<第16話>
永禄12年(1569年)、この年は織田家にとって、風雲急を告げる激動の年となった。
普段は静かな岐阜城城内に、酷く慌てた様子の男達が幾人も走り込んで来る。彼らは口々に、悲鳴のような叫び声でもって報告を為した。
「い、一大事! 摂津の国において、斎藤龍興が各地の残党浪人衆共を率い挙兵致しました! 同地野田城・福島城に籠城! 同じく阿波の国より、三好三人衆が同地に上陸! これを支援する動きを見せております!」
「急報! 石山本願寺衆、挙兵! 斎藤龍興・三好三人衆と盟を結び、野田城・福島城への後詰めの動きを見せております! また紀伊の国、雑賀の傭兵衆が続々と石山城に入城中!」
「伊勢長島の地にて本願寺一向衆、挙兵! 周囲の城が攻撃を受けております!」
「越前、柴田勝家様の陣より御報告! 朝倉めが動き出しました! 現在、木ノ芽峠城が攻撃を受けております!」
「比叡山が挙兵! 京都本願寺が攻撃を受けましたが、京都所司代・村井貞勝様の指揮によりこれを撃退! 現在敵は比叡山に籠城中との由!」
畿内各地から、越前の国から、伊勢の国から、山城の国から、織田家所領の各地より続々と急報が連続して信長の元に届けられる。
「ついに来たか! ついに始まったか!」
居城である岐阜城でその報告を受けた信長は、勢い良く立ち上がると同時に興奮にその身を震わせた。
判っていた事ではあったが、とうとう始まったのである。
帝を擁する京の都を抑え、他家には無い権威を得た織田家。畿内一円を抑え、他の勢力よりも頭一つ分飛び出て、巨大勢力となった織田家。その織田家の電光石火の如くの勢力伸張に大きな危機感を抱いた各地の大名家がその力を合わせて織田家を叩こうとする動き、すなわち、信長包囲網である。
信長はすぐに以前よりこの事有る物として日々練りに練り上げていた戦術・対策を各地に伝える為の伝令を走らせる為に、急ぎ段取りを始めた。城内の豪奢な廊下を、足音も高く足早に歩き抜けながら声を張り上げる。
「各地に伝令! まずは越前木ノ芽峠城におる柴田勝家にじゃ!
『そのまま木ノ芽峠城に籠城し、けして朝倉軍をその先に通すな。但し当面の間は後詰めに行けぬ故、無理は不要。あくまで足止めに徹し、朝倉軍を食い止めよ』
以上じゃ! 急ぎ伝えよ!」
「はっ!」
その信長の命令を受け、一人の使者の任を受けた若い侍が、勢い良く部屋より駆け出す。
まずこの指示を出した、北方越前の国方面、織田家随一の猛将柴田勝家が守るこの方面であるが、信長の下した命令は守勢であった。
実は信長はこの時の為に、先の朝倉家攻めの折りに際して、態々木ノ芽峠にて進軍を止めていたのである。その事実が示す通り、元々この地では完全に守勢に回り、ここで朝倉軍の進撃を食い止める予定だったのだ。
理由はいくつかある。
まず一つ目は、この地が隘路になっており、天嶮の要害である事だ。極めて攻めるに難く、守るに易い地形である。
二つ目は、この情勢にあって北方に兵力を張り付けたく無い為だ。つまりはこの地であらば比較的寡兵であっても、朝倉の大軍を抑える事ができるという事である。
朝倉軍ははっきりいって弱い。勿論の事、その家中には手強い武士も大勢いる。いるのだが、しかしである、主君である朝倉義景にはっきりとした戦略眼という物が無く、優柔不断。さらには決断力という物も無く、果断さにも欠ける為に、思い切った動きが全然できないのだ。
さらにいえばその家中全体において士気は低く、前回の浅井家を攻め滅ぼした後にその勢いのままに北上し、越前に攻め入っておれば、越前は容易く獲れたであろう。
ただその場合は少し困った状況に陥ってしまうと信長は考えた。だからこそ信長は敢えて越前木ノ芽峠において進撃を止めたのである。
何故なら、越前の国のその先はと言えば加賀の国であり、そこは一向衆の治める所領であるからだ。また同じく越前も一向衆の影響の強い国である。
その状態で織田が越前を手に入れたとして、どのような状況に陥るであろうか?
