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No.8512の一覧
[0] 日出ずる国の興隆 第六天魔王再生記 <仮想戦記>[Ika](2010/03/19 22:49)
[1] 第1話[Ika](2009/10/26 02:15)
[2] 第2話[Ika](2009/10/26 02:21)
[3] 第3話[Ika](2009/09/20 17:54)
[4] 第4話[Ika](2009/09/21 00:24)
[5] 第5話[Ika](2009/09/27 15:48)
[6] 第6話[Ika](2009/10/03 01:03)
[7] 第7話[Ika](2009/10/10 02:52)
[8] 第8話[Ika](2009/10/15 02:22)
[9] 第9話[Ika](2009/11/03 23:38)
[10] 第10話[Ika](2009/11/09 01:36)
[11] 第11話[Ika](2009/11/15 17:37)
[12] 第12話[Ika](2009/12/06 19:17)
[13] 第13話[Ika](2009/10/26 02:05)
[14] 第14話[Ika](2009/11/01 17:19)
[15] 第15話[Ika](2010/01/27 02:52)
[16] 第16話[Ika](2010/03/24 02:33)
[17] 第17話[Ika](2009/07/06 03:14)
[18] 第18話[Ika](2009/07/19 21:44)
[19] 第19話[Ika](2009/07/19 21:39)
[20] 第20話[Ika](2009/08/10 01:09)
[21] 第21話[Ika](2009/08/16 17:55)
[22] 第22話[Ika](2009/08/23 19:18)
[23] 第23話[Ika](2009/08/23 19:16)
[24] 第24話[Ika](2009/09/21 17:09)
[25] 第25話[Ika](2009/10/15 02:11)
[26] 第26話[Ika](2009/10/10 02:44)
[27] 第27話[Ika](2009/10/11 19:23)
[28] 第28話[Ika](2009/10/18 19:21)
[29] 第29話[Ika](2010/01/17 20:08)
[30] 第30話[Ika](2010/01/12 02:27)
[31] 第31話[Ika](2010/03/19 22:12)
[32] 第32話[Ika](2010/03/28 22:36)
[33] 第33話[Ika](2010/05/23 15:07)
[34] 第34話[Ika](2010/07/11 17:21)
[35] 第35話[Ika](2010/09/27 19:30)
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[8512] 第11話
Name: Ika◆b42da0e3 ID:233c190d 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/11/15 17:37





<第11話>



信長が京に入ってからはや半年。荒れ果てたとは言っても流石、日本の中心の町、都である。信長は後から後から湧き出てくる案件に多忙の日々を送りながらも様々な施政を行っていた。



まずは近隣大名への対応である。

今回、織田家の近畿侵攻においてその支配下に入った大名家の中で比較的大身だったのが大和の国の筒井家だ。
この時期の筒井家の当主は筒井順慶(つついじゅんけい)。前当主である父・筒井順昭が病気により急死した為、天文19年(1550年)に、僅か二歳で家督を継いだ人物である。
もちろんの事であるが二歳では政務などできない。其れ故、順慶の叔父に当たる筒井順政が後見人として補佐(というか代理)を努めた。
しかしそんな状態を組みし易しと見た、今は亡き故人・松永久秀が攻め込んで来たのである。
長く続く松永久秀との死闘の中、永禄7年(1564年)に後見人の筒井順政が死亡。この時順慶16歳。そしてこの混乱が致命的な隙となってしまい居城である筒井城を松永久秀に奪われてしまう。

そのような情勢の中、大和の国は織田家の近畿侵攻を迎えたのだ。

筒井家はいち早く織田家に降服。そして織田家の力を借りて居城の筒井城を奪還したのである。
その上で元の本領を安堵された筒井家は織田家に完全臣従。
またこの過程で特筆される事が一つだけあった。この時、織田家は条件として筒井家家臣の島清興(しまきよおき ※通称を島左近)を信長の直臣とする事を命令したのである。
(※この人物は島左近の通称の方が有名である為、これより以降、島左近の名前で統一)
これを筒井家が了承し、また本人もこれを了承した事からとんとん拍子に話は進む。そしてこれより以後、島左近は織田家で働く事となったのだ。




