<第13話>
永禄10年(1567年)
畿内の情勢に一段落を付けた織田家は満を持して北に向かって軍を進めた。度重なる信長の上洛の要請にちっとも応じようとしない越前の朝倉氏及び若狭の武田氏討伐の為である。
その為に今回、動員された織田軍の数は四万に上った。
そしてその集められた軍勢が順次、京の町を進発し、琵琶湖の西を北に向かって進み若狭へ向かって粛々と進み行く。
その織田軍侵攻開始の報せを受け大きな反応を見せた大名がいた。
織田家の同盟国、北近江の浅井家である。
<北近江 浅井家居城・小谷城>
「だからワシは織田信長なんぞと同盟は結ぶべきでは無いと言うたんじゃ! あの成り上がり者めがっ!」
「信長め! まさか大恩ある朝倉殿を攻めるとは……! しかも我等になんの報せも無しにじゃ! 織田信長めは許せぬ!」
『織田軍、越前へ向けて侵攻開始』
その報せを受け緊急で開かれた浅井家の軍議は最初から織田家に対する怒りで満たされていた。
そこから出る意見は、その全てが織田家に対する怒りや憤りで埋め尽されていたのである。
「殿、如何いたしますか? すでに織田家の軍勢はかなりの所にまで進んでおります。事は急を要しますぞ」
浅井家家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)が主君・浅井長政に問いかける。
「ううむっ!」
その磯野員昌の言葉に、未だ決断が下せぬ浅井長政は心の内の迷いをそのままひねり出すかのように唸ったまま黙り込んでしまう。
元々この浅井長政という男には大それた野心などは何も無い。ただ自身の領地を守り、平和に過ごす。ただそれだけが望みであった。
それ故、今回のこの情報には悩まされたのである。長政は織田信長殿は要らぬ事をしてくれた、とただ憤るだけだ。
そんな長政のはっきりとしない煮え切らぬ様子に、浅井家前当主の浅井久政が激昂しながら発言してきた。
「信長めは我等浅井家が朝倉家にどれだけ恩があるか知っているはずじゃ! それを斯様な仕打ち! けして許せぬ! 許せる物では無いわ!」
「しかし久政様。織田家は強大でござる。此度の出兵での織田の兵の数は四万を越えると言われております。それに比べ我が浅井家はどんなに頑張っても六千五百の動員が限界です。朝倉様の兵一万八千と合わせても二万四千五百。到底勝てるとは思えませぬが……?」
久政の言葉に、比較的穏健派の宮部継潤(みやべけいじゅん)が慎重論を出す。
しかしそれに対して返ってきたのは久政のさらなる峻厳な言葉だった。
「黙れい! 我が浅井家と織田家が同盟する時の条文に、我等との相談無しに朝倉は攻めぬとの約束があったでは無いか! それを反故にしおって! さらには信長めは畿内の幕府領の横領も行っていると言うではないか! 信長は越前に居られる足利義昭様の命にも服さぬ逆心者の卑劣漢よ!」
その久政の言葉の後を継ぐように磯野員昌が言葉を付け足す。
「長政様。朝倉家より援軍要請の書状もきております。
『我が朝倉家は今、信長の無法な攻撃を受け、危急存亡の危機にあります。どうか貴家に置かれては、この危機に際し援軍を送って下さいますようにお願い致します。
我が朝倉家はこれまで長年に渡り、何度も何度も貴家の危機を援軍を出し、幾度もお救いしてきました。
しかし我等が貴家に助けを求めた事はこれまで一度もありませんでした。
今回が初めての事です。
どうか過去の事を振り返り、貴家に少しでも我等の友誼が伝わっておりますれば、貴公に正義の心があらば、どうか我等の願いをお聞き届け頂き、どうか援軍をお願い致します』
との事です」
「それみよ! 朝倉殿にここまで言われて動かぬつもりか! 長政、お前は武士の心を持たぬのか! 一片の義心も持っておらぬのか!? 家臣一同の心は既に決しておるぞ!」
久政の言葉にほとんどの家臣が頷いた。頷かなかったのは遠藤直経と他少数の穏健派の者達ぐらいである。
