ブルゴーニュ公国首都ディジョン。
そこはフランスで最も栄える都市の一つであると同時に国内屈指の大貴族の本拠地であった。
豪胆公フィリップ、彼こそ現王の叔父にあたりフランスを二分する勢力の旗頭となっている男だ。
当年とって58歳。
常に柔和で温厚そうな表情を浮かべているところは好々爺ぜんとしている。
一方で黒々とした髪、張りのある肌は彼が若さを保ち続けていることも示していた。
若さと老いの絶妙が絶妙に混じり合いそれが余人と隔絶する威厳を作り出す、彼はそんな人物であった。
また、非常に逞しい体躯の持ち主であり、豪胆公と畏怖されるようにあらゆる戦場での活躍した武人でもある。
それは約半世紀前、イングランドに大敗を喫したポワティエの戦いで最後まで王の傍に侍り奮戦したという逸話があるほどだった。
若かりし頃勇猛さで知られたその気質は年齢を重ねることで丸みを帯び、老獪さをも備えた。
現在の彼は狐の如き奸智と獅子の心でもってその威光を国内外に轟かす当代屈指の傑物である。
フランス東部からドイツ西部に及び、オランダ、ベルギーにも及ぶ広大な領地。
さらに経済・文化の中心であるフランドルも有する財力。
フィリップ公はまぎれもなくフランス貴族筆頭であった。
しかし、彼の領地は当初、ブリュゴーニュのみしかなかった。
そんな彼に訪れた転機は兄シャルル5世の結婚政策であった。
この時代の婚姻は領地拡大や関係強化のための重要な手段である。
智謀で知られたシャルル5世はこの政策によって親イングランドのフランドル伯を味方につけるべくフィリップに白羽の矢をたてたのだ。
結婚によって彼の領土を大きく拡大した。
これに学んだフィリップ公はその後も周囲と巧みに婚姻政策を重ねることで一大勢力を築き上げることに成功したのだ。
そんな彼にも悩みがあった。
「ワシはあまりに強大になりすぎた」
自室で己の半生を振り返っていたフィリップ公はそう呟いた。
事実、宮中が二分し互いにいがみ合う事態になった原因の一端は彼にあった。
急速な勢力拡大が周囲との軋轢を生み、彼に対抗しべくオルレアン公は担ぎあげられたのだから。
しかし、この状況は彼の本意ではなかった。
フィリップ公は亡き兄シャルル5世を尊敬していた。
兄の治世中は共に国の柱石を担うことが己の誇りだった。
フィリップ公は国を愛していた。
イングランドによって危機にさらされていたからこそ彼の愛国心は強かった。
そんな彼としては兄の後を継いだ息子達にも自分なりに力を貸し、共に国を守るつもりでいたのだ。
「世の中思い通りにいかぬものよ……」
不本意な対立。
それが栄光に満ちた人生を歩んできた彼が晩年になって抱えた悩みのうちの一つであった。
この世の無常を感じ沈む彼の思考は唐突に破られた。
「父上、失礼いたします」
フィリップ公は入室した人物を一瞥して密かにため息をついた。
彼のもう一つの悩み、それは目の前に立つ己の後継者である無怖公ジャンであった。
三十歳のジャンはまさに今が肉体の全盛期。
頑健な肉体と武人としての資質を父から十分に受け継いだジャンは強力無比な突撃を得意としていた。
しかし若かりし頃のフィリップ公がそうであったように武断に走る節があった。
更に思慮に欠けて迂闊な行動をとることがしばしばあり、、それがフィリップ公の悩みの種だった。
ジャンのあだ名である無怖も勇気を称えるというよりその軽率さを揶揄してつけられたのだ。
また、性格に関してもどこか陰湿で相手を陥れる陰謀を好む。
そのこともフィリップ公が息子を忌避する理由の一つであり、彼と相対して不機嫌になる一因であった。
「……何の用だ?」
「父上、お喜びください! オルレアン公爵夫人が反逆罪の咎で追放されました」
気だるげに問う父に対してジャンは満面の笑みでそう答えた。
事実彼はそのことを心の底から喜んでおり、そのことが分かるだけにフィリップ公は一層気分を害した。
「それで……?」