恐らくそうなった場合、織田家は加賀から一向衆の攻撃を受け、尚且つ足元の越前の国からも一向衆の攻撃を受けるという挟撃の状態となり、苦戦は必至。
結果、越前の国は支え切れ無くなってしまうであろう。
だが朝倉家を残してさえおけば如何であろうか? その両者の間に朝倉家という壁を挟む事によって、その弱い朝倉家の相手だけで済むのだ。
例えば、加賀一向衆と朝倉家が連合して攻め込んで来るような状態にでもなれば、苦戦もするであろうが、それもまず無いだろう。何故なら朝倉家と加賀一向衆とは、お互いに長年に渡って争いあう仇敵同士であるからだ。
その両者が、反織田同盟として同床異夢の形で手を組む事はあろうとも、朝倉家が仇敵である加賀一向衆を領内に入れるとは到底、思えない。潜在的な敵対勢力を自領に迎え入れるという事は自殺行為でしかない。危険どころの話しでは無いのである。万が一、加賀の一向衆達が越前の一向衆達と手を組み、牙を向いて来た場合、亡国すら有り得るのだ。
そして小心者である朝倉義景が、それらの全ての危険を踏まえた上で、そのような大それた決断を出来るとは思えない。
否、むしろそれが決断できるような果断さに富む将であらば、この越前の情勢は今とはまったく違う物となっていた事であろう。
そして現に朝倉家は加賀一向衆の援助を断り、単独で攻めこんで来ていた。
また加賀一向衆も同盟を結んだ以上、今まで越前で行ってきていた朝倉家への攻撃ができなくなっている。加賀の一向衆達は、自ら結んだ同盟によって動きを封じられ、遊兵と化してしまったのだ。
まあ、彼らにはいざとなれば朝倉家を滅ぼし越前を奪った上で、その地の越前一向一揆衆達と力を合わせて織田領に攻めよせてくるという戦略も有る。
しかしである、その場合は途轍もない悪評という結果も共に付いてくるのだ。その場合、織田家は一向衆を非道と悪しざまに罵ってやればよい。
朝倉家と同様、その危険性を敢えて冒してまで加賀の一向衆達が動いてくるとは思えない。
つまり織田家は、朝倉家がある限りは、北の一向衆と事を構えずに済むのだ。
敵が敵の防波堤になるとは、なんとも皮肉な話しである。
以上の理由から信長は北の守りを柴田勝家に完全に任せ、当面放置の方向で戦略を立てたのだ。
攻め寄せる朝倉家の軍勢は一万五千。同盟によって東の加賀方面の防備を考えなくて済む朝倉家は、その全力で持って攻め寄せてきている。
翻って(ひるがえって)、木ノ芽峠城周辺にて守勢に廻る柴田勢の方は総勢約一万一千。
しかし猛将・柴田勝家にとって、それだけの手勢があれば十分であった。勝家はこの兵士達を率い、幾度もの朝倉軍の攻撃を全て弾き返し、木ノ芽峠城の占領・突破をけして許さなかったのである。
信長は続いて他の方面についても矢継ぎ早に次々と指示を出して行く。
「続いて伊勢長島の一向一揆衆達には、滝川一益・羽柴秀長を向かわせよ! 彼奴等の攻撃を防ぎ、弾き返した上で一向衆達を元の寺領に押し戻せ! 後はこの信長が後詰めに行く故、それまで待てと伝えぃ! 九鬼嘉隆にも伝令! 水軍を動かし、伊勢長島を海から包囲せよと伝えよ! 伊勢長島に石山本願寺からの援軍・物資が入っては、苦戦は必至である! 食い止めさせよ! 石山本願寺と三好・斉藤の連合軍には佐久間信盛・塙直政・河尻秀隆・森可成・蜂屋頼隆・稲葉良通・氏家直元らを向かわせ守らせぃ! 但し無理な攻撃は不要! 本隊が着くまで守っておれば良いと伝えよ! それ以外の者は、京に集まるように伝えぃ! ワシもすぐに出るぞ! 皆の者出陣じゃぁ!!」
信長はそれだけを言い放つと、他の者達の準備が整うのも待たず、すぐさま単身、馬に跨り城を飛び出して行く。それを馬廻り衆達が慌てて追い掛けた。
そしてその主君・信長自らの迅速な行動に突き動かされるが如く、織田家全体が一斉に、そして迅速に動き出す。
