<第21話>
「行けい! 攻めよ! 攻めよ! 城は落城寸前! 武功は目の前ぞ!」
「おおおおう!!」
永禄14年(1571年) 織田家は西において新たに軍を動かした。
丹後の一色義道と但馬・因幡の二国を領有する山名祐豊(やまな すけとよ)攻めである。
前年、包囲軍と講和を結んだ事により現在織田領内で戦が行われている地域は無く、余力のある織田家はその力を西にむけたのだ。
「見事な采配じゃな。それに廻りの若い者達の働きも抜群じゃ。信長様も良い御子をお持ちじゃ。よほど教育が良いのかな? ふふっ、流石、子煩悩大将ぞ。皆も見習わなければのう」
攻城の全体の様子を見れる小高い丘の上に自隊を布陣させている明智光秀は自身の側近達に向けてそう呟く。
今回の遠征は、攻める敵の規模からすれば過大な程の戦力(65000)を準備して行われていた。
それもそのはず今回の目的は領土の獲得の他にもう一つあったのだ。
織田信長の嫡男、元服し奇妙から信忠と改名した織田信忠の初陣である。
それに合わせて信忠近習として育てられていた藤堂高虎も今回初陣を迎え、同じく井伊直政も若年ながら信忠の小姓として付いてきていた。
さらにそれに加え、織田家の若い力である諸将、娘婿である蒲生氏郷(賦秀 ますひで 以後氏郷で統一)、一門衆からは織田(津田)信澄、それに堀秀政・堀直政、田中吉政等々の者達も従軍している。
まるでこの場は織田軍の調練の場に化したかのような様相を呈して来る。
うおおおぉぉおぉぉぉぉ!!
行けぃ! 行けぃ! 守備兵は逃げ出しておるぞ! これぞ好機! 塀を乗り越えよ!
一番槍はこの藤堂高虎が貰った!
おおおおぉぉおぉぉおぅ! 見事! 我等も負けられぬ! 後に続けぃ!
織田軍の猛攻に籠城側の守備が綻び逃げ出し始める。それを見た織田軍の将兵が続々と塀を越える。
そのすぐ後に侵入した兵達の手によって内側から城門が開けられ、織田軍将兵が城内に雪崩れ込んだ。
その戦場の空気に感化され、前線に走り出しそうになる信忠をすぐ傍にいた島左近が押しとどめる。
「若殿、ここは一息の間を置き、心を落ち着け大将はむしろ後ろに下がるのです。そして冷静に全体の動きに眼を配りなさいませ。大将は前線の混乱に巻き込まれてはなりません。
前線で戦う事が大将の仕事では御座いませんゆえ」
「わかっております、左近殿。大将の仕事は采配を執る事。けして蛮勇にあらず、ですね」
「然り。大将には大将の仕事があります。それをどのような状況にあろうとも忘れぬ事が肝要かと」
織田信忠の傍らには信長より付けられた側近の島左近が常に守っている。
そしてその持てる軍略の全てを信忠や井伊直政らに教えていた。左近自身も、この教えがいのある素直で利発な若武者達を大いに気に入っており、なにくれと無く世話を焼いていた。
その後、織田軍の猛攻の前に守備側が降伏。城は陥落した。
「これで織田家は安泰でござるな。誠に見事なる若殿の御采配にございまする」
「然り。若き者達も見事な武働きにて、こりゃ我々も、うかうかとしておれませぬな」
信長本陣でも重臣である羽柴秀吉・滝川一益などが信長の前で信忠など諸将の武働きを褒めていた。
皆、圧倒的な勝ち戦である事もあり、その表情は一様に明るい。上機嫌である。
褒められている織田信忠であるが、信長自身がその教育を行った事によりある一定以上の能力を身に付けていた。
もちろん冷静に、公平に、その能力を判断すればまだまだ経験が圧倒的に足りていないのでこれからに期待という所であろう。
褒められているのも幾分か(というか大部分は)のお世辞が含まれている。
しかし土台としての戦略認識・情報の重要性・讒言を退け諫言を入れる度量の大きさ等々、君主に必要であろう事柄は信長に幼い頃から何度も繰り返しキッチリと叩き込まれている。
信忠自身も極めて生真面目な性格で、常に周囲に対して公平であろうとする人物に育っていた。
信長は自身と違うその息子・信忠の性格を実に好ましく思っている。
道を切り開く信長とその切り開かれた道を継ぐ後継者である信忠に求められる役割は全然違う物だ。
乱世は信長が終わらせ、その治世を信忠が治める。
その時、信長の苛烈な性格より、信忠の温和な性格の方が良い。皆、その温和さに安心感を覚えるであろう。
覇道の果ての全ての悪名、全ての憎しみは信長が脊負い、あの世まで持って行く。信忠は奇麗な所だけを歩んでいけば良い。
全てはこの日本を少しでも良き国にするために……、である。