続いて足利義昭を擁立している越前の朝倉家。

信長はこれに対しても他の大名家と同様に対応。つまり当主の朝倉義景に対して 『帝の御為に』 という理由の元、上洛するように書状を出したのだ。つまり朝倉家が足利義昭を擁立していると言っても、それを理由に特別扱いはしなかったのである。
朝倉義景は当然の如くその信長よりの上洛要請を黙殺。返信の使者すら送らず完全に無視したのだ。
しかし信長にとってそれは予想の範囲内。義景がノコノコと上洛してくるとは思っていないし、逆に来られても困る。
これは帝の命令に背いたという事を大義名分にする為の方便なのだ。まがりなりにも足利義昭を擁立しているので慎重になる必要がある為である。

結果として織田・朝倉家の国境は日に日に緊張感が増してゆく。




そして畿内の寺社勢力だ。これは比叡山延暦寺や、さらには織田信長の最大の宿敵・石山本願寺等々の事である。

これらとは今の所、明確な敵対関係にはなっていない。だがそれも時間の問題という情勢である。
ちなみにここで最初に何故、寺社勢力と織田家の仲が悪いのかを御説明させて頂く。

この時代の寺社勢力というのは所謂、特権階級である。彼らは徴税の権利を持ち、寺社領という領地すら持っていた。
だがしかしである、その特権を侵す者が現れた。それが織田信長だったのだ。
信長の行った革新的な商業政策 (関所の撤廃・楽市楽座等) が彼らの権益を侵してしまうのである。その結果、彼らは関所を建てる権利を失い、さらには楽市楽座で寺社領内の経済に打撃を受けたのだ。
さらに言えば信長は今までの世の慣例を無視し、今までの常識を顧みず平気で自分達を殺すのである。この時代、僧侶を殺すのはタブーであった。いくら下々の配下・民衆信徒達が一向一揆等に参加して死のうが、その上に立つ上僧達の身は絶対安全だったのである。だからこそ腐敗した者達はやりたい放題出来たのだ。
それらの彼らが持っていた特権の一切合財が信長の行動によって覆されたのである。

つまるところ、織田家と寺社勢力との争いは結局の所は唯の権益争いなのだ。けして通説で言われているような宗教戦争では無い。織田家にとっては、あくまでも彼らの自治を認めず統制下に置こうとの争いなのである。
しかし世ではこれが信長の宗教に対する弾圧だと思われがちだ。
勿論それにも理由がある。人々がそう思うのは寺社勢力側がその唯の権益争いを、自らの信ずる神に対する反逆の如く仏敵等と言い放ち、その論点をすり替えてしまうからなのだ。
ちなみにこの手法は世の古今東西を問わず長い歴史の中で宗教勢力が良く使ってきた常套手段である。

つまり宗教勢力は自らの利益に反する行動をする者達に破門や神への冒涜者というレッテルを貼って異端者として扱う。そしてその信者を使ってその異端者を攻撃するのだ。そしてこの場合、そのレッテルを貼られる人物が本当に神に反する冒涜行為を行っていたかなどは関係無い。
いや、むしろ彼らの中では、宗教勢力の不利益になる事をする者=神に反する冒涜行為を行った異端者なのだ。例えその人物がどんなに信心深く敬虔な信者であってもである。
この昔から使い古された、しかし極めて有効な手段を持って遥かな昔の時代から宗教勢力はその権力を盤石な物とし、その権勢を拡大して来たのだ。

誤解されている事だが史実においても織田信長の方から特定の宗教を弾圧した事は無いし、ある特定の宗教の布教を禁止した事も無い。
織田信長自身にとって宗教とは全て平等に意味の無い、無駄に感じてしまうな存在だったのである。故に興味など無い。しかし民衆達がそれを信じるのは良しとした。だからこそ逆に自分に敵対せずに織田家の施政を受け入れた寺社勢力には極めて寛容であったのだ。