織田家の軍の特徴はこの機動力である。これは他の勢力に比べ、比較的兵農分離が進んでいる事。また織田家内においては他の大名家の比ではないほど、信長の持つ権力が異常な程に強い為、その命令が迅速に実施されるからだ。
織田家において機動力で遅れを取るものは死罪である。皆、その信長の命令に応える為に全力で準備を整える。
それから暫しの時を経て、京の都に信長率いる本隊四万が終結した。
他の方面で敵の攻撃に耐えている者達を除いた将達、羽柴秀吉や明智光秀、それに丹羽長秀、前田利家、等々の歴戦の将達がずらりと信長の前に並ぶ。
「皆の者、周囲が一気に騒がしゅうなったわ。どうやら裏で越前の足利義昭めが糸を引いているようじゃ」
この信長の言葉通りに、今回のこの包囲網も史実と同じく、今は越前に居る足利義昭の策謀による物であった。
現在も引き続き義昭は、今はまだこの包囲網に参加していない周囲の諸勢力達に次々と参戦を促す書状を送り続けており、反織田同盟への参加を求めている所である。
ただ、現時点では義昭が最も期待を寄せている甲斐の国の武田家はまだこの包囲網には参加していない。何故なら現在武田家は今川家・北条家・徳川家らの諸勢力と駿河の国を巡って争っている所であるからだ。その戦線が片付かない限り、他の場所に軍を動かす事は出来ない。
その為、武田家の同盟参加までは後少しの余裕が有る。
織田家にとって重要なのは、その時間を使い、どこまで当面の敵の数を減らせるか、だ。
「百地丹波、まずは現在判っているだけの、各地の情勢を報告致せぃ」
「はっ! まずは北の朝倉家についてで御座いますが、この攻撃は柴田様の奮戦により既に防衛に成功! 現在、朝倉軍は木ノ芽峠城を攻め切れずに膠着状態! 此れを包囲するに留まっております! 柴田様よりも援軍は不要也、との書状が来ております! 伊勢長島の一向衆も、滝川様・羽柴様・九鬼様の奮戦の御蔭にて同じく元の寺領に押し戻す事に成功! 但し単独で攻め入る兵力は御座いませんので、国境いで膠着状態を保ちつつ我等本隊の後詰めを待つとの由! 最後に摂津の石山本願寺・三好・斉藤の連合軍についてで御座いまするが、こちらは大分押し込められております! 現在摂津の国の約半分を奪われ、一旦足止めに成功致しましたが、またジリジリと押されて始めており、援軍を請う、との事に御座いまる!」
信長の発したその命令に、全国の情報収集を担当している伊賀衆頭領・百地丹波がすぐさま答えた。
その報告によると、事前の準備が多いに功を奏し、摂津方面を除いた方面が無事小康状態を保っている状態である。
だが油断は出来ない。総合的に考えて周囲の情勢は極めて悪し、といった所である。
但し悪い情報ばかりでもなかった。ここにきて、まったく別の方面より一つの吉報が届く。
織田家は西方において一つの勢力を味方に引き入れる事に成功したのである。それは丹波の豪族、波多野秀治であった。
この波多野秀治という人物は、武勇に優れ、朝廷を重んじる人物にて極めて尊王の心が厚い人物である。史実では一度織田家に臣従した物の、後に織田信長が室町幕府将軍・足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼしたり、さらには朝廷を軽んじるような行動をとった事に激怒し、天正4年(1576年)に信長包囲網に参加。織田家に対して反旗を翻したのである。
これは織田家にとって大きな打撃となった。
何故なら丹波の豪族には、この波多野秀治以外にも赤井直正や籾井教業(もみいのりなり)などの武勇に長けた優秀な豪族が綺羅星の如く揃っており、再度丹波を平定するのには長い時間が必要となったからである。
