰り返せい! これが我等が死出への念仏代わり也!」

 「応! 我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!」

 親吉の命令を受け、皆が口々に大声でその言葉を繰り返す。そしてその内容とは今回の乱についての責任の全てを、汚名の全てを一心に受けようとの、覚悟の宣言であったのだ。すなわち乱の首謀者は自分であり、また敬愛する当主家康をも罵倒する事により、今回の騒動は徳川家とは何の関係も無いとの事実を天下に示さん、との宣言だったのである。
 勿論、こんな大声を出しながらの行軍では速度も出ないし、すぐに織田軍にその居場所を補足もされよう。
 だが、それこそ親吉の望む所なのだ。すでに時間的に見て、疾うの昔に信長は岐阜城に入っているだろうし、城下町に常に兵を集め、何処の大名よりも常設の兵隊の比率が高い織田家である、すでにかなりの数の軍勢が待ち構えていよう。
 だがそれで良い。それこそが望む事なのだ。
 この混乱下において、逸早く自分が首謀者であると宣言し、そしてさっさと討ち取られる事によって、その責任を混乱が収まらぬ内に自身のみで負い、そして幕をおろさん、との算段なのである。
 その為に、自身の死を最大限に利用できるように、と、先の当主家康と石川数正に送った書状にもその為の算段を書き、徹底的に自分に責任・汚名を負わせる事によってこの苦境を乗り越えるべし、と書き連ねてあったのだ。

 これこそが親吉の、否、誰よりも誇り高き三河武士団の忠節である。
 おそらく汚名を負った平岩の一族は爪弾きにされ、辛酸の未来を歩む事になろう。残された妻子達も詰め腹を切らされるかもしれない。歴史にも汚名のみを刻み、先々の人々からは蔑みと軽蔑の念でもって見られるようになろう。
 だがそれだけで、平岩一族が犠牲になるだけで当主家康を始め、三河の者達の為になるのであらば、比べるまでも無し。

 「我、此度の乱の首謀者、平岩親吉也! 佞臣(ねいしん)信長に、そしてそれにおもねる卑怯者、徳川家康に一槍馳走すべく、押し通る所存也!」

 誰よりも誇り高く、そして堂々と進軍して行く。








 そして決着の、最期の時は訪れた。
 美濃の国境にさしかかろうという地にて、織田軍の防衛線に行く手を阻まれる。それは美濃各地から急遽終結した五千の織田軍兵士達であった。
 彼らはまんじりともせず静かに、だが自らの主君に対する悪口を連呼しながら進んでくる平岩隊への怒りに燃えながら、戦端が開かれるのを今か今かとまっていたのである。

 「全員、突っ込めぃ!!」

 その隊列に、自軍の十倍にもなるその織田軍に、平岩隊はただ突っ込んで行く。戦術も何も無い、死に行く為だけの彼らにそんな物は必要無し、本当に無為無策の突撃であった。

 「鉄砲隊、放てー!」

 当然ながらそんな彼らは織田軍にとっては絶好の鴨である。圧倒的な鉄砲の火力を平岩隊におみまいし、撃ち竦められ、隊列が崩されたその平岩隊に対して織田軍はすぐさま突撃を開始。赤子の手を捻るかの如く、平岩隊を蹂躙していった。
 そのような中、平岩親吉はただ静かに最期の時を待つ。乗馬を撃ち抜かれ、そして自身の腹部にも銃弾を受けた親吉は事切れた馬の横で、腹の鉄砲傷を両手で押さえながら、両膝を地に付けた状態で、静かに祈りを捧げるような状態で、ただただ空を見上げていたのである。

 「御屋形様……、親吉、此れにて御先に冥土へと参ります。どうか徳川の御家の事、よろしくお願い申し上げます……」

 親吉は戦う事が仕事の武士だ。それ故、死は常に身近にあり、またその事を常に意識もして来た。
 死とはなんであろう? そこに武士らしく意味を残せるであろうか? 名誉ある死を迎えたい。
 常日頃から親吉は様々な事を考え、また名誉を汚すような事を嫌い、誇り高く生きてきたつもりである。
 だがそれ反して、今、汚名を残す死に様を迎えようとしていた。だがそれなのに何故であろうか? とても清々しい気持ちで一杯である。

 「美しいなぁ……。こんなにも奇麗で気持ちいい空を見るのは初めてじゃ……。何故、今日の空はこんなにも美しいのかのぅ……。いつまでも見ていたいわ……」

 もはや彼は戦場にあって戦場にいなかった。とんでもない喧噪を放つ戦場の騒音も、両軍兵士達があげる断末魔や怒号といった叫び声も、その一切がもはや彼の耳には入っていなかったのである。
 ただただ、静かに、祈りを捧げるかの如く、最期の時を待つ。

 そしてその時はそう時を経ずして訪れる。
 抵抗も、逃げもしない親吉に、その周囲を取り囲んだ織田軍兵士達の、幾本もの槍が突き入れられ、その身を貫く。
 それでも親吉は一切の抵抗をする事も無く、ただただその事切れる瞬間まで、静かに空を見上げていた。







 <次話へ続く>











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