シャルルがフィレンツェ停戦を知ったのは、ミラノのガレアッツォの下にその報せが届いてから僅か3時間のことであった。
この驚異的な情報伝達速度は以前オレが考案した腕木通信によるものだ。
腕木通信はガレアッツォによってその有用性を認められたあとすぐにミラノ支配圏全域に張り巡らされた。
そして今回、手紙のように複雑で多量の情報を送ることはできないが、圧倒的スピードで要点を伝えることが出来るこの通信手段の長所をいかんなく発揮し、
ボローニャまで憤懣やる方ない情報とガレアッツォからの指示を伝えたのだ。
自分の脳から直接生み出されたものではないとはいえ、自身の提案がこうして役立っている所を見るのはシャルルとしても感慨深いものがあった。
同時に、敵の思惑を上回ることができるということに笑みをこぼす。
腕木通信のコードは機密となっている。
そのため他国に情報が読み取られることはないし、そもそも存在を知らない者には通信施設は奇怪なオブジェにしか見えない。
だが、この施設は謀略戦でこれ以上ない働きをしてくれるのだ。
謀略は時間との戦いともいえる。
相手の対応時間を考慮し、先手、先手を打っていく。
詰め将棋のように怜悧な計算がものをいう世界。
そこで重要となるのは個々の要素に対する認識だ。
腕木通信の存在はその中でも時間という要素を誤らせ、計算を大きく狂わせる。
想定していた対応の早さ、想定していた行動に掛かるロス。
それらが尽く思惑から外れるのだ。
(情報とは力なり、とはよくいったものだ)
これもまたシャルルの功績となる。
そのことに一先ず喜びを見出したあと、シャルルは懸念していることを思って顔を曇らせた。
事態は混迷を深めており、未熟なシャルルでは予測もつかない状態となっている。
様々な要素、様々な思惑が複雑に絡み合ったイタリア情勢は霞のように不確かで捉えどころが無い。
これはまずいものを発見した、とシャルルは思った。
自身にまだ備わらぬ資質、国際情勢を把握する能力の欠如を認識したのだ。
これは将来ミラノ公となりオルレアン公とならんとするシャルルにとってどうしても補っておかねばならないことである。
そこでシャルルは半ば政治の教師となった副官ラングに教えを乞うことにした。
「それは殿下がまだ眼をお持ちになっておられないからです」
シャルルの欠点の本質をラングは遠慮呵責なく指摘する。
「確かに殿下は優秀であられる。
宮廷で育ち、腹に一物抱えた狐狸共の罠を掻い潜って今まで生きてこられたことを見ても殿下の聡明さが伺えます。
しかし、殿下には毒が無い。
慎重に振る舞い、部下に守られながら謀から逃れる。
その姿勢は守勢。
そこには相手を攻めるという意思が存在しない。
己を陥れんとする輩の首を掴み、這い蹲らせ、屈服させる。
あるいは、その首を断ち切って憂いを無くす。
そういった意思。
手を汚してでも、汚濁を被ってでもという強烈な決意があなたには足りない」
ラングとシャルルは既に数ヶ月を共に過ごし、その期間ずっと政策についての問答をしてきた。
ラングが問い、シャルルが答える。
こういったやり取りを通してラングは極めて正確にシャルルという人間を把握したのだ。
政策には様々な個性が表れる。
それは政策にその者の分析力、思考力、先見性、そして何より性格が反映されるからだ。
だから政策について議論すればある程度は相手の事が分かる。
それをラングとシャルルは100回以上してきたのだ。
ラングがシャルルの事をシャルル以上に把握していてもおかしくはなかった。
そして実際、ラングはシャルルの分析を完了し、その欠点を発見した。
シャルルは穢れを嫌う。
最大の成果を得られる代わりに唾棄すべき手段を取らねばならない方法と
次善の成果を得られる清らかな方法ならばシャルルはほぼ100%後者を選ぶ。
勿論、それは美点である。
清廉なることは賛美の対象となりこそすれ、それを理由に詰られることなどあり得ない。
しかし、政治の世界となると話は別だ。
常に汚い手段しか取らぬ相手は信用されない。
常に綺麗事しか言わない者では相手にもされない。
大切なのは使い分けなのだ。
そう……
「清濁併せ持った者でなければ君主足ることは出来ないのです。
あなたは謀略を以って敵を陥れることを無意識に避けている。
汚らしい、卑劣である、そういった思考に囚われて己の牙を己で折ってしまっているのです。
それでは陰謀渦巻く国際情勢を分かるはずがありません。
陰謀を嗅ぎ取る嗅覚。誰がどのようなことを考えているかという推論。各国の主の抱く感情への洞察。
そういったものは自身も謀をする身であるからこそ分かるもの。
あなたはまず謀に慣れ、自身でも巡らせるようにならなくてはならない」
そうでなければ望みは叶わない。力無き王には誰も従わない。
言外に匂わされたラングの警鐘がシャルルの胸を打つ。
言われて初めて自覚したのだ。
