・シャルル・ド・ヴァロワ(1394年11月24日 - 1465年1月5日)
オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワ(フランス王シャルル6世の弟)とヴァレンティーナ・ヴィスコンティの第4子。
1415年、フランスはイングランドのヘンリー5世にアジャンクールの戦いで破れ、多数の貴族が死亡または捕虜となる。
この時シャルルも多数の貴族とともに捕虜となり、イングランド各地にて幽閉生活を送ることとなる。
1440年、莫大な身代金を払って解放され、帰国後ブルゴーニュ公と和解し、彼の姪マリー・ド・クレーヴと3度目の結婚をした。
その後、フランスとイングランドの和平に奔走し、また、母ヴァレンティーナの相続権を盾にミラノを攻略しようとしたが失敗した。
1450年に政治から離れ、ブロワ城に引退した。
詩人として有名で、幽閉中に「獄屋の歌」を記している。
・ルイ・ド・ヴァロワ(1372年3月13日 - 1407年11月23日)
フランス王シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボンの子でシャルル6世の弟。
兄シャルル6世が精神異常のため政務が不可能となると、摂政権を巡って叔父ブルゴーニュ公フィリップやその息子ジャンと対立した。
また、王妃イザボー・ド・バヴィエールと関係を持ったことで大いに人望を失った。
1407年、ジャン無畏公の配下の者たちによって、パリの街頭で暗殺された。
・ヴァランティーヌ・ヴィスコンティ(1366年? - 1408年12月4日)
ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと、妃イザベッラの娘として、ミラノで生まれた。
シャルル6世の宮廷で陰謀を企てたとして、王妃イザボー・ド・バヴィエールに疎まれ、パリから離れる。
その後、夫ルイが従弟であるブルゴーニュ公ジャンに暗殺された1年後にブロワで死ぬこととなる。
・ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351年10月16日 - 1402年9月3日)
1378年、父の死によりミラノ公国の西半分の所領を受け継いだ。
東半分はこのとき父の弟ベルナボが継ぐこととなったが、彼は支配領で専横を繰り広げたため、1385年にジャンによって成敗され、
ジャンは正式にミラノを全て引き継ぐこととなった。
以後はロンバルディア地方で勢力を拡大。都市を次々と征服し、「カエサルの再来」を自認する。
また、家格を高めるため、豊富な資金を当時の神聖ローマ皇帝ヴェンツェルに献上して、引き換えにローマ皇族の身分を買い取った。
1395年、ミラノ公となり、正式にミラノ公国を成立させた。
ロンバルディアをほぼ征服した中で唯一、フィレンツェとは2度の戦いに敗れ、同地だけはどうしても支配できなかった。
1402年、3度目の遠征を計画したが、その遠征前にペストにかかって急死する。
文芸保護を推進し、ミラノ大聖堂を建築するなどの文化面の発展に尽くしたため、彼の治世の下でミラノは大いに発展した。
・フィリップ2世(1342年1月15日 - 1404年4月27日)
フランス王ジャン2世と妻ボンヌの四男。
若くから武勇に優れ、ポワティエの戦いでも最後まで父王のそばで奮戦した。
シャルル5世の死後、8年に渡って兄と共に摂政を務めた。
シャルル6世が親政を始めると権力から遠ざけられたが、王が狂人となった後は摂政権をめぐってシャルル6世の弟オルレアン公ルイと争った。
しかし、彼の代ではあくまでも宮廷闘争の範疇の争いであった。
・ジャン1世(1371年5月28日 - 1419年9月10日)
フィリップ2世とフランドル女伯マルグリットの長男。
1404年に父の跡を継いでブルゴーニュ公となると、フランスで王妃イザボーと結んで政権を支配するオルレアン公ルイと本格的に対立。
1407年、ルイを暗殺した。
その後、フランス国内はブルゴーニュ派とアルマニャック派に割れることとなる。
両派の対立によりフランスはイングランドに対し有効な手を打てず、ノルマンディーを征服されることとなる。
このため1419年に、王太子シャルル(後のシャルル7世)とジャン無怖公はイングランドに対して共闘すべく和解の交渉を行ったが、
交渉の場でジャン無怖公は12年前のオルレアン公ルイ暗殺に対する復讐として王太子の支持者により暗殺された。
これにより、跡を継いだフィリップ善良公はイングランドと公式に同盟を結んで王太子と敵対することとなる。
・イザボー・ド・バヴィエール(1370年頃 - 1435年9月24日)
フランス王シャルル6世の妃、シャルル7世の母。
1385年、14歳のときに、アミアンでシャルル6世と結婚。翌1386年から1407年までに12人の子供をもうけた。
シャルル6世が発狂した後、王弟オルレアン公ルイと関係を持ち、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立の一因となった。
1407年にルイが暗殺された後、両派の勢力争いの中で王家の権威の維持に努めたが、
1417年にアルマニャック伯にパリを追放されると、公然とブルゴーニュ公ジャン無怖公と結んだ。
更に、1420年のトロワ条約ではイングランド王ヘンリー5世の王位継承を認め、
王太子シャルル(後のシャルル7世)がシャルル6世の子ではないことを示唆したとまでいわれている。
フランスは女(イザボー)によって破滅し、娘(ジャンヌ・ダルク)によって救われた、そう言われた人物。
・イザベラ・オブ・ヴァロワ(1389年11月9日 - 1409年9月13日)
フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの娘。
1397年、7歳でリチャード2世の2番目の王妃となる。
1399年、リチャード2世が幽閉されると、彼女もロンドン北西のソニングに幽閉された。
1401年にフランスへ帰国を許され、1409年、従弟であるオルレアン公シャルルと再婚したが、1409年、出産のときに死亡した。
・アルチュール・ド・リッシュモン(1393年8月24日 - 1458年12月26日)
百年戦争後半にフランス王軍司令官として活躍した軍人。「正義の人」の異名がある。
実質的に百年戦争をフランス勝利で終わらせた大将軍にして大政治家。
ブルターニュ公国とブルゴーニュ公国のフランス王国への併合の道筋を作り、
封建諸侯と傭兵の軍から中央集権の国王常備軍への兵制改革と砲兵の活用を行い、フランスがヨーロッパの覇者へと向かう遠因をもたらした。
試験的に作ってみました。
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