今回のこの世界では織田家は公家の近衛前久を通じて波多野秀治の調略を行い、これを味方に引き入れる事に成功したのだ。
『敵を知り、己を知らば、百戦危うからず』
その為人(ひととなり)、考え方、その人が何を大事に思っているかを正確に知っていれば自ずから調略の切り口は見えてくるという物である。
今回の事で言うと、秀治は信長の方針・考え方が極めて好ましい物に映ったのだ。政府広報により織田信長が極めて熱心な勤皇家である、との全国に向けた宣伝もあり、また高家たる近衛前久の仲介もあり、結果、秀治は比較的すんなりと織田家に従属する事に同意したのである。
しかもそればかりでは無く、秀治は進んで他の赤井直正や籾井教業等、丹波の諸豪族達を説得し、これらを纏め上げて織田家に仕える事となった。
これにより丹波の国は織田の領する所となったのである。
彼は史実において織田家に反旗を翻した人物であり、また同じ様に裏切らないか怖くはあるが、今回の織田家は朝廷を重んじ、その権威を押し戴く方針である為、前の様に仲互いしてしまう可能性は極めて低いであろう、と信長は判断していた。
また、地味に足利義昭が今だに征夷大将軍では無いというのが大きい。現在、足利将軍家は、十三代将軍・足利義輝、もしくは三好家の擁立した足利義栄を将軍と数えるならば、その十四代将軍・足利義栄を最後に、現在空位の状態なのだ。
そして将軍では無い足利義昭の権威というのは今一つ(いまひとつ)である。
さらに言えば今回の織田家は、室町幕府の権威では無く帝の権威という物を全面に打ち出し、それを大義名分にしているのだ。
むしろ室町幕府とは敵対関係にある、と言っても良いであろう。
今の信長の立ち位置はと言うと、自称、帝の御信任を得た武家の最高指揮官なのである。天下布武の名の元、勝手にそう宣言しているのだ。
そしてこの状況において、どちらがより征夷大将軍に近いであろうか?
織田信長と足利義昭の単純な力関係で言うと、圧倒的に織田信長の方に軍配が上がる。権威や仕来り(しきたり)、建前は別としてではあるが、そのような現在の状況下において、織田家の配下の者達は、当然の事ながらいまさら有名無実となった室町幕府を再興したいなどとは思わず、足利義昭を将軍に据えようとは思わない。
室町幕府の無力は今のこの戦国乱世という状況そのものが示しているのだ。
だからこそ、不敬に当たり、また建前的にも不味いので誰も声に出しては言わないが、むしろ自らの主である織田信長をこのまま帝の御心の元に征夷大将軍に、と思ってしまうのは武士としての立身出世の本能であり、より現実的な考えとも言えるであろう。
兎にも角にも、波多野秀治は丹波衆の筆頭として他の丹波国人衆達と共に織田家重臣の列に加わり、織田家の西の要の一つとしての役割を担っていく事となったのだ。
それらの情勢を踏まえた上で、信長は集まった各将の前にてこれよりの方針を高らかに宣言する。
「まずは比叡山を攻略する! 本来の己の果たすべき勤めを忘れ、地に堕ちた畜生共の大掃除じゃ! 情けは無用也! 此れを殲滅すべし! 光秀、準備は万端か!?」
「はっ、ぬかりありません!」
信長はこの時に備えて明智光秀に命じて以前から準備をさせていた。
何故、明智光秀かというと、おそらく今回の一件に関して一番動揺をきたすと考えられたのがこの人物だったからである。
事前に光秀に全ての準備・交渉を任せる事により、その現状を正しく認識させ、心の準備をさせる為でもあった。
「光秀、どうだ、見て参ったか! 今の比叡山の姿を! 日本仏教の根本道場、王城鎮護の聖域比叡山の、無様な現状を!」
「はい。使者として比叡山に赴き、しかと見て参りました。境内で堂々と酒を飲み、肉を食らい、女と戯れ、仏法を説く事を忘れておりました。また拙者を応対した上僧も驕り昂ぶり、その言葉に真はありませんでした。装束は僧装でございましたが、中身はまるで夜盗・山賊の如し。私はあれを王城鎮護の聖域とは思いたくはありませぬ」