だが、これは仕方の無いことだった。
シャルルにある前世の記憶。
それは今生きる世界とは比べ物にならないほど穏やかで平和なものだ。
今までシャルルはその時代の高水準な教育によって培われた知識によって助けられてきた。
しかし、シャルルの欠点もまたその教育によるものなのだ。
教育とは洗脳である。
人間は幼い頃教え込まれた内容によってその思考体系を確立していく。
意図する、しないに関わらず教育にはその国その時代の色が出ており、人はその色に染まってしまうのだ。
その色は人格の根底に関わっており、普段は意識することもないが、決定的に生き方を左右してしまう。
戦地に育った子供と大都市に育った子供がその価値観を共有できないように。
そしてそれはシャルルにも同じことがいえるのだ。
いかにこの時代の価値観に染まろうと、魂に刻まれたものは消えることはない。
『人に優しくしましょう、人は話し合えば分かり合えるのです』
思想統制のレベルでそんな幻想を教え込まれたシャルルに、その考えは呪いの如く染み込んでいる。
ラングはそれをシャルルを徹底的に分析することによって暴き出したのだ。
「そのためには慣れが一番です。
幸いミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが現在巡らす謀という最高の教科書があります。
それを感じ取って学ぶことですな。
同時に、これから殿下には汚れ仕事も多少こなしてもらうことにします。
正直今までの殿下は箱入りであることは否めなかったですし、この期に一皮剥けていただきたい」
淡々と告げたラングの眼は蛇のように陰湿な光を放っている。
敢えて謀略家そのもののような表情をすることでシャルルに奮起を促しているのだ。
こうしてこの日からシャルルは裏社会にその身を浸していくことになる。
シャルルにとって心が辛い日々の始まりだった。
だが、その経験は後に活きることになる。
艱難辛苦なくして大成なし。
真の君主教育の始まりであった。
■
ガレアッツォが教皇に対して打った手は2つ。
硬軟織り交ぜた使い古された、だからこそ強力なものであった。
すなわち買収と脅迫である。
キリスト教会は教皇を頂点とする縦社会ではあるが、決して一枚岩ではない。
組織を構成するのは人間であり、そこには利害があり、感情があり、対立があるのだ。
それは教皇庁が2つに分裂していることからも明らかであり、その点もガレアッツォの狙い目であった。
教皇ボニファティウス9世は焦っている。
アヴィニヨンの教皇よりも権威を高め、自分こそが唯一の教皇であると証明するべく彼は奔走してきた。
その功績は万人の認める所であり、彼の下でローマ教皇庁の力は大分回復したといえよう。
だが、彼はあまりにやり過ぎた。
そのあまりに露骨なやり口は次第に周囲の眉を顰めさせる程になり、反感を買い始めている。
数ヶ月前に起きたコロンナ家の反乱が大規模なものであったこともそれを象徴しており、ボニファティウス9世の権力に陰りが生じている証であった。
その焦りが今回の停戦要請に繋がったのだ。
彼がフィレンツェにくちばしを挟んできたのは、分かりやすい形の功績を欲してきただけであり、フィレンツェそのものへの執着は全く無い。
それよりも大きな報酬やこちらにかまけていられない程の危機が生じれば教皇はあっさり手を引くだろう。
そうガレアッツォは読んでいた。
そのために枢機卿会議のメンバーに金銭をばら撒き抱き込み、相手の内部を切り崩す。
そして、次にローマ市内の有力者にある噂を流した。
ナポリ王ラディスラーオが再び教皇領に侵攻して来る。今度は15000の軍勢らしい。
名目上のエルサレム王、シチリア王、プロヴァンス伯、ハンガリー王であるラディスラーオは若く野心家として知れ渡っている。
名実共にハンガリー王とならんとしたが事破れた彼は、次に教皇領に目を付け虎視眈々と狙っていた。
ガレアッツォはその野心を利用せんとしたのだ。
『我と汝とでイタリアを2つに分かち、北を我の南を汝のものとせん』
そういった主旨の打診を内々にラディスラーオに送りつける。
勿論、ガレアッツォはラディスラーオが南イタリアだけで満足するような人物であるとは思っていない。
また、ラディスラーオの方でも額面通りにガレアッツォの言を信じたりはしないだろう。
ラディスラーオはまだ24歳で血気に溢れており、領土獲得への執念は異常ともいえるほどだし、ガレアッツォはガレアッツォで「カエサルの再来」を自認する野心家である。
つまり、この打診は「遠友近攻という外交政策の基本から一先ずは手を結ぼうではないか」という休戦協定に近いものに過ぎないのだ。
ガレアッツォとしてはこの申し出によってラディスラーオの野心を刺激し、教皇領の後背を脅かしてくれるだけで十分であり、戦力的な期待は全くしていない。