そして話しは変わるが織田軍内では今回のこの一連の戦において、いくつかの軍事改革のテストも同時に行われていた。
まずは新たな補給態勢の整備。
織田家では今まで以上の鉄砲・大砲の大量配備、それに大軍の動員により、年々運ばなければいけない物資の絶対量が増え補給に関する負担が増してきている。
それに対処する為、今回の遠征より補給隊用に大量の、欧州で使用されているような4輪幌付き馬車の配備が始まったのだ。
これは岐阜工廠において職人達が開発した物である。
馬車は大型ゆえ、通れる道が限定されてくるが運べる量及び効率が全然違ってくる。
これにより今までの荷駄隊よりも早く、大量に補給物資を運べるよう目指して整備していく。
続いて斥候隊の整備。
織田家では織田信長の情報最優先の方針の元に、軍組織でもそれが採用される事になった。
織田軍では斥候隊を 小斥候・中斥候・大斥候 と三つに分け、それをシステム化し全体に義務付けしたのである。
具体的に書くと、まずは小斥候。
これはだいたい2~10人で構成され、二刻に一回、四方八方に向けて派遣される。
次に中斥候。
これは約15~40人で構成され、半日に一回、四方八方に向けて派遣される。
大斥候は所謂威力偵察の事であり、これは指揮官が必要だと思ったら随時派遣される。規模も指揮官の判断による。
ちなみにこれらは昼間・夜間を問わず行われる。
つまり織田家の全ての部隊は作戦行動中は必ず一定時間ごとに
小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→小斥候→小斥候→中斥候→以下エンドレス
と行われる事が義務付けられたのである。
これを怠り敗北した場合は誰であろうと厳罰に処される。
これが完全に100%実施させる事ができれば、織田軍が奇襲を受けるなどという恐れはまず無くなるであろう。
例えば小斥候が敵の阻止網にひっかかり、全員討ち取られ戻ってこないという事が起こったとする。
ただそれはそれで異常を知る事はできる。
小斥候が戻らなかった場合は非常事態であり、その場合は中斥候以上を臨時に派遣する事が同じく義務付けされているからだ。
これらの改革のテストとしてこの戦いが選ばれたのである。
また織田家では現在、これらの補給隊・斥候隊の方に馬匹が優先的に配備されている。
それゆえ織田軍内では騎馬隊の割合が他の大名家よりも随分低くなっている。その戦力低下の分をさらなる火力の増強により補う方針だ。
世界に先駆けた大火力物量主義である。
こうしてこの戦いは比較的短期間で終結する。
丹後の戦国大名 一色義道はその領地に悪政を布いていた事で有名な人物であった。
それゆえ圧倒的な織田家の軍勢に攻められると、すぐにその配下の国人衆・民衆共、織田家に内応し自壊。行き場を失った一色義道は中山城にて自害した。
但馬・因幡を領有する山名祐豊も領国を二つ領有してはいるが、纏まりにかける上、二か国合わせて20万石ほどの大きさでしかない。
史実でも方面軍を率いる羽柴隊の一軍を相手に敗北した程度の力でしかなかったのである。
二月ほどの抵抗で全土を占領され、山名祐豊は西国に落ちて行った。
こうして織田家は西において丹後12万石・但馬10万石・因幡11万石の平定に成功したのである。
また織田家のこの年の西方での侵攻はこれだけでは無い。
織田家の調略は別の所でも成果を出していた。それは播磨の国においてである。
以前に丹波の波多野秀治が織田家に臣従した事は記したが、それに伴い波多野家と縁が深い、波多野秀治の妹婿という血縁関係を持つ東播磨の戦国大名・別所長治(べっしょ ながはる)が波多野家に続いて織田家に臣従したのである。
但し信長はこの別所氏については注意が必要であると思っている。史実でも裏切っている大名であるからだ。
まずこの別所氏について詳しく記す。
この東播磨一帯に勢力を持つ別所氏の当主の名は別所長治。
史実では元亀元年(1570年)に、年齢については諸説あり正確には判らないが13歳か16歳の若さで当主に就任したと言われている若い当主である。
それゆえ長治には後見人兼補佐役が二人付けられた。前当主の弟で長治にとっては叔父に当たる別所吉親と別所重宗の二人である。
この別所氏についてではあるが、一般に織田家を裏切った事により織田家とは仲が悪かったかと思われがちではあるが、実際の所そうでも無い。
1578年(天正6年)に裏切るまでは、むしろ織田家との関係は良好と言える物であったのである。