光秀は信長に命ぜられ、以前から織田家と敵対しようとする比叡山との不戦交渉をずっと行ってきた。その過程でありとあらゆる状況を目にして来たのである。
それは光秀が理想とし、またこうあるべし、と心の内にて思い浮かべていた王城鎮護の聖域比叡山の姿とはまったくの正反対であり、まさしく堕落を極めた悪徳蔓延る腐敗した特権階級達の魔の巣窟。それが光秀の見聞きしてきた、現在の比叡山の姿であった。
彼らは既得権益を守る事を最優先し、仏法は二の次。否、仏法をその為に捻じ曲げすらしている。仏法の為に彼らがあるのでは無く、彼らの利益の為に都合の良い、改竄された仏法があるのみなのだ。
自らの利益の為であらば徒等を組み、京の都を暴れ回り、御所にまで押しかけ強訴を行う。
まさしくそこには宗教勢力では無く、特権階級としての姿しか無い。だからこそ信長は彼らを寺社勢力などとは思わない。彼らはただの敵なのだ。
それでも万全を期し、信長は対比叡山戦への動揺を防ぐ為、事前にいくつもの手を打っていたのである。
まずは織田家所領への領民への悪評対策として、政府広報の臨時版を発行し、比叡山の行ってきた様々な悪行の数々を判り易いように絵も付けて大々的に報道していたのだ。
また史実と同じ様に、仏門の徒としてその本分を守るべし、という事を強調し、それを大義名分として比叡山に政道に関わらず中立を守るように、と幾度も使者を出していたのである。
これは織田家の方から一方的に攻め込んだのでは無い、彼らが自らの権勢に驕り昂ぶり、自ら平地に乱を起こしたのだ、織田家は幾度もそれを止めようとしていた、とのポーズ作りの為でもあるのだ。
続いて朝廷・帝への上奏。
これより先に始まる比叡山・石山本願寺等々の寺社勢力との戦争を行うにあたり、信長はその大義名分として帝の権威を持ち出す事を目指したのである。
『日ノ本六十余州、その全ての宗教寺社勢力は、一切の例外無く帝の御威光に従い帝の御許においてのみ、その活動する事を約束すべし。また仏門の徒としての本分を堅守し、今後一切の政道に係わるべからず』
それに従わない、武力で持って政道に介入してくる不埒者は帝に成り代わり、織田家がこれを討つ、という大義名分である。
寺社勢力に対しては徹頭徹尾、政教分離の精神を貫く。それが織田家の大戦略なのだ。
ただ、当然の事ではあるが、今の朝廷にそれを宣言したり、その方針を世に広めようなどの主体性も、その実力も無い。これらは全て信長の口から出た政策であり、百%織田家の都合である。
正親町天皇はその信長の政策について、はっきりとした方針や言質は与えず、織田家は朝廷への窓口としている近衛前久が陛下の御心を思い計って、という形で伝えられ行われるのだ。
つまり、朝廷ははっきりした方針は示さず、何かあった時はその責任を取らなくても良いようにしながらも、成功した時は近衛前久が前々から口伝で伝えていたという事でその成功の恩恵に与れるように布石を打って置く、という方法である。
傍目に見れば汚く卑怯なやり方のようにも聞こえるが、荒れ果て、権威や歴史といった力以外の全ての力を失い困窮している現在の朝廷にはそのような遣り方しかできないのだ。
そしてこの朝廷の伝統的曖昧さは、今の織田家にとっては有利に働いている。
朝廷の利益になる動きという前提であれば、京の都と帝を有する今の織田家であらば、ある程度簡単にその権威を動かせる、口に出せる状況にあるのだ。
これについては政府広報の力も大きい。史実の世界では、例えこれと同じ事をしようと思ってしても、周囲に効率的な宣伝ができないので結局の所は頓挫していたであろう。