「はい、このことでオルレアン公を攻める大義名分ができました。これを機に奴めを一気に倒すことが可能です。
それが無理でも奴の息子に嫌疑をかけることも可能でしょう。さらに…」
なんとか甥と和解したい彼の意思とは裏腹にジャンは父親の苦悩を一切理解していなかった。
そればかりか自身の従兄を仇敵とみなし、常に何かしらの陰謀画策している。
現に今もオルレアン公を追いつめる方策を熱弁していた。
フィリップ公は内心苦々しく思いながらも息子を諌めるべく言葉を発した。
「それで、甥を倒してどうしようというのだ?」
「は?」
ジャンは父親の発した甥が誰を指すのか一瞬わからぬようだった。
彼にとってオルレアン公は親戚などではなく権力を争う政敵に過ぎなかったからだった。
フィリップ公はそれを察し改めて問い直した。
「オルレアン公を失脚させて何がしたいのだ、と聞いているのだ」
ジャンは父の思いもよらぬ質問に戸惑ったようだったがすぐに己の野望を答えた。
「それは、更なる領地の拡大です! 奴を排除すれば我が公国の権威は間違いなく高まります!! そこで…」
(またこれだ! )
息子の考えを聞くたびにフィリップ公は頭を抱えたくなる。
常にフランス王国の行く末を案じるフィリップ公に対してジャンはブルゴーニュ公領をのことのみしか考えない。
彼は公国を独立した国と考えており、王国の行く末など歯牙にもかけていないのだ。
まして自分たちのの権威拡大がイングランドに付け入る隙を与えかねないことなど考慮すらしていなかった。
いや、下手をしたら己の利益のためにイングランドと手を結びかねない。
ジャンにはそういった危うさがあった。
フィリップ公は痛む頭を押さえながら息子の言葉を遮った。
ジャンの演説は留まるところを知らず、既に空想の領域にまで達している。
強引にでも行動を制限した方がよさそうだった。
「もういい、ジャン。此度の件には干渉せんことにした。オルレアン公にも手を出すな。わかったら部屋を出て行け」
驚いたジャンが何か言い募ろうとしているが聞く気はなかった。
「出て行けと言っているのだ!!」
渋々出ていく息子を見ながらこれで軽はずみな真似はしないだろうとフィリップ公は思っていた。
彼は息子を過小評価するあまりその短所が長所にもなり得ることを見落としていたのだ。
ジャン無怖公の持ち味、それはその決断力と行動力だった。
■
部屋から追い出されたジャンはいい加減父の態度に嫌気がさしていた。
そもそもジャンとフィリップ公では視点が違うから意見が噛み合うはずがない。
フィリップ公はフランス王族の視点から国全体のことを考えている。
しかし、ジャンにとってフランスは既に瓦解した王国だった。
狂人を王に据えている時点で国として機能していない以上、イングランドによって征服されるのは時間の問題である。
そうなるとどちらと手を結ぶべきかは自明の理だった。
彼にとって優先すべきはブルゴーニュ公国の利益のみなのだ。
だから国を思う父の深謀遠慮は彼には優柔不断と映ったし、慎重な姿勢は弱腰に見えた。
確かに父は優秀だがもう年だ、それがジャンの意見だった。
しかしフィリップ公の権力は絶対的である。
ジャンもまたシャルルがそうであるように父に逆らうことは許されないのだ。
ただ決定的に違うこともある。
それはジャンは既に成人であり独自の部下を持っていることだった。
この絶好の好機を見過ごすことなどジャンからすればありえないのだ。
「確か、奴の息子はなかなかの評判だったな……」
息子に手を出すな、とは言われていない。
ジャンの頭の中では既に計画の成就と悲嘆にくれるオルレアン公の姿が見えていた。
熱烈な愛国者が反逆の徒の子を襲った、そんなどこにでもありそうな話だ。
計画の成功を確信して思わず笑みがこぼれる。
その表情はゾッとするほど冷たく、まるで蛇のようだった。
筋書きはでき、あとは実行するのみ。
常に即断即決のジャンが計画を指示したのはシャルルが知らせを受ける5日前であった。