今回のこの信長の越前出兵を受けて、浅井家内での織田家への感情が一気に悪化。元から浅井家内にあった反織田勢力、つまりは親朝倉勢力が一気に大きくなったのだ。
そして彼らは前当主・久政を担ぎ出し、織田家への攻撃を口々に主張していたのである。
そしてその家中の大勢を見た浅井長政はとうとう決断を下した。
「うむ、継潤…。斯くの如しだ。もはや何も言うな。我等は朝倉家に御味方致す。
長年にも渡って、何代にも渡って朝倉家から受けた恩は返さねばならぬ。
それにいかな強大な織田家といえども北に朝倉家を迎えている最中に、南を我等浅井家に襲われれば袋の鼠じゃ。そうなれば大軍の利など消し飛ぶわ。
越前におられる足利義昭様も各地の大名に我等に味方するよう書状で根回しをしてくれている。比叡山も我等の味方じゃ」
「かしこまりました。殿がそこまでおっしゃられるのであらば、我に否やはございません」
長政のその決断に宮部継潤は反論を止めた。継潤はそのまま黙って平伏する。その様子を見た長政は皆に号令をかける為に勢い良く立ち上がった。
「良し! 皆の者、出陣じゃ! 目指すは織田信長の首ただ一つ! 行くぞ!!我等江北武士の精強さ、彼奴等に見せつけてやろうぞ!!」
「おおおおおおおう!」
その長政の言葉に精強な浅井家家臣達が雄叫びで答えた。
こうして浅井家は織田家との同盟を一方的に破棄。
そしてすぐさま朝倉家への後詰めの為、織田軍を奇襲する為に、全軍を纏め小谷城から出陣したのである。
留守部隊として南部に宮部継潤と阿閉貞征(あつじさだゆき)のみを残し、それ以外の全ての部隊をもって出陣。その数約五千五百。
周囲の警戒をしながらも全力で織田軍が居る金ヶ崎の地に向かって進撃を始めたのである。
諜報によりもたらされた情報によれば、既に朝倉方の金ヶ崎城が落ちたとの情報も入っており、戦況は刻一刻と悪化していた。
それ故、朝倉家を救援しようと思えば、一刻も早く戦場に急がねばならない。
必然、その行軍は急ぎの物となってしまう。そしてその強行軍は隊列を長くするが、特に気にするものはいなかった。忍びや国人衆の情報等で、織田軍は金ヶ崎城の東、木ノ芽峠に向かって進軍中との情報が入っていたからである。
つまりは織田軍はまだこちらの意図にまったく気付かずに後方が無防備の状態で東の木ノ芽峠に向かって進軍中なのだ。
この千載一遇の好機を逃してはならない。
「長政様。後、少しで織田軍の後ろに廻り込めましょうぞ」
「うむ、皆に再度装備を点検させ戦闘準備を整えさせよう。いよいよぞ」
「だが兵力差はかなりの物です。何か算段が必要かと思われますが?」
「そうだな、今はまだ日が高い。一旦態勢を整えてから夜戦で決着をつけてやろうぞ」
浅井軍は強行軍を続け、早くも出陣二日目には目的地手前の隘路に差し掛かっていた。
これまでの行軍で隊列は大分伸びきっている。一度陣を建てなおす必要があった。
しかし浅井軍は流石の練度・精強さを誇っている。皆、命令に忠実で私語も無く行軍を続けていた。精強でなる浅井軍は織田軍に対する奇襲を成功させる為に備え、馬の蹄などに布をかぶせる等の音をたてないようにする対処すら行っていたのである。
長政は双方の兵力差を鑑み、夜戦の奇襲にて決着をつけようと考えているのだ。
そしてそれらは流石というべきの統率である。
だが、そんな彼らを嘲笑うかのように、破局は突然訪れた。
それは本当に突然の事である。
左右、そして前方の山中より、それまでの静寂を破る雷鳴の如き轟音が鳴り響いたのだ。
「ぎゃっ!!」
「ぐわっ!!」
「な、何事じゃ!? 者共、お、落ち着けぃ!」
それは大量の鉄砲が一斉に発射された音であった。攻撃を受けた浅井軍の将兵達がバタバタと倒れていく。
しかもその鉄砲の攻撃はその後も途切る事無く続き、途轍も無い数の発射音が今も響き渡っていた。百や二百では無い。おそらく千は超えているのではないだろうか?