また織田家が朝廷との窓口としている近衛前久という人物が織田家に対して好意的で、色々(先の波多野秀治調略と同じ様に)と骨を折ってくれる事も大きい。
それと同時に織田家の政策が、そのまま朝廷の利益と同じである、という状態になっているのが大きな決め手であろう。
朝廷が今までにさんざん悩まされてきた寺社勢力を如何にかしようと言うのと同時に、織田家が積極的に朝廷の面子を立ててくれる為に、織田家の勝利がそのまま朝廷の権威回復に繋がっているのである。
織田家はこれまでにも朝廷の為に多大なる金銭面での援助を行い、また様々な事にも骨を折り、恩を売ってきた。その結果として今の朝廷と織田家の関係は極めて良好である。蜜月という表現を使っても良いぐらいだ。
この朝廷との極めて良好な関係を利用し、実際に錦の御旗を押し戴いた訳では無いが 『帝に成り代わり、宗教の本道を忘れ、外道に堕ちた者達を帝の名代として討つ』 という大義名分(を大々的に報道した上で)の元、織田家は動きだしたのだ。
ただこれは危険も同時に含んでいる。成功すれば良いが、万が一失敗したら帝の御名を勝手に語った者として悪名を負いかねない。全ては結果如何なのだ。
またこれには将来を見据えたもう一つの意味もある。
この大義名分は当然の事ながら、日本国内で布教されているキリシタンにも適用されるのだ。
この時代に日本に来て布教している宣教師は例外無く、全てカトリックである。そのカトリックの長はローマ教皇であり、そのローマ教皇を頂点とした宗教組織なのだ。
当然、日本のキリシタン信者も信者になれば自動的に、このローマ教皇を押し戴く事になる…、そうなるはずであったのだ…。
だがしかしである、それを全否定するのがこの宣言だったのである。つまり日本のキリシタン信者は、従来のイエスキリスト・ローマ教皇のさらにその上に帝を押し戴くのだ。
これは後々大きな意味を持ってくる。
例えばイングランド国教会の首長がイギリス国王であるように、ロシア正教会の首長がロシア皇帝であるように、日本のキリスト教の首長も日本の帝が務めるのだ。
まあ正確にいえば日本の帝はキリスト教徒では無いが、そこは 「帝は日本にある全ての宗教の首長である」 とでも言いきってしまい、押し切ってしまえば良い。
つまりはキリスト教自体は別に自由に布教してもかまわないが、外国勢力、特にローマ教皇の影響力は完全に排除するという事である。
それに慌てたのが、当のイエズス会宣教師達だ。
彼らは別に完全な善意だけで、この遥か極東の地に来た訳では、けして無いのである。
この時代のキリスト教宣教師というのは植民地獲得の為の尖兵なのだ。
勿論、そこまで露骨な悪意を持って活動する者ばかりでない、尊敬に値するまさに聖人、と呼ぶに値(あたい)する人物も数多くいる。但し、究極的な彼らの最終目的は、布教を行う事によってその地をカトリックの統治機構へと組み込む事であるのだ。
つまり簡単に言うと、カトリック的キリスト教秩序による日本の支配。それこそが彼らの信じる絶対の正義。
それなのに、この信長の政策はそれを真っ向から否定する物なのである。
彼らにとってそれはまるで、現在欧州において吹き荒れている、バチカンの秩序から脱しようとしているプロテスタント(抗議する者達の意)達を彷彿(ほうふつ)とさせるかの如くの、悪夢のような光景であったのだ。
そして彼らはそれと同時に思うのである。これでは布教する意味が無い、と。
当然、彼らにとってキリスト教とはカトリックの事であり、それ以外の存在、プロテスタントも、この日本での新しく産まれようとしているこの訳の分からない存在も総じて異端でしか無いのだ。
けして許す事の出来ない存在である。
そしてそれこそが信長の狙いでもあるのだ。