故に信長が宗教勢力全てに対して極めて好戦的でそれらを弾圧し根絶やしにしようとしていたとする解釈は誤りであろう。それらはイエズス会や本願寺等の寺社勢力の記した資料を元にした上での人物象である事を考慮しなければならない。
現に信長が一向一揆衆やそれ以外の宗教門徒達を全て皆殺しにしようとしていたとする史観は後の時代、江戸時代に入ってから本願寺の手によって広く流布されたものであるとの研究報告もある。
さらに言えば信長の方から寺社勢力に攻撃を加えた事も無い。全て最初に攻撃して来たのは寺社勢力側からなのだ。それは比叡山しかり、石山本願寺しかり、高野山しかり。全て最初に引き金を引いたのは彼らである。信長はそれらに対しても史実において自身から攻撃を加える前に何度も何度も翻意を促す使者を送っているのだ。

そしてその後、一度開戦し敵対したならばそれ以後は信長は彼らを許さない。信長は彼らを宗教勢力とは見ず、一つの敵対勢力として扱った。
ある意味、他の武士達と平等に扱ったのである。
その事を彼らは最後まで理解できなかった。ただそれだけである。
信長の最大の功績は日本国内での宗教戦争・宗教間戦争を根絶した事であるといっていいであろう。結果としてこの時代以降、日本にある全ての宗教勢力はすべからく、その時代の政府の管理下に置かれたのだ。
その結果、日本の宗教は世俗の利権より切り離されその本来の姿を取り戻したのである。これこそ信長の偉大なる功績なのだ。

それがあればこそ、現代の日本の素晴らしい宗教感が作り出されたのである。
いつもは誰もが気付かないような程ひっそりと目立たない存在。外国の人に日本人は無宗教であるとい誤解を受ける程目立たない存在でありながら、それは要所要所では必ず顔を出す。
日本の宗教とは極めて日本的に驚くほど自己主張をせずに、驚くほどひっそりと、しかし、しっかりと深く日本の地域・社会・風習に根付いているのだ。

そしてさらに凄いのは多くの日本人がそれらを宗教であるとすら思っていない事である。

日本人の宗教感の根底はまさしく八百万(やおよろず)の神々の精神。万物全てに神が宿り、神は人々のすぐ傍に常にいる。死んだ人間は仏になるという具合に神という存在が極めて身近に常にある社会なのだ。それらは逆に考えると日本人の身近には神々が居過ぎて、他の国・宗教の人々より神という存在との距離が近いと言う事なのかもしれない。
そして我等の常に身近にあるそれらは全ての人々に平等で、なんとも優しい存在なのだ。
厳しい戒律などないし、宗教間の区別すらも無い。仏教であろうが、神道であろうが、道教であろうが、儒教であろうが、キリスト教であろうが、イスラム教であろうが、ヒンドゥー教であろうが、ユダヤ教であろうが、その全てを許容する懐の深さがある。

それはなんとも素敵な事ではないだろうか? 良く言えばおおらか。悪く言えば無責任・適当・混沌。しかしそこにあるのは他者への友和、他者への寛容、お互いへの尊敬。
切欠さえあればキリストさんが七福神達と一緒に宝船に乗るような事があったかもしれないのでは、と思わせる程のおおらかさである。その横にアッラーさんが乗ってもいいと思う。
そしてそのような極めて柔軟な精神的土壌がこの平和な日本の土台になっているのだと思う。















当時の情勢に話しを戻す。

比叡山延暦寺についてはすでに公然とした敵対関係を始めていた。越前の朝倉家と協力し、織田家の領内を荒らすような行動を取り始めたのである。
また、この当時の比叡山延暦寺は極めて腐敗しており、京の町でもたびたび徒党を組んでは乱暴狼藉・盗賊行為を働いていた。その中でも有名なのは強訴であろう。
それらは帝をすら嘆かせる程の無法・無体であったのだ。




続いて石山本願寺。

本願寺については表面上は平静を保っていた。信長が命令した五千貫文の矢銭の供出にも応じ、一応は協力する態度を見せている。
しかし裏では、先程説明した通り関所の撤廃・楽市楽座等の政策に反発しており、さらにはキリスト教の布教問題でも苛立っていた。
こちらも暴発は時間の問題である。