「ば、馬鹿な!? な、何事じゃ!! 静まれぃ! 静まれぃ!」
その予想すらしていなかった攻撃に、浅井軍は一気に混乱の坩堝に叩き込まれた。
それも当然である。奇襲をかける筈であった浅井軍が逆に奇襲されたのだ。誰もが狼狽し、すぐに収集がつかなくなる。
混乱を治めようと、状況を見極めようと、必死に馬上にて声を張り上げる浅井長政。
だがそれがいけなかった。射線が彼に集る。
続いての鉄砲のバババンという轟音が響き渡った瞬間、浅井長政は胸と腹にドシンという凄まじい衝撃と、熱湯を掛けられたかの如くの熱さを感じたのと同時にその意識を失った。
その身体はそのまま力無く乗馬から滑り落ちる。
<金ヶ崎 織田軍本陣>
朝倉家討伐の軍を挙げた織田軍の進軍は、越前に入ってからも極めて順調であった。
織田・朝倉家の国境を突破してから僅か二日で朝倉景恒の守る金ヶ崎城を落とし、弱腰の朝倉家は全軍、木ノ芽峠一帯より以東に撤退したのである。
織田軍は抵抗らしい抵抗も受けぬまま、さらに進軍を続けようとした、まさにその時だ。
織田軍は突如、進軍を停止。信長の命令で本陣に指揮官達が集められたからである。
「皆の者に申し渡す。浅井長政が裏切った」
「なっ!? なんと!? 誠にございまするか!?」
集まった指揮官達を前に開口一番、無造作に言い放った信長のその突然の言葉に、事前に説明を受けていた者以外の者達は一様に驚愕した。
ちなみに全員に浅井家裏切りの説明をしていなかったのは情報漏れを防ぐ為である。
その皆の驚愕を完全に無視して信長はさらに話しを進めた。
「百地丹波、現在の状況説明を致せ」
「はっ、浅井長政は昨日、小谷城より軍を発し、こちらに向かってきております。数は五千五百。ほぼ全力出撃です。到着予定は明日の午後となりまする」
このように浅井家の裏切りを早期に察知したのは、信長の命令で伊賀衆が監視していたからだ。
そして信長はこの時こそを待っていたのである。信長は集まった家臣達に宣言した。
「皆の者、聞いたな。情勢は斯くの如し也。我等はこれより東に転進、裏切り者・浅井長政を討つ! 彼奴等はまだ我等が気づいた事を知らぬ! 今が好機ぞ! 一気に踏みつぶす!」
「皆様の陣場は信長様より決定されておりますので我等甲賀衆が案内いたします。付いて来て下さいませ」
その信長の言葉の後を継ぎ、望月吉棟が進み出て来る。
皆は同盟者・浅井長政裏切りの報せに混乱したまま、その混乱を治める間も無く、唯々命じられたままに動く。
この危急の折ではあるが、皆は総大将である信長がなんら慌てる事無く、自信満々にどっしりと座っている事から安堵し素直に従う。こういう時の上に立つ者のなんら動じない、しっかりとした姿は配下の者達に絶大な安心感を与えるのだ。
そして甲賀衆を先頭におき各隊の軍勢が移動を始める。
信長はここで軍を二つに分けた。
一手は柴田勝家を大将に佐々成政、森可成、河尻秀隆等を配下に置いた軍一万五千名。
この部隊はこのまま若狭の国及び木ノ芽峠以西の越前の制圧を目指し、さらに朝倉家が万が一攻め寄せてきた場合の足止め役である。
もう一つは信長率いる本隊二万五千名。
この部隊は浅井家の部隊の迎撃にむかうのだ。
「情報封鎖は万全か?」
信長は進軍途上、馬上より望月吉棟に問いかける。
同じく傍らの馬上より望月吉棟が答えた。
「はい。浅井方は我等の動き、偽情報に踊らされ誤認しております。今も一心不乱にこちらに向かって進撃してきております」
「で、あるか。まずは重畳」
信長は今回の為に打てるだけの手を事前に秘密裏に打っていた。
まず浅井方の物見の徹底排除。それに偽情報の流布。
さらには浅井家に潜入させている草を使い、浅井家中の織田家に対する敵対心を煽らせ敵対するようにすら、しむけていたのだ。
これは現状において織田家が史実よりも数段どころか、桁が違う程の国力を持っている為に、それに尻込みした浅井家が織田家と敵対するという選択肢を選択せず尻尾を丸められても困るからである。
これらの謀略によりほぼ浅井家中の態勢は 『織田信長討つべし』 で統一されたのだ。
つまりは浅井家はこれらの織田家の謀略に見事に引っ掛かってしまい、誘い出される形になってしまったのである。
元々信長は浅井家と敵対するつもりだったのた。
浅井家の所領は北近江という極めて戦略的に重要な位置にあり、もし浅井家が裏切れば織田家は京と美濃の間の交通を完全に遮断されてしまう。
信長はそんな要衝を潜在的な敵国である浅井家に任すのを良しとしなかったのである。最初から見逃すつもりはなかった。