ボニファティウス9世の優先度は一に教皇領であり、そこが危険に曝されればフィレンツェにちょっかいをかけるだけの余裕はなくなる。
そうなれば枢機卿会議に嗅がせた鼻薬によって停戦要請を有耶無耶なものに出来る、そうガレアッツォは踏んでいた。
そしてこの打診のいい所は、それが教皇の耳に入っただけでも効果があるという所にある。
ラディスラーオが乗ってこようが、こまいが、ガレアッツォにとっては関係ないのだ。
一方のラディスラーオはボニファティウス9世に北を向いていて貰いたい。
なるべく自分への警戒を薄くしてもらい、油断したところを一気に攻め込みたいのだ。
そのためには教皇の意識がフィレンツェにいっている今は絶好の機会であり、ガレアッツォの打診は教皇の意識をこちらに戻してしまう余計な事だった。
これもまた、ガレアッツォの狙いである。
ガレアッツォにとってみれば、南に野心ある若き国王がいることは好ましくない。
教皇領という防波堤が無くなって一番困るのは実はガレアッツォなのである。
つまりガレアッツォは、この打診によってナポリ王と教皇の対立を先鋭化させ、南の脅威を全て取り払おうとしたのだ。
そして、その目論見は成功した。
ナポリ王ラディスラーオ、イタリア中部に向けて進軍
ボニファティウス9世が迎撃態勢を整える前に、という意図の下ラディスラーオが電撃戦を仕掛けたのだ。
噂は現実になった。
これによってボニファティウス9世のフィレンツェ干渉計画は頓挫せざるを得なくなったのだ。
ボニファティウス9世にとってみれば、根拠地ローマを失っては元も子もないからだ。
こうしてガレアッツォは南の憂いを2つ同時に断ち切ったのだ。
■
「よいですか、殿下。ここで肝心なことは自分では直接手を下さずに利を得ていることです」
ラングは手でVの字を作りながらシャルルに今回の謀について説明する。
その仕草は彼の鉄面皮に全く合っておらず、どこかシュールだった。
「軍を動かせば金も掛かりますし、鍛えた兵を失えば訓練に要した時間が無駄になります。
その点、今回のように噂と言葉だけで済む謀は実に経済的。
邪魔をする敵と将来立ち塞がる仮想敵国を争わせることで両方の力を削ぎ落とすことができて一石二鳥です。
謀をする以上、この一石二鳥の精神というのは大事ですね。
一つの動きで幾つもの効果を狙う。
無駄なく、効率的に。
それが謀略の基本ですから」
「しかし、ラング。
教皇猊下もナポリ王も自分達の動きが誰を利することになるか分かっている筈ではないか。
それなのに何故動く?」
合理的ではない、そうシャルルは疑問をぶつける。
自分なら動かない。
そう思ったのだ。
「それは殿下が神が天空から見渡すように事象を客観的に見ているからです。
謀とは外から見ると不合理で、引っ掛からなそうなものばかり。
当事者にならねばその恐ろしさは分かりません。
教皇猊下には焦りがあった。
功績を狙ってフィレンツェに手を出したのに、そこをナポリ王に付け込まれては逆に失点になる。
先の反乱を招いたことで猊下は信望を落としています。
この上領地を失ったとあっては、その権威は地に落ちてしまう。
そういった事情が猊下の視野を狭め、思考を鈍らせたのです」
ラングはそこで言葉を切ると、シャルルが咀嚼するのを待って更に解説を続けた。
「一方のナポリ王は、自分の動きがガレアッツォ様の思い通りのものであることは分かっている筈です。
しかし、今の状況が教皇領に攻め込む絶好の機会であることも確かであることもナポリ王は理解しているでしょう。
ならばそれが他者の思惑によるものでも、ナポリ王は敢えて果断な決断をして虎穴に入っていく。
ガレアッツォ様はそう読んだのでしょう。
何といってもナポリ王は若い。
そういった無鉄砲ともいえる行動を取りやすいですから」
そう言ったラングは冷たく薄っすらと笑う。
「人の感情を利用してこそ謀。
殿下は様々な経験をして、人というものを理解せねばなりません。
感情は最大の敵であり、味方であることを肝に銘じて下さい。
焦りや恐怖、嫉妬といった負の感情は判断力を失わせます。
勇気は行動の後押しをしてくれますが、容易く蛮勇へと変わります。
感情を知ることは謀を仕掛けられるだけでなく、謀を防ぐことにも繋がるのです。
というわけで、殿下。
ボローニャ市内で上の下程度の貴族が不満を抱えているそうです。
幸い高齢でいち亡くなってもおかしくはないのですが、周囲を煽って統治の邪魔になっております。
この人物を何とかしたいですね」
イタリア各地で巨大な陰謀、小さな謀略、ちょっとした謀が行われている。
人と人の争いの中で最も密やかで恐ろしい戦い。
この日、シャルルはもう一つの戦場に身を躍らせた。
久し振りの主人公登場です。
そして、割とあっさり教皇を流しました。
どうだったでしょうか?
やはり戦記パートは三人称が書きやすいのですが、読みにくかったりしませんでしたか?
御意見、御感想、御批判をお寄せ下さい。