但し信長には先の話しに記した秘策(政府広報)の他にもう一つ、石山本願寺対策があった。これはまた後の話しで追々説明させて頂く。














続いて堺の町である。

この時代、堺の町(堺衆)は大きな力を持っており、堺とは今で言う自治都市のような存在であった。
その堺に信長より二万貫文の矢銭の供出命令が出されたのである。今で言うと約二十億円程の金額となる。まさしく眼の玉が飛び出す程の大金だ。
他の諸勢力がその命令を受け入れる中、堺衆だけがそのとんでもない金額の矢銭供出を拒否。四国に逃れた三好三人衆と密約を結び、信長に敵対する態度を示したのである。

その後すぐに堺衆の援助を受けた三好三人衆が四国より畿内に再度上陸。しかしである、もはや三好三人衆と織田家との戦力差は明確であり三好勢は僅か一戦で蹴散らされた。
その余勢をかって織田軍はそのまま堺に攻め込む動きを見せる。この時点で堺衆は抗戦を断念し信長に降伏。
信長は矢銭を三万貫文に増額すると共に堺の自治権を剥奪し直轄領とする事で降伏を受諾した。

元々信長は商人達の自治など認めるつもりは無い。
さらにはそのやりようも気に入らない。誰かの影に隠れ、あらゆる勢力の間を上手く泳ぐ事で力を蓄えてきた。時には敵同士のその双方に物資を売り戦を煽りもしたのである。
別にそれが悪い訳では無い。武力・権威等を持たない商人達にはこの方法しか無いのだから。

だがしかし、それは信長の目指す国家の中では相容れない存在である。
この降伏により堺の町は信長の統制下に入る事となり、様々な制約、例えば鉄砲・馬の他国への販売禁止等を課される事となったのだ。














最後に内政の途中経過と結果報告だ。

織田家の所領が東海地方から一気に畿内一円にまで広がり、さらにその所領が日本一の経済圏を含んでいる為、やる事が大量に出てきていたのである。
まずは近畿各所にあった室町幕府の直轄領・もしくは義昭と共に逃亡した幕臣達の所領であるが、それらは全て織田家の直轄領に編入された。
この行動はもはや明確な室町幕府への宣戦布告であると言ってもいいであろう。



続いて現在のフリントロック式小銃の生産状況。
これは名古屋工廠・岐阜工廠の生産が軌道に乗ってきており現在の月産は約40丁。
またこれらを装備した部隊の訓練も十分に行っておりいつでも戦闘可能なレベルにまで仕上がっている。


さらには岐阜工廠において大砲の試作にも成功し、順次生産が始まっていた。

出来たのは2種類で小型な物と中型の加農砲である。これは青銅製の鋳造製造型の大砲で前装式の物だ。
軽砲の方は馬で引かなくても人力で複数人でひける程度の大きさ。グレープフルーツより一回り大きい程度の弾丸を撃ち出す大きな2輪付きの大砲である。
中型砲は馬での牽引がいる。人力でもひけない事は無いが、かなり重い物だ。大型砲については引き続き開発中である。
まだ出来ていない理由は、大型になればなるほど発射時の衝撃に耐える為に砲身に頑丈さが求められる為である。その為、試行錯誤中だ。
大型でも作るだけなら今でもできるのだが、実用的な耐久性・利便性・威力を兼ね備えた砲の生産を目指して鋭意努力中である。

火薬の生産も想像以上に順調で、余剰分で焙烙球のような手投げ爆弾も生産され始めた。これもある程度の数を揃えられるようになるまで使用せずに備蓄が命令されている。










続いて畿内の内政政策。

畿内の新たなる所領にも従来の所領と同じように、関所の全撤廃・道路の整備・川の治水を行い始めた。ちなみに河川の治水工事はすぐに全てをできるような物では無いので、順次着工予定である。
それに並行させて新所領の新田の開発を公共事業として開始したのだ。
これは戦国時代の全国どこでもいえることであるが、戦続きであるため国土が荒れているのである。良き耕作地になるであろう所(理由は様々。治水が必要であったり、戦で耕す者が居なくなった等々)が手つかずで放置されているなどは良くある事だ。
また領主達もそれを判ってはいても、そこを開拓するだけの余力が無い。やりたくてもできない、そんな余力があればその分は全て軍備にまわる。
そのような畿内各地の土地の開拓を始めたのだ。