同盟を結んだのも、上洛する折に北の安全を手に入れるのと同時にこの罠に嵌めるのが目的だったのである。
利用できるだけ利用したら後は朝倉家を攻める事によって浅井家を激発させ、それを攻め滅ぼす。
信長にとってはそれだけの価値しかない同盟だったのだ。
そして浅井家はその目論見通り、同盟国である織田家と旧恩ある朝倉家とを天秤にかけ、そして朝倉家を選んだ。
幾ら織田家がそうなるように裏から手を廻したとは言え、決断したのはまごう事なき浅井家自身である。その決断による結果・代償はしっかりと払って貰う。
政治の世界は冷たく、そして過酷な物なのである。
そして信長軍本隊二万五千名は猛進してくる浅井軍を伏撃するのに最適な高所・高台の地に軍を伏せ、浅井軍が来るのを待つ。
結果、浅井軍はそれに気づかぬまま織田の包囲網の中に入りこんでしまったのだ。
「さすがは信長様よ……。浅井如きでは相手にもならんな……。」
羽柴秀吉は眼下に広がる、何も気づかぬまま行軍を続けている無防備な浅井軍を眺めながら呟く。それと同時に、未だ何も気づかずに行軍を続ける浅井軍の姿に途轍もない勝ち戦の予感を覚え、身体を震わせた。
そしてその武者震いと同時に秀吉は信長への畏敬の念をさらに深める。
秀吉にとって信長は卑しい身分の出である自分をなんら差別する事無く、ここまで取り立ててくれたまさに神の如きのような存在だ。
馬鹿にする事も嘲笑する事もなく取り立てられ、今や秀吉は一廉(ひとかど)の城持ち大名である。まさしく秀吉にとって織田信長とは感謝してもし足りない、足を向けて寝れぬ人物なのだ。
そんな信長のこの見事な采配に秀吉は御世辞抜きで称賛し、さらにその忠誠の心を厚くする。
この人になら一生付いて行ける、付いて行こう、そう思わせてくれる仕え甲斐のある主君なのだ。
「鉄砲隊、準備は良いか? 敵の前方を塞ぐ滝川隊が発砲したらそれを合図に全隊攻撃開始じゃ。ぬかるでないぞ」
そのまま山中に部隊を伏せ、待つ事しばし、浅井軍の進行方向前方において鉄砲を撃つ大音声が響き渡った。
「よし! 滝川隊の攻撃が始まった! 攻撃開始の合図じゃ! 我等も攻撃開始ぞ! 放てぃ!!」
その斉射に合わせて、今まで各所に伏せていた羽柴隊以外の部隊からも同時に攻撃が始まる。
「ぎゃっ!!」
「ぐわっ!!」
その攻撃はまさに雷が一斉に落ちたかの如きの轟音を轟かせ、銃弾の雨が浅井軍に降り注ぐ。
織田軍の満を持したその伏兵達の効率的な攻撃に、射線に絡めとられた数多くの浅井軍将兵がバタバタと倒れていく。
「ば、馬鹿な!? な、何事じゃ!! 静まれぃ! 静まれぃ!」
そんな中、一人の身なりの整った位の高そうな若武者が羽柴隊の目前で混乱を治めようと声を張り上げていた。
そしてその目立つ行いは秀吉の目に留まってしまい、次の標的になってしまったのである。
「鉄砲隊、あの声を張り上げている若武者を狙えぃ! いくぞ……! 撃てぃ!
秀吉の号令と共に響き渡った発砲の轟音と同時に、その狙った若武者が馬から転がり落ちた。
秀吉はまさにしてやったりの心境である。あの傷ではもはや助かるまい。
将が討たれ、目の前の部隊が大混乱に陥いった。
「まだまだじゃ! どんどんいくぞ! 相手は精強な浅井家、皆の者、気を抜くでないぞ!」
「おおおおおううぅぅうう!!」
秀吉のその鼓舞の声に将兵達は大きな雄叫びで答える。
目の前に広がる怒涛の戦果、そして無様に慌てふためく浅井軍の様子に否が応(いやがおう)にも織田の将兵達の士気が高まっていく。
「殿、殿! しっかりして下さいませ! 殿!」
もんどり打って落馬した長政の元に遠藤直経が駆け寄って来た。
ぐったりとしてぴくりとも動かない長政を抱き上げ、その様子を確認した遠藤直経は、すぐにどうしようも無い程の絶望に包まれる。致命傷だ。すでに長政には意識も無く、胸の傷と口から血が後から後から溢れ出してきて止まらない。
「くそう! 信長め! 信長めぇぇ!!」
直経はその絶望を信長への憎悪に転化させ叫ぶ。
しかし戦場はそんな直経の怨嗟の声もすぐに戦場の喧噪の一つとして無慈悲に飲み込み、顧みはしない。
唯々に、淡々と無慈悲に時を刻むのみである。
<次話に続く>
<後書き>
これは前々から書きたいと思っていた場面です。
奇襲をかけるつもりであった浅井軍が逆に罠にかかりました。
正直やりすぎたかも……?
<追記 前回の方針お問い合わせについて>
沢山の方に暖かい御指摘・御感想を頂きましてたいへん感動致しております。どうもありがとう御座いました。
Ikaはこのままで執筆していこうと思います。
これからも色々な事があると思いますが、どうかこれからもよろしくお願い致します。