日本の国主として、日本に住む民衆が自分達の日本の指導者よりもキリスト教の方を、より正確に言うとカトリック・ローマ教皇の方を大事だと思うような事態など悪夢でしかない。
それを防ぐ為の措置なのだ。
こうして日本国内(現状織田領内に限るが)においては、宣教師達はこの大前提を受諾しないかぎり布教は許されないという枷をはめられたのである。
逆に言えばこの大前提が守られていさえすれば、史実のようなキリスト教信仰の禁止などの弾圧政策は無くなるであろう。禁止する理由も無い。
だが、この事が後にとんでもない事態を引き起こしてしまう事になってしまうのである。
話しを戻す。
信長は集まった将兵達の前で高らかに宣言した。
「いくぞ、皆の者! 臆するな! これより、長きに渡って朝廷を脅かし、政道にその武力を持って介入し、酒色に溺れる堕落の畜生共に真の正義の鉄鎚を喰らわせようぞ! 新たなる秩序の為、我等こそがその任を担える唯一無二の存在である事を各々理解せよ!」
「応おおう!」
将兵達が血気盛んに雄叫びで答える。その将兵達の声に満足そうに頷きながら、さらに言葉を繋げる信長。
「摂津の国については、その周辺の者を総動員して、なんとしても食い止めさせよ! 守ってさえいればそれで良い! 時間を稼がせぃ! 我等が取るべき戦略は各個撃破也! 弱き勢力より順番に潰していく! それが現在取るべき戦略じゃ! 本隊はこれより一気に比叡山を滅する! ゆくぞ、出陣じゃ!」
「応おぉおおう!」
そして織田軍本隊四万は怒涛の如き勢いで進軍を開始した。的(まと)は日本仏教の根本道場・王城鎮護の聖域、比叡山。
織田軍の迅速な動きに、比叡山はあれよあれよという内に、挙兵より僅か七日で織田軍四万に蟻の這い出る隙間もない程に完全に包囲される。
そして明朝、まだ日も明けきらぬ内に織田軍の比叡山への総攻撃が始まった。
<後書き>
今回は第一次信長包囲網発動の巻です。
連載再開です。お待たせ致しました。
これからも遅い連載速度になるでしょうが頑張って行きますのでどうかこれからもよろしくお願い致します。
また、いつも暖かい感想・御指摘ありがとうございます。
頂きましたアイディアを参考にこれからもより良い作品を作れるように努力していきます。
現在の織田家の所領
尾張56万石 美濃55万石 伊勢52万石 志摩2万石 伊賀10万石 近江75万石 大和38万石 山城22万石 摂津28万石 和泉14万石 河内30万石
若狭8万石 西越前6万石 丹波25万石
総石高:421万石
(但し、実際にはまだ支配の及んでいない寺社領・公家領等も含まれており、あくまで目安です)
<追記 感想への御説明>
どうも皆様、いつもいつもありがとうございます。
皆様の暖かい感想・御指摘・アイディアにいつも支えられております。本当にありがとうございます。
外交についてはこれから先の展開もありますのでもう少し考えてみます。
警告文についてはそういう描写がある場合は必ず記載させて頂きます。
ひらがなになっていて読みにくいという所は別にわざとでは無いです。というよりも作者はそれがどこの事を言っておられるのかがどうしても判りません。
どうしても気になる所がありますならその場所を指定して頂ければ修正させて頂きます。
また動員兵力については、石高について兵何人というような計算式も諸説あり、それに加えて経済力等々も入ってくるので正確な数は無理です。申し訳ございませんがご了承下さい。
キリスト教の所は加筆修正。
あとゼウスの所ですが、実はうろ覚えで書いておりました。
昔の大河ドラマの <信長 キングオブジパング> だったかな? の中で宣教師がデウスデウスと連呼していたという記憶が何故かあって(実際に言ってたかは判りませんが)それでとりあえず付けておくかといった軽い気持ちでいれてました。この部分削除させて頂きます。