別所氏首脳部についても、当主の別所長治と後見人の一人である別所重宗は親織田派であり、反織田家の立場を取っていたのは別所吉親ぐらいだったのだ。
特に別所重宗という人物は筋金入りの親織田派であり、織田家に反逆すると決まるとこれに反対して自ら浪人となったぐらいの人物なのである。
家中全体を見ても、どちらかと言うと親織田家であった。
だがこの別所吉親という人物が曲者だったのである。
別所氏が織田家を裏切った理由には諸説いくつもあるが、その一つに加古川評定での確執という物がある。
この加古川評定という物を簡単に説明すると、播磨の国において対毛利家の為の軍議が織田家中国方面軍の指揮官・羽柴秀吉の元で開かれる事となった時の出来事の事を指す。
この評定に別所氏の名代として出席したのが件(くだん)の人物、別所吉親である。
この別所吉親という男であるがこの男は極めて名門意識が強く、低い身分から出世してきた羽柴秀吉を嫌悪していた。
そして別所吉親がこの評定で何をしたかと言うと、軍議に何の関係も無い <別所氏の家系の話しから、代々築き上げてきた軍功を語る長談義> を行ったのである。
つまり別所家はおまえのような成り上がり者では無いと主張したのだ。
この別所吉親の意味の無い話しは長々と一刻以上に及び、呆れ果てた秀吉が 「もうよい。軍議をするつもりが無いのであれば後は私が指示を出す」 と言い放つ。
するとその言葉に 「無礼千万!」 と激怒した別所吉親は軍議の席を立ち、領地に帰ってしまう。
話しはこれだけでは終わらない。
城に帰った別所吉親はなんと当主の別所長治に
「羽柴秀吉は我らを侮り自分は軍議の席上、終始無礼な行いをされた。秀吉は驕り昂ぶり、大将は自分であるから我が別所家には、自分の命令に従いただ槍働きのみをせよと命じた」
と悪意ある曲解した嘘の報告をしたのだ。
その話しを信じた別所家は皆が憤り、織田家との戦を決意した、と 「別所長治記」 には記されている。
つまりかの悲惨な戦いである 「三木城の干殺し」 の戦いの引き金を引いた人物なのである。
この行動の裏には、毛利家とすでに通じており、親織田派となっている別所家を毛利側に付ける為の工作である事。
さらにはもう一人の、自身と同等の立場である後継人の別所重宗への反感からであるとも言われている。
別所重宗という人物は吉親よりも文武両道共に優れ、家中の者達からの信任も厚かった。それに親織田派の筆頭であり、織田家に臣従している現状で言えば別所家の主導権は重宗が握っている状態だったのだ。
それを覆す為のこの行動であったとも言われている。
またこの別所吉親という男は死に際も無様であった。
三木城の干殺し戦末期、兵糧が尽き果て当主・別所長治が自身とその弟の友之、そして別所吉親の自害の代わりに城兵全ての助命を条件にした降伏を申し込んだ時である。
その降伏を織田家が受諾し、自らの死が決定した時に吉親は 「自分が死んで他の者を生かすなど料簡違いだ」 として城に火を放とうとしたのだ。
吉親のその愚行は激怒した家臣達の手によってすぐに阻止され、別所吉親はその家臣達の手によって首を刎ねられたのである。
これ以外にも縁戚関係であった波多野氏が反織田家として挙兵した事、領内に一向宗門徒が多かった事等々の理由も言われているが、だいたいこれらが別所氏の反逆の原因である。
そして原因が判っているならば対処は可能だ。
すでに別所吉親の行動は織田家に監視されており、そしてこの男はいつかボロを出すであろう。その時こそがこの男の最後の時である。
また織田家は同じく西播磨に勢力を持つ大名・小寺政職(こでら まさもと)への調略を始めており、織田家に好意的な黒田孝高(官兵衛)を通して働きかけを行っているところだ。
ただこちらについてはまだ結果はでていない。
こうして織田家の永禄14年(1571年)の西への侵攻は完了。
織田家は続いてくるであろう東の大敵に対して備える事になる。
<後書き>
信長が覇道君主であるなら信忠は王道君主かなと思って書いております。
現在の織田家の所領
尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
若狭8万石 西越前6万石 丹波25万石 丹後12万石 但馬10万石 因幡11万石 東播磨23万石
総石高:477万石
(但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)