これには治安維持の効果もある。各地から仕事が無いなどの食い詰め達が集められ工事に従事したのである。もちろん新たに開墾された新田はその者達に与えられた。
また同時に近畿各地に跋扈していた夜盗・盗賊の討伐を軍を動員してまで徹底的に討伐。
これにより荒廃していた畿内各地の治安は劇的に向上。畿内の民心は織田家におおいに好意的になったのである。





さらに税制の改革にも着手。
織田家領内での税制を一律化し上限を設けたのである。これは畿内まで制圧し、それにより、新技術の開発をしながらでも財政にある程度の余裕が出来てきた事により着手できた事だ。これの目的は民衆達の保護の為である。
農民に対する課税は4公6民を上限とし、それ以上の課税の一切合財を禁止したのだ。またこの上限には苦役等も含まれる。つまり今までは義務としていた工事への無料労働での動員もこれを禁止。労働力を動員するのであれば、その者達への賃金の支払いが義務付けされたのだ。
ちなみにこの4公6民の課税。これは一見、課税率が高いようにも思えるが、今までの課税方法ではさらにこの上に様々な課税理由(関所や地税、寺社領からの税等)をつけては税をかけていたのである。
それらを合わせれば実質の課税率は9公1民や8公2民にもなっていた。これが原因で農民達の生活は困窮し、米を作った者が米を食べられないと言うような悲惨な状況を作ってしまっていたのである。

信長は上記のように織田家以外の者が勝手に領民に課税する事を禁止(つまり全ての勢力を織田家の管理下にという意味である)し、農民達の保護を目指した。
寺社領等も織田家統治下においてはこれが適用され4公6民を上限とし、これを守らないと織田家への敵対行為と取られる。

但し、現在あきらかに織田家の支配のおよんでいない比叡山や石山本願寺・伊勢長島等にはこの政策は及んでいない。
しかしその事が原因になって彼らの領内にいた領民・商人達がより住みやすい織田領へと流出。これが後の対立の要因にもなった。





続いて町人・商人を保護する為の政策も実施。

徳政令の禁止と高利貸しの禁止である。徳政令とは領主が商人達から借りた借金を強制的に帳消しにしてしまう制度の事だ。それは商人にしてみたら堪ったものでは無い。それを織田家内では全面的に禁止したのである。
またそれだけでは商人達だけが一方的に強くなってしまう為、また領主達の腐敗を防止する為に、同時に高利貸しも禁止した。
金貸し業自体は別に何の問題も無い。無いのだが、その利率が問題なのである。あきらかに金を返せる利率では無いのが問題なのだ。借りざるをえない困窮した者達に返せない事を前提に金を貸して、当然それを返せない者達を半ば奴隷状態においたり、大事な田畑などを取り上げる等の事がこの時代は日常的に行われていたのである。
これでは健全な経済、健全な社会が形成される訳が無い。
この流れのままでは富める者はさらに富み、貧しい者達はさらに困窮するという悪循環に陥るのだ。
よってこの悪しき流れを断ち切る為の政策が、この利率上限の規制である。金貸し業についてはその貸付利率を上限月2%に設定。それを違反する者は罰せられる事になったのだ。




このように信長は新しい支配地、元よりあった支配地を問わず全ての民衆達、農民・商人・国人達に飴とムチのその両方を持って自らの政策を確実に浸透させていく。
これらの政策により、旧来よりの古い慣習、様々な規制から解放された織田家領の経済は信長の予想を超えて、さらに大きな飛躍を遂げていく事となったのである。










<後書き>

内政物の御約束、政治チート・技術チート発動。だけどこれを書くのが楽しいのでやっぱりやめられない。
内容がないよう。

追記
宗教云々はあくまで作者の主観であり、事実と異なる部分があるとは思います。ご了承下さいませ。





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